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自我をもつ動物の心理学

この著作とわたしたちの生存ネットの他の著作との関係

 この著作では、この『自我をもつ動物の心理学』を「この著作」とも呼ぶことにする。この著作の基礎に『記憶をもつ動物の心理学』がある。だから、できればその著作を読んだ後でこの著作を読んでいただきたい。だが、その著作を読まなくてもこの著作が読めるようにしてみる。『記憶をもつ動物の心理学』とこの著作と『習性をもつ動物の心理学』を「これらの著作」とも呼ぶことにする。これらの著作は一つの著作を構成する章とも考えられる。これらの著作を一つの著作として『記憶以上をもつ動物の心理学』とも呼ぶことにする。これらの著作と『生存と自由』と『わたしたちの生存ネット』と『生存と自由のための権力分立制』と『特定のものと一般のもの』を「OUR-EXISTENCE.NETの中の著作」または「これらの著作」とも呼ぶことする。
 この著作では、物質、生物、身体、動物、人間、神経系、神経細胞群、機能、生物機能、身体機能、動物機能、人間機能、神経機能、神経細胞群の興奮と伝達、物、それらが存在し機能すること、現れるもの、イメージとして現れるもの、イメージ、イメージの素材、感覚、記憶、イメージの想起、知覚、連想…などの言葉は『記憶をもつ動物の心理学』と同じものを指す。いずれにしても、神経系は身体に含まれ、身体は生物に含まれ、生物は物質に含まれ、神経機能は身体機能に含まれ、身体機能は生物機能に含まれ、機能る。神経機能は感覚、記憶、イメージの想起、知覚、連想…などを含む。
 『生存と自由』『生存と自由の詳細』では動物の種、人間の種が重要であるから、動物、人間という言葉は通常、それらの種を指した。それに対して、これらの著作では、それらの個体が重要であるから、動物、人間という言葉は通常、それらの個体を指すことにする。

随意運動、純粋心的機能、総合機能、自律機能

随意運動

 以下で説明する単位的随意運動と複合随意運動を「随意運動」と呼べる。
 大脳の前頭葉の運動野から脊髄と運動神経を経てまたは脳神経を経て横紋筋に至る神経細胞群の興奮と伝達と横紋筋細胞群の興奮と収縮から生じ、それ以上、分離できない運動機能を「単位的随意運動」と呼べる。単位的随意運動は関節の屈伸、舌の上下左右運動と屈伸、声帯の開閉と緊張弛緩、眼球の上下左右運動と回転運動、顔の部分の緊張弛緩を含む。
 複数の単位的随意運動から構成される運動を「複合随意運動」とも呼べる。例えば、人間の直立二足歩行は、左肩関節前屈、右肩関節後屈、左股関節後屈、右股関節前屈…などの単位的随意運動から構成される複合随意運動である。脊椎動物の複合随意運動は歩く、走る、泳ぐ、飛ぶ、鳴き声を出す…などを含む。人間の複合随意運動は直立二足歩行、直立二足で走る、クロール、バタフライ…などで泳ぐ、跳躍、音節や短い単語を発音する…などを含む。ところで、長い単語を発音する、句、節、文を話すことは、後述する総合機能に含まれる。何故なら、自分が話した言葉を知覚しながら次に何を話すかを思考しなければならないからである。また、言葉を書く、入力することも総合機能に含まれる。
 随意運動は後述する意識的機能に含まれる。

純粋心的機能

 感覚またはイメージの想起から構成され、随意運動を含まない機能を「純粋心的機能」と呼べる。純粋心的機能は感覚、イメージの想起、知覚、連想、快不快の感覚、欲動、感情、欲求、自我、思考を含む。
 イメージの想起、知覚、連想、感情、欲求、自我、思考…などはイメージの想起を含む。感覚、快不快の感覚、欲動はイメージの想起を含まない。

総合機能

 純粋心的機能と随意運動から構成される機能を「総合機能」と呼べる。人間の総合機能は、言葉を話す、言葉を書く、人と話をする、遊ぶ、勉強する、仕事をする、対人機能を含む。例えば、人間が言葉を話すことは、自分が話した言葉を知覚し、次に何を話すかを考え、口、舌、喉頭…などを動かすことであり、少なくとも、知覚、思考、随意運動を含み、総合機能である。

対人機能

 他の人間と話をする遊ぶ勉強する仕事をする、付き合う別れる、争う仲直りする、人を避ける…などの他の人間と係る総合機能を「対人機能」と呼べる。対人機能は人間が生存するために最も重要な機能である。
 直面と回避については『習性をもつ動物の心理学』で説明する。対人機能は対人直面と対人回避を含む。簡単に言って、対人不安があっても人と付き合うことが対人直面である。それに対して、対人不安があるから人を避けることが対人回避である。人と争うことと対人直面は同一では全くない。そのことを忘れないでいただきたい。人と争うことは対人直面であるより対人回避であることが多い。人と和解することは対人直面であることが多い。対人直面、対人回避には単純なそれらと複雑なそれらがある。例えば、対人不安のために職場や学校に行かないことは単純な対人回避であり、うすっぺらいことしか話さない、近寄り難い雰囲気を作るは複雑な対人回避である。

心的機能

 純粋心的機能と総合機能を「心的機能」とも呼ぶことにする。

自律機能

 感覚もイメージの想起も随意運動も含まない身体機能を「自律機能」と呼べる。
 自律機能は、心臓、血管、肺の収縮拡張、消化管の運動、消化、吸収、内分泌、外分泌、免疫、排泄(直腸からの排便、膀胱からの排尿を除く)を含む。ところで、少なくとも人間のほとんどでは直腸からの排便、膀胱からの排尿は、自律機能と言いきれない。何故なら、予定を考えて早めに行くからである。

状況

 物質または機能の「状況」という言葉は『記憶をもつ動物の心理学』で定義された。この章では補足する。「状況」という言葉では個体または社会の状況がイメージされがちである。だが、個体の身体とその機能の部分としての物質または機能の状況に関する限りで、その状況のある部分は個体の中にあり他の部分は外にある。例えば、個人が対人不安に襲われ、対人回避する方法を考えるとき、そのような思考の主要な状況はそのような不安でありそれは個人の中にある。対人不安が特定の人々によって増強されたとすれば、そのような人々はそのような不安とそのような思考の状況の一つであり、それは個人の外にある。個体の身体と身体機能の部分としての物質または機能の状況に関する限りで、個体の中の部分を「内的」状況または身体状況とも呼び、個体の外の部分を「外的」状況とも呼ぶことにする。前述の例では、そのような不安はそのような思考の内的状況の主要部分であり、そのような人々はそのような不安とそのような思考の外的状況の部分である。
 状況に関する限り、一般に、法学、政治学、経済学、社会学では社会の全体と部分の内的状況と外的状況と個人の外的状況が重要であり、生物学では個体の全体と部分の内的状況と外的状況が重要であり、心理学では個人の心的機能の内的状況と外的状況が重要である。
 だが、一般に物質、物質機能、状況…などの言葉は身体、身体機能、内的状況…などを除くそれらを指すことが多い。そこで、この著作でもときにそのような用語法を用いることにする。

対象、手段

 ほとんどの機能は対象と手段と状況を属性としてもつ。例えば、対人機能について、一般の人間がその対象である。また、話し言葉、書き言葉、電話、メール…などがその手段である。また、職場、学校…などがその外的状況であり、対人不安、対人欲求…などがその内的状況である。

情動

 この章で説明される快不快の感覚、欲動、感情、欲求、複合的情動を情動と呼べる。

快不快の感覚

 『記憶をもつ動物の心理学』で定義されたとおり、快不快を属性としてもつ嗅覚で現れるもの、平衡感覚で現れるもの、味覚で現れるもの、体性感覚で現れるもの、自律感覚で現れるものを「快不快の感覚で現れるもの」と一般的に呼び、快不快の嗅覚で現れるもの、快不快の平衡感覚で現れるもの、快不快の味覚で現れるもの、快不快の体性感覚で現れるもの、快不快の自律感覚で現れるものと個別的に呼べる。快不快の感覚で現れるものの中の、快の属性が比較的に優勢な空間的時間的部分を「快の感覚で現れるもの」と呼び、不快の属性が比較的に優勢な空間的時間的部分を「不快の感覚で現れるもの」と呼べる。快不快の感覚で現れるもの、快の感覚で現れるもの、不快の感覚で現れるものを生じると前提される神経機能を「快不快の感覚」「快の感覚」「不快の感覚」と呼べる。
 皮膚、骨、横紋筋、健の痛さ、痒さ、暑さ、寒さは快不快の体性感覚に含まれ、動悸、息苦しさ、吐き気、飢え、渇きは快不快の自律感覚に含まれる。
 視覚、聴覚を除く感覚は快不快の感覚である。視覚、聴覚は快不快の感覚ではない。例えば、眼、耳の痛さは体性感覚または自律感覚または精神的苦痛を表す比喩である。
 直接的間接的に、快不快の感覚は、記憶、イメージの想起、知覚、連想…などだけでなく、神経系、特に自律神経系、内分泌系、免疫系…などの広範に及ぶ様々な機能を生じる。例えば、皮膚の痛さは動悸、発汗…などを自律神経系、内分泌系…などを介して間接的に生じる。

欲動

 以下の属性をもつ身体機能を「欲動」と呼べる。

(d1)快不快の感覚を含む。
(d2)それに固有の機能がほとんど生じないとき、それに固有の不快の感覚が生じる。
(d3)それに固有の機能がある程度、生じるとき、(d2)の不快の感覚が減少し、それに固有の快の感覚が生じる。
(d4)それに固有の機能が過度に生じるとき、それに固有の不快の感覚が生じることがある。
(d5)それらを反復する。

 まず、食欲、飲水欲が欲動に含まれることは明らかである。前者を「摂食欲動」とも呼び、後者を「飲水欲動」とも呼ぶことにする。次に、性欲はそれらほど明らかでないが、欲動に含まれる。それを「性的欲動」とも呼ぶことにする。また、群れようとする欲動、支配しようとする欲動、防衛しようとする欲動…などがありえる。
 (d1)〜(d5)のうち(d2)を欲動「不満」、欲動が不満なこととも呼び、(d3)を欲動「満足」、欲動が満足されることとも呼び、(d4)を欲動飽満、欲動に辟易することとも呼ぶことにする。
 快不快の感覚と欲動は、進化の中で発生した機能であり、既に個体と種が生存するのに適した機能になっている。例えば、快不快の体性感覚に含まれる皮膚の痛さは外傷が皮膚より深い重要な器官に及ぶのを防ぐ。快不快の自律感覚に含まれる動悸、息苦しさは過労を防ぐ。食欲と飲水欲は栄養失調と脱水を防ぐ。性的欲動はほとんどの動物の種の生存に決定的な機能である。

『記憶をもつ動物の心理学』の復習

 『記憶をもつ動物の心理学』で説明されたとおり、 光景、音、臭い、めまい、味、痛さ、暑さ、寒さ、動悸、息苦しさ、飢え、渇き、吐き気、イメージ、アイデア…などを「現れるもの」と呼べる。
 粗雑ではあるが、現れるものは感覚で現れるものとイメージ(=イメージとして現れるもの)に大別される。簡単に言って、思い浮かぶもの、思い出されるもの、予期されるもの、想像されるもの…などがイメージである。
 他の個々のイメージまたは感覚で現れるものより、空間的時間的に近くで現れる複数の個々のイメージを「複合イメージとして現れるもの」「複合イメージ」「複合イメージとして現れるもの」「複合イメージ」「イメージとして現れるもの」「イメージ」と呼べる。また、複合イメージとして現れるものまたは知覚で現れるものまたは連想で現れるものをイメージとして現れるものまたはイメージとも呼ぶことにする。数秒以上の時間的広がりをもつ特定のもの、一般のもの、抽象的なもの、自己…などはイメージとして現れる。
 現れるものを素材として生じると前提されるものそのものを現れるものの「素材」とも呼び、特に、イメージを素材として生じると前提されるものそのものをイメージの素材、イメージと呼べる。つまり、イメージという言葉は、現れるものの素材に含まれるイメージの素材も、現れるものに含まれるイメージも指すことができる。
 イメージを生じると前提される神経機能をイメージの想起または想起またはイメージが想起されることまたはものがイメージとして想起されることと呼べる。「想起」という言葉は、日常では過去の出来事が思い出されることを指しがちだが、過去のものだけでなく、現在のものを考えること、未来のものを予期すること、非現実的なことを空想すること、夢を見ること…なども指すことにする。
 粗雑ではあるが、感覚の素材とイメージの素材が認識され切り取られてイメージの素材が生成し、イメージの素材が記銘され保持され、生起し、一時に(n)以下のイメージが再生され想起される。
 想起されるイメージの素材と想起されないイメージの素材は区別される必要がある。何故なら、後者が何らかの機能を生じるとすれば、それらのいくつかはいわゆる「無意識」でありえるからである。想起されるイメージの素材を想起されるイメージの素材、想起されるイメージ、イメージとして想起されるもの、想起されるものと呼べる。だが、それらの区別を強調する必要がない場合は、想起されるイメージの素材をイメージの素材またはイメージとも呼ぶことにする。

