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感覚とイメージの想起
―記憶をもつ動物の心理学

  この著作では、この『感覚とイメージの想起―記憶をもつ動物の心理学』を「この著作」と呼べ、この著作と『自我とそれらの傾向―自我をもつ動物の心理学』と『悪循環に陥る傾向への直面―習性をもつ動物の心理学』を「これらの著作」と呼べる。これらの著作は一つの著作とも見なせ、これらの著作のそれぞれは一つの著作を構成する章とも見なせる。これらの著作を一つの著作として「心理学三部作」とも呼べる。これらの著作と『生存と自由』と『生存と自由の詳細』と『それぞれの国家権力を自由権を保障する法の支配系と社会権を保障する人の支配系に分立すること』と『特定のものと一般のもの』を「これらの著作」とも呼べる。

ものそのものと心的現象として現れるもの

ものそのものと心的現象として現れるもの

  時間を除くものは以下のものそのものと心的現象として現れるものに完全に区別される。つまり、この区別に余りも重複もない。
  物質、物質機能、身体、身体機能、神経系、神経機能、神経細胞、神経細胞の興奮伝達、分子、原子、原子核、中性子、陽子、電子、万有引力、静電気力、磁力、真空、空間そのもの…などを「ものそのもの」と呼べる。
  それに対して、光景、音、臭い、めまい、味、痛さ、暑さ、寒さ、動悸、息苦しさ、飢え、渇き、吐き気、イメージ、アイデア…などを「心的現象として現れるもの」、現象として現れるもの、現れるものと呼べる。それらは「現象」、心的現象…などとも呼べる。だが、感覚で現れるもの、イメージで現れるもの、わたしに現れるもの、あなたに現れるもの、過去に現れたもの、未来に現れるであろうもの、わたしに現在に現れているもの、わたしたちのそれぞれにそのとき現在に現れているもの…などを区別する必要がある。現象…などの言葉を用いるより現れるもの…などの言葉を用いるほうがそれらを区別しやすい。だから、これらの著作ではそれらを主として「(心的現象として)現れるもの」と呼ぶことにする。誤解を避けるためには、「心的現象として」という言葉を付加したほうがよいだろう。だが、逐次、それらを付加していると、例えば、「心的現象として個々のイメージとして現れるもの」のように、文章が煩雑になる。だから、通常はそれらを付加しないことにする。
  心的現象として現れるものは感覚で現れるものとイメージとして現れるものから構成される。感覚で現れるものは視覚で現れるもの、聴覚で現れるものを含む。例えば、光景は視覚で現れるものであり、音は聴覚で現れるものである。思い浮かぶもの、思考されるもの、予期されるもの、思い出されるもの、想像されるものは、イメージとして現れるものに含まれる。現れるものの詳細は『心的現象として現れるもの』の章で説明される。
  ものそのものが広がる空間は、ものそのものに含まれると見なせ、空間そのものと呼べる。(心的現象として)現れるものが広がる空間は、現れるものに含まれると見なせ、(心的現象として)現れる空間と呼べる。例えば、両眼で視覚で現れるものの中で、パソコンの手前に空間の部分がわたしに現在に現れている。また、体性感覚で現れる右手の痛みと左足の痛みの間には無痛の空間の部分がわたしに現在に現れている。
  ものそものもが連続する時間(1)があると前提される。ものそのものが連続する時間(1)は、ものそのものに含まれると見なせ、ものそのものの時間そのものと呼べる。ものそのものが連続する時間(1)があると前提されるように、(心的現象として)現れるものが連続または断続する時間(2)があると前提され、(2)は現れるものの時間そのものと呼べる。それらに対して、時間は現れ、それを「(心的現象として)現れる時間」と呼べる。第一に、時間そのものは時間という言葉、数直線、矢印、物の運動と変化…などのイメージから構成される複合的イメージ、つまり、観念として現れる。第二に、ものが連続する時間は、個々人の追想、人間の歴史、物語…などの複合イメージの中で現れる。第三に、感覚で現れるもにおいてもイメージで現れるものにおいても、それらの運動と変化が軌跡、残像…などとして現在に現れており、時間はそれらとして直接的に現れる。いずれにしても、時間はものそのものと心的現象として現れるものに明確に区別されない。だから、前に「時間を除く」ものは二群に完全に区別されるという説明をした。
  ところで、重要なことだが、心的現象として現れるものの中では、それらが存在しない時間は無であり、現れるものが存在した時間から別の現れるものが存在する時間まで現れるものが存在しない時間を一瞬で跳躍し、第一の時間と第三の時間は連続する。例えば、突然、深い睡眠または意識消失に陥り、突然、それから目覚めたとすれば、その時間は無または一瞬と感じられる。睡眠が夢を含むまたは中途覚醒を伴っている場合、意識消失が漸増漸減を伴っている場合はそうではない。

空間的時間的なものとそれらの属性

  ものが空間的に連続することまたは点または線または面であることをものが「空間的」であることと呼べ、ものが時間的に連続または断続するまたは瞬間であることをものが「時間的」であることと呼べる。
  時間を除くものがものそのものと(心的現象として)現れるものに完全に分けられるとともに、空間、時間を除くものは下記の空間的時間的なものとそれらの属性に完全に分けられる。
  空間的かつ時間的であるもの、つまり、空間的に連続するまたは点または線または平面である、かつ、時間的広がりをもつまたは瞬間であるものを「空間的時間的なもの」と呼べる。例えば、物質、身体、神経系、神経細胞、光景、音が空間的時間的なものである。
  空間的時間的なもののそれぞれは完全に空間的といえないものをもつ。空間的時間的なものがもつ完全に空間的と言えないものを空間的時間的なものの「属性」、空間的時間的なものがもつ属性、空間的時間的なものが属性としてもつもの、空間的時間的なものに帰属する属性、と呼べる。例えば、万有引力は、完全に空間的と言えず、すべての物質がもつ属性の一つである。興奮伝達は、完全に空間的と言えず、すべての神経細胞に帰属する属性の一つである。
  すべての空間的時間的なものが属性としてもつものを空間的時間的なものの「すべてに帰属する」属性と呼べる。空間的時間的なものはすべて、空間的相対的位置、時間的相対的位置、質、量、空間的構成、時間的構成、それらの変化を属性としてもち、それらが空間的時間的なもののすべてに帰属する属性のいくつかである。さらに、例えば、万有引力は物質のすべてに帰属する属性の一つであり、神経細胞の興奮伝達は神経細胞のすべてに帰属する属性の一つである。
  空間的位置、時間的位置は相対的でしかない。その相対性を強調する必要がないときは、空間的相対的位置を「空間的位置」とも呼び、時間的相対的位置を「時間的位置」と呼べる。
  さらに、ほとんどの空間的時間的なものの属性がいくつかの完全に空間的と言えないものをもつ。例えば、万有引力は向き、大きさをもつ。神経細胞の興奮伝達は頻度、持続時間をもつ。空間的時間的なものの属性がもつ完全に空間的と言えないものを属性の属性、属性がもつ属性、属性が属性としてもつもの、属性に帰属する属性と呼べる。例えば、万有引力は向き、大きさを属性の属性としてもつ。神経細胞の興奮伝達は頻度、持続時間を属性の属性としてもつ。さらに、空間的時間的なものの属性(1)が属性(2)をもつことが多く、属性(2)が属性(3)をもつことがあり…と続く。そのとき、(1)、(2)、(3)…を第一属性、第二属性、第三属性…と呼べる。例えば、万有引力は第一属性であり、向き、大きさは第二属性である。神経細胞の興奮伝達は第一属性であり、興奮伝達の頻度、持続時間は第二属性である。そのように空間と時間的なものを見ていくと、ほとんどの第一属性が第二属性をもつことが分かる。属性が空間的時間的なものの第一属性か第二属性か…が不明なことがよくある。例えば、物質の万有引力について、質量が物質の第一属性であり、万有引力は質量の属性であって、物質の第二属性とも考えられる。だが、日常でも科学でもほとんどの場合、属性が第一か第二か…は問題にならない。だから、大きな支障なく、第一属性、第二属性、第三属性…を単に属性と呼べる。また、空間的時間的なものがもつ第一属性、第一属性がもつ第二属性、第二属性がもつ第三属性…を単に空間的時間的なものがもつ属性と呼べる。
  ものそのものと心的現象として現れるものがそれぞれに固有の空間的時間的なものと属性を含む。

空間的時間的なもの属性
ものそのもの空間的時間的なものそのもの空間的時間的なものそのものの属性
心的現象として
現れるもの
心的属性として
現れる空間的時間的なもの
心的現象として
現れる属性

  ものそのものに含まれる空間的時間的なものを空間的時間的なものそのものと呼べる。物質、身体、神経系、神経細胞は空間的時間的なものそのものに含まれる。
  ものそのものに含まれる空間的時間的なものの属性を空間的時間的なものそのものの属性、属性そのものと呼べる。
  すべての空間的時間的なものは、空間的位置、時間的位置、質、量、空間的構成、時間的構成、それらの変化を属性としてもち、すべての空間的時間的なものそのものはそれらを属性そのものとしてもつ。それらはすべての空間的時間的なものそのものに帰属する属性のいくつかである。さらに、真空を除く空間的時間的なものそのものは、質量、万有引力、速度、加速度、位置エネルギー、運動エネルギー…などを属性そのものとしてもつ。
  心的現象として現れるものに含まれる空間的時間的なものを(心的現象として)現れる空間的時間的なものと呼べる。例えば、光景、音、匂い、めまい、味、痛さ、暑さ、寒さ、動悸、息苦しさ、吐き気、イメージ、アイデアは現れる空間的時間的なものである。前述の例はそれらの例だったことになる。だが、後述する現れる属性も現れるものに含まれる。
  心的現象として現れるものに含まれる空間的時間的なものの属性を(心的現象として)現れる空間的時間的なものの属性、(心的現象として)現れる属性と呼べる。すべての空間的時間的なものは、空間的位置、時間的位置、質、量、空間的構成、時間的構成、それらの変化を属性としてもち、すべての現れる空間的時間的なものはそれらを現れる属性としてもつ。それらは現れる空間時間的なもののすべてに帰属する現れる属性である。さらに、例えば、色という質、明るさという量はすべての視覚で現れる空間的時間的なものに帰属する属性であり、音の高さという質、大きさという量はすべての聴覚で現れる空間的時間的なものに帰属する現れる属性である。
  そのように、現れる空間的時間的なものだけでなくそれらの属性は現れる。例えば、色、明るさは視覚で現れ、高低、音量は聴覚で現れる。簡単に言って、わたしたちには色が見える。だから、今後は現れる空間的時間的なものの属性という言葉より現れる属性という言葉を多用することにする。
  だが、現れる属性の意味は広がりえる。例えば、複合イメージ、つまり、観念として現れる善悪も複合イメージとして現れる人間に帰属する現れる属性でありえる。だが、そのような複合イメージとしてしか現れないものを現れる属性に含めないことにする。
  そのように定義すると、質量、万有引力…などはものそのものに含まれる物質の属性であって、現れる属性ではない。ものそのものに含まれる光の波長は現れる属性に含まれる色として再現され、ものそのものに含まれる音波の波長は現れる属性に含まれる音色として再現されると前提される。

全体と部分

  空間は空間的全体と部分をもつ。時間は時間的全体と部分をもつ。例えば、時間は永遠を時間的全体として、過去、現在、未来を時間的部分としてもつ。本当の意味での空間的全体と時間的全体は無限である。だが、それらの部分も全体と見なせることがある。例えば、一日は24時間の時間を時間的全体として、午前、午後を時間的部分としてもつ。
  空間的時間的なものは空間的全体と部分と時間的全体と部分をもつ。例えば、神経細胞は、細胞膜とその中身を空間的全体としてもち、一つの神経細胞体と多数の樹状突起と末端で多数に分岐する一本の軸索を空間的部分としてもつ。視覚で現れるものは目覚めてから眠るまでの連続を時間的全体としてもち、昼の光景と夜のそれを時間的部分としてもつ。
  空間的時間的なものが空間的な全体と部分と時間的な全体と部分をもつのに対して、属性はそれらと異なる属性の全体と部分をもつ。後者は前者ほど明確でない。例えば、神経細胞の属性である興奮伝達は後述される[1]シナプス後伝達、[2]興奮、[3]シナプス前伝達、[4]休止を属性の部分としてもち、それらは神経細胞の空間的部分である神経細胞体、樹状突起、軸索ほど明確ではない。

全体部分
空間空間的全体空間的部分
時間時間的全体時間的部分
空間的時間的なもの空間的全体
時間的全体
空間的部分
時間的部分
属性属性の全体属性の部分

もの

  イメージの想起、知覚、連想、精神的情動、自我、思考…などのすべての心的機能の端緒に「記憶」の章で説明される属性の認識がある。また、感覚の素材のいくつかの属性をもつ部分が切り取られて個々のイメージの素材が生成する。だから、人間を含む動物は既にいくつかの属性をもつものしか知覚、連想、思考することができない。だから、すべての普通名詞は既にいくつかの属性をもつものを指す。例えば、水という言葉は、個体、液体、気体の区別の発見や水素、酸素という元素の発見以前から、最も透明である、最も流動的という属性をもつものを指してきた。そこで、ものそのもの、心的現象として現れるもの、空間的時間的なもの、属性、第一属性、第二属性…などを含めて、既にいくつかの属性をもつものを「もの」と呼べる。例えば、既にいくつかの属性をもつ空間的時間的なものの属性を属性と呼べる。ものは前述のものそのもの、心的現象として現れるもの、空間的時間的なもの、属性を含む。

必然的属性

  さらに、すべてのものは、それらがなければもはや、日常と科学で、そのものがそのものと見なされないような属性をもつ。例えば、興奮伝達する能力をもたない神経細胞を神経細胞と見なすことはできない。それがなければもはや、日常と科学で、そのものがそのものと見なされないような属性をそのものの「必然的属性」、そのものにとっての必然的属性と呼べる。例えば、神経細胞の必然的属性は、細胞であること、神経細胞体と樹状突起と軸索をもつこと、興奮伝達する可能性をもつことが神経細胞の必然的属性である。
  ものの必然的属性が生じるとき、そのものは既に生じているまたは発生している。ものの必然的属性が持続するとき、そのものは持続する。ものが必然的属性を維持しながら他の属性を得るまたは失うまたは変化させることはものが「変化する」ことと見なせる。そのように変化することは持続することに含まれると見なせる。
  ものが必然的属性のいくつかを失うことはものが他のものに「変化」することまたはものが「消滅」することまたは「老化」することまたは「死ぬ」ことと見なせる。例えば、神経細胞が興奮伝達する能力を失うことは、神経細胞が老化することまたは死にかけていることと見なせる。
  ものがものを生じるとしても、直接的または間接的に生じ、多くの場合、間接的に生じる。例えば、植物の光合成が酸素を生じるのは直接的である。水と食物が動物の体を生じるのは、消化、吸収、タンパク質の合成…などを介してであり、間接的である。だが、「直接的または間接的に」という言葉を逐次、用いていると文章が煩雑になる。だから、必要のない限りはそれらを省略することにする。

物質と機能

物質

  分子、イオン、原子、中性子、陽子、電子…などの粒子から構成され、それらが出入りするが、必然的属性を維持する空間的時間的なものそのものを「物質」と呼べる。例えば、分子、イオン…などの粒子から構成され、細胞膜に囲まれる、遺伝子を含む、神経細胞体と多数の樹状突起と末端で多数に分岐する一本の軸索から空間的に構成される、興奮伝達する能力をもつことを必然的属性としてもつ空間的時間的なものそのものを神経細胞と呼べ、神経細胞は物質に含まれる。
  遺伝子、細胞膜、細胞、神経細胞、神経細胞群、神経系、身体…なども分子、イオン…などの粒子をから構成される。それらは生きている、命をもつ…などと表現されるが、物質に含まれる。簡単に言って、物質に過ぎない。身体の中で、神経系は心や精神があると特別視されるが、身体に含まれ物質に含まれる。
  真空も光子などの粒子が通る。真空は空間的位置と時間的位置を属性としてもつ。質量、万有引力、位置エネルギー、運動エネルギー…などの属性についても、真空は量がゼロのそれらをもつと見なせる。それに対して、空間がゼロのそれらの属性をもつとは考えにくい。真空と空間は異なる。そこで、真空を物質に含めることにする。そのように定義すると、物質は空間的時間的なものそのものと同一である。
  物質は空間的位置、時間的位置、質、量、空間的構成、時間的構成、それらの変化だけでなく、質量、万有引力、速度、加速度、運動エネルギー、位置エネルギー、運動量…などを属性としてもつ。それらは物質のすべてに帰属する属性である。

機能

  物質はすべて、以下の属性(a)(b)をもつ属性(F)をもつ、または、以下の属性(a)(b)をもつ属性(F)を生じる傾向または能力をもつ。

(a)他のいくつかの物質または属性の全体または部分が生じるまたは変化することによって、直接的または間接的に、属性(F)の全体または部分が生じるまたは変化する。
(b)属性(F)の全体または部分が生じるまたは変化することが、直接的または間接的に、他のいくつかの物質または属性の全体または部分を生じるまたは変化させる。

  物質がもつまたは物質が生じる傾向または能力をもつ、そして、上記の属性(a)(b)をもつ属性(F)を物質の「機能」、物質がもつ機能、物質が機能としてもつもの、物質に帰属する機能、または、単に機能または物質機能と呼べる。
  厳密に言うとそうなる。もう少し属性(a)(b)を簡略化してみる。
  前述のとおり、ものが他のいくつかのものを生じるまたは変化させるとしても、直接的または間接的にそうし、多くの場合、間接的にそうする。だが、「直接的または間接的に」という言葉を逐次、用いていると文章が煩雑になる。だから、これらの著作では通常、その言葉を省略することにしたし、ここでも省略することにする。
  また、ものが生じるまたは変化しなければ他のものを生じるまたは変化させることはなく、厳密には「生じるまたは変化することによって」「生じるまたは変化することが」という言葉が必要である。だが、それらの表現をしていると文章が煩雑になるので、これらの著作では通常、それらの言葉を省略することにし、ここでも省略することにする。
  すると、(a)と(b)を以下のように簡略化することができる。

(a')他のいくつかの物質または属性の全体または部分によって、属性(F)の全体または部分が生じるまたは変化する。
(b')属性(F)の全体または部分が、他のいくつかの物質または属性の全体または部分を生じるまたは変化させる。

  さらに、「生じるまたは変化する」「生じるまたは変化させる」という表現を逐次、用いていると文章が煩雑になる。そこで、生じるまたは変化すること、生じるまたは変化させることを生じることと呼べる。すると、(a)と(b)は以下のようにさらに簡略化される。

(a'')他のいくつかの物質または属性の全体または部分によって、属性(F)の全体または部分が生じる。(b'')属性(F)の全体または部分が、他のいくつかの物質または属性の全体または部分を生じる。

  簡略的に、物質が持つまたは物質が生じる傾向または能力をもつ、そして、上記の属性(a'')(b'')をもつ属性(F)を物質の「機能」、物質がもつ機能、物質が機能としてもつもの、物質に帰属する機能、または、単に機能または物質機能と呼べる。
  機能を具体的なものに当てはめてみよう。
  物質はすべて、万有引力を属性としてもつ。他のすべての物質の万有引力の全体によって、物質の万有引力の全体が変化し、物質の万有引力の全体が、他のすべての物質の万有引力の全体を変化させる。だから、物質はすべて、万有引力を機能としてもち、万有引力は機能に含まれる。すべての神経細胞は興奮伝達する能力を属性としてもつ。他のいくつかの神経細胞または感覚細胞の興奮伝達の全体によって、神経細胞の興奮伝達の全体または部分が生じ、その全体は他のいくつかの神経細胞の興奮伝達または筋細胞の興奮と収縮または分泌細胞の興奮と分泌の全体または部分を生じる。すべての神経細胞は興奮伝達を機能としてもち、興奮伝達は機能に含まれる。
  物質、身体、神経系…などがもつ機能を物質機能、身体機能、神経機能…などと呼べる。機能と物質機能は同一である。(物質)機能は身体機能、神経機能を含む。人間機能は直立二足で歩く、走る、クロール、バタフライ…などで泳ぐ、言葉を話す、言葉を書く、計算する、遊ぶ、勉強する、仕事をする、対人機能を含む。
  繰り返すが、機能の全体または部分は、他のいくつかの物質または属性の全体または部分から直接的または間接的に生じるまたは変化し、他のいくつかの物質または属性の全体または部分を直接的または間接的に生じるまたは変化させる。それらの全体または部分によって機能の全体または部分が直接的または間接的に生じるまたは変化する他の物質と属性は際限がなく、それらをすべて挙げることは不可能である。例えば、それらの全体または部分によって神経細胞の興奮伝達の全体または部分が直接的または間接的に生じる他の物質と属性を挙げていくと、それらは、他のいくつかの神経細胞と感覚細胞の興奮伝達、光子、音波、物理的化学的刺激、それらを生じるまたは変化させるものを含み、際限がない。また、それらの全体または部分を機能の全体または部分が直接的または間接的に生じるまたは変化させる他の物質と属性は際限がなく、それらをすべて挙げることは不可能である。例えば、その全体または部分を神経細胞の興奮伝達の全体が生じるまたは変化させる他の物質と属性を挙げていくと、それらは、他のいくつかの神経細胞の興奮伝達、筋細胞の興奮と収縮、分泌細胞の興奮と分泌、感覚、記憶、随意運動、不随意運動、それらが生じるまたは変化させるものを含み、際限がない。日常と科学では、そのように際限のないもののうち、自明のものは省略される。また、あまりにも間接的なものは省略される。これらの著作でもそれらは省略される。例えば、神経細胞の興奮伝達を説明するときは、酸素やグルコースの供給は自明のこととして省略される。
  前述のとおり、属性は属性の全体と部分をもち、機能は属性に含まれる。だから、機能は機能の全体と部分をもつ。例えば、神経細胞の興奮伝達は後シナプス伝達、閾値超え、興奮、前シナプス伝達、休止という機能としての部分をもつ。

神経細胞の興奮伝達

  神経系は神経細胞だけから成り立つのではない。神経系は神経細胞、それらを支持する神経膠細胞、神経系に特有の免疫細胞、種々の膜、脳脊髄液…などから成り立つ。神経細胞はそれら、特に神経膠細胞の支持の下に存在し機能することができる。だが、心的機能にとって重要なのは神経細胞の興奮伝達であることに変わりはない。
  神経細胞は一つの神経細胞体、多数の樹状突起、末端で多数に分岐する一本の軸索から空間的に構成される。
  感覚細胞は皮膚、骨、横紋筋、腱、粘膜…などの狭義の感覚細胞だけでなく、視細胞、聴細胞、味細胞…なども含むものとする。比喩的に言って、感覚の第一走者が感覚細胞である。
  筋細胞は横紋筋細胞、平滑筋細胞、心筋細胞を含む。分泌細胞は内分泌細胞、外分泌細胞を含む。
  神経細胞は一本の「軸索」を長く伸ばし、一本の軸索が次々と多数の小さな軸索に枝分かれして、多数の「軸索末端」が他のいくつかの神経細胞または筋細胞または分泌細胞の細胞膜の多数の部分に最も近づく。そのように、一本の軸索が多数の小さな軸索に分岐するので、一個の神経細胞は必ずしも一個の神経細胞または筋細胞または分泌細胞に近づくのではなく、複数のそれらに近づくことがある。
  感覚細胞は、神経細胞の軸索のような長い突起をもたないが、いくつかの突起を伸ばし、突起が多数に枝分かれして、多数の突起の末端がいくつかの神経細胞の細胞膜の多数の部分に最も近づく。これらの著作では、そのような感覚細胞の突起を、神経細胞のものと同様に、軸索と呼び、その突起の末端を「軸索末端」と呼ぶことにする。
  神経細胞または感覚細胞(A)が軸索を伸ばし、軸索が次々と枝分かれしてその軸索末端の一つ(a)が他の神経細胞または筋細胞または分泌細胞(B)の細胞膜の部分の一つ(b)に最も近づくとき、aとbとそれらの間隙を「シナプス」と呼べる。また、その間隙を「シナプス間隙」と呼べる。ところで、シナプス間隙は空気で満たされているのではなく、細胞間液で満たされている。もちろん、細胞の中部は細胞内液で満たされている。
  そのようなシナプスのそれぞれにおいて、多数の神経伝達物質がaからシナプス間隙に放出されると、bにある多数の受容体に結合する。
  そのようにして、神経細胞または感覚細胞は他のいくつかの神経細胞または筋細胞または分泌細胞に近づき、多数のシナプスを形成する。そのことを神経細胞または感覚細胞が他のいくつかの神経細胞または筋細胞または分泌細胞に「接合する」ことと呼べる。また、神経細胞または筋細胞または分泌細胞は他のいくつかの神経細胞または感覚細胞から近づかれ、多数のシナプスを形成される。そのことを神経細胞または筋細胞または筋細胞が他のいくつかの神経細胞または感覚細胞から「接合される」ことと呼べる。結局、神経細胞は、他のいくつかの神経細胞または感覚細胞から接合され、他のいくつかの神経細胞または感覚細胞または筋細胞に接合する。
  神経細胞が接合される他のいくつかの神経細胞または感覚細胞を神経細胞の「直接前駆細胞」と呼べ、神経細胞が接合する他のいくつかの神経細胞または筋細胞または分泌細胞を神経細胞の「直接後続細胞」と呼べる。結局、神経細胞はいくつかの直接前駆細胞から接合されいくつかの直接後続細胞に接合する。そのように、一個の神経細胞は、必ずしも一個の直接前駆細胞から接合されるのではなく、複数の直接前駆から接合されることがあり、必ずしも一個の直接後続細胞に接合するのではなく、複数の直接後続細胞に接合することがある。
  それらは一つの神経細胞を中心としたときである。それに対して、以下は一つのシナプスを中心としたときである。
  そのような多数のシナプスのそれぞれにおいて、軸索末端から神経伝達物質を放出する細胞(A)を「シナプス前」細胞と呼べ、その物質、機能…などをシナプス前物質、シナプス前機能…などと呼べ、受容体に神経伝達物質が結合する細胞(B)を「シナプス後」細胞と呼べ、その物質、機能…などをシナプス後物質、シナプス後機能…などと呼べる。
  神経細胞を含むすべての細胞でほとんどのとき、細胞膜を境として、細胞外を電位の基準として、細胞内をマイナスとする電位差が形成されている。
  神経細胞(N)は下記の機能をもつ。

