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悪循環に陥る傾向への直面
―習性をもつ動物の心理学(日本語訳)

自我の傾向の形成と減退

『感覚とイメージの想起―記憶をもつ動物の心理学』と『自我と自我の傾向―自我をもつ動物の心理学』の復習

  この著作の基礎には『感覚とイメージの想起』と『自我と自我の傾向』がある。だから、できればそれらを読んだ後でこの著作をお読みいただきたい。だが、筆者らはそれらの著作が読まれなくても、この著作が読めるように努力する。『自我と自我の傾向―自我をもつ動物の心理学』は自我の傾向の基本と理論を説明している。この著作はそれらの応用と実践を説明する。以下に『感覚とイメージの想起―記憶をもつ動物の心理学』と『自我と自我の傾向―自我をもつ動物の心理学』をごく簡単にまとめる。
  心的現象として現れるものは感覚で現れるものとイメージとして現れるものまたはイメージに大別される。簡単に言って、心に思い浮かぶものがイメージである。イメージを素材として生じると前提されるものをイメージの素材またはイメージと呼べる。つまり、イメージという言葉はその素材を指すこともある。イメージの素材は神経系においては神経細胞群の興奮伝達または能力である。イメージの素材を再生する神経機能をイメージの想起と呼べる。簡単に言って、ものが思い浮かぶこと、ものが思い出されること、ものが予期されること…などがイメージの想起、イメージが想起されること、ものがイメージとして想起されることである。想起というと過去のことが思い出されることが思い浮かぶかもしれないが、現在のことが思い浮かぶこと、未来のことが予期されること、非現実的なものが空想されることもイメージの想起に含めることにする。
  意識的機能は以下のように分類される。簡単な説明または例を挙げる。

意識的機能
  (1)随意運動
      前頭葉の運動野から運動神経に至る神経細胞群の興奮伝達と横紋筋の収縮から生じる。
    (1-1)単位的随意運動
      それ以上分離できない。
      関節の屈伸、眼球の運動、舌の運動、声帯の運動緊張弛緩…など
    (1-2)複合随意運動
      単位的随意運動から構成される。
      直立二足歩行、直立二足で走る、クロール、バタフライ…などで泳ぐ…など
  (2)純粋心的意識的機能
    (2-1)イメージ操作
      自我が想起されているイメージを操作することである。
      イメージの結合、分解、切り替え、回避…など
    (2-2)思考
      連想と自我によるイメージ操作とより小さな思考と自我から構成される。
      狭義の思考、追想、予想、空想
  (3)総合機能
      随意運動と知覚と連想と純粋心的意識的機能またはそれらと他のいくつかの機能から構成される。
      言葉を話す、書く、機械を運転する、対人機能…など

