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悪循環に陥る傾向への直面
―習性をもつ動物の心理学(日本語訳)

自我の傾向の形成と減退

『感覚とイメージの想起―記憶をもつ動物の心理学』と『自我と自我の傾向―自我をもつ動物の心理学』の復習

  この著作の基礎には『感覚とイメージの想起―記憶をもつ動物の心理学』と『自我と自我の傾向―自我をもつ動物の心理学』がある。だから、できればそれらを読んだ後でこの著作をお読みいただきたい。だが、筆者らはそれらの著作が読まれなくても、この著作が読めるように努力する。『自我と自我の傾向―自我をもつ動物の心理学』は自我の傾向の基本と理論を説明している。この著作はそれらの応用と実践を説明する。以下に『感覚とイメージの想起―記憶をもつ動物の心理学』と『自我と自我の傾向―自我をもつ動物の心理学』をごく簡単にまとめる。
  心的現象として現れるものは感覚で現れるものとイメージとして現れるものまたはイメージに大別される。簡単に言って、心に思い浮かぶものがイメージである。厳密にはイメージとイメージの素材は区別されるが、この著作ではそれらを区別しないことにする。
  簡単に言って、ものが思い浮かぶこと、ものが思い出されること、ものが予期されること…などがイメージの想起、イメージが想起されること、ものがイメージとして想起されることである。想起というと過去のことが思い出されることが思い浮かぶかもしれないが、現在のことが思い浮かぶこと、未来のことが予期されること、非現実的なものが空想されることもイメージの想起に含むことにする。
  意識的機能は以下のように分類される。

意識的機能
  (1)随意運動
    (1-1)単位的随意運動
      関節の屈伸、眼球の運動、舌の運動、声帯の運動緊張弛緩…など
    (1-2)複合随意運動
      単位的随意運動から構成される。
      直立二足歩行、直立二足で走る、クロール、バタフライ…などで泳ぐ…など
  (2)純粋心的意識的機能
    (2-1)イメージ操作
      イメージの結合、分解、切り替え、回避…など
    (2-2)思考
      連想と自我によるイメージ操作とより小さな思考と自我から構成される。
      狭義の思考、追想、予想、空想
  (3)総合機能
    随意運動と知覚と連想と純粋心的意識的機能から構成される。
    言葉を話す、書く、機械を運転する、対人機能…など

  簡単に言って、自我は状況の中で意識的機能を直接的に生じる。自我は状況と意識的機能の間に介在する。状況は入力であり、意識的機能は出力であり、自我はブラックボックスである。
  他人の意識的機能だけだなく自己のそれらが感覚されイメージとし生成し更新され記銘し保持される。そのようなイメージのうち次のIFとIEの興奮と伝達を生じえるものを「機能イメージ(の素材)」と呼べる。
  機能イメージの素材が通る神経細胞路から意識的機能の発端となる神経細胞群(機能的神経細胞群(FF))に向けて神経細胞路が存在する。そのような神経細胞路を「イメージ機能神経細胞群」(IF)と呼べる。状況が認識され、それによって機能イメージが想起され、それによってイメージ機能神経細胞路(IF)が興奮伝達し、それによって機能的神経細胞群(FF)が興奮し伝達する可能性をもち、意識的機能が生じる可能性をもつ。それらの状況の認識、機能イメージの想起、機能イメージの素材、イメージ機能神経細胞路の興奮伝達を「理性系」(RS)と呼べる。だが、理性系だけでは自我の全体は生じず意識的機能は生じない。
  想起される機能イメージが通る神経細胞路から快不快の自律感覚に向けての神経細胞路が存在する。そのような神経細胞路を「イメージ情動神経細胞路」(IE)と呼べる。機能イメージが想起されるとき、イメージ情動神経細胞路(IE)が興奮伝達し、快不快の自律感覚が生じ、機能的衝動が生じ、それらが前述のイメージ機能神経細胞路(IF)または機能的神経細胞群(FF)の興奮と伝達を促進して、それらが興奮伝達し、意識的機能が生じる。それらのイメージ情動神経細胞路の興奮伝達、快の自律感覚、機能的衝動、それらによるイメージ機能神経細胞路または機能的神経細胞群の促進を「情動系」と呼べる。
  自我は理性系と情動系から構成される。意識的機能は理性系と情動系の両方から生じる。比喩的に言って、理性系が状況の中で可能で合理的な意識的機能を機能イメージとして提案し、情動系がどの意識的機能を採用し実行するかを自律感覚に問い合わせそれが快の自律感覚か不快の自律感覚かをもって決定する。理性系は可能性と合理性がほぼ等しければ、複数の、実際は多数の意識的機能を機能イメージとして提案する。それらの提案される意識的機能の中には人間社会の法や倫理にのっとったものもそれらに反するものもそれぞれの個人にとって独自のものも含まれる。そのいずれを選択し実行するかを決定するのが情動系である。だから、情動系のほうが決定的である。
  一個の意識的機能の機能イメージの素材とそれから生じる可能性をもつ理性系の部分と情動系の部分を一つの機能と見なせ。それを「被限定自我」と呼べる。通常、状況の中で多数の被限定自我が生起し、共通の行程を通る。その行程の中には被限定自我が競合する部分がある。被限定自我は譲り合わない。何故なら、被限定自我の正体は神経細胞群または神経細胞路の興奮伝達だからである。その部分の中で競合しつつ生じる傾向が最も大きい限定自我が他を立ち消えさせて生じ、その機能イメージが指した意識的機能を生じる。それらの被限定自我の集合と競合する部分を含む被限定自我が通る共通の行程を「限定自我」と呼べる。限定自我の中で一時に、複数の、実際は多数の被限定自我が生起し、それらの被限定自我のうち、競合しつつ生じる傾向が最も強い限られた数(N)の被限定自我が生じる。そのような傾向を「被限定自我の(生じる)傾向」と呼べる。
  その限られた数、つまり、一時に生じる被限定自我の数については『自我と自我の傾向―自我をもつ動物の心理学』で詳しく説明された。そこで説明された慣性自我が問題になるなら、Nは複数でありえる。だが、この著作で説明される被限定自我は慣性的なものではありえない。この著作は慣性自我を自我と認めない。だから、この著作ではNは1である。つまり、一時に、多数の被限定自我が生起するが、生じる傾向が最も大きいただ一つの自我が生じる。このことは「一時に一つのことしか考えられない」というわたしたちの日常的感覚と一致するだろう。
  ただし時間的に、ゼロコンマ数秒から数秒の間の時間のうちに、多数の被限定自我が生じて消え、入れ替わり立ち代わる。このことも、「考えは移ろいやすい」というわたしたちの日常的感覚と一致するだろう。
  そのように限定自我の中に被限定自我があり、それらは区別される。だが、逐次、それらを区別し、「限定」「被限定」…などの言葉を使っていると文章が煩雑になる。だから、文脈からどちらを指すかが明らかなときは、それらを区別せず、それらの言葉を省略し、「自我」「自我の傾向」…などの言葉を用いることにする。
  そのような(被限定)自我の傾向を決定づけるのは以下のものである。乳幼児期から現在に至る時間の中で、意識的機能が生じてそれが快の情動を生じまたは不快の情動、つまり、苦痛を減退させ、快の自律感覚を生じたとき、その意識的機能の機能イメージからその快不快の自律感覚に至るイメージ情動神経細胞路が活性化される。それらが繰り返されたとき、その活性が大きくなるまたは維持される。現在に状況が認識されその意識的機能の機能イメージが想起されたとき、それらの活性化されたイメージ情動神経細胞路が興奮伝達しそれらの快の自律感覚を生じ、強い機能的衝動を生じ、それらの機能イメージを含む被限定自我の全体が生じ、それが指す意識的機能が生じる。つまり、被限定自我の傾向を決定づけるのはどのイメージ情動神経細胞路がどの程度活性化されるかである。簡単に言って、過去に快を生じた意識的機能を生じようとする被限定自我の傾向が大きくなり、そのような被限定自我と意識的機能がしばしば生じる。だが、大人にとってはその説明では不可解な意識的機能が残る。何故、長期的に見れば苦痛を生じる自暴自棄や破壊や粘着などの意識的機能を自我は生じるのか。それは自我の傾向は乳幼児期から形成されてきたのであり、乳幼児にはそれなりの幼い自我があり、それらの意識的機能が乳幼児にとって快を生じたからであり、そのような乳幼児期に形成された自我の傾向は執拗でありなかなか減退しないからである。
  意識的機能と被限定自我は自暴自棄、破壊、粘着…などの群に分類される。そのような群の一つに属する意識的機能の機能イメージの素材は同一または同類のイメージ情動神経細胞路の興奮伝達を生じ、同一または同類の快の自律感覚を生じる。だから、そのような群の一つに属する被限定自我の傾向はともに形成される。それらの傾向がともに形成されるような被限定自我の群を被限定自我の「概略」と呼べる。被限定自我の傾向は概略を単位として形成される。また、ある概略に属する被限定自我から生じる意識的機能の群を意識的機能の概略と呼べる。
  日常でも心理学でも人間の意識的機能は概略を単位として論じられることが多い。例えば、あの人は粘着的だ、破壊的だなど。これらの著作でも意識的機能と被限定自我とそれらの傾向を概略を単位として論じることが多い。だから、日常でも心理学でもこれらの著作でも概略という言葉は省略されることが多い。例えば、なんでも破壊するという自我の概略の自我の傾向という言葉は何でも破壊する自我の傾向と書き換えられる。
  ところで、概略を単位として形成されるのは被限定自我の傾向であって、意識的機能の能力ではない。意識的機能の能力は被限定自我の傾向とは別の群を単位として形成される。例えば、何でも支配し破壊しようとする傾向が強い人でも、対人関係における「家ではライオン、外ではネズミ」になる能力は発達するものである。
  (被限定)自我の(概略の)傾向が大きくなることをそれらの形成、それらが形成されることと呼べ、小さくなることをそれらの減退、それらが減退することと呼べる。「減退」と言うと悪いイメージがあるかもしれないが、例えば、粘着的傾向や破壊的傾向が減退すれば長期的な苦痛が少なくなる。他方、それらの傾向が形成されれば、苦痛が強くなる。一般に、自暴自棄、破壊、粘着のような被限定自我の(概略の)傾向は乳児期幼児期前半または幼児期後半前思春期または思春期に形成され、それ以降は減退する。だから、それらにおいては同種同年齢における標準偏差値とその増減が問題になる。だから、それらの標準偏差値も被限定自我の概略の傾向として取り扱い、それらの増減も形成、減退として取り扱うことにする。また、そのような被限定自我の概略の傾向またはそれらの標準偏差値の行列を「限定自我の傾向」またはその習性と呼べ、それらの要素が変化することをその傾向の形成または再形成と呼べる。例えば、ある限定自我の傾向は、(自棄的傾向、破壊的傾向、粘着的傾向)=(62, 56, 64)と記述される。
  そのように被限定自我の傾向と限定自我の傾向は区別される。だが、文脈からどちらを指すかが明らかなときは、それらを自我の傾向と呼べる。また、「被限定自我の概略の」という修飾語を使わなくても通常、傾向という言葉は被限定自我の概略の傾向を指し、「意識的機能の」という修飾語を使わなくても通常、能力という言葉は意識的機能の能力を指すことにする。