イメージ情動神経細胞路

 前述のとおり、快不快の感覚はすべて、記憶、イメージの想起、知覚、連想…などだけでなく、神経系、特に自律神経系、内分泌系、免疫系…などの広範に及ぶ様々な機能を生じる。例えば、快不快の体性感覚に含まれる皮膚の痛さは自律感覚に含まれる動悸、息苦しさと前述の自律機能に含まれる発汗、エピネフリンの内分泌…などを生じる。
 何より、快不快の感覚のほとんどは動悸、息苦しさ、吐き気…などの快不快の自律感覚を生じる。
 さらに、自律感覚のほとんどは内的状況によってのみ生じる。例えば、自律神経系と内分泌系は血圧を感知し、心拍数を増し、動悸と言う自律感覚を生じる。また、それらの系は血液の浸透圧や血糖を感知し、渇きや飢えという自律感覚を生じる。それに対して、光、音という外的状況がなければ視覚、聴覚は生じない。体性感覚は炎症という内的状況によっても生じるが、主要な成因は圧力、熱という外的状況である。
 さらに、以下に説明するとおり、自律感覚は想起されるイメージから生じえる。
 『記憶をもつ動物の心理学』で説明されたとおり、イメージの素材のうちの神経素材は神経細胞群の興奮、伝達、または活性である。さて、イメージの神経素材が通る神経細胞群からから快不快の自律感覚を生じる神経細胞群に向けて、神経細胞路が存在し機能し、先天的に活性化されておらず、後天的に時間的近さに基づいて活性化される可能性をもつ。そのようなイメージの神経素材から快不快の自律感覚に至る神経細胞路を「イメージ情動神経細胞路」とも呼ぶことにする。

感情

 さて、
(1)いくつかのイメージの素材が認識、記銘、保持される。
(2)いくつかの情動が生じることによっていくつかの快不快の自律感覚が生じる。
(1)(2)が時間的に近くで生じ繰り返されたとき、
それらのイメージの素材からそれらの快不快の自律感覚へのイメージ情動神経細胞路が活性化されることがある。
(3)次にそれらのイメージの素材が想起され認識されたときに、
活性化されたイメージ情動神経細胞路が興奮し伝達し、 快不快の自律感覚が生じることがある。
(3)の、
イメージ情動神経細胞路の興奮と伝達、
快不快の自律感覚
をそれらのイメージの素材についての、への、に対する「感情」とも呼ぶことにする。
 例えば、母親に虐待される乳児の身体、特に神経系の中で、
(1)母親のイメージの素材が認識、記銘、保持される。
(2)皮膚の痛さが生じることによって動悸、息苦しさなどの不快の自律感覚が生じる。
(1)(2)が時間的に近くで生じ繰り返されたとき、
母親のイメージの素材からそれらの不快の自律感覚へのイメージ情動神経細胞路が活性化され、
次に母親のイメージの素材が想起され認識されたときに、
それらの活性化されたイメージ情動神経細胞路が興奮し伝達し、
動悸と息苦しさなどの不快の自律感覚が生じる。
それが特定の人間または一般の人間に対する不安または恐怖という感情である。それに対して、乳児に飢えや渇きが生じているときに、母親がだっこをして授乳することを繰り返すと、乳児の身体の中で、母親のイメージの生成と適度な動悸と息苦しさが時間的に同時に生じ、母親のイメージが想起されたときにそれらの快の自律感覚が生じるようになる。それが特定の人間または一般の人間に対する期待または安心という感情である。
 感情は不安、恐怖、期待、安心、他人に対する嫌悪、自己嫌悪…などを含む。
 感情の一部はいわゆる「条件付け」の一部の実体である。例えば、パブロフの犬でさえも食物に対する期待をもっていた可能性がある。そのように、人間だけでなく、少なくとも進化が進んだ哺乳類が感情をもつ可能性がある。また、前述の例のように、人間の乳児は単純な感情をもつ。当然、幼児期以降の人間は様々で複雑な感情をもつ。
 感情を生じる素材は広がることが多い。例えば、学校や職場の人間に不安があるとき、学校や職場の建物、それらへの通学路、通勤路…などからも不安が生じるようになる。それが、「不安が不安を呼ぶ」と呼ばれるものの実体である。また、いわゆる「条件付け」の一部の実体である。そのように広がった素材から快不快の自律感覚が生じることも感情に含まれる。
 感情が生じているときに、つまり、イメージの素材が快不快の自律感覚を生じているときに、時間的に近くに別のイメージの素材が想起されたとき、後者からのイメージ情動神経細胞路が活性化され、後者がそれらの快不快の自律感覚を生じることがある。それらも感情に含まれる。つまり、感情は純粋心的機能の中だけでも生じることがある。また、単なる手段や方法についても生じることがある。例えば、ある人間が想起され期待を生じているときに、その人間に会える手段や方法が想起されたとすると、その手段や方法が快不快の自律感覚を生じることがある。それは手段や方法への期待に含まれ、後述する欲求に近い。そのようにしても感情を生じる素材はどんどん広がっていく。
 感情はそのように広がっていくとともに、以下のように増強もし減弱もする。『記憶をもつ動物の心理学』で説明されたとおり、神経細胞群の活性は長時間の断続的な繰り返しによって増大し、それがないことによって減少する。それはイメージ情動神経細胞路にも言える。だから、感情は繰り返しによって増強され、繰り返しがないことによって減弱する。例えば、虐待やいじめが繰り返されるなら対人不安は増強し、しばらくないなら減弱することがある。そもそも、感情が広がり増強する一方で減弱しないならわたしたちは生きることができない。
 そのような広がりと増強、減弱は後述する欲求にも当てはまる。『欲求』の節では、その説明を省略することにする。
 快の自律感覚が優勢な感情を「快の感情」とも呼び、不快の感情が優勢な感覚を「不快の感情」とも呼ぶことにする。一見したところ、それらの区別は曖昧だが、後述する衝動を間接的に生じるか生じないかによって区別できる。快の感情は期待、安心を含み、不快の感情は不安、恐怖、他人に対する嫌悪、自己嫌悪を含む。

先天的形成と後天的形成

 ここが先天的形成と後天的形成を説明する絶好の場所である。神経細胞群そのものは主として遺伝子とその機能によって形成される。そのような主として遺伝子とその機能による形成を「先天的形成」、先天的に形成されることと呼べる。
 それに対して、『記憶をもつ動物の心理学』で説明した個々のイメージの素材を記銘し保持する単位的神経細胞群、それらの間の神経細胞路、つまり、イメージイメージ神経細胞路、この著作でこれまでに説明したイメージ情動神経細胞路、これから説明されるイメージ機能神経細胞路…などは、主として遺伝子とその機能によって、つまり、先天的に活性化されるのではなく、主として胎児期以降、特に分娩後の状況に応じて活性化される。そのような形成を「後天的形成」、後天的に形成されることと呼べる。
 生物とその機能はすべて先天的かつ後天的に形成される。例えば、どんな神経機能も神経細胞群が先天的に形成されなければ機能しない。また、神経細胞群の興奮と伝達は神経伝達物質と受容体が先天的に形成されなければ機能しない。だが、後天的形成がなければ全く機能しない機能がある。例えば、イメージの素材はすべて後天的に形成されるので、イメージの素材を含むイメージの想起、知覚、連想…などは後天的形成がなければ全く機能しない。それに対して、それ以外の生物機能は後天的形成がなくても何らかの形で機能する。だから、後天的形成がなければ全く機能しない生物機能を「後天的機能」と呼べ、それ以外を「先天的機能」と呼べる。後天的機能は、今までに説明したイメージの想起、知覚、連想、感情、複合随意運動、総合機能とこれから説明する欲求、複合的情動、自我、思考を含む。先天的機能はこれまでに説明した感覚、単位的随意運動、自律機能を含む。そのように見て行くと人間は地球上で後天的機能が最も発達した動物であることが分かる。
 先天的機能は、
(1)種にとって一般的な状況の中で、
(2)遺伝子の突然変異と自然淘汰によって何世代もの時間の中で、
(3)種の中で個体差をあまり伴わず
形成される。それに対して後天的機能は、
(1')固体にとって特異的な状況の中で、
(2')一世代の時間で
(3')種の中で大きな個人差を伴って
形成される。
 例えば、不安という感情について、全般的に不安の強い人もいれば、対人不安が強い人もいれば、孤独に対する不安の強い人もいる。第二と第三の不安は主として後天的に形成される。だが、前述のとおり、すべての生物とその機能は先天的かつ後天的に形成される。感情についても、神経伝達物質や受容体のサブタイプが関与し、それらは先天的に形成される。例えば、第一(全般的に強い不安)は後天的によりも先天的に形成される。

過去の快と不快を活かし、未来に快を増大または維持し不快を減退させ、動物の生存を確保すること


 過去にいくつかの対象が強いまたは持続的または反復的な不快の感覚を生じたとき、それらの感覚からいくつかの不快の自律感覚が生じ、それらの対象のイメージの素材からそれらの不快の自律感覚へのイメージ情動神経細胞路が活性化される。次回にそれらの対象がイメージとして想起されたとき、それらの想起される機能イメージからそれらのイメージ情動神経細胞路の興奮と伝達とそれらの不快の自律感覚が生じる。それがそれらの対象に対する不安または恐怖という感情であり、そのような感情をもつ動物は前もってそれらの対象を免れる。それらの強いまたは持続的なまたは反復的な不快の感覚を生じるようなそれらの対象は通常、動物が生存するのに危険なものである。例えば、同種または異種の他の動物からの強打でありえる。結果として、それらの動物はそのような危険を予防し生き延びることができる。そのように感情は過去の快と不快を活かし、未来に快を増大または維持し不快を減少させ、生存を確保する機能である。

対象イメージ

 少なくとも人間では、機能の部分、概略、対象、手段、方法、状況…などが、感覚、知覚、認識され、イメージとして生成し記銘され保持され想起される。例えば、対人直面、対人回避…などの対人機能の概略がイメージとして想起される。また、対人機能の対象である一般の人間がイメージとして想起される。また、対人機能の状況である学校や職場や家庭がイメージとして想起される。機能の部分、概略、対象、方法、手段、状況のイメージまたはその素材を機能の「対象イメージ」または対象イメージの素材とも呼ぶことにする。

欲求

 さて、機能が生じるとき、
(1)機能の対象イメージの素材が認識され記銘され保持されることがある。
(2)機能が結果として、快の自律感覚を生じることがある。
(1)(2)が時間的に近くで繰り返し生じたとき、 機能の対象イメージの素材から快の自律感覚へのイメージ情動神経細胞路が活性化されることがある。
(3)次にその機能の対象イメージが想起され認識されたときに、
活性化されたイメージ情動神経細胞路が興奮し伝達し、
快の自律感覚が生じることがある。
簡単に言って、機能した結果が良かったとき、その機能を期待するようになる。機能した結果が悪かったときその機能に不安を抱くようになる。
(3)の
イメージ情動神経細胞路の興奮・伝達と
快の自律感覚を
対象イメージの素材への「欲求(Desire)」、〜することへの欲求、〜したいこととも呼ぶことにする。
 例えば、学校や職場で対人機能に出て結果がよく楽しんだとき、一般の人間と対人直面を期待する。それが対人欲求である。
 人間の欲求は、勉強する欲求、仕事をする欲求、遊ぶ欲求、対人欲求、カネへの欲求、権力への欲求、結婚への欲求、子供への欲求、家庭への欲求を含み、ときには孤独への欲求を含む。
 ここで欲求と欲動の関係について説明する。簡単に言って、欲求の根底に快不快の感覚と欲動がある。例えば、カネと権力があるとき、食欲、飲水欲、性欲が満たされ、カネと権力のイメージから快の自律感覚に至るイメージ情動神経細胞路が活性化され、カネへの欲求、権力への欲求が形成される。そのように欲動は先天的機能であり欲求は後天的機能である。
 欲求は、感情に含まれ、快の感情に含まれるが、{欲求以外の感情}と欲求とを区別する必要がある。何故なら欲求は後述する自我に近いからである。そこで、前者を(狭義の)感情と呼び、後者を欲求と呼ぶことにする。
 いずれにしても、欲求では自律感覚のうちで快が優勢である。簡単に言って、わたしたちは好きなことだけをし嫌なことはしない。
 欲求のいくつかがいわゆる「条件付け」の一部の実体である。
 欲求では対象イメージの素材が、処理されないとき不快の情動が生じ、獲得、処理…などされるとき快の情動が生じ、獲得、処理…などされすぎるときときに不快の情動が生じる。第一のものを欲求不満、第二のものを欲求満足、第三のものを欲求に辟易することとも呼ぶことにする。
 対象イメージの生成、記銘、保持とイメージ情動神経細胞路の活性化は胎生期末期以降に生じるので、欲求は後天的機能である。例えば、対人機能に出て不快の情動より快の情動が生じたとき、対人欲求が形成される。
 それに対して、快不快の感覚と欲動は先天的機能と言える。例えば、すべての人間が皮膚の痛さ、動悸、息苦しさ、摂食欲動、飲水欲動、性的欲動をもつ。
 前述のとおり、(狭義の)感情は個体差が大きい後天的機能であり、過去を活かし未来を予見し危険を予防するのに適した機能である。例えば、仕事をする欲求は餓死を防ぎ、遊ぶ欲求は過労を防ぎ、結婚と家庭に対する欲求は孤独を防ぐ。さらに、欲求は具体的な対象、方法、手段…などを示す。例えば、生活するためには具体的な仕事をする必要があり、そのためには具体的な知識と技術を得、具体的な経験を積む必要があり…と欲求はますます具体化する。また、性欲や対人欲求は特定の人への欲求に発展する。