  自我について、簡単に言って、自我は状況の中で意識的機能を直接的に生じる。自我は状況と意識的機能の間に介在する。比喩的に言って、状況は入力であり、意識的機能は出力であり、自我はコンピューターである。
  自我は理性系と情動系から構成される。比喩的に言って、理性系が状況の中で可能で必要な意識的機能を提案し、情動系がそれらのうちどれが最大の快を生じるかをもってそれらのうちのどれを実行するかを決定する。だから、どの自我においても情動系のほうが重要である。その詳細の説明は『自我と自我の傾向』のかなりの部分を占めている。以下の説明は中途半端にならざるをえず、分かりずらいかもしれない。その場合は上の二つの比喩でもって自我を理解したもの見なして頂いてかまわない。
  さて、他人の意識的機能だけだなく自己のそれらが感覚され認識されイメージとして生成し記銘保持され更新され想起される。そのようなイメージのうち間接的に意識的機能を生じえるものを「機能イメージ(の素材)」と呼べる。
  機能イメージの素材が通る神経細胞路から意識的機能を生じる神経細胞群(そのスターターが機能的神経細胞群(FF)である)に向けて神経細胞路が存在する。そのような神経細胞路を「イメージ機能神経細胞群」(IF)と呼べる。状況が認識され、それによって機能イメージが想起され、それによってイメージ機能神経細胞路が興奮伝達し、それによって機能的神経細胞群が興奮伝達し、それによって意識的機能が生じる可能性をもつ。それらの状況の認識、機能イメージの想起、機能イメージの素材、イメージ機能神経細胞路の興奮伝達を「理性系」(RS)と呼べる。だが、理性系だけでは自我の全体は生じず意識的機能は生じない。
  想起される機能イメージが通る神経細胞路から快不快の自律感覚に向けての神経細胞路が存在する。そのような神経細胞路を「イメージ情動神経細胞路」(IE)と呼べる。機能イメージが想起されるとき、それによってイメージ情動神経細胞路(IE)が興奮伝達し、それによって快不快の自律感覚が生じ、それによって機能的衝動が生じ、最も強い機能的衝動が前述のイメージ機能神経細胞路(IF)または機能的神経細胞群(FF)の興奮伝達を促進し、それらによって最も強い機能的衝動を生じた機能イメージが指す意識的機能を生じる。それらのイメージ情動神経細胞路の興奮伝達、快の自律感覚、機能的衝動、それらによるイメージ機能神経細胞路または機能的神経細胞群の促進を「情動系」と呼べる。
  自我は理性系と情動系から構成される。意識的機能は理性系と情動系の両方から生じる。繰り返すが、比喩的に言って、理性系が状況の中で可能で必要な意識的機能を機能イメージとして提案し、情動系がどの意識的機能を採用し実行するかを快不快の自律感覚に問い合わせ、どれが最大の快かをもって決定する。理性系は可能性と合理性がほぼ等しければ、複数の意識的機能を機能イメージとして提案する。それらの提案される意識的機能の中には人間社会の法や倫理にのっとったものもそれらに反するものもそれぞれの個人にとって独自のものも含まれる。そのいずれを選択し実行するかを決定するのが情動系である。だから、自我の中では情動系のほうが重要である。
  一つの意識的機能を生じる可能性をもつ理性系と情動系を「被限定自我」と呼べる。通常、状況の中で多数の被限定自我が生起し、共通の行程を通る。その行程の中には被限定自我が競合する部分がある。被限定自我は譲り合わない。何故なら、被限定自我の正体は神経細胞群または神経細胞路の興奮伝達だからである。その部分の中で競合しつつ生じる傾向が最も大きい限定自我が他を立ち消えさせて生じ、その機能イメージが指した意識的機能を生じる。ある状況の中で生起する被限定自我の集合と互いに競合する部分を含むそれらが通る共通の行程を「限定自我」と呼べる。限定自我の中で一時に、複数の、実際は多数の被限定自我が生起し、それらのうち、競合しつつ生じる傾向が最も強い限られた数(N)の被限定自我が生じる。そのような傾向を「被限定自我の(生じる)傾向」と呼べる。
  その限られた数(N)、つまり、一時に生じる被限定自我の数については『自我と自我の傾向―自我をもつ動物の心理学』で詳しく説明された。そこで説明された慣性自我が問題になるなら、Nは複数でありえる。だが、この著作で説明される被限定自我は慣性的なものではない。だから、この著作ではNは1である。つまり、一時に、多数の被限定自我が生起するが、生じる傾向が最も大きいただ一つの自我が生じる。このことは「一時に一つのことしか考えられない」というわたしたちの日常的感覚と一致するだろう。
  ただし時間的に、ゼロコンマ数秒から数秒の間の時間のうちに、多数の被限定自我が生じて消え、入れ替わり立ち代わる。このことも、「考えは移ろいやすい」というわたしたちの日常的感覚と一致するだろう。
  そのように限定自我の中に被限定自我があり、それらは区別される。だが、逐次、それらを区別し、「限定」「被限定」…などの言葉を使っていると文章が煩雑になる。だから、文脈からどちらを指すかが明らかなときは、それらを区別せず、それらの言葉を省略し、「自我」「自我の傾向」…などの言葉を用いることにする。