人間性と人格

  いわゆる人格は知性、知識、精神的情動の傾向、意識的機能の能力、自我の傾向から構成される。それらのうち最も重要なのは自我の傾向である。次に重要なのは意識的機能の能力または精神的情動の傾向である。例えば、対人不安や対人機能能力も重要だが、対人回避的な被限定自我の傾向が形成されると、対人機能が滅多に生じず、対人機能能力はますます未熟にとどまり、対人不安は強くなる。
  人間にとって重要なのは知性、知識、思考の産物、つまり、思想または観念、意識的機能の能力、欲求の傾向と対象であったはずであり、それらがいわゆる人間性を構成する。特に啓蒙運動以来、それらが重視され、それらが多様な現代の文化を形成してきた。これらの著作はそれらが人間にとって重要であることを決して否定しない。だが、自我の傾向はそれらの形成を偏向させる。例えば、何でも支配するまたは破壊する自我の傾向が強い人では、支配的または破壊的で好戦的な思想や欲求が形成される。そのように、自我の傾向は人格だけでなく人間性も決定づける。

同様の能力と傾向がまとめて形成される時期

  人間には以下のような同様の(意識的機能の)能力と(被限定自我の概略の)傾向がまとめて形成される時期がある。ここでは主としてその時期にその能力が形成される意識的機能を挙げる。被限定自我の概略は後で挙げる。

(0-3期)乳児期幼児期前半 = 乳幼児期
  この期間の間、多数のイメージが生成し想起されるが、その期間の出来事が後に想起されない。平均的には胎生末期から三歳まで。以下に区別される。
(-0期)胎生末期
  母親の胎内で保護隔離されているので、イメージはほとんど生成しない。体性感覚と自律感覚のいくつかの部分は機能している。
(0-1期)乳児期
  母乳にせよ人工乳にせよ授乳を必要とし、離乳食は摂取しても授乳が生存のために不可欠である。
  泣く⇒笑う⇒目を動かす⇒顔を動かす⇒寝返り⇒頭がすわる⇒ハイハイ⇒つかまり立ち⇒直立二足で歩き始める⇒話し言葉のうち単語を話し始める。
  平均的に分娩から一歳まで。だが、あくまでも平均的にである。歩かない、話さないからといって、必ずしも障害を意味しない。
(1-3期)幼児期前半
  授乳がなくても生存できる。
  直立二足で歩く⇒話せる単語が増加する⇒文章を話しかける。
  平均的には一歳から三歳まで。
(3-10期)幼児期後半前思春期
  その期間の出来事がその後に想起され、性的機能の飛躍的な発達がまだ始まっていない。
  以下に区別される。
(3-6期)幼児期後半
  この時期に『生存と自由』で定義された自己のイメージが生成し想起されるようになる。家庭から独立した人間関係の中にまだ入っていない。
  走る。文章を話す。書き言葉を書きかける。母親や兄弟…などの導入の下にまたは保育園・幼稚園の中で友達を作る。
  平均的には三歳から六歳まで。
(6-10期)前思春期
  家庭から独立した人間関係の中にある。
  やや複雑な運動、書き言葉を書く。勉強する。独力で友達を作る。性的機能が成熟していないのに彼または彼女を作る。
  平均的には六歳から十歳まで。
(10-15期)思春期
  性的機能の飛躍的な発達が始まってから終わる(性的機能が成熟する)まで。
  やや複雑な対人機能、やや複雑な勉強と遊び、基本的な仕事。
『自我と自我の傾向―自我をもつ動物の心理学』で説明された自我が成熟する。
  平均的には10歳から15歳まで。それはあくまでも平均的なものであり、性差、個体差が大きい。
(15-期)後思春期
  性的機能の飛躍的な発達が終了してからの時間。つまり、後思春期という言葉は思春期を含まないことにする。それに対して、思春期とその後を「思春期とそれ以降」とも呼ぶことにする。また、思春期とその前を「思春期とそれ以前」とも呼ぶことにする。

乳幼児的、前思春期的、思春期的機能

[0-3]乳幼児的機能
  人間において平均的に、能力または傾向が主として乳児期幼児期前半(0-3期)に形成される機能を「乳幼児的」機能と呼べる。
  乳幼児的機能の能力または傾向はそれ以降の形成、減退、再形成が最も困難な機能である。
  乳幼児的意識的機能は、直立二足で歩くこと、言葉を話すこと、つまり、人間にとって最も基本的な意識的機能を含む。この時期にそれらの能力が形成されなければ、形成することは困難である。
  乳幼児的被限定自我の概略は後述する粘着、自己顕示、何でも支配すること、何でも破壊すること、複合イメージ破壊、孤立…などを含む。
  乳幼児的精神的情動は対人不安を含む。その傾向は特にこの時期に形成される。
[3-10]前思春期的機能
  人間において平均的に、その能力または傾向の大部分が幼児期後半前思春期に形成される機能を「前思春期的」機能と呼べる。
  前思春期的機能の能力または傾向は形成、減退、再形成することが後述より困難だが、前述より容易な傾向である。前思春期的意識的機能は言葉を読み書く、基本的な対人機能を含む。
  さらに、この時期に自己のイメージが生成する。前思春期的イメージの想起は自己と世界の間の隙間、自己肥大化…などを含む。
[10-15]思春期的機能
  人間において平均的に、その能力または傾向の大部分が思春期に形成される機能を「思春期的」機能と呼べる。
  思春期的機能の能力または傾向は形成、減退、再形成することが後述より困難だが、前述と比較すると容易な機能である。思春期的意識的機能はより複雑な対人機能を含む。
  思春期的被限定自我の概略は後述する陥る傾向の回避と取り繕いを含む。
[15-]後思春期的機能
  人間において平均的に、その能力または傾向が主として思春期以降に形成される機能を「後思春期的」機能とも呼べる。後思春期的機能の能力、傾向は形成、減退、再形成することが困難だが、前と比較すると容易な傾向である。後思春期的意識的機能は、お世辞を言う、冗談を言う、様子を見る…などの最も複雑だが表面的な対人機能を含む。
[0-]普遍的機能
  人間において平均的に、その能力または傾向が生涯に渡って形成されるまたは動揺する機能を「普遍的機能」と呼べ、その能力または傾向を「普遍的能力または傾向」と呼べる。
  普遍的被限定自我の概略は直面、回避、待機を含む。
  また、普遍的精神的情動は対人不安を含む。前述のとおり、その傾向は主として乳幼児期に形成されるが、どのような時期にもある程度、形成されえる。

子供の世話

  特に乳児期幼児期前半の子供の生存と成長に不可欠な年長者の子供に対する機能をそれらによるその「世話」と呼ぶことにする。それは授乳、おむつ替え、だっこ、入浴、遊ばせる、離乳食を与えるを含む。

母親

  乳児期幼児期前半の子供の世話を主導するべき立場にある人間をその「母親」と呼べる。あくまでもそのような立場にある人間をそう呼ぶのであって、母親は必ずしも適切な世話をしているわけではない。また、母親は必ずしも愛情をもって世話をしているわけではない。
  通常、母親は実母だが、実父、義母、義父、祖父母、兄姉、職業人…などでありえる。また、母親は必ずしも一人ではない。例えば、実父が失業中で実母が就労中の場合、二人ともが母親であることはありえる。また、実母が2歳で亡くなり祖母がそれ以降育てた場合、二人ともが母親であることはありえる。だから、これらの著作では一人の子供についても母親の複数形が使われることが多い。だが、ほとんどの母親が実母であることに変わりはない。それは理想的な理由によるのではなく現実的な理由による。

乳児期幼児期前半の子供の人間関係

  三歳までの子供の人間関係は母親と数人の人々に限られる。また、彼らに人間関係の選択の余地はない。そのような限られた人間関係において、彼らは生存と成長に必要な世話を獲得し、群れようとする欲動と対人欲求を満たし、孤独への不安を減じるしかない。

母親の愛情

  情動は『自我とそれらの傾向―自我をもつ動物の心理学』で詳しく説明された。快不快の感覚、欲動、感情、欲求、複合的情動を情動と呼べる。愛情は、性的欲動、群れようとする欲動、子供を守り育てようとする欲動、孤独への不安、対人欲求…などから構成される複合的情動の一種である。人間だけが愛情をもつのではなく、哺乳類の一部が愛情をもつ。人間は他の動物より複雑な愛情をもつ。
  愛情は対象によってかなり異なる。そもそも、母親の子供への愛、異性間の愛、特定の人間への愛、一般の人間への愛、真実への愛…などを同じ「愛」という言葉で論じるのが間違っている。この著作のこれ以降では愛という言葉は母親の子供への愛を指すことにする。
  母親の子供への愛情は妊娠に始まる内分泌系、神経系の変化の影響を受ける。だが、そのような変化がすべてではない。母親の子供への愛情の一部は出産後対面したときに初めて沸いてくるものである。そのような部分は、実母に限らず、乳児の世話を主としてするべき立場にあるすべての老若男女、つまり、すべての母親に生じえる。また、初めての出会い以降も乳幼児は成長し変化し母親を引きつける。そのような出会いと相互作用によって生じる愛情を母親の自然な愛情と呼べる。そのような自然な愛情が優位を占める複合的情動を母親の愛情と呼べる。
  そのような出会いと相互作用においては人間または動物の誕生と成長に対する驚きと好奇心があり、母親の愛情はそのような情動を含む。子供が母親にとって第二子、第三子…であっても、人間または動物の普遍性と個体差に対する驚きと好奇心がある。
  母親の愛には、成長すれば労働力になる、老後は面倒をみてくれる…などの利己的な欲求が混入する。そのような欲求は社会的制度の影響を大いに受ける。例えば、高齢者福祉の充実した国家においては子供に面倒を見てもらおうという母親は少ないだろう。また、労働者の人権擁護と子供の教育のための制度が整備されている国家においては、子供を働かせる母親は少ないだろう。いずれにしても、そのような利己的な欲求が優勢な情動を母親の愛情と呼ぶことはできない。だが、そのような欲求が愛情にある程度、混入することは避けられない。前述の自然な愛が優勢である限り、ある程度の混入は子供にとって無害である。子供も大人になればそのようなある程度の混入が不可避で無害であることが分かるだろう。
  また、母親の愛情には子供を健康に育てなければならないという義務感が伴う。そのような義務は慣習法と成文法にも基づく。そのような義務感が優勢な複合的情動を愛情と呼ぶことはできない。だが、ある程度の義務感は必要である。
  繰り返すが、前述の自然な愛情が優勢な複合的情動を母親の愛情と呼ぶことができる。だから、母親は愛情について難しく考える必要がない。極論になるが、愛情とは何かなどと考える人は愛情をもっていない。
  一般に他人の情動は把握され知覚され認識される。だが、その認識は必ずしも当たっていない。だが、心理学では間違った認識も他の機能に影響を与える心的機能である。
  3歳以前の子供においても母親の愛情が知覚され認識される。乳幼児においては生存と成長に不可欠な世話や他の人間関係より母親の愛情を知覚し認識しやすい。世話が生存と成長に必要などということを認識できるのは前思春期とそれ以降である。それに対して、母親に愛情があるかどうかは乳児でも認識できる。結局、乳幼児が最も把握し知覚し認識し最も求めているのは母親の愛情である。
  しかも、乳幼児が求めているのは、深い愛情でも、ありあまる愛情でもなく、前述の自然な愛情が優勢な普通の愛情である。例えば、過剰な身体の接触は乳幼児にとっても暑苦しく鬱陶しい。だから、母親は愛情とは何かとかどう愛情を表現するかとか考える必要がない。極論になるが、そういうことを考える母親は愛情をもっていない。