複合的情動

 欲動は快不快の感覚を含み、感情、欲求は想起されるイメージから生じる快不快の自律感覚を含む。
 主としてこれまでに説明された情動のうち複数の種類が構成し感情または欲求を必ず含む機能を「複合的情動」と呼べる。
 いわゆる「愛」は主として性的欲動、群れようとする欲動、孤独、対人欲求から構成される複合的情動である。いわゆる「権力への意志」は主として支配欲動、支配欲求、武力、カネ…などの支配するための手段に対する欲求から構成される複合的情動である。
 だが、複合的情動に主要な構成要素があるときは、その主要な構成要素で複合的情動を呼べる。例えば、いわゆる「権力への意志」を支配欲動または支配欲求と呼べる。
 快の感覚が優勢な複合的情動を快の複合的情動とも呼び、その逆を不快の複合的情動と呼べる。例えば、愛は性的欲動、対人欲求…などを含み、性的欲動不満と対人欲求不満が優勢なとき、それは不快の愛である。

快楽と苦痛

 快不快の感覚、欲動、感情、欲求、複合的情動を「情動」と呼べる。
 快の感覚、欲動満足、快の感情、欲求満足、または、快の複合的情動を快の情動または「快楽」とも呼び、不快の感覚、欲動不満、欲動飽満、不快の感情、欲求不満、欲求飽満、または、不快の複合的情動を不快の情動または不快または「苦痛」と呼べる。不可算名詞としての「苦痛」という言葉は身体的苦痛も精神的苦痛も意味する。また、不快という言葉より苦痛という言葉のほうが日常的によく使われる。そこで、これらの著作でも苦痛という言葉を多用することにする。
 快不快の感覚、欲動を身体的情動とも呼ぶことにする。快の感覚、欲動満足を「身体的快楽」と呼び、不快の感覚、欲動不満、欲動飽満を身体的不快または身体的苦痛と呼べる。
 感情、欲求を「精神的情動」とも呼ぶことにする。快の感情、欲求満足を精神的快楽とも呼び、不快の感情、欲求不満、欲求飽満を精神的不快または精神的苦痛とも呼ぶことにする。

情動の対象

 感情においては、その中で想起されるイメージの素材を感情の「対象(Object)」と呼び、欲求においては、その中で想起される対象イメージの素材を欲求の対象と呼べる。例えば、特定の人間だけでなく一般の人間が対人欲求の対象である。
 快不快の感覚、欲動、複合的情動について、それらは直接的または間接的に感情または欲求を形成する。例えば、皮膚の痛みはそれを生じる人間の暴力、事故、病気、自然災害…などに対する恐怖を直接的に形成し、食欲は食べ物に対する欲求を直接的に形成する。また、いわゆる「愛」は特定の人間または一般の人間に対する欲求を直接的に形成する。また、いわゆる「権力への意志」は支配と権力に対する欲求を直接的に形成する。快不快の感覚、欲動、複合的情動について、それらが直接的に形成する感情または欲求の対象をそれらの対象と呼べる。

目的

 人間において、いくつかの情動の対象が後述する自我によって繰り返し思考され再形成される。そのときの対象を人間の目的とも呼ぶことにする。例えば、家族を支えること、カネを稼ぐこと、力を得ることが目的になることがある。そのような目的の良し悪しは全く別問題である。いずれにしても目的はそれぞれの人間において思考され再形成される。

手段

 これまでは快不快の自律感覚を生じる機能の部分、対象、手段、方法、状況…などのイメージの素材を対象という言葉で一括した。だが、それらを区別する必要があることがある。
 人間において、目的を果たすためまたは欲動や欲求を満足させるためまたは快の情動を増大または維持し不快の情動を減少させる手段であるはずのものが、目的または対象になることがある。例えば、カネは、食欲、飲水欲、性欲、対人欲求…などの満足のための手段であるはずなのに、目的になることがある。前述の権力にしても、支配欲動や欲求を満たすための手段であるはずなのに、目的のようになることがある。
 人間は自身の生身の身体と身体機能だけで人間や他の生物や自然を破壊をするわけではない。人間は道具、兵器、科学技術…などの手段を用いて人間を含むそれらを大量に破壊する。特に重大なのは原子核と遺伝子の操作という人間の手段である。それらを強調する必要があるときは、人間、人間機能、人間が作り使用する手段を「手段」とも呼ぶことにする。特に『生存と自由』『生存と自由の詳細』はこの意味で手段という言葉を用いる。

情動の習性

 情動も機能の一種であり、『習性をもつ動物の心理学』で説明される「習性」をもつ。例えば、不安を感じやすい人はおり、その人は不安の習性が全般的に大きいと言える。
 情動の習性の中で、快不快の感覚と欲動の習性は主として先天的に形成される。それに対して、 感情と欲求の習性の決定的部分はどのイメージ情動神経細胞路が活性化されるかである。だから、感情と欲求の習性の大部分は後天的に形成される。例えば、人間関係を何度も楽しんで、想起される一般の人間のイメージから快の自律感覚に至る神経細胞路が活性化されれば対人欲求が生じやすくなる。それに対して、人間関係が苦痛を何度も生じ、想起される一般の人間のイメージから不快の自律感覚に至る神経細胞路が活性化されれば対人不安が生じやすくなる。
 情動のほとんどは、動物の個体と種が生存するのに適した機能である。だが、人間の情動は例外である。それについては『わたしたちの生存ネット』と『習性をもつ動物の心理学』で説明される。
 快不快の感覚は人間を含む大部分の動物がもつ。欲動は人間を含む脊椎動物、節足動物…などがもつ。感情、欲求、複合的情動は人間を含む一部の哺乳類がもつ。

自我T

イメージ機能神経細胞路、機能イメージ、機能的細胞群

 大脳において、イメージの神経素材が通る神経細胞群から
少なくとも単位的随意運動を含む機能を生じる可能性をもつ神経細胞群に至る
いくつかの、実際は多数の神経細胞路が存在し機能する。それらの神経細胞路を「イメージ機能神経細胞路」と呼べる。
 イメージはすべて後天的に生成し記銘され保持され想起される。機能のイメージもそうである。まず、他人の機能が感覚され知覚されイメージとして生成し記銘、保持され生起し想起される。例えば、親の直立二足歩行を見るとき、乳児の神経系の中で直立二足歩行という複合随意運動のイメージが生成し記銘され保持され想起される。簡単に言って、それが模倣の始まりである。さらに、自己の機能は他人の機能より確実に感覚され知覚されイメージとして生成し記銘、保持され生起し想起される。例えば、他人がやるのを見ているだけで自分でやらなければどんな技術も習得できない。
 さらに、機能が反復的に生じるときに、機能のイメージの素材が生成し記銘され保持され想起されるとともにイメージ機能神経細胞路が時間的近さに基づいて後天的に活性化される。例えば、乳児が繰り返し親の直立二足歩行を見ながら立って歩こうとするとき、直立二足歩行のイメージが生成し記銘され保持され想起されるともに、それらのイメージの素材から直立二足歩行を構成する四肢の単位的随意運動を生じる前頭葉の神経細胞群に至る神経細胞路が活性化される。
 また、機能のイメージの素材が想起されるとき、それらのイメージの素材が、活性化されたイメージ機能神経細胞路のいくつかの興奮と伝達を生じることがある。例えば、直立二足歩行のイメージの素材が想起されるとき、前述の神経細胞路の興奮と伝達を生じることがある。
 そのようにイメージ機能神経細胞路の興奮と伝達を生じる可能性をもつ機能のイメージの素材を「機能イメージ(の素材)」と呼べる。また、想起されるそれを想起される機能イメージ(の素材)、機能イメージとして想起されるもの…などと呼べる。機能イメージはいわゆる「方法」「いかにするか」のイメージである。
 また、イメージ機能神経細胞路が至る少なくとも単位的随意運動を含む機能を生じる可能性をもつ神経細胞群を「機能的神経細胞群」と呼べる。
 また、想起される機能イメージの素材とイメージ機能神経細胞路の興奮と伝達と機能的神経細胞群の興奮と伝達から生じる可能性をもつ機能を「意識的機能」と呼べる。意識的機能を自我の定義の後で詳しく説明する。意識的機能は少なくとも単位的随意運動を含む。簡単に言って、例えば、わたしたちは意図的に関節を屈伸することができる。また、意識的機能は直立二足歩行、発音…などの複合随意運動を含む。
 脊椎動物の神経系の中では、イメージの神経素材と、それを生成し記銘し保持し想起する神経細胞群は頭頂葉、後頭葉、側頭葉に存在する。それに対して、機能的神経細胞群は前頭葉に存在する。イメージ機能神経細胞路は前者から後者に走り、それらの軸索は白質に存在する。神経細胞の興奮と伝達の向きから言うと、比喩的に、イメージ機能神経細胞路は前向きである。
 機能イメージを含むすべてのイメージの素材はすべて後天的に生成し、すべてのイメージ機能神経細胞路は機能イメージの生成と意識的機能が時間的に近くで生じるときに後天的に活性化される。だから、意識的機能そのものが先天的機能か後天的機能かというのではなく、意識的機能が先天的に生じることはほとんどない。だが、いくつかの意識的機能がイメージ機能神経細胞路を含まない別の経路を経て先天的に生じることがある。例えば、人間が乳を吸うことは意識的機能であり、大人が乳を吸うことはイメージ機能神経経路を経て生じるが、新生児が乳を吸うことは食欲、飲水欲などから比較的直接的に先天的に生じると考えられる。

イメージイメージ神経細胞路と複合的意識的機能

 関節の屈伸などの一つの単位的な意識的機能は一つの単位的な機能的神経細胞群の興奮と伝達から生じる。それに対して、複合随意運動などの複合的な意識的機能は複数の単位的な機能的神経細胞群となんらかの神経細胞路の興奮と伝達から生じる。後者の場合、以下の三つのタイプの神経細胞路が考えられる。
(1)一つの機能イメージの素材→一つのイメージ機能神経細胞路→一つの単位的な機能的神経細胞群
(2)一つの機能イメージの素材→一つの分岐するイメージ機能神経細胞路→複数の単位的な機能的神経細胞群
(3)一つの機能イメージの素材→一つのイメージ機能神経細胞路→複数の単位的な機能的神経細胞群とそれらの間の神経細胞路
  上の(1)(2)(3)のいずれかではなく、それらの混成が存在し機能すると考えられる。特に(2)(3)が存在し機能し、(1)はまれと考えられる。もし(2)(3)が存在せず機能しないなら、例えば、歩くとき、一々、右腕前、左腕後、右脚後、左脚前…などと考えていなければならず、歩きながら明日の予定などの歩行以外のことを考えることができない。
  いずれにしても、機能イメージの素材と単位的な意識的機能を生じる単位的な機能的細胞群(UF)の間にはイメージ機能神経細胞路を含むいくつかの神経細胞路(IF)が存在機能する。また、(UF)の間にもいくつかの神経細胞路(FF)が存在し機能する。(FF)は明らかに複数の単位的な意識的機能を協調させ協調するそれらを複合的な意識的機能にする。(IF)の後半の分岐する部分も同様である。それに対して、(IF)の前半のまだ分岐していない部分はそもそもどの意識的機能を生じるかの決定に関与する。(IF)の前半がどの意識的機能を生じるかの決定に関与し、(IF)の後半と(FF)が既に決定された意識的機能の詳細で技術的な側面を決定する。そこで(IF)の前半のまだ分岐していない部分をイメージ機能神経細胞路と呼び直せ、(IF)の後半の分岐する部分と(FF)を「機能機能神経細胞路」と呼べる。また、(UF)を「単位的」機能的神経細胞群と呼べ、(UF)と機能機能神経細胞路を「複合的」機能的神経細胞群または単に機能的神経細胞群と呼べる。
  前述のとおり、イメージ機能神経細胞路と機能機能神経細胞路のほとんどは、意識的機能が何度も生じ感覚、知覚されるときに後天的に活性化される。単位的神経細胞群は先天的に活性化されている。繰り返すが、イメージ機能神経細胞路の活性化は、どの意識的機能を生じるかの決定に関与し、後述する自我の習性の形成に関与する。機能機能神経細胞路の活性化は、決定された意識的機能の詳細と技術的側面を決定し、複合的な意識的機能の能力を形成する。例えば、人間の乳児が親の立って歩く姿を見て自らそうしようとして這い立ち転ぶうちに、直立二足歩行の機能イメージの素材から直立二足歩行という複合随意運動を生じる機能的神経細胞群へのイメージ機能神経細胞路とその複合随意運動を構成する単位的随意運動を生じる単位的機能的神経細胞群の間の機能機能神経細胞路が活性化され、やがて乳児または幼児は歩く。
 いずれにしても、イメージ機能神経細胞路と機能機能神経細胞路は『記憶をもつ動物の心理学』で説明されたイメージイメージ神経細胞路、つまり、個々のイメージの素材の間の神経細胞路と前述のイメージ情動神経細胞路から明確に区別される必要がある。
 また、意識的機能は、健反射とは異なる。何故なら、後者は大脳の機能的細胞群の興奮と伝達さえも含まないからである。