  そのような(被限定)自我の傾向を決定づけるのは以下のものである。乳幼児期から現在に至る時間の中で、特定の状況の中で意識的機能が生じてそれが快の情動を生じまたは不快の情動を減退させ、快の自律感覚を生じたとき、その意識的機能の機能イメージからその快不快の自律感覚に至るイメージ情動神経細胞路が活性化される。それらが繰り返されたとき、その神経細胞路の能力が大きくなるまたは維持される。現在に同様の状況が認識されその意識的機能の機能イメージが想起されたとき、それらの活性化されたイメージ情動神経細胞路が興奮伝達しそれらの快の自律感覚を生じ、強い機能的衝動を生じ、それらの機能イメージを含む被限定自我の全体が生じ、それが指す意識的機能が生じる。簡単に言って、ある意識的機能を生じようとする被限定自我の傾向を決定づけるのは、過去にその意識的機能が快の情動をどれだけ強くどれだけ頻繁に生じたかである。
  だが、大人にとってはその説明では不可解な意識的機能が残る。何故、長期的に見れば苦痛を生じる自暴自棄や破壊や粘着などの意識的機能を自我は生じるのか。それは乳幼児にはそれなりの幼い自我があり、自我の傾向は乳幼児期から形成され、それらの意識的機能が乳幼児に一時的にせよ快を生じたからであり、そのような乳幼児期に形成された自我の傾向は執拗でなかなか減退しないからである。
  意識的機能と被限定自我は自暴自棄、粘着、自己顕示…などの群に分類される。そのような群の一つに属する意識的機能の機能イメージの素材は同一または同類のイメージ情動神経細胞路の興奮伝達と活性化を生じ、同一または同類の快の自律感覚を生じる。だから、そのような群の一つに属する被限定自我の傾向はともに形成される。傾向がともに形成されるような被限定自我の群を被限定自我の「概略」と呼べる。また、一つの概略に属する被限定自我の傾向の平均を被限定自我の概略の傾向と呼べる。被限定自我の傾向は概略を単位として形成される。また、ある概略に属する被限定自我から生じる意識的機能の群を意識的機能の概略と呼べる。
  日常でも心理学でも人間の意識的機能、被限定自我、被限定自我の傾向は概略を単位として論じられることが多い。例えば、あの人は粘着的だ、何でも破壊的しようとする、なんでも支配しようとするとわたしたちは言うことが多いが、それらのそれぞれは被限定自我の概略の傾向を言い当てている。これらの著作でも意識的機能と被限定自我とそれらの傾向を概略を単位として論じることが多い。だが、逐次、概略という言葉を用いていると文章が煩雑になる。だから、日常でも心理学でもこれらの著作でも概略という言葉は省略されることが多い。例えば、なんでも破壊するという被限定自我の概略の傾向という言葉は何でも破壊する自我の傾向と書き換えられる。
  ところで、概略を単位として形成されるのは被限定自我の傾向であって、意識的機能の能力ではない。意識的機能の能力は概略より小さい亜群を単位として形成される。例えば、対人回避という意識的機能の概略には(1)仮病を使うなどして対人関係を直接的に避ける(2)専ら浅薄な対人機能を生じる(3)専らビジネスライクな対人機能を生じる(4)専ら破壊的で人を寄せ付けない対人機能を生じる…などの亜群があり、それぞれに能力が必要であり、それらのすべてに優れた人はなかなかいない。また、何でも支配し破壊しようとする自我の傾向が強い人でも、「家ではライオン、外ではネズミ」になる意識的機能の亜群の能力は発達するものである。
  (被限定)自我の(概略の)傾向が大きくなることをその形成、それが形成されることと呼べ、小さくなることをその減退、それが減退することと呼べる。「減退」と言うと悪いイメージがあるかもしれないが、例えば、粘着的傾向や破壊的傾向が減退すれば長期的な苦痛が減退する。それらの傾向が減退しなければ苦痛は減退しない。
  一般に、自暴自棄、粘着、自己顕示のような被限定自我の(概略の)傾向は乳児期幼児期前半に形成され、それ以降は減退する。そのような個人における形成と減退を見究めるには、傾向の絶対値が適する。それに対して、それらの過度の形成と減退の遅れを見究めるには、同種同年齢における標準偏差値が適する。だから、それらの絶対値だけでなく標準偏差値も傾向として取り扱い、それらの増減も形成または減退として取り扱うことにする。
  また、被限定自我の概略の傾向の絶対値または標準偏差値を要素とする行列を「限定自我の傾向」またはその「習性」と呼べる。また、それらの要素が変化することをその傾向の形成または再形成と呼べる。例えば、ある限定自我の傾向の標準偏差値は、(自棄的傾向, 粘着的傾向, 自己顕示的傾向, ...)=(53, 64, 59, ...)と記述される。
  そのように被限定自我の傾向と限定自我の傾向は区別される。だが、文脈からどちらを指すかが明らかなときは、それらを自我の傾向と呼べる。また、「被限定自我の概略の」という修飾語を使わなくても通常、傾向という言葉は被限定自我の概略の傾向を指すことにする。また、「意識的機能の」という修飾語を使わなくても通常、能力という言葉は意識的機能の能力を指すことにする。

