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自我と自我の傾向
―自我をもつ動物の心理学

基本的用語

  この『自我と自我の傾向―自我をもつ動物の心理学』を「この著作」と呼べる。この著作の基礎に『感覚とイメージの想起―記憶をもつ動物の心理学』がある。だから、できればその著作を読んだ後でこの著作を読んでいただきたい。だが、その著作を読まなくてもこの著作が読めるよう筆者らは努める。『感覚とイメージの想起―記憶をもつ動物の心理学』とこの著作と『悪循環に陥る傾向への直面―習性をもつ動物の心理学』を「これらの著作」と呼べる。これらの著作は一つの著作を構成する章とも見なせる。これらの著作を一つの著作として『心理学三部作』とも呼べる。これらの著作と『生存と自由』と『生存と自由の詳細』と『それぞれの国家権力を自由権を擁護する法の支配系と社会権を保障する人の支配系に分立すること』と『特定のものと一般のもの』も「これらの著作」と呼べる。
  この著作では、物質、生物、身体、動物、人間、神経系、神経細胞群、機能、生物機能、身体機能、動物機能、人間機能、神経機能、神経細胞群の興奮伝達、物、それらが存在し機能すること、現れるもの、イメージとして現れるもの、イメージ、イメージの素材、感覚、記憶、イメージの想起、知覚、連想…などの言葉は『感覚とイメージの想起―記憶をもつ動物の心理学』と同じものを指す。いずれにしても、神経系は身体に含まれ、身体は生物に含まれ、生物は物質に含まれ、神経機能は身体機能に含まれ、身体機能は生物機能に含まれる。神経機能は感覚、記憶、イメージの想起、知覚、連想…などを含む。
  『生存と自由』『生存と自由の詳細』では動物の種、人間の種が重要であるから、動物、人間という言葉は通常、それらの種を指した。それに対して、これらの著作では、それらの個体が重要であるから、動物、人間という言葉は通常、それらの個体を指すことにする。

随意運動、純粋心的機能、総合機能、自律機能

随意運動

  以下で説明する単位的随意運動と複合随意運動を「随意運動」と呼べる。
  大脳の前頭葉の運動野から脊髄と運動神経を経てまたは脳神経を経て横紋筋に至る神経細胞群の興奮伝達と横紋筋細胞群の興奮と収縮から生じ、それ以上、分離できない身体の部分の動きを「単位的随意運動」と呼べる。単位的随意運動は関節の屈伸、舌の上下左右運動と屈伸、声帯の開閉と緊張弛緩、眼球の上下左右運動と回転運動、顔の部分の緊張弛緩を含む。
  複数の単位的随意運動から構成される運動を「複合随意運動」とも呼べる。例えば、人間の直立二足歩行は、左肩関節前屈、右肩関節後屈、左股関節後屈、右股関節前屈…などの単位的随意運動から構成される複合随意運動である。脊椎動物の複合随意運動は歩く、走る、泳ぐ、飛ぶ、鳴き声を出す…などを含む。人間の複合随意運動は直立二足歩行、直立二足で走る、クロール、バタフライ…などで泳ぐ、音節や短い単語を発音する…などを含む。ところで、長い単語を発音する、句、節、文を話すことは、後述する総合機能に含まれる。何故なら、自分が話した言葉を知覚しながら、それらが正しいか確認し、言葉の内容を思考しながら私たちは言葉を話しているからである。また、言葉を書くこととタイプライター、コンピューター、その他の機械を操作することも総合機能に含まれる。
  随意運動は後述する意識的機能に含まれる。

純粋心的機能

  感覚またはイメージの想起を含み、随意運動を含まない機能を「純粋心的機能」と呼べる。純粋心的機能は感覚、イメージの想起、知覚、連想、快不快の感覚、欲動、感情、欲求、自我、イメージの操作、思考を含む。
  イメージの想起、知覚、連想、感情、欲求、自我、思考…などはイメージの想起を含む。感覚、快不快の感覚、欲動はイメージの想起を含まない。

総合機能

  純粋心的機能と随意運動またはそれらと他のいくつかの機能から構成される機能を「総合機能」と呼べる。人間の総合機能は、言葉を話す、言葉を書く、人と話をする、遊ぶ、勉強する、仕事をする、対人機能を含む。例えば、人間が言葉を話すことは、自分が話した言葉を知覚し、それらが正しいか確認し、言葉の内容を考え、口、舌、喉頭…などを動かすことであり、少なくとも知覚と思考と随意運動から構成される。だから、それは総合機能である。
  そのように人間の機能を見ていくと、日常で見て聞くもののほとんどが総合機能である。

対人機能

  他の人間と話をする遊ぶ勉強する仕事をする、付き合う別れる、争う仲直りする、人を避ける…などの他の人間と係る総合機能を「対人機能」と呼べる。対人機能は人間が生存するために最も重要な機能である。だからこそ対人不安がある。すべての人間が多かれ少なかれ対人不安をもつ。
  直面と回避については『悪循環に陥る傾向への直面―習性をもつ動物の心理学』で説明する。対人機能は対人直面と対人回避を含む。簡単に言って、対人不安があっても人と付き合うことが対人直面である。それに対して、対人不安があるから人を避けることが対人回避である。人と争うことと対人直面は同一では全くない。そのことを忘れないでいただきたい。人と争うことは対人直面であるより対人回避であることが多い。人と和解することは対人直面であることが多い。対人回避には単純なそれらと複雑なそれらがある。例えば、対人不安のために職場や学校に行かないことは単純な対人回避であり、うすっぺらいことしか話さない、近寄り難い雰囲気を作るは複雑な対人回避である。

心的機能

  純粋心的機能と総合機能を「心的機能」と呼べる。

自律機能

  自律感覚以外の感覚、イメージの想起、随意運動を含まない身体機能を「自律機能」と呼べる。
  自律機能は、心臓、血管、肺の収縮拡張、消化管の運動、消化、吸収、内分泌、外分泌、免疫、排泄(直腸からの排便、膀胱からの排尿を除く)を含む。ところで、少なくとも人間と高等な哺乳類では直腸からの排便、膀胱からの排尿は、完全な自律機能ではない。何故ならある程度までは先延ばしできるからである。それらは半自律的機能と呼べる。
  この節の自律機能の定義によると、『感覚とイメージの想起―記憶をもつ動物の心理学』で説明された、イメージの認識、記銘、保持などの機能は自律機能に含まれることになる。だが、それらはイメージの想起の先駆機能または潜在的部分と考えたほうがよい。だから、それらを自律機能に含めず、それらをイメージの想起の潜在機能と呼ぶことにする。

状況

  物質または機能の「状況」という言葉は『感覚とイメージの想起―記憶をもつ動物の心理学』で定義された。この章では補足する。「状況」という言葉では個体の状況、つまり、いくつかの他の人間、いくつかの他の動物、自然のいくつかの部分がイメージされがちである。だが、個体の身体の部分と個体の機能に関する限りで、それらの状況のある部分は個体の中にあり他の部分は外にある。例えば、個人が対人不安に襲われ、対人関係を回避する方法を考えるとき、そのような思考の主要な状況はそのような不安でありそれは個体の中にある。対人不安が特定の人々によって増強されたとすれば、そのような人々はそのような不安の状況の一つであり、それは個体の外にある。個体の部分と個体の機能の状況に関する限りで、個体の中の部分を「内的状況」または身体状況とも呼び、個体の外の部分を「外的状況」と呼べる。前述の例では、そのような不安はそのような思考の内的状況であり、そのような人々はそのような不安の外的状況である。
  生物学と心理学と医学では個体の身体の部分とその部分の機能が問題になることが多いので、内的状況と外的状況の区別が科学の中で最も重要である。だが、一般に物質、物質機能…などの言葉は身体、身体機能を除くそれらを指し、状況という言葉は内的状況を除く外的状況を指すことが多い。この著作でもときにそのような用語法を用いることにする。

対象、手段

  ほとんどの機能は対象と手段と状況を属性としてもつ。例えば、対人機能について、一般の人間がその対象である。また、話し言葉、書き言葉、電話、メール…などがその手段である。また、職場、学校…などがその外的状況であり、対人不安、対人欲求…などがその内的状況である。

情動

情動

  快不快の感覚を主要部分とする機能を情動と呼べる。情動はこの章で説明される快不快の感覚、欲動、感情、欲求、複合的情動を含む。

快不快の感覚

  『感覚とイメージの想起―記憶をもつ動物の心理学』で定義されたとおり、快不快を属性としてもつ心的現象として現れるものを「快不快の感覚で現れるもの」と呼べる。また、それらを生じると前提される神経機能を快不快の感覚と呼べる。例えば、臭い、めまい、味、痛さ、暑さ、寒さ、動悸、息苦しさ、吐き気が快不快という属性である。嗅覚で現れるもの、平衡感覚で現れるもの、味覚で現れるもの、体性感覚で現れるもの、自律感覚で現れるものは、そのような快不快を属性としてもち、快不快の感覚で現れるものである。また、嗅覚、平衡感覚、味覚、体性感覚、自律感覚は快不快の感覚である。快不快の感覚で現れるものの中の、快の属性が比較的に優勢な空間的時間的部分を「快の感覚で現れるもの」と呼べ、不快の属性が比較的に優勢な空間的時間的部分を「不快の感覚で現れるもの」と呼べる。
  皮膚、骨、横紋筋、健の痛さ、痒さ、暑さ、寒さは快不快の体性感覚で現れるものに含まれ、動悸、息苦しさ、吐き気、飢え、渇きは快不快の自律感覚で現れるものに含まれる。
  視覚、聴覚を除く感覚は快不快の感覚である。視覚、聴覚は快不快の感覚ではない。例えば、眼、耳の痛さは体性感覚または自律感覚で現れるものまたは精神的苦痛を表す比喩である。
  直接的間接的に、快不快の感覚は、記憶、イメージの想起、知覚、連想など…の純粋心的機能だけでなく、神経系、特に自律神経系、内分泌系、免疫系…などの広範に及ぶ様々な自律機能を生じる。例えば、皮膚の痛さはその痛さの知覚だけでなく動悸、発汗…などを自律神経系、内分泌系…などを介して間接的に生じる。

欲動

  以下の属性をもつ身体機能を「欲動」と呼べる。

(d1)快不快の感覚を含む。
(d2)それに固有の機能がほとんど生じないとき、それに固有の不快の感覚が生じる。
(d3)それに固有の機能がある程度、生じるとき、(d2)の不快の感覚が減少し、それに固有の快の感覚が生じる。
(d4)それに固有の機能が過度に生じるとき、それに固有の不快の感覚が生じることがある。
(d5)一日のうちにもそれらが反復することがある。また、状況によって変動することがある。

  まず、食欲、飲水欲が欲動に含まれることは明らかである。前者を「摂食欲動」とも呼び、後者を「飲水欲動」とも呼ぶことにする。次に、性欲はそれらほど明らかでないが、欲動に含まれる。それを「性的欲動」と呼べる。また、群れようとする欲動、支配しようとする欲動、防衛しようとする欲動、子供を育てる欲動…などがありえる。
  (d1)~(d5)のうち(d2)を欲動「不満」、欲動が不満なことと呼べ、(d3)を欲動「満足」、欲動が満足されることと呼べ、(d4)を欲動飽満、欲動に辟易することともべる。
  快不快の感覚と欲動は、進化の中で発生した機能であり、既にある程度は動物の遺伝子と個体と種が生存するのに適した機能になっている。例えば、快不快の体性感覚に含まれる皮膚の痛さは外傷が皮膚より深い重要な器官に及ぶのを防ぐ。快不快の自律感覚に含まれる動悸、息苦しさは過労を防ぐ。食欲と飲水欲は栄養失調と脱水を防ぐ。性的欲動はほとんどの動物の種の生存に決定的な機能である。

『感覚とイメージの想起―記憶をもつ動物の心理学』の復習

  『感覚とイメージの想起―記憶をもつ動物の心理学』で説明されたとおり、光景、音、臭い、めまい、味、痛さ、暑さ、寒さ、動悸、息苦しさ、飢え、渇き、吐き気、イメージ、アイデア…などを「(心的現象として)現れるもの」と呼べる。
  心的現象として現れるものは感覚で現れるものとイメージ(=イメージとして現れるもの)に大別される。感覚で現れるものは視覚で現れるもの、聴覚で現れるもの…などに大別される。
  簡単に言って、思い浮かぶもの、思い出されるもの、予期されるもの、想像されるもの、思考されるもの…などがイメージである。イメージのうち、それ以上分離できない単位的なイメージを「個々のイメージ」、個々のイメージとして現れるものと呼べる。
  他の個々のイメージまたは感覚で現れるものより、空間的時間的に近くで現れる複数の個々のイメージを「複合イメージとして現れるもの」、複合イメージ、イメージとして現れるもの、イメージと呼べる。方法、機能、一般的なもの、抽象的なもの…などはすべて複合イメージとして現れるのであって、個々のイメージとして現れるのではない。そこで、これらの著作ではイメージという言葉は通常、複合イメージを指す。
  厳密には複合イメージとして現れるものと知覚で現れるものと連想で現れるものは区別される。だが、それらの中で重要なのは複合イメージである。また、それらを逐次、区別していると文章が煩雑になる。だから、知覚で現れるものと連想で現れるものを複合イメージとして現れるものに含め、それらをイメージまたはイメージとして現れるものと呼ぶことにする。
  心的現象として現れるものを素材として生じると前提されるものそのものをそれらの「素材」と呼べ、特に、イメージを素材として生じると前提されるものそのものをイメージの素材と呼べる。だが、イメージとイメージの素材を逐次、区別していると文章が煩雑になる。だから、イメージの素材をイメージと呼ぶことがあることにする。つまり、イメージという言葉はイメージもイメージの素材も指しうる。
  イメージ(の素材)を生じると前提される神経機能をイメージ(の素材)の「想起」または想起またはイメージ(の素材)が想起されることまたはものがイメージとして想起されることと呼べる。「想起」という言葉は、日常では過去の出来事が思い出されることを指しがちだが、過去のものだけでなく、現在のものを考えること、未来のものを予期すること、非現実的なことを空想すること、夢を見ること…なども指すことにする。
  感覚の素材の部分がもついくつかの属性が認識され、その部分が切り取られて、個々のイメージの素材が生成し、その後、記銘、保持される。一時に複数の個々のイメージの素材が生成し、分岐する神経細胞群の中を通って同類性に基づいて分類されながら記銘、保持される。そのように生成したそれぞれの個々のイメージの素材が分岐する神経細胞群の中の単位的神経細胞群に記銘され保持される。
  そのような単位的神経細胞群の間には神経細胞路が存在する。それらの間にある神経細胞路を「個々のイメージの素材の間の神経細胞路」または「イメージイメージ神経細胞路」と呼べる。この著作で説明されるイメージ情動神経細胞路、イメージ機能神経細胞路、機能機能神経細胞路との区別を強調する場合はそれらをイメージイメージ神経細胞路と呼ぶことにする。それらが興奮し伝達することによって、個々のイメージの素材が空間的時間的に近くで生起し想起され、複合イメージ(の素材)が想起される。
  個々のイメージの素材の間の神経細胞路(イメージイメージ神経細胞路)は、(1)類似性に基づいてイメージを想起させる神経細胞路と(2)時間的近さに基づいてイメージを想起させる神経細胞路に区別される。(1)は次々と分岐する記憶の神経細胞路の中にあり、個々のイメージの素材が認識と類似性に基づいて生起することを可能にする。特に(1)によって一般のものが複合イメージとして想起されることが可能になる。例えば、わたしたちがワニと遭遇したとき、(1)によって一般のワニの複合イメージが想起され、それがワニとして知覚され、その危険が連想される。その特定のワニが危険かどうかを吟味するまでもなく、私たちは即座に逃げる。もし、特定のワニ、虎、ライオン…などが危険かどうか吟味していたら、わたしたちは生存していないだろう。(2)は個々のイメージの素材を記銘し保持する神経細胞群の間にそれぞれの種類の記憶を超えて広く分布する。時間的に近くで生成し記銘され保持された個々のイメージの素材の間の神経細胞路が活性化される。次回にそれらのいくつかの個々のイメージの素材が興奮し伝達したとき、それらの活性化された神経細胞路が興奮し伝達し、他の個々のイメージの素材が興奮し伝達する。結局、時間的に近くで生起した個々のイメージが時間的に近くで生起し想起され、複合イメージが想起される。例えば、時間的に近くで生じる物事のいくつかは原因と結果であり、主として(2)によって原因と結果が複合イメージとして想起され連想される。前の例では、一般にワニが危険であることが分かっていたからよかった。例えば、犬や猫は一般に危険とは言えない。ある子供が犬に咬まれてかなり痛い目にあったとすれば、その子の神経系の中で、時間的近さに基づいて、犬のイメージと咬まれる、痛いというイメージの間の神経細胞路が活性化され、その子は犬を恐れるようになる。それらのようにして同類性と時間的近さの両方に基づいて複合イメージの想起、知覚、連想が生じる。
  (1)(2)の活性はイメージの想起、知覚、連想、自我、思考…などの能力または傾向の少なからぬ部分を占める。だが、(1)のほとんどは先天的に活性化されており、それらの能力または傾向の個体差を生じない。(2)は前述にのようにして主として後天的に活性化され、それらの能力または傾向の個体差を生じる。だから、わたしたちにとって(1)より(2)が問題になる。
  イメージを記銘保持する神経細胞群から再生へと向かう神経細胞群は収束し、最も早く持続的に高密度で広く中心に近くで興奮し伝達する素材が再生に達するので、一時に限られた数(N)以下のイメージが想起される。ただし、その限られた数(N)は状況により変動する。例えば、一つのイメージが非常に強く想起されるとき、Nは小さくなる。だから、イメージの想起は限定機能である。

自律感覚

  自律神経の興奮伝達を含む感覚を「自律感覚」または快不快の自律感覚と呼べる。自律感覚は視覚、聴覚のような単一の機能とは考えられない。例えば、動悸と息苦しさと吐き気と飢えと渇きなどの異質なものが単一の機能から生じるとは考えられない。そこで、個体の中でも自律感覚で現れるもの、自律感覚的イメージ、自律感覚のように複数形を用いるのが適切である(訳注:日本語では複数形であることは表せない)。自律神経は組織学的には平滑筋、心筋、粘膜…などに、解剖学的には心臓、血管、肺、消化管…などに分布するので、自律感覚は心臓、血管、肺の収縮拡張、消化管の運動、粘膜の炎症、血液の浸透圧、酸素濃度、グルコース濃度…などの内的状況を伝達する。それらは、動悸、息苦しさ、空腹、口渇、吐き気、腹痛、頭痛…などとして自律感覚で現れる。
  前述のとおり、快不快の感覚のほとんどは、記憶、イメージの想起、知覚、連想…などだけでなく、神経系、特に自律神経系、内分泌系、免疫系…などの広範に及ぶ様々な自律機能を生じる。例えば、快不快の体性感覚に含まれる皮膚の痛さは自律感覚に含まれる動悸、息苦しさ、外分泌に含まれる発汗、内分泌に含まれるエピネフリンの分泌…などを生じる。
  さらに、快不快の感覚が生じる自律機能のいくつかの部分は動悸、息苦しさ、吐き気…などとして快不快の自律感覚で感覚される。つまり、快不快の感覚の多くは自律感覚を生じる。
  さらに自律感覚のほとんどは他の自律感覚を生じる。例えば、息苦しさ、吐き気、頭痛、腹痛は動悸を生じる。
  結局、情動はすべて快不快の感覚を含み、ほとんどの快不快の感覚は自律感覚を含むまたは生じるので、ほとんどの情動は自律感覚を含むまたは生じる。そのことを忘れないで頂きたい。

快不快の自律感覚の機能

  不快の感覚と欲動不満が生じていることは個体と種の生存が危険に晒されていることである。例えば、異種同種の動物の攻撃によって皮膚の痛みが生じていることは、傷が皮膚より深部の器官に及び個体の生存が危険に晒されていることである。また、飢え、渇き、つまり食欲不満、飲水欲不満が生じていることは個体の生存が危険に晒されていることであり、種のほとんどの動物に性欲不満が生じていることは種の生存が危険に晒されていることである。そのようなとき自律機能は個体が危険を防ぐ反撃、逃走、防衛、捕食、飲水、性的活動…などの生存の危機を避ける機能を生じる準備をする。例えば、心拍数、血圧、呼吸数を増加させ随意運動によって消費されるであろう酸素の供給に備える。そのような自律機能は、まるで動物に危険を警告するように、不快と自律感覚で感覚され、不快の自律感覚が生じる。例えば、動悸、息苦しさが生じる。そのように不快の感覚と欲動不満は一般に不快の自律感覚を生じる。
  だが、いつも危険を避ける機能とそのような機能を準備する自律機能が生じていたのでは、人間を含む動物は疲労困憊し生存できない。不快の感覚と欲動不満がないときは、自律機能は動物が休むまたは眠り疲労を回復する準備をする。例えば、心拍数、血圧、呼吸数を下げ、消化管運動を亢進し消化吸収、代謝排泄を促す。そのような自律機能は、まるで警告を解除するように、快として自律感覚で感覚され、快の自律感覚を生じる。例えば、かすかな動悸と穏やかな呼吸と適度な空腹を生じる。そのように、不快の感覚と欲動不満の欠如は快の自律感覚を生じることがある。
  また、不快が減少するだけでも快の自律感覚が生じることがある。例えば、激しい痛みが和らいだだけでも快の自律感覚が生じえる。
  さらに、不快の自律感覚は不快の自律感覚を生じえる。例えば、動悸や息苦しさはさらに激しいそれらや吐き気を生じる。それは動物に二重に危険を警告をするかのようである。