[1]シナプス後伝達
  Nの直接前駆細胞の軸索末端から多数の神経伝達物質がシナプス間隙に放出され、それらがNの細胞膜の受容体に結合し、Nの細胞内の電位が変化し、変化する電位が減算を含めて加算される。そのことをNの直接前駆細胞からの「シナプス後伝達」、Nが直接前駆細胞から「伝達される」ことと呼べる。

[1-1]閾値超え
  Nのいくつかの細胞内の電位の和がプラス方向に変化し一定の閾値を超える。そのことをNの「閾値超え」、Nが閾値を超えることと呼べる。

[1-2]不発
  どの電位の和も閾値を超えない。そのことをNの「不発」、Nが不発に終わることと呼べる。

[2]興奮
  [1]のうちの[1-1]閾値超えがNの細胞膜の一つの部分に生じただけでも、閾値を超える電位の変化が神経細胞体、軸索を一気に広がる。そのことをNの「興奮」、Nが興奮することと呼べる。
  次いで、Nの興奮が軸索を広がることは特にNの「伝導」と呼ばれる。これらの著作では伝導を興奮に含めることにする。

[3]シナプス前伝達
  閾値を超える電位の変化が神経細胞の軸索末端に達し、軸索末端から神経伝達物質がNとその直接後続細胞の間のシナプス間隙へ放出される。そのことをNの直接後続細胞への「シナプス前伝達」、Nが直接後続細胞に「伝達する」ことと呼べる。
(さらに、Nの直接後続細胞のそれぞれにおいて[1]-[4]が生じ…と続く可能性がある)

[4]休止
  マクロセカンド(一秒の千分の一)単位の時間の間だけ、Nは興奮できない。そのことをNの「休止」、Nが休止することと呼べる。その後、Nは興奮し[1]-[4]を繰り返せる。

  上の[1-1][2][3][4]を神経細胞の「興奮伝達」、神経細胞が興奮伝達することと呼べる。
  神経細胞(N)の直接前駆細胞をA,B,…、直接後続細胞をX,Y,…とする。A,B,…の[3]とNの[1]が生じることをA,B…からNへの伝達またはA,B…がNへ伝達することと呼べる。また、Nの[3]とX,Y…の[1]が生じることをNからX,Y…への伝達またはNがX,Y…へ伝達することと呼べる。A,B…がNへ伝達したとしても、Nは必ずしも興奮伝達するわけではない。Nの[1]が[1-2]不発に終われば、Nは興奮伝達しない。それに対して、[1-2]ではなく[1-1]閾値超えが生じるとき、Nは興奮伝達する。ただし、軸索が切断されている、神経伝達物質が枯渇する…などの異常事態が生じた場合を除いて。
  感覚細胞は光子、音波、物理的化学的刺激…などによって興奮し神経細胞と同様に伝達する。そのことを感覚細胞の興奮伝達、感覚細胞が興奮伝達することと呼べる。
  筋細胞は、いくつかの神経細胞から伝達されて神経細胞と同様に興奮し収縮する。そのことを筋細胞の興奮と収縮と呼べる。
  分泌細胞は、いくつかの神経細胞から伝達されて神経細胞と同様に興奮し分泌する。そのことを分泌細胞の興奮と分泌と呼べる。
  それらのすべてに共通の属性を説明する場合は、神経細胞、感覚細胞、筋細胞、分泌細胞を神経細胞として説明し、神経細胞の興奮伝達、感覚細胞の興奮伝達、筋細胞の興奮と収縮、分泌細胞の興奮と分泌を神経細胞の興奮伝達として説明することにする。
  また、「興奮伝達」、「伝達」…などの言葉はそれぞれの神経細胞または神経細胞群がもつ具体的で数えられる機能を指す。例えば、神経細胞が百個あれば一時に百個以下の興奮伝達がありえる。そこで、それらの言葉を可算名詞として用いることにする(訳注:日本語では単数形と複数形、可算名詞と不可算名詞の区別を示すことができない)。
  結局、神経細胞は、必ずしも一個の直接前駆細胞から伝達されるのではなく、複数の直接前駆細胞から伝達され、必ずしも一個の直接後続細胞に伝達するのではなく、複数の直接後続細胞に伝達することがある。
  いくつかの直接前駆細胞の興奮伝達の全体[1-1][2][3][4]によって、神経細胞の興奮伝達の全体[1-1][2][3][4]または部分[1-2]が生じ、神経細胞の興奮伝達の全体[1-1][2][3][4]が、いくつかの直接後続細胞の興奮伝達の全体[1-1][2][3][4]または部分[1-2]を生じる。だから、神経細胞の興奮伝達は機能である。
  機能としての神経細胞の興奮伝達は[1-1][1-2][2][3][4]のそれぞれを機能の部分としてもつ。機能としての神経細胞の興奮伝達は機能の部分としての[1-1][1-2][2][3][4]から構成される。
  神経細胞が興奮伝達するか[1-2]不発に終わるかのように、機能のいくつかは二者択一である。それに対して、万有引力、位置エネルギー、運動エネルギー…などのような機能は二者択一ではない。
  神経細胞が不発[1-2]に終わる場合があるように、いくつかの機能においては部分だけが生じることがある。また、部分が生じるだけでは全体が生じえる他の機能または物質のいくつかが生じないことがある。例えば、神経細胞の興奮伝達では、不発が生じるだけでは直接後続細胞の興奮伝達の全体も部分も生じない。
  全体[1-1][2][3][4]だけでなく、少なくとも、部分[2][3]は機能である。何故なら、[1-1]によって[2]が生じ、[2]は[3]を生じ、[3]は直接後続細胞の[1-1]または[1-2]を生じるからである。そのようにいくつかの機能においてはいくつかの部分も機能である。
  神経細胞の閾値超え[1-1]が生じると、それ以降の[2][3][4]が生じ、興奮伝達の全体が生じる。神経細胞が他のいくつかの直接前駆細胞から伝達されても、[1-1]が生じなければ、それ以降の[2][3][4]は生じず、興奮伝達の全体は生じず、[1-2]不発に終わる。神経細胞の軸策が切断されていたり、神経伝達物質が枯渇していれば、[1-1]が生じても[3]シナプス前伝達は生じない。だが、そのように伝達する能力をもたない神経細胞は、神経細胞の必然的属性を満たさず、もはや神経細胞と見なせない。

興奮伝達の短時間の繰り返し

  以上の[1-1][2][3][4]は数ミリセカンド(一秒の千分の一)の間、持続する一回の興奮伝達である。それを神経細胞の「一回の(超短時間の)興奮伝達」、神経細胞が一回、(超短時間に)興奮伝達することと呼べる。実際は、一度、それが生じると、それは一秒に数百の一定の頻度で数秒の間、連続的に繰り返される。そのような繰り返しを、神経細胞の興奮伝達の「短時間の(連続的な)繰り返し」、神経細胞が興奮伝達を短時間に(連続的に)繰り返すことと呼べる。だが、そのような繰り返しを神経細胞の興奮伝達、神経細胞が興奮伝達することとも呼ぶことにし、神経細胞の興奮伝達という言葉は通常、そのような繰り返しを指すことにする。短時間の連続的な繰り返しは後述する長時間の断続的な繰り返しと明確に区別される必要がある。

必然的機能、必然的対象…など

  前述のとおり、それがなければものがそのものと見なされないような属性をそのものの必然的属性、そのものにとっての必然的属性と呼べる。
  例えば、興奮伝達する能力は神経細胞の必然的属性の一つであり、その能力のない細胞を神経細胞と見なすことはできない。神経細胞は興奮伝達する能力を必然的属性としてもつ。それに対して、万有引力はすべての物質において常に存在するので、物質が万有引力の能力をもつという言い方は奇妙であり、すべての物質は万有引力を機能としてもつと言える。それに対して、神経細胞が興奮伝達を機能としてもつという言い方はやや奇妙である。だが、神経細胞などが興奮と伝達などを機能としてもつという言い方もすることにする。
  さて、物質が必然的属性としてもつ機能または物質がその傾向または能力を必然的属性としてもつ機能を物質の「必然的機能」、物質にとっての必然的機能、物質がもつ必然的機能、物質に帰属する必然的機能と呼べる。例えば、神経細胞は興奮伝達を必然的機能としてもつ。
  機能の全体または部分は、他のいくつかの物質または属性(1)の全体または部分によって直接的または間接的に生じまたは変化し、他のいくつかの物質または属性(2)の全体または部分を直接的または間接的に生じるまたは変化させる。(1)または(2)のいくつかが機能の必然的属性のいくつかに含まれることがある。例えば、全体が横紋筋細胞のシナプス後伝達さえも生じない神経細胞の興奮伝達を運動神経の神経細胞の興奮伝達ということはできない。また、感覚細胞とその後続細胞の興奮伝達の全体によってシナプス後伝達さえも生じない神経細胞の興奮伝達を感覚神経の神経細胞の興奮伝達ということはできない。(1)のいくつかが機能の必然的属性のいくつかに含まれるとき、それらを機能の必然的原因と呼べ、(2)のいくつかが機能の必然的属性のいくつかに含まれるとき、それらを機能の必然的対象または必然的結果と呼べる。
  さらに、機能の中には、必然的対象が生じるまたは変化するのに不可欠であり、しかも必然的対象をその機能の中では最も直接的に生じる部分がある。そのような部分を「必然的直接的部分」と呼べる。例えば、[3]が生じなければその必然的対象としての直接後続細胞の興奮伝達は生じない。また、神経細胞の興奮伝達の中ではそれはそれらを最も直接的に生じる。だから、[3]シナプス前伝達が神経細胞の興奮伝達の必然的直接的部分である。
  ところで、必然的直接的部分と全体が一致することがある。例えば、万有引力でそうである。

機能の決定的部分

  だが、機能の特定の部分が生じるまたは変化すると、機能の必然的直接的部分も生じまたは変化し、機能の必然的対象の全体または部分が生じるまたは変化する。例えば、神経細胞の興奮伝達において、[1-1]閾値超えが生じると、[3]シナプス前伝達も興奮伝達の全体も生じ、必然的対象としての直接後続細胞の興奮伝達の全体または部分が生じる。そのような部分を機能の「決定的部分」と呼べる。例えば、神経細胞の興奮伝達では、閾値超え[1-1]が決定的部分であり、シナプス前伝達[3]が必然的直接的部分である。この例のように、それらは必ずしも一致しない。それに対して、決定的部分と必然的直接的部分と全体とが一致することはある。例えば、万有引力がそうである。

機能が機能すること

  機能の中で、必然的直接的部分が生じず変化せず、実質的に決定的部分が生じず変化せず、結果的に必然的対象の全体も部分も生じず変化しないことを機能が機能することと呼ぶことはできない。例えば、神経細胞の興奮伝達の中で、シナプス前伝達[3]が生じず、実質的に閾値越え[1-1]が生じず、結果的に必然的対象としての直接後続細胞の興奮伝達が生じないことを神経細胞の興奮伝達が機能することと呼ぶことはできない。だから、機能の必然的直接的部分が生じるまたは変化すること、実質的には決定的部分が生じるまたは変化すること、結果的には機能が必然的対象の全体または部分を生じるまたは変化させることを、機能が必然的対象「に(対して)機能する」ことと呼べる。例えば、神経細胞の興奮伝達において、そのシナプス前伝達[3]が生じ、実質的には閾値超え[1-1]が生じ、結果として必然的対象としての直接後続細胞の興奮と伝達の全体または部分(それらのシナプス後伝達)が生じることを神経細胞の興奮伝達が必然的対象に(対して)機能することと呼べる。また、必然的対象が自明なときは、機能が必然的対象に(対して)機能することを機能が機能することと呼べる。また、機能が機能することを機能が生じることと呼べる。つまり、機能が生じることという言葉と機能が機能することという言葉は同じものをを指す。また、機能が帰属する物質(1)が自明なときで、その必然的対象が帰属する物質(2)が自明なとき、機能が必然的対象に(対して)機能することを、物質(1)が物質(2)に(対して)機能することと呼べる。例えば、感覚細胞またはその後続細胞の興奮伝達が感覚神経の中のいくつかの神経細胞の興奮伝達に機能することを、感覚細胞またはその後続細胞がそれらの神経細胞に機能することと呼べる。

機能が適宜機能すること

  だが、機能は他のいくつかの物質または属性の全体または部分が生じるまたは変化することによって機能する。後者が生じるまたは変化しないときは機能は機能しない。生物においては、むしろ、そのことによって私たちは助かっている。例えば、感覚細胞の直接後継細胞である神経細胞が感覚細胞から伝達されていないのに興奮伝達することがあったとすれば、感覚は混沌とする。また、刺激も炎症もないのに痛みが生じることになる。そのようなことを強調する必要があるときは、機能が機能することを機能が適宜機能することと呼ぶことにする。特に神経細胞の興奮伝達にとってはそのことは重要である。

物質とその機能

  空間と時間を除くものそのものは物質か物質の属性かのいずれかであり、属性は機能かそうでないかである。
  一つの物質に着目し、それらの機能を重視するとき、物質とその物質がもつ機能を含む属性を「物質とその物質機能」、物質とその機能、物質と呼べる。身体とその身体がもつ身体機能を含む属性、神経系またはその神経系がもつ神経機能を含む属性…などを身体とその身体機能、身体とその機能、身体、神経系とその神経機能、神経系とその機能、神経系…などと呼べる。つまり、物質、身体、神経系…などの言葉はそれらの機能を含む属性を含意することがある。
  それらのように定義すると、「物質とその機能」という言葉は、時間、空間を除くものそのもののすべてを指す。
  物質が存在することまたは物質とその機能が存在することはその機能が(適宜)機能することを含む。だが、機能が(適宜)機能することを強調する必要があるときは、それを物質とその機能が「存在し機能する」こと、物質が存在し機能することと呼ぶことにする。身体とその身体機能、神経系とその神経機能…などについても同様の用法をすることにする。例えば、おおまかだが、神経細胞が発生し成熟し、伝達されたときに興奮伝達することが神経細胞が存在し機能することである。
  物質または機能を含む属性という言葉を逐次用いていると文章が煩雑になる。だから、それらをものという言葉で置き換えることがあることにする。
  だが、一つの機能を含む属性に着目し、それが帰属する物質が探られることがある。例えば、被害があって、加害者が探られることが多い。そのようなとき、属性、機能、機能を含む属性、物質または機能を含む属性…などの言葉を使わざるをえない。だが、繰り返すが、それらの言葉を逐次、使っていると文章が煩雑になる。だから、物質または機能を含む属性を「もの」と呼ぶことがあることにする。

可能性

  もの、つまり、物質または機能を含む属性が存在するまたは機能する、生じるまたは変化する可能性を、ものの可能性と呼べる。
  ものの可能性は他のいくつかのものの可能性を含む。例えば、神経細胞が興奮伝達する可能性は直接前駆細胞のいくつかの興奮伝達、酸素、グルコースの供給…などの可能性を含む。そもそも、わたしたちの可能性は太陽、地球、微生物から植物から小動物に至る食物連鎖…などの可能性を含む。

状況と自然

  生物、生物機能、動物、動物機能、個体、個体機能、人間、人間機能…などについては後に定義する。その前にそれらの状況と自然を定義する。
  前述のとおり、ものの可能性は他のいくつかのものの可能性を含む。そのような他のいくつかのものをそのものまたはそのものにとっての「状況」と呼べる。また、それらがなければいくつかの生物が存在せず機能しないような状況をそれらのまたはそれらにとっての「自然」と呼べる。例えば、太陽、地球、太陽の光、酸素、二酸化炭素、水、植物の光合成、微生物~植物~他の動物の食物連鎖…などが動物の種の自然である。いくつかの生物の自然は他のいくつかの生物を含む。例えば、人間にとっての自然は他のいくつかの動物、植物、微生物とそれらの機能を含む。また、生物のある種のいくつかにとっての自然は同種の他の生物とそれらの機能を含む。例えば、人間の個人にとっての自然は他の人間とそれらの対人機能を含む。そのように他のいくつかの人間と人間機能を含む自然を自然と呼ぶのは不自然かもしれない。だからそれは必然的状況と呼べる。
  だが、自然または状況に含まれる物質と機能を含む属性をすべて挙げることは不可能である。例えば、神経細胞の興奮伝達の自然を挙げていくと、いくつかの直接前駆細胞の興奮伝達、酸素、グルコース…などの供給、心臓の拍動、呼吸、消化管での食物の消化吸収、食物連鎖…と際限がない。それは既に述べたある機能の全体または部分を生じるまたは変化させる物質と機能を含む属性を挙げて行くと再現がないのと同様である。このような場合は日常でも科学でも自明のものとあまりにも間接的なものは省略される。『わたしたちの生存ネット』のすべての著作もそうしてきたしそうする。

傾向と能力

  あるものの可能性は他のいくつかのものの可能性を含む。それに対して、あるものの可能性のうちそのものの中の部分をそのものに固有の可能性と呼べる。ものに固有の可能性の中では以下の傾向と能力が重要である。いずれにしても、ものの傾向または能力はそれに固有の属性の一つであり、他のものの可能性や傾向や能力を含まない。
  ものが間接的競争を含むなんらかの抵抗に逆らって生じるとき、ものに固有の可能性をものの(存在するまたは機能するまたは生じるまたは変化する)「傾向」と呼べる。例えば、後述する収束する神経細胞群において多数の神経細胞群の興奮と伝達が生じたときは、最も早く持続的に高密度で広く中心に近くで興奮伝達する限られた数の神経細胞群の興奮伝達が、その他を立ち消えさせつつ、通り、目的地に達する。そのような神経細胞群の興奮と伝達の速さ、持続性、密度、広さ、中心への近さが、収束する神経細胞群の中での神経細胞群の興奮伝達の生じる傾向である。
  それに対して、ものが、外部の抵抗にあまり係らず、主としてその内部で形成される属性によって生じるとき、ものに固有の可能性をものの(存在するまたは機能するまたは生じるまたは変化する)「能力」または「活性」と呼べる。例えば、神経細胞の興奮伝達そのものは主として細胞膜に多数の活性の高い受容体をもつことと軸索を伸ばし直接後続細胞に接合し軸索末端から多数の活性の高い神経伝達物質を放出することによって生じ、それらをその能力または活性と呼べる。『自我とそれらの傾向―自我をもつ動物の心理学』で説明されるように、被限定自我では傾向が問題となり、意識的機能では能力が問題となる。
  物質がもつ必然的機能が自明のときは、物質がもつ必然的機能の能力または傾向をその物質の能力または傾向と呼べる。例えば、神経細胞の必然的機能が興奮伝達であることは自明だから、神経細胞の興奮と伝達の能力または活性を神経細胞の能力または活性と呼べる。人間に特有の能力は直立二足で歩く能力、走る能力、クロール、バタフライ…などで泳ぐ能力、言葉を話す能力、言葉を書く能力、思考力、記憶力、計算する能力、遊ぶ能力、勉強する能力、仕事をする能力…などである。
  ものの能力または活性が大きくなることをものの活性化、ものが活性化されることと呼べる。

神経細胞の活性

  神経細胞(の興奮伝達)の活性(能力)は、いくつかの直接前駆細胞から接合され、細胞膜に多くの活性の高い受容体をもつこと、樹状突起と軸索を長く伸ばし、いくつかの直接後続細胞にしっかりと接合し、軸索末端から多くの活性の高い神経伝達物質を放出すること…などである。そのように、神経細胞が活性をもつだけでなく、受容体と神経伝達物質も活性をもつ。それらの活性は結合したときに細胞内外の電位差を変化させる能力である。
  神経細胞の活性は、前述の興奮伝達の短時間の連続的な繰り返し、簡単に言って興奮伝達によって、数秒の間、一時的に小さくなる。だが、短時間の連続的な繰り返しが数秒から数年の長時間に断続的に繰り返されることによって活性は増大する。逆に、そのような繰り返しがないことによって活性は減退する。そのことが日常でも科学でも経験される学習における繰り返しの重要性の実体である。そのような繰り返しを神経細胞の興奮伝達の長時間の断続的な繰り返し、神経細胞が興奮伝達を長時間に断続的に繰り返すことと呼べる。神経細胞の活性は、そのような繰り返しによって増大し、繰り返しがないまたは少ないことによって減退する。主として、そのことが後述されるイメージの想起の傾向と『自我とそれらの傾向―自我をもつ動物の心理学』で説明される意識的機能の能力と被限定自我の傾向を増大させる。

促進⇔抑制

  前述の「興奮伝達」、「伝達」、「活性」、「活性化」と以下の「促進」、「抑制」…などの言葉はそれぞれの神経細胞、神経細胞群…などがもつ具体的な数えられる機能を指す。例えば、一個の神経細胞にとって、直接前駆細胞が十個あれば、一個の神経細胞にとって十個以下の促進または抑制がありえ、それらが生じた電位の総和が一定の閾値を超えると、神経細胞の興奮伝達を生じる。そこでそれらを可算名詞として用いることにする(訳注:日本語では単数形と複数形、可算名詞と不可算名詞の区別を示すことができない)。
  機能[P]の全体または部分が生じるまたは変化することによって、他のいくつかのものの全体または部分が生じるまたは変化する可能性が大きくなるとき、機能[P]を他のいくつかのものに対する「促進」、促進機能、機能が他のいくつかの物質または機能を促進することと呼べる。
  促進に対して、機能[R]の全体または部分が生じるまたは変化することによって、他のいくつかのものの全体または部分が生じるまたは変化する可能性が小さくなるとき、機能[R]を他のいくつかのものに対する「抑制」、抑制機能、機能が他のいくつかのものを抑制することと呼べる。
  抑制と促進は対人関係と社会においても見いだせる。例えば、暴力はしばしば個人の機能を抑制する。それは自由権の侵害の一種である。だが、武力は、個人の存在と機能を抑制する暴力を抑制することによって、個人の機能が抑制されることを防ぐことができる。それは自由権の擁護の一種である。また、権力は、水、食糧、医療、情報…などを提供することによって、人間の存在と機能を促進しうる。それは社会権の保障の一種である。動物の体内においては、ある内分泌細胞群がある種のホルモンを過剰に分泌するとき、他の内分泌細胞群がそれらの分泌を抑制するホルモンを分泌する。それが恒常性の維持の一端である。以下に説明するとおり、神経系においても促進性の伝達と抑制性の伝達がある。
  直接後続細胞の細胞内外の電位差を小さくし閾値超えを生じやすくすることによって、神経細胞の伝達[PT]が直接後続細胞の興奮伝達を促進するとき、[PT]をいくつかの直接後続細胞に対する「促進性の伝達」、促進、[PT]がいくつかの直接後続細胞を促進することと呼べる。
  促進性の伝達に対して、細胞内外の電位差を大きくし直接後続細胞の閾値超えを生じにくくすることによって、神経細胞の伝達[RT]が直接後続細胞の興奮伝達を抑制するとき、[RT]をいくつかの直接後続細胞にとっての「抑制性の伝達」、抑制、[RT]が直接後続細胞を抑制することと呼べる。
  GABAを神経伝達物質として放出する伝達が抑制性の伝達であり、それ以外の伝達のほとんどが促進性の伝達である。実質的には、一個の神経細胞は一種類の神経伝達物質だけを放出するので、神経細胞は促進性のそれらと抑制性のそれらに明確に分けられる。
  一個の神経細胞は、複数の直接前駆細胞から接合され、複数の直接前駆細胞から促進性の伝達と抑制性の伝達の混成を受けることがある。そのような場合、通常、より多数の促進性の伝達を受けたとき、神経細胞は興奮伝達し、より多数の抑制性の伝達を受けたとき、神経細胞は興奮伝達しない。だが、より厳密には、それらが生じる電位差の和が問題である。
  神経系における抑制は苦痛の減少と睡眠と休養のために重要である。簡単に言って、抑制がなければ、わたしたちは痛みに耐えられず、よく休めず眠れない。人間社会においては、権力に対する抑制は民主制と権力分立制と法の支配の主要な目的である。

機能の停止

  機能が機能することに対して、機能が機能しないこと、つまり、必然的直接的部分が生じないまたは変化しないことを、機能の「停止」、(その機能を必然的機能としてもつ)物質の停止機能が「停止」すること、物質が停止すること、と呼べる。機能が停止することは機能の必然的直接的部分が生じず他の部分が生じることを含む。もちろん、いかなる部分も生じないことを含む。例えば、神経細胞が停止することは、[1]シナプス前伝達が生じるが、[3]シナプス後伝達が生じないこと、つまり、[1-2]不発が生じることを含む。もちろん、[1-2]不発も生じないことを含む。
  機能の停止、特に神経細胞の停止は心的機能にとって重要である。後述するとおり、神経細胞群の中の実際に接合する神経細胞のいくつかの連が興奮伝達し、他が停止するから、光景、音、痛さ…などの微妙な量が現れると前提される。もしも、神経細胞群の中のすべての神経細胞が興奮伝達するまたは停止するなら、見えるものは視野全体で真っ白けか真っ黒け、聞こえるものは低音から高音で大音量か完全な静寂か、皮膚、骨、横紋筋、腱で全身に激痛が走るか、何も感じないかである。また、形が現れるためには影が現れなければならず、影を伝える神経細胞が低密度で興奮伝達する必要がある。そもそも密度が存在するためには、神経細胞群の中のいくつかの実際に接合する神経細胞群のいくつかの連が興奮伝達し、他が停止する必要がある。
  そのように、ほとんどの機能の停止は機能と見なせる。機能ととらえることができる停止を機能に含めることにする。
  前述のとおり、機能は抑制を含む。いくつか機能が他のいくつかの機能を抑制して、後者が停止することを前者が後者を停止させることと呼べる。例えば、GABAという神経伝達物質を放出する神経細胞が他の神経細胞を抑制して後者が停止することが前者が後者を停止させることである。また、民主制と権力分立制が専制を抑制して、後者が停止することが前者が後者を停止することである。