母親の愛情希薄

  母親において愛情が一時的に希薄になることはよくある。それに対して、持続的または反復的に母親の愛情が希薄であることを母親の愛情希薄と呼べる。例えば、母親が孤立し対人関係がほとんどないとき、子供を離さず、子供との関係で孤立感を癒そうとすることがある。そういうとき、孤立感を癒そうという自我と欲求が優勢になり愛情は希薄になる。つまり、そのように子供を手放さないことは見かけの愛である。また、母親の仕事への欲求、配偶者への欲求…など欲求が全般的に満たされなかったとき、子供への欲求を高めて満たそうとすることがある。そのような高められた子供への欲求は自然な愛ではなく、愛は希薄になる。さらに、それらの二つの例は後述する囲い込みに繋がることがある。
  乳児期幼児期前半に母親が愛情をもって子供の世話をするとき、乳幼児は母親の愛情に満足し、ときには愛情に辟易して、三歳頃から愛情以外のものを求めて母親から離れて機能し、少しずつ人間として独立していく。それに対して、母親の愛情が希薄なとき、乳幼児は愛情に満足できず、三歳以降も母親の愛情を求めるばかりで、独立できない。さらに、母親の愛情をいつまでも求め続けることによって、後述する粘着的傾向、自己顕示的傾向…などが形成される。
  また、乳児期の子供に母親が愛情をもって世話するとき、生後6か月頃から乳児は授乳などの世話が少し遅れても待機できるようになる。それに対して、母親の愛情が希薄なとき、乳児は待機できず短絡し自棄的となり、泣きわめき続ける。さらに、後述する短絡的自我の傾向、自棄的自我の傾向、破壊的自我の傾向…などが形成されることがある。
  母親の愛情希薄は後述する陥る傾向を形成する最強の外的状況である。
  虐待、放置…などは母親の愛情希薄より重大で、明確である。だが、前者に注意するあまり、後者が軽視されてはならない。いずれにしても、前者は後者を含む。虐待、放置…などを母親の愛情希薄に含めることにする。

囲い込み

  個人、特に母親が他人、特に子供を物質的身体的にも精神的にも独占し離さないことを個人による他人の「囲い込み」、個人が他人を囲い込むことと呼べる。
  母親において全般的に欲求不満が強いとき、子供に関する欲求が高め挙げられ、母親が子供を囲い込むことが多い。特に、母親が孤立し対人関係が狭いとき、母親は孤独を減退させるために子供を囲い込むことが多い。
  囲い込みは愛情希薄と同じではない。だが、愛以外の欲求と自我が優勢になり、結果として愛情希薄となる。
  囲い込みはいわゆる「過干渉」を含む。一見したところの愛情の過剰が囲い込みであることがある。
  母親の囲い込みは後述する子供の陥る傾向を形成する最強の外的状況の一つである。

模倣

  他人の意識的機能が知覚され自我がそれに興味をもちそれを生じようとする。それが模倣の過程である。自我がその意識的機能を繰り返し生じる。それが試行錯誤の過程である。それらが繰り返されるうちにその意識的機能の能力とそれを生じる自我の傾向が形成される。そのようにすべての意識的機能の能力と自我の傾向の形成には模倣が大なり小なり係わっている。だが、その形成には、模倣が優位であるものと試行錯誤が優位であるものがある。例えば、直立二足歩行、言葉を話す書くのような意識的機能の能力の形成においては試行錯誤が優勢である。これらの著作では、特に模倣が優勢な自我の概略の傾向の形成について「模倣」という言葉を用いることにする。
  特に思春期に、特に何でも破壊することは模倣され、何でも破壊する自我の傾向が形成される。例えば、残念ながら、破壊的集団で育てられた子は破壊的になることが多いと言わざるをえない。だが、自我の破壊的傾向は乳児期幼児期前半にも形成され、しかもほとんど模倣によらずに形成される。そのように乳児期幼児期前半に形成された破壊的傾向は、その後に自己に向かうことが多い。

直面と回避

直面と回避

  もの(O)が現在に苦痛(DEO)を生じ、
Oに係る意識的機能(F)も現在に苦痛(DEF)を生じ、
Fは未来に快楽を増大または維持しまたは苦痛を減少させる可能性をもち、
Oに係る別の意識的機能(E)はDEOを一時的に減じるとき、
自我がFを生じることを自我がOまたはFに直面することと呼べ、自我がEを生じることを自我がOまたはFを回避することと呼べる。また、Fの概略を直面(的意識的機能の概略)と呼べ、Eの概略を回避(的意識的樹機能の概略)と呼べる。また、直面を生じる自我の概略を直面(的被限定自我の概略)と呼べ、回避を生じる自我の概略を回避(的被限定自我の概略)と呼べる。
  また、待機も意識的機能または被限定自我の概略と見なせる。結局、苦痛に直接的に係る意識的機能または被限定自我の概略として、直面と回避と待機の三つがある。
  例えば、戦争に巻き込まれた人々が未来の身の安全のために現在に危険な逃走をすることは直面である。そのように逃走は、ときに直面であることがあり、回避と同一ではない。また、この場合はそれは逃走という意識的機能に対する直面である。
  また、後述するとおり、自我は苦痛を生じるイメージを切り替えることがある。それはイメージからの回避である。わたしたちは自己嫌悪、不安…などの苦痛を生じる自己のイメージのいくつかを切り替えて回避することがある。
  だが、わたしたちは日常で多くの場合、直面も回避もせず、待機している。そのような日常的な待機に対して、差し迫った状況で敢えて待機することは直面とも見なせる。例えば、母親に適度な愛情があると、乳児は生後6か月頃から軽度の口渇と空腹があっても泣きわめかずに待機できるようになる。それは、待機という意識的機能への直面と見なせ、独立への重要なステップである。
  それに対して、待機することができず、いつでも即座に直面または回避することは「短絡」と呼べる。短絡は回避と見なせることがある。この短絡は人間の遺伝子と個体と種の生存には適さないことが多い。例えば、わずかな敵意ですぐに喧嘩や戦争を始めていたのでは人間の個体も種も生存していない。だが、短絡して即座に逃走することはネズミ、リス…などのいくつかの小動物には適している。
  ともかく、人間を含む動物は、過労を防ぐために、いつも直面しているわけにはいかず、ときには回避、待機、休養…などする必要がある。これらの著作はわたしたちはいつでも何かに直面しなければならないと言うものでは全くない。何に直面する必要があるかを明らかにするものである。

イメージ直面とイメージ回避

  想起されるイメージが苦痛を生じることがある。それが『自我と自我の傾向―自我をもつ動物の心理学』で説明された不快の感情である。例えば、イメージとして想起される自己の未熟な対人機能能力は不安、自己嫌悪、恥辱…などの苦痛を生じる。
  『自我と自我の傾向―自我をもつ動物の心理学』で説明されたとおり、自我が想起されるいくつかのイメージを直接的に遠ざけるまたは消滅させることは困難または不可能である。そこで、自我は他のいくつかのイメージを近づけることによって、いくつかのイメージを間接的に遠ざける。それがイメージの切り替えである。想起されるイメージが強い苦痛を生じているとき、自我は苦痛を減退さえすればよく、それらをどうでもよいことに切り替えさえすればよい。簡単に言って、切り替え先はどうでもよい。そのようなときの、いくつかのイメージから他のいくつかのイメージへの切り替えを、自我による前者の回避、自我が前者を回避することと呼べる。例えば、自己の未熟な対人機能能力がイメージとして想起され不安、自己嫌悪…などが生じるとき、自我はそれらのイメージを回避し、知能、体力、外見…などの他の優れていると思われる能力や権力、地位、カネ…などの所有物のイメージに切り替えることがある。
  それに対して、苦痛を生じる想起されるイメージを自我が回避せず、それらを操作するまたはそれらについて思考を開始することを自我によるイメージ直面、自我がイメージに直面することと呼べる。
  自我がイメージに直面するとき、まず、イメージ直面が最も複雑な機能イメージとして想起される。それと同時に、未来の快楽の増大または維持または苦痛の減少がイメージとして想起され、『自我と自我の傾向―自我をもつ動物の心理学』で説明されたようにして、適度な動悸、スムースな呼吸などの快の自律感覚が生じる。例えば、対人機能能力を形成することによる未来の安心、賑わい…などがイメージとして想起される。だから、不安、自己嫌悪などの苦痛を生じるにも係らず、自我は自己の未熟な能力に直面するのである。
  イメージ直面またはイメージ回避は精神的直面または精神的回避という言葉でも表現できる。ときにそれらの言葉を用いることにする。

直面と回避の傾向

  直面と回避と待機は被限定自我の概略でもあり、傾向がある。例えば、頻繁に強く直面する人もいれば、頻繁に強く回避する人もいれば、頻繁に穏やかに待機する人もいる。
  だが、直面と回避の傾向と強さや頻度はあまり重要ではない。最も重要なのは、自我が何を回避してきたか、自我がこれから何に直面するかである。繰り返すが、これらの著作は自我は常にすべてに直面していなければならないというものでは全くない。

悪循環に陥る傾向

悪循環に陥る傾向

  以下の属性(1)(2)(3)をもつ意識的機能の概略の集合(A, B, C,…)を「(悪循環に陥る)(意識的)機能(の概略)」と呼べる。

(1) (A, B, C,…)のそれぞれは一時的に、自己の苦痛を軽減するまたは快楽を生じる。だが、(A, B, C,…)のそれぞれは強くまたは持続的または反復的に、つまり、長期的に自己と他人の苦痛、特に自己の精神的苦痛を生じる。
(2) (A, B, C,…)を生じる(被限定)自我の(概略の)傾向のほとんどは間接的に共に形成される。もう少し詳しく説明すると以下のとおり。自我が(A, B, C,…)のいくつか、つまり、A, Bを強くまたは持続的または反復的に生じることによって、まず、A, Bを生じる自我の傾向が形成される。A, Bが強くまたは持続的または反復的に生じることによって、自我はC, Dを強くまたは持続的または反復的に生じざるをえず、C, Dを生じる自我の傾向も形成される。かくして、(A, B, C,…)を生じる自我の傾向が間接的に共に形成される。特に自我が(A, B, C,…)に直面することを妨げることによって、(A, B, C…)を生じる傾向が減退せず形成される。
(3) (1)(2)が繰り返される。

つまり、悪循環である。だから、繰り返すが、(1)(2)(3)の属性をもつ意識的機能の概略の集合を「(悪循環に)陥る(意識的)機能(の概略)」と呼べる。また、それらを生じる被限定自我の概略を「(悪循環に)陥る(被限定)自我(の概略)」と呼べ、それらの傾向を「(悪循環に陥る)(被限定)自我の(概略の)傾向」と呼べる。また、悪循環に陥る意識的機能または被限定自我の概略を悪循環に陥る機能または陥る機能と呼べる。また、悪循環に陥る自我の傾向またはそれらの同種同年齢における標準偏差値の行列を「(悪循環に陥る)(被限定)自我の(概略の)傾向または習性」と呼べる。例えば、ある個人の陥る傾向(習性)は、

(短絡的傾向, 自棄的傾向, 破壊的傾向, 粘着的傾向, 自己顕示的傾向,...) = (67, 71, 58, 72, 62,...)