認識から本能的機能へ

  『感覚とイメージの想起』で説明されたように、感覚された神経素材が通る神経細胞群の中には素材の属性を認識する神経細胞群が存在し、それらからイメージを生成し記銘保持する記憶の神経細胞群が始まる。だが、系統発生及び個体発生上、それらの記憶の神経細胞群の発生は以下のものよりだいぶん後である。認識の神経細胞群から食物、淡水、性的対象、天敵、共生の手段…などを処理する本能的機能を生じる神経細胞群に向けて神経細胞路が存在する。それらの神経細胞路によってそれらの本能的機能が認識から生じることが可能になる。また、それらの神経細胞路はいくつかの快不快の感覚と欲動に係る神経細胞群にも達する。それによってらそれらの感覚と欲動が認識から生じることが可能になる。例えば、性的対象を認識する神経細胞群と性的欲動に係る神経細胞群とそれらの間の神経細胞路が性的対象に対して性的欲動が生じことを可能にする。それらの神経細胞群だけでなく神経細胞路も遺伝子によって先天的に活性化されている。次の節で説明するイメージ情動神経細胞路は、この節で説明した神経細胞路から進化したと考えられる。

イメージ情動神経細胞路

  いくつかのもののイメージの素材が通る神経細胞群からいくつかの自律感覚を生じる神経細胞群に向けていくつかの神経細胞路が存在する。それらの神経細胞路は先天的に活性化されていない。後述する活性化は先天的ではなく後天的に生じる。あるものが感覚または知覚されまたはイメージとして想起され認識され、その個々のイメージの素材が生成しまたは更新され記銘され保持されるとともに、そのものが何らかの情動を生じ何らかの自律感覚を強くまたは持続的にまたは反復的に生じるとき、時間的近さに基づいてそのもののイメージの素材が通る神経細胞群からそれらの自律感覚を生じる神経細胞群への神経細胞路が活性化されその活性が維持される。次回にそのものが知覚されまたはイメージとして想起され認識されたときに、それらの活性化された神経細胞路が興奮し伝達し、それらの自律感覚が生じる。それが後述する感情である。そのような神経細胞路をそのもののイメージの素材が通る神経細胞群からそれらの自律感覚を生じる神経細胞群への「イメージ情動神経細胞群」と呼べる。また、そのものの「イメージの素材が通る神経細胞群」という言葉をそのもののイメージの素材」という言葉に簡略化し、それらの「自律感覚を生じる神経細胞群」という言葉をそれらの「自律感覚」という言葉に簡略化して、それらをそのもののイメージの素材からそれらの自律感覚へのイメージ情動神経細胞路と呼ぶことにする。

感情

  繰り返すが、あるものが知覚またはイメージとして想起され認識され、そのものの個々のイメージの素材が生成しまたは更新され記銘され保持されるとともに、そのものが何らかの情動を生じ何らかの自律感覚を強くまたは持続的にまたは反復的に生じるとき、時間的近さに基づいてそのもののイメージの素材が通る神経細胞群(イメージの素材)からそれらの自律感覚を生じる神経細胞群(自律感覚)へのイメージ情動神経細胞路が活性化されその活性が維持される。次回にそのものが知覚されまたはイメージとして想起され認識されたとき、それらの活性化されたイメージ情動神経細胞路が興奮し伝達し、それらの自律感覚が生じる。そのことにおいて、そのもののイメージの素材とそのものの認識とそれらのイメージ情動神経細胞路の興奮伝達とそれらの自律感覚をそのものについての、そのものへの、そのものに対する「感情」と呼べる。また、そのものを感情の対象と呼べる。
  例えば、母親に虐待される乳児の身体、特に神経系の中で、
(1)母親が知覚されまたはイメージとして想起され認識され、その個々のイメージの素材が生成しまたは更新され、記銘、保持される。
(2)母親に叩かれることによって皮膚の痛さが生じることによって動悸、息苦しさなどの不快の自律感覚が生じる。
(1)(2)が時間的に近くで生じ繰り返されたとき、母親のイメージの素材からそれらの不快の自律感覚を生じる神経細胞群に至るイメージ情動神経細胞路が活性化される。次に母親のイメージの素材が想起され認識されたときに、それらの活性化されたイメージ情動神経細胞路が興奮し伝達し、それらの不快の自律感覚が生じる。それが特定の人間または一般の人間に対する不安または恐怖という感情である。それに対して、乳児に飢えや渇きが生じているときに、母親がだっこをして授乳することを繰り返すと、乳児の身体の中で、母親のイメージの生成と適度な動悸とスムーズな呼吸が時間的に同時に生じ、母親のイメージが想起されたときにそれらの快の自律感覚が生じるようになる。それが特定の人間または一般の人間に対する期待という感情である。
  感情は不安、恐怖、期待、安心、他人に対する感嘆、自己に対する感嘆、他人に対する嫌悪、自己嫌悪、孤独、被疎外感、被迫害感を含む。
  感情の一部はいわゆる「条件付け」の一部の実体である。例えば、パブロフの犬でさえも食物に対する期待をもっていた可能性がある。そのように、人間だけでなく、少なくとも高等な哺乳類が感情をもつ可能性がある。また、前述の例のように、人間の乳児は単純な感情をもつ。当然、幼児期以降の人間は様々で複雑な感情をもつ。
  感情を生じる対象は以下のようにして広がっていく。
  感情は主として(Ⅰ)ものの知覚またはイメージとしての想起と認識、(Ⅱ)(Ⅰ)によるイメージ情動神経細胞路の興奮伝達と(Ⅲ)(Ⅱ)による自律感覚から成る。第一に、(Ⅰ)と(Ⅱ)の間に連想が挟まり、(Ⅰ)と連想と(Ⅱ)と(Ⅲ)が感情のように見えることがある。例えば、(Ⅰ)職場や学校での対人関係の知覚と認識から直接的に対人不安が生じるだけでなく、職場や学校の建物の知覚と認識から連想を介して対人関係の想起と認識が生じ、(Ⅱ)(Ⅲ)が生じることはよくある。それらを繰り返しているうちにその建物のイメージの素材から不快の自律感覚へのイメージ情動神経細胞路が活性化され、その建物の知覚と認識が連想なしでそれらの自律感覚を生じるようになる。これは感情に含まれる。まず、そのようにして感情の対象は広がる。さらに、定義として、(Ⅰ)と連想と(Ⅱ)と(Ⅲ)という見かけの感情も、感情と呼び感情に含めることにする。この場合は連想によって感情の対象が広がる。
  それに対して、連想がなくても、ある対象に対して感情が生じているときに、偶然にでも別の物が何度も知覚されたまたはイメージとして想起されたとき、その感情の対象は後者に広がりえる。例えば、子供が偶然、ある小道である種の虫に驚愕し、その虫に恐怖を抱いたとき、その小道にも恐怖を覚えることはありえる。
  感情の対象がそのように広がっていくとともに、感情自体、以下のように増強もし減弱もする。『感覚とイメージの想起―記憶をもつ動物の心理学』で説明されたとおり、神経細胞群または細胞路の活性は長時間の断続的な繰り返しによって増大または持続し、それがないことによって減少する。それはイメージ情動神経細胞路にも言える。だから、感情は繰り返しによって増強され、繰り返しがないことによって減弱する。例えば、虐待、いじめ、疎外…などが繰り返され、対人不安が繰り返されるなら、それは増強または持続し、しばらく生じないなら減弱することがある。そもそも、感情が広がり増強する一方で減弱しないならわたしたちは生きることができない。
  そのような対象の広がりと感情そのものの増強、維持、減弱は後述する欲求にも当てはまる。『欲求』の節では、その説明を省略することにする。
  快の自律感覚が優勢な感情を「快の感情」とも呼び、不快の感情が優勢な感覚を「不快の感情」とも呼ぶことにする。一見したところ、それらの区別は曖昧だが、後述する機能的衝動を生じるか生じないかによって区別できる。快の感情は期待、安心を含み、不快の感情は不安、恐怖、他人に対する嫌悪、自己嫌悪、孤独、被疎外感、被迫害感を含む。そのように見ていくと、不快の感情のほうが様々であり重要であることが分かる。

先天的行程、後天的行程、遺伝子によって受け継がれるもの、遺伝子以外のものによって伝承されるもの

  ここが一般の先天的行程、後天的行程、遺伝子によって受け継がれるもの、遺伝子以外のものによって伝承されるものを説明する絶好の場所である。
  生物の全体または部分とそれらの機能を含む属性とそれらの能力または傾向の生成または形成または変化の行程は、遺伝子と遺伝子機能による行程とそれ以外のものによる行程に区別される。前者を先天的行程、後者を後天的行程と呼べる。だが、それらは互いに錯綜し発生、形成、変化などの一つの行程を構成する。だから、生物の全体と部分とそれらの機能を含む属性とそれらの能力または傾向はすべて、先天的かつ後天的に発生、形成、変化…などする、というのがより適切な表現である。問題はその割合であり、先天的…な行程が優位か、後天的的な行程が優位かである。だから、「ほとんど」「実質的に」「主として」「比較的に」「同程度に」などの言葉が「先天的」または「先天的に」または「後天的」または「後天的に」という言葉を修飾する必要がある。
  ところで、分娩までの行程と先天的な行程は同一ではなく、分娩後の行程と後天的な行程は同一ではない。例えば、人間の神経系は分娩時には未熟だが、最初の三年間に飛躍的に発達し、思春期に完成し発達は終わる。そのような神経系そのものの発生は分娩後のものも含めてほとんど先天的発生である。傷害について、例えば、分娩前の胎児期に、母親の遺伝的障害を除く障害によって、胎児の神経系が障害を被ったとすれば、それはほとんど後天的障害である。
  一般に、身体、器官、組織、細胞などの生物の全体と部分、つまり、物質そのものはほとんど先天的に発生する。例えば、前述のとおり、神経系そのものはほとんど先天的に発生する。それに対して、生物機能を含む属性とそれらの能力または傾向についてはその限りでない。
  だが、生物機能の多くは主として先天的に発生する。感覚、快不快の感覚、欲動、自律機能は主として先天的に発生する。イメージの素材の生成を巡っても、素材を認識し切り取り記銘保持…などする機能は主として先天的に発生する。そのように見ていくと、ほとんどの機能を含む属性は主として先天的に発生する。それに対して、それらの能力と傾向についてはその限りでない。
  だが、能力と傾向を見る前に、特別なものが見つかった。感覚されたばかりの感覚の素材のいくつかの部分がもついくつかの属性が認識され、それらの部分が切り取られて、個体の中で初めて個々のイメージの素材が生成する。その後でそれらが複合イメージを構成する。だから、すべてのイメージの素材は後天的に生成すると言え、「ほとんど」「主として」…などの修飾語を省略できる。個人におけるイメージの素材はいわゆる「知識」である。つまり、知識は後天的に形成される。これはわたしたちの日常的理解と矛盾しない。
  すると、イメージの想起、知覚、連想、感情、欲求、複合的情動、自我、思考、総合機能のような機能は、イメージの素材を含むから、先天的にも後天的にも同程度に発生すると言わざるをえない。先に一般に生物機能は主として先天的に発生すると言ったが、それにも例外があったことが分かる。それどころか、それらは人間にとって重要な機能であり、例外などという言葉が不適切である。
  では、機能の能力または傾向を見てみる。最初に神経細胞群の活性を見てみる。
  神経細胞群のいくつかは、それらそのものが成熟するときに、既に興奮伝達し必然的機能を生じるのに十分な活性をもっている。例えば、感覚細胞群、感覚神経…などの感覚が必然的機能である神経細胞群がそうである。また、心拍数、呼吸数、血圧などの自律機能の調整が必然的機能である自律神経系の神経細胞群がそうである。また、人間の分娩直後においては、必然的機能が視覚と聴覚である神経細胞群は活性化されていないだけでなくそれらそのものが未熟なのであり、分娩後数か月後にそれらが成熟するときに必然的属性、つまり、視覚と聴覚を生じるのに十分な活性もつようになる。それらは主として先天的な活性化である
  それに対して、その他の神経細胞群はそうではなく、ある程度、活性化されて、興奮伝達しそれらの必然的機能を生じるに十分な活性をもつようになる。そのような神経細胞群のうち、重要なのは、『感覚とイメージの想起―記憶をもつ動物の心理学』で説明された個々のイメージの素材を記銘保持する神経細胞群と時間的近さに基づく個々のイメージの素材の間の神経細胞路と、前述のイメージ情動神経細胞路と後述のイメージ機能神経細胞路と機能機能神経細胞路である。それらの活性は興奮伝達の長時間の断続的な繰り返しによって増大または持続し、それがないことによって減少する。それらはある程度以上の活性をもつ限りにおいて機能する。最初に興奮伝達するときは、それらは一定の条件下にある限りで興奮伝達することもありえる。だがその場合も含めて、それらの活性は最初からゼロではない。だから、それらの活性は「主として」後天的に形成されると言えるかもしれない。だが、長時間の完結的な興奮伝達の繰り返しがなければ、それらが機能しない、つまり、それらはイメージとイメージ、イメージと情動、イメージと機能、機能と機能を連動させないことに変わりはない。だから、それらの神経細胞群または神経細胞路は「ほとんど」または「実質的に」後天的に活性化される、または、それらの活性はほとんどまたは実質的に後天的に形成されると言える。
  さて、前述のとおり、、イメージの想起、知覚、連想、感情、欲求、複合的情動、自我、思考、総合機能は後天的に生成するイメージの素材を含む。また、それらの能力または傾向は、前述の神経細胞群または神経細胞路がほとんどまたは実質的に後天的に活性化されることによって形成される。だから、それらの能力または傾向は「ほとんど」または「実質的に」後天的に形成されると言える。それらの能力または傾向に対して、前述のとおり、それらそのものは先天的にも後天的にも同程度に発生すると言える。
  ところで、横紋筋の収縮力は先天的にも後天的にも同程度に形成される。例えば、それらはいわゆる「筋トレ」によって増強する。一方、数か月寝たきりだと、全身の筋力が低下し、座ることも立つことも歩くこともままならない。一方、生まれたての赤ちゃんでもそれらはゼロでない。単位的随意運動に関する限りで、それらの能力は主として二三の横紋筋の収縮力から構成される。だから、単位的随意運動の能力は先天的にも後天的にも同程度に形成される。
  単位的随意運動に対して、複合随意運動は、横紋筋の収縮を含むが、機能機能神経細胞路の興奮伝達を含むので、それらの能力は主として後天的に形成される。総合機能は随意運動だけでなく少なくともイメージの想起を含むのでそれらの能力はほとんどまたは実質的に後天的に形成される。
  横紋筋に対して、平滑筋と心筋の収縮力はほとんど先天的に形成される。また、自律神経系の神経細胞群の活性は主として先天的に形成される。だから、自律機能の能力または傾向は主として先天的に形成される。
  さて、人間にとって重要なものをまとめる。

(1)それらそのものと能力または傾向が主として先天的に生成する機能

感覚、快不快の感覚、欲動、自律機能

(2)能力または傾向が先天的にも後天的にも同程度に形成される機能

単位的随意運動

(3)能力または傾向が主として後天的に形成される機能

複合随意運動

(4)活性がほとんどまたは実質的に後天的に形成される神経細胞群または神経細胞路

個々のイメージの素材を記銘保持する神経細胞群
時間的近さに基づく個々のイメージの素材の間の神経細胞路
イメージ情動神経細胞路
イメージ機能神経細胞路
機能機能神経細胞路

(5)それらそのものは先天的にも後天的にも同程度に発生するが、能力または傾向がほとんどまたは実質的に形成される機能

イメージの想起、知覚、連想、感情、欲求、複合的情動、自我、思考、総合機能

(6)後天的に蓄積するもの

イメージ、つまり、いわゆる「知識」

  さらに、「ほとんど」または「実質的に」という言葉さえも省略して、以下の表現をこれらの著作ではすることにする。

(4)の神経細胞群または神経細胞路は後天的に活性化される。
(5)の機能の能力または傾向は後天的に形成される。
(5)(6)の機能は後天的機能である。
(1)の機能は先天的に発生し、それらの能力または傾向は先天的に形成される。
(1)の機能は先天的機能である。

  そのように見ていくと、人間にとって最も重要なものはすべて(ほとんどまたは実質的に)後天的に形成されることが分かる。
  先天的に形成されたものが遺伝し進化する。後天的に形成されたものは遺伝せず進化しない。例えば、食欲、飲水欲、性欲という欲動とその傾向は主として先天的に形成され、遺伝し進化する。それに対して、対人不安、対人期待という感情の傾向は後天的に形成され、遺伝せず進化しない。これは幸運なことなのだろうか不幸なことなのだろうか。一方で、後天的に形成されたものは遺伝子によって受け継がれず、進化しない。それらは一代限りで終わってしまうように見える。他方で、人間は遺伝子と進化の束縛から自由であるように見える。
  確かに、(5)(6)の能力、傾向、知識は遺伝子によって受け継がれるものではなく、進化しない。それらは言語などの媒介によって世代を超えて伝承され蓄積される。その蓄積されたものが文化、慣習、法、制度、科学技術…などである。言い方を替えれば、人間は遺伝子や進化だけでなく、人間の歴史と社会によって拘束されている。そこでは個人の自由はほとんどないように見える。
  だが、(5)(6)をもう一度、見て頂きたい。(5)の能力または傾向と(6)の知識がいわゆる「人格」を構成する。個人の人格は乳幼児期から(ほとんどまたは実質的に)後天的に形成される。親子兄弟姉妹が似ており、一卵性双生児が同じであるとしても、似たり同じであるのは人格ではなく容貌や体格や体質である。彼らの人格が似ているとしても、それは似た状況、互いの模倣…などによっている。人格が(ほとんどまたは実質的に)後天的に形成されるという意味で、わたしたちは自由なのではないだろうか。
  また、後天的に形成されるものは先天的に形成されるものより個人差が著しい。この個人差、特に人格の個人差こそが人間にとって最も重要で面白いものではないだろうか。

過去の快と不快を活かし、未来に快を増大または維持し不快を減退させ、生存を確保すること

  過去にいくつかの対象が強いまたは持続的または反復的な不快の情動を生じたとき、それらの情動がいくつかの不快の自律感覚を生じ、それらの対象のイメージの素材からそれらの不快の自律感覚へのイメージ情動神経細胞路が活性化される。次回にそれらの対象が知覚されまたはイメージとして想起され認識されたとき、それらのイメージの素材がそれらの活性かれたイメージ情動神経細胞路の興奮伝達とそれらの不快の自律感覚を生じる。それがそれらの対象に対する不安または恐怖という感情である。そのような感情をもつ人間を含む動物は前もってそれらの対象を免れる。強いまたは持続的なまたは反復的な不快の情動を生じるような対象は通常、個体と種が生存するのに危険なものである。例えば、皮膚に痛さを生じるような他の動物の攻撃は皮膚より深部の臓器に至り致命的となりえる。感情があり、過去に多少の痛さを経験したなら、動物はそのような危険な対象を知覚しただけで恐怖を感じ逃走できる。感情をもつ動物は生存の危険を前もって免れる。そのように感情は過去の快と不快を活かし、未来に快を増大または維持し不快を減少させ、生存を確保する機能である。
  前の節とこの節で説明したことの多くは後述する欲求、複合的情動、自我、思考にも当てはまる。
  進化の原動力は遺伝子の「突然変異」と個体の「生存競争」と「適者生存」である。だが、その「適者」とは個体なのか種なのか遺伝子なのかという論争があった。遺伝子が適者であるという答えが優勢である。つまり、遺伝子や進化はまず、遺伝子の生存を保障し、結果として個体や種の生存を保障する。それに対して、前の節で述べたとおり、不安や恐怖という感情の傾向は、後天的に形成され、遺伝せず進化しない。快不快に基づく感情、欲求、自我…などは、遺伝子や進化から解き放たれている。それらは、第一に個体が生存するのに適した機能であり、結果として種や遺伝子が生存するのに適した機能である。

対象の切迫度

  感情の対象は切迫度を属性としてもつ。切迫した対象は強く頻回に知覚されまたはイメージとして想起され、結果として感情を強く頻回に生じる。例えば、重要な催し物が差し迫るほど不安と期待が強く頻回に生じる。