機能の生起

  機能の必然的直接的部分を生じるまたは変化させる可能性をもつ部分が生じるまたは変化することを機能の「生起」、機能が生起することと呼べる。機能が生起することは、機能の必然的直接的部分を生じるまたは変化させる可能性をもつ部分が生じるまたは変化するが、機能の必然的直接的部分が生じず変化しないことを含み、機能が停止することと重なる。簡単に言って、機能が生起しても停止することはある。機能が生起することは必ずしも機能が機能すること(生じること)を意味しない。例えば、神経細胞のシナプス後伝達[1]が生じることが神経細胞の興奮伝達が生起することである。[1]が生じたとしても、閾値超え[1-1]が生じず、不発[1-2]が生じれば、シナプス前伝達[3]が生じず、神経細胞は興奮伝達せず停止する。それは神経細胞(の興奮と伝達)が生起することであるとともに停止することである。
  生起の最も重要な例は以下のことである。後述するとおり、通常、多数のイメージの素材が生起するがそれらのうちの限られた数(n)が想起される。それが日常で「同時に二つ以上のことを考えることができない」と思われているものの実体である。
  以下は神経細胞の興奮伝達と他のいくつかの生物の機能に関する限りで当てはまる。もし仮に、神経細胞の[4]休止が生じなくても、[3]シナプス前伝達が生じれば、神経細胞はシナプス後細胞に伝達し機能する。だが、[1-1][2][3]が生じて[4]が生じないことはありえない。定義からすると、必然的直接的部分である[3]シナプス前伝達が生じることが神経細胞が機能することだが、実質的には決定的部分である[1-1]閾値超えが生じること、さらに実質的には実質的には[1-1][2][3][4]の全体が生じることが、神経細胞が機能することである。

完全停止と不完全停止

  機能が生起することに対して、機能が生起しないこと、つまり、機能の必然的直接的部分もそれを生じるまたは変化させる可能性をもつ部分も生じず変化しないことを機能の「完全」停止または機能が完全に停止することと呼べる。
  機能の完全停止に対して、機能が生起するが機能しないこと、つまり、機能の必然的直接的部分を生じるまたは変化させる可能性をもつ部分が生じるまたは変化するが、機能の必然的直接的部分が生じず変化しないことを機能の「不完全」停止、機能が不完全に停止することと呼べる。
  「不完全」と言うと、悪い印象を与えるかもしれないが、『悪循環に陥る傾向への直面―習性をもつ動物の心理学』で説明される悪循環に陥る傾向を減退させるためにはわたしたちのそれぞれが悪循環に陥る機能を第一段階では完全にではなく不完全に停止する必要がある。

生物とその機能

生物とその機能

  たんぱく質、脂質、糖質、核酸などの高分子を合成し、それらから構成され、自身と同じ必然的属性をもつ物質を再生するというを属性をもつ物質を「生物」と呼べる。例えば、遺伝子は、たんぱく質と核酸を合成し、それらから構成され、自身を複製する機能をもち、より大きな生物の重要な部分となるだけでなく、それ自体生物である。だから、RNAウイルスやDNAウイルスも生物と認められざるをえない。生物は遺伝子、細胞膜、細胞、個体…などを含む。
  生物がもつ機能を生物機能と呼べる。生物機能は発生、再生、成長、老化、死、群れること、突然変異、進化を含む。
  生物とその機能を含む属性を「生物とその生物機能」、生物とその機能、生物と呼べる。
  生物とその機能が存在し機能することをそれが「生きる」こと、その「生」と呼べる。生物とその機能が存在し機能するようになることをそれが「生まれる」こと、その「誕生」と呼べる。また、生物とその機能が存在または機能しなくなることを生物が「死ぬ」こと、死と呼べる。例えば、個体だけでなく個体を構成する細胞もやがて死ぬ。
  生物は物質に含まれ、生物機能は物質機能に含まれる。だが、生物を除く物質を物質とも呼べ、生物機能を除く物質機能を物質機能とも呼べる。

個体

  生物の中には、他の生物と空間的に分離して生物であることができるものがある。他の生物と空間的に分離して生物であることができる生物を「個体」と呼べる。虫、魚、鳥、馬、牛、猫、犬、猿、人間…など日常で見かけるたいていの動物は個体である。

身体とその機能

  個体の中には、それがもつ感覚またはイメージの想起という機能が心的現象として現れるものを生じると前提され、運動機能をもつものがある。そのような個体を「身体」または「動物」と呼べる。例えば、視覚で現れるものは網膜から視神経を経て後頭葉の視覚野に至る神経細胞群の興奮伝達から生じると前提され、手足、眼球、舌…などは運動し、そのような機能をもつ個体は身体である。
  身体がもつ機能を身体機能、動物機能と呼べる。身体機能は、心臓、血管、肺の収縮と拡張、神経細胞群の興奮伝達、筋細胞群の興奮と収縮、分泌細胞群の興奮と分泌、不随意運動、随意運動、感覚、記憶を含む。
  身体とその身体がもつ機能を含む属性を「身体とその身体機能」、身体とその機能、身体、動物とその動物機能、動物とその機能、動物と呼べる。

動物とその機能

  身体を「動物」、動物の身体、動物の個体とも呼べ、身体機能を動物機能とも呼べる。だが、日常では、身体という言葉は心や精神との対比に用いられ、心や心的現象として現れるものを含意しない。それに対して、動物、人間という言葉はそれらを含意しうる。そこで、動物とその機能とその部分が生じると前提される心的現象として現れるものとを動物とその動物機能、動物とその機能、動物と呼べる。つまり、動物とその機能という言葉は、現れるものを含意することがある点において、身体とその機能という言葉と異なる。

人間とその機能

  Homo sapiens(ヒト)という種に属する動物を「人間」、人間がもつ機能を人間機能と呼べ、人間と人間がもつ機能を含む属性を人間とその人間機能、人間とその機能、人間と呼べる。さらに、前述と同じ理由で、人間とその機能とその部分が生じると前提される現れるものとを人間とその人間機能、人間とその機能、人間、個人、わたしたちのそれぞれ…など呼べる。
  人間機能は、前述の身体機能の他に、二本足で歩くこと、二本足で走ること、クロール、バタフライ…などで泳ぐこと、話し言葉を話す、書き言葉を書く、計算する、遊ぶ、勉強する、仕事をする、対人機能を含む。
  物質は生物を含み、生物は身体(=動物)を含み、身体は人間を含む。物質機能は生物機能を含み、生物機能は身体機能(=動物機能)を含み、身体機能は人間機能を含む。物質とその機能は生物とその機能を含み、生物とその機能は身体とその機能(=動物とその機能)を含み、身体とその機能は人間とその機能を含む。

神経細胞群の興奮伝達

神経系

  神経細胞、感覚細胞とそれらを支持する神経膠細胞、脳脊髄液、硬膜、軟膜、クモ膜…などから構成される器官を「神経系」と呼べる。中枢神経系だけでなく末梢神経系、自律神経系も神経系に含まれる。さらに、感覚細胞、感覚細胞群、感覚器も神経系に含めることにする。だが、そのように定義すると感覚神経が密に分布する皮膚なども神経系に含まれかねない。そこで、体性感覚と自律感覚については感覚細胞、感覚細胞群のみを神経系に含めることにする。
  以下を「神経細胞群」と呼べる。

単位的神経細胞群

  神経細胞体が集まりいわゆる核になり、軸索が束になっていわゆる神経になった神経細胞の集まりを「単位的神経細胞群」と呼べる。
  単位的神経細胞群の中のそれぞれの神経細胞が他のいくつかの単位的神経細胞群の中のいくつかの神経細胞から接合される。そのことを単位的神経細胞群が他のいくつかの単位的神経細胞群から接合されることと呼べる。単位的神経細胞群の中のそれぞれの神経細胞が他のいくつかの単位的神経細胞群の中のいくつかの神経細胞に接合する。そのことを単位的神経細胞群が他のいくつかの単位的神経細胞群に接合することと呼べる。

感覚細胞群

  感覚細胞の集まりを「感覚細胞群」と呼べる。
  感覚細胞は、神経細胞が軸索としてもつような長い突起をもたないが、神経細胞と同様に、軸索と同じ機能をもち軸索と呼べる突起で神経細胞に接合し神経細胞に伝達する能力をもつ。また、感覚細胞群は、単位的神経細胞群と同様にいくつかの単位的神経細胞群に接合する。そのような感覚細胞を神経細胞に含め、感覚細胞群を単位的神経細胞群に含めることにする。
  だが、感覚細胞群が神経細胞群に接合され伝達されることはない。感覚細胞群は光子、音波、圧力、熱…などの神経系の外部からの刺激によって興奮伝達する。そのような刺激は神経系に対する唯一の入力である。感覚細胞群は後述する複合神経細胞群の比喩的な意味での第一走者である。

複合神経細胞群

  以下の線的神経細胞群、神経細胞路、分岐する神経細胞群、収束する神経細胞群、一対の神経細胞群、それらの混合を「複合神経細胞群」と呼べる。

線的神経細胞群

  一つの単位的神経細胞群[A]が他の一つの単位的神経細胞群[B]に接合し、[B]が他の一つの単位的神経細胞群[C]に接合し…と続くとき、[A][B][C]…を「線的神経細胞群」と呼べる。

神経細胞路

  一つの単位的または複合神経細胞群[A]が他の一つの単位的神経細胞群[B]に接合し、[B]が他の一つの単位的神経細胞群[C]に接合し、[C]が他の一つの単位的または複合的神経細胞群または筋細胞群または分泌細胞群[D]に接合し、[A]と[D]が感覚、記憶、運動などの明確な機能をもち、[B][C]が興奮伝達以外の明確な機能をもたないとき、[B][C]を[A]から[D]への「神経細胞路」と呼べる。
  だが、神経細胞路が分岐または収束することはありえる。そのようなものも神経細胞路に含めることにする。

分岐する神経細胞群

  単位的神経細胞群[A]がそれ以上の数の単位的神経細胞群[B][B']に接合し、[B][B']がそれ以上の数の単位的神経細胞群[C][C'][C'']に接合し…と続くとき、[A][B][B'][C][C'][C'']…を「分岐する」または「発散する」神経細胞群と呼べる。また、乱雑に分岐する細胞群を分散する細胞群と呼べる。
  例えば、「記憶」の章で説明される生成しつつある個々のイメージの素材が通る神経細胞群は分岐する神経細胞群であり、『自我とそれらの傾向―自我をもつ動物の心理学』で説明される衝動が通る神経細胞群は発散する神経細胞群である。

収束する神経細胞群

  単位的神経細胞群[Z]がそれ以上の数の単位的神経細胞群[Y][Y']から接合され、[Y][Y']がそれ以上の数の単位的神経細胞群から[X][X'][X'']から接合され…と続くとき、[Z][Y][Y'][X][X'][X'']…を「収束する」神経細胞群と呼べる。
  例えば、「記憶」の章で説明される個々のイメージの素材を保持する神経細胞群から素材を再生する神経細胞群へ向かう神経細胞群が収束する神経細胞群である。だから、多数の個々のイメージの素材が生起するが限られた数以下のものが想起される。

一対の神経細胞群

  ほとんどの神経系に一対の神経細胞群があり、それらの対は、交叉することはあり接合することはあっても、対称的である。例えば、脊椎動物の神経系のそれぞれに、視神経が交叉するが、網膜から視神経を経て後頭葉の視覚野に至る一対の神経細胞群かある。そのような一対の神経細胞群を神経細胞群、複合神経細胞群に含めることにする。
  後述するとおり、一対の神経細胞群の興奮伝達とそれらを処理する機能が感覚器を超えて現れるものを生じると前提される。例えば、両眼で視覚で現れるあなたの顔はわたしの眼を超えた位置に見える。それに対して、右眼を閉じると、左眼で視覚で現れるあなたの顔はわたしの左眼の位置に見える。また、対があるから、片方に障害を被っても生命を維持できることがある。そのことは神経系だけでなく目、耳、肺、腎臓、四肢、睾丸、卵巣…などにも当てはまる。また、大脳でも神経細胞群が対になっているから優位半球が問題になる。例えば、右利きの人では左半球が優位であることが多い。その場合、右半球に障害を受けても心的機能や身体機能に重大な障害が現れないことがある。

神経細胞群

  以上の単位的神経細胞群、神経細胞路、感覚細胞群、複合神経細胞群、それらの混合を「神経細胞群」と呼ぶことにする。

実際に接合する神経細胞連

  複合神経細胞群の中で、すべての神経細胞が直接的または間接的に接合するわけではない。すべてが接合するなら、例えば、網膜での小さな斑点が後頭葉の視覚野での視野全体になってしまうことがある。
  複合神経細胞群の中で直接的または間接的に実際に接合する神経細胞を「実際に接合する神経細胞連」と呼べる。そのように定義すると、神経細胞群は多数の実際に接合する神経細胞連の束であると再定義できる。

空間的位置を維持する選択的な神経細胞群

  神経細胞群の軸索の束を茎をそうするように輪切りにすることを想像してみると、実際に接合する神経細胞連は輪切りの中での相対的位置を属性としてもつことが分かる。神経細胞が一対多、多対一の接合を何度もせず、また軸索がもつれない限り、実際に接合する神経細胞連の空間的相対的位置がかなりの程度、維持される。そうでなければ、例えば、視覚で現れる円が歪んでアメーバのような曲線になってしまうだろう。
  また、そのような神経細胞群の興奮伝達の中では、実際に接合する神経細胞連が興奮伝達するか停止するか、つまり、選択性がそのような空間的位置において維持される。そのような選択性が維持されることによって、興奮伝達の密度も維持される。例えば、人の顔の陰の部分を伝達する連は低密度で興奮伝達し、光が当たる部分を伝達する連は高濃度で興奮伝達する。
  そもそも、感覚と記憶に係る神経細胞群の中のすべての神経細胞が興奮伝達するかすべてが停止するかのどちらかなら、視覚で現れるものは真っ白けが真っ黒け、聴覚で現れるものは大音量か沈黙かであって、感覚も記憶もない。
  そのような神経細胞群を(空間的位置を維持する)選択的神経細胞群、選択的神経細胞群と呼べる。また、その逆を「非選択的な」神経細胞群と呼べる。
  選択的な神経細胞群の興奮伝達は後述の心的現象として現れるものの神経素材の必然的属性の一つである。そうでないなら、どうなるかという例は既にいくつか挙げた。ここでは他の例を一つ挙げる。そうでないなら体性感覚で現れる皮膚の痛みの空間的位置と配列が混同され、私たちはどこが痛いのか分からなくなる、と前提される。そのように感覚とイメージの想起を生じる神経細胞群は選択的である必要がある。
  それに対して、平滑筋の収縮や内分泌腺の分泌を生じる神経細胞群の興奮伝達は必ずしも選択的である必要はない。だが、実際はそれらも前者ほどではないが選択的である。それは発生学的に軸索が縺れるような神経細胞群の発生のほうが困難または不可能な仕業だからである。だから、神経細胞群はすべて大なり小なり選択的である。

神経機能

  神経系がもつ機能を神経機能と呼べる。神経機能は神経細胞の興奮伝達、神経細胞群の興奮伝達、感覚、記憶を含む。
  神経系とその神経機能の部分が現れるものを直接的に生じると前提され、さらに詳細には、いくつかの神経細胞群の興奮伝達が現れるものを直接的に生じると前提される。

神経細胞群の興奮伝達

  上の節で選択性を説明した後で初めて、神経細胞群の興奮伝達を定義できる。前述のとおり大なり小なり選択的である神経細胞群の中で実際に接合するいくつかの連の神経細胞が興奮伝達し他の連が停止することを、神経細胞群の興奮伝達または神経細胞群が興奮伝達することと呼べる。また、空間的位置の維持と選択性を強調する必要がある場合は、それを(空間的位置を維持する)選択的な神経細胞群の興奮伝達と呼べる。
  それに対して、すべての連が停止することを神経細胞群の停止または神経細胞群が停止することと呼べる。
  また、神経細胞群の中の最終走者に相当する単位的神経細胞群に属する神経細胞のシナプス前伝達を神経細胞群のシナプス前伝達、神経細胞群が伝達することと呼べる。それに対して、複合神経細胞群の中の第一走者に相当する単位的神経細胞群に属する神経細胞のシナプス後伝達を神経細胞群のシナプス後伝達、神経細胞群が伝達されることと呼べる。

神経細胞群の即時的な興奮伝達

  すべての神経細胞群の中で、実際に接合する神経細胞連の興奮伝達の間の時間差はミリセカンド(千分の一秒)単位である。そのような神経細胞群の興奮伝達を神経細胞群の「即時的」な興奮伝達、神経細胞群が即時的に興奮伝達と呼べる。
  神経細胞群の即時的な興奮伝達の中で実際に接合する神経細胞連の興奮伝達の空間的位置だけでなく時間的位置がある程度、維持される。例えば、神経細胞群の右側が2秒前に興奮伝達し始め左側が1秒前に興奮伝達し始めたとして、1秒差という時間差はある程度、維持される。また、神経細胞群の即時的な興奮伝達の中で、実際に接合する神経細胞連の興奮伝達の頻度が維持される。
  神経細胞群の即時的な興奮伝達は後述する心的現象として現れるものの素材の必然的属性の一つである。そうでなければ、例えば、視覚で現れる走る動物の四肢の前脚前で後脚後でそれから前脚後で後脚前…という動きが前脚前で後脚前でそれから前脚後で後脚後…になることがあると前提される。

神経細胞群の活性

  神経細胞群の中の神経細胞の活性を神経細胞群の活性、活性化と呼べる。そのような神経細胞群の活性化と活性によって後述するとおり記憶における記銘保持が可能になる。
  また、それらの活性活性化も選択的である。例えば、陰の部分は低密度で活性化されハイライトの部分は高密度で活性化される。

心的現象として現れるもの

心的現象として現れるもの

  前述のとおり、光景、音、臭い、めまい、味、痛さ、暑さ、寒さ、動悸、息苦しさ、吐き気、飢え、渇き、イメージ、アイデア、色、明暗、音の高低、大小…などを(心的現象として)現れるものと呼べる。心的現象として現れるものが存在することまたは存在すると前提されることをものが(心的現象として)現れることと呼べる。例えば、筆者であるわたしには現在、パソコンのディスプレー、キーボード、それを打つ手が両眼で視覚で、パソコンを打つ音が両耳で聴覚で、軽度の空腹が自律感覚で現れている。
  「(心的現象として)現れるもの」という言葉は、光景、イメージ…などを指すことも、光景、イメージ…などとして再現されると前提される物質、身体…などのものそのものを指すこともある。この著作では「現れるもの」という言葉は前者、つまり、光景、イメージ…などを指すことにする。例えば、光景として再現されると前提される物質の反射率、透過率、屈折率などは現れるものではなく、光景が現れるものである。
  「ものが現れる」ことという言葉は、光景、イメージ…などが存在するまたは存在すると前提されることを指すことも、物質、身体…などのものそのものが光景、イメージ…などとして再現されると前提されることを指すこともある。この著作では「ものが現れること」という言葉は前者を指すことにする。
  現れるものの全体は現れ、現れるものの部分は現れる。例えば、周辺はぼんやりしているが、視覚で現れるものの全体はいわゆる「視野」として現れる。もちろん、視覚で現れるものの中央の部分ははっきりと現れる。だから、現れるものの全体を「現れる全体」と呼べ、現れるものの部分を「現れる部分」と呼べる。また、現れる全体または現れる部分を現れるものと呼べる。
  色、音の高低…などの質、明暗、音量…などの量、空間的位置、時間的位置、空間的構成、時間的構成、それらの変化…などは現れる空間時間的なものの属性であり、それらは現れる。だから、それらを現れる属性と呼べる。
  それらの意味は以下の言葉にも当てはまる。

(1)現れるもの、ものが現れることという言葉の中のものという言葉を他の言葉で置き換えた「現れる属性」、「現れる時間」「全体が現れること」…などの言葉
(2)「現れる」という動詞に「感覚で」、「イメージとして」…などの修飾語を付けた「感覚で現れるもの」、「イメージとして現れるもの」、「ものがイメージとして現れること」…などの言葉
(3)「現れる」という動詞の広義の時制を変えた「わたしに過去に現れたもの」「わたしに未来に現れているであろう」こと…などの言葉

現れるものの基本的な種類

  心的現象として現れるものの基本的な種類は以下のとおりである。

(s)一般にある種類の感覚で現れるもの、個体において感覚で現れるもの

(s1)一般に視覚的種類の感覚で現れるもの、個体において視覚で現れるもの
  光景、色、明るさ、書き言葉…
(s1-1)一般に片眼で視覚的種類の感覚で現れるもの、個体において片眼で視覚で現れるもの
  平面的で片眼に限局する光景
(s1-2)一般に両眼で視覚的種類の感覚で現れるもの、個体において両眼で視覚で現れるもの
  立体的で両眼を超える光景
(s2)一般に聴覚的種類の感覚で現れるもの、個体において聴覚で現れるもの
  音、声、高低、音量、話し言葉…
(s2-1)一般に片耳で聴覚的種類の感覚で現れるもの、個体において片耳で聴覚で現れるもの
  点であり片耳に限局する音
(s2-2)一般に両耳で聴覚的種類の感覚で現れるもの、個体において両耳で聴覚で現れるもの
  立体的で両耳を超える音源
(s3)一般に嗅覚的種類の感覚で現れるもの、個体において嗅覚で現れるもの
  におい、香り、くささ…
(s3-1)一般に片鼻で嗅覚的種類の感覚で現れるもの、個体において片鼻で嗅覚で現れるもの
  平面的で片鼻に限定するにおい
(s3-2)一般に両鼻で嗅覚的種類の感覚で現れるもの、個体において両鼻で嗅覚で現れるもの
  立体的で両鼻を超えるにおい源
(s4)一般に平衡感覚的種類の感覚で現れるもの、個体において平衡感覚で現れるもの
  めまい、ふらつき…
(s5)一般に味覚的種類の感覚で現れるもの、個体において味覚で現れるもの
  味、うまさ、まずさ、甘さ、辛さ、酸っぱさ、苦さ…
(s6)一般に体性感覚的種類の感覚で現れるもの、個体において体性感覚で現れるもの
  皮膚、骨、横紋筋、腱…などの痛さ、痒さ、暑さ、寒さ…
(s7)一般に自律感覚的種類の感覚で現れるもの、個体において自律感覚で現れるもの
  粘膜、消化器系、循環器系…などの痛さ、痒さ、暑さ、寒さ、動悸、息苦しさ、吐き気…

(i)一般にある種類の感覚的イメージとして現れるもの=ある種類の感覚的イメージ、個体のおいて感覚的イメージとして現れるもの=感覚的イメージ

(i1)一般に視覚的種類の感覚的イメージとして現れるもの=視覚的種類の感覚的イメージ、個体において視覚的感覚的イメージとして現れるもの=視覚的感覚的イメージ
(i1-1)一般に片眼的に視覚的種類の感覚的イメージとして現れるもの=片眼的な視覚的種類の感覚的イメージ=片眼的に視覚的感覚的イメージとして現れるもの=片眼的な視覚的感覚的イメージ
(i1-2)一般に両眼的に視覚的種類の感覚的イメージとして現れるもの=両眼的な視覚的種類の感覚的イメージ、個体において両眼的に視覚的感覚的イメージとして現れるもの=両眼的な視覚的感覚的イメージ
(i2)一般に聴覚的種類の感覚的イメージとして現れるもの=聴覚的種類の感覚的イメージ、個体において聴覚的に感覚的イメージとして現れるもの=聴覚的な感覚的イメージ
(i2-1)一般に片耳的に聴覚的種類の感覚的イメージとして現れるもの=片耳的な聴覚的種類の感覚的イメージ、個体において片耳的に聴覚的感覚的イメージとして現れるもの=片耳的な聴覚的感覚的イメージ
(i2-2)一般に両耳的に聴覚的種類の感覚的イメージとして現れるもの=両耳的な聴覚的種類の感覚的イメージ、個体において両耳的に聴覚的感覚的イメージとして現れるもの=両耳的な聴覚的感覚的イメージ
(i3)一般に嗅覚的種類の感覚的イメージとして現れるもの=嗅覚的種類の感覚的イメージ、個体において嗅覚的感覚的イメージとして現れるもの=嗅覚的感覚的イメージ
(i3-1)一般に片鼻的に嗅覚的種類の感覚的イメージとして現れるもの=片鼻的な嗅覚的種類の感覚的イメージ、個体において片鼻的に嗅覚的感覚的イメージとして現れるもの=片鼻的な嗅覚的感覚的イメージ
(i3-2)一般に両鼻的に嗅覚的種類の感覚的イメージとして現れるもの=両鼻的な嗅覚的種類の感覚的イメージ、個体において両鼻的に嗅覚的感覚的イメージとして現れるもの=両鼻的な嗅覚的感覚的イメージ
(i4)一般に平衡感覚的種類の感覚的イメージとして現れるもの=平衡感覚的種類の感覚的イメージ=平衡感覚的感覚的イメージとして現れるもの=平衡感覚的感覚的イメージ
(i5)一般に味覚的種類の感覚的イメージとして現れるもの=味覚的種類の感覚的イメージ、個体において味覚的感覚的イメージとして現れるもの=味覚的感覚的イメージ
(i6)一般に体性感覚的種類の感覚的イメージとして現れるもの=体性感覚的種類の感覚的イメージ、個体におて体性感覚的感覚的イメージとして現れるもの=体性感覚的感覚的イメージ
(i7)一般に自律感覚的種類の感覚的イメージとして現れるもの=自律感覚的種類の感覚的イメージ、個体において自律感覚的感覚的イメージとして現れるもの=自律感覚的感覚的イメージ

