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小説『二千年代の乗り越え方』略称"2000s"

NPО法人 わたしたちの生存ネット 編著

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Xと

  長い長いぶっとおしの会議がとりあえず終わって、私(♂)と同僚X(♀)は部屋に戻った。私は思わずXを抱き寄せていた。Xは吹きだして言った。「なんと自然な。シャワーも浴びずに」
。。。
  私たちは翌朝、グループHのシャワー室をお借りしてシャワーを浴びた。狭いが清潔で気持ちよかった。その後、グループHが作ってくれた朝食を頂いた。昨日の会議室は実は食堂だった。量は少ないが旨かった。あらゆる欲動を満たし、時差分も含めてよく眠ったので、私たちは元気いっぱいだった。B国のグループHにもA国のグループGと同様の顔認証システムがあり、私たちがB国政府の監視カメラで探知される確率は零パーセントと出た。私たちは観光客の振りをして、B国の首都の世界的に有名な遺跡に向かった。私は四十近いが三十代、Xは三十を過ぎたばかり。潜伏者や密航者には見えず、普通の二人連れ観光客に見えると思った。スラム街でも遺跡付近でも誰も振り返らなかった。留学時代に巡ったので、この首都の観光案内には自信があった。
  歩いて三十分ぐらいで、遺跡に入った。拝観料ぐらいは現地通貨で持っていた。また、ワインを隠して持参していた。その遺跡は宗教遺跡で、有名なのは荘厳な石造建築だった。その辺りは観光客でごったがえしていた。その建造物は単独で見れば荘厳なのだろうが、その背後には高層ビルが異様に聳えていた。建造物がちょっと哀れだった。私の留学時代より哀れだった。また、建造物のあちこちに明らかに普通でない警備員が立っていた。私は彼女の手を引いて庭園に向かった。私は彼女の手を引いて庭園に向かった。彼女は残念そうにする。私が「あの警備員はやばいだろう」と言うと、彼女は「そんなのどうでもいいわ」と言う。確かに、恋する二人に恐いものは何もない。彼女は専門の情報科学以外ではボキャブラリーが貧弱なのだ。彼女はA1大学の頃からそうだった。当時、専門だった生物学においてさえもそうだった。当時も情報科学技術は凄かったが、グループGに入って必要とされて、開花した。
  庭園に入ると彼女も気に入ってくれた。私は留学時代に既に、ここの庭園が気に入っていた。庭園を進むに連れ、観光客はほとんどいなくなった。木漏れ日が古びた石壁に映って揺れる。人工だが滝や小川もある。枝の向こうに滝が流れ、枝に野鳥が一羽、泊まって滝の方を向いていた。焼いて食えないだろうか。という職業的な問いが私によぎったのだが、それはわずかでつかのまだった。彼女は「鳥さん、主役になりきってるね」と、写真を撮っている。その写真は後に反政府グループGのサイトを飾ったが、鳥さんは右下隅に小さく写っているだけだった。写真では滝と枝が主役で、鳥が主役という感じではなかった。彼女は、情報科学技術の天才であって、視覚的芸術の天才ではなかった。だが、人間が撮る写真などなくても、生物の誰もが主役だ。
  緑の木々に包まれた土の小道を二人で歩いた。水溜りに木漏れ日が反射して、自分の顔にも映っているのが分かる。ベンチに座った。彼女の顔には木漏れ日が直接当たって揺れている。わずかながらも野鳥のさえずりが聞こえる。街の喧騒は聞こえない。ワインをちびちび回し飲みしながら、これ以上の楽園はないと思った。小さくても自然がある。静けさがある。ワインがある。何より彼女がいる。もうA国のものにせよ、B国のものにせよ、潜伏所に戻りたくないと二人で思った。
  だが、同僚たちを心配させてはいけないということで、しばらくして潜伏所に向かった。その途中で私たちはとんでもないものを目撃した。遺跡の前は広大な広場になっていて、小さな可動式の飲食店や土産物屋が立ち並んでいる。午前に来た時より観光客や店員で混雑していた。この広場だけでも一万人以上の人々がいたと思う。その一画で、飲食店の店主の子供たちが、お菓子をほおばりながら走っていた。幼い女の子も年長の子供たちを追いかけている。年長の子供たちはうまく観光客の間を縫って走る。女の子はそんなにうまく走れない。観光客とぶつかり、包みからお菓子がこぼれ石畳に散乱した。警察官のような男が数人、飛んで来て、女の子を連行しようとする。観光客は男たちをたしなめている。