と表現できる。
  思春期以降の人間にとっては何故、そのような長期的な苦痛を生じる陥る傾向が形成されるか不可思議である。それは陥る傾向のほとんどが乳児期幼児期前半または幼児期後半前思春期または思春期に形成され、人間の新生児や乳児もそれらなりの幼い自我をもち、陥る機能がたとえ一時的にせよ苦痛を減退させたからである。
  人間の陥る傾向のほとんどは乳児期幼児期前半にピークに達しそれ以降、減退する。また、それらのいくつかは幼児期後半前思春期または思春期にピークに達しそれ以降は減退する。だから、

(A)陥る傾向の絶対値
(B)同種同年齢における陥る傾向の標準偏差値

が区別され、(B)が(A)より意義深い。だから、陥る傾向を(B)と再定義することができる。つまり、(B)を陥る傾向と呼べる。また、(B)の行列を陥る傾向または習性と呼べる。前述の例は既に(B)の行列になっていたのである。
  また、(A)ではなく(B)が増大または減少することを陥る傾向が形成されるまたは減退することと呼べる。すると、(A)が減少しても、(B)が増大するなら、それを陥る傾向が形成されることと表現される。ところで、「形成」というと良いイメージがあり「減退」というと悪いイメージがあるだろうが、長期的な苦痛は、陥る傾向が形成されることによって増大し、陥る傾向が減退することによって減退する。
  いくつかの陥る傾向が大きな個人においては他の陥る傾向も比較的大きい。さらに、そのような個人においては長期的な苦痛は大きい。だからこそ、陥る機能、陥る傾向なのである。だから、特に、大きな陥る傾向を陥る傾向とも呼べ、それらの行列を陥る傾向または習性とも呼べる。
  さらに、これまでに説明してきたような意識的機能の概略と被限定自我の概略と被限定自我の概略の傾向だけでなく、それらに大きく影響する心的機能またはそれらの能力または傾向も陥る機能または傾向と呼ぶことにする。例えば、後述する自己と世界の間の間隙の拡大は、意識的機能でも自我でもそれらの傾向でもなく、イメージの素材の欠落だが、陥る傾向に大きく影響するので、陥る機能に含まれる。だが、陥る機能の大部分が意識的機能の概略と被限定自我の概略であり陥る傾向の大部分が被限定自我の概略の傾向であることに変わりはない。端的に言って、陥る機能の責任は自我にある。
  陥る機能は以下を含み、以下がそれらの大部分を占める。

短絡

  自我が待機、迂回、思考…などすることができず、いつも即座に意識的機能を生じることを「短絡」と呼べる。その逆は待機、迂回、熟考…などである。
  短絡はいくつかの動物の種の遺伝子と個体と種が生存するのに適した機能である。例えば、ネズミ、リスなどの小動物は、肉食動物に襲われたときに即座に逃走しなければ生存することができない。
  また、ときに待機し迂回することは動物の遺伝子と個体と種が生存するのに適した機能である。例えば、小動物が逃げて隠れた後はしばらくじっとしている必要がある。また、いくつかの肉食動物は待ち伏せをする。
  動物において平均的に、新生児は短絡するが、それはそれらにとって生存に適した機能である。哺乳、保温…などは新生児にとって急を要するものだからである。その後、子供は次第に待機、迂回…などできるようになる。その変化と結果もそれらの生存に適している。
  人間においても、新生児は苦痛、飢え、渇きがあるとき泣き喚き短絡する。そうでなければ、ほとんどの母親は育児に失敗していただろう。だが、母親が愛情をもって乳児の世話をすると、乳児は乳児期の中頃(0.5歳頃)から授乳などの世話が少し遅れても待機できるようになり、短絡的傾向が減退する。また、それ以降も子供は短絡する必要性のなさと不利さと待機、迂回、思考…などすることの必要性と利点を体験し、短絡的傾向が減退し、待機、迂回、思考…などする傾向が形成される。
  それに対して、母親の愛情が希薄で世話が不十分なとき、乳児は待機できず短絡し泣きわめき続け、短絡的傾向、自棄的傾向、破壊的傾向が形成されることが多い。
  短絡的傾向が形成されると、自我が短絡である意識的機能または既に能力が形成された意識的機能、特に陥る意識的機能ばかりを生じる。だから、他の意識的機能の概略の能力と被限定自我の概略の傾向が形成されにくく、陥る傾向が減退しない。これも悪循環である。
  また、短絡的傾向が形成されると、自我はあまり思考しようとせず、思考能力があまり形成されない。すると、自我が稀に思考しようとしても、思考は表層的で貧弱であり、考えて行動してもよい結果をもたらさない。すると、自我は思考全般に見切りをつけ、短絡を美化し正当化さえする。すると、ますます思考能力が形成されず、短絡的傾向が形成される。これも悪循環である。
  だが、短絡がしばしばもたらす独創的な産物が偶然に傑作であり、子供が天才ともてはやされることがある。それがまた子供を悪循環に陥れる。
  この章で説明された短絡は注意欠陥多動性障害と明確に区別される必要がある。後者の主要な原因は神経系の機能的および器質的障害にあり、前者の主要な原因は乳児期幼児期前半の被限定自我の概略の傾向の形成過程にある。後者の治療法が確立していないのに対して、前者は自我が自己の陥る機能と傾向に直面すること、特に思考を放棄していることと自己の短絡を美化し正当化していることへ直面することによって改善する。

自棄

  母親の愛情が希薄で世話が遅れて待機できないとき、乳児は泣きわめき自棄的となる。人間の乳児を含めて多くの動物が自棄的となると自己も他の物も破壊しかねない。だから、自棄的傾向と破壊的傾向はともに形成されることが多い。
  また、乳児は自棄的となって破壊的になることによって母親たちの注意を引くことができる。特に人間を含む高等な哺乳類は親たちの注意を引くように意図的に自棄的、破壊的となる。結局、短絡的傾向、自棄的傾向、破壊的傾向、自己顕示的傾向、支配的傾向はともに形成されることが多い。

何でも破壊すること

  同種または他種の動物から攻撃されたり自然災害を受けたとき、動物は防御、反撃、逃走、隠遁…などする。それらを状況に応じて切り替えることは動物の遺伝子と個体と種が生存するのに適した機能である。だが、それらの機能が適わないとき、動物は自棄的になり何でも破壊することがある。そのような破壊は結果的に自己を巻き込むことがある。自暴自棄と何でも破壊することは成功率は前述の機能より低いが、窮地に陥った動物が生存するのに適した機能であることがあり、通常、最後の手段である。
  人間では破壊が同種に向かうことが他の動物より多い。例えば、虐待、いじめ、暴力、戦争、虐殺、…などは破壊に含まれる。そのような破壊が権力者の何でも破壊する傾向から生じることがある。
  また、人間では破壊が意図的に自己に向かうことがある。自殺、自傷だけでなく、拒食、過食、薬物乱用…なども自己の破壊と多くの部分で重なる。自己の破壊も何でも破壊することに含めることにする。
  動物の赤ちゃんも自棄的になり何でも破壊する。例えば、人間の乳児は母親の世話が遅れると泣きわめいて布団や母親を蹴飛ばす。
  母親が愛情をもって乳幼児を世話すれば、乳児期の中頃(0.5歳)に、乳幼児は待機することができるようになり、何でも破壊しなくなり、母親と他人に破壊以外の対人機能を生じて、破壊的傾向が減退する。
  それに対して、母親の世話と愛情が不足するとき、乳幼児は待機できず短絡し、自棄的となり、何でも破壊し続け、破壊的傾向(の標準偏差値)は減退せず形成されることが多い。
  そのように破壊的傾向は母親の愛情希薄によって乳児が短絡的、自棄的になることによって乳児期にも形成される。傾向が乳児期に形成される破壊は思春期以降に自己に向かうことが多い。リストカット、大量服薬…などの思春期以降の自傷的傾向の原型はそのようにして乳児期幼児期前半に形成される。また、そのような破壊的傾向は薬物依存、摂食障害…などにもつながる。
  それに対して、破壊的傾向は前思春期以降の子供による年長者の模倣によっても形成される。例えば、残念ながら破壊的な親の子供は破壊的になることが多い。また、これも本当に残念なことだが、暴力的集団で育てられた子供は破壊的になることが多い。それらは子供が年長者を模倣することによる。そのように前思春期以降に形成される破壊性は他人に向かうことが多い。
  また、思春期の母親と他の人間による子供の強い囲い込みと子供による囲い込みの強い破壊は破壊的傾向を形成することが多い。子供は独立を勝ち取るために親たちに反抗し囲い込みを破壊する必要がある。つまり、適度な囲い込みの破壊は必要である。だが、親による囲い込みと子供による破壊があまりに強く頻繁なら、破壊的傾向が形成される。
  また、適度な反抗は子供の独立を促すが、過度の反抗において、子供は親に反抗することに終始し、他の機能をほとんど生じず、他の他の自我の概略の傾向や他の意識的機能の概略の能力は形成さない。その結果、彼らの独立は阻害される。