  簡単に言えば、思い浮かぶもの、思い出される過去のもの、予期される未来のもの、空想される非現実的なもの…などがイメージである。
  イメージというと視覚的感覚的イメージが思い浮かぶが、聴覚的感覚的イメージ、嗅覚的感覚的イメージ…などについてもイメージという言葉を使うことにする。例えば、目の前に居ない人が思い浮かぶときは、その人の顔が視覚的感覚的イメージとして現れ、その人の話し言葉が聴覚的感覚的イメージとして現れ、その人の感触が体性感覚的感覚的イメージとして現れる。場合によっては、煙草や酒や香水の臭いを伴うその人の臭いが嗅覚的感覚的イメージで現れる。また、明日の職場や学校のことを予想するときは、建物や人が視覚的感覚的イメージで現れ、人の言葉やチャイムの音が聴覚的イメージで現れる。そもそも、わたしたちは言語の視覚的感覚的イメージと聴覚的感覚的イメージを使いながら思考している。そうでないとわたしたちは言葉を書くか独り言を言わないと思考できない。
  以上が最も基本的な心的現象として現れるものである。以下はより基本的な心的現象として現れるものである。
  厳密に言うと、動悸、息苦しさなど…は、自律感覚で現れるものだけでなく、胸郭の伸展に伴う体性感覚で現れるものも含み、純粋な自律感覚で現れるものではないが、感覚で現れる一つのものとしてとらえることができる。複数の種類の感覚で現れるものを含むが感覚で現れる一つのものととらえることができる感覚で現れるものを「複合的感覚で現れるもの」と呼べる。
  だが、次のような定義もすることにする。狭義の感覚神経を含み他の広義の感覚神経を含まない神経機能から生じると前提される感覚で現れるものを体性感覚的種類の感覚で現れるものまたは体性感覚で現れるもの呼べるのに対して、自律神経の興奮伝達を含む神経機能から生じると前提される複合的感覚で現れるものを自律感覚的種類の感覚で現れるものまたは自律感覚で現れるものとも呼ぶことにする。つまり、複合的感覚で現れるものが自律感覚で現れるものを含むとき、それを自律感覚で現れるものとも呼ぶことにする。そのように自律感覚で現れるものを優先させる理由は『自我とそれらの傾向―自我をもつ動物の心理学』で説明される。
  自律感覚で現れるものは感覚で現れるものの中で最も曖昧である。だが、例えば、動悸、息苦しさが自律感覚で現れる。自律感覚的感覚的イメージは現れるものの中で最も曖昧であり、存在しないかもしれない。だが、存在する可能性はあるので、挙げておく。
  片眼で視覚で現れるもの、両眼で視覚で現れるもの、片耳で聴覚で現れるもの…などのそれぞれはある意味で同質である。例えば、両眼で視覚で現れるものはすべて、色と明暗を属性としてもち、立体的であり両眼を超えており、その意味でそれらは同質である。それに対して、自律感覚で現れるものと自律感覚的感覚的イメージとして現れるものは同質でなく、異質である。例えば、動悸と息苦しさと吐き気は似ても似つかず、それらが同質とは言い難い。同質なものは単一の機能から生じると前提される。例えば、両眼で視覚で現れるものは、両眼の網膜から両側の視神経を経て(ここで交叉する)両側の視覚野に至る一対の神経細胞群の興奮伝達から生じると前提され、それらは単一の機能と見なせる。それに対して、後者が単一の機能から生じるとは前提されない。そこで、自律感覚的種類の感覚で現れるものと自律感覚的種類の感覚的イメージとして現れるものに限って、個体の中でも、自律感覚的種類(複数形)の感覚(複数形)または自律感覚(複数形)で現れるもののように複数形を用いることがあることにする。

同種の感覚と感覚的イメージで現れるもの=それぞれの種類の感覚と感覚的イメージで現れるもの

  視覚的感覚的イメージは視覚で現れるものほど鮮明でないが、前者は後者に似ており、聴覚的感覚的イメージは聴覚で現れるものほど鮮明でないが、前者は後者に似ており、嗅覚的感覚的イメージ、平衡感覚的感覚的イメージ…などについて同様のことが言える。例えば、視覚的感覚的イメージとして現れる他人の顔は、視覚で現れるその人の顔ほど鮮明でないが、視覚で現れるその人の顔に似ており、聴覚的感覚的イメージとして現れる他人の声は、聴覚で現れるその人の声ほど鮮明でないが、聴覚で現れるその人の声に似ている。それは視覚で現れるものも視覚的感覚的イメージも色と明暗を必然的属性としてもち、聴覚で現れるものも聴覚的イメージも音の高低と大小を必然的属性としてもち…と続くからである。そのように鮮明さに違いがあるだけで同じ必然的属性をもつ感覚で現れるものと感覚的イメージを「同種」の感覚と感覚的イメージで現れるものまたはそれぞれの種類の感覚と感覚的イメージで現れるものと一般的に呼べ、視覚的種類の感覚と感覚的イメージで現れるもの、聴覚的種類の感覚と感覚的イメージとして現れるもの…などと個別的に呼べる。
  同種の感覚と感覚的イメージとして現れるものの中で、感覚で現れるものと感覚的イメージは似ているのであって、それぞれの種類を超えて似ているのではない。例えば、視覚で現れるものと聴覚的感覚的イメージは似ても似つかない。視覚で現れる他人の顔と聴覚的イメージとして現れるその人の声は似ても似つかない。

快不快の感覚で現れるもの

  なんらかの快と不快がほどんどいつも感覚で現れる。例えば、皮膚の痛さが体性感覚で現れ、動悸、息苦しさ、空腹または満腹、渇き、吐き気が自律感覚で現れ、それらは快または不快である。例えば、適度の空腹は快のことがあり、過度の空腹はしばしば不快である。また、過度の動悸、息苦しさは常に不快だが、適度なそれらは快であることがある。(s3)-(s7)はそのような快不快を属性としてもつ。快不快を属性としてもつ(s3)-(s7)を「快不快の感覚で現れるもの」と一般的に呼べ、快不快の嗅覚で現れるもの、快不快の平衡感覚で現れるもの、快不快の味覚で現れるもの、快不快の体性感覚で現れるもの、快不快の自律感覚で現れるものと個別的に呼べる。
  皮膚、骨、横紋筋、腱…などの痛さ、痒さ、暑さ、寒さ…は快不快の体性感覚で現れるものに含まれる。何故ならそれらの組織または器官には主として狭義の感覚神経が分布するからである。粘膜、消化器系、循環器系…などのそれらと動悸、息苦しさ、吐き気、飢え、渇き…などは快不快の自律感覚で現れるものに含まれる。何故なら、それらには主として自律神経が分布するからである。
  視覚で現れるもの、聴覚で現れるものを除いて、感覚で現れるものは快不快の感覚で現れるものである。それらは快不快を属性としてもつから心理学的に重要である。視覚で現れるもの、聴覚で現れるものは快不快の感覚で現れるものではない。例えば、目の痛さ、耳の痛さは、体性感覚で現れるものまたは自律感覚で現れるものまたは比喩である。視覚で現れるものと聴覚で現れるものは、快不快をもたないが、それらから生じる視覚的感覚的イメージと聴覚的感覚的イメージが感覚的イメージのほとんどを占めるから心理学的に重要である。結局、(s3)-(s7)は情動に重要であり、(s1)(s2)(i1)(i2)は記憶、知覚、連想、思考にとって重要である。
  快不快の感覚で現れるものは、快の属性が比較的に優勢な空間的時間的部分、不快の属性が比較的に優勢な空間的時間的部分をもつ。快不快の感覚で現れるものの中の、快の属性が比較的に優勢な空間的時間的部分を「快の感覚で現れるもの」または快と呼べ、不快の属性が比較的に優勢な空間的時間的部分を「不快の感覚で現れるもの」または不快と呼べる。
  結局のところ、ある心的現象として現れるものが快か不快かは動物がそれに対してどのように機能するかで決定できるだけである。『自我とそれらの傾向―自我をもつ動物の心理学』で説明されるように、機能的衝動を生じる自律感覚は快の自律感覚である。

感覚器で現れるもの⇔感覚器を超えて現れるもの

  (s1-1)(s2-1)(s3-1)(s4)(s5)(s6)(s7)(i1-1)(i2-1)(i3-1)(i4)(i5)(i6)(i7)は点または平面または立体であり、固有の感覚器で現れ、感覚器を超えて現れない。例えば、右目を閉じてみると、左眼で視覚で現れる他人の顔は平面的であり、左眼で現れ、左眼を超えて現れない。点または平面または立体であり固有の感覚器で現れ感覚器を超えて現れない(s1-1)(s2-1)(s3-1)(s4)(s5)(s6)(s7)(i1-1)(i2-1)(i3-1)(i4)(i5)(i6)(i7)を「感覚器で現れるもの」と呼べる。
  (s1-2)(s2-2)(s3-2)(i1-2)(i2-2)(i3-2)は立体であり固有の感覚器を超えて現れる。例えば、両眼を開くと、両眼で現れる他人の顔は立体であり両眼を超える。立体でありそれぞれの感覚器を超える(s1-2)(s2-2)(s3-2)(i1-2)(i2-2)(i3-2)を「感覚器を超えて現れるもの」と呼べる。
  以下の説明において感覚的イメージの説明は省略するが、それらは感覚で現れるものの説明と同様である。
  それらに固有の感覚器が明確でない体性感覚で現れるものと自律感覚で現れるものにおいては、ものが現れる空間はそれらに固有の感覚細胞群が分布する空間と一致する。体性感覚で現れるものが現れる空間は、狭義の感覚神経が分布する皮膚、横紋筋、骨、腱、靭帯の空間と一致する。自律感覚で現れるものが現れる空間は、自律神経の中の固有の感覚細胞が分布する粘膜、循環器系、呼吸器系…などと一致する。
  片耳で聴覚で現れるもの、平衡感覚で現れるものは空間的に点でしかない。それらが空間的に点でしかないのは、内耳の感覚細胞群の空間的位置、配列が、身体の中での位置、配列ではなく、音の高低や他の質を表現するからである。

心的現象として現れる空間的時間的なものと属性

  前述のとおり、心的現象として現れるものは、心的現象として現れる空間的時間的なものと属性に区別される。例えば、木の光景は視覚で現れる空間的時間的なものであり、それは色と明るさを属性としてもつ。もう少し詳しく言うと、視覚で現れる木の葉という空間的時間的なものは緑という色を属性としてもち、太陽の光が当たるそれらは明るい緑という色を属性としてもち、太陽の光が当たらない陰のそれらは暗い緑という色を属性としてもつ。そのようにより詳しくは、色という質という第一属性が明るさという量という第二属性をもつことが分かる。だが、これらの著作では、空間的時間的なもの(0)が第一属性(1)をもち、第一属性(1)が第二属性(2)をもつ場合でも、(0)が(1)(2)を属性としてもつという言い方をすることにする。
  それぞれの種類の感覚と感覚的イメージで現れるものの中で、現れる空間的時間的なものが似ており、現れる属性が似ている。例えば、視覚的種類の感覚と感覚的イメージで現れるものの中で、視覚で現れる色と視覚的イメージとして現れる色が似ている。
  視覚で現れる属性、聴覚で現れる属性は快不快を含まない。嗅覚で現れる属性、平衡感覚で現れる属性、味覚で現れる属性、体性感覚で現れる属性、自律感覚で現れる属性は快不快を含む。感覚的イメージとして現れる属性は快不快を含まない。例えば、不安、恐怖…などの精神的情動で快不快と見えるものは、『自我とそれらの傾向―自我をもつ動物の心理学』で説明されるとおり、快不快の自律感覚で現れるものが属性としてもつ快不快である。
  既に説明した感覚で現れるものと感覚的イメージとして現れるものは空間的時間的なものまたはそれらの属性である。後述する個々のイメージは感覚的イメージの空間的時間的部分である。後述する複合イメージは空間的時間的に個々のイメージから構成される。後述する知覚で現れるものは感覚で現れるものの部分と複合イメージから構成される。だから、心的現象として現れるものはすべて、空間的時間的なものまたはそれらの属性である。簡単に言って、それらは空間と時間を超えない。

強く~弱く現れるもの

  すべての心的現象として現れる空間的時間的なものは、属性として、明るさ~暗さ、音量、近さ~遠さ、大きさ~小ささ、強さ~弱さ、鮮明さ~曖昧さ…などの量をもち、それらの量は現れる。現れる空間的時間的なものが属性としてもち現れる量を、(心的現象として)「現れる量」「現れる強さ」と呼べる。また、粗雑ではあるが、概して現れる量が大きい~小さい現れるものを強く~弱く現れるものとも呼べ、強く~弱く現れるものが現れることをものが強く~弱く現れることと呼べる。
  そのような量を以下に挙げてみる。それらも「強く~弱く」という言葉で表現することにする。

○明るさ
  この言葉はすべての視覚的種類の感覚と感覚的イメージで現れるものがもつ現れる量を表す。
○距離=近さ
  この言葉はすべての感覚器を超えて現れるもの、つまり、両眼で視覚的種類の感覚と感覚的イメージで現れるもの、両耳で聴覚的種類の感覚と感覚的イメージで現れるもの、両鼻で嗅覚的種類の感覚と感覚的イメージで現れるものがもつ現れる量を表す。
○音量
  この言葉はすべての聴覚的種類の感覚と感覚的イメージとして現れるものがもつ現れる量を表す。
○鮮明さ
  この言葉はすべての現れるものがもつ現れる量を表す。視覚で現れるものの中で周辺は曖昧であり真ん中は鮮明である。一般に体性感覚で現れるものは自律感覚で現れるものより鮮明である。一般に感覚で現れるものはイメージとして現れるものより鮮明である。現れる鮮明さは写真の解像度などに喩えることができる。通常、受光素子の数が大きくなるほど解像度が大きくなるように、網膜の感覚細胞の数が大きくなるほど鮮明さは大きくなる。また、カメラのレンズに汚れがあると解像度が落ちるように、眼の水晶体に白内障があると鮮明さは落ちる。
〇空間的大きさ
  視覚的種類の感覚と感覚的イメージで現れるもの、体性感覚的種類の感覚と感覚的イメージで現れるものは明らかな空間的広さをもつ。例えば、両眼で視覚で現れるものの中で、わたしたちは眼前にあるもののサイズを推測できる。また、体性感覚で現れるものの中で、わたしたちは背中の皮膚病変の広さを痛さ痒さの広さなどから推測できる。だが、それ以外の現れるもののいくつかも曖昧だが空間的広さをもつ。両耳で聴覚で現れるものと両鼻で嗅覚で現れるものの中では音源と臭い源が現れ、その大きさも現れる。例えば、合唱の音源が独唱のそれより大きいことをわたしたちは目をつむっていても分かる。また、人間においては両鼻で嗅覚で現れるものの臭い源は非常に曖昧だが、恐らく他のいくつかの動物は天敵の大きさを嗅ぎ分けるだろう。また、自律感覚で現れるものの空間的大きさも曖昧であるが、例えば、胃粘膜全体の炎症と小部分の炎症では違って感じられるだろう。
〇時間的持続と頻度
  これはイメージとして現れるもので重要である。例えば、不安を生じるイメージは曖昧だが執拗に頻繁に現れ、その執拗さと頻繁さがわたしたちを悩ませる。
○強さ
  狭義には、この言葉は体性感覚で現れる痛み、暑さ、寒さ…、自律感覚で現れる動悸、息苦しさ、飢え、渇き、吐き気…などがもつ現れる量を表す。また、快不快の感覚で現れるものが属性としてもつ快不快の量を表すのに用いられる。広義には、視覚的感覚と感覚的イメージで現れる明るさは光の強さとも見なせ、聴覚的感覚と感覚的イメージで現れる音量は音の強さとも見なせる。前述のとおり、これらの著作では他の現れる量を指すにもこの言葉を用いる。

イメージとして現れるもの=イメージ

個々のイメージとして現れるもの=個々のイメージ

  感覚的イメージの中では、いくつかの空間的時間的部分のそれぞれが、いくつかの属性をもち、他の部分から分離し、現れ、近づき、遠ざかり、消滅し、それらいくつかは融合しまた分離する。そのような部分を「個々のイメージとして現れるもの」、個々のイメージ、個々の感覚的イメージとして現れるもの、個々の感覚的イメージと一般的に呼べ、個々の視覚的イメージとして現れるもの、個々の視覚的イメージ、個々の聴覚的イメージとして現れるもの…などと個別的に呼べる。例えば、視覚的感覚的イメージの中で、頭部、胴体、上肢、下肢という空間的構成を属性としてもつ特定の人の身体の個々の視覚的イメージが、現れ、背景から分離し、近づき、遠ざかり、消滅する、または、背景と再融合する。今後は簡略化のため「個々のイメージ」という言葉をよく用いることにする。それは一般的な言葉であり、個々のイメージは個々の視覚的イメージ、個々の聴覚的イメージ…などを含む。
  『記憶』の章で説明されるとおり、感覚されたばかりの神経素材の部分がもついくつかの属性が認識され、その部分が切り取られて個々のイメージの素材として生成する。だから、個々のイメージは、既にいくつかの属性をもち、既に分離しており、同質的(homogeneous)であり、視覚的イメージか聴覚的種類か…のいずれかである。また、イメージの中では最小単位である。そのような最小単位が後述する他の種類のイメージを構成する。

イメージとして現れるもの=イメージ

  以下の複合的イメージとして現れるもの、知覚で現れるもの、連想で現れるものを「イメージとして現れるもの」、「イメージ」と呼べる。

複合イメージとして現れるもの=複合イメージ

  複数の個々のイメージが他の個々のイメージと感覚で現れるものより空間的時間的に近くで現れる。例えば、両眼で個々の視覚的イメージとして現れる特定の他人の顔、両耳で個々の聴覚的イメージとして現れるその人の話し言葉と名前…などが両眼で個々の視覚的イメージとして現れる別の特定の他人の顔、両耳で個々の聴覚的イメージとして現れる別の特定の人の話し言葉と名前…などより空間的時間的に近くで現れる。他の個々のイメージと感覚で現れるものより、空間的時間的に近くで現れる複数の個々のイメージを「複合イメージとして現れるもの」または複合イメージまたは個々のイメージ群と呼べる。
  さらに、複数の複合イメージが他の複合イメージと感覚で現れるものより空間的時間的に近くで現れ…と続く。例えば、複合イメージとして現れる多数の人間のイメージが複合イメージとして現れる猿、馬、牛、羊…などより空間的時間的に近くで現れる。前者が一般の人間のイメージである。さらに、複合イメージとして現れる、人間、猿、馬…などが複合イメージとして現れる鳥、魚…などより空間的時間的に近くで現れる。前者が哺乳類のイメージである。それは人間は鳥や魚より猿や馬に似ており、現代人が生物の分類法、進化論…などを知っているからである。他のいくつかの複合イメージまたは個々のイメージまたは感覚で現れる部分より空間的時間的に近くで現れる複数の複合イメージ、さらにそれを繰り返しえる複合イメージを、複合イメージとして現れるもの、複合イメージ、イメージとして現れるもの、イメージ、複合イメージ群と呼べる。
  すべての複合イメージは多数の個々のイメージまたはいくつかの複合イメージから空間的時間的に構成される。結局、複合イメージは多数の個々のイメージから空間的時間的に構成される。
  複合イメージの多くは、複数の種類の個々の感覚的イメージ、つまり、異種の個々の感覚的イメージから構成される。例えば、複合イメージとして現れる特定の他人は、個々の視覚的イメージとして現れるその人の顔、体、個々の聴覚的イメージとして現れるその人の話し言葉と名前…などから構成される。また、複合イメージとして現れる一般の人間は、多数の個々の視覚的イメージとして現れる特定の他人、個々の聴覚的イメージとして現れる「男」「女」「人間」、「人」、「ホモ」、「サピエンス」…などの話し言葉…などから構成される。ある複合イメージが異種の個々の感覚的イメージから構成されることを強調する必要があるときは、それを異種からなる複合イメージと呼べる。
  だが、通常、複合イメージの中で少数の種類の個々の感覚的イメージが優勢である。特に人間では個々の視覚的イメージと個々の聴覚的イメージが優勢である。例えば、数式をよく用いる数学的物理学的思考の中の複合イメージの中では個々の視覚的イメージが優勢であり、話し言葉をよく用いる日常的思考の中では複合イメージの中では個々の聴覚的イメージが優勢である。個々の視覚的イメージが優勢な複合イメージ、個々の聴覚的イメージが優勢な複合イメージ、個々の視覚的イメージと個々の聴覚的イメージが優勢な複合イメージ…などを「視覚的(複合)イメージ」「聴覚的(複合)イメージ」「視覚的聴覚的(複合)イメージ」…などと呼べる。そのように定義すると、人間においては複合イメージは視覚的イメージまたは聴覚的イメージまたは視覚的聴覚的イメージであると言って過言ではない。また、人間においては言語のイメージも生成する。つまり、言語は伝達の手段であるだけでなく、連想や思考の手段でもある。話し言葉は聴覚的イメージであり、書き言葉は視覚的イメージである。
  複合イメージが「観念」と呼ばれるものの実体である。特定のものと一般のものについては『特定のものと一般のもの』を参照していただきたい。数秒以上の時間的広がりをもつもの、一般のもの、機能…などはすべて、複合イメージとして現れ、感覚、感覚的イメージ、個々のイメーでは現れない。いわゆる抽象的なものも複合イメージとして現れる。例えば、数年間の時間的広がりをもつ特定の人間は、多数の個々の視覚的イメージとして現れる数年間のその人間の顔、身体、多数の個々の聴覚的イメージとして現れる数年間のその人間の話し言葉と名前…などから構成される複合イメージとして現れる。また、一般の人間は、多数の個々の視覚的イメージとして現れる個人の顔、身体、個々の聴覚的イメージとして現れる「男」「女」「人間」、「人」、「ホモ」、「サピエンス」…などの話し言葉、個々の視覚的イメージとして現れる直立二足歩行、個々の視覚的聴覚的イメージとして現れる都会の雑踏…などから構成される複合イメージとして現れる。万有引力という機能は、いくつかの個々の視覚的イメージとして現れるベクトルを表す矢印、個々の聴覚的イメージとして現れる「万有」、「引力」…などの話し言葉…などから構成される複合イメージとして現れる。

感覚的イメージと複合イメージ

  感覚的イメージも複合イメージも個々のイメージから構成される。だが、前者は視覚的であるか、聴覚的であるか…などに基づき、後者は空間的時間的近さに基づく。前者はまとまりがありいわゆる意味がある後者を輪切りにしてできたようなものであり、前者はそれだけでは意味を成さない。『自我とそれらの傾向―自我をもつ動物の心理学』で説明される感情、欲求、自我、思考…などにとって重要なのは後者であり、そこでは前者はほとんど無視できる。また、後者は日常、文学、芸術にとって重要である。だが、最終章で記憶を説明するこの著作では前者は無視できない。何故なら、記憶の最終段階の再生において、個々の視覚的イメージは視覚的再生によって再生され、視覚的感覚的イメージを構成し、個々の聴覚的イメージは聴覚的に再生され聴覚的感覚的イメージを構成し、個々の嗅覚的イメージ、個々の平衡感覚的イメージ…などについても同様のことが言えるからである。

知覚で現れるもの

  いくつかの複合イメージと感覚で現れる空間的時間的部分が他の複合イメージ、感覚で現れる部分より空間的時間的に近くで現れる。例えば、両眼で視覚で現れる特定の他人の顔と両眼で視覚的イメージとして現れるその他人の顔と両耳で聴覚的イメージとして現れるその人の話し言葉と名前が、視覚で現れる別の特定の他人のそれらや背景より空間的時間的に近くで現れる。他のいくつかの個々のイメージまたは複合イメージまたは感覚で現れる部分より空間的時間的に近くで現れるいくつかの個々のイメージまたは複合イメージと感覚で現れる部分を「知覚で現れるもの」と呼べる。
  感覚で現れるものはすべて際限がなく混沌としている。いくつかの属性をもつ神経素材の部分が切り取られて生成した個々のイメージは際限があり、混沌を脱する。だが、感覚で現れるもの、感覚的イメージ、個々のイメージはすべて、瞬間のものであり特定のものである。それに対して複合イメージのいくつかは持続的なものである。また、複合イメージのいくつかは、一般の人間のように一般のものである。また、複合イメージのいくつかは自由のように抽象的なものである。感覚で現れる部分が複合イメージと融合したとき、感覚で現れる部分は知覚で現れるものとして混沌を脱する。例えば、感覚で現れる他人の顔の部分は顔でも個人でも人間でもない。簡単に言って、その人を認識できない。その部分に複合イメージとして現れるその人の顔が融合したとき、感覚で現れるその部分が知覚で現れその人の顔として混沌を脱する。簡単に言って、その人を認識できる。もっと簡単に言って、わたしたちは感覚で現れるものにイメージを重ね合わせることによってものをよく見てよく聞きよく感じることができる。

一定数以下のイメージが現れること

  ゼロコンマ数秒以下の時間に、一定数以下の複合イメージが現れ、いくつかのイメージが強く現れ、いくつかのイメージが弱く現れる。例えば、自己について考えるとき、自己のイメージが強く現れ、自己が深く係る他人のイメージが弱く現れる。それらのことがいわゆる「意識」の一部の実体である。
  ただし、その一定数は種または個体によって決まっているわけではなく、状況によって変動する。例えば、いくつかのものが非常に強く現れるとき、その数は小さくなる。例えば、恋人が現れるとき、普通の人々が現れるときよりその数は小さくなる。