人間性と人格

  いわゆる人格は知性、知識、精神的情動の傾向、意識的機能の能力、自我の傾向から構成される。それらのうち最も重要なのは自我の傾向である。次に重要なのは意識的機能の能力または精神的情動の傾向である。例えば、対人不安や対人機能能力も重要だが、対人回避的な被限定自我の傾向が形成されると、対人機能が滅多に生じず、対人機能能力はますます未熟にとどまり、対人不安は強くなる。
  人間にとって重要なのは知性と知識、特に思考の産物、いわゆる観念、思想であったはずである。それらがいわゆる「人間性」のほとんどを構成する。特に啓蒙運動以来、それらが重視され、それらが多様な現代の文化を形成してきた。これらの著作はそれらが人間にとって重要であることを決して否定しない。だが、自我の傾向はそれらの形成を偏向させる。例えば、何でも支配するまたは破壊する自我の傾向が強い人では、独裁的で専制的な欲求や思想が形成される。そのように、自我の傾向は人格だけでなく人間性も決定づける。

同様の機能の傾向または能力がまとめて形成される時期

  人間には以下のような同様の機能の傾向または能力がまとめて形成される時期がある。つまり、(1) 本能的機能を模倣しそれに便乗することによって自我の傾向が形成され次いで減退する時期、(2)自己のイメージとその周りとそれらの産物に対処することによって自我の傾向と精神的情動の傾向とイメージの想起の傾向が形成される時期(3)自我の傾向と意識的機能の能力に対処することによって自我の傾向が形成される時期。(1)(2)(3)をそれぞれ「乳児期幼児期前半(乳幼児期)」「幼児期後半前思春期」「思春期」と呼べる。人間においては平均的に

(1)乳児期幼児期前半:0歳~3歳
(2)幼児期後半前思春期:3歳~12歳
(3)思春期:12歳~17歳

である。繰り返すが、それらはあくまでも平均的にである。それらをもう少し詳しく説明する。

(1)乳児期幼児期前半 = 乳幼児期

  新生児における短絡、粘着、自己顕示…などは人間においても本能的機能である。だが、新生児にもそれなりの非常に原始的な自我があり、自我が発達し始める。そのような自我はそのような本能的機能を模倣する。それは新生児が模倣できるものは、ほとんど自身の本能的機能だけだからである。そこで、本能的機能に似た意識的機能の概略を生じる本能に似た自我の概略の傾向が形成される。
  ここで、いくつかの本能的機能は自我に模倣されて後に自我の概略になるような原初的な群に分類されることが分かる。そのような群を本能的機能の「原初的概略」と呼べる。これらの著作が本能的機能を論じるとすれば、それらの原初的概略を論じることが多い。また、本能的機能の原初的概略という言葉を逐次、用いていると文章が煩雑になる。だから、それらを単に「本能的機能」という言葉で指すことが多い。
  それらを含めて一般の本能的機能の傾向は新生児において最大であり、その後、減退する。それも遺伝子による後天的な減退である。また、本能的機能の原初的概略以外を模倣する自我と記憶の枠組みも発達し始める。そこで、本能的機能に似た意識的機能を生じる本能に似た自我は形成された後、減退し始める。結局、この時期においては本能的機能に似た意識的機能を生じる本能的な自我の傾向が形成され次いで減退する。
  また、這う、立つ、歩く、話す…のような意識的機能の能力が発達し始める。特にこの時期には直立二足歩行と言葉を話すという人間にとって最も基本的な意識的機能の能力が発達し始め、前者はこの時期にほぼ完全に形成される。
  対人関係について、この頃には母親また主たる世話人との関係がほとんどを占める。そのような状況の影響については後述する。

(2)幼児期後半前思春期

  (1)記憶の枠組みがほぼ成熟し、記憶の内容も豊富になる。だから、わたしたちはこの時期に生じた出来事のいくつかを後に思いだすことができる。言い方を変えると、わたしたちは記憶の成熟以前のことは何も思いだすことができない。また言い方を変えると、記憶の枠組みが成熟していなかったから、わたしたちは三、四歳以前のことを何も覚えていないのである。さらに言い方を変えると、私たちはそれぞれの乳児期幼児期前半と幼児期後半前思春期の境目を、断片的にでも覚えている出来事の年齢をかき集めることで推測することができる。その出来事として最も多いのは弟妹の誕生、祖父母または曾祖父母の死である。
  そのような記憶の枠組みの成熟によって自己のイメージが生成し始める。やがて世界の無限性に対する自己の有限性が認識され始める。それとともに自己がやがて死ぬことへの不安が生じ始める。同時にそのような自己のイメージとその周りとそのような不安に対処する自我の傾向と情動の傾向が形成され始める。
  対人関係について、母親や主たる世話人から離れた対人関係の中に入って行くが、まだ、それらの支持によってまたは施設や学校の中でである。