欲求

  いくつかのものはそれを得るまたは持つまたはそれに関係する人間や動物に快の情動をもたらす。そのようなものは人間においては具体的、抽象的、物質的、精神的であり得る。例えば、人間においてはカネを得て持つことは食欲満足、飲水欲満足…などをもたらす。また、賞を得ることは栄誉をもたらし、恋人と付き合うことは性欲満足だけでなく様々な快の情動をもたらす。そのような繰り返しによって、そのものを得るまたは持つまたはそのものと関係するイメージの素材からそれらの快の情動から生じる快の自律感覚へのイメージ情動神経細胞路が活性化される。次回にそのものを得るまたは持つまたはそのものと関係することが知覚されまたはイメージとして想起され認識されたときに、それらの活性化されたイメージ情動神経細胞路が興奮し伝達し、それらの快の自律感覚が生じる。そのようなことにおける、そのものを得るまたは持つまたはそのものと関係することの知覚またはイメージとしての想起と認識とイメージ情動神経細胞路の興奮伝達と快の自律感覚をそのものへの「欲求」またはそのものを得ようまたは持とうまたはそのものと関係を持とうとする欲求と呼べる。また、そのものを欲求の対象と呼べる。また、対象のイメージを対象イメージと呼べる。
  欲求の対象が得られた持てたまたは対象と関係することができたときには前に挙げたような快の情動が生じる。そのことを欲求満足と呼べる。また、欲求が生じたのに対象が得られないまたは持てないまたは対象と関係することができないときは悔い、悲しみ、不安…などの不快の感情が生じる。そのことを欲求不満と呼べる。また、過度に対象を得られたまたは持てたまたは対象と関係することができたときは辟易、空虚などの不快の感情が生じることがある。それを欲求飽満または欲求辟易と呼べる。
  具体的で物質的なものだけでなく抽象的で精神的なものや人間関係や状況も欲求の対象になりえる。例えば、権力、カネ、食糧、水、性的対象…などだけでなく、名誉、栄光、賞、資格、能力、技能、人格、人間性、職業、友人、恋人、配偶者、家族、家庭、趣味、都会生活、田舎生活、健康、独立、自由…なども欲求の対象になりえる。
  ここで欲求と欲動の関係について説明する。欲求の根底に快不快の感覚と欲動がある。例えば、食欲、飲水欲、性欲を満たすためには、ある程度のカネと権力を得なければならず、カネへの欲求、権力への欲求が形成される。欲動は先天的機能であり、それらとそれらの傾向は主として先天的に形成される。それに対して、欲求は後天的機能であり、それらとそれらの傾向は主として後天的に形成される。
  簡単に言って欲求は、あるものをえる、もつまたはそのものに関係することのイメージの素材から快の自律感覚が生じることであり、(快の)感情に含まれ、イメージが少し複雑になっただけである。だが、欲求以外の感情を(狭義の)感情と呼ぶことにする。
  欲求のいくつかがいわゆる「条件付け」の一部の実体である。
  対象イメージの素材を記銘し保持する神経細胞群とイメージ情動神経細胞路は後天的に活性化されるので、欲求は後天的機能であり、それらの傾向は主として後天的に形成される。例えば、対人機能を実行して、何度も快の情動が生じたとき、対人欲求が形成される。結局、情動の中の感情と欲求と複合的情動は後天的機能である。それに対して、情動の中の快不快の感覚と欲動は先天的機能である。だから、感情、欲求、複合的情動の傾向の個人差は快不快の感覚、欲動の傾向の個人差より顕著である。

欲求の対象の原初的な対象から具体的な手段への偏向

  欲求の対象は感情と同様に広がりえる。そのような広がりが欲求においては原初的な対象から具体的な手段への偏向となる。例えば、権力やカネは人間が他人を支配するための手段に過ぎない。だが、六歳から十二歳の間にそれらが手段であることが忘れ去られ、それらは欲求の対象となる。さらに、歳をとるごとに技能、資格、学歴…などの具体的な手段が欲求の対象となる。そのような欲求の手段への偏向は、人間社会の現実を反映している、日常生活であると言える。だが、わたしたちはときにその偏向を後悔する。

複合的情動

  主としていくつかの感情または欲求から構成され、いくつかの快不快の感覚、欲動、他のいくつかの感情または欲求を含むことがある機能を「複合的情動」と呼べる。
  いわゆる「愛」は主として特定の人または一般の人への欲求から構成され、孤独への不安、対人欲求、美への感嘆、永遠への欲求、性的欲動、群れようとする欲動…などを含むことがある複合的情動である。いわゆる「権力への意志」は主として支配欲求から構成され、力とカネへの欲求、永遠への欲求、支配欲動…などを含むことがある複合的情動である。
  だが、複合的情動が主要な構成要素として感情または欲求を含むのだから、その感情または欲求で複合的情動を呼べる。例えば、いわゆる「権力への意志」を支配欲求と呼べる。また、その感情または欲求の対象で複合的情動の対象を呼べる。例えば、いわゆる「権力への意志」の対象を支配することと呼べる。
  また、快の感情または欲求満足を主要構成要素とする複合的情動を快の複合的情動と呼べ、不快の感情または欲求不満または欲求飽満を主要構成要素とする複合的情動を不快の複合的情動と呼べる。例えば、特定の人への欲求の不満が優勢な愛は不快の愛である。

快楽と苦痛

  快不快の感覚、欲動、感情、欲求、複合的情動を「情動」と呼べる。
  快の感覚、欲動満足、快の感情、欲求満足、快の複合的情動を快の情動または快楽とも呼べ、不快の感覚、欲動不満、欲動飽満、不快の感情、欲求不満、欲求飽満、不快の複合的情動を不快の情動または不快または「苦痛」と呼べる。不可算名詞としての「苦痛」という言葉は身体的苦痛も精神的苦痛も意味する。また、不快という言葉より苦痛という言葉のほうが日常的によく使われる。そこで、これらの著作でも苦痛という言葉を多用することにする。
  快不快の感覚、欲動を「身体的情動」と呼べる。快の感覚、欲動満足を身体的快楽と呼び、不快の感覚、欲動不満、欲動飽満を身体的不快または身体的苦痛と呼べる。
  感情、欲求を「精神的情動」と呼べる。快の感情、欲求満足を精神的快楽とも呼べ、不快の感情、欲求不満、欲求飽満を精神的不快または精神的苦痛と呼べる。

情動の対象

  感情と欲求と主要な構成要素が感情または欲求である複合的情動の対象は既に定義された。
  ここでは、快不快の感覚、欲動の対象を定義する。それらは間接的に感情または欲求を間接的に形成する。例えば、皮膚の痛みはそれを生じる人間の暴力、事故、病気、自然災害…などに対する恐怖を間接的に形成し、食欲は食べ物に対する欲求を間接的に形成する。それらが形成する感情または欲求の対象をそれらの対象と呼べる。

意識的機能

機能イメージと意識的機能

  少なくとも人間を含む高等な哺乳類の個体のそれぞれの中で、いくつかの機能は、想起されたそれらの機能のイメージの素材のいくつかと他のいくつかの機能(X)から生じえる。大脳において想起されたそれらの機能のイメージの素材のいくつかと他のいくつかの機能(X)から生じえる機能を「意識的機能」と呼べ、それを他のいくつかの機能(X)とともに生じえるイメージの素材をその「機能イメージ(の素材)」と呼べる。簡単に言って、機能イメージは「いかにするか」、方法のイメージである。例えば、わたしたちがそうしようと思いながら肘関節を曲げているとき、そうすることが機能イメージとして想起されており、肘関節を曲げることは意識的機能である。
  イメージの素材はすべて後天的に生成し記銘され保持される。機能イメージの素材もそうである。だから、例えば、「肘」「関節」「屈曲」「右左」のイメージが生成していない乳幼児では、右肘関節を意図的に曲げることができない。それに対して、例えば、左手が急に痛んだときに反射的に曲げることはできる。
  関節の屈伸は前述の単位的随意運動に含まれる。まず、単位的随意運動が意識的機能に含まれる。

イメージ機能神経細胞路、機能的細胞群

  大脳において、意識的機能に含まれその発端であり、それを構成するものを協調させる神経細胞群をその意識的機能の「機能的神経細胞群」と呼べる。単位的随意運動の機能的神経細胞群は前頭葉にあることが確かめられている。他の意識的機能の機能的神経細胞群も前頭葉にあると考えられる。
  ある意識的機能の機能イメージの素材が通る神経細胞群からその意識的機能の機能的神経細胞群に至る神経細胞路をその機能イメージの素材からその機能的神経細胞群への「イメージ機能神経細胞路」と呼べる。それらは後頭葉、側頭葉、頭頂葉から前頭葉に向かい、それらの軸索は大脳髄質を通ると考えられる。

機能イメージの後天的生成とイメージ機能神経細胞路の後天的活性化

  イメージの素材はすべて後天的に生成し記銘され保持される。機能イメージもそうである。第一に、他人の意識的機能が感覚され知覚され、それらのイメージの素材が生成しまたは更新され記銘され保持される。例えば、親の歩行を見るとき、乳児の神経系の中で直立二足歩行という複合随意運動のイメージの素材が生成しまたは更新され記銘され保持される。それが模倣の過程である。第二に、自己の意識的機能は他人の機能より確実に感覚され知覚され、イメージとして生成しまたは更新され記銘され保持される。それが思考錯誤の過程である。例えば、他人がやるのを見ているだけで自分でやらないなら、どんな技術も習得できない。それらの二つの過程によって機能イメージが生成し記銘保持され想起されえる。
  さらに、ある意識的機能が思考錯誤しながらも反復的に生じるときに、そのイメージの素材が生成しまたは更新され記銘され保持され、それらのイメージの素材からその意識的機能を生じる機能的神経細胞群に至るイメージ機能神経細胞路が時間的近さに基づいて後天的に活性化される。例えば、乳児が繰り返し親の直立二足歩行を見ながら立って歩こうとするとき、直立二足歩行のイメージが生成しまたは更新され記銘され保持され想起されるともに、それらのイメージの素材から直立二足歩行を構成する四肢の単位的随意運動を生じる前頭葉の神経細胞群に至るイメージ機能神経細胞路が活性化される。
  さらに、ある意識的機能のイメージの素材が想起され認識されるとき、前述のようにして活性化されたイメージ機能神経細胞路が興奮伝達し、それらの興奮伝達と他のいくつかの機能(X)がその意識的機能を生じる機能的神経細胞群の興奮伝達を生じ、その意識的機能を生じることがある。この段階で、想起されたその意識的機能のイメージの素材が既に機能イメージになっている。例えば、直立二足歩行のイメージの素材が想起され認識されるとき、前述のようにして活性化されたイメージ機能神経細胞路が興奮し伝達し、それらの興奮伝達と他のいくつかの機能(X)が歩くことを生じる機能的神経細胞群の興奮伝達を生じ、乳児が歩きえる。この段階で、歩くイメージの素材が既に機能イメージになっている。

特殊な意識的機能

  (3)機能的神経細胞群の興奮伝達、従って意識的機能は、(1)想起される機能イメージの素材と(2)イメージ機能神経細胞路の興奮伝達と(X)他のいくつかの機能から生じえる。だが、(1)(2)を含まない先天的機能からもいくつかの意識的機能を生じることがある。例えば、大人が乳を吸うことは(1)(2)(X)から生じえ、それは意識的機能である。それに対して、新生児が乳を吸うことは、(1)(2)を含まないなんらかの先天的機能から生じる。ところで、腱反射は常に(1)(2)(X)なしで生じ、意識的機能ではない。腱反射を模倣することは意識的機能だが、腱反射の模倣と本物の腱反射は明らかに異なる。
  少なくとも人間を含む高等な哺乳類において意識的機能がある。それらにおいて、新生児の生存にとって不可欠な、不快の感覚を減じ情動を満たすための単位的随意運動と四本足で立つ歩く、乳を吸う、鳴く…などの複合随意運動は、新生児または乳児においては、(1)(2)を含まない先天的機能から生じる。だが、それ以降はそれらも高等な哺乳類において(1)(2)(X)から生じえ、それらが意識的機能であることに変わりはない。それらを「原初先天的意識的機能」と呼べる。それに対して、(1)(2)(X)だけから生じえる意識的機能を「純粋後天的意識的機能」と呼べる。人間においては、直立二足歩行と泣く笑う以外の発音は純粋後天的意識的機能である。当然、言葉を話す、書く、道具を使う、作る…などは純粋後天的意識的機能である。

単位的意識的機能と複合意識的機能

  単位的随意運動のようなそれ以上小さな意識的機能に分割されない意識的機能を「単位的」意識的機能と呼べる。それに対して、複合随意運動のような複数の単位的な意識的機能から構成される意識的機能を「複合」意識的機能と呼べる。例えば、直立二足歩行は膝関節、股関節、肘関節、肩間接の屈伸などの単位的意識的機能(単位的随意運動)から構成され、複合意識的機能(複合随意運動)に含まれる。単位的随意運動は単位的意識的機能ぶ含まれ、複合随意運動は複合意識的機能に含まれる。

機能機能神経細胞路

  単位的意識的機能は一つの機能イメージの素材と一本のイメージ機能神経細胞路と一個の機能的神経細胞群の興奮伝達から生じえる。それに対して、複合意識的機能はそうはいかない。複合意識的機能が生じるためには、(1)複合意識的機能を構成する単位的機能がすべて機能イメージとして想起されるか、(2)イメージ機能神経細胞路が分岐するか、(3)単位的意識的機能を生じる機能的神経細胞群の間に神経細胞路が存在する必要がある。(1)(2)(3)の混合が存在し機能する可能性が強い。
  複合意識的機能の初期の段階では主として(1)が機能する。例えば、新しい手作業を習得するとき、すべての構成要素を思い浮かべなければならない。(1)を何度も繰り返すうちに、(2)(3)の神経細胞路が活性化され、(2)(3)が機能するようになる。その結果、複合意識的機能を構成するすべての単位的意識的機能が機能イメージとして想起されなくても、複合意識的機能が生じることが可能になる。例えば、右腕前、左腕後、右脚後、左脚前…などと考えなくても、歩くことができ、歩きながら明日の予定などの歩行以外のことを考えることができる。
  さて、(1)における神経細胞路と(2)の分岐する前の神経細胞路をイメージ機能神経細胞路と呼び直せ、(2)の分岐した後の神経細胞路と(3)の神経細胞路を「機能機能神経細胞路」と呼べる。また、単位的意識的機能を生じる機能的神経細胞群を「単位的」機能的神経細胞群と呼べ、複合意識的機能を生じる単位的機能的神経細胞群と機能機能神経細胞路を「複合」機能的神経細胞群と呼べる。また、それらを区別する必要がないときは、それらを機能的神経細胞群と呼べる。

複合意識的機能の能力の形成

  前節のようにイメージ機能神経細胞路、機能機能神経細胞路、単位的機能的神経細胞群、複合機能的神経細胞群を区別すると次のことが分かる。イメージ機能神経細胞路はどの意識的機能を生じるかに係わる。それに対して、機能機能神経細胞路は複合意識的機能を構成する単位的意識的機能を協調させること、つまり、複合意識的機能が上手か下手か、つまり、それらの能力に係る。
  最初は複合意識的機能を構成する単位的意識的機能の機能イメージが別個に想起され、それらのイメージ機能神経細胞路が別個に興奮伝達し、それらの単位的機能細胞群が別個に興奮伝達し、それらの単位的意識的機能が別個に生じ、複合意識的機能の原型のようなものを構成する。それは稚拙でぎこちない。模倣と試行錯誤によって、それらが繰り返されるうちに、複合意識的機能を構成する単位的意識的機能を生じる単位的機能的神経細胞群の間の機能機能神経細胞路が活性化され、複合意識的機能の能力が形成される。例えば、右腕前、左腕後、右脚後、左脚前…などを生じる単位的機能的神経細胞群の間の機能機能神経細胞路が活性化され、直立二足歩行の能力が形成される。その能力の形成とともに、複合意識的機能を構成する単位的意識的機能が協調して生じるようになり、複合的意識的機能が円滑に生じるようになる。
  イメージ機能神経細胞路と機能機能神経細胞路は後天的に活性化される。複合意識的機能は後者を含む。だから、複合意識的機能は後天的機能であり、それらの能力は後天的に形成される。

随意運動の能力の形成

  随意運動は意識的機能に含まれ、単位的随意運動は単位的意識的機能に含まれ、複合随意運動は複合意識的機能に含まれる。だから、以下の説明は前の章の節のものと重なる。また、後天的なものが説明された節の説明と重なる。
  前述のとおり、横紋筋の収縮力は先天的にも後天的にも同程度に形成される。単位的随意運動の主要構成要素は横紋筋の収縮であり、その能力の主要構成要素は横紋筋の収縮力である。だから、単位的随意運動の能力は先天的にも後天的にも同程度に形成される。
  乳を吸うのような前述の原初先天的複合随意運動について、それらは新生児の生存に不可欠な機能であり、それらに限って、一部の機能機能神経細胞路は先天的に活性化されている、または別の先天的神経機能があることがありえる。
  原初的先天的複合随意運動を除く複合随意運動について。それらは複合意識的機能に含まれ、後天的に活性化される機能機能神経細胞を含み、後天的機能であり、それらの能力は後天的に形成される。繰り返すが、直立二足歩行の能力の形成の例を挙げる。人間の乳児の中で、親などの他人の直立二足歩行が知覚され、そのイメージの素材が生成し記銘保持される。それらのイメージの素材が想起され、乳児は直立二足歩行しようとする。それが模倣の過程である。乳児は何度も失敗しつつ何度もしようとする。それが思考錯誤の過程である。それらが繰り返されるうちに、直立二足歩行を構成する、膝関節、股関節、肘関節、肩関節…などの屈伸という単位的随意運動を生じる単位的機能的神経細胞群の間の機能機能神経細胞路が活性化される。それらを何度も繰り返すうちに基本的な直立二足歩行の能力が形成される。さらに、成長し、様々な大人やテレビや映画の俳優やモデルやスポーツ選手の歩き方を見て、それらを模倣し思考錯誤するうちに、優雅に歩く、威厳をもって歩く、軍体調に歩く、こそこそ歩く、気ままに歩く、ともかく早く歩く、ともかく長く歩く…などの様々な方法で歩く能力が形成される。
  総合機能を含む他の複合意識的機能とそれらの能力については自我を説明した後で説明する。

自我

衝動

  『感覚とイメージの想起―記憶をもつ動物の心理学』で説明されたとおり、感覚、記憶は、感覚器から広義の感覚神経を経て大脳の感覚野…などに至る整然とした神経細胞群の興奮伝達から生じる。また、『感覚とイメージの想起―記憶をもつ動物の心理学』で説明されたイメージイメージ神経細胞路、前述のイメージ情動神経細胞路、イメージ機能神経細胞路、機能機能細胞路はそれほど整然としていないが以下のものより整然としている。
  情動はすべて、何らかの快不快の感覚を含み、神経系、特に自律神経系と内分泌系、免疫系…などの広範に及ぶ様々な機能を生じる。例えば、皮膚の痛さは動悸、息苦しさ、発汗を生じる。
  さらに、いくつかの情動は、中枢神経系の中で発散し大脳にも向かい、大脳の少なくとも周辺に達する可能性をもつ。それらは、感覚や記憶と異なる方法で大脳のいくつかの機能に影響を及ぼす可能性をもつ。そのような神経細胞群の興奮伝達を「衝動」と呼べる。衝動は大脳の理性的な機能を混乱させることがある。例えば、怒り恐怖などの激しい感情が思考を混乱させることがある。
  一時に複数の情動が生じえる。例えば、皮膚の痛さとそれが持続または増強することへの不安は同時に生じえる。また、あることに対する期待と不安でさえも同時に生じえる。だから、一時に複数の情動によって一時に複数の衝動が生起する、つまり、生じかけることがある。だが、一時に多数の衝動が生起しても、一つの個体の一つの神経系の中で、衝動は一対の大脳に向けて発散し、最も早く持続的に高密度で広く中心に近く興奮し伝達する衝動が他を立ち消えさすので、一時に限ららた数の衝動が大脳の少なくとも周辺に達する。つまり、生起した衝動のうち限られた数の衝動が(完全に)生じる。衝動が早く持続的に高密度で広く中心に近く興奮し伝達することを衝動が強いことと呼べる。そのように定義すると、一時に多数の衝動が生起したときは最も強いものが大脳の少なくとも周辺に達し(完全に)生じると言える。だから、衝動とそれらが通る共通の行程とそれらに係る機能は限定機能であり、それぞれの衝動は被限定機能である。

機能的衝動

  想起された機能イメージの(素材の)いくつかはイメージ情動神経細胞路の興奮伝達を生じ、自律感覚を生じる。さらにそれらの自律感覚のいくつかは衝動を生じる。そのように想起された機能イメージから間接的に生じる衝動を「機能的衝動」と呼べる。そのように意識的機能のイメージの素材である機能イメージから生じる機能的衝動は、その意識的機能を生じる「意欲」となる。
  感情と欲求と複合的情動はなんらかの自律感覚を含むか生じる。ほとんどの快不快の感覚と欲動はなんらかの自律感覚を生じる。だから、ほとんどの情動はなんらかの自律感覚を含むか生じる。通常、快の情動はなんらかの快の自律感覚を含むか生じ、不快の情動はなんらかの不快の自律感覚を含むか生じる。また、不快の情動が生じていてもそれらが減退するとき、快の自律感覚が生じることがある。情動が自律感覚を含むか生じることをそれらが自律感覚を生じることと呼べる。
  さて、強くまたは持続的にまたは反復的に、ある意識的機能が生じ、それが快の情動を生じまたは不快の情動を減退させ快の自律感覚を生じたとき、その意識的機能の機能イメージが生成しまたは更新され記銘、保持され、それらからそれらの快の自律感覚に至るイメージ情動神経細胞路が活性化され、それらの活性がしばらく維持される。次回にそれらの機能イメージが想起されたとき、それらがそれらの活性化されたイメージ情動神経細胞路の興奮伝達を生じ、それらの快の自律感覚を生じ、機能的衝動を生じえる。そのように、過去に意識的機能が快の情動を生じるか不快の情動を減退させ、現在に快の自律感覚が生じたときだけ、機能的衝動が生じえる。そのように、自律感覚と機能的衝動は、過去の快不快に照らし合わせて、未来に快を確保し不快を予防する有力な機能である。