連想で現れるもの

  ゼロコンマ数秒以上の時間の中では、いくつかの知覚で現れるものといくつかの複合イメージが空間的時間的に近くで現れ、それらの複合イメージと他のいくつかの複合イメージが空間的時間的に近くで現れ、それらの複合イメージと他のいくつかの複合イメージが空間的時間的に近くで現れ…と続く。そのように繰り返される複合イメージの全体も複合イメージに含まれる。だが、数秒以上、続く複合イメージは前節で説明された限られた数の制約を受けない。だから、それらは区別され、数秒以下の時間、続く複合イメージを狭義の複合イメージで現れるものまたは狭義の複合イメージと呼べ、数秒以上の時間、続く複合イメージを「連想で現れるもの」と呼べる。例えば、朝に目覚めると、知覚で現れる窓と街のイメージが近くで現れ、後者と職場や学校のイメージが近くで現れ、後者と職場や学校の人々のイメージが近くで現れ…と続く。それらのイメージが連想で現れるものである。
  だが、狭義の複合イメージとして現れるものと連想で現れるものを区別する必要がない場合は、それらを(広義の)複合イメージで現れるものまたは(広義の)複合イメージと呼ぶことにする。

イメージとして現れるもの=イメージ

  さて、
(1)群:(狭義の)複合イメージとして現れるもの=(狭義の)複合イメージ
(2)群:知覚で現れるもの
(3)群:連想で現れるもの
の三群が得られた。
(1)(2)(3)は(1)を含み、記憶、情動、自我、思考にとって最も重要なのは(1)である。また、逐次、「複合イメージとして現れるものまたは知覚で現れるものまたは連想で現れるもの」という言葉を用いると文章が煩雑になる。そこで、(1)(2)(3)を「(広義の)(複合)イメージとして現れるもの」「(広義の)(複合)イメージ」とも呼ぶことにする。つまり、「イメージ」または「複合イメージ」という言葉は狭義の複合イメージまたは知覚で現れるものまたは連想で現れるものを指すことにする。
  また、前述と同様に、個々の視覚的イメージ、個々の聴覚的イメージ、個々の視覚的イメージと個々の聴覚的複合イメージ…などが優勢な(1)(2)(3)を視覚的イメージ、聴覚的イメージ、視覚的聴覚的イメージ…などと呼べる。

イメージとして現れる言葉=イメージとして現れる言語=言語イメージ

  人間では、話し言葉が聴覚で感覚され、聴覚的イメージとして生成し記銘保持され想起される。また、書き言葉と記号が視覚で感覚され視覚的イメージとして生成し記銘保持され想起される。また、点字が、体性感覚で感覚され体性感覚的イメージとして生成し記銘保持され想起され体性感覚的イメージとして現れる。視覚的イメージとして現れる書き言葉、記号、聴覚的イメージとして現れる話し言葉、体性感覚的イメージとして現れる点字…などを「イメージとして現れる言語」「言語イメージ」と呼べる。
  短い単語のいくつかは個々のイメージとして現われ、短い単語のいくつかと長い単語の多くと短い句のいくつかは狭義の複合イメージとして現れ、短い句のいくつかと長い句と節と文章は連想で現れる。例えば、「長い句や文章は連想で現れる」という文章は連想で現れる。
  わたしたちは乳幼児期から親などの年長者に言葉だけでなく言葉が指すものも示される。あるいは言葉が何を指すかは状況から明らかな場合もある。だから、言語イメージが生成するまたは更新されるときに、言語が表すもののイメージも生成しまたは更新され、それらの素材の間の神経細胞路が時間的近さに基づいて活性化され、簡単に言って、言語とものが関連付けられる。言語の中の普通名詞は集合を表し、ものを既に分類している。だから、言語は伝達の手段になるだけでなく、複合イメージの分類と体系化を容易にする。
  また、言語の中の文法はそれ自体、連想、思考パターンである。だから、言語は連想と思考を容易にするとともに精巧なものにする。
  もちろん言語は伝達と保存の手段でもある。言語によって複雑な複合イメージ、つまり、観念が生成し記銘保持され想起され、話し言葉として伝達されるだけでなく、書き言葉や記号として世代と地域を超えて伝達され保存される。かくして、人間の歴史の中で、天動説、地動説、天地創造、進化論、哲人政治、民主制…などの複雑な観念が構築される。それらのいくつかは解消または再構築され、多くは失われ忘却される。

イメージの強さ

  イメージを構成する個々のイメージまたは感覚で現れるものの部分の強さ~弱さの平均として、イメージは強さ~弱さを属性としてもつ。例えば、個人としての人間について考えるとき、その人間のイメージが社会や自然のイメージより強く現れる。

心的現象として現れるものの構成

  すべての心的現象として現れるものは感覚で現れるものまたは個々のイメージから構成される。例えば、すべての狭義の複合イメージは多数の個々のイメージから構成され、知覚で現れるものは感覚で現れるいくつかの部分と多数の個々のイメージから構成される。また、前述のとおり、感覚的イメージは個々のイメージから構成される。
  心的現象として現れるものは、感覚で現れるもの、個々のイメージ、複合イメージ、知覚で現れるもの、イメージ、連想で現れるもの、情動で現れるもの、自我で現れるもの、思考で現れるもの…などを含む。それらのうち、感覚で現れるものは感覚で現れるものから構成され、感覚的イメージ、個々のイメージ、狭義の複合イメージ、連想で現れるものは多数の個々のイメージから構成され、知覚で現れるもの、情動で現れるもの、自我で現れるもの、思考で現れるものは感覚で現れるいくつかの部分と多数の個々のイメージから構成される。
  結局、心的現象として現れれるものはすべて感覚で現れるものの全体または部分または個々のイメージから空間的時間的に構成される。前述のとおり、すべての感覚で現れるものと個々のイメージは空間的時間的なものまたはそれらの属性である。だから、すべての心的現象として現れるものは空間的時間的なものまたはそれらの属性である。つまり、それらはすべて空間と時間を超えない。

心的現象として現れるものの連続

  覚醒しているまたは夢を見ている限り、何らかの現れるものが現れ、途絶えることはない。目を完全に閉じても、何かが聞こえる。もし仮に目と耳を完全に閉じることができても、それらを閉じている手やマスクが感じられる。仮に視覚、聴覚、体性感覚で現れるものが現れないとしても、空腹や渇きが自律感覚で現れる。仮に感覚で現れるものが現れないとしても、覚醒しているまたは夢を見ている限り、いくつかのイメージが現れる。そのような連続を「現れるものの連続」「イメージの連続」と呼べる。それが「意識の連続性」「意識の流れ」…などと呼ばれるものの実体である。
  眠っており夢を見ていないとき、または意識を失っているとき、現れるものは現れない。だが、再び覚醒するまたは夢を見て、記憶がある限り、現れるものは断続すると見なせる。例えば、朝、目が覚めると、昨日の出来事と今日の予定がイメージとして現れる。

心的現象として現れるものを生じる神経機能

心的現象として現れるものを生じる神経機能

  心的現象で現れるものはすべて、ものそのものから生じると前提される。例えば、視覚で現れるものは、網膜に達する光子、網膜に達する光子を反射、透過、屈折する物質とその機能、網膜から視神経を経て大脳の視覚野に至る神経細胞群の興奮伝達…などから生じると前提される。
  心的現象として現れるものはすべて、神経系のいくつかの部分とそれらの機能から直接的に生じると前提される。神経系の中で現れるものを直接的に生じると前提される部分とそれらの機能を「現れるものを生じる神経機能」と呼べる。例えば、網膜から視神経を経て大脳の視覚野に至る神経細胞群の興奮伝達…などが視覚で現れるものを生じる神経機能である。
  また、感覚で現れるものを生じると前提される神経機能を「感覚」と呼べ、感覚的イメージとして現れるものを生じると前提される神経機能を「イメージの想起」または想起と呼べる。
  これらの言葉は日常で、それらから生じる現れるものを含意する。例えば、「感覚」という言葉を使うとき、眼や耳や神経だけでなく光景、音、感触…などが思い浮かぶ。そこで、

(S)感覚とそれから生じる感覚で現れるもの
(R)感覚的イメージの想起とそれから生じる感覚的イメージ



(S)感覚
(I)感覚的イメージの想起(=想起)

と呼べる。
  詳細は以下のようになる。

[nf]心的現象として現れるものを生じる神経機能
  [s]一般にある種類の感覚、個体において感覚
    [s1]一般に視覚的種類の感覚、個体において視覚
      [s1-1]一般に片眼での視覚的種類の感覚、個体において片眼での視覚
      [s1-2]一般に両眼での視覚的種類の感覚、個体において両眼での視覚
    [s2]一般に聴覚的種類の感覚、個体において聴覚
      [s2-1]一般に片耳での聴覚的種類の感覚、個体において片耳での聴覚
      [s2-2]一般に両耳での聴覚的種類の感覚、個体において両耳での聴覚
    [s3]一般に嗅覚的種類の感覚、個体において嗅覚
      [s3-1]一般に片鼻での嗅覚的種類の感覚、個体において片鼻での嗅覚
      [s3-2]一般に両鼻での嗅覚的種類の感覚、個体において両鼻での嗅覚
    [s4]一般に平衡感覚的種類の感覚、個体において平衡感覚
    [s5]一般に味覚的種類の感覚、個体において味覚
    [s6]一般に体性感覚的種類の感覚、個体において体性感覚
    [s7]一般に自律感覚的種類の感覚、個体において自律感覚
  [i]一般にある種類の感覚的イメージの想起、個体において感覚的イメージの想起
    [i1]一般に視覚的種類の感覚的イメージの想起、個体において視覚的感覚的イメージの想起
      [i1-1]一般に片眼的な視覚的種類の感覚的イメージの想起、個体において片眼的な視覚的感覚的イメージの想起
      [i1-2]一般に両眼的な視覚的種類の感覚的イメージの想起、個体において両眼的な視覚的感覚的イメージの想起
    [i2]一般に聴覚的種類の感覚的イメージの想起、個体において聴覚的感覚的イメージの想起
      [i2-1]一般に片耳的な聴覚的種類の感覚的イメージの想起、個体において片耳的な聴覚的感覚的イメージの想起
      [i2-2]一般に両耳的な聴覚的種類の感覚的イメージの想起、個体において両耳的な聴覚的感覚的イメージの想起
    [i3]一般に嗅覚的種類のイメージの想起、個体において嗅覚的イメージの想起
      [i3-1]一般に片鼻的な嗅覚的種類の感覚的イメージの想起、個体において片鼻的な嗅覚的感覚的イメージの想起
      [i3-2]一般に両鼻的な嗅覚的種類の感覚的イメージの想起、個体において両鼻的な嗅覚的感覚的イメージの想起
    [i4]一般に平衡感覚的種類の感覚的イメージの想起、個体において平衡感覚的感覚的イメージの想起
    [i5]一般に味覚的種類の感覚的イメージの想起、個体において味覚的感覚的イメージの想起
    [i6]一般に体性感覚的種類の感覚的イメージの想起、個体において体性感覚的感覚的イメージの想起
    [i7]一般に自律感覚的種類の感覚的イメージの想起、個体において自律感覚的感覚的イメージの想起

  それらのいくつかを補足する。
  自律感覚で現れるものと自律感覚的感覚的イメージで現れるものが単一の機能から生じるとは前提されない。例えば、動悸と息苦しさと吐き気が単一の神経機能から生じるとは前提されない。だから、それらに限って、個体の中でも、自律感覚的な「種類(複数形)」の「感覚(複数形)」、「自律感覚(複数形)」…などのように複数形を用いることにする。
  前述のとおり、既に心的現象として現れるものの段階で「複合的」感覚で現れるものが認められた。それは、それらを生じると前提される神経機能が複合的だったからである。それらを「複合的感覚」と呼べる。特に自律神経と狭義の感覚神経の興奮伝達を含む複合的感覚が認められる。例えば、動悸と息苦しさがそうである。だが、これらの著作では自律神経の興奮伝達を含む複合的感覚を自律感覚的種類の感覚または自律感覚と呼ぶことにする。それは、感覚がわずかな自律神経の興奮伝達を含むだけで、それらが『自我とそれらの傾向―自我をもつ動物の心理学』で説明され感情、欲求、自我に大きな影響を及ぼすからである。
  [s1]-[s7]は人間を含む脊椎動物に基本的な感覚である。脊椎動物以外では、[s6]体性感覚と[s7]自律感覚の区別は曖昧である。陸生の脊椎動物の中で[s2]聴覚と[s3]嗅覚が明瞭になる。何故なら、水中では音波と臭い源が明瞭でないからである。それら以外にも、例えば、赤外線を用いた感覚がいくつかの爬虫綱などにあり、超音波を用いた感覚がイルカなどにある。これらの著作ではそれらの特殊な感覚の説明を省略することにする。
  視覚、聴覚を除いて、感覚は快不快の感覚で現れるものを生じると前提される「快不快の感覚」である。感覚の系統発生と個体発生と個体の老化においては、体性感覚、自律感覚、味覚、嗅覚が先行し、最後まで残る。だから、なんらかの感覚をもつ動物はすべて、なんらかの快不快の感覚をもつ。
  感覚的イメージの想起はいくつかの哺乳類で、特に人間で明らかになる。
  日常では「想起」というと過去のできごとが思い出されることを指しがちだが、過去の物事だけでなく、現在の物事、未来の物事、非現実の物事のイメージを生じる神経機能を指すことにする。
  複合イメージとして現れるものを生じると前提される神経機能については『記憶』の章で詳しく説明されるが、それを複合イメージの想起と呼ぶことにする。

知覚、連想

  知覚で現れるものまたは連想で現れるものを生じると前提される神経機能を知覚または連想と呼べる。前者は感覚と感覚的イメージの想起とそれらの間のいくつかの機能から構成され、後者はいくつかの感覚的イメージの想起とそれらの間のいくつかの機能から構成される。それらの間の機能は、記憶の章で説明される、個々のイメージの素材の認識、生成、記銘、保持、生起、想起、個々のイメージの素材の間の神経細胞路の興奮伝達などである。

感覚、想起、心的機能の個体性

  定義からして、地球上の動物の個体の身体は互いから分離し、神経系もそうであり、個体の神経細胞群が他の個体のそれらに接合することはなく伝達することはなく接合されることはなく伝達されることはない。だから、通常、他の動物に現れるものがわたしに現れることはないと前提される。例えば、あなたの顔はわたしに視覚で現れているが、あなたに視覚で現れるわたしの顔がわたしに現れることはない。だが、二つの個体となるはずの身体が末梢で癒合して生まれることは稀にある。その場合、それらの末梢神経系も交錯することがある。すると結果として、一方に体性感覚で現れている痛みや暑さが他方に現れることがある。だが、中枢神経系が交錯することはない。または、交錯するよう中枢神経系は機能しない。または中枢神経が交錯するような動物は生まれる前に死ぬ。だから、他人に現れるイメージが私に現れることは決してなく、人が考えていることを私が考えているというようなことは決してない。

同種の連続する感覚と記憶=それぞれの種類の連続する感覚と記憶

  視覚的種類の感覚と感覚的イメージとして現れるものの中で、視覚的感覚的イメージは視覚で現れるものに似ており、聴覚的種類の感覚と感覚的イメージで現れるものの中で、聴覚的感覚的イメージは聴覚で現れるものに似ており、同様のことが嗅覚的感覚的イメージ、平衡感覚的感覚的イメージ…などについて言える。そのように、心的現象として現れるものの段階で既に、視覚的なもの、聴覚的なもの…などの種類が認められた。
  さらに、感覚的イメージの同種の感覚で現れるものとの同類性から、

(1)ある種類の感覚


(3)それと同種の感覚的イメージの想起

の間に

(2)(1)から生じまたは変化し(3)を生じまたは変化させる神経細胞群とそれらの機能

があり、(1)(2)(3)が一つの個体の神経系の中で小さな神経系を構成し、(1)(2)(3)は連続することが推測される。(1)(3)が現れるものを直接的に生じるのに対して、(2)は現れるもの直接的に生じない。(2)を「ある種類の潜在的記憶」または潜在的記憶と一般的に呼べ、視覚的種類の潜在的記憶または視覚的潜在的記憶、聴覚的種類の潜在的記憶または聴覚的潜在的記憶…などと個別的に呼べる。(2)(3)をある種類の記憶または記憶と一般的に呼べ、視覚的種類の記憶または視覚的記憶、聴覚的種類の記憶または聴覚的記憶…などと個別的に呼べる。(1)(2)(3)を同種の(連続する)感覚と記憶またはそれぞれの種類の(連続する)感覚と記憶または連続する感覚と記憶と一般的に呼べ、視覚的種類の(連続する)感覚と記憶または視覚的な(連続する)感覚と記憶、聴覚的種類の(連続する)感覚と記憶または聴覚的な(連続する)感覚と記憶…などと個別的に呼べる。
  さらに、それぞれの種類の連続する感覚と記憶の中で、それぞれに固有の後述する素材、再生、狭義の処理機能が存在し機能する。例えば、視覚的感覚と視覚的記憶の中で視覚の素材、視覚の再生、広義の視覚の処理機能が機能する。
  記憶の詳細は当然、『記憶』の章で説明される。また、それぞれの種類の記憶だけでなく、異なる種類の記憶の統合もその章で説明される。

心的現象として現れるものの素材

  心的現象として現れるものはすべてものそのものを素材として生じると前提される。心的現象として現れるものを素材として生じると前提されるものそのものを(心的現象として)現れるものの「素材」と呼べる。また、感覚で現れるものの素材を感覚の素材と一般的に呼べ、視覚の素材、聴覚の素材…などと個別的に呼べる。また、感覚的イメージとして現れるもの、個々のイメージとして現れるもの、イメージとして現れるもの…などの素材を感覚的イメージの素材、個々のイメージの素材、イメージの素材…などと呼べる。例えば、視覚で現れるものの素材、つまり、視覚の素材は、網膜に達する光子、網膜に達する光子を反射、屈折、透過する物質とその機能、網膜から視神経を経て大脳の視覚野に至る神経細胞群の興奮伝達…などである。さらに、現れるものの素材を「もの」とも呼ぶことにする。つまり、ものという言葉は心的現象として現れるものの素材を指すことがあることにする。
  心的現象として現れるものは素材だけからは生じないと前提される。なんらかの神経機能が素材を再生し処理なければ現れるものは生じないと前提される。神経機能を再生し処理できるのは神経機能だけである。神経機能が素材を処理して現れるものに変えるためにはその素材の部分は神経機能でなければならない。現れるものの素材のうちの神経機能である部分を「神経素材」と呼べる。例えば、網膜から視神経を経て大脳の視覚野に至る神経細胞群の興奮伝達が視覚の神経素材である。
  神経素材は神経細胞群の興奮伝達または活性化と活性である。詳細は後に説明する。
  いずれにしても、神経細胞群の興奮伝達、活性化…などが機能するためには神経細胞群が発生し存在しなければならない。神経素材としての神経細胞群の興奮伝達または活性化または活性が機能することを神経素材が神経細胞群を「通る」または流れることと呼べる。以下に神経素材が通る神経細胞群の例を挙げる。視覚について、網膜から視神経を経て交叉しつつ大脳の後頭葉の視覚野に至る神経細胞群。聴覚について、内耳から聴神経を経て交叉せずに側頭葉の聴覚野に至る神経細胞群。体性感覚について、皮膚、骨、横紋筋、腱、靭帯から狭義の感覚神経を経て交叉しつつ頭頂葉の感覚野に至る神経細胞群。
  また、神経素材が通る神経細胞群が分岐または収束する場合、神経素材も分岐または収束しえる。分岐する場合、一個の神経素材から同一のものが複数個生じえ、収束する場合、いくつかが通り他は立ち消ええる。また、神経素材が通る神経細胞群に障害がある場合、神経素材の少なくとも一部が立ち消ええる。例えば、視野欠損が生じる。
  神経素材の感覚細胞群の部分を「感覚細胞群の素材」と呼べ、前述の感覚の素材とは別物である。感覚細胞群の素材は感覚の神経素材に含まれる。以下に感覚細胞群の素材の例を挙げる。視覚の素材において、網膜の感覚細胞群の興奮伝達。聴覚の素材において、内耳の感覚細胞群の興奮伝達。体性感覚の素材において、皮膚、骨、横紋筋、腱、靭帯の感覚細胞群の興奮伝達。
  神経素材を除く素材を「物質身体素材」と呼べる。例えば、視覚の素材における、光源→光子→物質の反射率、透過率、屈折率→光子。聴覚の素材における、音源の振動数、振幅→音波。体性感覚の素材における、皮膚、骨、横紋筋、腱の圧力、熱、炎症。
  そのように、物質身体素材は身体機能を含むことがある。例えば、自律感覚の素材は血中の酸素濃度、グルコース濃度、浸透圧を含む。それらがそれぞれ息苦しさ、空腹、渇きを生じると前提される。
  物質身体素材の部分は現れるものとして再現され、その他の部分は再現されず、神経素材は再現されない、と前提される。神経素材について、簡単に言って、自分の脳や神経は見えない。頭痛はときにあるが、そこで再現されているものは脳血管の伸展や振動であり、それは神経素材ではなく物質身体素材の部分である。物質身体素材について、太陽をもろに見ない限り、太陽は見えない。そのように光源は日中は通常、見えない。それに対して、物質の反射率、透過率、屈折率は視覚で現れるものとして再現されると前提される。音源の振動数、振幅は聴覚で現れるものとして再現されると前提される。皮膚の炎症は体性感覚で現れるものとして再現されると前提される。現れるものとして再現されると前提される物質身体素材の部分を「再現素材」と呼べる。例えば、物質の反射率、透過率、屈折率は視覚の再現素材であり、音源の振動数は聴覚の再現素材であり、皮膚、横紋筋、骨、腱、靭帯の炎症、圧力、熱は体性感覚の再現素材である。

同種の連続する感覚と感覚的イメージの素材=それぞれの種類の連続する感覚と感覚的イメージの素材

  『記憶』の章で詳述するとおり、それぞれの種類の連続する感覚と記憶の中で、感覚の素材のいくつかの部分がもつ属性が認識され、それらの部分が切り取られて個々のイメージの素材として生成する。だから、綿密には感覚の素材のいくつかの部分と個々のイメージの素材が連続し、概略的には感覚の素材と感覚的イメージの素材が連続する。例えば、視覚的種類の感覚と記憶の中で、視覚の素材と視覚的感覚的イメージの素材は連続し、聴覚的種類の感覚と記憶の中で、聴覚の素材と聴覚的感覚的イメージの素材は連続する。だから、それぞれの種類の連続する感覚と感覚的イメージで現れるもののなかで、感覚的イメージは、それほど鮮明でないが、同種の感覚で現れるものに似ている。人間においてそれが明らかになるのは視覚的種類と聴覚的種類においてである。例えば、個々の視覚的イメージとして現れる他人の顔は、それほど鮮明でないが、過去に視覚で現れたその人の顔と似ている。そのように同種の連続する感覚と記憶の中で連続する感覚の素材と感覚的イメージの素材を「同種の(連続する)感覚と感覚的イメージの素材」またはそれぞれの種類の(連続する)感覚と感覚的イメージの素材または連続する感覚と感覚的イメージの素材と一般的に呼べ、視覚的種類の(連続する)感覚と感覚的イメージの素材、聴覚的種類の(連続する)感覚と感覚的イメージの素材…などと個別的に呼べる。

神経素材が維持するものと維持の仕方

(1)(空間的位置を維持する)選択的な神経細胞群の興奮伝達

  (1)前述の(空間的位置を維持する)選択的な神経細胞群の興奮伝達の中では、実際に接合する神経細胞連の興奮伝達の空間的相対的位置と空間的配列と密度が維持され、結果として、素材の空間的相対的位置と配列と量が維持される。
  具体的には、ものの「形」が(1)の中で維持される。そうでなければ、例えば、視覚で現れるものが歪んで、球がアメーバのように見えるだろう。
  また、光の明るさ、音の大きさ、痛みの強さ…などの量は感覚細胞群によって神経細胞群の興奮伝達の密度に変換され、(1)の中でその密度が維持され、結果として量が維持される。(1)の中では、いくつかの実際に接合する神経細胞連が興奮伝達し、他の実際に接合する神経細胞連は興奮伝達しない。だから、密度と量がありえる。一つの神経細胞はそれだけでは興奮伝達するか停止するかであって、密度も量も表せない。神経細胞がいくつか集まって神経細胞群を成して、密度と量を表しえる。さらに、空間的位置を維持する選択的な神経細胞群を成して、それらの密度と量が実際に維持される。

(2)神経細胞群の即時的な興奮伝達

  (2)前述の神経細胞群の即時的な興奮伝達の中では、実際に接合する神経細胞連の興奮伝達の時間的相対的位置と時間的配列とそれらの時間的変化と頻度が維持され、結果とし神経素材の時間的相対的位置と時間的配列とそれらの時間的変化と質が維持される。そうでなければ、例えば、通常規則的な視覚で現れる歩くまたは走る動物の四肢の動きが、不規則になりえる。
  また、物質身体素材の色や音の高低のような質は感覚細胞群によって神経細胞群の興奮伝達の頻度に変換され、そのような頻度が(2)の中で維持される。例えば、100Hzで興奮伝達する神経細胞から伝達された神経細胞は100Hzで興奮伝達する。結果として、実際に接合する神経細胞連のすべての神経細胞が100Hzで興奮伝達する。

(3)感覚細胞群による物質身体素材から神経素材への変換

  感覚の素材の中で、感覚細胞群のいくつかの機能が、物質身体素材の波動の周波数などの質を神経細胞群の興奮伝達の頻度に、物質身体素材の波動の振幅などの量を神経細胞群の興奮伝達の密度に変換する。そのような変換を感覚細胞群による物質身体素材から神経素材への「変換」、感覚細胞群が物質身体素材を神経素材へ変換することと呼べる。例えば、視覚の素材の中で、網膜の感覚細胞群は、色を神経細胞群の興奮伝達の頻度に変換し、明暗をその密度に変換する。