衝動

 『記憶をもつ動物の心理学』で説明されたとおり、感覚、記憶は、感覚器から広義の感覚神経を経て大脳の感覚野…などに至る整然とした神経細胞群の興奮と伝達から生じる。また、前述のイメージ情動神経細胞路、イメージ機能神経細胞路、機能的神経細胞群はそれほど整然としていないが下記より整然としている。
 何らかの快不快の感覚を含む情動は、神経系、特に自律神経系と内分泌系、免疫系…などの広範に及ぶ様々な機能を生じる。
 さらに、いくつかの情動は、 感覚、記憶を生じる神経細胞群の興奮と伝達と異なる、
大脳に向かって発散し、
大脳またはその周辺まで達しうる
神経細胞群の興奮と伝達を生じる。そのような大脳にも向かい大脳またはその周辺まで発散しうる興奮と伝達を「衝動」と呼べる。
 一時に複数の情動が生じえる。例えば、皮膚の痛さとそれが持続または増強することへの不安は同時に生じえる。また、あることに対する期待と不安でさえも同時に生じえる。だから、通常、一時に複数の情動によって一時に複数の衝動が生起する、つまり、生じかける。だが、一つの個体の一つの神経系の中で、衝動は大脳またはその周辺まで発散し、早く長く広く発散する神経細胞群の興奮と伝達が他のそれらを立ち消えさすので、一時に少数しか生じず、一つしか生じないことが多い。そのようにより早く長く広く発散することを衝動がより強いことと呼べる。そのように定義すると、一時に生じる衝動のうちの最も強いものが他を絶ち消させながら大脳またはその周辺まで達すると言える。

機能的衝動

 想起される機能イメージのいくつかはイメージ情動神経細胞路の興奮と伝達を生じ、期待、不安のような感情を生じる。さらにそれらの感情のいくつかは衝動を生じる。そのように機能イメージから生じる衝動を「機能的衝動」と呼べる。

イメージ情動神経細胞路の活性化

 感情と欲求と複合的情動はなんらかの快不快の自律感覚を含む。快不快の感覚と欲動はなんらかの快不快の自律感覚を生じる。だから、情動はなんらかの快不快の自律感覚を含むか生じる。快の情動はなんらかの快の自律感覚を含むか生じ、不快の情動はなんらかの不快の自律感覚を含むか生じる。
 ある意識的機能が生じることによって不快の情動が強くまたは持続的にまたは反復的に生じたとき、その意識的機能の機能イメージの素材からその不快の情動が含むまたは生じる不快の自律感覚に至るイメージ情動神経細胞路が活性化される。次回にその機能イメージが想起されたとき、想起されるそれがその活性化されたイメージ情動神経細胞路の興奮と伝達を生じ、その不快の自律感覚を生じ、機能的衝動を生じない。例えば、子供が危険な遊びをして親にひどく叱られたとき、子供はその遊びをしようと思っても、不安や恐怖のようなものが生じ、その遊びをしようという衝動は生じない。
 それに対して、ある意識的機能が生じることによって、快の情動が強くまたは持続的にまたは反復的に生じたとき、または、不快の情動が著しく減退したとき、その意識的機能の機能イメージの素材からその快の情動が含むまたは生じる快の自律感覚に至るイメージ情動神経細胞路が活性化される。次回にその機能イメージが想起されたとき、想起されるそれがその活性化されたイメージ情動神経細胞路の興奮と伝達を生じ、その快の自律感覚を生じ、機能的衝動を生じえる。
 そのように機能的衝動は、過去の快不快に照らし合わせて、未来に快を確保し不快を予防する有力な機能である。
 だが、快の自律感覚が生じるか、不快の自律感覚が生じるか、衝動が生じるかは微妙である。極端な例だが、炎上する船上にあって救命胴着だけ持っているとき、船上に留まるのも危険、海に飛び込むのも危険である。船上の物質的かつ精神的苦痛のまっただ中で、海に飛び込むことから一抹の期待でも生じるなら、飛び込もうという機能的衝動が生じるだろう。そのように多大な不安や恐怖の中では一抹の期待も機能的衝動を生じえる。

限定機能

 自我を説明する前に限定機能を説明しておく。次のような属性をもつ機能がある。
一定の状況(S1)の中で一般に(この一般性を(G)とする)生じうる機能の集合(f1,f2,…)を(F)として、
別の状況(S2)によって変動する数を(n)として、一時に、
(n)個以下の(F)が生起したとき(C1)は、それらのすべてが生じ、
(n)個を超える(F)が生起したとき(C2)は、
Fを限定する機能(SLF)によって、
他を排除して生じる能力(EA)が最も大きい(n)個の(F)が生じる。
そのとき、機能の集合(F)と(F)を限定する機能(SLF)と(F)を処理するその他の機能を「限定機能」(LF)と呼べ、集合(f1, f2,…)のそれぞれの要素を「被限定機能」(lf)と呼べ、(SLF)を「実質的限定機能」と呼べる。
 『記憶をもつ動物の心理学』で説明された通り、イメージの素材を記銘し保持する神経細胞群から再生へ向かう神経細胞路は収束する。また、一時に、多数のイメージの素材が生起するが、収束する神経細胞路の中で最も早く長く広く興奮し伝達する一定数(n)以下のイメージの素材が他を立ち消えさせて再生に達し想起される。だから、イメージの想起は限定機能でる。
 また、前述のとおり、衝動は大脳に向けて発散するので、最も早く広く長く興奮し伝達するものが他を立ち消えさせて大脳またはその周辺に達する。だから、衝動は限定機能である。
 後述する自我は、最初にイメージの想起という限定機能を含み最後に衝動という限定機能を含むので、限定機能である。

自我の状況

 端的に言って、自我は状況の中で意識的機能を生じる。自我は状況と意識的機能の仲介をするとも言える。自我の状況は意識的機能が生じる必要があるような状況である。例えば、対人機能を生じなければならないような状況、より具体的には誰かがドアをノックしているあるいは電話が鳴っていることが自我の状況である。居留守を使うとしてもそれは対人機能であり、意識的機能である。
 前述のとおり、状況は外的状況と内的状況に区別される。上の例のドアのノックや電話が鳴ることは外的状況である。外的状況においては現在のものが感覚、知覚、把握され、自我が生じる可能性をもつ。
 想起、連想、思考されるものと情動は把握され自我の内的状況になりえる。例えば、明日の仕事が予期されるから、自我は準備をしようとする。これは自我が未来の外的状況に間接的に対応することと見なせる。また、過去の恥ずかしい行為が狭義に想起されるから、自我はその行為のイメージを後述するようにして回避しようとする。これは自我が過去の外的状況と自己に間接的に対応することと言える。そのようにして、自我は現在だけでなく未来と過去と自己にも間接的に対応する。言い方を変えれば、それらに関して自我が直接的に対応しているのは内的状況である。
 また、情動も把握され自我の内的状況になりえる。例えば、口渇があるとき、把握され、自我は水を飲もうとする。また、不安や恐怖があるとき、把握され、その原因が連想され、自我は原因を回避しようとする。

自我

 自我の発端において、状況が認識され、『記憶をもつ動物の心理学』で説明されたとおり、認識と同類性に基づくとともに時間的近さと神経細胞路に基づいて、いくつかの意識的機能のイメージ、つまり、機能イメージが生起し、それらのいくつかが想起される。簡単に言って、状況に対応するいくつかの方法が想起される。例えば、誰かがドアをノックするという状況が認識され、居留守を使う、誰か確認してドアを開ける、ドアを開けて誰か確認する…などの機能イメージが想起される。
 想起される機能イメージの素材とイメージ機能神経細胞路の興奮と伝達だけから機能的神経細胞群が興奮し伝達し意識的機能が生じることがあるように見える。つまり、

(1)理性系:
状況の認識→機能イメージの想起→想起される機能イメージの素材→活性化されたイメージ機能神経細胞路の興奮と伝達

(1)は、情動や衝動を含まず、「理性系」と呼べる。そのような理性系だけが意識的機能を生じるほうが情動だけまたは理性系と情動の両方が意識的機能を生じるより合理的で効率的であるように見える。
 だが、理性系は弱すぎて、それだけで意識的機能を生じることができない。理性系が意識的機能を生じるには情動と衝動の支持を必要とする。それは日常で、いい考えが浮かんでもやる気がなければ実行できないこととしてしばしば感じられる。
 また、一秒の時間の内にも複数の機能イメージが想起されることが多く、複数の意識的機能が生じる可能性がある。それらの複数の中から一つを選択するものは何なのか。快か不快かが選択するのではないだろうか。
 そこで、(1)理性系と以下の(2)「情動系」が合流して機能的神経細胞群の興奮と伝達を生じ意識的機能を生じると仮定してみよう。

(2)(想起される機能イメージの素材→)活性化されたイメージ情動神経細胞路の興奮と伝達→快の自律感覚→機能的衝動

 前述のとおり、(2)情動系は過去の快不快に照らし合わせて、未来に快を確保し不快を予防する有力な機能である。快か不快かは動物の生存に直結する。(1)理性系がいくつかの意識的機能、つまり、「方法」「いかにするか」を提案し(2)情動系が快か不快かに照らし合わせて一つを決定することは動物の生存に適する。生存競争と自然淘汰の中で(1)と(2)の協調が進化してきた。
 そもそも、理性系は中性的で中立的であり、それだけでは良いか悪いかの判断ができない。『記憶をもつ動物の心理学』で説明されたとおり、想起または連想では時間的近さに基づいて、原因と結果を複合イメージとして想起することはできる。だが、結果が良かったか悪かったかを想起することも判断することもできない。だが、誰も何物も良いか悪いかを直接的かつ絶対的に判断できるものをもたない。それを判断できるのは快か不快かだけであり、しかも間接的かつ相対的にである。
 だから、少なくとも人間を含む高等な哺乳類の個体の神経系の中で通常、(1)理性系と(2)情動系が合流して機能的神経細胞群の興奮と伝達を生じ意識的機能を生じる。それらの(1)と(2)とそれらの合流が「自我」と呼ばれるものの実体である。それらの(1)と(2)とそれらの合流は個体の神経系の中に一個、存在し機能し、群れや種の中では一個、二個…と数えられるものである。例えば、十人の人間がいれば、十個の自我がある。だから、それらの(1)と(2)とそれらの合流を可算名詞として「自我」と呼べる。自我をもう少し厳密に表現すると以下のようになる。
 一定の状況が認識され、いくつかの機能イメージの素材が想起され、それらのいくつかが活性化されたイメージ機能神経細胞路の興奮と伝達を生じる。それとともに想起された機能イメージの素材のいくつかが活性化されたイメージ情動神経細胞路の興奮と伝達を生じ、それらのいくつかがいくつかの快不快の自律感覚を生じる。さらに、生じた快不快の自律感覚のうち最も快の通常、一個が最も強い通常、一個の機能的衝動を生じる。そして、それらのイメージ機能神経細胞路の興奮と伝達と最も強い機能的衝動が機能機能的神経細胞群の興奮と伝達を生じ、想起された機能イメージに相当する意識的機能の一つを生じる。そのときの、機能イメージの素材の想起と想起された機能イメージの素材とイメージ機能神経細胞路の興奮と伝達とイメージ情動神経細胞路の興奮と伝達と快不快の自律感覚と最も強い機能的情動を含む衝動とを「自我」と呼べる。
 また、そのような自我が日常でわたしと呼ばれるものの実体である。自我を「わたし」、わたしたちのそれぞれ、人間、意識的機能をしようとすること…などとも呼べる。