限定機能

  一般に限定機能、被限定機能…などを以下のように定義できる。

  少なくとも人間を含む高等な哺乳類の個体のそれぞれの中で、それぞれが次のような属性をもつ機能の集合(F = (f1,f2,…))がいくつかある。

(1)Fは共通の行程(P)を経る。
(2)ある状況(S)とある時間(LT)の中で、
数(N)個以下のFが生起する場合(C1)は、それらのすべてがそれらの単純に生じる傾向(ST)によって生じ、N個を超えるFが生起した場合(C2)は、その行程(P)の中のFを限定する行程(LP)の中で、生起したFのうち、他と競合しつつ生じる傾向(CT)が最も大きいN個のFが生じる。
(3)ただし、Nはある内的条件によって変動する。
(4)上記のうち、生じる傾向(ST,CT)には同種同年齢の中で個体差があり、他には個体差はほとんどない。

これらのうち、機能の集合(F)とFが経るFを限定する行程(LP)を含む共通の行程(P)を状況(S)における個体の「限定機能」と呼べ、集合(F=(f1, f2,…))を限定機能に属する「被限定機能」と呼べ、その行程(P)の中のFを限定する行程(LP)を限定機能または被限定機能の「限定行程」と呼べ、Fが限定される時間(LT)を限定機能の「限定時間」と呼べ、場合(C1)における被限定機能の生じる傾向(ST)を被限定機能の「単純な(生じる)傾向」と呼べ、C2におけるの被限定機能の生じる傾向(CT)を被限定機能の「(競合の中で生じる)傾向」と呼べる。
  だが、C1における傾向(ST)は基本的なものであり、C2における傾向(CT)は必ずSTを含む。少量のCTをもつものは必ず十分なSTをもつ。だから一般に、C2における競合の中で生じる傾向(CT)を被限定機能の(生じる)傾向と呼べる。また、通常、N個を超える被限定機能が生起し、N個の被限定機能が生じる。すると実質的に、限られた数を超える被限定自我が生起し、最も大きな傾向をもつ限られた数の被限定機能が生じる。そのことが『感覚とイメージの想起―記憶をもつ動物の心理学』で説明されたイメージの想起にとっても、この著作で説明される自我にとっても最も重要なことである。

  『感覚とイメージの想起―記憶をもつ動物の心理学』で説明された通り、個々のイメージの素材を記銘し保持する神経細胞群から再生へ向かう神経細胞路は収束する。また、一時に、多数のイメージの素材が生起するが、収束する神経細胞路で最も早く持続的に高密度で広く中心近くで興奮し伝達する一定数(N)以下のイメージの素材が他を立ち消えさせて再生に達し想起される。だから、機能イメージの想起を含むイメージの想起は限定機能であり、想起される可能性をもつ機能イメージの素材を含む複合イメージの素材は被限定機能である。もう少し詳しく言うと、それぞれの種類の限定想起が限定機能(単位的限定機能)なのであって、イメージの想起は複数の単位的限定機能から構成される複合限定機能である。それに対して、以下はそうではない。
  前述のとおり、機能的衝動は大脳に向けて発散するので、最も早く持続的に高密度で広く中心近くで興奮し伝達するものが他を立ち消えさせて一対の大脳の少なくとも周辺に達する。つまり、最も強い機能的衝動が大脳の少なくとも周辺に達する。だから、機能的衝動とそれらが通る共通の行程とそれらを処理する機能は限定機能であり、それぞれの機能的衝動は被限定機能である。

自我の状況

  端的に言って、自我は状況の中で意識的機能を生じる。自我は状況と意識的機能の仲介をする。入力が状況であり出力が意識的機能であり、ブラックボックスが自我である。自我の状況はなんらかの意識的機能が生じる必要があるような状況である。例えば、対人機能を生じなければならないような状況、より具体的には誰かがドアをノックしているあるいは電話が鳴っていることが自我の状況である。居留守を使うとしてもそれは対人機能であり、意識的機能である。
  前述のとおり、状況は外的状況と内的状況に区別される。上の例のドアのノックや電話が鳴ることは外的状況である。外的状況は、個体の外にあり、現在のものであり、感覚され知覚され認識され、その認識が自我の始まりとなる。
  それに対して、内的状況は個体の中にあり、現在または過去または未来または現実または非現実のものまたは情動であり、感覚、知覚、想起、連想、または思考され、認識され、その認識が自我の始まりとなる。例えば、明日の仕事が想起される、つまり、予期されるから、自我は準備をしようとする。これは自我が想起されるイメージという現在の内的状況に直接的に、明日の仕事という未来の外的状況に間接的に対応することと見なせる。また、過去の恥ずかしい行為が想起される、つまり、回想されるから、自我はその行為のイメージを後述するようにして回避しようとする。これは自我が想起されるイメージという内的状況に直接的に、過去の外的状況と自己に間接的に対応することと言える。そのようにして、自我は現在に直接的に対応するだけでなく未来と過去と自己に間接的に対応する。
  また、情動も認識され自我の内的状況になりえる。例えば、口渇があるとき、認識され、自我は水を飲もうとする。また、不安や恐怖があるとき、認識され、自我はそれらの原因を回避しようとする。

自我

  自我の発端において、状況が認識され、『感覚とイメージの想起―記憶をもつ動物の心理学』で説明されたとおり、認識と同類性に基づくとともに時間的近さと神経細胞路に基づいて、いくつかの意識的機能のイメージ、つまり、機能イメージが生起し、それらのいくつかが想起される。簡単に言って、状況に対応するいくつかの方法が想起され提案される。例えば、誰かがドアをノックするという状況が認識され、居留守を使う、誰か確認してドアを開ける、ドアを開けて誰か確認する…などの機能イメージが想起される。
  想起される機能イメージの素材とイメージ機能神経細胞路の興奮伝達だけから機能的神経細胞群が興奮し伝達し意識的機能が生じることも考えられる。つまり、

(1)理性系:
状況の認識→機能イメージの想起→想起される機能イメージの素材→イメージ機能神経細胞路の興奮伝達

だけが、機能的神経細胞群の興奮伝達を生じ意識的機能を生じることが考えられる。(1)は、情動や衝動を含まず、「理性系」と呼べる。そのような理性系だけが意識的機能を生じるほうが情動だけまたは理性系と情動の両方が意識的機能を生じるより合理的で効率的であるように見える。
  だが、理性系は弱すぎて、それだけで意識的機能を生じることができない。理性系が意識的機能を生じるには情動と機能的衝動の支持を必要とする。それは日常で、いい考えが浮かんでもやる気がなければ実行できないこととしてしばしば感じられる。
  何より、通常、一秒の時間の内にも複数の機能イメージが想起される提案される。それらの複数の提案から、どれを採用するかを決定するものは何なのか。
  個体と種が生存するためには、過去に意識的機能を生じてみて快の情動を生じたか、不快の情動を生じなかったか、不快の情動を減退させたかを参照し、どれを採用するか決定することが最適である。
  だから、前述の(1)理性系と以下の(2)「情動系」の両方が機能的神経細胞群の興奮伝達を生じ、意識的機能を生じる。

(2)情動系:
(想起されたばかりの機能イメージの素材→)イメージ情動神経細胞路の興奮伝達→快の自律感覚→機能的衝動

  (1)のイメージ情動神経細胞路だけでは、イメージ機能神経細胞路の興奮伝達が機能的神経細胞群に達する前にどこかのシナプス(X)で立ち消えるか、または、機能的細胞群の興奮伝達が生じにくく、イメージ情動神経細胞路と機能的神経細胞群の間のシナプス(Y)で興奮伝達が立ち消える。(2)の機能的衝動がXまたはYのシナプス後細胞を促進して、つまり、細胞内の電位を変化させ閾値超えを生じやすくして、XまたはYで興奮伝達が通るようにする。機能的衝動は乱雑でそれ独自の機能を創出することはできないが、他の神経細胞群や細胞路の興奮伝達を促進することはできる。そのようにして、(1)理性系と(2)情動系の両方が機能的神経細胞群の興奮伝達を生じ意識的機能を生じる。
  理性系のうち、イメージ情動神経細胞路の興奮伝達は感覚されず、衝動は感覚されにくいが、快の自律感覚は胸のワクワクする感じ、やる気、動悸、期待…などとして感覚される。そこで、情動系を「動機(motivation)」とも呼べる。
  比喩的に言って、(1)理性系がいくつかの方法、つまり、「いかにするか」を提案し、(2)情動系がどれを採用するかを決定する。(1)の提案から不快が生じれば(2)が却下し、快が生じれば採用する。その快か不快かは個体の経験に基づく。(1)と(2)の協調は生存競争と自然淘汰の中で進化してきた絶秒の機能である。
  もう一度、要点を説明する。過去に意識的機能が生じて、快の情動が生じたときまたは不快の情動が減退したとき、快の自律感覚が生じ、その意識的機能の機能イメージからその自律感覚に至るイメージ情動神経細胞路が活性化される。次いで現在の状況の中でその意識的機能の機能イメージが想起されたとき、その活性化されたイメージ情動神経細胞路が興奮伝達し、その快の自律感覚が生じ、強い機能的衝動を生じ、機能的衝動が理性系を促進して意識的機能が生じる。それは個体の経験と快不快に照らし合わせる堅実な方法と言える。簡単に言って、過去に快を生じたものは現在にも快を生じそうである。
  そもそも、理性系は中性的で中立的であり、それだけでは良いか悪いかの判断ができない。『感覚とイメージの想起―記憶をもつ動物の心理学』で説明されたとおり、想起または連想では時間的近さに基づいて、原因と結果を複合イメージとして想起することはできる。だが、結果が良かったか悪かったかを想起することも判断することもできない。人間を含む動物においてはそれを判断できるのは快か不快かだけであり、しかも間接的かつ相対的にである。それなら何故人間は真理を追究するのだろうか。それは真理を追究し発見することが快だからである。
  前述のとおり、状況と意識的機能を仲介するものが自我である。状況は入力であり意識的機能は出力であり、自我はブラックボックスである。今、その仲介するもの、ブラックボックスは(1)理性系と(2)情動系であることが分かる。それらの(1)理性系と(2)情動系を状況の中で意識的樹機能を生じようとする「自我」と呼べる。より詳細には、一定の状況が認識され、いくつかの機能イメージの素材が生起し、それらのうち限られた数(N1)以下が想起され、それらのいくつかがイメージ機能神経細胞路の興奮伝達を生じる。それと同時に、それらの機能イメージの素材のいくつかがイメージ情動神経細胞路の興奮伝達を生じ、それらのいくつかがいくつかの快の自律感覚を生じ、それらのいくつかがいくつかの機能的衝動を生じる。さらに、それらのうち限られた数(N2)以下の最も強い機能的衝動が大脳の少なくとも周辺に達し、それらの最も強い機能的衝動を生じた機能イメージの素材が生じたイメージ情動神経細胞路または機能的神経細胞群の興奮伝達を促進し、機能的細胞群が興奮伝達する。そして結局、それらの最も強い機能的衝動を生じた機能イメージの素材が表す意識的機能が生じる。そのときの、状況の認識と機能イメージの素材の生起と想起と想起された機能イメージの素材とイメージ機能神経細胞路の興奮伝達とイメージ情動神経細胞路の興奮伝達と快不快の自律感覚と機能的衝動と最も強い機能的衝動によるイメージ機能神経細胞路または機能的神経細胞群の興奮伝達の促進をその状況の中でそれらの意識的機能を生じようとする「自我」と呼べる。
  そのような自我が日常でわたしと呼ばれるものの実体である。つまり、私たちは意識的機能を生じえるものを「わたし」と呼んでいる。それに対して、自律機能や後述する自発的純粋心的機能を生じるものをわたしとは呼ばず、「わたしの体」とか「わたしの心」と呼んでいる。例えば、心臓の拍動と言う自律機能において不整脈が生じたとして、「わたしの体の障害」とわたしたちは言う。また、うつ病になって自発的純粋心的機能としての感情と欲求が全般的に低調になったとすれば、「わたしの心の障害」と言う。それに対して、意識的機能である盗みをして自白するとすれば、「私の体や心がやりました」ではなく「わたしがやりました」と言う。だから、自我を「わたし」、わたしたちのそれぞれ、人間、意識的機能をしようとすること…などとも呼べる。

機能イメージと意識的機能の別の定義

  以上のように機能的衝動、自我…などを定義した後で、以下のように機能イメージを定義し直す。イメージ機能神経細胞路の興奮伝達とイメージ情動神経細胞路の興奮伝達の両方を生じる可能性をもつイメージの素材を機能的イメージ(の素材)と呼ぶことにする。つまり、自我の端緒であり、自我の全体を生じる可能性をもつイメージが機能イメージである。
  また、上のように自我を定義した後では、自我から直接的に生じえる機能を意識的機能と呼べる。

限定自我と被限定自我

  前節で説明された自我は限定機能である。一般に限定機能、被限定機能…などを以下のように定義できる。

  少なくとも人間を含む高等な哺乳類の個体のそれぞれの中で、それぞれが次のような属性をもつ機能の集合(F = (f1,f2,…))がいくつかある。

(1)Fは共通の行程(P)を経る。
(2)ある状況(S)とある時間(LT)の中で、
数(N)個以下のFが生起する場合(C1)は、それらのすべてがそれらの単純に生じる傾向(ST)によって生じ、N個を超えるFが生起した場合(C2)は、その行程(P)の中のFを限定する行程(LP)の中で、生起したFのうち、他と競合しつつ生じる傾向(CT)が最も大きいN個のFが生じる。
(3)ただし、Nはある内的条件によって変動する。
(4)上記のうち、生じる傾向(ST,CT)には同種同年齢の中で個体差があり、他には個体差はほとんどない。

これらのうち、機能の集合(F)とFが経るFを限定する行程(LP)を含む共通の行程(P)を状況(S)における個体の「限定機能」と呼べ、集合(F=(f1, f2,…))を限定機能に属する「被限定機能」と呼べ、その行程(P)の中のFを限定する行程(LP)を限定機能または被限定機能の「限定行程」と呼べ、Fが限定される時間(LT)を限定機能の「限定時間」と呼べ、場合(C1)における被限定機能の生じる傾向(ST)を被限定機能の「単純な(生じる)傾向」と呼べ、C2におけるの被限定機能の生じる傾向(CT)を被限定機能の「(競合の中で生じる)傾向」と呼べる。
  だが、C1における傾向(ST)は基本的なものであり、C2における傾向(CT)は必ずSTを含む。少量のCTをもつものは必ず十分なSTをもつ。だから一般に、C2における競合の中で生じる傾向(CT)を被限定機能の(生じる)傾向と呼べる。また、通常、N個を超える被限定機能が生起し、N個の被限定機能が生じる。すると実質的に、限られた数を超える被限定自我が生起し、最も大きな傾向をもつ限られた数の被限定機能が生じる。そのことが『感覚とイメージの想起―記憶をもつ動物の心理学』で説明されたイメージの想起にとっても、この著作で説明されている自我にとっても最も重要なことである。

詳しく調べてみよう。

[被限定自我]

  ある状況の中で同種同年齢のある個体の中で、生起する機能イメージの素材のそれぞれは理性系の部分の残る部分と情動系の部分を生じ、最終的にそれが表す意識的機能を生じる可能性をもつ。それらの生起する機能イメージの素材のそれぞれとそれが生じる理性系のその部分と情動系のその部分を一つの機能と見なすことができる。また、ある数(N)を超えるそのような機能が生起したとき、それらは前述のまた後に詳述されるイメージの想起の限定行程と機能的衝動の限定行程という二重の限定状況によって限定される。だから、それらは被限定機能でありそれを「被限定自我」と呼べる。簡単に言って、例えば、困難な人間関係という外的状況と対人不安という内的状況の中で、対人回避しようとする自我と対人直面しようとする自我と待機しようとする自我が生起するが、それらの一つが生じる。

[自我の状況]

  自我の状況は前の節の一つで概略的に説明された。ここでは限定的に説明する。
  状況は無際限に広がりえる。例えば、対人不安は認識され自我の内的状況になりえるが、自我の状況はその不安から現在の人間関係から過去の人間関係、乳児期からの対人不安の傾向の形成過程…などへと広がりえる。傾向または能力の形成こそが最も重要なことなのだが、それを状況という言葉でとらえないほうがよい。それは「傾向または能力の形成」という直接的な言葉で指したほうがよい。そこで、自我の状況を現在に認識されているものに限定することにする。そのように定義すると前の例では自我の状況は対人不安と現在の人間関係だけになる。自我の傾向の形成こそが最大の問題なのだが、それはそれらの言葉で直接的に指すことにする。

[自我の限定行程]

  被限定自我の全体が生じるためには、まず理性系において以下のLP1を、次に情動系において以下のLP2を克服しなければならない。

(LP1)機能イメージの想起における限定行程、つまり、再生へ向けて収束する記憶の神経細胞群の中で最も早く持続的に高密度で広く中心に近くで興奮し伝達する複合イメージの素材が他を立ち消えさせて再生に達し想起されることが理性系における限定行程(LP1)である。

(LP2)衝動は大脳に向けて発散し、最も早く最も持続的に中心付近で広く興奮し伝達するものが他を立ち消えさせて大脳の少なくとも周辺に達することが情動系における限定行程(LP2)である。

以上のLP1とLP2が被限定自我の限定行程(LP)である。そのように、それはLP1とLP2からなる二重の限定行程である。

[自我における限定時間]

  数秒の時間である。『感覚とイメージの想起―記憶をもつ動物の心理学』で説明したとおり、イメージの想起の限定時間はゼロコンマ数秒の時間だった。自我には情動系が絡むだけ、限定時間は単純な想起より長くなる。だが、十秒以上の時間、どんな被限定自我も生じないように見えることがある。例えば、自我が長い時間考えこんでいるときそう見えることがある。だが、そう見えるときでも、自我はその大きな思考の中でより小さな思考という意識的機能を次々と生じている。

[それ以下の被限定自我が生じる数(N)]

  いくつかの機能イメージの素材が生起し、LP1の中でそれらのうち限られた数(N1)以下が想起され、それらのいくつかがイメージ機能神経細胞路の興奮伝達を生じる。それとともに想起されたばかりの機能イメージの素材のいくつかが活性化されたイメージ情動神経細胞路の興奮伝達を生じ、それらのいくつかがいくつかの快の自律感覚を生じ、それらのいくつかがいくつかの機能的衝動を生じる。そして、LP2の中で別の数(N2)以下の最も強い機能的衝動が大脳の少なくとも周辺に達し、イメージ情動神経細胞路または機能的神経細胞群の興奮伝達を促進する。結局、N2以下の被限定自我が生じる。そのように数(N)はN2であり、N2はN1以下である。後述するとおり、数(N)は1になることがある。

[Nが変動する内的条件]

  限られた数(N)はある内的条件によって変動する。まず、機能イメージの想起について、ある機能イメージが強く想起されるときは、他の機能イメージは弱く想起されるまたは生起しても想起されず、N1は小さくなる。次に機能的衝動について、強い快の自律感覚が生じ強い機能的衝動を生じるとき、N2は小さくなる。全体として、強い自我が生じるとき、Nは小さくなり、1になることがある。例えば、非常に危険な物から逃げようとする被限定自我が生じるとき、他の被限定自我は生じない。だが、ときにではなく通常、1ではないのだろうか。だが、後述する慣性的自我があるために、通常は複数である。簡単に言って、自我は他のことをしながらあることをするというような器用なことができる。例えば、自我は荷物を持って駅まで歩きながら明日の予定を考えるというようなことができる。そのようなとき、歩くことと荷物をもつことは慣性的に生じている。だが、慣性的自我を自我と認めないなら、Nは1である。だから、Nは1であるとしても間違いではない。

[被限定自我が通る共通の行程]

  以下が被限定自我が通る共通の行程である。

(1)理性系:
状況の認識→記憶の分岐する神経細胞群の興奮伝達→機能イメージの個々のイメージの素材を記銘し保持する神経細胞群とそれらの間の神経細胞路の興奮伝達→記憶の再生へ収束する神経細胞群の興奮伝達→再生→イメージ機能神経細胞路の興奮伝達

(2)情動系:
イメージ情動神経細胞路の興奮伝達→快の自律感覚を生じる神経細胞群の興奮伝達→機能的衝動が通る神経細胞群の興奮伝達→イメージ機能神経細胞路または機能的神経細胞群の興奮伝達の促進

[限定自我]

  上の被限定自我の集合と限定行程を含む被限定自我が通る共通の行程は限定機能である。それらを「限定自我」と呼ぶことができる。
  だが、限定自我と被限定自我を逐次、区別しそれらの言葉を用いていたのでは文章が煩雑になる。だから、文脈からどちらを意味するか明らかなときは、限定自我または被限定自我を自我と呼ぶことにする。

傾向の形成段階からの被限定自我の全体

  被限定自我が生じるためには以下の階段を昇り切る必要がある。それらのうち、(1)-(3)は準備的段階、つまり、被限定自我の傾向の形成の段階である。

(1)ある意識的機能が感覚され知覚され認識され、その機能イメージの素材が生成しまたは更新され記銘され保持される。
(2)その機能イメージの素材からその意識的機能を生じる機能的細胞群に至るイメージ機能神経細胞路が活性化される。
(3)意識的機能が快の情動を生じまたは不快の情動を減じ、快の自律感覚を生じ、その機能イメージからそれらの快の自律感覚に至るイメージ情動神経細胞路が活性化される。
(1)-(3)が繰り返され、以下の活性が維持される。

(a-1)複合イメージとしてのその機能イメージを構成する個々のイメージを記銘し保持する神経細胞群とそれらの間の神経細胞路
(a-2)イメージ機能神経細胞路
(a-3)イメージ情動神経細胞路