(4)選択的専門的な神経細胞群の活性化と活性と興奮伝達

  いくつかの神経細胞は、特定の頻度で伝達されたときだけ、その頻度で興奮伝達し活性化され活性を維持し、次回にその頻度で伝達されたときにその頻度で興奮伝達する。そのような神経細胞をその「頻度の選択的専門的な」神経細胞と呼べる。また、様々な頻度の選択的専門的な神経細胞から構成される神経細胞群を選択的専門的な神経細胞群と呼べる。
  『記憶』の章で説明されるとおり、イメージの素材が時間をおいて想起されるためにはイメージの素材が記銘保持される必要がある。まず、イメージの素材を記銘保持する神経細胞群は後天的に活性化されえる神経細胞群である必要がある。さらに、頻度としての質が記銘保持されるためには、その神経細胞群は選択的専門的な神経細胞群である必要がある。
  個々のイメージの素材がそのようにして記銘保持され想起されえる。それに対して、複合イメージの素材は以下のようにして想起されえる。

(5)個々のイメージの素材を記銘保持する神経細胞群の間の神経細胞路の活性化と活性と興奮伝達

  複合イメージの素材が想起されるためには、多くの個々のイメージの素材が空間的時間的に近くで想起されそれらを構成する必要がある。そのためには、個々のイメージの素材を記銘保持する選択的専門的な神経細胞群の間に直接的にせよ間接的にせよ多くの神経細胞路が存在し、それらが活性化され、それらの活性がある程度、維持される必要がある。すると、個々のイメージの素材を記銘保持する神経細胞群のいくつかまたはそれらの間の神経細胞路が興奮伝達したとき、他のいくつかの神経細胞路または神経細胞群が興奮伝達し…と続き、多数の個々のイメージの素材が空間的時間的に近くで想起され、複合イメージの素材を構成する。
  それぞれの種類の記憶の中で、感覚されたまたは想起された神経素材が次々と分岐する神経細胞群を通り、神経素材のいくつかの部分がもついくつかの属性が認識され、それらの部分が個々のイメージの素材として生成しまたは更新され記銘保持される。そのような次々と分岐する神経細胞群をそれぞれの種類の記憶の(次々と)分岐する神経細胞群と呼べる。前節で述べた選択的専門的な神経細胞群はそのような次々と分岐する神経細胞群の中にあって個々のイメージの素材を記銘保持する。そのような神経細胞群の中で、類似する個々のイメージの素材ほど分岐の中で近い所に記銘保持され、結局、個々のイメージの素材が同類性に基づいて分類される。
  それらが繰り返された後に、感覚されたばかりの神経素材のいくつかの部分または想起されたばかりの神経素材がもつ属性が認識されたとき、その神経細胞群の続く部分またはそれと平行するいくつかの神経細胞路が興奮伝達し、その興奮伝達が類似する個々のイメージの素材を記銘保持する選択的専門的な神経細胞群の興奮伝達を生じる。結局、類似する個々のイメージの素材が空間的時間的に近くで生起し想起されえ、それらが複合イメージを構成しえる。それを「同類性に基づく個々のイメージの素材の生起または想起」と呼べる。例えば、特定の人間が認識され、同類性に基づいて多数の特定の人間の個々のイメージの素材が想起され、それらが一般の人間の複合イメージを構成し、その人が一般の人間の一人として認識される。そのように、まず、個々のイメージの素材の同類性に基づく生起が複合イメージの素材を構成する。それぞれの種類の記憶の分岐する神経細胞群の認識から個々のイメージを記銘保持する神経細胞群に至る部分またはそれに平行するいくつかの神経細胞路を、「同類性に基づく個々のイメージの素材の間の神経細胞路」と呼べる。それらの神経細胞路は先天的にある程度活性化されており、認識と個々のイメージの生成また更新によってさらに活性化される。
  そのような神経細胞路はそれぞれの種類の次々と分岐する記憶の神経細胞群の中だけでまたは沿ってのみ存在、機能し、異種のそれらの間で存在、機能することはない。だから、それらによっては同種の個々のイメージの素材だけが生起し想起されえ、異種の個々のイメージの素材が生起され想起されることはない。そのことを強調する必要がある場合は、それらを同類性に基づく同種の個々のイメージの素材の間の神経細胞路または同類性に基づくそれぞれの種類の個々のイメージの素材の間の神経細胞路と呼べ、それらによる生起または想起を同類性に基づく同種の個々のイメージの素材の生起または想起または同類性に基づくそれぞれの種類の個々のイメージの素材の生起と呼べる。
  第二に、同種及び異種の分岐する記憶の神経細胞群またはその中の個々のイメージを記銘保持する神経細胞群の間には神経細胞路が存在する。だが、それらは先天的に活性化されていない。それらは後天的に時間的近さに基づいて活性化される。より詳細には、時間的に近くで生成しまたは更新された個々のイメージの素材が通る神経細胞群の間の神経細胞路が活性化される。そのような神経細胞路を「時間的近さに基づく個々のイメージの素材の間の神経細胞路」と呼べる。次回にそれらの個々のイメージの素材のいくつかが興奮伝達し生起し想起されえるとき、活性化された神経細胞路が興奮伝達し、他の個々のイメージの素材も興奮伝達し生起し想起されえる。かくして、時間的に近くで生成しまたは更新された個々のイメージの素材が時間的近くで生起し想起されえ、複合イメージを構成しえる。これを、時間的近さに基づく個々のイメージの素材の生起または想起と呼べる。
  時間的に近いもののいくつかは因果関係であり、これによって因果関係が複合イメージとして想起されまたは連想される。例えば、母親が怒ったとき子供を叩くとき、子供の神経系の中で怒った母親の顔の個々のイメージの素材を保持する神経細胞群と叩かれることの個々のイメージの素材を保持する神経細胞群の間の神経細胞路が活性化される。それらが繰り返された後で、その子供がその母親の怒った顔を知覚するとき、しばしば叩かれることがその子供に想起または連想される。そのように、複合イメージの素材は、前節で説明した通り同類性に基づくだけでなく、時間的近さに基づいても生起し想起される可能性をもつ。
  時間的近さに基づく神経細胞路は同種だけでなく異種の個々のイメージの素材の間にも存在する。だから、それらによって、異種の個々のイメージが生起し想起されえ、複合イメージが異なる種類の個々のイメージから構成されえる。そのことを強調する必要があるときは、それらを時間的近さに基づく同種および異種の個々のイメージの素材の間の神経細胞路と呼べる。また、それらによる生起、想起を時間的近さに基づく同種および異種の個々のイメージの素材の生起、想起と呼べる。例えば、母親の怒った顔という個々の視覚的イメージとその怒った声という個々の聴覚的イメージが時間的に近くで想起され、怒った母親の複合イメージを構成する。また、時間的近さに基づく神経細胞路はすべて後天的に活性化され、個体差または個人差を際立たせる。だから、同類性に基づく神経細胞路より時間的近さに基づく神経細胞路のほうが知覚、連想、思考などにとって重要である。
  この節で説明された二種類の神経細胞路、つまり、個々のイメージの素材の間の同類性に基づく神経細胞路とを「個々のイメージの素材の間の神経細胞路」または「イメージイメージ神経細胞路」と呼べる。結局、複合イメージの素材の主要部分は個々のイメージの素材を記銘保持する選択的専門的な神経細胞群とそれらの間の神経細胞路の活性化と活性と興奮伝達である。主としてそれらによって、同種および異種の多数の個々のイメージの素材が空間的時間的に近くで想起されえ、複合イメージを構成しうる。
  ところで、これらの著作で説明される重要な神経細胞路として、イメージイメージ神経細胞路、イメージ機能神経細胞路、機能機能神経細胞路、イメージ情動神経細胞路があり、それらは明確に区別される必要がある。

(6)同種の素材の一貫性

  それぞれの連続する感覚と記憶の中で、それぞれに固有の以下の機能が機能する。

時間的近さに基づく個々のイメージの素材の間の神経細胞路を除く神経素材
後述する再生
後述する処理機能
『記憶』の章で説明する記憶に含まれるほとんどの機能

  それぞれの種類の連続する感覚と記憶の中で、感覚の素材のいくつかの部分がもついくつかの属性が認識され、それらの部分が切り取られて個々のイメージの素材として生成する。だから、感覚の素材と感覚的イメージの素材は連続する。そのように連続する感覚の素材と感覚的イメージの素材を同種の(連続する)感覚と感覚的イメージの素材またはそれぞれ種類の(連続する)感覚と感覚的イメージの素材または連続する感覚と感覚的イメージの素材と一般的に呼び、視覚的種類の(連続する)感覚と感覚的イメージの素材、聴覚的種類の(連続する)感覚と感覚的イメージの素材…などと個別的に呼ぶことができた。同種の連続する感覚と感覚的イメージの素材のほとんどは選択的な神経細胞群の即時的な興奮伝達(1)(2)であり、その中で神経素材の頻度としての質、密度としての量、空間的位置、時間的位置、空間的構成、時間的構成、それらの変化が一貫して維持される。そのことを「同種の素材の一貫性」と呼べる。

(7)異種の素材の一貫性

  感覚で現れるものの中では、異なる種類の感覚で現れるものが空間的時間的に近くで現れる。例えば、両眼で視覚で現れる他人の顔と両耳で聴覚で現れるその人の話し言葉が空間的時間的に近くで現れる。簡単に言って、その人の話し言葉はその人の口から聞こえてくる。知覚で現れるものの中では、ある種の感覚で現れる部分と異なる種類の個々の感覚的イメージが空間的時間的に近くで現れる。例えば、両眼で視覚で現れる他人の顔と両耳で個々の聴覚的イメージとして現れるその人の名前が空間的時間的に近くで現れる。複合イメージの中では、異なる種類の個々の感覚的イメージが空間的時間的に近くで現れる。例えば、両眼で個々の視覚的イメージとして現れる他人の顔と両耳で個々の聴覚的イメージとして現れるその人の話し言葉が空間的時間的に近くで現れる。そのような異種の心的現象として現れるものの空間的時間的近さを生じる神経機能を「異種の素材の一貫性」と呼べる。それは異なる種類の感覚とイメージの素材が中枢神経系のどこか、おそらく頭頂葉で合流または平行することであると前提される。
  異種の素材の一貫性と同種のそれらを素材の一貫性と呼べる。

(8)対称的な一対の神経素材

  ほとんどの動物の種の神経系のそれぞれは対称的な一対の神経細胞群である。そのような一対の中に対称的な一対の神経素材がある。両眼で視覚で現れるもの、両耳で視覚で現れるもの…などの感覚器を超えて現れるものは、立体的であり感覚器を超える。一対の対称的な神経素材と後述する再生機能と処理機能が感覚器を超えて現れるものを生じると前提される。
  そのような対称的な一対の神経細胞群のいくつかは交叉し、他は交叉しない。例えば、両眼での視覚の対は交叉し、両耳での聴覚の対は交叉しない。だが、交差するにしてもしないにしても、それらは対称的である。

素材の再生

  現れるものは素材だけからは生じないと前提される。なんらかの神経機能が神経素材を処理して現れるものに変えなければ現れるものは生じないと前提される。現れるものの神経素材を処理して現れるものに変えるなんらかの神経機能を素材の「再生」、素材を再生することと呼べる。
  再生は解明することが最も困難なまたは不可能な神経機能である。素材と再生の境界は曖昧であり、両者は重複する。感覚細胞の興奮伝達から再生が始まっている可能性がある。そうだとすれば、感覚細胞は神経細胞と同様に重要である。さらに、神経細胞と感覚細胞の興奮伝達そのものに再生が内在している可能性がある。さらに、それらの興奮伝達そのものが再生である可能性もある。
  前述のとおり、同種の連続する感覚と記憶は同種の連続する感覚と感覚的イメージの素材をもつ。再生については少し異なる。異なる種類の感覚と記憶がは異なる種類の再生をもつだけでなく、同種の感覚と記憶の中でも、感覚と記憶は異なる再生をもち、感覚の素材の再生と感覚的メージの素材の再生は異なる。例えば、視覚的種類の感覚と記憶の中でも、視覚の素材の再生と視覚的感覚的イメージの再生とは異なり、連続していない。
  だが、同種の感覚と記憶の中で、感覚の素材の再生と感覚的イメージの素材の再生は、同じではないが似ており、同じ場所にないが近いところにある。例えば、視覚的感覚と視覚的記憶の中で、視覚の素材の再生と視覚的感覚的イメージの素材は似ており近い所にある。極端な例だが、神経系の機能的障害によって、それに固有の再生に達するはずの視覚的イメージの素材が、それと近いところにある視覚の素材の再生に達したとき、幻視が生じ、それに固有の再生に達するはずの聴覚的イメージの素材が、それと近いところにある聴覚の素材の再生に達したとき、幻聴が生じることはありえる。

素材の処理機能

  神経素材を再生以外の方法で処理する神経機能を素材の「処理機能」、素材を処理することと呼べる。
  感覚器を超えて現れるもの、例えば、両眼で視覚で現れるものは立体的であり両眼の空間を超えるが、そのようにする神経機能が両眼で視覚で現れるものの素材の処理機能の一つである。両耳で聴覚で現れるもの、両鼻で嗅覚で現れるものについても同様である。両鼻で嗅覚で現れるものが立体的であり両鼻腔を超えることは人間では曖昧だが、イヌ、ネコ…などの哺乳類のいくつかの種ではもっと明瞭だろう。かつて、人間の嗅覚も今より明瞭だったのだが、退化したのだろう。
  神経素材としての一対の神経細胞群の興奮伝達とそれらを処理する神経機能とそれらの再生が感覚器を超えて現れるものを生じると前提される。

感覚野、イメージ野

  前述のとおり、心的現象として現れるものとして再現されると前提される物質身体素材の部分を現れるものの再現素材と呼べる。両眼で視覚で現れるものの再現素材の空間がいわゆる「視野」である。ある感覚で現れるものの再現素材の空間を「感覚野」と一般的に呼べ、視覚(的感覚)野、聴覚(的感覚)野…などと個別的に呼べる。また、ある感覚的イメージとして現れるものの再現素材空間を「(感覚的)イメージ野」と一般的に呼べ、視覚的(感覚的)イメージ野、聴覚的(感覚的)イメージ野…などと個別的に呼べる。
  以下に感覚野の広さと奥行きの例を挙げる。

○両眼での視覚野
  人間では前方約180度の空間、数光年
○両耳での聴覚野
  360度の空間、数キロメートル
○両鼻での嗅覚野
  360度の空間、人間では数メートル
○平衡感覚野
  頭部の空間
○味覚野
  舌の空間
○体性感覚野
  皮膚、骨、横紋筋、腱、靭帯の空間
○自律感覚野
  粘膜、心筋、平滑筋…などの空間

  再現素材空間は、ものそのものに含まれるとともに、心的現象として現れるものとして再現されると前提され、現れる。例えば、海と水平線と空を含む空間が両眼で視覚で現れる。

再現素材空間の重なり

  まず、それぞれの種類の感覚と感覚的イメージの素材の中で、感覚で現れるものの再現素材空間と感覚的イメージの再現素材空間は大部分で重なる。例えば、数年ぶりに人と会ってその人が少し歳を取ったなと思うとき、視覚的種類の感覚と感覚的イメージで現れるものの中で、両眼で視覚で現れるその人の現在の顔と両眼的に視覚的感覚的イメージで現れるその人の数年前の顔は重なる。それによってその人が歳を取ったことが分かる。それらは前述の同種の素材の一貫性による。
  さらに、異なる種類の現れるものの中でも、いくつかの再現素材空間は重なる。例えば、両耳で聴覚で現れる鳥の声は両眼で視覚で現れる森の空間から聞こえてくる。そのような重なりは前述の異種の素材の一貫性による。

感覚器での感覚と感覚的イメージの想起

  [s1-1]片眼での視覚、[s2-1]片耳での聴覚、[s3-1]片鼻での嗅覚、[s4]平衡感覚、[s5]味覚、[s6]体性感覚、[s7]自律感覚、[i1-1]片眼での視覚的感覚的イメージの想起、[i2-1]片耳での聴覚的感覚的イメージの想起、[i3-1]片鼻での嗅覚的イメージの想起、[i4]平衡感覚的感覚的イメージの想起、[i5]味覚的感覚的イメージの想起、[i6]体性感覚的感覚的イメージの想起、[i7]自律感覚的感覚的イメージの想起では、再現素材空間と感覚細胞群の素材空間、つまり、感覚細胞群が存在し機能する空間とが一致する。[s1-1]-[s7]を「感覚器での」感覚とも呼べ、[i1-1]-[i7]を感覚器での感覚的イメージの想起と呼べる。

感覚器を超える感覚と感覚的イメージの想起

  [s1-2]両眼での視覚、[s2-2]両耳での聴覚、[s3-2]両鼻での嗅覚、[i1-2]両眼での視覚的感覚的イメージの想起、[i2-2]両耳での聴覚的イメージの想起、[i3-2]両鼻での嗅覚的感覚的イメージの想起では、再現素材空間と感覚細胞群の素材空間、つまり、感覚細胞群が存在し機能する空間とが一致せず、現れるものが立体的で感覚細胞群の素材の空間を超える。[s1-2]-[s3-2]を「感覚器を超える」感覚と呼べ、[i1-2]-[i3-2]を感覚器を超えるイメージの想起と呼べる。
  それらの感覚のそれぞれは、対称的な一対の神経素材とそれらを処理する処理機能と再生である。

素材が感覚されることとイメージとして想起されること

  感覚の素材が再生されることをそれが「感覚されること」と呼べ、感覚的イメージの素材または個々のイメージの素材または複合イメージの素材またはイメージの素材が再生されることをそれが(感覚的イメージとしてまたは個々のイメージとしてまたは複合イメージとしてまたはイメージとして)「想起されること」と呼べる。また、知覚の素材が再生されることをそれが「知覚されること」と呼べ、連想の素材が再生されることをそれが「連想されること」と呼べる。また、複合イメージの素材が想起されることまたは知覚の素材が知覚されることまたは連想の素材が連想されることをそれが(イメージとして)想起されることと呼べる。
  前述のとおり、神経素材と再生が重複している可能性はある。重複するにせよしないにせよ、再生と再生されている素材が心的現象として現れるものを直接的に生じると前提される。だから、素材が感覚されるときには必ず感覚で現れるものがすぐに生じ、素材がイメージとして想起されるときには必ずイメージとして現れるものがすぐに生じると前提される。そこで、素材が感覚されることとその感覚で現れるものが生じることをものが感覚されることとも呼び、素材がイメージとして想起されることとそのイメージとして現れるものが生じることをものがイメージとして想起されることと呼べる。
  また、数ミリセカンド前に感覚されたまたは現在、感覚されている素材を感覚されたばかりの素材と呼べる。イメージとして想起されたばかりの素材についても同様である。まだ感覚されていない素材ではなく、感覚されたばかりの素材が認識され個々のイメージの素材を生成する。また、『自我とそれらの傾向―自我をもつ動物の心理学』で説明されるように、イメージとして想起されたばかりの素材がイメージ情動神経細胞路の興奮伝達を生じ感情、欲求、自我…などを生じる。もし、まだ想起されていない素材がそれらを生じるとするとそれらはいわゆる無意識になってしまう。だから、まだ、想起されていない素材と想起されたばかりの素材の区別は重要である。
  ところで、イメージの素材をイメージとも呼ぶことにする。つまり、イメージという言葉はイメージの素材を指すことがあることにする。
  強く~弱く感覚で現れるものを生じると前提される素材が感覚されることを素材が強く~弱く感覚されることと呼べ、強く~弱くイメージとして想起されるものを生じると前提される素材が想起されることを素材が強く~弱くイメージとして想起されることと呼べる。密度、解像度、範囲の大きい~小さい神経素材は強く~弱く感覚または想起される可能性をもつ。例えば、密度の大きい視覚の神経素材は明るく視覚される可能性をもつ。感覚の素材と感覚的イメージの素材は連続するが、それらの強さは必ずしも相関しない。例えば、遠方で視覚された人が近くでイメージとして想起されることがある。また、ひそかに聴覚された話し声が大きな声でイメージとして想起されることがある。

素材の流れ

  神経素材は前述のようなものを前述のように維持する神経細胞群の興奮伝達または活性化と活性である。それらの興奮伝達は神経素材が神経細胞群を通ることまたは流れることと見なせる。活性化と活性は、神経素材が記銘保持されることであり、神経素材が淀むことと見なせる。また、神経細胞群に障害があれば神経素材は立ち消えることがある。また、神経細胞群が収束する場合、いくつかの神経素材が通り、他は立ち消える。分岐する場合、一つの神経素材から複数の同一の神経素材が生成することがある。また、神経素材からもはや神経素材と呼べない神経細胞群の興奮伝達が分岐することがある。また、前述のとおり、それぞれの種類の連続する感覚と記憶の中で、感覚の神経素材と感覚的イメージの素材は連続する。それらを同種の(連続する)感覚と感覚的イメージの素材またはそれぞれの種類の(連続する)感覚と感覚的イメージの素材または連続する感覚と感覚的イメージの素材と呼ぶことができた。そのように連続する素材の流れと淀みと立ち消えと収束と分岐の前半を概観してみよう。後半は次章で詳述される。
  感覚細胞群のいくつかの部分が障害され存在機能しなければ、神経素材のそれに続く部分が生じず、つまり、興奮伝達せず、それらの部分は感覚されない。例えば、眼を固く閉じると何も見えない。また、網膜に障害があれば視野の少なくとも一部が欠損する。感覚細胞群が機能しても、それ以降の神経細胞群のいくつかの部分が障害され存在機能しなければ、つまり、興奮伝達しなければ、それらの部分の神経素材は途中で立ち消え感覚されない。例えば、下垂体腫瘍により視神経に障害があれば、視野の少なくとも一部が欠損する。
  いくつかの神経細胞群の興奮伝達がいくつかの神経素材から枝分かれし、いくつかの反射的または自律的な機能を生じる。反射について、例えば、狭義の感覚神経が分岐して運動神経に接合し、それらの興奮伝達が腱反射を生じる。自律機能について、そもそも自律神経の分岐は激しく、それらの興奮伝達は心拍数、呼吸数、血圧…などの増減のような様々な自律機能を生じる。
  流れの中では以下の(1)(2)(3)(4)(5)を区別できる。

(1)未だ感覚されていない神経素材の部分
(2)感覚されている、つまり、再生されている部分
(3)既に感覚されたが、未だ想起されていない部分
(4)想起されている、つまり、再生されている部分
(5)既に想起された部分

(1)(2)は感覚の素材である。(3)(4)(5)は次章で詳しく説明される。また、(5)が『自我とそれらの傾向―自我をもつ動物の心理学』で説明される感情、欲求、自我…などを生じる。
  いずれにしても、(1)(2)(4)(5)の時間は数ミリセカンド(一秒の千分の一)である。それに対して、(3)は記銘保持されえるので、その時間は数ミリセカンドから数十年である。何故なら(3)は次章で説明されるようにして記銘保持されるからである。

記憶

それぞれの種類の記憶

  視覚で感覚されたばかりの視覚の神経素材がもついくつかの属性が認識され、それらの属性をもつ部分が切り取られて個々の視覚的イメージの素材として生成する。それらが複合イメージの素材の一部も構成するが、再生という最終段階で視覚的感覚的イメージの素材を構成する。つまり、視覚の神経素材と視覚的感覚的イメージの神経素材は連続する。だから、視覚的感覚的イメージは視覚で現れるものに似ているのである。同様のことは聴覚の素材、嗅覚の素材…などにも当てはまる。だから、心的現象として現れるもの、素材、感覚、記憶、想起…などを横断して視覚的種類、聴覚的種類などの種類がある。感覚の素材と感覚的イメージの素材がそのように連続する素材を「同種の(連続する)感覚と感覚的イメージの素材」またはそれぞれの種類の(連続する)感覚と感覚的イメージの素材または連続する感覚と感覚的イメージの素材と一般的に呼べ、視覚的種類の(連続する)感覚の素材と感覚的イメージの素材、視覚的(連続する)感覚の素材と感覚的イメージの素材、聴覚的種類の(連続する)感覚の素材と感覚的イメージの素材、聴覚的(連続する)感覚の素材と感覚的イメージの素材…などと個別的に呼べる。また、そのような連続する素材とそれに係る機能を同種の(連続する)感覚と記憶またはそれぞれの種類の(連続する)感覚と記憶または連続する感覚と記憶と一般的に呼べ、視覚的種類の(連続する)感覚と記憶、視覚的(連続する)感覚と記憶、聴覚的種類の(連続する)感覚と記憶、聴覚的(連続する)感覚と記憶…などと個別的に呼べる。また、感覚されたばかりの神経素材の部分に続く部分とそれに係る機能をある種類の記憶またはそれぞれの種類の記憶または記憶と一般的に呼べ、視覚的種類の記憶または視覚的記憶、聴覚的種類の記憶または聴覚的記憶…などと個別的に呼べる。
  だが、それらの種類の発達の度合いの動物の種の間での差は大きい。人間においては、言葉を聞き、話し、読み、書くので、視覚的種類と聴覚的種類の記憶が非常に発達し、他の種類の記憶を圧倒し、または、他の種類の記憶に取って代り、他の種類の記憶はほとんど存在、機能しない。だから、人間においてはこの章の説明の多くは視覚的記憶と聴覚的記憶の説明である。他の動物の種においては人間におけるよりも、他の種類の記憶が発達していることはありえる。特に陸生の脊椎動物のいくつかの種において嗅覚的記憶が発達していることはありえる。だが、それらの説明は省略するこことにする。
  この章で説明するほとんどの機能はそれぞれの種類の記憶の中で機能する。それぞれの種類を超えて機能するのはわずかである。この章では「それぞれの種類の記憶の中で機能する」のような言葉がなくても、文はそのことを含意することにする。機能が「それぞれの種類を超えて機能する」ときは、そのような言葉を省略することは決してない。
  以下の認識、切り取り、生成、更新、記銘保持、生成、生起、想起…などの言葉は具体的な数えられる機能を指す。例えば、神経細胞群が百に分岐すれば、百以下の記銘保持がある。そこでそれらを可算名詞として使用することにする(訳注:日本語では単数形と複数形、可算名詞と不可算名詞の区別を示すことができない)。