粘着

  同種の他の動物を含むものから離れないそれらを離さない、人間においては肉体的かつ精神的に他人を含むものから離れないそれらを離さない、さらに、愛されようとする自我の概略をそれらへの「粘着」、それらに粘着すこと、付き纏うこと呼べる。
  粘着は動物の赤ちゃんが生存するのに適した機能である。何故なら、動物の赤ちゃんは親から離れては生存できないから。例えば、哺乳類の赤ちゃんは這ってでも親に付き纏う。人間の乳児は這えるまでも数か月かかるので、付き纏いが明らかではない。だから、泣いて母親を呼ぶ。つまり、泣くことによって母親に粘着している。
  人間では、母親が普通の世話と愛情をもって乳幼児に機能すれば、乳児期中頃(0.5歳頃)に待機し始め、粘着的傾向が減退し始める。それから、幼児前半の終わりから幼児期後半の初め頃(三歳頃)に母親の愛情と自身の粘着に辟易して、母親から離れ、母親を含む他人に粘着以外の対人機能を生じ、粘着的傾向が減退する。
  それに対して、母親の世話と愛情が不足すると、乳幼児はいつまでも世話と愛情を求め粘着し続け、粘着的傾向(の標準偏差値)が幼児期後半以降も減退せず維持または形成されることが多い。また、そのような子供は母親以外の他人にも愛情を求め粘着し、一般の人間への粘着的傾向が維持または形成されることが多い。また、そのような子供は嫌われ疎外され、さらに愛情を求めて粘着せざるをえず、粘着的傾向が維持または形成される。仮にその子の粘着的傾向(の絶対値)がある程度、減退しているとしても、他の子の減退のスピードが速いので、その子は同種同年齢の人間関係の中では目立って粘着的である。
  そのように母親の愛情希薄は粘着的傾向を形成する主要なものである。母親の粘着と子供による母親の粘着の模倣もある程度は粘着的傾向を形成する。
  粘着的傾向が、幼児期後半に減退しなかった多くの場合、それは減退せず維持されるまたは形成され、粘着は幼稚園や学校の友達、同級生、先生にも向かい、やがて、職場の同僚、部下、上司にも、いたるところで友人と恋人にも、家庭で配偶者と子供にも向かい、一般的な粘着的傾向が形成される。そのように、大人の粘着は子供に向かうこともあり、それは子供に模倣される。これは世代を超える悪循環である。また、思春期以降の粘着は複雑で狡猾である。例えば、人を巻き込み操作するようになる。
  粘着的傾向は強い苦痛を生じる。第一に、他人に粘着できないときに強い不安と孤独を生じ、死に物狂いで粘着せざるをえなくなる。第二に、他人に疎んじられることによる孤立と孤独を生じる。そのことによっても、ますます粘着せざるをえない。
  さらに、粘着的傾向によってひたすら粘着するために、粘着的傾向と能力以外の対人的なそれらがほとんど形成されない。そのことによっても、ますます粘着せざるをえない。これも悪循環である。
  しかも、粘着、自己顕示、何でも支配すること、何でも破壊すること、孤立…などの傾向は共に形成されることが多い。何故なら、粘着して愛を得るためには人は自己顕示しようとする。粘着して愛が得られない場合は相手を支配または破壊しようとする。その結果として疎外され孤立する。
  また、以下の理由によってもそれらは共に形成される。それらを形成する主要なものが同一の母親の愛情希薄、囲い込み、子供による同一の母親の模倣であるから。
  陥る機能と傾向について大部分が同様である。そこで、以下の説明を簡略化することにする。

自己顕示

  自己を同種の他の動物に過度に顕示することを「自己顕示」と呼べる。人間においては、かっこうをつける、やたらと自己を語る、自慢話をする、過去の遍歴を語る、自己を虚飾して語る、自己の欠点さえも語る…などが自己顕示に含まれる。
  自己顕示は動物の赤ちゃんが生存するのに適した機能である。何故なら動物の赤ちゃんは親の注意と世話を引き出さなければ生きていけないから。例えば、犬も猫も人間も親の注意を引きつけるような鳴き方をする。
  大人は誰でも子供がかわいいと思うことがあり、それは自然な感情である。また、率直に子供を賞賛することがある。母親においてはなおさらそうである。そうすることは愛と重なる。そのような愛があれば自然と子供を賞賛している。
  人間においては、乳幼児がそのように母親に愛され賞賛されれば、乳児期幼児期前半の終わり頃(3歳前)に、幼児は愛され賞賛されることと自身の自己顕示に辟易し、母親を含む他人に自己顕示以外の対人機能を生じ、自己顕示的傾向が減退していく。
  それに対して、母親の愛情と賞賛が不足するなら、乳幼児はそれらに辟易せず、いつまでも自己顕示し続け、自己顕示的傾向が減退せず維持または形成されることが多い。また、母親の愛と世話が不足するなら、乳幼児はそれらを得る手段としてますます自己顕示しなければならない。そのように、自己顕示的傾向を後天的に形成する主要なものは母親の愛情と賞賛の不足である。
  自己顕示的傾向の形成と他の陥る傾向との関係は粘着的傾向のそれらとほぼ同様である。だから、それらの説明のほとんどを省略し、特徴的なことだけを説明する。自己顕示において、わたしたちが誇大化し虚飾するのは他人に顕示する自己であって、自我が追究する自己ではない。だが、そのような誇大化と虚飾を繰り返しているうちに、自我が追究する自己もある程度、誇大化し虚飾される。それによっても、自己顕示的傾向は、自我が自己とその陥る機能と傾向に直面することを妨げる。

何でも支配すること

  固体または集団が同種の他の個体または集団とそれらの属性のあらゆるものを支配しようとすることを「何でも支配すること」と呼べる。人間では、支配はどうでもよいようなことでも何でも取り仕切ろうとする、ともかく上に立とうとする、ポジション取りをする、なんでも独占しようとするを含む。
  状況に応じて支配と委任と服従と非服従と抵抗を切り替えることは動物の遺伝子と個体と種の生存に適した機能である。人間の赤ちゃんを含む動物の赤ちゃんも母親を支配することによって世話と愛を得ようとする。それも生存に適した機能である。例えば、人間の赤ちゃんは泣きわめくことによって親の世話を支配する。
  人間では、母親が愛情をもって乳幼児の世話をすれば、乳幼児はなんでも支配する必要がなく、何かを委託する、ときには服従する…などの対人機能を母親とそれ以外に生じて、何でも支配する傾向は減退する。つまり、何でも支配する傾向は、乳幼児にとってそうする必要がないことによって減退する。
  それに対して、母親の世話と愛情が不足すれば、乳幼児は何でも支配し続け、支配的傾向が減退せず形成される。そのように、何でも支配する傾向を形成する主要なものは母親の愛情の希薄である。
  後思春期に何でも支配する傾向がますます形成されることがある。地位と権力とカネを得て人を支配することができた人間はますますそれらを得て何でも支配しようとするものである。そのように何でも支配する傾向は乳児期幼児期前半と後思春期に形成されえる。
  だが、

(1)乳児期幼児期前半と後思春期の両方で傾向が形成された何でも支配すること
(2)後思春期のみに傾向が形成された何でも支配すること

とは区別できる。まず、量として、(1)は(2)より強烈である。次に質として、(1)は(2)より異様である。(1)は他人にとって理解困難であるだけでなく自己にとっても理解困難である。(2)はある程度、理解ができる。だから、独裁と残虐に至りやすいのは(1)であり、一般市民は(1)により注意する必要がある。
  さらに、(1)の傾向の大きい人間は同じ乳児期幼児期前半に形成されるなんでも破壊する傾向、自己顕示的傾向…などをしばしば伴い、独裁や残虐に走る傾向はさらに強くなる。社会で権力やカネを得られないときは、いわゆる「内弁慶(家ではライオン、外ではネズミ)」になり、家庭を支配しようとして、子供とパートナーの囲い込み、家庭内暴力…などを起こすことがある。そのような家庭の傾向に男女差はない。上の社会内における傾向についても、男女に均等の社会参加の機会が与えられるなら、男女差はないであろう。

複合イメージ破壊

  人間において、複合イメージとして想起されるものが不安、恐怖、自己嫌悪、恥辱…などの不快の感情を生じるとき、幼児期後半以降の比較的成熟した自我はそのイメージを他の苦痛を生じないイメージに切り替える。それをイメージの回避と呼べる。だが、乳児期幼児期前半の自我は未熟であり、そのような切り替えをうまくすることができない。そこで、イメージから大きな苦痛が生じる乳幼児のいくつかはイメージを何が何でも破壊しようとする。例えば、虐待する母親のイメージは不安、恐怖を生じる。幼児期後半以降の子供ならそのイメージを切り替え回避することができる。だが、乳児期幼児期前半の子供はそうすることができず、そのようなイメージを手当たり次第に破壊する。さらに、虐待を受ける自己のイメージさえも破壊することがありえる。そのような破壊は成熟した自我がすることができるイメージを元に復元できる切り替えや分解とは異なる。その結果、複合イメージ、自己のイメージ、イメージの想起、連想、自我、思考、自己のイメージ…などのいくつかが一般の人間や心理学者や精神医学者にとってさえも思いもよらないものになることがある。苦痛を生じるイメージを何がなんでも破壊することとそれがもたらす結果を「複合イメージ破壊」、複合イメージを破壊することと呼べる。
  複合イメージ破壊の傾向は、母親の愛情希薄、特に虐待、放置…などの極端な例から形成されることが多い。
  複合イメージ破壊は、二つ以上の異なる自己のイメージが生成する多重人格を含む解離性障害の「解離」、境界人格障害の「分裂」などに発展することがありえる。

白日夢

  母親から十分に愛されず世話をされず、場合によっては虐待され無視され、身体的精神的苦痛を受ける乳幼児は白日夢を見ざるをえない。
  もちろん大人もいわゆる「白日夢」を見る。だが、たいていの大人は、白日夢の内容が現実でないことを容易に認識でき、それから覚めた後は比較的容易に現実に復帰できる。それに対して、幼児はそんなに容易にそれらをすることができない。
  少なくとも乳児期幼児期の白日夢のいくつかは以下のような「後遺症」あるいは「傷跡」のようなものを残しうる。まず、白日夢のいくつかは前述の複合イメージ破壊とともに二つ以上の異なる自己のイメージが生成する多重人格を含む解離性障害に発展しうる。次に、白日夢のいくつかは後述する孤立と自己と世界の間の間隙の拡大につながりえる。
  だが、すべての白日夢が有害であるわけではない。そのことのほうが重要かもしれない。いくつかの白日夢は想像力と創造力を高める。

孤立

  群れ、家庭、社会…などの集団から離れることは動物の赤ちゃんの生存に適さない。だが、群れから破壊、攻撃、疎外…などされ、個体がある程度、成長しているとき、群れの中にいるより群れから離れたほうが生存に適することがある。
  人間においては、物質的身体的には、子供たちも法的社会的制度によって保護されている。それに対して、精神的には彼らは孤立しうる。人間は精神的に孤立しても、一人遊びをすることができる。さらに、物質身体的に一人遊びがなくても、白日夢などイメージを弄ぶことができる。そのような一人遊びやイメージの弄びによって人間の個人が精神的に集団から自らを孤立させることを「孤立」と呼べる。
  人間においては、母親の愛情が希薄であれば、乳幼児は少なくとも精神的に孤立し、乳児期の中頃から孤立的傾向が形成される。虐待、放置…などがあり、物質身体的にも孤立すると、孤立的傾向は強く形成される。
  孤立は後述する自己に係る陥る傾向の形成を促進する。