そこへ女の子の母親で、飲食店の店主らしい太り気味の女性が飛んで来た。その女性は、甲高い声を上げ、男たちから女の子を引き戻そうとする。男たちは母親も連行しようとする。母親は男の一人に体当たりをする。男は大げさに仰向けに倒れる。別の男が母親に発砲する。銃声が響き、母親の胸のあたりで血が衣服を突き破っているように見える。観光客や店員から押し殺した悲鳴が上がる。母親は仰向けに倒れる。女の子が母親に泣きつき、女の子のドレスにも血が滲む。「ママ…」女の子は声を上げ、年長の子供たちや店員に助けを求める。私とも目が合う。私は思わずそちらに駆け寄ろうとする。Xは渾身の力を込めて私を止める。警察官のような男たちは「自然保全法と公務員保護法に基づく」と言う。観光客の間でどよめきが上がる。観光客はその現場を避けて通る。私もXに抱かれ引かれて行く。私が「まだ、母親は助かる。心臓に当たってない」と言おうとすると、Xが私の口を鷲掴みにする。Xは「早く帰ろう」私を抱き寄せて通り過ぎようとする。私は振り返ろうとする。Xは「お願い。振り返らないで」と私を渾身の力で引く。女の子の鳴き声と助けを求める声が遠ざかる。
  諸国で政府が自然の保全を名目にして、街でも観光地でもゴミのポイ捨てを厳しく取り締り、市民にゴミを持ち帰らせていた。企業や政府にとっては、市民にゴミを持ち帰らせたほうが経費節減になる。結局、ゴミの持ち帰りは、経済的政治的権力者の儲けになるにすぎない。また、市民のエネルギーが、反政府運動や反核運動に向かうよりは、自然の保全に向かうほうが、政治的経済的権力者にとって都合がよく無難である。
  「馬鹿野郎。そんな自然の保全より、全体破壊手段の全廃のほうが先だろう」と言いそうになった。また、Xは私の口を鷲掴みにした。私をしっかり抱きかかえて潜伏所に急いでいる。私が少し落ち着いてから、Xは「あいつらはああやって、反政府主義者をあぶり出しているのよ。昔からある手口よ。あなたがあそこで出て行けば思うつぼでしょう」と言う。Xは、いざというときは、ボキャブラリーが豊富なのだ。私は「あ…あぶり出し」開いた口が塞がらなかった。A国でP教授でもあった。今度は、一般市民を犠牲にしたあぶり出し…いや待てよ。「よくできすぎている。あれは一つの芝居で、母親も女の子も演技をしているのか?あの拳銃も血も偽物で。しかも、人が集まる観光地の広場で…女の子が助けを求める…目と目が合う…巧妙なあぶり出し…」と独り言を言ったつもりが一部がXに聞こえていた。「それならいいのだけど…」とXは呟く。私はようやく落ち着いてきた。もし演技なら名子役だ。あの母親も庶民的な味わいを出して、いかにもシングルマザーで苦労して一人で子供を育ててきたというのが滲み出ている。しかも、世界的な遺跡の前の広場で、観光客が集まる。庶民的な小さな可動式飲食店の店主とその子供。そして、女の子が泣きながら周りの人々に助けを求める。目が合う。母親はまだ助かるかもしれない。私のような単純な反権力者ならいかにもあぶり出される。やっぱりこれはうまくできすぎている。女の子も目鼻立ちが整って、妖精のような顔をしていた。あの女の子の顔立ちからして、やっぱりこれはうまくできすぎている。だが、Xは芝居や演技とは思ってないようで、あの女の子の鳴き声がXの中で響いているのが分かった。Xはあの現場では私を制止することで必死だった。それが今になって…私は「ごめん」と言おうとしたが、言葉にならなかった。あれが芝居でないとすれば、一般市民を犠牲にしてのあぶり出しだ。芝居だとしても、あんな演技をさせられる女の子はかわいそうだ。あれが演技だとしても、あの幼児の演技のためにはすごい練習の強要があったに違いない。これも一般市民を犠牲にしてのあぶり出しだ。
  考えてみれば、市民を犠牲にして、反対者をあぶり出す、または挫く、または市民を反対者から離反させるのは、古代からある手口だ。あぶり出しでないにしても、政権に対する恐怖を反政府主義者や市民に植え付ける。私たち反対者は、それを権力者の卑劣と批判するだけでなく、その犠牲を最小限にする努力を怠ってはならないと思った。そのためには反対者は可能な限り一般市民から離れて潜伏し隠密に行動し、できれば反対者の存在さえ分からないほどに潜伏し、準備をして、好機と見れば、一気に片を付けなければならないと思った。

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