それぞれの種類の次々と分岐する記憶の神経細胞群

  それぞれの種類の記憶の中で、感覚されたまたは想起されたばかりの神経素材のいくつかの部分がもつ属性が認識され、それらの部分が切り取られて個々のイメージの素材として生成する。それらの機能は次々と分岐する神経細胞群を通りながら生じる。そのような神経細胞群を(それぞれの種類の)(次々と)「分岐する「記憶の神経細胞群」と呼べる。それぞれの種類の記憶に次々と分岐する記憶の神経細胞群が一つある。厳密に言えば、一対あるのだが、一対の神経細胞群は一つの神経細胞群と見なされる。

個々のイメージの(素材の)認識と切り取りと生成

  それぞれの種類の記憶の中で、感覚されたその種類の感覚の素材だけでなく、想起されたその種類の個々の感覚的イメージの素材が次々と分岐するその種類の記憶の神経細胞路を通り、それらの部分がもつ属性が認識される。後述するとおり、その認識によって、この節で述べるの個々のイメージの生成だけでなく、下の節で述べる個々のイメージの同類性に基づく生起も生じる。
  それぞれの種類の記憶の中で、感覚されたばかりのその種類の感覚の素材と想起されたばかりのその種類の個々の感覚的イメージの素材が次々と分岐するそれぞれの種類の記憶の神経細胞群を通り、それらの神経素材のいくつかの部分がもつ頻度、空間的配列、時間的配列、それらの変化…などのいくつかの属性がいくつかの神経機能によって同類性に基づいて次々と認識されそれらの部分が分類される。そのことを個々のイメージ(の素材)の「認識と分類」、認識、個々のイメージ(の素材)が認識され分類されること、認識されること呼べる。例えば、視覚的種類の分岐する記憶の神経細胞群の中で、視覚の神経素材の哺乳類の顔の部分がもつ顎、口、鼻、二つの眼、二つの耳、頭という空間的構成が認識され、その部分が哺乳類の顔として認識され分類される。次いで、頭の大きさと他の部分の大きさの割合、毛の濃度と分布…などが認識され、その部分が人間の顔として認識され分類され…と続く。
  また、それぞれの種類の記憶の中で、感覚されたばかりのその種類の感覚の素材と想起されたばかりのその種類の個々の感覚的イメージの素材がその種類の次々と分岐する記憶の神経細胞群を通り、それらの素材のいくつかの部分がもついくつかの属性が認識されそれらの部分が次々と分類されるとともに、それらの部分のいくつかはいくつかの神経機能によって切り取られる。そのことを個々のイメージの(素材の)「切り取り」、個々のイメージ(の素材)が切り取られることと呼べる。例えば、前の例では顔の部分、身体の部分が切り取られる。
  そのように認識され切り取られて個々のイメージの素材が生成する。例えば、顎、口、鼻、眼、耳、頭という空間的配列…などの属性が認識されその部分が分類され、その部分が、空、森、街…などの背景から切り取られて、特定の人間の顔の個々のイメージの素材が生成する。個々のイメージの認識と切り取りを個々のイメージの(素材の)「生成」、個々のイメージ(の素材)が生成することとも呼べる。個々のイメージの生成は認識、分類、切り取りから構成される。また、認識され分類され切り取られている個々のイメージの神経素材を個々のイメージの「生成したばかりの素材」と呼べる。
  感覚されたばかりの感覚の素材から複数の個々のイメージの素材が生成しうる。例えば、視覚された特定の人間から、その人の目、顔、体、髪の毛、衣服、靴の個々のイメージの素材が生成しうる。

個々のイメージの(素材の)記銘保持

  個々のイメージの生成したばかりの素材が以下のようにして記銘保持される。
  個々のイメージの生成素材が通る次々と分岐する記憶の神経細胞群の中には前述の選択的専門的な神経細胞群がいくつか、実際は多数、存在し機能する。個々のイメージの生成したばかりの素材が、分岐する神経細胞群を通り、選択的専門的な単位的神経細胞群を活性化する。つまり、個々のイメージの生成したばかりの素材の中の特定の頻度で興奮伝達する神経細胞が、選択的専門的な単位的神経細胞群の中のその頻度で活性化され興奮伝達する能力をもつ神経細胞を活性化する。そのことを個々のイメージの(素材の)「記銘」、個々のイメージ(の素材)が記銘されることと呼べる。
  個々のイメージの素材が記銘された選択的専門的な単位的神経細胞群の活性が低下し再活性化により増大しつつしばらくは維持される。そのことを個々のイメージの(素材の)「保持」、個々のイメージ(の素材)が保持されることと呼べる。

個々のイメージの(素材の)更新

  感覚されたばかりの感覚の素材の部分または想起されたばかりの個々のイメージの素材の部分がもつ同一の属性が認識されるごとに、それらの部分が前述と同様に個々のイメージとして生成し記銘され保持され、同一の個々のイメージの素材を記銘保持する神経細胞群が再活性化され、それらの活性が維持される。そのことを個々のイメージの(素材の)更新、それらが更新されることと呼べる。
  すべての神経細胞群の活性は時間とともに低下していくので、更新されない個々のイメージの素材を記銘保持する神経細胞群の活性は低下し消滅する。つまり、そのような個々のイメージは「忘却」される。
  イメージの更新の実態はそれらの生成に過ぎない。だが、イメージの素材が保持されるときはそれらが絶えず更新されていることを強調する必要があるときは、それらが「生成または更新する」などの言葉遣いをすることにする。だが、それらの言葉遣いを逐次していると、文章が煩雑になる。だから、その必要がないときはそれを単にそれらの生成またはそれらが生成することと呼ぶことにする。

個々のイメージの(素材の)同類性に基づく分類

  それぞれの種類の次々と分岐する記憶の神経細胞群の中で、個々のイメージの素材が認識され切り取られ生成または更新し記銘保持される。結果として、類似するものほど近い枝を通り記銘保持される。そのことを個々のイメージの(素材の)同類性に基づく分類、それらが同類性に基づいて分類されることと呼べる。それによって、類似する個々のイメージの素材は空間的時間的に近くで生起し想起され、複合イメージを構成する可能性をもつ。例えば、視覚的種類の次々と分岐する神経細胞群の中で、特定の人間の個々のイメージの素材は互いに、他の動物のそれらより近い所で記銘保持される。だから、人間の個々のイメージの素材は他の動物のそれらより空間的時間的に近くで生起し想起される可能性をもち、一般の人間の複合イメージの素材を構成しえ、人間と他の動物が区別される。わたしたちはものを分類するとき「樹構造」というものを使うことがあるが、その原型は既に神経系に存在し機能していたのである。

それぞれの種類の再生へ収束する記憶の細胞群

  個々のイメージの素材を記銘保持する神経細胞群が興奮伝達すると、個々のイメージの素材は再生へ向かう。それが個々のイメージの素材の生起である。だが、個々のイメージの素材を記銘保持する単位的神経細胞群が多数あるのに対して、再生はそれぞれの記憶について一つ(一対)であり、前者から後者へ向かう神経細胞路は収束する。だから、生起する個々のイメージの素材がすべてが再生に達するわけではなく、再生され想起されるわけではなく、それらのいくつかは立ち消えることがある。そのような再生に向けて収束する神経細胞路を(それぞれの種類の)(再生へ)収束する記憶の神経細胞群と呼べる。また、それぞれの種類の次々と分岐する記憶の神経細胞群と再生へ収束する記憶の神経細胞群を(それぞれの種類の)(分岐し収束する)記憶の神経細胞群と呼べる。結局、記憶の神経細胞群は分岐し収束する。

同類性に基づく個々のイメージの素材の生起または想起

  それぞれの種類の次々と分岐する記憶の神経細胞群の中で、感覚されたばかりの感覚の素材と想起されたばかりの個々のイメージの素材のいくつかの部分がもついくつかの属性が認識され、前述のように個々のイメージの素材が生成(または更新)し記銘保持される。さらに、生成したばかりの個々のイメージの素材は記銘保持されるだけでなく、即時的に生起し、想起されえる。そのような即時的な想起が後述する即時的記憶である。だが、生起したばかりのものだけでなく、次のようにして過去に生成し記銘保持されたものでそれらに類似するものも生起し、想起されえる。
  それぞれの種類の分岐する記憶の神経細胞群の中で、認識され生成したばかりの個々のイメージの素材が通る枝は当然、興奮伝達する。何故なら、その興奮伝達が神経素材そのものだから。だが、それらの枝だけでなく、それらの枝から別れる枝のいくつかも興奮伝達する。前述のとおり、それぞれの種類の次々と分岐する神経細胞群の中で、枝が近いほど類似する個々のイメージの素材が通りそのどこかに記銘保持されている。だから、それらの枝の興奮伝達が類似する個々のイメージの素材を記銘保持する神経細胞群の興奮伝達を生じ、それらが生起し、想起されえる。だから、結局、生成したばかりの個々のイメージの素材だけでなく、過去に生成し記銘保持されたものでそれに類似する個々のイメージの素材のいくつかも生起し、想起されえる。それを「同類性に基づく」個々のイメージの(素材の)生起または想起と呼べる。例えば、特定の人間が認識され、同類性に基づいて多数の特定の人間の個々のイメージの素材が生起し、一般の人間の複合イメージの素材を構成し、その特定の人間が人間として知覚される。
  同類性に基づく個々のイメージの素材の生起または想起によって、特定のものに先んじて一般のものを認識し思考することが可能になる。例えば、これやあれやの特定の虎が危険なのではなく、一般の虎が危険なのである。それぞれの個体が危険か危険でないかをそのつど吟味していたのではわたしたちは身がもたない。わたしたち人間においては、そのような一般のもののイメージの想起が発達し、いわゆる本能は退化してきた。前者によってわたしたちは生存しているのである。
  そのように、同類性に基づく個々のイメージの想起によって複合イメージはほとんど想起されている。だから、それは同類性に基づく複合イメージの(素材の)想起とも呼べる。

同類性に基づく個々のイメージの素材の間の神経細胞路

  同類性に基づく個々の(複合)イメージの素材の生起における、それぞれの種類の次々と分岐する記憶の神経細胞群の認識から個々のイメージの素材を記銘保持する神経細胞群に至る枝またはそれと平行する神経細胞路は個々のイメージの素材の間の間接的な神経細胞路とも見なせる。そこでその部分を「同類性に基づく個々のイメージの素材の間の神経細胞路」とも呼べる。
  個々のイメージの素材が認識され生成し分類されるためには、それらは先天的にある程度、活性化されていなければならい。だが、それらの活性が個々のイメージの素材が生成または更新するときに後天的に増大することはありえる。

イメージの素材の後天的生成

  いずれにしても、感覚された神経素材の部分がもついくつかの属性が認識され、それらの部分が切り取られて初めて個々のイメージの素材として生成する。だから、すべての個々のイメージの素材は後天的に生成すると言える。さらに、すべてのイメージは個々のイメージから構成されるので、イメージはすべて後天的に生成すると言える。

同類性に基づく同種の個々のイメージの素材の間の神経細胞路、同類性に基づく同種の個々のイメージの素材の生起または想起

  同類性に基づく個々のイメージの素材の間の神経細胞路は、それぞれの種類の分岐する記憶の神経細胞群の中でまたはそれらに沿ってのみ存在し、異種のそれらの間に存在しえない。そのことを強調する必要があるときはそれらを同類性に基づく同種の個々のイメージの素材の間の神経細胞路または同類性に基づくそれぞれの種類の個々のイメージの素材の間の神経細胞路と呼べる。
  だから、それらによる生起または想起では、同種の個々のイメージの素材しか生起せず想起されえない。そのことを強調する必要があるときは、そのことを同類性に基づく同種の個々のイメージの素材の生起または想起または同類性に基づくそれぞれの種類の個々のイメージの素材の生起または想起と呼べる。

時間的近さに基づく個々のイメージの素材の生起または想起、時間的近さに基づく個々のイメージの素材の間の神経細胞路

  同一の種類の分岐し収束する記憶の神経細胞群の枝の間だけでなく、異なる種類のそれらの枝の間にも、いくつかの、実際は多数の神経細胞路が存在する。それらは前述の同類性に基づく個々のイメージの素材の間の神経細胞路とは全く別物である。それらは先天的に活性化されておらず、個々のイメージの素材が時間的に近くで認識され生成または更新し記銘されるときに時間的近さに基づいて後天的に活性化される。次にそれらの個々のイメージの素材のいくつかが生起するとき、それらの活性化された神経細胞路が興奮伝達し、他のいくつかも生起する。結局、過去に時間的に近くで生成または更新し記銘された個々のイメージの素材が時間的に近くで生起し、想起されえる。それを時間的近さに基づく生起または想起と呼べ、それらの神経細胞路を時間的近さに基づく個々のイメージの素材の間の神経細胞路と呼べる。

時間的近さに基づく同種および異種の個々のイメージの素材の生起または想起、時間的近さに基づく同種および異種の個々のイメージの素材の間の神経細胞路

  時間的近さに基づく個々のイメージの素材の間の神経細胞路は同じ種類だけでなく異なる種類の分岐し収束する記憶の神経細胞群の間にもあるので、それらによって同種だけでなく異種の個々のイメージの素材が生起し、同種だけでなく異種の個々のイメージの素材から構成される複合イメージが想起されえる。そのことを強調する必要があるときは、そのことを時間的近さに基づく同種および異種の個々のイメージの素材の生起または想起と呼べ、それらの神経細胞路を時間的近さに基づく同種および異種の個々のイメージの素材の間の神経細胞路と呼べ、そのような神経細胞路を時間的近さに基づく同種および異種の個々のイメージの素材の間の神経細胞路と呼べる。
  例えば、ある子供の母親が怒って凄まじい声を出すことがよくあったとすれば、子供の神経系の中で、母親の怒った顔という個々の視覚的イメージの素材と凄まじい声という個々の聴覚的イメージの素材との間の時間的近さに基づく神経細胞路が活性化され、子供は母親の怒った顔を知覚しただけで、凄まじい声を予期するようになる。もし、時間的近さに基づく神経細胞路がなければ、顔の視覚的な知覚から声という聴覚的イメージが想起されることはない。
  前述のとおり、複合イメージの複合体も複合イメージに含まれ、連想の素材も複合イメージの素材に含まれ、大きな複合イメージや連想においては時間的近さが優位になる。もし、時間的近さに基づく神経細胞路複雑な連想や思考はない。
  時間的に近くで生じる物事のいくつかは原因と結果である。時間的近さに基づく神経細胞路がなければ、私たちは原因と結果について考えることができない。
  人間においては書き言葉より話し言葉のほうが優位である。だが、書き言葉がなければ観念の確実な伝承はなく、文化も科学技術もない。もし、時間的近さに基づく神経細胞路がなければ、話し言葉から書き言葉への変換はなく、文化も科学技術もない。

イメージイメージ神経細胞路

  同類性に基づく個々のイメージの素材の間の神経細胞路と時間的近さに基づく個々のイメージの素材の間の神経細胞路を個々のイメージの素材の間の神経細胞路またはイメージイメージ神経細胞路と呼べる。
  それらの活性化、活性、興奮伝達と個々のイメージを記銘保持する神経細胞群のそれらによって、個々のイメージの素材が同類性と時間的近さに基づいて空間的時間的に近くで生起し、想起されえ、複合イメージの素材を構成しうる。
  ところで、複合イメージの素材を構成する個々のイメージの素材の空間的近さは前述の素材の一貫性によって維持される。
  イメージイメージ神経細胞路のうち、同類性に基づくものは先天的に活性化され、時間的近さに基づくものは後天的に活性化される。だが、前述のとおり、個々のイメージ、感覚的イメージ、複合イメージの素材を含めて、すべてのイメージの素材は後天的に生成する。だが、人間で想起されるような複雑な複合イメージの素材、つまり、いわゆる観念は、主として時間的近さに基づく個々のイメージの素材の間の神経細胞路の後天的活性化によって生成する。人間は言葉を話し書き、観念を世代内及び世代を超えて伝達する。例えば、天動説にしても地動説にしても、創造論にしても進化論にしても、哲人政治にしても民主制にしても、資本主義にしても共産主義にしても、一代限りの個人において生成するわけがない。それらは、対話、授業、読書…などによって主として既に先人が辿った時間的近さに基づく神経細胞路を効率的に活性化することによって生成する。また、思考によって個人の中でそれらが幾分かは発展するが、それらの活性化がなければ、その発展分は数秒で消滅し、それらを逐次、考え直さなければならなくなる。

複合イメージの素材の生成または更新、記銘保持、生起または想起

  以上の個々のイメージの認識、生成、記銘、保持と個々のイメージの素材の間の神経細胞群の活性化をもって、個々のイメージの素材が生成し記銘保持されたと見なせる。
  また、個々のイメージの素材が更新されるときに、それらの間の神経細胞路も再活性化されており、それらを複合イメージの素材の更新と見なせる。
  また、個々のイメージの素材の同類性に基づく生起と時間的近さに基づく生起とそれらの間の神経細胞路の興奮伝達を複合イメージの生起と見なせる。
  また、それらの生起した個々のイメージのうちのいくつかが想起されることを複合イメージの素材の想起と見なせる。

それぞれの種類の感覚と記憶を超える機能

  結局、個々のイメージの認識、生成または更新、記銘保持、同類性に基づく個々のイメージの素材の間の神経細胞路の活性化と活性と興奮伝達、同類性に基づく個々のイメージの素材の生起または想起は、それぞれの種類の記憶の中だけで機能し、それぞれの種類を超えない。それに対して、時間的近さに基づく個々のイメージの素材の間の神経細胞路の活性化、活性、興奮伝達と時間的近さに基づく個々のイメージの生起または想起は、同種の記憶の中で機能するだけでなく、異種の記憶の間でも機能し、それぞれの種類を超える。また、感覚はそれぞれの種類の感覚を超えて機能しない。だから、結局、それぞれの種類の感覚と記憶を超えるのはそれらだけである。

記憶の神経細胞群の所在

  それぞれの種類の感覚と分岐し収束する記憶の神経細胞群と想起は、大脳の中で一対の葉に限局する。例えば、視覚的種類は一対の後頭葉に限局し、聴覚的種類は一対の側頭葉に限局する。
  同類性に基づく個々のイメージの素材の間の神経細胞路はそれぞれの種類の記憶の分岐し収束する神経細胞群の一部である。
  それに対して、時間的近さに基づく同種および異種のイメージの素材の間の神経細胞路は、ある葉から同じ葉にだけでなく異なる葉にも軸索を伸ばす。大脳髄質の少なからぬ部分をそれらの軸索が占める。

個々の(複合)イメージの素材の生起の詳細

  私たちが深睡眠や昏睡からいきなり覚醒させられたとき、感覚の素材だけが感覚され、イメージの素材は想起されない。それぞれの種類の感覚と記憶の中で、第一に(同類性に基づく個々のイメージの素材の生起において)、それぞれの種類の分岐し収束するする記憶の神経細胞群の中で、感覚されたばかりの感覚の素材のいくつかの部分がもついくつかの属性が認識され、それらの部分が切り取られて個々のイメージの素材として生成し記銘保持されるとともに生起する。同時にそれらの生成したばかりの個々のイメージの素材が通る枝から分岐する枝が興奮伝達し、それらの興奮伝達がそれらに類似する個々のイメージの素材が記銘保持されている神経細胞群のいくつかの興奮伝達を生じる。結局、それらに類似するいくつかの個々のイメージの素材が生起する。第二に(時間的近さに基づく個々のイメージの素材の生起において)、それらの個々のイメージの素材が通る神経細胞群のいくつかの部分から発する時間的近さに基づく神経細胞路が興奮伝達し、過去にそれらと時間的に近くで生成し記銘保持された個々のイメージの素材を記銘保持する神経細胞群の興奮伝達を生じる。結局、過去にそれらと時間的に近くで生成し記銘保持された個々のイメージの素材のいくつかが生起する。第三に、第一段階と第二段階で生起した個々のイメージの素材のいくつかが想起され、それらのいくつかがもつ属性のいくつが認識され、それらがそれぞれの種類の次々と分岐する記憶の神経細胞群を通り、同様のことが繰り返される。それらの第一段階と第二段階の時間はゼロコンマ一秒以下である、第三段階は繰り返しであるから数秒になりえる。例えば、前者は、病院で覚醒して、スタッフを見たことのない人々だと認識するぐらいの時間である。実際は、私たちは夢を見ている間に覚醒することが多いので、最初から夢の内容が想起される。それと同時に、寝室が知覚され、窓が知覚され、窓の外の世界が想起され、私たちが置かれている状況が想起され、昨日の出来事が想起され、今日の出来事が想起(予期)され…と続く。それとともに自我が「あれは夢だったのか」「何故あんな奇妙な夢を見たのだろうか」と考え始める。

生起の意味

  そもそも、前述のとおり、「生起」という言葉は一般的な意味をもつものとして定義された。機能の必然的直接的部分を生じるまたは変化させる可能性をもつ部分が生じるまたは変化することを機能の「生起」、機能が生起することと呼べる。簡単に言って、機能が生起したからといって必ずしも生じるわけではなく、停止することがある。イメージの想起においても、生起という言葉はそのような意味で用いられ、イメージの素材が生起したからといって必ずしも想起されるわけではない。その理由を以下の節で説明する。

神経細胞群の興奮伝達の立ち消え

  神経細胞(s)から伝達されて神経細胞(u)が興奮伝達しているときに、神経細胞(t)が神経細胞(u)に伝達しても、神経細胞(t)からの伝達とは無関係に神経細胞(s)の伝達によって神経細胞(s)と同様の頻度で神経細胞(u)は興奮伝達し続ける。そのことを、神経細胞(s)の興奮伝達が「通る」こと、神経細胞(t)の興奮伝達が「立ち消える」ことと呼べる。
  神経細胞群(S)から伝達されて神経細胞群(U)が興奮伝達しているときに、神経細胞群(T)が神経細胞群(U)に伝達しても、神経細胞群(T)からの伝達とはほとんど無関係に神経細胞群(S)の伝達によって神経細胞群(S)と同様の空間的時間的位置、頻度、密度、空間的時間的構成、それらの変化で神経細胞群(U)は興奮伝達する。そのことを神経細胞群(S)の興奮伝達が「通る」こと、神経細胞群(T)の興奮伝達が「立ち消える」ことと呼べる。
  前述の通り、認識から個々のイメージの素材を記銘保持する単位的神経細胞群への神経細胞群は分岐する神経細胞群であり、それらから再生へ向かう神経細胞群は収束する神経細胞群である。収束する神経細胞群には興奮伝達の「合流点」と呼べるシナプスが多数ある。そのような合流点を多数もつ収束する神経細胞群においては、最も早く持続的に高密度で広く中心に近くで興奮伝達する限られた数の神経細胞群の興奮伝達が、その他を立ち消えさせつつ、通り、目的地に達する。

複合イメージの限定想起

  前節で説明されたように、収束する神経細胞群の中で多数の神経細胞群の興奮伝達が生じたとき、最も早く持続的に高密度で広く中心に近くで興奮伝達する限られた数の神経細胞群の興奮伝達が他の神経細胞群の興奮伝達を立ち消えさせながら通り、目的地に達する。また、前述のとおり、それぞれの種類の記憶の中で個々のイメージを記銘保持する単位的神経細胞群から再生へ向かう神経細胞路は収束する。それらはそれぞれの種類の再生へ向けて収束する記憶の神経細胞群と呼ぶことができた。だから、多くの個々のイメージが生起しても、一時に限られた数のそれらが再生に達し想起される。
  そのことは、前述の再現素材空間に着目すると、以下のように説明できる。再現素材空間には限りがある。その限りある再現素材空間を占められるのはやはり限られた数の素材である。例えば、両眼的視覚的イメージの再現素材空間は両眼での視覚のそれと同様に人間では前方約180°であり、それを聳え立つ壁のような巨大な複合イメージが占めると他はほとんど現れない。
  だから、それぞれの種類の記憶の中で、限られた数(N)以下の複合イメージの素材が再生に達し想起される。これは以下のように場合分けされる。

(1)N以下の複合イメージの素材が生起したときはそれらがすべて想起される。
(2)Nを超える複合イメージの素材が生起したときは最も早く持続的に広く中心付近で興奮伝達するN個のそれらが想起される。

この(2)の場合を想起の「飽和」と呼べる。
  ただし、その限られた数(N)は状況により変動する。多くの個々のイメージから構成される大きな複合イメージが想起されるとき、それらが再現素材空間のほとんどを占め、Nは小さくなる。簡単に言って、複雑なことを考えるときNは小さくなる。