ナルシシズム

  乳児期幼児期前半に親や親戚、特に母親に愛されず賞賛されなかった子供のほとんどは自ら自己を愛し賞賛するようになる。ある程度、愛され賞賛されると、子供は賞賛されることと自己を愛することに辟易して、他人や他のものを愛し賞賛して、適度な「ナルシズム」が形成される。そうでないと強いナルシズムが形成される。ナルシシズムは自己顕示と重なり、互いを増強する。また、強いナルシズムは一人遊びや白日夢などのイメージの弄びに繋がり孤立に繋がることがある。
  また、強いナルシズムは不安定で、本当の自己が認識されたとき、強い自己嫌悪と交替することがある。また、他人に対する愛と賞賛が欠如してきたことへの反動として、強い特定の人への愛と賞賛が生じることがある。また、他人への愛と賞賛は、自己に対するそれらと同様に強い他人に対する憎悪と交代することがある。

母親の陥る傾向と愛情希薄と囲い込みと子供によるによる母親の陥る機能の模倣

  粘着は愛を求めるが愛を与えない。破壊には愛がほとんど伴わず憎しみが伴う。人間は誰かを愛して、その人の愛が得られなかったとき、その人を破壊することがある。自己顕示、ナルシシズムは他人を愛さない。だから、陥る傾向をもつ人が母親になると子供に対しても愛情希薄であることが多い。
  また、陥る傾向をもつ人は主として孤立し疎外されるために、様々な欲求不満に陥る。そこで、前述のとおり、子供に係る欲求を高め上げ、子供を囲い込み、それらの欲求を満たそうとすることが多い。簡単に言って、子供を独占しようとする。
  また、乳幼児といえども身近な人を模倣する。後に陥る傾向が形成される回避、取り繕い…などの陥る機能は乳幼児に模倣は難しいが、傾向が乳児期幼児期前半に形成される自棄的になること、何でも破壊すること、粘着すること、自己を顕示すること、何でも支配すること…などの陥る機能は乳幼児にも模倣が容易である。当然、母親のそれらも模倣される。結局、子供は乳児期から思春期まで年長者の陥る機能を模倣し、それぞれの時期に特有のものを模倣する。
  以上のことから、母親が陥る傾向をもっているとき、子供が陥る傾向をもつ確率は高い。母親の陥る傾向と陥る傾向から生じる愛情希薄と囲い込みと子供による母親の陥る機能の模倣は子供の陥る傾向を形成する主要なものである。これは陥る傾向の世代を超える悪循環であり、「世代を超える」悪循環に陥る傾向と呼べる。だが、それらはあくまでも乳児期から思春期における人格の形成過程の範囲内での陥る傾向の主要な原因であって、生涯における陥る傾向の形成または沈滞の主要な原因ではない。後述するとおり、その主要な原因は、他人の中にあるのではなく、自己の中にある。

幼児的陥る機能と傾向

  人間において平均的に、これまでの節で説明された(悪循環に)陥る(被限定)自我の(概略の)傾向が形成されるとすれば、主として乳児期幼児期前半に形成される。傾向が主として乳児期幼児期前半に形成される(悪循環に)陥る(被限定)自我(の概略)とそれらの傾向を「(乳)幼児的」(悪循環に)陥る機能、傾向と呼べる。
  乳幼児的陥る傾向に限らず、一般に陥る傾向は共に形成される。さらに、以下のことから、特に乳幼児的傾向は共に形成される。乳幼児の傾向の形成の状況はほとんど家庭のみであり特に同一の母親だけである。だから、その形成は同一の母親の陥る傾向と愛情希薄と母親の囲い込みと乳幼児による母親の陥る機能の模倣の影響を直接的に受ける。

自己イメージの生成

  自己は『生存と自由』で定義された。人間では、過去、現在、未来の身体、情動、想起、連想、意識的機能、自我、思考、思考の産物としての観念、それらの能力、傾向…などから構成される複合イメージとして自己は想起される。人間において平均的に、自己のイメージは幼児期後半の初め頃、つまり、四歳頃に生成し想起され始め、思春期に最も明瞭になる。

自己がやがて死ぬことへの不安

  自己のイメージが生成し想起されてしばらくすると、自己の時間的有限性、自己がやがて死ぬことがイメージとして想起され、それらが自己がやがて死ぬことへの不安を生じるようになる。自己イメージの生成以降、その不安を超越しようとする試みが人生の一つの様相となる。その不安を克服する決定的方法は『生存と自由』で説明されている。

自己無限化試行

  自己がやがて死ぬことへの不安は何らかの方法で自己を無限化しよう試みる自我と欲求と意識的機能を生じる。そのような自我と欲求を「自己無限化欲求」と呼べ、そのような自我と意識的機能を「自己無限化試行」と呼べる。
  いくつかの自己無限化試行は、愛と重なる。それは、愛が他人を含み、他人と共に作るものであり、自己を超えているように見えるからである。また、いくつかの自己無限化試行は、宗教と重なる。その例は挙げるまでもないだろう。また、なんでも支配すること、権力への意志…などと重なる。例えば、権力者が自身の巨大な墓を建てることと重なる。

自己と世界の間の間隙の拡大

  イメージの中では、自己のイメージと自己以外のもののイメージの間に隙間がある。そのような間隙を「自己と世界の間の間隙」と呼べる。
  乳幼児が孤立していなければ、そのような間隙は母親、他の人々、ペット、おもちゃ…などで埋められるので、そのような間隙は小さい。それに対して、乳児期幼児期前半に孤立した人間ではそのような間隙が拡大する。これまでに説明した陥る機能が主として意識的機能の概略であり、それらの陥る傾向によったのに対して、そのような拡大はイメージの素材の部分欠損から生じる。だが、陥る機能と傾向に含めることにする。
  もちろん、わたしたちのそれぞれが自己は特別なものだと感じている。だが、自己と世界との間の間隙が狭い人間は、自己と世界の間の連続性と他人と共有するものを認識しやすく、自己を特別なものだとあまり感じない。それに対して、自己と世界との間の間隙が広い人間は、自己と世界の間の連続性と他人と共有するものを認識しにくく、自己を特別なものだと強く感じる。
  だから、自己と世界の間の間隙の拡大によって、自己は肥大化し、なんでも支配する傾向、自己顕示的傾向…などが強化される。さらに、自己がやがて死ぬことへの不安がますます強くなり、なかなかそれを乗り越える方法に至れない。その結果、なんでも支配する傾向、自己顕示的傾向…などがますます強化される。これも悪循環である。例えば、自己を永遠化するために自己顕示して他人の記憶に残ろうとする。例えば、強大な権力を獲得した人が、人々を支配して栄光や巨大な墓を残そうとすることはある。さらになんでも破壊しようとする傾向ももてば、権力を握って、自由権、社会権、政治的権利、民主制、権力分立制、法の支配、全般的生存権を破壊し、専制、独裁、戦争、全体破壊手段の研究、開発、保持…などに走ることがある。それらを「社会的」陥る傾向と呼べる。それらの陥る傾向を減退させることは生存と自由を確保する方法でもある。

自己肥大化

  自己と世界の間の間隙の拡大においてはその間隙が自己のイメージで埋められることが多い。何故なら、孤立しているために自己以外のイメージで埋めようがないからである。他人や他の動物や自然との関係が再開するなら、その間隙は多少でも自己以外のイメージで埋められる。孤立が続くなら、自己のイメージで埋められ続ける。その結果、自己のイメージは大きくなる。そのことを自己の肥大化と呼べる。
  自己の肥大化は後述する自己美化と大部分で重なる。

自己の美化

  乳児期幼児期前半に形成された前述のナルシズムと共に、幼児期後半前思春期の自我は自己のイメージを美化しようとする。その結果、前述のようにして拡大した自己と世界の間の間隙が美化された自己のイメージで埋められる。結果として自己のイメージは大部分で美化される。例えば、母親や一般の人間に愛してもらえず疎外されているかわいそうだが美しい者として自己を美化する。そのような美化も自我が自己の悪循環に陥る傾向に直面することを妨げる。これも悪循環である。

前思春期的陥る機能と傾向

  これらの数節で説明された陥る機能と傾向とイメージの素材の部分欠損と埋め合わせは主として自己のイメージが生成した後の幼児期後半前思春期に形成される。そこで、傾向が主として幼児期後半前思春期に形成されるそれらの機能とそれらの傾向を「前思春期的」(悪循環に)陥る機能、傾向と呼べる。
  前思春期的陥る傾向から少なくとも孤立的傾向へと遡ることができ、孤立的傾向は乳児期幼児期前半に形成される。また、乳幼児的陥る傾向のほとんどは共に形成される。また、前思春期的陥る傾向のほとんどは共に形成される。だから、乳幼児的陥る傾向と前思春期的陥る傾向の多くは併存する。

対人機能能力の未熟

  子供が家庭や幼稚園、小学校で疎外され孤立せざるをえないと、または、孤立的傾向が形成され自我が意図的に孤立すると、自我が意識的機能としての対人機能をあまり生じず、意識的機能の能力としての対人機能の能力はあまり形成されず未熟にとどまる。意識的機能の能力としての対人機能の能力を対人能力とも呼べる。例えば、子供たちに限らず、大人でも数か月隠遁していると対人機能がうまくいかないものである。
  そもそも、孤立する前には少なくとも疎外されていたのであり対人不安は強くなっていた。さらに、孤立しているとますます対人不安が強くなり、自我が対人回避ばかり生じ、一般的な対人機能を生じず、一般的な対人能力は未熟にとどまる。
  さらに、陥る傾向が形成されると、自我が陥る対人機能を生じる。陥る対人機能能力は形成されるが、それ以外の対人機能能力はあまり形成されず、一般の対人能力は未熟にとどまる。例えば、何でも支配し破壊するような対人機能にばかり出ていたのでは、協調的な対人能力が形成されず、一般の対人能力は未熟にとどまる。
  また、陥る傾向が強く陥る対人機能を頻繁に生じる人間は人から疎外されることが多く、孤立し、対人機能能力は未熟にとどまり、対人不安は減退しない。
  これらも悪循環である。特に後述の対人機能を回避し取り繕う傾向は対人能力の未熟をもたらす。
  だが、陥る傾向が減退するとき、対人機能能力は意外と早く形成される。結局、対人機能能力の未熟より陥る傾向のほうが重大である。

対人関係を回避すること

  前節のとおり、陥る傾向が形成され対人能力が未熟で対人不安が強いときに自我が対人機能を生じると強い苦痛が生じる。だから、自我は持続的反復的に対人関係を回避し、対人関係を回避する傾向が形成される。この傾向は乳児期幼児期前半に初めて形成されるが、それ以降まだ動揺する。だが、思春期に強く形成され定着することが多い。
  また、思春期の自我は単純にではなく複雑に対人関係を回避する。例えば、深い人間関係に入ることを避けて、表面的な関係に終始する。また、破壊性をちらつかせて人が近寄り難い雰囲気を作る。そのような対人機能は後述する取り繕いとも重なる。思春期にはそのような複雑な対人関係の回避が生じ、そのような複雑な対人関係を回避する傾向が形成される。また、対人関係を回避する被限定自我の概略の傾向だけでなく意識的機能の能力も形成される。簡単に言って、自我と意識的機能の対人関係の回避の仕方は狡猾である。
  そのようにして自我が持続的反復的に対人関係を回避するために、対人機能能力はますます未熟にとどまる。これも悪循環である。
  以上のことから、対人関係の回避は陥る機能に含まれ、対人関係を回避する傾向は陥る傾向に含まれる。また、以下も陥る機能または陥る傾向に含まれる。