限定自我と被限定自我

 前節で説明された自我は限定機能かもしれない。詳しく調べてみよう。
 繰り返すが、一定の状況(S1)の中で一般に(この一般性を(G)とする)生じうる機能の集合(f1,f2,…)を(F)として、
別の状況(S2)によって変動する数を(n)として、一時に、
(n)個以下の(F)が生起したとき(C1)は、それらのすべてが生じ、
(n)個を超える(F)が生起したとき(C2)は、
Fを限定する機能(SLF)によって、
他を排除して生じる能力(EA)が最も大きい(n)個の(F)が生じる。
そのとき、機能の集合(F)と(F)を限定する機能(SLF)と(F)を処理するその他の機能を「限定機能」(LF)と呼べ、集合(f1, f2,…)のそれぞれの要素を「被限定機能」(lf)と呼べ、(SLF)を「実質的限定機能」と呼べる。

(lf)被限定自我
 一定の状況の中で一般に生じる可能性をもつ意識的機能は複数ありそれを集合とすることができる。
 もし、一つの機能イメージが一つのイメージ機能神経細胞路の興奮と伝達、一つのイメージ情動神経細胞路の興奮と伝達、一つの快不快の自律感覚、一つの機能的衝動、一つの機能的細胞群の興奮と伝達、一つの意識的機能を生じるのであれば、意識的機能を生じるまでのそれらをイメージ機能神経細胞路の興奮と伝達と機能的衝動の合流点に収束する一つの機能と見なすことができる。さらに、それは機能イメージの想起の実質的限定機能と機能的衝動の実質的限定機能の二重の限定を受け、生起しても生じないことがあるので、被限定機能である。だが、必ずしも一つが一つを生じ…と続くわけではない。特にまだ慣れていない複合的な意識的機能は複数の機能イメージから生じる。例えば、水泳のバタフライに慣れないうちは、ぎこちないその動きは上半身の動きと下半身の動きの二つの機能イメージから生じる。また、一つの機能イメージが想起され、一つの機能的衝動が生じるとしても、複数のイメージ情動神経細胞路の興奮と伝達と複数の快不快の自律感覚が生じることは多く、期待、不安…などの混合から一つの機能的衝動が生じることは多い。
 だが、そうだとしても、それらは結局、イメージ機能神経細胞路と機能的衝動の合流点に収束する一つの機能と見なすことができる。さらに、それは機能イメージの想起の実質的限定機能と機能的衝動の実質的限定機能の二重の限定を受け、生起しても生じないことがあるので、被限定機能である。
 だから、一つの意識的機能を生じる可能性をもつ理性系と情動系とその合流とを「被限定自我」と呼べる。被限定自我は後述する自我の概略に分類される。実質的には、被限定自我はそのような概略を単位として論じられる。
 (1)第一に、ある被限定自我の部分としての機能イメージが生成していたとしても、状況の把握から生起しなければ、被限定自我の全体は生じない。(2)第二に、機能イメージが生起したとしても、想起されなければ、被限定自我の全体は生じない。(3)第三に、それらが想起されたとしても、イメージ情動神経細胞路の興奮と伝達、快の自律感覚、最も強い機能的衝動を生じなければ、その被限定自我の全体は生じない。それらのことのうち最初の一つを除くものは被限定自我が生起するが生じなないことである。

そのような意識的機能のそれぞれを生じる理性系と情動系のそれぞれはイメージの想起の実質的限定機能と衝動の実質的限定機能の二重の限定を受ける。 (S1)自我の状況
 だいたいのことは『自我の状況』の節で説明された。状況が把握されて『記憶をもつ動物の心理学』で説明された認識と同類性に基づくとともに時間的近さと神経細胞路に基づいて、いくつかの意識的機能のイメージ、つまり、機能イメージが生起し、それらのいくつかが想起される。
 状況は無際限に広がりえる。例えば、対人不安が内的状況の部分として把握されているとき、状況の全体は、現在の人間関係から過去の人間関係、乳児期からの習性の形成過程…などと広がりえる。習性の形成こそが最も重要なことなのだが、それを状況という言葉でとらえないほうがよい。そこで、状況をそのとき現在に一般の人間に把握されえる素材とそれらから想起、連想されえる素材に限定することにする。
(S2) 自我の別の状況
 ある機能イメージが強く想起されるときは、他の機能イメージは弱く想起されるまたは想起されず、一時に生じる被限定自我の個数(n)は小さくなることが多い。ある機能イメージが強い快不快の自律感覚を生じ強い機能的衝動を生じるとき、(n)は小さくなることが多い。例えば、非常に危険な物から逃げようとする被限定自我が生じるとき、他の被限定自我は生じない。いずれにしても、被限定自我は二重の限定を受けるので、一時に生じる被限定自我の個数(n)は通常1である。例外については後述する。

(G)被限定自我について一般に生じることの意味
 自我に関する限りで、その時代の少数の人間にさえも生じえるものとする。何故なら、一般の人間においても、一見したところ異常に見える自我が生じないが、それらの機能イメージは生成しているまたはそれらは生起していることが多いからである。もう少し詳しく言うと、異常な機能イメージは生成しているが、状況の認識から生起しない、生起するが想起されない、想起されるが最も強い機能的衝動を生じず、自我の全体を生じない。例えば、多くの人間は重大犯罪を犯さない。だが、それらは状況と繋がらないか、機能イメージとしては生起しているが想起されないか、または、機能イメージとして想起されても、刑罰を恐れて不快の自律感覚を生じかである。
 ただし、「その時代の」とする。例えば、自動車のまだない時代にそれを運転しようとするまたはそれに乗ろうとする自我は生じえない。自我にとって移動手段が自動車か馬車かなどは重要なことではない。自我についても、時代を超えて変わらないものがある。

(SLF)自我の実質的限定機能
 自我は最初に機能イメージの想起、最後に機能的衝動という限定機能を含む。それらの二つの実質的限定機能が自我の実質的限定機能である。つまり、被限定自我は二重に限定される。つまり、
(SLF1)収束する神経細胞路の中で最も早く広く長く興奮し伝達するf複合イメージの素材が他を立ち消えさせて再生に達し想起されること
(SLF2)衝動は大脳に向けて発散し、最も早く広く長く興奮し伝達するものが他を立ち消えさせて大脳またはその周辺に達すること
が自我の実質的限定機能である。

(LE)限定自我
被限定自我機能の集合(F)と(F)を限定する自我の実質的限定機能(SLF)と(F)を処理するその他の機能を「限定機能」と呼べる。
 他を排除して生じる能力(EA)については後に自我の習性とともに説明する。

習性の形成段階からの被限定自我の全体

 被限定自我が生じるためには以下の階段を昇り切る必要がある。それらのうち、(1)-(3)は準備的段階、つまり、自我の習性の段階である。
(1) 意識的機能が感覚され把握され、機能イメージの素材が生成し記銘され保持されその活性が維持される。
(2) イメージ機能神経細胞路が活性化されその活性が維持される。
(3) 意識的機能が快の情動を生じ、快の自律感覚を生じ、機能イメージの素材から快の自律感覚へのイメージ情動神経細胞路が活性化されその活性が維持される。 (4) 状況が認識され、認識と同類性に基づくとともに時間的近さと神経細胞路に基づいて機能イメージが生起する。
(5) 機能イメージが生起するだけでなく想起される。
(6) 想起された機能イメージが活性化されたイメージ機能神経細胞路の興奮と伝達を生じる。
(7) 想起された機能イメージが活性化されたイメージ情動神経細胞路の興奮と伝達を生じ、快の自律感覚を生じ、結果として最も強い機能的衝動を生じる。
 (1)-(7)のすべての階段を昇り切って被限定自我の全体が生じ、意識的機能が生じる。
 それらのうち最も重要なのは(7)であり、準備的段階まで遡ると(3)である。その理由は『自我の習性』の章で説明される。

一時に多数の被限定自我が生起すること

 通常は、状況の中で一時に多数の機能イメージの素材が生起するが、それらのうち限られた数が想起される。さらに、ある機能イメージの素材が想起されたとしても、それが間接的に最も強い機能的衝動を生じなければ、それはそれが生じかけていた被限定自我の全体を生じず、意識的機能を生じない。言わば、理性系が意識的機能を提案しても情動系が却下する。そのように一時に多数の被限定自我が生起するが、通常は一時に一個の被限定自我が生じる。
 例えば、ある限定自我が対人不安を抱えながら対人機能を生じる必要がある状況にあるとき、以下の(1)(2)(3)が考えられる。ところで、この場合の状況は人間関係だけでなく対人不安も含む。そのように自我の状況は外的状況だけでなく内的状況を含む。
(例1)対人不安が認識され、対人回避の機能イメージが想起される(1)。だが、対人機能を生じる必要性が認識され、それは別の不快の自律感覚を生じ、最も強い機能的衝動を生じない。それから、対人直面の機能イメージが想起される(2)。だが、それは対人不安が増大させ、それも最も強い機能的衝動を生じない。結局、直面とも回避ともつかない中途半端な対人機能の機能イメージが想起され(3)、それが安心感を生じ、最も強い機能的衝動を生じ、そのような対人機能が生じる。これらは一秒以内に生じる。
 たが、(1)(2)(3)のそれぞれについても、例えば以下のような多数の具体的で詳細な被限定自我が生起する。
(例2) (1-1)職場や学校に行かない
(1-2)職場や学校に行くが、対人関係を避ける
(1-3)病気の振りをして休む
(1-4)軽く振る舞う
(1-5)他人が近寄り難い雰囲気を作る
(2-1)不安を抱えつつ職場や学校に行って対人関係に入る
(2-2)人間関係が異常であると判断したとき、改善する
(3-1)心理士に相談する
(3-2)抗不安薬を飲む

だが、それらも一例に過ぎず、実際は一時に通常、さらに多数の被限定自我が生起するが、生じるのは通常、一時に一個である。また、機能イメージから期待と不安…などの快不快の自律感覚が入り乱れて生じる。
 しかも、一秒の間にも通常、多数の被限定自我が生起する。つまり、それらは一秒以内の出来事である。また、そのような被限定自我を含む限定自我は自我をもつ動物が覚醒している限り機能する。つまり、自我は一時的で特殊な機能ではなく連続的で基本的な機能である。
 だから、自我は「葛藤」や「躊躇」と異なる。前者が連続的で基本的な機能であるのに対して、後者は一時的で特別な機能である。また、自我は思考とも異なる。思考については後述する。簡単に言って、何を思考するか、何について思考するか、どのように思考するかを決定するのが自我である。
 そのとき現在に生じている自我は通常、一個である。そのようなそのとき現在に生じている自我を「現自我」と呼べる。
 そもそも、生起し想起されるイメージは次々と速やかに変化し、機能イメージについても同様である。また、それに対応して快不快の自律感覚と機能的衝動も速やかに変化する。また、状況も速やかに変化する。だから、生起し生じる被限定自我、そして現自我も次々と速やかに変化する。そのような速やかな変化は一時的で特別な状態ではなく、持続的で基本的な状態である。
 限定自我と被限定自我の区別を逐次していると文章が煩雑になるので、文脈から明らかなときと特にその区別の必要がないときは、限定自我または被限定自我を自我と呼ぶことにする。

自我が含む快不快の自律感覚の微妙さ

 想起される機能イメージが不快の自律感覚を生じたのでは機能的衝動は生じずその被限定自我は生じず、生起するだけで終わる。だが、その自律感覚が快か不快かは非常に微妙である。例えば、何をやっても苦境を打開する方法がなさそうなときは、少しでもましな方法が期待に似た快の自律感覚を生じうる。極端な例だが、どんな訴え方をしても重刑になりそうなときは、最高刑を免れる訴え方が期待を生じえる。
 だが、それは極端な例である。通常、自我が含む自律感覚はそんなドラマティックなものではなく、日常的なものである。例えば、遅刻しそうなとき、タクシーに乗れば間に合うと思い、期待が生じる。だが、タクシーに乗ると金がかかると思い、不安が生じる。そこで、遅刻による損失とタクシー代を比較する。後者の方が高ければ、遅刻してもよいと思い、楽になる。結局、遅刻する。そんなものである。通常の自我が含む快不快の自律感覚はそのように日常的で微妙なものであり、軽い不安と期待から成っている。それらが重くなるのは人生で数えるほどしかない。それがわたしたちの人生である。

現自我の連続性

 そのような軽い自我、重い自我、後述する段階を踏む自我を含めて、覚醒している限り、常になんらかの現自我が生じており途絶えることはない。現自我の移り行きの例を挙げてみるが、それが持続的で基本的な状態であることを示すために日常的な例を挙げてみる。例えば、外出しようとする。起き上がろうとする。洗面所に行こうとする。顔を洗おうとする。服を着ようとする。鍵、財布、携帯電話…などを取ろうとする。忘れ物がないか確認しようとする。玄関まで行こうとする。戸締りしようとする。戸締りを確認しようとする。何で行くか考えようとする…など。