(4)状況が認識され、その機能イメージが生起する。
(5)それが限定状況(LS1)の中で想起される。
(6)それがイメージ機能神経細胞路の興奮伝達を生じる。
(7)同時に、その想起された機能イメージの素材がイメージ情動神経細胞路の興奮伝達を生じ、それが快の自律感覚を生じ、それらが機能的衝動を生起させる。
(8)その機能的衝動が限定状況(LS2)の中で大脳の少なくとも周辺に達する。
(9)それがあのイメージ情動神経細胞路または機能的神経細胞群を促進する。

  (1)-(9)のすべての階段を昇り切って被限定自我の全体が生じ、意識的機能が生じる。
  それらのうち最も重要なのは(7)であり、準備的段階まで遡ると(3)である。その理由は『自我の傾向の形成』の節で説明される。

自我に含まれえる機能

  連想は以下のようにして被限定自我に含まれることがある。被限定自我において、機能イメージの想起が長引いて、連想となることがある。その連想において元の機能イメージを詳細化し具体化した機能イメージが想起され続く過程を生じたとすれば、それは元の被限定自我が長引いたことであり、その連想は長引いた被限定自我に含まれる。例えば、元の回避する機能イメージからより具体的な逃げる、隠れる…などの機能イメージが連想され続く過程を生じたとすれば、それである。それに対して、連想の中で、元の機能イメージが詳細化したまたは具体化したのではない機能イメージが想起されたとすれば、それは元の被限定自我が生起したが停止し、他の非限定自我が生起し、後者が前者を駆逐したことである。例えば、元の回避する機能イメージから直面するまたは待機する機能イメージが連想されたとすれば、それである。
  思考とより小さな被限定自我は以下のようにしてより大きな被限定自我に含まれることがある。思考は意識的機能であり、被限定自我は思考を開始することができる。より大きな被限定自我の中で、機能イメージが想起または連想されているときにより小さな自我がその機能イメージについての思考を開始することがある。その思考の中で、元の機能イメージを詳細化し具体化した機能イメージが想起され続く過程を生じたとすれば、それは元の被限定自我が長引いたことであり、その思考とそれを開始したより小さな被限定自我は長引いたより大きな被限定自我に含まれる。それに対して、思考の中で、元の機能イメージが詳細化したまたは具体化したのではない機能イメージが想起されたとすれば、それは元のより大きな被限定自我が生起したが停止し、他の非限定自我が生起し、後者が前者を駆逐したことである。例えば、回避する機能イメージについて考えているときに、自己の回避する傾向が想起されるとすれば、それである。ついで、自我は自己の回避する傾向に直面するかもしれない。
  そのように、被限定自我が連想と思考を含むだけでなく、より大きな自我がより小さな自我を含むことがある。そこには自我の重層構造がある。その詳細は後述する。
  情動について、前述のとおり、情動は認識され自我の内的状況になりえる。もう少し詳しく説明する。情動の全体または部分が認識され、直接または連想または思考によって間接的に機能イメージが想起されることがある。例えば、空腹が認識され、自我は食物をえることを考える。また、対人不安が認識され、自我は対人関係をどう回避するか考える。また、対人欲求が認識され、自我は対人関係をどうやって広げるか考える。
  逆に、機能イメージが普通の精神的情動を生じ、それが被限定自我の自律感覚と機能的衝動を促進または抑制することがある。そのような場合、その普通の精神的情動は被限定自我に含まれると見なせる。例えば、ある人と会う機能イメージが想起されても、それから強い対人不安が生じれば、自我は会おうとしない。
  それに対して、精神的情動にせよ身体的情動にせよ、強烈な情動は、機能的衝動と異なる乱雑な衝動を生じ、自我の理性系も情動系もかき乱し、自我は何もできないか不可解な意識的機能を生じるだけである。例えば、突然、激痛を受けたときは、自我は叫ぶことしかできない。その叫びは自我ではなく本能から出たものだろう。

一つの状況から多数の被限定自我が生起すること

  通常は、一つの状況の中で多数の機能イメージの素材が生起するが、それらのうち限られたN1個が想起される。さらに、通常は、多数の機能イメージが想起されるが、さらに限られたN2個の機能的衝動と被限定自我が生じる。比喩的に言うと、理性系が状況の中で等しく可能で合理的な多数の意識的機能を機能イメージとして提案し、情動系がそれらのうちの少数を快不快をもって採択し、他を却下する。
  人間社会の中で生きる個人の中では、成分法、慣習法、慣習、倫理、道徳、常識…などに従う意識的機能の機能イメージが想起され、ある程度の快の自律感覚を生じることが多い。それはそのような意識的機能を生じることがある程度の安寧を生じ、少なくとも厳しい非難、報復、制裁…などを招かなかったからである。同時に、それらに反する機能イメージも想起され、わたしたちを魅了する。だが、それらに反することは上記を招き、不安が生じる。だが、そのような機能イメージが生起しまたは想起されそのような機能イメージを含む被限定自我が生起することに変わりはない。そのように、被限定自我の生起の段階で既にいわゆる葛藤があるように見える。だが、それは葛藤などという劇的なものではなく、日常である。
  また、自我の生起の段階で既に直面と回避と待機が錯綜する。例えば、ある限定自我が対人不安という内的状況と困難な対人関係という外的状況にあるとき、以下のような被限定自我が生じえる。対人不安が認識され、対人回避の機能イメージが想起される(1)。だが、対人機能を生じる必要性が認識され、不快の自律感覚を生じ、最も強い機能的衝動を生じない。それから、対人直面の機能イメージが想起される(2)。だが、それは対人不安を増大させ、強い機能的衝動を生じない。結局、人間関係の中に入りながら直面していない中途半端な対人機能の機能イメージが想起され(3)、それが安心感を生じ、強い機能的衝動を生じ、そのような対人機能が生じる。これらは二三秒の間に生じる。
  たが、(1)(2)(3)のそれぞれについても、例えば以下のような多数の具体的で詳細な被限定自我が生起する。
例えば、
(1-1)職場や学校に行かない
(1-2)職場や学校に行くが、対人関係を避ける
(1-3)病気の振りをして休む
(2-1)不安を抱えつつ職場や学校に行って対人関係に入る
(2-2)人間関係が異常と思われる場合は改善する
(3-1)軽く振る舞う
(3-2)他人が近寄り難い雰囲気を作る
だが、それらも一例に過ぎず、実際は一時に通常、さらに多数の被限定自我が生起する。また、そのような被限定自我を含む限定自我は自我をもつ動物が覚醒している限り機能する。つまり、自我は一時的で特殊な機能ではなく連続的で基本的な機能である。だから、自我は狭義の「葛藤」や「躊躇」と異なる。また、自我は思考とも異なる。思考については後述する。簡単に言って、何を思考するか、何について思考するか、どのように思考するかを決定するのが自我である。だが、想起される機能イメージを自我が操作し思考し、自我が思考を巻き込むことはある。それについては後述する。
  そのとき現在に生じている自我は通常、後述する慣性的自我を含むと二、三個であり、それを除くと一個である。慣性的なものも含めて、そのようなそのとき現在に生じている被限定自我を「現自我」と呼べる。
  そもそも、イメージは次々と速やかに変化し、機能イメージについても同様である。また、それに対応して快不快の自律感覚と機能的衝動も速やかに変化する。また、状況も速やかに変化する。さらに、自我が生じた意識的機能によって状況は変化する。例えば、自我が生じた発言という意識的機能によって対人関係という状況は変化し、ときには一変する。だから、現自我も次々と速やかに変化する。そのような速やかな変化は一時的で特別な状態ではなく、持続的で基本的な状態である。
  限定自我と被限定自我と現自我の区別を逐次していると文章が煩雑になるので、文脈から明らかなときと特にその区別の必要がないときは、限定自我または被限定自我または現自我を自我と呼ぶことにする。

自我が含む快不快の自律感覚の微妙さ

  機能イメージが不快の自律感覚を生じたのでは機能的衝動は生じずその機能イメージを含む被限定自我は生じず、生起するだけで終わる。だが、快の自律感覚が生じるか不快のそれらが生じるか、どの程度のそれらが生じるかは微妙である。例えば、何をやっても苦境を打開する方法がなさそうなときは、少しでもましな方法が期待に似た快の自律感覚を生じうる。極端な例だが、どんな訴え方をしても重刑になりそうなときは、最高刑を免れる訴え方が期待を生じえる。そのように苦痛のわずかな減少が快の自律感覚を生じ、被限定自我の全体を生じることがある。
  だが、それは極端な例である。通常、自我はそんなドラマティックなものではなく、日常的なものである。例えば、遅刻しそうなとき、タクシーに乗れば間に合うと思い、期待が生じる。だが、タクシーに乗ると金がかかると思い、不安が生じる。そこで、遅刻による損失とタクシー代を比較する。後者の方が高ければ、遅刻してもよいと思い、楽になる。結局、遅刻する。通常の自我はそのような日常的なものである。

現自我の連続性

  そのような軽い自我、重い自我、後述する段階を踏む自我、を含めて、覚醒している限り、常になんらかの現自我がいれ替わりたち替わり生じており途絶えることはない。現自我の移り行きの例を挙げてみるが、それが持続的で基本的な状態であることを示すために日常的な例を挙げてみる。例えば、外出しようとする。起き上がろうとする。洗面所に行こうとする。顔を洗おうとする。服を着ようとする。鍵、財布、携帯電話…などを取ろうとする。忘れ物がないか確認しようとする。玄関まで行こうとする。戸締りしようとする。戸締りを確認しようとする。何で行くか考えようとする…など。

段階を踏む自我

  例えば、自我が恋人に会おうとしても、すぐに会えるわけではない。自我は恋人に電話し、日時場所を約束し、シャワーを浴び、化粧をして服を着てドアに鍵を掛ける必要がある。自我は電車に乗ろうとするが、そうするためには駅まで歩かなければならない。歩いていると信号で立ち止まるまたは無視しなければならない。この場合、信号で止まるにも自我が働く必要があり、無視するには自我がもっと強く働く必要がある。歩きながらも自我は恋人と会って何をするかを考える。一つの考えで駄目なら、別の自我が別の考えを始める必要がある。駅に着いたら、切符を買う必要があり、そのためには自我が販売機まで行き、ポケットやバッグから財布を取り出し、カネまたはカードを取り、それらを販売機に入れ、お釣りを取り、改札口へ向かわなければならない。それらはすべて意識的機能であり、多数の自我が働く必要がある。そのように、彼または彼女に会うまで、また、電車に乗るまでにも、多数の自我が機能している。そのように、意識的機能のほとんどは段階であり、自我は状況の中で段階を踏む必要があり、日常生活のほとんどは段階である。
  ともかく、覚醒している限り、なんらかの現自我がいれ替わりたち替わり生じており、途切れることはない。

自我の個体発生と系統発生

  人間の個体発生で、一般に、思春期以降の人間が最も明確で強い限定自我をもつ。だが、思春期以前、幼児期、乳児期にもそれらなりの未熟な限定自我がある。
  だが、限定自我が主として分娩後に発生することは、限定自我は後天的に発生することを全く意味しない。限定自我を構成する限定行程を含む被限定自我が経る共通の行程…などは、主として遺伝子によって、つまり、主として先天的に発生する。
  限定自我そのものに対して、被限定自我はほとんどまたは実質的に後天的に発生する。それらが含む機能イメージは後天的に発生し、それらが含むイメージ情動神経細胞路、イメージ機能神経細胞路はほとんどまたは実質的に後天的に活性化されるからである。
  さらに、同様の理由で、被限定自我の傾向もほとんどまたは実質的に後天的に形成される。『悪循環に陥る傾向への直面―習性をもつ動物の心理学』で説明されるとおり、被限定自我の概略の傾向がいわゆる人格の大部分を占める。だから、いわゆる人格とその個人差はほとんどまたは実質的に後天的に形成される。この発見はわたしたちの日常的理解とは異なるのではないだろうか。私たち大人は、人格を少なくとも変え難い頑強なものととらえており、人格や個人差が後天的に形成されると言われても信じないのではないか。だが、いわゆる人格とその個人差は、「主として乳児期から思春期の間に」ほとんどまたは実質的に後天的に形成される。そのいわゆる人格の形成過程を知るのは困難なことである。そう言えば理解されるのではないだろうか。
  動物の系統発生では、猿、犬、猫、馬…などの高等な哺乳類にもそれなりの未熟な自我があると考えられる。

意識的機能と被限定自我の概略

  意識的機能を含めてほとんどのものは認識され、それらのイメージの素材が生成しまたは更新され記銘され保持され、次々と分岐する記憶の神経細胞を通っていくつかの群に分類される。それらのいくつかの群においては、それに属するものがイメージとして想起されるだけでなく、群そのものもイメージとして想起される。もう少し詳しく言うと、いくつかの群が背景に想起され、それらの群に属する詳細で具体的なものが前景に想起される。例えば、一般の人間関係が背景で想起され、職場や学校や家庭での特定の人間関係が想起される。
  意識的機能にも上のように分類され想起される群がある。例えば、回避することが背景で想起され、逃走、隠遁…などの具体的方法が想起される。
  さらに、意識的機能の群のいくつかのイメージの素材は前述のようにように分類され背景で想起され、前景でそれらの群に属する意識的機能のいくつかが機能イメージとして想起され、それらの機能イメージを含む被限定自我が生起する。例えば、回避することが背景で想起され、逃走する、隠遁する…などが機能イメージが起され、そうしようとする被限定自我が生起する。
  さらに、同じ意識的機能の群に属する意識的機能の機能イメージは似ており、その同類性によって同一または類似のイメージ情動神経細胞路の興奮伝達を生じ、同一または類似の自律感覚を生じ、同一または類似の機能的衝動を生じえる。だから、そのような群に属する意識的機能の機能イメージを含む被限定自我の傾向のほとんどは共に形成される。そのようにして傾向が共に形成される被限定自我の群を被限定自我の「概略」と呼べ、それらから生じえる意識的機能の群を意識的機能の概略と呼べる。つまり、被限定自我の傾向はそのような概略を単位として形成される。例えば、被限定自我の概略として自己顕示がある。自己顕示的傾向は主として乳幼児期前半に形成される。思春期以降に自己顕示の方法は自己を語り過ぎる、自己の欠点さえも顕示する…など多様になるが、自己顕示という概略の傾向はあまり変わらないことが多い。また、日常生活においても、その概略は認められ、それらの具体的方法は概略に一括される。それは、詳細で具体的な方法を生じる傾向が概略を単位として形成されるからである。
  そのような概略のいくつかは個体、社会、種と状況を超えて、意識的機能と被限定自我を分類することができる。例えば、直面、回避、待機は人間に限らず少なくとも哺乳類に基本的な意識的機能と自我の概略である。例えば、肉食動物も天災を回避する。草食動物が肉食動物からすぐに回避することはかえって気づかれ捕まえられる危険を高めることがあり、待機はそれらの遺伝子と個体と種の生存に適した機能であることがある。人間では直面は戦いとは異なる。例えば、戦わず話し合うことが直面であることがある。また、戦うことが回避であることがある。

概略の重要性

  日常生活でも心理学でも意識的機能と被限定自我の詳細より、それらの概略が問題となることが多い。例えば、困難な対人関係という外的状況と対人不安という内的状況において、対人関係に直面するか、回避するか、待機するかが問題なのであって、浅薄なことしか話さない、人が近寄り難い雰囲気を作る…などの詳細はどうでもよいことであって、少し人を見る目がある人はそれらを回避と受け止めるだけである。また、何でも支配することが問題なのであって、状況に応じて支配の対象は変わる。例えば、権力をもてばさらに権力を求め、カネをもてばさらにカネを求め、大きな集団を支配すればさらに大きな集団を支配しようとし、大きな集団を支配できなければ、家庭のような小さな集団を支配しようとする。何でも支配しようとする概略の傾向が減退しない限りは、それらを繰り返す。

見かけの双極性の概略

  概略が極として互いに相反し傾向が一方の極から他方へ連続して形成される二極性の被限定自我の概略があるように見える。例えば、直面と回避、何でも支配することと何にでも服従することが二極性の概略であるように見える。
  だが、被限定自我の概略はそう単純ではない。例えば、多極性の概略もあるように見える。例えば、直面と回避と待機が三極性の概略であるように見える。だが、待機の対局は短絡である。そもそも、見かけの両極と中間は錯綜する。例えば、何でも支配する傾向が強い人もいるが、内弁慶になる傾向が強い人もいる。後者の何人かは何でも支配する傾向が大きいのだが、外では支配することができず、内で強く支配していると見なせる。だが、後者の何人かは支配と服従を狡猾に切り替えるという別の概略をもつとも見なせる。そのように見ていくと、明らかな二極性または多極性の概略は稀であることが分かる。

被限定自我の概略の想起

  限定自我の最初の段階で限られた数(N1)以下の機能イメージが想起される。機能イメージの想起も限定機能である。また、前述のとおり、意識的機能の概略もイメージとして想起される。概略が想起されている段階では、N1以下の概略が想起される。例えば、意識的機能の概略としての、直面と回避と待機という概略が同時にまたは短時間に入れ替わり立ち代わり想起される。次いで、一つの概略が想起され続け、それから詳細で具体的な機能イメージが想起される。例えば、回避が想起され続け、逃走する、隠れる…などの詳細で具体的な機能イメージが想起される。ところが、それらの概略と詳細が情動系によって却下され、別の概略が想起され…と続く。例えば、回避も逃げる、隠れるも却下され、待機が想起され…と続く。そのように意識的機能の概略のイメージと機能イメージは短時間に入れ替わり立ち替わり想起され、機能イメージだけでなく概略のイメージもN1に制限される。
  また、概略のイメージから機能イメージが想起されるが、その時間はゼロコンマ数秒である。
  以上のことから、意識的機能の概略のイメージを機能イメージに含めることにする。また、後者だけでなく前者も自我に含めることにする。

概略という言葉の使用法

  日常でも心理学でも、自我と意識的機能が既に概略を単位として論じられることが多い。例えば、この著作では直面、回避、待機という例を何度も挙げたが、それは少なくとも人間を含む高等な哺乳類に共通の自我と意識的機能の概略である。また、日常では「あの人は粘着的だ」などと言われるが、粘着も自我または意識的機能の概略の一つである。また、逃走するか、隠遁するかより、直面するか回避するか待機するかが問題になることが多い。また、「という概略」などの言葉を逐次、用いていると文章が煩雑になる。だから、特に必要でない限りそのような言葉を省略することにする。また、自我の概略と意識的機能の概略を逐次、区別し「自我の」「意識的機能の」という言葉を逐次、用いていると文章が煩雑になる。だから、文脈から明らかなときはそれらを省略することにする。例えば、直面、回避、待機という自我の概略という言葉は直面、回避、待機という言葉に簡略化される。

意識的機能の概略の中の亜群

  傾向が問題になるのは、被限定自我の概略であって、意識的機能の概略ではない。意識的機能で問題になるのは傾向ではなく能力である。概略を単位として形成されるのは被限定自我の傾向であって、意識的機能の能力ではない。意識的機能の概略はいくつかの亜群に分類される。意識的機能の能力は概略の中の亜群を単位として形成される。例えば意識的機能の概略としての対人回避の中には、(1)まっすぐに回避する、(2)隠れて回避する、(3)浅薄な対人関係しか結ばない、(4)他人が近寄りがたい雰囲気を醸し出す…などの亜群があり、それらの能力は別個に形成される。特に(3)と(4)の能力がともにあることはめったにない。

自我における機能イメージと意識的機能の概略のイメージと欲求における対象イメージ

  自我における機能イメージは欲求における対象イメージに似ていると思われるかもしれない。だが、そもそも、自我における機能イメージがイメージ機能神経細胞路とイメージ情動神経細胞路の両方の興奮伝達を直接的に生じえるのに対して、欲求における対象イメージは後者を直接的に生じるだけである。対象イメージは意識的機能と直接的に繋がっていない。機能イメージが自我に含まれるのに対して、対象イメージは含まれない。そもそも、機能イメージが意識的機能そのものの知覚によって直接的に生じるのに対して、対象イメージは意識的機能だけでなく意識的機能の対象、手段…などの知覚によっても生じる。
  欲求における対象イメージが一般的で抽象的であるのに対して、自我における機能イメージは個別的で具体的である。例えば、仕事をする欲求における対象イメージが生計を立てる、経験を積む…などのイメージから構成されるのに対して、仕事をする自我における機能イメージは特定の日時に特定の場所で特定の人と会合する、今はこの書類を作成する…などから構成される。
  意識的機能の概略のイメージはまた別様に欲求の対象イメージと似ていると思われるかもしれない。確かにそれらは共に抽象的である。だが、意識的機能の概略のイメージは意識的機能を明確に分類できる。それに対して、対象イメージは意識的機能や対象や目的や手段を漠然と分類できるだけである。また、意識的機能の概略のイメージも欲求の対象イメージも機能イメージを生じえるが、後者は間接的に生じるだけである。
  だから、意識的機能の概略のイメージを機能イメージに含め、自我に含める。
  機能イメージ、被限定自我の概略、それらの傾向…などは対象イメージと欲求より個人の中ではとらえにくく個人の間では語りにくい。自我の概略として、直面、回避、粘着、自己顕示…などがあり、欲求として仕事への欲求、遊びへの欲求、対人欲求…などがあるが、前者は日常でも科学でも馴染みがあまりないだろう。だから、前者はあまり問題として取り上げられなかった。だが、人格の中で最も重要なのは被限定自我の概略の傾向と限定自我の傾向である。
  だが、前述のとおり、欲求の対象イメージから連想または思考を通じて自我の機能イメージまたは意識的機能の概略のイメージが想起されることはあり、自我が欲求によって増強されることはある。例えば、何でも支配するの欲求が強い人ではそうしようとする自我がよく生じる。