対人機能能力の未熟を取り繕うこと

  思春期以降の自我は対人関係を回避するだけでなく、対人機能能力の未熟を取り繕う。例えば、地位、権力、カネ、容姿…を見せびらかせて、それらを取り繕う。思春期の青年は自身の地位、権力、カネをもっていないが、親のそれらと自身の容姿を見せびらかすことがある。後思春期の大人が自身のそれらを見せびらかして様々なものを取り繕うことはよくある。容姿や顔だちやスタイルは思春期こそ取り繕いの絶好の手段になる。そのような取り繕いが前述の自己顕示、ナルシシズム、自己の美化の傾向を強化することがある。
  そのような取り繕いが他人に完全に見抜かれることはほとんどないが、他人に不快な感情を生じるものである。そのことによっても取り繕うものは疎外され、ますます対人機能能力が未熟にとどまる。

陥る傾向を取り繕うこと

  また、対人関係と言う外的状況の中で、自己の陥る機能と傾向に他人に気づかれると、恥辱という苦痛が生じるために、自我は自己の陥る機能と傾向を隠し取り繕う。つまり、思春期以降の自我が取り繕うものは、対人機能能力の未熟だけでなく、陥る機能と傾向全般である。それらのことを陥る傾向の取り繕い、陥る傾向を取り繕う機能と呼べる。
  例えば、幼児期後半以降も母親の愛情を求めて粘着し続け、粘着的傾向が形成されたなどということが他人に気づかれると恥辱という苦痛が生じる。だから、思春期以降の自我は一見したところ、あっさりと振る舞う。また、もてはやされなかったから自己顕示し自己顕示的傾向が形成されたなどということに気づかれることも同様に苦痛を生じる。だから、一見したところ控え目に振る舞う。だが、それらの傾向は残っており、取り繕いつつ粘着し自己顕示している。だから、他人から奇妙な人と見られることが多い。
  それらを繰り返しているうちに、自己の陥る機能と傾向を取り繕う(被限定)自我の(概略の)傾向が形成される。それを「陥る傾向を取り繕う傾向」と呼べる。また、それらを繰り返しているうちに、陥る機能と傾向の取り繕いという対人機能の(概略の)能力が形成される。簡単に言って、取り繕いが狡猾になる。だが、他人から見れば奇妙である。
  陥る傾向を取り繕う傾向が大きいとき、陥る傾向の取り繕いがほとんどいつも生じ、取り繕い以外の対人機能があまり生じず、取り繕う傾向と能力以外の対人機能の傾向と能力が形成されない。例えば、人と打ち解けて話をする傾向と能力さえ形成されない。
  それらのことから、陥る傾向の取り繕いは陥る機能に含まれ、陥る傾向を取り繕う傾向は陥る傾向に含まれる。
  陥る対人機能と極端に反対の対人機能を生じることによって、陥る傾向を取り繕う対人機能を「反対表現」と呼べる。例えば、思春期に面白くなく真面目な人間として他人から嫌われたとき、極端に不真面目な振る舞いをすることがある。反対表現は誤解を招くことが多い。何故なら、それが陥る傾向に基づく反対表現だと理解してくれる人はほとんどいないからである。
  それらのように、陥る傾向を取り繕う傾向は主として思春期に形成される。

陥る傾向のイメージを回避すること

  自己の陥る機能と傾向がイメージとして想起されると、それらのイメージは不安、自己嫌悪…などの強い精神的苦痛を生じる。そのために、自我はイメージとして想起される自己の陥る機能と傾向を『自我とそれらの傾向―自我をもつ動物の心理学』で説明されたイメージの切り替えによって回避することがよくある。イメージとして想起される陥る機能と傾向を回避することを、陥る傾向(のイメージ)を回避すること、陥る傾向の(イメージの)回避、(イメージとして想起される)陥る傾向を回避すること、(イメージとして想起される)陥る傾向の回避と呼べる。
  イメージとして想起される陥る傾向を回避することは、前述のような苦痛を一時的に減退させるので、自我は何度もそれらを回避し、それらを回避する被限定自我の概略の傾向が形成される。それらを陥る傾向の(イメージの)を回避する傾向と呼べる。例えば、自己が粘着的、簡単に言って、ネチネチしているこことがイメージとして想起されると不安、自己嫌悪、恥辱…などの強い精神的苦痛が生じるために、自我は何度もそれらのイメージを無害なイメージに切り替えて回避し、そうする傾向が形成される。
  陥る傾向を回避する傾向が大きく、陥る機能と傾向がイメージとして想起されるごとに自我がそれらを回避すると、自我が陥る機能と傾向に直面することができず、陥る傾向の全般が減退しない。つまり、陥る傾向を回避する傾向は自我が陥る機能と傾向に直面することを直接的に妨げ、陥る傾向が減退することを妨げる。だから、陥る傾向の回避は陥る機能に含まれ、陥る傾向を回避する傾向は陥る傾向に含まれる。といういより、それらは最大の悪循環であり、最も致命的な陥る機能と傾向である。
  前述の陥る傾向を取り繕う傾向の形成時期と比較して、陥る傾向を回避する傾向が形成される時期は、不定だが、主として思春期に形成される。

陥る傾向のイメージを取り繕うこと

  前述の対人関係という外的状況における自己の陥る対人機能と傾向の取り繕いに対して、以下のような内的状況におけるイメージとして想起される自己の陥る機能と傾向の取り繕いがある。また、前述のイメージ回避に対して、もう少し複雑なイメージの取り繕いがある。陥る機能と傾向は、イメージとして想起されたとき不安、自己嫌悪…などの強い苦痛を生じるため、特に思春期のある程度成熟した自我はイメージとして想起される自己の陥る機能または傾向と傾向を回避するだけでなく取り繕う。それを陥る傾向のイメージを取り繕うこと、イメージとして想起される陥る傾向を取り繕うことなどと呼べる。また、その傾向を陥る傾向のイメージを取り繕う傾向などと呼べる。
  例えば、容貌に自信をもつ子供や大人は、それらをもつ自己のイメージで自己の陥る機能と傾向を覆い、陥る傾向を取り繕うことがある。優れた容貌が一般に弊害だと言っているのではなく、それがそのように利用されるなら弊害だと言っているのである。また、地位、権力、カネをもっている大人は、それらを所有する自己のイメージで自己の陥る傾向を覆うことがある。

陥る傾向のイメージを回避し取り繕う傾向

  陥る傾向のイメージの回避とそれらの取り繕いは、後者がより少し複雑であり、前者がより多用され、前者の傾向が思春期以降だけでなくそれ以前にも形成されることを除いて、原因と結果を含めて同じである。そこで、それらをまとめて陥る傾向(のイメージ)を回避し取り繕うこと…などと呼べ、そうする傾向をまとめて陥る傾向(のイメージ)を回避し取り繕う傾向…などと呼べる。
  繰り返すが、それらは最大の悪循環であり、陥る機能と傾向の中で最も重大である。

迫害されるものとしての自己のイメージの強調と反動または復讐

  陥る傾向をもつ人間は、疎外され孤立することが多く、それらの疎外と孤立の原因を他人または一般の人間または社会のみに帰すことがある。
  迫害される者としての自己のイメージを強調し、自己の陥る機能と傾向をそれらで覆えば、それらの強調と覆いは前述の陥る傾向のイメージの取り繕いである。
  陥る傾向を取り繕うのに必要な程度を過ぎて迫害される自己のイメージが強調されれば、彼らが思う迫害者への反動または復讐につながることがある。そのような強調と前述の自棄、破壊…などが伴えば、反動または復讐は激しいものとなりえる。

鏡像破壊

  模倣などの理由によって、子供の(被限定)自我(の概略)の傾向は母親、父親、兄姉…などのそれらと類似する。特に模倣などの前述の理由によって、子供の陥る傾向は彼らに類似する。それは子供のものが鏡に映し出されるようなものである。また、子供は自己の陥る機能と傾向に不安、自己嫌悪…などの苦痛をもつ。だから、子供は母親、父親…などの陥る傾向に自分のものであるかのような苦痛をもつ。だから、大きな陥る傾向をもつ子供または青年は母親、父親…などまたはそれらのイメージを破壊しようとする。そのことを「鏡像破壊」と呼べ、その傾向を「鏡像破壊的傾向」と呼べる。
  思春期の青年が親を嫌うことのいくつかはこの鏡像破壊である。鏡像破壊はいわゆる「反抗」と重なるが、鏡像破壊的傾向は、陥る傾向が減退しない限り、思春期が過ぎても減退しない。鏡像破壊が最初に明らかになるのは思春期である。
  鏡像破壊も自我が自己の陥る機能と傾向に直面することを妨げる。何故なら、それらを他人に投げ出してしまっているからである。
  だから、鏡像破壊は陥る機能に含まれ、鏡像破壊的傾向は陥る傾向に含まれる。

過度の反抗

  親の囲い込みと支配が強く思春期以降も持続するとき、子供や青年がそれらに反抗することに終始し、反抗以外の機能が生じず、反抗以外の意識的機能の能力と自我の傾向が形成されないことがある。例えば、青年が独立するためではなく親から離れるために別居したり結婚することがある。そのような別居や結婚では、独立して生きる傾向が形成されない。だから、過度の反抗は陥る機能に含まれる。

思春期的陥る機能と傾向

  それらの悪循環に陥る被限定自我の概略の傾向は主として思春期に形成される。そこで、それらの傾向が主として思春期に形成される機能機能とそれらの傾向を「思春期的」(悪循環に)陥る機能と傾向と呼べる。
  思春期的陥る傾向の中で最も重大なのは陥る傾向のイメージを回避し取り繕う傾向である。それどころかそれらは陥る傾向の中で最も重大と言える。
  主として乳幼児に形成される何でも破壊する傾向と何でも支配する傾向について、それらの少なからぬ部分が思春期における模倣によって形成され強化される。特に暴力的集団における模倣は重大である。

後思春期的陥る機能と傾向

  傾向が主として後思春期に形成される陥る機能とそれらの傾向を後思春期的陥る機能、傾向と呼べる。
  それらはあまり重要でない。つまり、思春期以降に重要な陥る機能が新たに出現することはない。だが、陥る機能は全般的に複雑で狡猾になる。特に陥る傾向のイメージを回避し取り繕う機能などの思春期的陥る機能はますます複雑で狡猾になる。だから、なかなか他人にも自己にも気づかれなくなる。

自己の陥る傾向の原因を他人に帰すこと

  前述のとおり、陥る傾向を形成する主要なものとして母親の陥る傾向、愛情希薄、囲い込み、子供による年長者の模倣がある。それらは外的である。この著作の最終部分で陥る傾向を形成する主要なものはそのような外的なものではないことが明らかになる。
  いずれにしても、他人に原因があると思い、他人をいつまでも責めることは何の役にもたたたず、それは陥る機能の一種である。