意識的機能の概略

 他者または自己の意識的機能は感覚され把握され機能イメージとして生成し記銘され保持され想起されるとともに、機能イメージの素材は『記憶をもつ動物の心理学』で説明されたように次々と分岐する神経細胞路を通っていくつかの群に分類される。例えば、わたしたち人間は意識的機能を直面、回避、待機という群に分類する。
 ところで、直面、回避、待機は人間に限らず少なくとも哺乳類に基本的な意識的機能の群である。例えば、肉食動物も天災を回避する。草食動物が肉食動物からすぐに回避することはかえって気づかれ捕まえられる危険を高めることがあり、待機は個体と種の生存に適した機能であることがある。人間では直面は戦い異なる。例えば、話し合うことが直面であることがある。
 さらに、そのような意識的機能の群はイメージとして想起される可能性をもつ。例えば、人間には直面、回避、待機という群がイメージとして想起される。
 さらに、そのような群のイメージは抽象的で概略的だが、そのイメージが、まずまたは、いわば背景として想起され、次にまたは前景として状況に応じて具体的で詳細なそれに属する意識的機能の機能イメージが想起され、その機能イメージを含む自我の全体とそれに属する意識的機能が生じることが多い。例えば、危険に際して、逃げることが既に思い浮かんでおり、そのうえで具体的で詳細な方法が思い浮かぶ。
 また、同じ群に属する意識的機能の機能イメージは類似性によって同様の快不快の自律感覚と機能的衝動を生じることが多い。
 さらに、そのような概略のいくつかは個体、社会、種と状況を超えて、意識的機能を分類することができる。直面、回避、待機の例を前に挙げた。。
 これらの著作では以下の属性を満たす意識的機能の群をそれらの「概略」と呼ぶことにする。

(1)通常、イメージとしてまずまたは背景として想起され、次にまたは前景として状況に応じて具体的で詳細なその群に属する意識的機能の機能イメージが想起され、その機能イメージを含む自我の全体とそれに属する意識的機能が生じる。
(2)個体、群れ、種と状況を超えて意識的機能を分類できる。

自我の概略

  ある概略に属する意識的機能を生じる可能性をもつ被限定自我の集合を「(被限定)自我の概略」と呼べる。前述のとおり、意識的機能の概略が、まずまたは、いわば背景としてイメージとして想起され、次にまたは前景として状況に応じて具体的で詳細な機能イメージが想起されることが多い。そのような概略のイメージと機能イメージは一つの複合イメージとして見なせる。そこで、これらの著作では意識的機能の概略のイメージを機能イメージに含めることにする。そのように定義すると通常、ある自我の概略はその意識的機能の概略のイメージを含む。
 前述の意識的機能の概略が満たす属性を自我の概略から見直すと、後者は以下の属性をもつ。
(1)ある概略に属する意識的機能を生じる可能性をもつ被限定自我の集合である。その中で通常、意識的機能の概略がイメージとしてまずまたは背景として想起され、次にまたは前景として状況に応じて具体的で詳細なその概略に属する意識的機能の機能イメージが想起される。
(2)個体、群れ、種と状況を超えて被限定自我を分類できる。
 『習性をもつ動物の心理学』で説明されるように自我と意識的機能の概略は直面、回避、粘着、自己顕示、破壊、支配…などを含む。

自我の習性

 繰り返すが、一定の状況(S1)の中で一般に生じうる被限定自我の集合(e1,e2,…)を(E)として、
別の状況(S2)によって変動する数を(n)として、一時に、
(n)個以下の(E)が生起したとき(C1)は、それらのすべてが生じ、
(n)個を超える(E)が生起したとき(C2)は、
自我の実質的限定機能(SLF)によって、
他を排除して生じる能力(EA)が最も大きい(n)個の(F)が生じる。
被限定自我の集合(E)と自我の実質的限定機能(SLF)と(E)を処理するその他の機能が限定自我である。
 ここで、(C1)における被限定自我が生じる能力は生起する能力(これを(AA)とする)であり、(C2)における被限定自我が生起する能力は、生起する前は生起する能力(AA)であり、生起した後は他を排除して生じる能力(EA)である。そのような状況と場合におけるそれぞれの被限定自我の生じる能力を被限定自我の生じる能力、被限定自我の能力、被限定自我の生じる習性、被限定自我の習性と呼べ、集合(E)に属する被限定自我の生じる能力の行列を状況(S1)における(限定)自我の習性と呼べる。
 被限定自我の習性はそれぞれの状況と場合において係る神経細胞群と神経細胞路の活性、興奮と伝達の早さ広さ長さから理論的に数値化することはできる。だが、実際は不可能である。
 前述のとおり、被限定自我は概略に分類される。そのような概略に属する被限定自我の習性を数値化することができるなら、それらの平均を被限定自我の概略の習性とすることができる。だが、前述のとおりその数値化は実際は不可能である。
 だが、生じた意識的機能を観察することは可能であり、意識的機能の概略に分類することは可能である。また、ある概略に属する意識的機能の生じる強さ、持続時間、頻度を数値化することは可能である。それらのことをした後、被限定自我は意識的機能を直接的に生じるのだから、被限定自我を被限定自我の概略に分類し、ある概略に属する被限定自我の生じる強さ、持続時間、反復回数を数値化することは可能である。ある概略に属する被限定自我の生じる強さ、持続時間、反復回数を(被限定)自我の(概略の)習性と呼べる。また、被限定自我の概略の習性の行列を(限定)自我の(概略の)習性と呼べる。例えば、それは、(粘着的習性, 自己顕示的習性, 支配的習性, 破壊的習性,...) = (58, 61, 65, 57,...)と数値化、数式化できる。
 同一の概略に属する被限定自我の習性は類似性によって共に形成される。つまり、その習性は概略を単位として形成される。例えば、『習性をもつ動物の心理学』で説明されるように、自我の概略の一つに自己顕示があり、その習性の強い人は、様々な仕方て自己顕示するが、どのような人間関係においても同じ印象を与える。
 ところで、自我の概略は前述の(1)(2)の属性をもつ。さらに、この節で説明したとおり、自我の概略は(3)被限定自我の習性はそれを単位として形成されることを属性としてもつ。
 限定自我の習性は一見したところ、「人格」と呼ばれるものに等しい。確かに限定自我の習性は人格と呼ばれるものの最も重要な部分である。だが、後者は情動の習性、知覚、連想の習性、意識的機能の能力、思考の能力と習性を含む。
 限定自我の習性は被限定自我の習性の行列だから、前者は後者を含む。だが、それらを逐次、区別していると文章が煩雑になる。そこで、それらの区別が明らかなときまたは不必要なときは前者または後者を自我の習性と呼ぶことにする。

自我の習性の形成

 自我の習性を主として形成するものは何だろうか。つまり、自我を決定づけるものは何だろうか。つまり、どの被限定自我の概略が生じるかを決定づけるものは何だろうか。
 イメージ機能神経細胞路の活性はなかなか低下せず、どのイメージ機能神経細胞路がどの程度、活性化されるかはほとんど問題にならない。わたしたちはやる気さえあればどんな意識的機能も開始できる。できないとすれば、たいていはやる気がないからである。例えば、泳げない人も泳ごうとしてプールでジャンプすることはでき、イメージ機能神経細胞路は興奮し伝達している。それから先ができないのは水泳に関わるイメージイメージ神経細胞路がうまく活性化されていないからであり、体の力を抜いて水に浮くという意識的機能の能力がまだ形成されていないからである。つまり、それはイメージ機能神経細胞路の活性ではなくイメージイメージ神経細胞路の問題であり、自我の習性ではなく意識的機能の能力の問題である。例えば、後者はせいぜい話し方の上手さを決定する程度であり、誰と何について話すかを決定しない。
 認識された状況からどの機能イメージが想起されるかは重要であるように見える。何度も使う比喩だが、認識から機能イメージの想起に至る機能、つまり理性系の前半がいくつかの方法を提案し、情動系がそれらのうちどれを採用するかを決定し実行する。そもそも提案されない方法は決定することも実行することもできない。
 だが、機能イメージが想起されたとしても、それが最も強い機能的衝動を生じなければ、それを含む自我は生起するだけで生じず、それは意識的機能を生じない。結局、最も重要なものは決定権をもつものである。
 もし、ごくわずかな機能イメージしか想起されないとすれば、それらはまだ重要である。だが、実際は一秒間にも多様なイメージが想起される。何故なら、わたしたちは家庭と学校と職場において様々な実践的、倫理的、法的な方法や社会においては非倫理的で違法な方法も教えられているからである。
 だから、自我の習性の形成に決定的なものは情動系の中にある。情動系の中で何が決定的かを辿ってみる。最も強い機能的衝動とイメージ機能神経細胞路の興奮と伝達が機能的神経細胞群の興奮と伝達を生じ意識的機能を生じる。そのように意識的機能が生じるときには、被限定自我の全体が生じている。最も強い機能的衝動を生じるのは最も強い快を伴う自律感覚である。自我において最も強い快を伴う自律感覚が生じるためには機能イメージの素材からそのような自律感覚へと至るイメージ情動神経細胞路が活性化され活性がある程度維持される必要がある。そのためには、以下のこと(1)が強くまたは持続的または反復的に生じる必要がある。つまり、意識的機能が生じ、その意識的機能が快の情動を生じ、その快の情動が快の自律感覚を含むか生じ、その意識的機能の機能イメージからその快の自律感覚に至るイメージ情動神経細胞路が強くまたは持続的または反復的に活性化され活性がある程度維持される。繰り返すが、それらのことが強くまたは持続的または反復的に生じる必要がある。
 すべての神経細胞と神経細胞群の活性は時間とともに低下する。イメージ情動神経細胞路の活性もそうである。だから、『記憶をもつ動物の心理学』で説明された健忘に似た事態が生じる。そのような事態を防ぐためにも、イメージ情動神経細胞路は強くまたは持続的にまたは反復的に活性化される必要がある。
 もちろん、(2)機能イメージも強くまたは持続的または反復的に想起され、『記憶をもつ動物の心理学』で説明された神経細胞群と細胞路が活性化され、活性がある程度維持される必要がある。だが、前述のとおり、それは自我の習性の形成にとって決定的ではない。また、(3)イメージ機能神経細胞路が強くまたは持続的または反復的に興奮し伝達し、それらが活性化され活性がある程度維持される必要がある。だが、前述のとおりそれは意識的機能の能力の形成に係る。
 結局、自我の習性を主として形成するものは、どのイメージ情動神経細胞路がどの程度活性化されるかであり、意識的機能がどれほど強くまたは持続的または反復的に快の情動を生じるかである。例えば、幼児期後半に家庭以外の人間関係に入って、疎外されず楽しむことがほぼ毎日、数か月続いたとき、あまり対人回避せずに対人機能を生じる自我の習性が形成される。この例では、対人機能の機能イメージから期待に似た快の自律感覚に至るイメージ情動神経細胞路が活性化されその活性が数か月は維持されるだろう。

自我における機能イメージと自我の概略と欲求における対象イメージ

 自我における機能イメージは欲求における対象イメージに似ていると思われるかもしれない。だが、そもそも、自我における機能イメージがイメージ機能神経細胞路とイメージ情動神経細胞路の両方の興奮と伝達を直接的に生じえるのに対して、欲求における対象イメージは前者を直接的に生じえない。そもそも、機能イメージは自我に含まれるのに対して、対象イメージは含まれない。そもそも、機能イメージが意識的機能そのものの知覚によって生じるのに対して、対象イメージは意識的機能の対象、手段…などの知覚によって生じる。
 また、欲求における対象イメージが一般的で抽象的であるのに対して、自我における機能イメージは個別的で具体的である。例えば、仕事をする欲求における対象イメージが生計を立てる、経験を積む…などのイメージから構成されるのに対して、仕事をする自我における機能イメージは特定の日時に特定の場所で特定の人と会合する、今はこの書類を作成する…などから構成される。
 自我の概略はまた別様に欲求の対象イメージと似ていると思われるかもしれない。確かに自我の概略は抽象的である。だが、意識的機能の概略は意識的機能を分類でき、自我の概略は被限定自我を分類できる。また、自我の概略も欲求の対象イメージも間接的に機能イメージを生じえるが、後者のほうがより間接的に生じる。
 その結果として、機能イメージ、自我、自我の概略は対象イメージ、欲求より個人の中ではとらえにくく個人の間では語りにくい。そのために、自我の習性はいわゆる人格の中で最も重要であり、少なくとも欲求の習性より重要なのだが、自我の概略が欲求の対象に隠れて見えなくなってしまうことがある。それには注意する必要がある。

一般の衝動と機能的衝動

 例えば、急激な変化に衝撃を受けたとき自我が機能しにくくなることがあるが、そのような衝動は自我における衝動から区別される必要がある。そのような衝動は理性系の前半部分にも発散し混乱させることによって自我を機能しにくくさせると考えられる。