自我の傾向

被限定自我の(概略の)傾向と限定自我の傾向

  前述のとおり、被限定自我は概略を単位として論じられ、それらの生じる傾向は概略を単位として形成される。被限定自我の(概略の)傾向、限定自我の傾向は以下のとおりになる。
  ある状況において、また、ある個体の限定自我において、ある概略に属する被限定自我の傾向の平均をその状況におけるその個体の被限定自我の(概略の)(生じる)(個体内)傾向と呼べる。また、同種同年齢同性におけるそれらの標準偏差値をその状況におけるその個体の(同種同年齢同性における比較的)傾向と呼べる。さて、ある状況において、また、同種同年齢同性の個体の限定自我において生じえる、被限定自我(の概略)の集合をSとする。さらに、Sの要素をある状況において、また、ある個体の限定自我において、生起しうる被限定自我の概略の傾向で置き換えた行列をMとする。するとMをその状況におけるその個体の(限定)自我の(個体内)傾向または習性と呼べる。また、Mの要素を個体内傾向を同種同年齢同性における比較的傾向に置き換えた行列(M')をその状況におけるその個体の(限定)自我の(同種同年齢同性における比較的)傾向または習性と呼べる。
  そのように定義すると、同種同年齢同性における比較的傾向がより重要であるように見える。だが、そうではない。どの被限定自我が生じるかを決定するのは、個体の限定自我の中でどの被限定自我(の概略)の個体内傾向が最も大きいかである。個体の限定自我の中で個体内傾向が最も大きい被限定自我の概略に属する被限定自我が生じる。そのことを限定自我または被限定自我の(概略の)または自我の(個体内)(実質的)傾向と呼び、自我の傾向という言葉は通常、この実質的傾向を指すことにする。一般の人間の人格を追究したり自己のものとそれを比較しない限りは、この実質的傾向だけがわたしたちのそれぞれにとって重要である。
  同種同年齢同性の中での比較的傾向は、一般の人間と比較しての自己に特有の傾向と成長または加齢に伴う特有の傾向の変化を知るために役立つ。比喩的に言えば、個人の被限定自我の中での被限定自我の競争の結果を予想するには、個体内傾向と実質的傾向が適しており、人間社会の中での個人の間の競争と協調の結果を予想するには同種同年齢同性における比較的傾向が適している。
  理論的には被限定自我の(概略の)傾向は、機能イメージの個々のイメージの素材を記銘し保持する神経細胞群、それらの間のイメージイメージ神経細胞路、それらからのイメージ情動神経細胞路…などの活性と密度…などを測定することによって数値化できる。だが、実際に生体においてそれらを測定することは不可能である。だから、それらの数値化は目に見える意識的機能の観察、測定可能な自律機能の測定、心理テスト…などに頼らざるをえないように見える。
  だが、それらの測定よりは、個人の他人と自己に対する嫌悪、倦怠、好感、愛情…などの感情のほうが正確である。特に粘着的傾向、自己顕示的傾向、何でも破壊する傾向、何でも支配する傾向、に対しては嫌悪と倦怠という感情がうまく働き、その判断は正確である。それは他人に対しても自己に対しても言える。特に自己嫌悪と自己に対する辟易は最も正確で強く、他人に対するそれらよりはるかに正確で強い。結局、わたしたちのそれぞれが自己の自我の傾向にたった一人で直面していくしかない。

自我の傾向はほとんど後天的に形成・再形成される


  どの被限定自我(の概略)が生じるかを決定づけるのは、どの個体内傾向が最も大きいか、つまり、前述の実質的傾向である。遺伝子によって先天的に、また、受精後の神経系の機能的器質的障害によって後天的に、自我の傾向が全般的に大きいまたは小さいことはありえる。例えば、反復性うつ病性障害または双極性感情障害のうつ病エピソードでは個体内傾向が全般的に低下する。それに対して、特定の被限定自我の概略の傾向だけが遺伝子または障害によって増減することは決してない。だから、自我の(実質的)傾向は乳児期から後天的に形成、再形成される。
  だが、先天的に形成されるものによって、特定の自我の傾向が影響を受けることはありえる。例えば、欲動は主として先天的に形成され、食欲、飲水欲、性欲だけでなく支配欲動、破壊欲動…などの欲動がありえる。その影響を受けて間接的に自我の支配的傾向、破壊的傾向が大きくなることはありえる。だから、自我の傾向はほとんど後天的に形成・再形成される。そのことを忘れないでいただきたい。
  だが、自我の傾向がいわゆる人格の大部分を占め、大人の大部分は人格を再形成することの困難さを痛感し、その困難さから人格を形成するものを遺伝子に帰しがちである。また、親子、兄弟…等の人格の類似性からも人格を形成するものを遺伝子に帰しがちである。だが、そのように帰すことは錯覚である。三歳以前の乳幼児もそれなりの未熟な自我をもち、乳児期幼児期前半にも自我の傾向は形成される。そのような三歳以降に形成された自我の傾向は執拗で三歳以降はなかなか減退しない。しかも、自我の傾向の形成に限らず、わたしたちは三歳以前の自己の何ものも覚えていない。そのような三歳以前の自我の後天的形成が遺伝子による先天的形成と錯覚されている。それだけのことである。親子兄弟の人格が似ているとしても、それは遺伝子によるのではなく、通常、分娩から三歳まで子供たちが同一のほとんど変わらない親の十分または不十分な愛情と世話を受けたことによっている。

自我の傾向にほとんど性差はない

  この著作の筆者の一人は、自我の傾向の標準偏差値を定義するとき、「同種同年齢同性」と性を加味した。だが、それを加味する必要はないかもしれない。
  性を加味する必要があるとすれば、自我の傾向の中では何でも支配する傾向、何でも破壊する傾向においてだろう。だが、それらに性差があるという証拠はどこにもないのである。例えば、歴史上、独裁者や虐殺者のほとんどが男性であるということは、政治的軍事的権力闘争に参加する機会が専ら男性に与えられてきたということを証明するだけである。仮に権力闘争の能力が男性のほうが優れているとしても、その能力を磨く機会が専ら男性に与えられてきたということを示すだけである。何より、権力闘争の能力は、意識的機能の能力であって、自我の傾向ではない。つまり、自我の傾向そのものに性差があることを示すものは何もない。だから、これらの著作が性差を加味することはほとんどない。

人格

  いわゆる人格は知能、知識、精神的情動の傾向、意識的機能の能力、自我の傾向から構成される。自我の傾向はそれらの中で最も重要なものである。一見したところ意識的機能の能力、例えば、対人機能能力が最も重要であるように見える。だが、例えば、対人回避という被限定自我の概略の傾向が大きいとき、自我はほとんど対人機能という意識的機能を生じず、対人機能能力はますます未熟にとどまる。それに対して、対人回避傾向が減退し、自我が対人機能を生じるとき、対人機能能力は再び発達し始める。また、精神的情動の傾向、例えば、対人不安傾向が最も重要であるように見えることはある。だが、自我が対人不安という内的状況の中で対人機能を生じないとき、対人不安はますます強くなる。それに対して、自我が自己に適した対人関係の中に入り、対人機能を少しずつ生じるとき、対人不安は少しずつ減退する。

被限定自我の(概略の)傾向の形成と減退

  被限定自我の概略の傾向が大きくなることをその形成、それが形成されることと呼べ、逆をそれらの減退、それらが減退することと呼べる。また、ある個体の限定自我の傾向のいくつかの被限定自我の概略の傾向が形成されるまたは減退することを(限定)自我の傾向の形成または「再形成」と呼べる。
  だが、例えば、『悪循環に陥る傾向への直面―習性をもつ動物の心理学』で説明される陥る傾向のほとんどは、人間において平均的に乳幼児期前半または前思春期または思春期にピークに達し、以後は減退する。そのような傾向おいては、同種、同年齢における標準偏差値が問題となる。だから、絶対値を同種、同年齢における標準偏差値に置き換えたものも、傾向と呼び、後者が増加することまたは減少することもそれらが形成されることまたは減退することまたは再形成されることと呼ぶことにする。

特定の被限定自我の(概略の)個別的形成または減退の重要性

  繰り返すが、通常は多数の被限定自我が生起し、傾向が最も大きい被限定自我の概略に属する被限定自我が生じる。だから、問題は、標準偏差値である同種同年齢内の比較的な傾向ではなく、絶対値である個体内傾向である。例えば、成長に伴って、他の多くの個体の宥和的傾向が高まり、ある個体の闘争的傾向の標準偏差値が個体の中で最大になることがありえるが、その個体の宥和的傾向の絶対値が最大のままなら宥和が生じる。また、個体において被限定自我の概略の傾向が全般的に増減するような全般的形成または減退は問題にならない。特定の概略の傾向が増減するような個別的形成または減退が問題になる。例えば、母親の愛情希薄によって、粘着的傾向が形成されることが問題になる。
  だが、偏差値である同種同年齢における比較的傾向には以下の意義がある。被限定自我の概略の傾向の中には乳児期幼児期前半にピークに達し、それ以降は急激に減退するものがある。それらは自棄的傾向、粘着的傾向、自己顕示的傾向を含む。個人においてそれらが減退しても、その減退のスピードが一般のスピードに追いつかないならば、その個人は自棄的、粘着的、自己顕示的と言わざるをえず、そのような減退の遅さは標準偏差値とその変化で測る必要があることがときにある。

不可解な概略の傾向の執拗さ

  被限定自我の概略の傾向はなかなか再形成されず執拗である。しかも、自我の概略の傾向は苦痛を減じるように形成されたはずなのに、自暴自棄、粘着…などの一見したところ苦痛ばかり生じるような不可解な概略がある。しかも、そのような不可解な概略の傾向ほど執拗であり、なかなか減退しない。それらは、以下の理由による。乳幼児にもそれなりの未熟な自我があり、被限定自我の概略がある。それらの概略は乳児期幼児期前半に一時的にせよ苦痛を減じた。それらの概略を生じることが最も苦痛が少なく、それらを生じざるをえないような状況もあった。だから、乳幼児は繰り返しそれらを生じ苦痛を減退させた。そのようにして、それらの被限定自我の概略の傾向が形成された。ところが、それらは三歳以前の出来事であり、わたしたちの誰も覚えていない。

自我の傾向の全般的形成

  繰り返すが、個体の限定自我の中で個体内傾向が最も大きい被限定自我の概略に属する被限定自我が生じる。そのことを限定自我または被限定自我の(概略の)または自我の(個体内)(実質的)傾向と呼び、自我の傾向という言葉は通常、この実質的傾向を指すことにした。だから、自我の傾向の形成に関しては、特定の概略の傾向が増減するような個別的形成または減退が重要である。だが、人間を他の動物と比較していわゆる人格ではなくいわゆる人間性をとらえるためには、限定自我そのものと限定自我の傾向の全般的形成も重要である。ここでは主としてそのような全般的形成を取り上げてみる。
  前述のとおり、イメージの素材はすべて後天的に生成する。また、イメージ情動神経細胞路は(ほとんどまたは実質的に)後天的に活性化される。自我は後天的に生成または活性化されるそれらを重要部分として含む。だから、特定の被限定自我の概略の傾向だけでなく一般の被限定自我の概略の傾向、つまり、(限定)自我の全般的傾向も(ほとんどまたは実質的に)後天的に形成される。思春期以降の人間はそれらが後天的に形成されることをなかなか理解できない。それは、それらの傾向が主として乳児期幼児期前半に形成され、しかも、誰もその時期の出来事を覚えていないからである。乳幼児期から思春期までのそれらの後天的形成の詳細は『悪循環に陥る傾向への直面―習性をもつ動物の心理学』で説明される。この節では全般的形成について説明する。
  全般的形成に関する限りで、先天的行程が少なからず影響している可能性がある。受容体、チャネル、神経伝達物質などの神経細胞の機能を決定づける物質には様々なタイプとサブタイプがあり、タイプ・サブタイプとそれらの活性は遺伝子が先天的に決定づける。活性の高い(低い)物質をもつ神経細胞群または神経細胞路は活性化されやすく(にくく)、高い(低い)活性を維持する。ある限定自我が含むイメージ情動神経細胞路が先天的に活性の高い物質をもち、それらの神経細胞路が活性化されやすく(にくく)、高い(低い)活性を維持し、被限定自我の概略の傾向が全般的に形成されやすく、高く(低く)あり続ける、ということはありえる。ただし、それは個別的形成ではなく全般的形成である。遺伝子が特定の概略だけを標的にするということはありえない。被限定自我の特定の概略の傾向の個別的な形成が最も重要であり、それが後天的な形成であることに変わりはない。

先天的または後天的障害の影響

  中枢神経系の先天的障害または胎生期または分娩時の障害は、記憶、知覚、連想、思考の能力を全般的に低下させる。自然な老化はそれらに緩徐な障害をもたらし、認知症は急激な低下をもたらし、頭部外傷や脳血管障害は突然の低下をもたらす。それらが、自我や自我の傾向に影響を及ぼすとしても、主としてその理性系に影響し、自我が全般的に非理性的になることは避けられない。だが、それらは理性系において被限定自我の概略の傾向を全般的に減退させるだけであり、特定の概略の個別的形成に関与せず、自我の傾向にとって重要ではない。
  情動と自我の情動系はそれらの影響を受けにくい。簡単に言って、それらは頑丈である。だが、うつ病エピソードや統合失調症慢性期では情動と自我の情動系が全般的に希薄になる。だから、自我が全般的に希薄になることは避けられない。だが、障害が特定の自我の概略だけをターゲットにすることは決してない。それらは情動系と理性系において被限定自我の概略の傾向を全般的に減退させるだけであり、特定の概略の個別的形成に関与せず、自我の傾向にとって重要ではない。

理性系において自我の傾向を決定づけるもの

  機能イメージの素材が想起されなければ、その機能イメージを含む被限定自我は生じない。個体の理性系においては機能イメージの想起の傾向が自我の傾向を決定づける。簡単に言って、思い浮かばない方法は実行されない。
  乳児期から現在までに、わたしたちは親、兄弟、友達、教師…など身近な人々の様々な意識的機能を知覚し、それらの意識的機能の機能イメージが生成しまたは更新され記銘保持され想起される。また、自己による意識的機能の試行錯誤も知覚され、それらの機能イメージが生成し記銘保持される。家庭や学校では道徳、倫理などに基づく生き方を教えられる。また、成文法と慣習法とそれらに反したときの制裁も教えられる。また、友達やメディアを通じて様々な遊びや悪徳や犯罪を知る。それらのすべてが機能イメージとして想起されうる。
  繰り返すが、比喩的に、理性系は状況の中で可能で合理的な様々な意識的機能を機能イメージとして提案し、情動系が情動をもってそれらのうちどれを採用し実行するかを決定する。ここでは、同種と同年齢において可能で合理的な意識的機能の概略はほとんどすべてが機能イメージとして想起され提案されている。だから、自我を決定づけるのは、理性系ではなく情動系であり、自我の傾向を決定づけるのは、理性系のそれらを決定づけるものではなく、情動系のそれらを決定づけるものである。
  例えば、ほとんどの個人において、犯罪が可能な状況ではその機能イメージも生起または想起されている。だが、多くの場合、情動系が不安に似た不快の自律感覚を生じ、それを却下し、それは実行されない。

情動系において自我の傾向を決定づけるもの

  結局、どの被限定自我(の概略)が生じるかを決定づける者は、情動系の中の被限定自我の(の概略)傾向であり、情動系の傾向である。
  情動系を逆にたどってみる。前述のとおり、機能的衝動は被限定機能であり、最も強い機能的衝動が他を立ち消えさせて大脳に達し、イメージ機能神経細胞路または機能的神経細胞群の興奮伝達を促進し意識的機能を生じる。最も強い機能的衝動を生じるものは最も強い快の自律感覚である。自我において自律感覚はイメージ情動神経細胞路の興奮伝達から生じる。自我において自律感覚を生じるものはイメージ情動神経細胞路の興奮伝達である。だから、自我の傾向を決定づけるものは、過去にどのイメージ情動神経細胞路がどの程度活性化されたかである。さらに立ち返るなら、意識的機能がどれぐらいの頻度でどれぐらい強く快の情動を過去に生じたかである。
  もう一度、自我の傾向の形成を振り返ってみる。乳幼児期から現在に至る時間の中で、他人と自己の意識的機能が認識されそれらの機能イメージが生成し記銘保持される。それと同時に理性系において、イメージ機能神経細胞路が活性化される。また、それとともに情動系において、意識的機能が生じることによって情動が生じ快不快の自律感覚が生じ、機能イメージの素材から快不快の自律感覚に至る神経細胞路、つまり、イメージ情動神経細胞路が活性化される。それらが乳幼児期から現在に至るまで繰り返され、それらの活性が維持される。現在に状況が認識され、機能イメージが想起され、活性化されたイメージ機能神経細胞路とイメージ情動神経細胞路が興奮し伝達し、後者が快の自律感覚を生じ、機能的衝動を生じ、最も強い機能的衝動が大脳まで達し、イメージ機能神経細胞路または機能的神経細胞群の興奮伝達を促進して、被限定自我の全体が生じ、意識的機能が生じる。それらの中で、自我の傾向を決定づけるのはどのイメージ情動神経細胞路がどれぐらい強くどれぐらいの頻度で活性化されたかであり、結局は乳幼児期から現在に至るまでどの意識的機能がどのような情動をどれぐらいの頻度でどれぐらい強く生じたかである。例えば、乳幼児期に人間関係という状況の中で、幼児が対人機能を生じてみて、疎外されず楽しむことができ、それらが一日に二、三回、数か月繰り返されたとき、対人直面という被限定自我の概略の傾向が形成される。それに対して、幼児が何度も疎外されたとき、対人回避という被限定自我の概略の傾向が形成される。
  だが、前述のとおり、思春期以降の人間には不可解な被限定自我の概略があり、しかも不可解な概略ほど、その傾向は執拗でありなかなか減退しないように見える。それはそれらの傾向が主として思春期以前に、特に乳幼児期前半(三歳まで)に形成されたからである。例えば、母親の愛情が十分なとき、人間の子供は3歳頃にその愛情に辟易し母親から離れて次第に独立する。母親の愛情が希薄なとき、乳幼児はいつまでも愛情を求め母親、乳幼児期以降には一般の人間から離れず付き纏い、一人でいることができない。それを『悪循環に陥る傾向への直面―習性をもつ動物の心理学』は粘着と呼ぶ。それは、被限定自我の概略の一つである。粘着的傾向は思春期以降も続くことがある。思春期を過ぎると、粘着は一人になったときの孤独と不安を増強し多くの苦痛生じる。それでもなかなか粘着的傾向は減退しない。それは乳幼児期に粘着は一時的にせよ苦痛を減じたからである。

自我の傾向と意識的機能の能力

  どの概略に属する意識的機能が生じるかを決定するのが自我の傾向であり、簡単に言って、その意識的機能がどれぐらい上手にまたは下手に生じるかを決定するのが意識的機能の能力である。例えば、自我が対人機能を生じることを決定しても、対人機能能力が未熟ならば、その対人機能はぎこちなく、他人に嘲笑われるかもしれない。だが、だからと言って、自我の傾向において対人回避傾向が形成され、自我が対人機能を生じなければ、対人機能能力はますます未熟にとどまる。
  自我の傾向は、前述のとおり、主としてイメージ情動神経細胞路の活性化によって形成される。それに対して意識的機能の能力は主として機能機能神経細胞路の活性化によって形成される。
  また、被限定自我の傾向が概略を単位として形成されるのに対して、前述のとおり、意識的機能の能力は概略より小さな亜群を単位として形成される。例えば、真摯な対人機能、浅薄な対人機能、ビジネスライクな対人機能…などが対人機能という意識的機能の亜群であり、それらの能力は別個に形成される。ある人が(1)真摯な対人機能と(2)ビジネスライクな対人機能をよく生じ、(3)浅薄な対人機能をあまり生じなかった場合、その人の(1)(2)の能力は高く、(3)の能力は低い。