  一般に限定機能、被限定機能…などを以下のように定義できる。
少なくとも人間を含む高等な哺乳類の個体のそれぞれの中で、そのそれぞれ(F = (f1,f2,…))が次のような属性をもつ機能の集合がいくつかある。
(1)Fは共通の行程(P)を経る。
(2)ある状況(S)の中で、
(2-1)数(N)個以下のFが生起する場合(C1)は、それらのすべてがそれらの単純に生じる傾向(ST)によって生じる。ただし、Nは別の状況(FS)によって変動する。
(2-2)N個を超えるFが生起した場合(C2)は、ある時間(LT)に生じるFをN個以下に限定する別の状況(LS)の中で(ただし、Nはさらに別の状況(FS)によって変動する)、生起したFのうち、LSの中で他を排除する傾向を含む生じる傾向(TEO)が最も大きいN個のFが生じる。
(3)上記のうち、生じる傾向(ST,TEO)には同種同年齢の中で個体差があり、他には個体差はほとんどない。
これらのうち、機能の集合(F)とFが経る共通の行程(P)とFを限定する状況(LS)を状況(S)における個体の「限定機能」と呼べ、集合(F=(f1, f2,…))を限定機能に属する「被限定機能」と呼べ、Fを限定する状況(LS)を限定機能または被限定機能の「限定状況」と呼べ、Fが限定される時間(LT)を限定機能の「限定時間」と呼べ、場合(C1)における被限定機能の生じる傾向(ST)を被限定機能の「単純な(生じる)傾向」と呼べ、C2におけるの被限定機能の生じる傾向(TEO)を被限定機能の「他を排除する傾向を含む(生じる)傾向」と呼べる。
  さらに、C2にける他を排除する傾向を含む生じる傾向(TEO)が大きければ、C1における単純な生じる傾向(ST)も大きい。だから、後者を無視して、TEOを状況(S)における個体の被限定機能の(生じる)傾向と呼べる。さらに、ある個体のある限定機能において、さらに、ある状況(S)において、同種同年齢の個体において生起しうる被限定機能の概略のその個体の傾向を要素としてもつ行列を状況(S)におけるその個体のその限定機能の傾向または習性と呼べる。また、同種同年齢の個体がありえるすべての状況におけるその個体のその限定機能の傾向または習性の集合をその個体のその限定機能の傾向または習性と呼べる。

これを複合イメージの想起に当てはめてみる。
  複合イメージの想起は一種ではなくいくつかの種類の個々のイメージの生起と再生を含むので、それは実際は「複合的な」限定機能である。すると数(N)、限定状況(LS)…などは複雑になる。だが、限られた数(N)以下の複合イメージが想起されること、それらが「複合的な」限定状況に限定されること…などに変わりはなく、複合イメージの想起が、複合的なものであれ、限定機能であることに変わりはない。

[複合イメージの想起の状況]

  複合イメージの想起の直接的な状況は、いくつかの種類の認識される感覚されたばかりの神経素材の部分と想起されたばかりの個々のイメージの素材がもつ属性である。この認識から、同類性に基づいて、次いで、時間的近さに基づいて、個々のイメージの素材の生起が始る。さらに、間接的な状況は、それらの神経素材を生じる物質身体素材、それらを生じる物質と機能である。例えば、学校や職場の建物を見ると、その中での人間関係が想起される。

[複合イメージの想起の限定状況]

  いくつかの種類の個々のイメージの素材を記銘保持する神経細胞群から再生へ向かう記憶の神経細胞群が収束することと、最も早く持続的に高密度で広く中心に近くで興奮し伝達する複合イメージの素材が他を立ち消えさせて再生に達することが想起の限定状況である。

[想起における限定時間]

  ゼロコンマ数秒(一秒の数十分の一)である。つまり、数秒以上の時間ではNは限定されない。

[想起においてNが変動する状況]

  いくつかの種類の再生に向けて収束する記憶の神経細胞群における、想起される複合イメージの素材が占める空間的時間的広さの総体である。大きな複合イメージの素材が中心付近で一つでも想起されると、Nは小さくなり、1になることもある。それに対して、小さな複合イメージの素材が周辺で想起されると、Nは大きくなる。例えば、自己にとって非常に重要な人が想起されるときNは小さくなり、あまり重要でない人々が想起されるとき、Nは大きくなる。

[複合イメージの想起における被限定機能]

  同種同年齢において生成し状況(S)の中で生起する可能性をもつ複合イメージの素材の集合をG = (g1,g2,…)とする。すると、ある個体においてそもそもGのいくつかが生成していないことをそれらの生じる傾向がゼロであることと見なせる。また、Gのいくつかが生成しているが何ら興奮伝達しないことをそれらが完全に停止することと見なせる。また、Gのいくつかが興奮伝達しそれらのいくつかの部分がいくつかの種類の記憶の再生へ収束する神経細胞群を通り再生へ向かうことをGが生起することととらえることができる。また、Gのいくつかが再生に達し想起されることをGが生じることととらえることができる。さらに、限定状況によって限定されてGが生じる。だから、同種同年齢において生成し状況(S)の中で生起する可能性をもつ複合イメージの素材の集合は複合イメージの想起における被限定機能の集合であり、Gは、被限定機能であり、複合イメージの想起における被限定機能である。
  だが、もう少し詳しく見てみると以下のことが分かる。複合イメージを構成する個々のイメージは空間的時間的に近くで想起されるのである程度はまとまって想起される。だが、一つの複合イメージを構成する個々のイメージのいくつかは想起され他は想起されないということはありえる。そのような部分欠損のイメージは有効ではないかもしれない。だが、Nが変動する状況には関与する。そのような複合イメージが多く想起されるほど、Nは小さくなる。
  だが、個々のイメージが複合イメージとしてまとめて想起されることに変わりはなく。分散し孤立した個々のイメージは無視できる。だから、イメージの想起に関する限りで、複合イメージだけに着目することにする。

[被限定機能が経る共通の行程としての複合イメージの素材が通るいくつかの種類の記憶の再生へ収束する神経細胞群と再生]

  被限定機能が経る共通の行程としての複合イメージの素材が通るそれぞれの種類の記憶の再生へ収束する神経細胞群と再生が被限定機能が経る共通の行程である。

[複合イメージの想起における限定機能]

  前述の同種同年齢の個体のおいて状況(S)の中で生起する可能性をもつ複合イメージの素材の集合と限定状況といくつかの種類の記憶の再生へ向けて収束する神経細胞群と再生は限定機能である。それを((複合)イメージの(素材の))(限定)想起または(複合)イメージ(の素材)が(限定されて)想起されることと呼べる。想起が限定機能であることを強調する必要があるときは、「限定」という言葉を用いることにする。

複合イメージの一つの種類のまたはいくつかの種類の想起

  複合イメージの素材の一つの種類の生起と再生だけを考慮するのでは、異なる種類の個々のイメージから構成される複合イメージが、比喩的に言って、一つの種類の感覚的イメージに輪切りにされてしまう。複合イメージの原型を保つためには、個体の神経系の中でのいくつかの種類の生起と再生を考慮する必要がある。それらを区別する必要があるときは、前者を一つの種類の((複合)イメージの(素材の))(限定)想起と呼び、後者をいくつかの種類の((複合)イメージの(素材の))(限定)想起と呼ぶことにする。いずれにしても、((複合)イメージの)(限定)想起という言葉は通常、後者を指すことにする。

強さを伴う複合イメージの想起

  前述のとおり、心的現象として現れるものは、明るさ、距離、音量、鮮明さ、強さ…などの量を属性としてもつ。そのような量を現れるものの「強さ」、「現れる強さ」と呼べる。個々のイメージも強さをもつ。また、複合イメージもそれを構成する個々のイメージの強さの平均として強さをもつ。そのような強さは現れるものの素材の興奮伝達の密度などの属性から基本的に生じると前提される。
  だが、現れる強さの一部は想起の不可避的な属性から生じると前提される。例えば、イメージは次第にはっきりと表れ、ピークに達し、次第に消えていく。そのような強さの変化は、単に素材の属性から生じるものではない。素材の属性による強さと想起の属性による強さを合わせて想起の強さと呼び、そのような強さを伴う想起を((複合)イメージの(素材の))強さを伴う(限定)想起、(複合)イメージ(の素材)が(限定されて)強くまたは弱く想起されること…などと呼べる。結局、イメージの想起とは個体の神経系におけるいくつかの種類の強さを伴う複合イメージの素材の限定想起である。それをこれらの著作ではイメージの想起、イメージが想起されること…などの簡単な言葉で指すことにする。

知覚

  ある種類の感覚といくつかの種類の記憶の中で、感覚の素材が感覚され、感覚されたばかりの素材のいくつかの部分がもついくつかの属性が認識され、同類性と時間的近さに基づいていくつかの複合イメージの素材がその部分と空間的時間的に近くで想起されることが知覚である。例えば、視覚の素材が感覚され、感覚されたばかりの素材の特定の人の部分がもつ属性が認識され、過去のその人の顔の視覚的個々のイメージの素材やその人の名前や話し言葉の聴覚的個々のイメージの素材から構成される複合イメージの素材や一般の人間の複合イメージの素材がその部分と空間的時間的に近くで想起されることが、その人の知覚である。それによって、その人がその人として認識されるとともに人間の一人として認識され、さらに、その人の顔の微妙な変化、例えば加齢が認識される。

連想

  前述の知覚の中で想起されたばかりの複合イメージの素材のいくつかの部分がもついくつかの属性が認識され、同類性に基づくとともに時間的近さに基づいて他のいくつかの複合イメージの素材が想起され、それらの想起されたばかりの複合イメージの素材のいくつかの部分がもついくつかの属性が認識され…と続く。それが連想である。
  連想の中で想起される一連の複合イメージは時間的に引き延ばされた一つの巨大な複合イメージと見なすことができる。そのようなものも複合イメージに含めることができる。また、連想も時間的に間延びした想起と見なせる。この著作ではそのようなものも想起に含めることができる。
  一回目の想起でN個の複合イメージが想起され、それらのそれぞれが認識され二回目の想起でそれぞれがA個の生起を生じ、N×A個が生起したとしても、限定されてN個が想起される。さらに、二回目の想起でN個の想起されたばかりの複合イメージのすべてが認識されるわけではない。そのように連想において想起される複合イメージは限られる。例えば、知覚される学校や職場の建物がその中のいくつかの人間関係の想起を生じるが、それらの中の最も重要なものが認識され、それをどうにかする方法が想起される。

知覚と連想

  知覚と連想の関係として以下の(1)(2)(3)が可能である。

(1)新しい知覚から新しい連想が始まる。
(2)古い連想が新しい知覚によって中断され、その新しい知覚によって新しい連想が始まる。
(3)古い連想が新しい知覚によって変化し、変化した連想が始まる。

の三つが考えられる。
  (1)は朝に覚醒したときに生じるように見える。だが、夢を見ていて覚醒することが多いので、それは(3)である。例えば、夢から覚醒して寝室を知覚し、その夢の現実性を疑い始め、何故あんな夢を見たのか…などと思い始める。純粋な(1)はREM睡眠以外の深睡眠や完全な意識消失からいきなり覚醒したときに生じる。だが、そのような状態はまだ「昏迷」であるとしたほうがよいのかもしれない。(2)は予期せぬ出来事が生じた場合に多い。例えば、何も予定のなかった休日に、予期せぬ人の訪問を受け、その人にコーヒーやお茶を出すべきかと考え始めるときに生じる。(3)がわたしたちの日常生活である。
  以上のように、連想は無際限に広がるわけではない。覚醒しているまたは夢を見ている限り、なんらかの複合イメージが連続的に想起されるが、それらのすべてが明らかな連想として連続しているわけではない。

言語イメージ

  人間では、新生児期から老年期まで多数の話し言葉が聴覚され、書き言葉と記号が視覚され、多数の言語の複合イメージの素材が生成し記銘保持され想起される。そのような素材を「言語イメージの素材」、言語イメージと呼べる。
  多数の言語イメージの素材が生成するとともに、多数の言語以外のイメージの素材が生成し、それらの間の神経細胞路が活性される。そのようにして、ますます複雑なイメージの素材が生成し、ますます複雑な想起、知覚、連想…などが発達する。
  また、言語には文法というものがあり、その文法は既に人間の思考パターンを含んでいる。だから、言語の獲得によって、複雑な連想と思考が発達する。
  結局、言語の素材は感覚され生成し、一部が想起され、一部が話され書かれ伝達される。それらが「言葉」「言語」というものである。

観念

  地動説、進化論、自由権、民主制…などの複雑ないわゆる「観念」「思想」は巨大な複合イメージまたは連想で想起されるような複合イメージの連続である。また、それらは長い言語で伝達される。それらは感覚、知覚、記憶だけでは形成されない。それらの形成には個人の中ではそれらだけでなく『自我とそれらの傾向―自我をもつ動物の心理学』で説明される自我と思考が必要である。また、人間社会の中では言語、画像、動画…などによる伝達、討論…などが必要である。

複合イメージまたは観念の記銘保持

  もし、複合イメージまたは観念が記銘保持されないなら、わたしたちは何度もゼロからそれらを感覚し知覚し記憶し思考し形成しなければならなくなる。だが、その必要はない。それらが想起、連想、思考された時点で、それらを構成する個々のイメージの素材を記銘保持する神経細胞群とそれらの間の神経細胞路は活性化されている。次回にそれらの発端部分が認識されとき、それらのほとんどすべてが想起または連想される可能性をもつ。それらの活性化自体が複合イメージまたは観念の素材の記銘保持と見なせる。

忘却

  後天的に活性化される神経細胞群の活性は放置されると減少する。複合イメージの素材を構成する個々のイメージの素材を記銘保持する神経細胞群の活性とそれらの間の神経細胞路の活性も放置されると減少し、イメージの素材が想起される可能性はなくなる。そのことを(複合)イメージ(の素材)の「忘却」、(複合)イメージ(の素材)が忘却されること、ものが忘却されることと呼べる。

記憶喪失

  なんらかの原因によって、動物の個体の中で、すべての複合イメージの素材が想起される可能性がなくなることを「記憶喪失」、記憶が失われること、完全な忘却、すべてを忘れることと呼べる。
  記憶をもつ動物だけが記憶喪失する。記憶をもたない動物は喪失のしようがない。動物が生きている限り、記憶喪失は稀である。例外は脳死、植物状態…などだろうか。だが、脳死、植物状態は死と考えられる。動物が死ねば、明らかに記憶喪失が生じる。

記憶の更新

  ある複合イメージの素材が生成し記銘保持された後に、それを生じた感覚の素材またはその複合イメージの素材そのものまたはそれと類似する複合イメージの素材が感覚または想起され認識されると、活性が低下しつつあるそれを構成する個々のイメージの素材を記銘保持する神経細胞群とそれらの間の神経細胞路が再び活性化される。そのことを複合イメージの(素材の)「更新」、それが更新されること、その記憶の更新…などと呼べる。
  前述のとおり、すべての複合イメージは、忘却されつつあるが、頻回に更新されるなら、その活性は維持され、忘却されない。簡単に言って、何度も見て聞いて感じて考えたことは忘れられない。更新は記憶の重要な部分である。更新がなければ複合イメージは忘却されるだけで記憶はないに等しい。そこで、記憶の更新を記憶に含めるだけでなく、更新を強調する必要があるときは、記憶を「記憶と更新」と呼ぶことにする。

感覚を変える随意運動

  視覚においては、眼球を動かし、頭部を動かし、近づいて、物が大きく鮮明に見えるようにすることができる。聴覚について、人間は他のいくつかの動物と違って耳介を動かすことはできないが、頭部を動かし、近づいて物が大きくはっきりと聞こえるようにすることはできる。嗅覚についても同様である。平衡感覚については、体の運動と姿勢を変えることで、めまい感、ふらつきなどを軽減することができる。味覚については、食物を口に入れなければ味は生じず、よく咀嚼することで味を強く明瞭にすることができる。体性感覚については、感触を知りたければ触ってみればよく、熱すぎたり棘があれば手を離せばよい。自律感覚については、体性感覚ほど明瞭ではないが、動悸、息切れが激しければ休まなければならず、腹が減れば食べなければならず、喉が渇けば飲まなければならない。それらの眼球を動かす、頭部を動かす、近づく…などの随意運動を「感覚を変える」随意運動と呼べる。
  感覚を変える随意運動によって強く鮮明に感覚されない素材の部分が認識され個々のイメージまたは複合イメージとして生成し記銘保持されるまたは更新される可能性はほとんどない。例えば、眼球運動も頭部の運動もなく、視野の周辺で曖昧にしか感覚されないものがそうされることはほとんどない。
  また、感覚を変える随意運動によって強く鮮明に感覚されない素材の部分が複合イメージを重ね合わされる、つまり、知覚されることはほとんどない。
  感覚を変える随意運動によって強く鮮明に感覚されたばかりの素材の部分が認識され個々のイメージまたは複合イメージとして生成し記銘保持されるまたは更新される可能性はより大きい。

注意

  だが、それらの可能性は以下の場合、もっと大きくなる。『自我とそれらの傾向―自我をもつ動物の心理学』で説明されるとおり、自我は想起されているイメージを近づける、加工する、結合する、分解する…など操作することができる。想起され自我によって操作された複合イメージの素材が記銘保持されるまたは更新される可能性はかなり大きい。何故なら、イメージは曖昧で儚ないが、自我はそれを操作することによってある程度固定するからである。
  複合イメージの生成の時点で自我がそれらを操作しなくても、しばらくしてそれらが想起され自我がそれらを操作すると、それらはより確実に記銘保持される。例えば、初めて人と会った後で、あの人は何者なんだろう、何故、あんな振る舞いをしたのだろう…などと何度もその人のことを考えるとその人のことをなかなか忘れられない。
  そのように自我がある複合イメージの素材を操作することを自我によるその素材への「注意」、自我がその素材に注意することと呼べる。結局、よく注意したものはなかなか忘れられない。

他の記憶類似の機能

  これまで説明してきた記憶の他に、残像、感覚的記憶、即時的記憶、短期~長期記憶というそれに類似するものが認められる。それらを以下の節で説明する。

残像

  神経細胞群の興奮伝達を構成する一個の神経細胞の一回の超短時間の興奮伝達はミリセカンド(一秒の千分の一)単位の時間、持続する。それに対して、すべての再現素材は刻一刻と変化する。例えば、前述の感覚を変える随意運動で追跡しても、視覚の再現素材に含まれる走る動物の四肢の空間的構成がそうである。そのように、再現素材が変化または消滅した後も、神経素材は少なくともミリセカンド単位の時間の間、同じ状態で持続する。その結果、少なくともミリセカンド単位の時間の間、いわゆる「残像」のようなものが生じる。
  重要なことだが、残像によって時間的変化が軌跡のようにして現在に現れているのである。

感覚的記憶

  感覚されたばかりの神経素材が認識、切り取り…などによって処理されるとともに、そのいくつかがゼロコンマ数秒から数秒、処理されることなくそのまま残ることがある。それを「感覚的記憶」と呼べる。例えば、聴覚で、注意して聞いていなかった他人の短い話し言葉が、ゼロコンマ数秒後に注意されることがあるが、それが聴覚的感覚的記憶の例である。ただし、短い言葉だけがそのように注意され、長い言葉は注意されない。また、しばらく沈黙があったときに、そのように注意され。立て続けに話されたときは注意されない。
  感覚的記憶は長めの残像的記憶か特有の神経細胞群の長めの興奮伝達かによって生じると推測される。
  感覚的記憶も時間的変化が現在に現れるのに役立つ。
  感覚的記憶が長引いたとき、過去の出来事をそのまま保持するのに役立つように見えるが、それらは儚く一時的であり、それには無理がある。感覚的記憶は前述の例のように注意不足を補う役割を果たしている。

過去の出来事の想起

  過去の出来事をいくつかだけでも映画のように保持していたのでは、地球上の動物の中でその数が最多の人間の神経細胞といえども足りなくなる。過去の出来事の想起は共通の複合イメージを共有する。例えば、よく出来事に登場する両親や配偶者や子供や友人は共有される。ときに出来事が十年前に起こったのに、登場するそれらの人々の何人かが現在の年齢で、当時より十歳歳をとっているというようなことはあるだろうが、それに大きな支障はないだろう。
  いずれにしても、過去のことだけでなく現在のことや、未来のことが心に浮かぶ。これらの著作ではそれらも想起に含まれる。わたしたちが期待や不安を抱くのは、過去のことより、現在や未来のことについてである。私たちが考えていることのほとんどは、現在と未来にどうするかである。

即時的記憶

  生成した個々のイメージが、記銘保持されるとともに、即時的に想起され、数秒以下の時間の間、想起され、消滅する。そのことを「即時的記憶」、即時的イメージの想起、即時的想起、イメージが即時的に想起されることと呼べ、そのようなイメージを即時的イメージと呼べる。
  前述の残像的記憶と感覚的記憶とともに即時的記憶によって、時間的変化が現在に現れている。簡単に言って、現在に残っている過去のものと現在を比較することによって変化が分かるのである。
  前述の基本的な記憶が、生成→記銘→保持→生起→想起を経て生じるのに対して、即時的記憶が同じ神経細胞群から生じることもありえ、記銘保持を経ない、生成→生起→想起の神経細胞群から生じることもありえる。

短期~長期記憶

  複合イメージの生成、記銘、保持の後に、複合イメージが注意されなければ、複合イメージを構成する個々のイメージを記銘保持する単位的神経細胞群の活性とそれらの間の神経細胞路の活性はすぐに、恐らく数秒で低下し消滅する。数秒の時間のうちに注意されて、それらの活性が維持され、イメージの素材は数秒の時間を超えて想起される可能性をもつ。そのことを短期記憶とも呼ぶことにする。もちろん、短期記憶は記憶に含まれる。
  もっとも、難しいことを考える必要はない。知覚されたものまたはイメージとして想起されたものを考え直すとき、既に短期記憶が成り立っている。例えば、興味をもった人のことをわたしたちは数時間は忘れることがない。それに対して、よほど美しいまたは奇妙でない限り、通勤または通学中にすれ違う人の顔をわたしたちはいちいち覚えていない。
  だが、それ以上の注意がなければそれらは数日で忘れ去られる。ものが数日以上、保持されるためには、それらのものが数時間または数日ごとに繰り返し注意される必要がある。それを長期記憶と呼べる。長期記憶も当然、記憶に含まれる。だが、ここでも私たちは難しく考えることはない。日常生活においては、忘れてはならないような重要なものは、何度も見て聞き考え注意せざるをえないからである。

イメージの素材=イメージ

  繰り返すが、「複合イメージの素材」という言葉を逐次、用いていると文章が煩雑になるので、イメージの素材またはイメージをイメージとも呼ぶことにする。

感覚と記憶の個体発生

  人間において、分娩時に視覚と聴覚を除く感覚は十分に発達している。生後6か月で視覚と聴覚も十分に発達する。
  胎生末期に複合イメージが生成し始め、分娩後には着実に生成していく。これまでに説明してきた記憶が十分に発達するのは三歳前後である。また、言葉を聞き話す能力は三歳前後にほぼ発達する。だから、わたしたちは三歳以前のことを覚えていないのである。それ以降は、記憶は徐々に発達し、複合イメージの素材が生成と忘却と更新を繰り返しつつ徐々に増加する。記憶そのものと複合イメージの量は15歳前後でピークに達し、それ以降、徐々に低下する。

感覚と記憶の系統発生

  これらの著作では定義からして動物は感覚をもつ。概して、地球上の動物の中で陸生の脊椎動物亜門といくつかの陸生の節足動物が最も複雑な感覚をもつ。何故なら、水中では聴覚と嗅覚があまり進化しえないからである。また、一部の哺乳綱が最も複雑な感覚をもつ。何故なら、それらは最も大きな大脳と感覚器をもつからである。人間が最も複雑な感覚をもつとは言えない。少なくとも人間の嗅覚は退化している。人間の感覚の中では、視覚と聴覚は比較的複雑であり、嗅覚は比較的単純である。脊椎動物亜門では体性感覚と自律感覚の区別は比較的明瞭だが、それら以外の動物ではそれらの区別は曖昧である。いずれにしても、感触、痛さ、暑さ寒さ、臭い、味…など、なんらかの感覚で現れるものを生じると前提される機能を感覚と呼べる。例えば、クラゲやイソギンチャクにおいて何かが感覚で現れているなら、それを生じる機能は感覚である、そうでないならそれは単なる刺激に対する反応である。
  以上のように感覚を定義する。同様に、以下のように記憶を定義する。イメージで現れるものを生じると前提される神経機能、つまり、イメージの想起と想起と感覚の間にある機能を記憶と呼ぶことにする。だから、動物においてイメージの想起が生じえないのなら、その動物が記憶をもつと言うことはできない。
  少なくとも脊椎動物が記憶をもつ。人間が最も複雑で豊富な記憶をもち、哺乳綱の一部が比較的複雑で豊富な記憶をもつ。
  記憶をもつ動物はすべて、感覚をもつ。何故なら、感覚されたばかりの素材のいくつかの部分がもついくつかの属性が認識され、それらの部分が切り取られて初めて、個々のイメージの素材として生成するからである。感覚と記憶をもつ動物は感覚をもち記憶をもたない動物から進化する。知覚、連想、感情、欲求、自我、思考…などはイメージの想起を含む。だから、それらをもつ動物は感覚と記憶をもつ。それらのイメージの想起を含む機能をもつ動物は感覚と記憶をもちそれらをもたない動物から進化する。
  そこで、感覚または感覚と感覚がなければありえない機能を「感覚以上」と呼べる。また、感覚と記憶または感覚と記憶とそれらがなければありえない機能を「記憶以上」と呼べる。
  感覚→記憶と同様の関係が、精神的情動→自我→思考…などについて、成り立つ。例えば、自我をもつ動物は感覚、記憶、精神的情動をもつ。自我をもつ動物はそれらをもち自我をもたない動物から進化する。
  人間は地球上で現在までに最も複雑な記憶以上をもつ。さらに、地球上で今後、人間より複雑な記憶以上をもつ動物が人間または他の動物から進化する可能性がある。そもそも、人間も進化する可能性をもつ。

参考文献

自我とそれらの傾向
―自我をもつ動物の心理学(日本語訳)

悪循環に陥る傾向への直面
―習性をもつ動物の心理学(日本語訳)

特定のものと一般のもの(日本語訳)

生存と自由(日本語訳)


[訳注:この日本語訳に関するお問い合わせはNPO法人わたしたちの生存ネットまでお寄せください。]
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