段階を踏む自我

 例えば、自我が恋人に会おうとしても、すぐに会えるわけではない。自我は恋人に電話し、日時場所を約束し、シャワーを浴び、化粧をして服を着てドアに鍵を掛ける必要がある。自我は電車に乗ろうとするが、そうするためには駅まで歩かなければならない。歩いていると信号で立ち止まるまたは無視しなければならない。この場合、信号で止まるにも自我が働く必要があり、無視するには自我がもっと強く働く必要がある。歩きながらも自我は恋人と会って何をするかを考える。一つの考えで駄目なら、別の自我が別の考えを始める必要がある。駅に着いたら、切符を買う必要があり、そのためには多数の自我が販売機まで行き、ポケットやバッグから財布を取り出し、カネまたはカードを取り、それらを販売機に入れ、お釣りを取り、改札口へ向かわなければならない。それらはすべて意識的機能であり、多数の自我が働く必要がある。そのように、彼または彼女に会うまで、また、電車に乗るまでにも、多数の自我が機能している。そのように、自我は状況の中で段階を踏む必要があり、日常生活のほとんどは段階である。
 ともかく、覚醒している限り、なんらかの自我が生じており、途切れることはない。

自我の個体発生と系統発生

 人間の個体発生で、一般に、思春期以降の人間が最も明確で強い自我をもつ。だが、思春期以前、幼児期、乳児期にもそれらなりの未熟な自我がある。胎児に自我があるとは考えにくいが、あっても不思議ではない。例えば、早く出ようと思っているかもしれない。
 動物の系統発生では、猿、犬、猫…などの進化した哺乳類にもそれなりの未熟な自我があると考えられる。

意識的機能

意識的機能

 自我について他のことを説明する前に意識的機能をより詳しく説明する。そのほうが自我が分かりやすくなると思うので。
 前述のとおり自我を定義すると、意識的機能を自我から直接的に生じることが可能な機能と定義することができる。
 自我とそれから生じる意識的機能を「自我と意識的機能」、意識的機能をしようとして意識的機能すること、意識的機能をしようと思って意識的機能することと呼べる。
 何が意識的機能かは、〜しようと思ってすぐに〜できるかをテストしてみればだいたい分かる。例えば、肘関節を曲げようと思って曲げることができる。だから、肘関節を曲げることは、意識的機能であり、前述の単位的随意運動に含まれる。また、単位的随意運動だけでなく、複合随意運動も意識的機能に含まれる。例えば、座っているとすぐに歩けないが、立つことはでき、立つとすぐに歩くことができる。だから、立つこと、歩くことは意識的機能である。そのように単位的随意運動と複合随意運動を含む随意運動は意識的機能に含まれる。だが、例えば、随意運動だけでなく下記も意識的機能である。例えば、丸と四角が想起されているときに、丸の中に四角をまたは四角の中に丸を内接させようと思って内接させることができる。それは、意識的機能であり、後述するイメージ操作に含まれる。それに対して、例えば、不安、恐怖などの感情は、感じようと思ってすぐに感じることができず、意識的機能ではない。
 意識的機能は前述の随意運動と総合機能と後述するイメージ操作と思考に大別される。随意運動は単位的随意運動と複合随意運動に大別され、イメージ操作はイメージの結合、分解、加工…などを含み、思考は狭義の思考、追想、予想、空想に大別され、人間の総合機能は、話し言葉を話すこと、書き言葉を書くこと、食事をすること、水を飲むこと、性的機能、勉強すること、仕事をすること、遊ぶこと、対人機能…などを含む。人間では性的機能でさえ総合機能に含まれ意識的機能に含まれる。例えば、人間は性的欲動が沸いたからといってすぐに性的機能に及べない。通常、互いに同意しなればならず、服を脱がなければならない。そもそも、服を着る脱ぐことが総合機能に含まれ意識的機能に含まれる。

自発的純粋心的機能

 随意運動、総合機能はすべて、意識的機能である。それに対して、純粋心的機能のうち、感覚、知覚、連想、感情、欲求、複合的情動は、自我から直接的に生じるわけではない。自我から間接的に生じることはあるが、自我が生じなくても生じることが多く、いわゆる「自発的に」生じる。だから、それらを「自発的」純粋心的機能と呼べる。
 それに対して、イメージの操作と思考は後に定義される純粋心的意識的機能である。

イメージ操作

 意識的機能は前述の随意運動、総合機能だけでなく、この節で説明されるイメージ操作と次節で説明される思考を含む。
 少なくとも人間では以下のようなことが生じる。
(1)想起されるイメージ(ri)をどのように操作するかという機能イメージ(fi)が想起され、 (2)そのような機能イメージ(fi)を含む自我が生じ、 (3)イメージ(ri)が(fi)のように操作される
ことがあり、(3)は意識的機能である。意識的機能(3)を「イメージ操作」、イメージを操作することとも呼べ、(1)(2)(3)を自我がイメージを操作することと呼べる。
 思考、追想、予想、空想…などのより複雑な純粋心的意識的機能はイメージ操作と連想から構成される。
 イメージ操作は以下を含む。簡単な例をそれぞれに添える。試していただきたい。

(1) イメージの結合
二つの円のイメージを外接させる。
(2) 分解
外接させた円のイメージを引き離す。
(3)変形
円のイメージを楕円のイメージに変形する。
(4)近づけ
遠くで想起される人の顔のイメージを近づける。
(5)遠ざけ
近くで想起される人の顔のイメージを遠ざける。
(6)切り替え
他の人の顔のイメージを近づけることによってある人の顔のイメージを遠ざけるまたは消滅させる。
 『記憶をもつ動物の心理学』で説明されたとおり、イメージの想起には比較的な量があり、イメージは比較的に「強く〜弱く」想起される。だが、ここでは視覚的イメージを用いたほうが分かりやすいと思うので、強い〜弱いことを視覚的比喩的に「近い〜遠い」こととも呼ぶことにする。自我はより弱く(遠くで)想起されたイメージをより強く(近くで)想起させることができる。それをイメージの近づけとも呼び、その逆をイメージの遠ざけとも呼ぶことにする。だが、後者は前者より困難である。それどころか遠ざけようとすればするほど近づき執拗に想起されるものである。そもそも、自我が想起されていないイメージを直接的に想起させることは不可能である。また、想起されているイメージを直接的に想起されないようにすること、つまり、消し去ることは困難または不可能である。また、一時に一定数以下のイメージが想起され、いくつかのイメージが強く想起されるとき、(n)は小さくなり、他のイメージは弱く想起されるまたは消滅する。それらのことから、自我は他のイメージを近づけることによってイメージを遠ざける。それを自我がイメージをいくつかのイメージから他のイメージへ「切り替える」ことと呼べる。自我がイメージをいわゆる「抑圧」することは困難または不可能であり、自我は多くの場合、イメージを切り替える。
 複合イメージは、自我によるイメージ操作がなくても、『記憶をもつ動物の心理学』で説明された記憶の中だけでも生成する。だが、自我による結合、分解、変形、再結合…などによって、より複雑な複合イメージが生成する。
 また、自我によって操作されたイメージは強く記銘される。簡単に言って、注意されたものが記憶され、注意されないものは記憶されない。

思考

 前述のとおり、感覚、想起、知覚、連想は自発的心的機能であり、自我がなくても生じる。それに対して、イメージの操作、思考は自発的心的機能ではなく、純粋心的機能であり意識的機能である。それらを「純粋心的意識的機能」と呼べる。
 人間のイメージの想起、知覚、連想、自我、イメージの操作、思考はほとんどいつも言語イメージを含む。だが、「言語イメージを含む」という表現を逐次していると文章が煩雑になるのでそれを省略することにする。
 少なくとも人間のそれぞれにおいて、自我がAについて考えようとAをテーマとして設定し、Aから連想によっていくつかのイメージが想起され、自我が想起されるイメージのいくつかを操作し、自我がAをA'に修正し、A'をテーマとして設定し…と続くことがある。そのような自我と連想の協調を「思考」と呼べる。自我は〜について考えようと思って〜を考えている。思考は純粋心的意識的機能に含まれる。例えば、筆者であるわたしはこの著作の内容を考えようと思って考えている。
 思考のうち現実のもの、過去のもの、未来のもの、架空のものの想起が優勢なものをそれぞれ、狭義の思考、「追想」「予想」「空想」と呼べる。
 思考には自我が優位なそれと連想が優位なそれがある。後者では思考が自発的に生じているように見える。いわゆる「とりとめもないことを考えていて、ふと我に帰る」というのが後者から前者に移行することである。

心的機能と言語

 繰り返すが、人間のイメージの想起、知覚、連想、自我、イメージの操作、思考の中ではほとんどいつもイメージは言語イメージを含む。言語の発生がなければ、複雑な心的機能は発生しない。複雑なものに対して、単純な心的機能は発生しえる。例えば、まだ一言も獲得していない新生児においても不安、恐怖、期待…などの感情が生じる。そのように感情、欲求は言語イメージを含まないことがある。
 また、一見したところ、思考が最も複雑であり、思考において言語が優位であるように見える。だが、一概にそうでもない。自我が言語イメージを操作した後、しばらくは連想の中で文法と語法に従って言葉が連想されることがある。そこでは自我より連想において言語が優位である。それどころか、イメージの操作と思考において自我が言語を超えていることがありえる。

複合イメージの構築、解消、忘却

 複合イメージのいくつかは、思考の中で自我によるイメージ操作によって、結合され分解され変形され、記憶の中で記銘され保持され想起され、結合され分解され変形され…と続く。そのようにして、複合イメージが、結合が優位を占めるとき、より複雑になることもあり、分解が優位を占めるとき、より単純になることもあり、『記憶をもつ動物の心理学』で説明されたように単純に忘却されることもある。個体の思考の中で、結合が優位を占め複合イメージがより複雑になることを複合イメージの「構築」、複合イメージが構築されることと呼べ、分解が優位を占め複合イメージがより単純になることを複合イメージの「解消」、複合イメージが解消されることと呼べ、複合イメージが解消された後で構築されることを複合イメージの「再構築」、複合イメージが再構築されることと呼べる。
 日常でも科学でも、解消と再構築は構築より困難で重要な機能である。例えば、天地創造の解消と進化論の再構築は十九世紀と二十世紀の人々の一部には困難または不可能なことだったし、今でもそうである。だが、そもそも、自我によって操作されず思考されない複合イメージは解消ではなく単純に忘却されることが多い。

観念=思想

 複合イメージの素材のいくつかは、それぞれの個体の自我の中で前節のように構築、解消、忘却されるだけでなく、人間の社会と歴史の中で話し言葉、書き言語、芸術…などによって伝達され、伝達された複合イメージの素材がまたそれぞれの個体の中で構築、解消、忘却され…と続く。そのように構築、解消、忘却、伝達される複合イメージの素材または複合イメージを「観念」または「思想」と呼べる。
 操作され、思考され、伝達されることによって、結合が優位を占め観念がより複雑になることを観念の構築、観念が構築されることと呼べ、分解が優位を占めより単純になることを観念の解消、観念が解消されることと呼べ、解消された後で構築されることを観念の再構築、観念が再構築されることと呼べる。
 社会と歴史の中での観念の解消と再構築は個人における複合イメージのそれらよりさらに困難である。何故なら古い観念によって権益と安定を得ている人々が古い観念を守り新しい観念を攻撃するからである。地動説に対する天動説、民主制に対する君主制、進化論に対する天地創造説がその典型である。

現実性

 複合イメージは自我がなくても記憶の中だけでも生成する。自我なしに記憶の中だけで生成した複合イメージはすべて、現実的である。より正確には、自我がなければ現実性は問題にならない。
 それに対して、自我が思考の中でイメージを操作することによって、現実的でない複合イメージが生成することがあり、現実性が問題となる。また、現実性を巡って研究、論争…などが生じる。
 また、人間は、文学、芸術…などで、敢えて非現実的な複合イメージを構築する。それが「虚構」である。
 さらに、人間は敢えて現実的に見えて実際は非現実的な複合イメージを構築する。それが「嘘」である。
 また、人間は知らずのうちに現実的に見えて実際は非現実的な複合イメージを構築する。それは「錯覚」または「誤解」に近い。

意識的機能の能力

  人間社会の中では意識的機能の能力が、それがすべてと言っても過言ではないほどに問題とされる。例えば、走る能力、泳ぐ能力、話す能力、書く能力、思考力、計算する能力、コンピュータを使う能力、仕事をする能力、対人機能能力…などが問題とされる。
 意識的機能は単位的随意運動、複合的随意運動、複合的随意運動、総合機能、純粋心的意識的機能に大別される。単位的随意運動の能力は、実質的には横紋筋の収縮力であり、先天的に形成されるように見える。だが、横紋筋も使わなければ弱る。だから、単位的随意運動の能力の一部は後天的に形成されると言える。他の種の意識的機能については、さらに多くの部分が後天的に形成される。
 前述のとおり、強くまたは持続的または反復的に、機能が生じ感覚されそのイメージが生成し記銘され保持され、イメージ機能神経細胞路が活性化されて、意識的機能の能力が形成される。歩くという複合随意運動の能力の例を前に挙げた。