純粋心的意識的機能と総合機能

意識的機能

  自我について他のことを説明する前に意識的機能を詳しく説明する。そのほうが自我が分かりやすくなると思うので。
  前述のとおり自我を定義すると、意識的機能を自我から直接的に生じることが可能な機能と定義することができる。
  被限定自我とそれから生じる意識的機能を「自我と意識的機能」、わたしが意識的機能をしようとしてそうすることと呼べる。
  何が意識的機能かは、~しようと思ってすぐに~できるかをテストしてみればだいたい分かる。例えば、肘関節を曲げようと思って曲げることができる。だから、肘関節を曲げることは、意識的機能であり、前述の単位的随意運動に含まれる。また、単位的随意運動だけでなく、複合随意運動も意識的機能に含まれる。例えば、座っているとすぐに歩けないが、立つことはでき、立つとすぐに歩くことができる。だから、立つこと、歩くことは意識的機能である。そのように意識的機能が他の意識的機能の段階であることがある。そのように、単位的随意運動と複合随意運動を含む随意運動は意識的機能に含まれる。だが、例えば、随意運動だけでなく下記も意識的機能である。例えば、丸と四角がイメージとして想起されているときに、丸の中に四角をまたは四角の中に丸を内接させようと思って内接させることができる。それは、意識的機能であり、後述するイメージ操作に含まれる。それに対して、例えば、不安、恐怖などの感情は、感じようと思ってすぐに感じることができず、意識的機能ではなく、情動に含まれる。また、心臓の拍動は変えようと思ってすぐに変えることができず、意識的機能ではなく、自律機能に含まれる。
  意識的機能は前述の随意運動と総合機能と後述するイメージ操作と思考に大別される。随意運動は単位的随意運動と複合随意運動に大別され、イメージ操作はイメージの結合、分解、加工…などを含み、思考は狭義の思考、追想、予想、空想に大別され、人間の総合機能は、話し言葉を話すこと、書き言葉を書くこと、食事をすること、水を飲むこと、性的機能、勉強すること、仕事をすること、遊ぶこと、対人機能…などを含む。人間を含む高等な哺乳類では性的機能でさえ意識的機能を含む。例えば、人間は通常、互いに同意し、服を脱ぎ、ベッドまで行き、横たわる…などする。結局、人間の性的機能は意識的機能、情動、自律機能から構成される。

自発的純粋心的機能

  随意運動、総合機能はすべて、意識的機能である。それに対して、純粋心的機能のうち、感覚、知覚、連想、感情、欲求、複合的情動は、自我から直接的に生じるわけではなく、意識的機能ではない。それらが自我から間接的に生じるまたは変化することはある。例えば、自我が対人関係を回避すれば対人不安は減退する。だが、それは間接的にに過ぎない。それらは自我から直接的に生じず、いわゆる「自発的に」生じる。だから、それらを「自発的」純粋心的機能と呼べる。

イメージ操作

  意識的機能は前述の随意運動、総合機能だけでなく、この節で説明されるイメージ操作と後の節のいくつかで説明される思考を含む。
  少なくとも人間では以下のようなことが生じる。
(1)想起されるイメージをどのように操作するかという機能イメージが想起され、 (2)そのような機能イメージを含む自我が生じ、 (3)最初に想起されまだ想起されているイメージが機能イメージのように操作される
ことがあり、(3)の操作は意識的機能である。それを自我の「イメージ操作」、自我がイメージを操作することとも呼べる。
  思考、追想、予想、空想…などのより複雑な純粋心的意識的機能はイメージ操作と連想とより小さな自我から構成される。
  イメージ操作は以下を含む。簡単な例をそれぞれに添える。

(C)イメージの結合
二つの円のイメージを外接させる。
(D)分解
外接させた円のイメージを引き離す。
(T)変形
円のイメージを楕円のイメージに変形する。
(BC)近づけ
遠くで想起される人の顔のイメージを近づける。
(TF)遠ざけ
近くで想起される人の顔のイメージを遠ざける。
(S)切り替え
他の人の顔のイメージを近づけることによってある人の顔のイメージを遠ざけるまたは消滅させる。

  複合イメージは、自我によるイメージ操作がなくても、『感覚とイメージの想起―記憶をもつ動物の心理学』で説明された記憶の中だけでも生成する。だが、自我による結合、分解、変形、再結合…などによって、より複雑な複合イメージが生成する。
  自発的純粋心的機能の中だけではイメージは儚く移ろいやすく、強く記銘されない。それに対して、自我によって操作されたイメージは、ある程度、固定され、強く記銘される。簡単に言って、注意されたものが記憶され、注意されないものは記憶されない。自我がイメージを操作することを自我がそのイメージの素材に注意することとも呼べる。

イメージの切り替えと回避

  『感覚とイメージの想起―記憶をもつ動物の心理学』で説明されたとおり、イメージの想起には比較的な量があり、イメージは比較的に「強く~弱く」想起される。だが、イメージの切り替えでは、視覚的イメージを用いたほうが分かりやすいと思うので、強い~弱いことを視覚的比喩的に「近い~遠い」こととも呼ぶことにする。自我はより遠くで想起されたイメージを近くで想起させることができる。それをイメージの近づけと呼べ、その逆をイメージの遠ざけとも呼べる。だが、後者は前者より困難である。それどころか遠ざけようとすればするほど近づき執拗に想起されるものである。それは自我が遠ざけようとするイメージがその自我が含む機能イメージの一部として想起されているからである。そもそも、自我が想起されていないイメージを直接的に想起させることは不可能である。また、想起されているイメージを直接的に想起されないようにすること、つまり、消し去ることは困難または不可能である。また、一時に一定数以下のイメージが想起され、いくつかのイメージが近くで想起されるとき、他のイメージは遠くで想起されるまたは消滅する。それらのことから、自我は他のイメージを近づけることによってしか想起されていたイメージを遠ざけるまたは消し去ることができない。自我が他のイメージを近づけることによって強く執拗に想起されていたイメージを遠ざけることを自我がイメージをいくつかのイメージから他のイメージへ「切り替える」ことと呼べる。自我がイメージをいわゆる「抑圧」することは困難または不可能であり、自我は多くの場合、イメージを切り替える。
  さらに、あるイメージが不安、自己嫌悪、恥辱…などの強い不快の感情を生じているとき、それらの不快の感情を減じるためには切り替える先はどんな些細なものでもよい。例えば、自己の欠点が想起され、自己嫌悪という苦痛が生じているとき、その苦痛を減退させるためには、切り替える先は自己の些細な美点でも他人の些細な汚点でもよい。自我が不快の感情を生じるイメージを他のイメージに切り替えてその不快の感情を減じることを自我がそのイメージを回避すること、自我によるそのイメージの回避と呼べる。それに対して、自我がその不快の感情を生じるイメージを回避せず操作することを自我がそのイメージに直面することと呼べる。これらの著作はわたしたちはなにごとも回避せずなにごとにも直面しなければならないというのでは全くない。直面する必要があるものが何かを説明する。

単位的イメージ操作と複合的イメージ操作

  以下の意味でイメージ操作は随意運動と類似する。
  それ以上小さなイメージ操作に分離できないイメージ操作を「単位的」イメージ操作と呼べる。例えば、二つのイメージの結合、分解、一つのイメージの近づけ、遠ざけは単位的イメージ操作に含まれる。
  それに対して、複数の単位的イメージ操作から構成されるイメージ操作を「複合的」イメージ操作と呼べる。例えば、多数のイメージの結合または分解は複合的イメージ操作に含まれ、それらはイメージの「構築」または「分解」と呼べる。だが、複雑な複合イメージの構築または分解は多くの場合、思考の中で行われる。
  前述のイメージの切り替えにおいて、他のイメージの近づけによってイメージは自発的に遠ざるから。だから、イメージの切り替えも回避も単位的イメージ操作に含まれる。だから、イメージの回避は誰にも容易である。『悪循環に陥る傾向への直面―習性をもつ動物の心理学』で説明されるとおり、その容易さが最も深い落とし穴である。

イメージ操作の能力と自我の傾向

  意識的機能のうちの随意運動を生じる神経細胞群は前頭葉の機能的神経細胞群に始まりそれより下位を通り運動神経に終わることは確認されている。それに対して、イメージ操作を生じる機能的神経細胞群の所在はまだ確認されていない。だが、以下の(1)(2)(3)のいずれかである。イメージの想起を生じる神経細胞群は後頭葉または側頭葉または側頭葉にある。(1)イメージの操作を生じる機能的神経細胞群がそれらの葉にあるか、(2)機能的神経細胞群が前頭葉にあってそれらの葉に伸びるか、(3)機能的神経細胞群が前頭葉にあって他の神経細胞群に伝達し後者がそれらの葉に伸びるか、のいずれかである。
  いずれにしても、単位的イメージ操作を生じる単位的機能的細胞群は主として先天的に活性化される。だから、単位的イメージ操作の能力は主として先天的に形成される。
  複合イメージ操作を構成する単位的イメージ操作が繰り返されるとき、それらを生じる単位的機能的神経細胞群の間の機能機能神経細胞路が後天的に活性化され、イメージ操作のパターンが記銘され、複合的イメージ操作の能力が形成される。
  さらに、複合的イメージ操作とそれを含む思考に関する限りで、以下のことが可能である。イメージ操作の産物は複合イメージとして記銘され保持され想起され再利用される。さらに、イメージの操作のパターンと思考パターンはイメージイメージ神経細胞路のうちの時間的近さに基づく個々のイメージの素材の間の神経細胞路の中でも記銘保持される。結局、複合イメージの操作の能力は機能機能神経細胞路と一部のイメージイメージ神経細胞路の活性化によって後天的に形成され,それらの能力はそれらの細胞路の活性である。
  イメージ操作は随意運動を含まず、身体能力の制約を受けない。また、直接的には、内的状況の制約だけを受け、外的状況の制約を受けない。簡単に言って、それらに抵抗するものはほとんどない。だから、随意運動や総合機能の能力が未熟な新生児さえもイメージ操作で遊んでいる可能性はある。それなら退屈を少しはしのげる。
  だから、イメージ操作の能力は単位的なものにせよ複合的なものにせよ先天的にせよ後天的にせよ容易に形成される。それ以前に、イメージ操作は容易過ぎて能力は問題にならない。他の多くの意識的機能が自身の能力の制約を受けるのに対して、イメージ操作は能力の制約を受けない。例えば、歩こうと思っても、その能力が未発達または減退していれば、歩けない。それに対して、歩くイメージを操作して想像の中で歩くのは容易い。
  結局、他のほとんどの意識的機能が身体能力と外的状況と自身の能力の制約を受けるのに対して、イメージ操作はそれらの制約をほとんど受けない。簡単に言って、イメージ操作は自由である。
  イメージ操作は他の心的機能とそれらの能力または傾向にとって生産的である。感覚を繰り返すだけでも複合イメージは生成する。だが、イメージの操作と後述する思考によって複雑なイメージが構築される。さらに、イメージの操作の繰り返しによって、複雑な複合イメージが強く生成し記銘され長く保持される。そもそも、自発的な想起や連想によってはイメージは移ろいやすく、長く保持されずすぐに忘れ去られる。自我がイメージを操作するとき、それらはある程度固定され、強く記銘され長く保持される。だから、イメージの操作を注意、注意を払うこととも呼べる。簡単に言って、注意したものはなかなか忘れない。
  また、イメージ操作が繰り返されるうちに、時間的近さに基づく個々のイメージの素材の間の神経細胞路が活性化され、一連のイメージ操作が連想・思考パターンとして記銘、保持され、イメージ操作と連想と思考において再利用される。
  繰り返すが、イメージ操作は容易過ぎてその能力はほとんど問題にならない。自我がこれやあれのイメージ操作をしようと思えば、それは簡単に能力の制約なしにすぐに生じる。イメージ操作はその能力にほとんど係わらず、自我の傾向によって生じる。つまり、自我はイメージの操作と後述する日常的思考に関する限りで自由である。
  だが、ここに落とし穴がある。自我はイメージに直面するのも自由だが、苦痛を生じるイメージを切り替えて回避するのも自由である。苦痛を生じるイメージを回避し、苦痛を減退させることを繰り返しているうちに、イメージ回避の被限定自我の概略の傾向が形成される。イメージ回避の傾向が大きいとき、自己の欠点や未熟やまさしくイメージ回避の傾向がイメージとして想起されると、自我はほとんどいつもそれらを回避してしまい、それらに直面することがほとんどできない。それが最大の悪循環である。

思考

  前述のとおり、感覚、想起、知覚、連想は自発的心的機能であり、自我がなくても生じる。それに対して、イメージの操作、思考は自発的心的機能ではなく、純粋心的機能であり意識的機能であり、自我がなければ生じない。それらを「純粋心的意識的機能」と呼べる。
  人間のイメージの想起、知覚、連想、自我、イメージの操作、思考はほとんどいつも言語イメージを含む。だが、「言語イメージを含む」という表現を逐次していると文章が煩雑になるのでそれを省略することにする。
  少なくとも人間のそれぞれにおいて、

(1)イメージの想起または連想という自発的純粋心的機能



(2)イメージの操作という純粋心的意識的機能

(3)自我

の反復が一つの機能を構成することがある。そのように構成される機能を「思考」と呼べる。例えば、いくつかの問題が複合イメージとして連想され、自我がそれらの問題のいくつかを近づけて問題提起し、いくつかの回答が連想され、自我がそれらのいくつかを操作し、自我がそれらのいくつかを近づけ採用し、または、いくつかを遠ざけて却下し、同じまたは関連するまたは残る問題が連想され…と繰り返される。それが思考の典型である。
  そのように思考の中に自我が含まれる。特に連想された問題と回答の中から一つを近づけ採用するときに自我が働く。そこでは、実践的な思考においては実益に対する期待が、理論的な思考においては矛盾のなさと整合性に対する期待が、一般の思考において好奇心が情動系(動機)として機能する。実践的思考においては大きな利益をもたらさない問題は却下され、理論的思考においては矛盾した回答は却下される。
  自我は少なくとも問題を近づけ提起し、思考を開始することができる。また、自我は問題を切り替え、思考を停止または切り替えることができる。だから、思考は意識的機能に含まれ純粋心的意識的機能に含まれる。
  大きな思考の中にイメージ操作だけでなく小さな思考が含まれることがある。例えば、恋人と会う方法を考えていて、電車で行こうと決め、駅までどうやっていくかを考え始める。また、そのようなより小さな思考が長引いて、いつのまにかより大きな思考に取って替わっていることがある。例えば、駅までどうやっていくかを考えている間に、恋人と会うことを忘れて、車をどうやって手に入れるか考え始めることがある。大きな思考が小さな思考含むとき、両方を思考と呼ぶことにする。
  ここにはより大きな自我が生じるより大きな思考が、より小さな自我が生じるイメージ操作とより小さな思考を含むという重層構造がある。また、自我に着目すると、より大きな自我がより小さな自我を含むという自我の重層構造がある。また、思考に着目すると、より大きな思考がより小さな思考を含むという思考の重層構造がある。

思考を含む自我

  それらの重層構造とは逆の重層構造もある。より大きな自我の中で想起される機能イメージをより小さな自我が操作するまたはそれについて思考する、つまり、より大きな自我がより小さな自我による機能イメージ操作と機能イメージについての思考を含むことがある。特に、何かの意識的機能を生じなければならないがすぐに生じる必要がない状況では、より小さな自我は機能イメージについてゆっくり確実に考える。だが、よく考えてみると以下のことが分かる。機能イメージの想起においては最初は概略が想起される。そこで、より小さな自我が概略を操作して外的状況の中で実行可能な詳細を考える。それからより大きな自我がその詳細を実行する。これはわたしたちが日常生活で通常していることであり、特殊なことではない。例えば、対人回避の概略が機能イメージとして想起され、より小さな自我がそもそも職場や学校に行かないか、職場や学校に行くが対人関係を回避するか…などと考える。自我が対人関係を回避するまた、より小さな自我が機能イメージについて考えているうちに別の状況が突然生じて、より大きな自我が別のより大きな自我に切り替わることもある。また、より小さな自我が機能イメージについて考えているうちに、より大きな自我に含まれていたより小さな思考がより小さな自我を含むより大きな思考になることがある。例えば、対人関係をどう回避するかを考えているうちに、よく回避するわたしや自己とは何かを哲学的または心理学的に考えていることがある。
  だが、よく考えてみると、それは「段階を踏む自我」などの節で説明されたことと重複する。段階を含む自我もそのような重層構造の中にある。

狭義の思考、追想、予想、空想

  思考のうち現実の現在のもの、過去のもの、未来のもの、架空のものの想起が優勢なものをそれぞれ、狭義の思考、「追想」「予想」「空想」と呼べる。
  思考にはイメージの操作または小さな思考が優位なそれと連想が優位なそれがある。後者では思考が自発的に生じているように見える。いわゆる「とりとめもないことを考えていて、ふと我に帰る」というのが後者から前者に移行することである。

心的機能と言語

  人間では、話し言葉が聴覚で感覚され、聴覚的複合イメージとして生成し記銘保持され想起される。また、書き言葉と記号が視覚で感覚され視覚的複合イメージとして生成し記銘保持され想起される。また、点字が、体性感覚で感覚され体性感覚的イメージとして生成し記銘保持され想起されることがありえる。視覚的イメージとして現れる書き言葉、記号、聴覚的イメージとして現れる話し言葉、体性感覚的イメージとして現れる点字…などを「イメージとして現れる言語」「言語イメージ」と呼べる。
  わたしたちは乳幼児期から親などの年長者に言葉だけでなく言葉が指すものも示される。あるいは言葉が何を指すかは状況から明らかな場合もある。だから、言語イメージが生成するまたは更新されるときに、言語が表すもののイメージも生成しまたは更新され、それらの素材の間の神経細胞路が時間的近さに基づいて活性化される。簡単に言って、言語とものが関連付けられる。言語の中の普通名詞は集合を表し、ものを既に分類している。だから、言語は伝達の手段になるだけでなく、複合イメージの分類と体系化を容易にする。
  また、言語の中の文法はそれ自体、連想、思考パターンである。だから、言語は連想と思考を容易にするとともに精巧なものにする。
  もちろん言語は伝達と保存の手段でもある。言語によって複雑な複合イメージ、つまり、観念が生成し記銘保持され想起され、話し言葉として伝達されるだけでなく、書き言葉や記号として世代と地域を超えて伝達され保存される。かくして、人間の歴史の中で、天動説、地動説、天地創造、進化論、哲人政治、民主制…などの複雑な観念が構築される。それらの一部は次のようにして解消または忘却される。

複合イメージの構築、解消、忘却

  複合イメージは自我やイメージ操作や思考がなくても感覚と記憶の繰り返しによっても生成する。また、前述のとおり、複合イメージは思考がなくてもイメージ操作によって構築され解消される。だが、複雑な複合イメージは思考の中で構築され解消され再構築される。
  複合イメージのいくつかは、思考の中でイメージ操作によって、結合され分解され変形され、記憶の中で記銘され保持され想起され、結合され分解され変形され…と続く。そのようにして、複合イメージが、結合が優位を占めるとき、より複雑になることもあり、分解が優位を占めるとき、より単純になることもあり、『感覚とイメージの想起―記憶をもつ動物の心理学』で説明されたように単純に忘却されることもある。個体の思考の中で、結合が優位を占め複合イメージがより複雑になることを複合イメージの「構築」、複合イメージが構築されることと呼べ、分解が優位を占め複合イメージがより単純になることを複合イメージの「解消」、複合イメージが解消されることと呼べ、複合イメージが解消された後で構築されることを複合イメージの「再構築」、複合イメージが再構築されることと呼べる。
  日常でも科学でも、解消と再構築は構築より困難で重要な機能である。例えば、天地創造の解消と進化論の再構築は十九世紀と二十世紀の人々の一部には困難または不可能なことだったし、今でもそうである。だが、そもそも、自我によって操作されず思考されない複合イメージは解消ではなく単純に忘却されることが多い。

観念

  複合イメージの素材のいくつかは、それぞれの個体の自我の中で前節のように構築、解消、忘却されるだけでなく、人間の社会と歴史の中で話し言葉、書き言語、芸術…などによって伝達され、伝達された複合イメージの素材がまたそれぞれの個体の中で構築、解消、忘却され…と続く。そのように構築、解消、忘却、伝達される複合イメージまたはそれらの素材を「観念」または「思想」と呼べる。
  操作され、思考され、伝達されることによって、結合が優位を占め観念がより複雑になることを観念の構築、観念が構築されることと呼べ、分解が優位を占めより単純になることを観念の解消、観念が解消されることと呼べ、解消された後で構築されることを観念の再構築、観念が再構築されることと呼べる。
  社会と歴史の中での観念の解消と再構築は個人におけるそれらよりさらに困難である。何故なら古い観念によって権益と安定を得ている人々が古い観念を守り新しい観念を破壊しようとするからである。地動説に対する天動説、民主制に対する君主制、進化論に対する天地創造説がその典型である。

現実性

  複合イメージは自我がなくても記憶の中だけでも生成する。自我なしに記憶の中だけで生成した複合イメージはすべて、現実的である。より正確には、自我がなければ現実性は問題にならない。
  それに対して、思考の中のイメージの操作によって、現実的でない複合イメージが生成することがあり、現実性が問題となる。また、現実性を巡って研究、論争…などが生じる。
  また、人間は、文学、芸術…などで、敢えて非現実的な複合イメージを構築する。それが「虚構」である。
  さらに、人間は敢えて現実的に見えて実際は非現実的な複合イメージを構築し伝達する。それが「嘘」である。
  また、人間は知らずのうちに現実的に見えて実際は非現実的な複合イメージを構築する。それは「錯覚」または「誤解」に近い。

思考の能力

  思考の産物である前述の観念を含む複合イメージは記銘保持され想起され再利用される。それは個々のイメージの素材を記銘保持する神経細胞群とそれらの間の時間的近さに基づく神経細胞路の活性化活性興奮伝達による。さらに、思考は連想と単位的イメージ操作とそれらから構成される複合的イメージ操作を含む。それらが繰り返されるとき、それらの連続が連想-イメージ操作-思考パターンとして、機能機能神経細胞路と一部のイメージイメージ神経細胞路の活性化活性興奮伝達として維持され再利用される。が含む複合的イメージ操作が繰り返されるとき、イメージ操作を含む。そのようにして思考の能力が形成される。結局、思考の能力は一部のイメージイメージ神経細胞路と機能機能神経細胞路の活性である。