自己の陥る機能と傾向へ直面すること

陥る傾向は遺伝子によって先天的に形成されたり神経系の機能的器質的障害によって後天的に形成されるのではなく主として後天的に乳児期から形成されたことを確認すること

  遺伝子によって先天的にあるいは神経系の機能的器質的障害によって後天的に、情動と自我の情動系の傾向が全般的に増減することはありえ、記憶、知覚、連想、思考と自我の理性系の能力または傾向が全般的に増減することはありえる。例えば、反復性うつ病性障害のうつ病エピソードでは、情動と自我の情動系の傾向が全般的に低下し、欲動、欲求、意欲…などが全般的に低下する。また、脳器質性障害では記憶、思考…等と自我の理性系が全般的に障害され、全般的に非理性的な行動が生じる。遺伝子によって先天的にあるいは障害によって後天的に自我の生じる傾向が増減するとしても、すべてのあるいはほとんどの被限定自我の概略の傾向が増減するのであって、(悪循環に)陥り(被限定)自我の(概略の)傾向だけが増減することは決してない。限定自我という限定機能の中で、多数の被限定自我が生起するが、(概略の)傾向が最も大きい被限定自我が生じる。そこでは被限定自我の傾向の全般的な大きさや小ささは問題にならず、被限定自我の概略の傾向の比較が問題になり差が問題になる。情動のうち欲動の傾向は先天的に形成され、破壊的欲動、支配的欲動…などがあろえ、それらの傾向が先天的に大きいことはありえ、それによって間接的かつ後天的に自我の傾向が影響を受けることはありえる。それを考慮しても、陥る自我の傾向が「主として」後天的に形成されることに変わりはない。陥る傾向は前の章で説明したようにして主として乳児期から後天的に形成されてきた。まず、わたしたちはそのことを確認する必要がある。
  たとえ、親子、兄弟が似た陥る傾向をもつとしても、その類似性は、遺伝子によって先天的に形成されたのではなく、前の章で説明されたものによって後天的に形成される。一卵性双生児についてさえそうである。陥る習性が薬物療法や遺伝子治療によって減退するものではないことは言うまでもないだろう。現代の生物学を含む科学技術には遺伝子、突然変異、生存競争、適者生存、そして進化に対する信仰のようなものがあり、それらは神話のようになっている。だが、陥る機能と傾向は遺伝子、突然変異…などによって形成されたものではなく、進化も退化もしない。つまり、その手の信仰と神話は通用しない。この著作のこの部分の筆者はここで身震いしている。陥る機能と傾向は、神や遺伝子や進化が創造したのではなく、それらの力を借りたのでもなく、人間が創造したに他ならない。これを克服するのも人間しかない。

情動にうったえること

  自我は理性系と情動系から構成される。比喩的に言って、理性系は状況の中で等しく可能で合理的な様々な意識的機能を機能イメージとして提案し、情動系がそれらのうちのどれを採用し実行するかを快不快の自律感覚と機能的衝動をもって決定する。そのように自我において決定的なのは理性系ではなく情動系である。(被限定)自我の(概略の)傾向を主として形成するものは、理性系においてはイメージイメージ神経細胞路の活性化であり、情動系においてはイメージ情動神経細胞路の活性化である。簡単に言って、理性系においてはどの機能イメージが想起されるかであり、情動系においては想起されるイメージから快の自律感覚が生じるか不快の自律感覚が生じるか、どの程度の快の自律感覚が生じるかである。自我において決定的なのは理性系ではなく情動系だから、(被限定)自我の(概略の)傾向において重要なのは理性系の傾向ではなく情動系の傾向である。それらのことは悪循環に陥る傾向についてもいえる。陥る機能が機能イメージとして想起されても、それらが快の自律感覚を生じず、または、不安、自己嫌悪、辟易などの不快の自律感覚生じれば、陥る傾向は減退する。では、機能イメージとして想起される陥る機能から快の情動を生じさせない、または、不快の情動を生じさせるものは何か。

陥る機能と傾向に直面すること

  そもそも、イメージとして想起される陥る機能と傾向は、不安、恥辱、自己嫌悪…などの不快の感情を生じてきた。だからこそ、自我は自己の陥る機能と傾向を回避し取り繕ってきたのである。そもそも、そのように不快の感情を生じてきたのは、自我が自己の陥る機能と傾向に直面しかけていたからである。だが、自我はそれらにまっすぐに直面せず、それらを回避し取り繕うことさえした。簡単に言って、中途半端な直面だったのである。

他人の自己に対する心的機能のイメージの無駄

  自己の陥る機能と傾向がイメージとして想起されかけ自我がそれらに直面しかけているときに、同情、悲しみ、叱責、非難、冷笑、疎外、無視…などの他人の自己に対する心的機能がイメージとして想起され、それらが自己に精神的苦痛を生じることがよくある。それらの他人は両親、友人、教師、上司、精神科医、心理士、牧師…などを含みえる。さらに、それらのいくつかは社会、国家、法、神のように非人格化される。それらの心的機能のイメージが生じる精神的苦痛は罪悪感、恥辱、不名誉を含むことが多い。他人の心的機能のイメージが想起されそのような苦痛を生じている間は、自己の陥る機能と傾向のイメージも想起されかけ自我はそれらに直面しかけているのだが、他人のものが自己のものを圧倒してしまい、自己のものへの直面は困難である。自己のものに直面したように見えて、他人のものに直面していたということはよくある。直面する必要があるのは他人のものではなく自己のものとそれらの悪循環である。他人のものが想起されている間は、自我が何度も他人のものからそれらへ切り替える必要がある。だが、その切り替えは非常に困難である。だから、他人のものとそれらが生じる苦痛を放置し自然消退するのを待ったほうがよい。簡単に言って、罪悪感や恥は無駄である。

他人に対する自己の心的機能の無駄

  自己の陥る機能と傾向の外的で間接的な原因として、母親の愛情希薄、囲い込み、子供による年長者の模倣、家庭における虐待、疎外、学校におけるいじめ、疎外などがあることは確かである。また、陥る機能と傾向だけでなく後述する悪循環に直面するためには、それらの外的で間接的な原因を認識しておいたほうがよい。
  だが、それらの外的間接的原因に対して前述の鏡像破壊、過度の反抗、他人を責めること…などが生じると、自我が自己の陥る機能と傾向と前述の悪循環に直面することを妨げる。だが、それらも強烈であり、それらも放置し自然消退するのを待ったほうがよい。

自我が陥る機能と傾向だけでなくそれらの悪循環に直面すること

  自己の陥る機能と傾向は折に触れてイメージとして想起され、それらのイメージは不安、自己嫌悪…などの強い精神的苦痛を生じてきた。だから、自我はそれらのイメージを回避し取り繕ってきた。その結果、それらのイメージを回避し取り繕う傾向が形成されてきた。その結果、陥る傾向が全般的に減退しなかった。この一般の陥る機能と陥る傾向のイメージの回避と取り繕いという陥る機能と傾向の循環が今まで述べてきた様々な悪循環のうちの主要なものである。自己の陥る機能と傾向だけでなくその少なくとも主要な悪循環に自我が繰り返し直面する必要がある。すると、イメージとして想起される陥る機能と傾向が辟易に似た精神的苦痛を生じるようになる。そのような悪循環に繰り返し直面した後に生じる苦痛は単に陥る機能と傾向に直面することから生じる不安や自己嫌悪や恥辱と異なる。すると、自我の中で陥る機能が機能イメージとして想起されても、それらが辟易に似た精神的苦痛を生じるようになり、陥る傾向は減退する。つまり、不安、自己嫌悪、恥辱…などの精神的不安が辟易に似た精神的不安に変わる必要がある。

自我の真っただ中の現場で一般の陥る機能の機能イメージと陥る傾向のイメージの回避と取り繕いという陥る機能の機能イメージとそれらの悪循環のイメージに三段構えで直面すること

  だが、それらへの直面が、特にその悪循環への直面が単なる知識に終わる恐れがある。
  だから、自我は自我の現場で自我の真っただ中で機能イメージとして想起される陥る機能と機能イメージの想起の直後にイメージとして想起されるその悪循環に直面する必要がある。『自我と自我の傾向―自我をもつ動物の心理学』で説明されたとおり、自我は重層構造をもち、より大きな自我の中で想起される機能イメージとその想起の直後に想起されるイメージについてより小さな自我が思考し直面することは可能である。それらは次のような三段構えになる。
  第一に、自我が機能イメージとして想起される一般の陥る機能に直面する必要がある。
  第二に、一般の陥る機能が機能イメージとして想起されると、苦痛が生じ、陥る傾向のイメージの回避と取り繕いという陥る機能が機能イメージとして想起される。自我はそれらに直面する必要がある。
  第三に、前述の一般の陥る機能と陥る傾向のイメージの回避と取り繕いという陥る機能と傾向の悪循環もイメージとして想起される。自我はそれらに直面する必要がある。
  そのように、自我の真っただ中の現場で、一般の陥る機能の機能イメージとイメージの回避と取り繕いという陥る機能の機能イメージとそれらの悪循環のイメージに三段構えで繰り返し自我は直面する必要がある。すると、陥る意識的機能の機能イメージの素材から辟易のような不快の自律感覚へのイメージ神経細胞路が確実に活性化され、陥る傾向は減退していく。例えば、第一に、対人関係という状況の中で自己顕示という陥る機能が機能イメージとして想起されるときに、自我がそれらの機能イメージに直面する必要がある。第二に、それらの機能イメージが自己嫌悪、恥辱…などの苦痛を生じ、それらの機能イメージの回避と取り繕いという陥る機能が機能イメージとして想起されときに、自我がそれらの機能イメージに直面する必要がある。第三に、陥る傾向を回避し取り繕ってきたために繰り返してきた悪循環が想起され、自我がそれらのイメージに繰り返し直面する必要がある。そうすれば陥る傾向は減退する。

陥る傾向のイメージを回避し取り繕う傾向に直面すること

  だが、陥る傾向は執拗であり、陥る傾向は容易には減退しない。それは何故か。
  それは、陥る傾向のイメージの回避と取り繕いが陥る機能と傾向、特に陥る傾向のイメージを回避し取り繕う機能と傾向に自我が直面することを妨げているからである。そのような回避と取り繕いは複雑で多様で個々人に特異的である。だから、それぞれの個人の自我だけがそのイメージに直面できる。だが、陥る傾向のイメージを回避し取り繕う傾向は主として思春期に形成される。思春期の自己と自我は乳幼児期や前思春期のそれらより現在のそれらに近い。思春期に傾向が形成される機能とそれらの傾向とそれらの形成への直面はるかに容易である。簡単に言って、それらは昨日のことのように思い出されるだろう。

[訳注:この日本語訳に関するお問い合わせはNPO法人わたしたちの生存ネットまでお寄せください。]
参考文献

感覚とイメージの想起
―記憶をもつ動物の心理学

自我と自我の傾向
―自我をもつ動物の心理学

生存と自由

小説『二千年代の乗り越え方』略称"2000s"


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