自我U

思考の中の自我

 連想と自我によるイメージの操作が一つのまとまりのある機能として構成するものが思考であり、そのような思考の中の自我は思考に専門化している。そのような自我は論理学的思考、哲学的思考、科学的思考、専門的職業的思考…などにおいて特に専門化する。
 ヘーゲル以前の哲学者たちの思考が思考と思考の中の自我に偏向していたことは否定できない。わたしたちは後述する思考を開始する自我と思考を巻き込む自我の思考を怠ってはならない。

思考を開始する自我

 思考を開始する自我もある。例えば、教授になるという欲求によって専門的思考を開始する研究者の自我がそれである。義務とはいえ戦略的または戦術的思考を開始する司令官の自我がそれである。一般に窮地にあって打開策を考えようとする自我はそれらに含まれる。一般に好奇心から思考を開始する自我はそれらに含まれる。古代ギリシアの哲学者たちの「フィロソフィア」(知への愛)はそれらに含まれるかもしれない。
 もちろん、自我が思考を開始したとしても、その思考が必ずしも完成するわけではない。例えば、窮地にあって打開策を考え始めても、よい策が見つからないことが多い。

思考を巻き込む自我

 人間の自我の中では通常、自我がイメージとして想起される状況を操作し、状況を考え、イメージとして想起される方法、つまり「いかにするか」を操作し、方法を考え、その方法のイメージから機能イメージが想起され、快不快の自律感覚が生じ、自我の全体が生じ、意識的機能が生じる。そのような自我は自我を含む思考を含む多重の自我である。思考を巻き込んでいるとも言える。だから、そのような自我を「思考を巻き込む自我」と呼べる。そのような自我と思考は前節で説明された専門的な自我や思考と異なる、人間の日常的な状態である。その意味でのみ人間は「考える葦」である。
 そのような思考を巻き込む自我は人間の個体と種が生存するのに適した機能である。ときには最も適した機能であるように見える。人間の真骨頂のようにさえ見える。また、この思考を巻き込む自我において人間は初めて自由であるように見える。
 それはともかくとして、通常、自我はそのように思考を巻き込んでいる。だが、そのことの説明を逐次していると文章が煩雑になる。だから、その説明を省略し、思考を含む自我を単に自我と呼ぶことにする。
 さて、以下で人間がそんなに適者ではなく自由ではないことの例を挙げざるをえない。

自我の内的状況としての情動

 前述のとおり、一般に身体機能の状況は外的状況と内的状況に区別される。自我の状況についても同様である。
 自我の外的状況の中で最も重要なのは、当然、人間関係である。人間関係は生活するためにも仕事や勉強をするためにも遊ぶためにも重要である。
 自我の内的状況の中で最も重要なのは自己の情動である。
 情動は知覚され、自我は状況の中で快を増大または維持し不快を減退させる方法を考え、その方法から機能イメージが想起され、自我は意識的機能を生じる。例えば、強い空腹が知覚されると、自我は当然、何かを食べる方法を考える。また、何かに恐怖や不安を覚えるときはそれを回避する方法を考え、危険を防止する。恐怖と不安という苦痛を減退させることは、危険を防止する手段でもある。そのように外的状況と内的状況の両方を参照すること、特に情動に参照することは、個体と種の生存に最も適した機能であるように見える。

自我の習性と意識的機能の能力の未発達

 最も重要な例を挙げる。乳幼児期に家庭またはその周辺で対人関係において暴力、無視、疎外…などの身体的または精神的な苦痛を受けたとき、それ以降、強い対人不安が持続する。そのために対人機能が機能イメージとして想起されても対人不安に似た強い不快の自律感覚が生じる。それに対して、対人回避が機能イメージとして想起されると期待に似たわずかな快の自律感覚が生じる。自律感覚のほとんどが強い不快であるとき、そのようなわずかな快の自律感覚からも最も強い機能的衝動が生じ、対人回避が生じる。そのようにして対人回避が持続的または反復的に生じる。すると、対人回避しようとする自我の習性が形成される。すると、対人回避以外の対人機能は生じず、対人機能の能力は形成されず未熟にとどまる。悪循環である。

イメージからの回避

 想起されるイメージはイメージ情動神経細胞路の興奮と伝達を生じ快不快の自律感覚を生じえる。それが端的に言って、感情と欲求である。また、想起される機能イメージも同様に快不快の自律感覚を生じえる。それが自我の一部である。さらに自我は『イメージの操作』の節で説明されたようにイメージを切り替えることができる。考えてみれば驚くべきことだが、自我は不快の自律感覚を生じるイメージを他に切り替えて一時的に不快を減退させることができる。これは特殊な自我の機能ではなく、わたしたちが日常でよくやっていることである。例えば、わたしたちは過去の恥ずかしい振る舞いを考えないようすることはあるが、それである。
 だが、そのように減退させることができるのは精神的苦痛だけである。身体的苦痛はイメージを切り替えることで減退させることができるようなものではない。そもそも、想起されるイメージから生じる精神的情動を自我はイメージを操作することによって間接的に変えることができるだけである。自我が苦痛を生じるイメージを他に切り替えることによって間接的に精神的苦痛を一時的に減退させることを自我による「イメージからの回避」、自我がイメージを回避することと呼べる。
 最も重大なのは、『習性をもつ動物の心理学』で説明されるとおり、自我がイメージとして想起される自己の陥る習性を回避することである。イメージとして想起される粘着性、自己顕示性…などの自己の陥る習性は自己嫌悪、恥辱、不安…などの強い苦痛を生じるので、自我はそれらを自己の権力、美貌…などに切り替えて回避する。その結果、陥る習性は一向に減退しない。

被限定自我と限定自我の強さ

 一時に複数の被限定自我(e1, e2, …)が生じることがある。例えば、歩きながら考えているとき、歩こうとする被限定自我と考えようとする被限定自我が一時に生じている。その場合、(e1, e2, …)の機能イメージの想起、快不快の自律感覚、機能的衝動の強さ明確さに比較的な差がある。例えば、いつもの道を歩き(e2)ながら複雑なことを考え(e1)ているとき、e1のそれらはe2のそれらより強く明確に生じる。そのような場合、e1を「強い被限定自我」と呼べ、e2を「弱い被限定自我」と呼べる。
 さらに、e3の機能イメージが最も鮮明で強く想起され、e4の快不快の自律感覚と機能的衝動が最も強く鮮明に生じるということがありえる。例えば、道のりを変えることを考え(e4)ながらも、険しい道を歩いている(e3)とき、e4の機能イメージがe3のそれらより鮮明で強く想起され、e3の快不快の自律感覚と機能的衝動がe4のそれらより強く明確に生じる。そおような場合、e3を「情動が強い被限定自我」または情動的被限定自我と呼べ、e4を「理性が強い被限定自我」または理性的被限定自我と呼べる。
 また、数秒から数分の間に次々と生じる被限定自我(et1, et2, …)の間にも同様のことが言える。例えば、休日に家にいて(et1)、遊びに出かける(et2)とき、et2の機能イメージの想起と快不快の自律感覚と機能的衝動はet1のそれらより強く鮮明に生じる。その場合、et1を弱い被限定自我と呼べ、et2を強い被限定自我と呼べる。怒りから何かを破壊しかけて(et3)、思い止まる(et4)とき、et4の機能イメージはet3より鮮明に強く想起され、et3の快不快の自律感覚と機能的衝動はet4のそれらより強く鮮明に生じる。その場合、et3を情動が強い被限定自我または情動的被限定自我と呼べ、et4を理性が強い被限定自我または理性的被限定自我と呼べる。
 前述の自我の概略ごとにそれらの強さと明確さに差があるとき、それは前述の自我の習性により、自我の習性の大部分は後天的に形成される。また、いくつかの概略をひとまとまりとしてそれらに差があるとすれば、それは『習性をもつ動物の心理学』で述べる陥る習性により、それらの大部分は後天的に形成される。
 そのような概略や概略のまとまりによらず、一般の被限定自我の機能イメージの想起、快不快の自律感覚、機能的衝動の強さと明確さに差があるとすれば、以下が考えられる。
(1) 自我を含む神経系の機能的または器質的障害による。例えば、薬物乱用。
(2) 自我に限らない神経系の自然的変化による。例えば、覚醒直後。入眠直前。
(3) 強い情動から生じる強い衝動による理性系の混乱による。例は前に挙げた。
(4) 自己の思考と情動を強く明確に表現することによる見かけの強さと明確さ。これは自我そのものの強さ、明確さではない。

惰性的意識的機能

 例えば、自我は、バッグを持って駅まで歩きながら、恋人のことを考えることができる。考えること(1)、歩くこと(2)、持つこと(3)はすべて、意識的機能である。そのように一時に複数の自我と意識的機能が生じることはある。だが、(2)(3)は「自動的」に進行していると見なせる。また、(2)(3)の被限定自我は弱くいわば背景で機能している。だが、そのように自動的に進行することができる意識的機能は単位的随意運動と複合的随意運動に限られている。総合機能と純粋心的意識的機能は自動的に進行しえない。前の例では(1)は自動的に進行しえない。そのように自動的に進行しえる意識的機能を「半自動的」意識的機能と呼べる。
 「自動的」という言葉に「半」という接頭辞を付けたのは以下の理由による。
 半自動的意識的機能でもそれを始めるときや状況に意識的機能に係る大きな変化が生じたときは自我が活発に働いている。例えば、歩き始めるときには、自我はどの道を行くかを考えながらそうする。バックがずりおちそうなときは、自我はどうすればずりおちないか考えながら持ち直す。
 また、形成されつつある複合的随意運動をするときにも自我が活発に働いている。例えば、乳児が歩くときには、それなりの幼い自我がほとんどいつも歩こうとしている。また、大人でも困難な半自動的意識的機能を生じるためにはほとんど常に自我が働く必要がある。たとえば暗闇の中を歩くときには、自我がほとんどいつも働いている。
 ところで、思考も惰性的に進むことがあるように見える。だが、思考は連想と自我によるイメージの操作から構成される。連想が優勢な思考が惰性的に進行するように見えることはあるが、連想は意識的機能ではなく自発的心的機能である。そのような自発性と自動性とは区別される必要がある。自発性が最初から自発的であるのに対して、自動性は最初は意識的だったのである。

段階または手段としての意識的機能

 現実的な状況の中で、多くの意識的機能は即座に実行できるわけではなく、意識的機能は段階を踏む必要がある。また、自我もそれをわきまえており、段階や手段の機能イメージが想起され段階や手段としての意識的機能を生じる。例えば、前の例を繰り返すが、自我が恋人に会おうと思ってもすぐに会えるわけではない。恋人に会うためにはまず、電話をして約束をする必要がある。さらに、約束したところに行くためには電車に乗らなければならず、そのためには駅まで歩かなければならず、そのためには家を出なければならず、そのためにはシャワーを浴びて化粧をして服を着なければならず…と続く。そのように日常生活のほとんどは段階または手段である。
 そこでは、以下のような重層構造がある。より一般的で抽象的なイメージからより特定的でより具体的な機能イメージが想起され、より弱く曖昧な快の自律感覚からより強く明確な快の自律感覚が生じ、より広く弱い衝動からより狭く強い衝動が生じる。また、元の一般的で抽象的なイメージがいわば背景として想起され続ける。

慣性的自我

 前述のとおり、被限定自我が複数生じるとき、半自動的意識的機能が生じるとき、段階または手段としての意識的機能が生じるとき…などには機能イメージの想起、快不快の自律感覚、機能的衝動が弱く曖昧な被限定自我が生じている。そのような被限定自我を「慣性的」被限定自我と呼べる。
 大きな苦痛がなく、状況に大きな変化がないとき、数秒から数時間の間、限定自我の中で生じるほとんどの被限定自我が慣性的であることが多い。そのような限定自我を慣性的(限定)自我と呼べる。簡単に言って、わたしたちの日常生活のほとんどは慣性的である。

自我の自由

 さて、一見して自由に見えた自我が自身の習性と情動と慣性にとらわれておりそんなに自由でないことが分かる。さらに、自我は『習性をもつ動物の心理学』で説明される自身の陥る習性にとらわれている。だが、同じその著作で説明されるようにして、自我が自身の陥る習性を減退させることは可能である。自我がそうするとき自我は最も自由に近い。

参考文献

記憶をもつ動物の心理学(日本語訳)
習性をもつ動物の心理学(日本語訳)
生存と自由(日本語訳)

[訳注:この日本語訳に関するお問い合わせはNPO法人わたしたちの生存ネットまでお寄せください。]
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