思考の能力と連想の傾向

  意識的機能である思考は自発的機能である連想を含む。連想が優勢な思考は自発的に進行しているように見える。それは日常でよくある。さらに、思考が繰り返され、その能力が形成されることによって、一部のイメージイメージ神経細胞路も活性化され、連想の傾向も形成される。すると、思考においてますます連想が優勢になる。だから、思考が繰り返されることによって、連想がますます優勢になり、思考がますます自発的に進行しているように見える。

思考の能力と自我の傾向

  まず、科学技術や専門的職業における専門的思考と日常生活における日常的思考を区別する必要がある。
  比喩的には専門的思考の能力の形成は先人が通った神経細胞路を辿って活性化して行くことである。そのような活性化は書物を読み講義を聞き議論し実験観察…などすることによって形成される。もちろん、それぞれの専門について膨大な知識を得る必要がある。簡単に言って、専門領域では懸命に勉強する必要がある。観念や思考パターンが再構築されるのはその後である。
  それに対して、日常生活における知識と思考パターンのほとんどは、成文法、慣習法、倫理、宗教…などとして、思春期以前に形成される。思春期以降の自我は、他人、書物…などに相談しようがするまいが、それらを解消または再構築せざるをえない。いずれにしても日常生活における知識と思考は前述の専門的領域におけるそれらほど難しくはない。いずれにしても、専門家やエリートも日常生活を通過しなければ、専門的職業に就くことができない。彼らにとっても日常的人間関係を含む日常生活が不可欠であり、専門的思考より日常的思考のほうが重要である。
  だが、日常生活においては、それらの日常的思考より前述の思考を含む自我のほうが重要である。より正確には、日常的思考は自我に含まれていた思考の延長である。
  さて、前述のイメージの回避におけると同様に、思考において自我は不安、自己嫌悪、恥辱…などの強い精神的苦痛を生じる問題を苦痛を生じない問題に切り替えて、それらを回避する。そのような思考をイメージ回避に含めることにする。例えば、思考の中で自己の欠陥につきあったってしまうと、不安、自己嫌悪、恥辱…などの強い精神的苦痛が生じるので、自我はしばしばそのイメージを回避する。すると、自我が自己の欠陥に直面することがますますできなくなる。それこそが私たち人間の最も重大な悪循環である。そのようなイメージ回避は思考の能力によって生じるのではなく、自我の傾向によって生じる。
  以上のことから思考の能力より重要であり人格の中で最も重要なのは自我の傾向である。

総合機能

  前述の定義によると、総合機能は随意運動と純粋心的機能から構成される。だが、その純粋心的機能は自発的純粋心的機能だけでなく自我によるイメージ操作または思考という純粋心的意識的機能を含む。例えば、言葉を話すことは、自分が話した言葉を知覚しながら正しいか確認しつつ何を話すか考えて発声する総合機能である。つまり、自我と思考を含む。総合機能は言葉を話す、言葉を書く、計算する、機械を操作する、遊ぶ、仕事をする、勉強することや対人機能を含む。
  さらに、より大きな総合機能がより小さな総合機能を含むことがある。例えば、一つの集団が会ってから別れるまでの様々な対人機能を一つのより大きな対人機能と見なすことができる。
  だが、より大きな意識的機能にせよ小さなもにせよ自我によって生じ、それらは意識的機能であることに変わりはない。
  結局、より大きな自我が生じるより大きな総合機能がより小さな自我が生じる随意運動、イメージ操作、思考、より小さな総合機能を含むという重層構造がある。

総合機能の能力

  結局、総合機能が思考と異なる点は、前者が感覚を含む知覚と随意運動を含む点においてである。感覚を含む知覚は外的状況を直接的に認識することであり、知覚を含む総合機能は外的状況の制約を直接的に受ける。また、随意運動は外的状況に直接的に働きかけることであり、随意運動を含む総合機能は外的状況と随意運動の能力の制約を直接的に受ける。例えば、長い会議に参加するには、何時間か座っていなければならず、筋力を要する。
  純粋心的意識的機能の能力はイメージイメージ神経細胞路と機能機能神経細胞路の活性である。複合随意運動の能力は横紋筋の収縮力と機能機能神経細胞路の活性である。総合機能においてはそれらが協調する必要がある。
  総合機能の能力の形成の初期においては、自我が逐次、総合機能を将来構成するイメージ操作と思考と随意運動を生じる。だが、それらを繰り返す間に、(1)一部のイメージイメージ神経細胞路と(2)複合随意運動のための機能機能神経細胞路と(3)純粋心的意識的機能のための機能機能神経細胞路と(4)それらの間の神経細胞路が活性化され、自我が逐次機能しなくても総合機能が生じるようになる。総合機能の段階になって初めて、(1)(2)(3)の間に神経細胞路(4)が存在することが明らかになる。それを「総合神経細胞路」と呼べる。例えば、言葉を話すという総合機能の初期には乳幼児なりの未熟な自我が活発に働いて、自分の言った言葉が正しいのか考えている。だが、それを繰り返すうちに、それらの神経細胞路が活性化される。すると、自我が逐次、考えなくてもよくなる。結局、総合機能の能力は(1)(2)(3)(4)の活性である。しかも、総合機能は外的状況と身体機能の心的機能の両方の能力の制限を受ける。だから、総合機能の能力は意識的機能の能力の中で最も形成が困難である。

意識的機能の亜群

  最初に断っておくが、ここで説明する亜群は前述の自我の概略とも意識的機能の概略とも異なる。そのことをくれぐれも忘れないでいただきたい。
  私たち人間にとって最も重要な意識的機能は対人機能であり、最も重要な意識的機能の能力は対人機能能力である。もう少し詳細に見てみると、真摯な対人機能、浅薄な対人機能、ビジネスライクな対人機能…などの特殊な対人機能があり、それぞれの能力が別個に形成されることが分かる。例えば、真摯な対人機能能力が発達した人においてはビジネスライクな対人機能能力は発達していないことが多く、そのような人は量的に仕事の効率が低いが、質的によい仕事をすることが多い。
  そのように見ていくと、単位的随意運動を除いて、意識的機能には「亜群」があり、それらの能力は別個に形成されることが分かる。つまり、自我の傾向が概略を単位として形成されるのに対して、意識的機能の能力は亜群を単位として形成される。例えば、歩く能力についてさえも、優雅に歩く能力、威厳をもって歩く能力、質素に歩く能力…などは別個に形成され、優雅に歩いていた人が急に質素に歩くことは困難である。

複雑な自我

自我の多重構造

  まず、機能イメージが明確で強く想起され、機能的衝動が強く生じる被限定自我を明確で強い自我と呼べる。逆に、機能イメージが曖昧に弱く想起され、機能的衝が弱く生じる自我を曖昧で弱い自我と呼べる。
  前章で説明された通り以下の意識的機能に係る自我の多重構造が可能である。

(1)より大きな自我が生じるより大きな思考がより小さな自我が生じるイメージ操作とより小さな思考を含む。
(2)より大きな自我が生じるより大きな総合機能がより小さな自我が生じるイメージ操作と思考とより小さな総合機能を含む。
(3)より大きな自我がより小さな自我が生じる機能イメージの操作と思考を含む。

  (1)(2)(3)においては、大きな自我または意識的機能は小さな自我または意識的機能よりゼロコンマ数秒から数秒早く生じている。
  (1)(2)(3)において、より大きな自我がより大きな意識的機能を開始するときは、より大きな自我が明確に強く生じている。それに対して、より小さな自我がより小さな意識的機能を生じるときには、より小さな自我が明確で強く生じ、より大きな自我は曖昧に弱く生じている。だから、そのような自我の重層構造が可能になる。

段階または手段としての意識的機能

  前節のような重層構造が明らかになると、「自我」の章で説明された手段を踏む自我は重層構造(1)(2)の中の小さな自我であることが分かる。また、段階または手段としての意識的機能は(1)(2)の中のより小さな意識的機能であり、より大きな意識的樹機能のための段階または手段であることが分かる。例えば、化粧をして、何を着るかを考え、服を着るのは恋人に会うための段階または手段である。また、試験管を洗うことは実験をするための段階または手段であり、実験は研究のための段階または手段である。そのように見ていくと日常生活と科学のほとんどは段階または手段であることが分かる。

思考を巻き込む自我

  人間の自我の中ではときに、機能イメージが想起され想起された機能イメージがすぐに快不快の自律感覚を生じるのではなく、機能イメージを自我が操作または思考し修正した後で快不快の自律感覚が生じ、自我の全体が生じ、修正された意識的機能が生じる。そこにはより大きな自我がより小さな自我が生じる機能イメージの操作または思考を巻き込むという重層構造(3)がある。そのような大きな自我を思考を巻き込む自我と呼べ、そのような小さな自我によるイメージ操作と思考を自我に巻き込まれる思考と呼べる。
  そのような思考を巻き込む自我は複数の機能イメージが想起される内的状況で、どれを選択するかを考える時間がある外的状況で生じることが多い。
  複数の意識的機能を生じることが可能だがそのような時間がない状況では、自我と思考が中途半端に終わり、中途半端な意識的機能が生じるか何も生じない。例えば、サッカーでパスするかシュートするか迷ったときは、どちらもできないことがある。

自我の内的状況としての情動

  前述のとおり、一般に個体の心的機能の状況は外的状況と内的状況に区別される。内的状況は個体の神経系を含む身体の中にあり、外的状況は個体の身体の外にあり、両者ともに個体に認識されうる。自我の状況についても同様である。
  自我の外的状況の中で最も重要なのは、当然、人間関係である。人間関係は生活するためにも仕事や勉強をするためにも遊ぶためにも重要である。
  自我の内的状況の中で最も重要なのは自己の情動である。情動は知覚され、自我の中で認識され、思考を介してまたは介さずに、快を増大または維持し不快を減退させる意識的機能の機能イメージが想起され、自我とその意識的機能が生じる可能性をもつ。例えば、強い空腹が知覚されると、自我は当然、食物を食べる方法を考える。また、何かに恐怖や不安を覚えるときはそれを生じるものを回避する方法を考え、危険を防止する。恐怖と不安という苦痛を減退させることは、危険を防止する手段でもある。
  また、情動の傾向も比較的認識されやすい。例えば、ほとんどの人が自分は不安の傾向が小さいとか、全般的なまたは対人のまたは一人になることへの不安の傾向が強いとか認識している。
  その他の内的状況として認識しやすいものとしては意識的機能の能力がある。多くの場合、自我は自己の意識的機能の能力を認識し無理をしない。極端な例だが、人間は鳥のように飛ぶ能力がないことが分かっているから、自我はそのようには飛ぼうとしない。

自我を促進または抑制するものとしての情動

  情動は自我の内的状況として認識されるだけではなく、前述のように、自我に含まれると見なせる場合がある。さらに、情動が自我に含まれると見なせないが、次のようにして自我を促進または抑制することがある。
  自我の機能イメージと精神的情動の対象イメージが重なる、または、自我と情動がイメージ情動神経細胞路を共有することがある。だから、精神的情動が自律感覚、機能的衝動、特定の被限定自我(の概略)を促進または抑制することがある。つまり、情動が特定の被限定自我(の概略)を生じやすくしたり生じにくくすることがある。例えば、対人関係を生じようとする被限定自我の機能イメージと対人不安の対象イメージは重なり、その被限定自我を抑制する。簡単に言って、対人不安が強いときは対人機能を生じる自我は生じにくく、対人欲求が強いときはそれらは生じやすい。
  だが、それはあくまでも、精神的情動、つまり、感情、欲求、複合的情動に限る。快不快の感覚と欲動という身体的情動は、前述のようにして自我によって認識されるか、前述のようにして自我を促進または抑制するのではなく、後述のようにして自我を混乱させる。それは身体的情動はイメージの想起もイメージ情動神経細胞路の興奮伝達も含まないからである。身体的情動は直接的には機能的衝動と異なる衝動を生じ、自我の理性系を混乱させる。例えば、人が手に突然の強い痛みを受けたとき、自我は何もできず、人は反射的に叫んで手を引くだけである。

自我と欲求

  前述のとおり、あるものを得るまたは持つまたはそのものと関係することのイメージが想起され、それらから快の感情が生じることが、そのものへの「欲求」またはそのものを得ようまたは持とうまたはそのものと関係を持とうとする欲求である。また、そのものが欲求の対象である。また、その対象のイメージが欲求の対象イメージである。
  欲求も精神的情動の一種であり、前節で述べたように自我の内的状況となりえ、自我に含まれえ、自我を促進または抑制しうる。
  欲求の対象イメージと自我の機能イメージの違いについては前に説明した。ここではそこで説明しなかったことを説明する。
  機能イメージ、自我、自我の傾向が認識しずらいのに対して、対象イメージ、欲求、欲求の傾向は認識しやすい。例えば、何でも支配する被限定自我の概略の傾向が強いことを認識しない人も自分は権力欲求が強いと認識している。また、欲求は他人に語りやすい。また、欲求は倫理、宗教などで推奨されやすく、その推奨が欲求の傾向を形成することがある。また、後者は粉飾して語られ認識されることがある。例えば、従来の資本主義では権力とカネへの欲求が美化されたし、従来の共産主義では自由への欲求が無視された。
  それらに対して、機能イメージ、自我、自我の傾向は、不幸なことに、認識されにくく、語られにくく、推奨されにくい。だが、幸いなことに、粉飾されにくい。

自我の傾向と意識的機能の能力と精神的情動の傾向

  最も重要な例を挙げる。乳幼児期に家庭またはその周辺で暴力、無視、疎外…などによる苦痛のような身体的または精神的な苦痛を受けたとき、対人不安の傾向が形成され、それ以降、強い対人不安が持続する。そのために自我の中で対人機能が機能イメージとして想起されても対人不安に似た強い不快の自律感覚が生じ、その被限定自我は生じない。それに対して、対人回避が機能イメージとして想起されると期待に似たわずかな快の自律感覚が生じ、その被限定自我が生じる。自律感覚のほとんどが強い不快であるとき、そのようなわずかな快の自律感覚からも最も強い機能的衝動が生じ、対人関係を回避しようとする自我が生じる。対人回避が持続的または反復的に生じると、対人回避しようとする被限定自我の概略の傾向が形成される。すると、対人回避以外の対人機能は生じず、対人機能という意識的機能の能力は形成されず未熟にとどまる。すると、その子供はますます疎外される。すると、対人不安はますます強くなる。それらが繰り返される。悪循環である。それに対して、子供が苦痛をあまり生じない人間関係の中に少しずつ入って行き、対人機能を少しずつ生じるとき、自我の対人回避傾向は少しずつ減退し、対人不安の傾向が少しずつ減退し、対人機能能力は少しずつ形成されていく。そのように、意識的機能の能力と精神的情動の傾向を決定づけるのは自我の傾向である。前者より後者のほうが重要である。

イメージからの回避

  想起されるイメージはイメージ情動神経細胞路の興奮伝達を生じ快不快の自律感覚を生じえる。それが端的に言って、感情と欲求である。また、想起される機能イメージも同様に快不快の自律感覚を生じえる。それが自我の情動系の部分である。さらに自我は『イメージの操作』の節で説明されたようにイメージを切り替えることができる。考えてみれば驚くべきことだが、自我は不快の自律感覚を生じるイメージを他に切り替えて一時的に不快を減退させることができる。それを自我がイメージを「回避する」こと、自我によるイメージ回避と呼べる。イメージ回避は特殊ではなく日常でよくある自我による意識的機能である。例えば、わたしたちは過去の恥ずかしい振る舞いを考えないようすることがあるが、それはイメージ回避に含まれる。
  最も重大なのは、『悪循環に陥る傾向への直面―習性をもつ動物の心理学』で説明されるとおり、自我がイメージとして想起される自己の自我の(概略の)悪循環に陥る機能と傾向を回避することである。イメージとして想起される粘着性、自己顕示性…などの自己の陥る傾向は自己嫌悪、恥辱、不安…などの強い苦痛を生じるので、自我はそれらを自己の権力、美貌…などに切り替えて回避する。その結果、陥る習性は一向に減退しない。これこそが最大の悪循環である。

被限定自我の強さ

  一時に複数の被限定自我(e1, e2, …)と意識的機能が生じることがある。例えば、歩きながら考えているとき、考えようとする被限定自我と歩こうとする被限定自我と思考という意識的機能と歩行という意識的機能が一時に生じている。その場合、(e1, e2, …)の機能イメージの想起、快不快の自律感覚、機能的衝動の強さ明確さに比較的な差がある。例えば、いつもの道を歩き(e2)ながら複雑なことを考え(e1)ているとき、e1のそれらはe2のそれらより強く明確に生じる。そのような場合、e1を「強い被限定自我」と呼べ、e2を「弱い被限定自我」と呼べる。
  さらに、e3の機能イメージが最も鮮明で強く想起され、e4の快不快の自律感覚と機能的衝動が最も強く鮮明に生じるということがありえる。例えば、道のりを変えることを考え(e4)ながらも、険しい道を歩いている(e3)とき、e4の機能イメージがe3のそれらより鮮明で強く想起され、e3の快不快の自律感覚と機能的衝動がe4のそれらより強く明確に生じる。そのような場合、e3を「情動が強い被限定自我」または情動的被限定自我と呼べ、e4を「理性が強い被限定自我」または理性的被限定自我と呼べる。
  また、数秒から数分の間に次々と生じる被限定自我(et1, et2, …)の間にも同様のことが言える。例えば、休日に家にいて(et1)、遊びに出かける(et2)とき、et2の機能イメージの想起と快不快の自律感覚と機能的衝動はet1のそれらより強く鮮明に生じる。その場合、et1を弱い被限定自我と呼べ、et2を強い被限定自我と呼べる。怒りから何かを破壊しかけて(et3)、思い止まる(et4)とき、et4の機能イメージはet3より鮮明に強く想起され、et3の快不快の自律感覚と機能的衝動はet4のそれらより強く生じる。その場合、et3を情動が強い被限定自我または情動的被限定自我と呼べ、et4を理性が強い被限定自我または理性的被限定自我と呼べる。

半自動的意識的機能

  例えば、自我は、バッグを持って駅まで歩きながら、恋人のことを考えることができる。考えること(1)、歩くこと(2)、持つこと(3)はすべて、意識的機能である。そのように一時に複数の被限定自我と意識的機能が生じることはある。だが、(2)(3)の自我は曖昧で弱く、(2)(3)の意識的機能は「自動的」に進行していると見なせる。だが、そのように自動的に進行することができる意識的機能は単位的随意運動と複合的随意運動に限られる。総合機能と純粋心的意識的機能は自動的に進行しえない。前の例では(1)は自動的に進行しえない。そのように自動的に進行しえる意識的機能を「半自動的」意識的機能と呼べる。
  「自動的」という言葉に「半」という接頭辞を付けたのは以下の理由による。
  半自動的意識的機能でもそれを始めるときや状況に意識的機能に係る大きな変化が生じたときは自我が活発に働いている。例えば、歩き始めるときには、自我はどれぐらい早く歩くかまたは歩くか走るかを考えながらそうする。バックがずりおちそうなときは、自我はどうすればずりおちないか考えながら持ち直す。
  また、能力が形成されつつある複合的随意運動をするときにも自我が活発に働いている。例えば、いつも優雅に歩いて来た人では、質素に歩く能力が発達していない。そういう人が質素に歩こうとするときは、どうやったらそのように歩けるのか自我が活発に働いて考えている。
  ところで、思考も自動的に進むことがあるように見える。だが、思考は連想と自我によるイメージの操作とより小さな思考と自我から構成される。連想が優勢な思考が半自動的に進行するように見えることはあるが、連想は意識的機能ではなく自発的心的機能である。だから、より正確には、連想が優勢な思考は「自発的に」進行するように見えると言わなければならない。そのような自発性と半自動性とは区別される必要がある。自発性が最初から自発的であるのに対して、半自動性は最初、つまり意識的機能の能力の形成の段階では意識的だったのである。
  だが、前述のとおり、思考が繰り返されることによって、思考の能力が形成されるだけでなく連想の傾向が形成され、思考の中で連想がますます優位になり、思考はますますの自発的に進行しているように見える。
  また、総合機能は随意運動を含む。総合機能の中で随意運動の比重が高くなるとき、総合機能は半自動的意識的機能に近づく。例えば、機械を操作するという総合機能は繰り返しているうちに、ますます半自動的に生じているように見える。だが、機械の自動性と比較するとあくまでも半自動的である。

慣性的自我

  半自動的意識的機能が生じるとき、段階または手段としての意識的機能が生じるとき…などには最初は強いが後は弱い自我が生じている。そのような弱い自我を「慣性的」自我と呼べる。簡単に言って、わたしたちの日常生活のほとんどは慣性である。

自我の自由

  さて、一見して自由に見えた自我が自身の傾向と慣性と情動にとらわれておりそんなに自由でないことが分かる。さらに、自我は『悪循環に陥る傾向への直面―習性をもつ動物の心理学』で説明される自身の悪循環に陥る傾向にとらわれている。だが、同じその著作で説明されるようにして、自我が自身の傾向を再形成することは可能である。自我がそうするとき自我は最も自由に近い。では、『悪循環に陥る傾向への直面―習性をもつ動物の心理学』へ進もう。

参考文献

感覚とイメージの想起―記憶をもつ動物の心理学(日本語訳)

悪循環に陥る傾向への直面―習性をもつ動物の心理学(日本語訳)

生存と自由(日本語訳)

小説『二千年代の乗り越え方』略称"2000s"

[訳注:この日本語訳に関するお問い合わせはNPO法人わたしたちの生存ネットまでお寄せください。]
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