(3)思春期

  自己の自我の傾向や意識的機能の能力が認識されるようになり、それらに対処する自我の傾向が形成される。
  対人関係としては、独立した対人機能を生じる対人機能能力はかろうじて形成されている。いずれにしても、現代においてはまだ学校の中に居る。
  性的機能の飛躍的な発達が始まってから終わるまでの時期と大部分で重なる。
  この時期の始まりの指標は、自己の自我の傾向、意識的機能の能力を含むいわゆる「人格」について考え始めたときである。

子供の世話

  特に乳児期幼児期前半の子供の生存と成長に不可欠な年長者の子供に対する機能をそれらによるその「世話」と呼ぶことにする。それは授乳、おむつ替え、だっこ、入浴、離乳食を与えるを含む。

母親

  乳児期幼児期前半の子供の世話を主としてするべき立場にある人間をその「母親(または養母)」と呼べる。あくまでもそのような立場にある人間をそう呼ぶのであって、母親は必ずしも適切な世話をしているわけではない。また、母親は必ずしも愛情をもって世話をしているわけではない。
  通常、母親は実母だが、実父、義母、義父、祖父母、兄姉、保育士…なども母親でありえる。また、母親は必ずしも一人ではない。例えば、実父が失業中で実母が就労中の場合、二人ともが母親であることはありえる。また、実母が2歳で亡くなり祖母がそれ以降育てた場合、二人ともが母親であることはありえる。また、実母が仕事で忙しく、幼児を保育所に預けていた場合、実母と保育士が母親になりえる。しかも、保育士は通常、複数である。だから、これらの著作では一人の子供についても「母親(または養母)」の複数形が使われることが多い。だが、ほとんどの母親が実母であることに変わりはない。それは理想的な理由によるのではなく現実的な理由による。

乳児期幼児期前半の子供の人間関係

  乳児期幼児期前半の子供に人間関係の選択の余地はない。それらの人間関係は母親または養母と他の数人に限られる。そのような限られた人間関係において、彼らは愛と世話を獲得するしかない。このことはあたりまえすぎて見逃されてきたことである。

母親の愛情

  多くの場合、母親の子供に対する愛情は前述の子供の世話と他の対人機能と一体化している。簡単に言って、母親は大なり小なりの愛情をもって子供の世話を大なり小なりする。比喩的に言って、愛情は世話の味付けのようなものである。愛情がなくても、世話があれば、乳幼児は生物学的に生存し成長するが、心理学的にどうなるか。それは神経系の障害を除く障害をもって生まれ保育器の中で機器や管を装着されて育った人間の観察から確かめられるように見える。だが、そうはいかない。それらの乳幼児は看護師、保育士…などの育児の熟練者との人間関係の真っただ中にあるからである。研究者は当然、それらの熟練者に愛をもつなという指示を出すことはできない。
  情動は『自我とそれらの傾向―自我をもつ動物の心理学』で詳しく説明された。快不快の感覚、欲動、感情、欲求、複合的情動を情動と呼べる。愛情は、性的欲動、群れようとする欲動、子供を産み守り育てようとする欲動、孤独への不安、対人欲求…などから構成される複合的情動の一種である。人間だけが愛情をもつのではなく、哺乳類の一部が愛情をもつ。人間は他の動物より複雑な愛情をもつ。
  愛情は対象と状況によってかなり異なる。そもそも、母親の子供への愛、異性間の愛、特定の人間への愛、一般の人間への愛、真実への愛…などを同じ「愛」という言葉で論じるのが間違っている。この著作のこれ以降では愛という言葉は母親の子供への愛を指すことにする。
  第一に、人間にも大なり小なり、血縁に係わらず若年者を守り育てようとする欲動(1)が残っている。第二に、そのような欲動は妊娠に始まる内分泌系、神経系の変化(2)の影響を大なり小なり受ける。だが、(1)(2)がすべてではない。第三に、乳児の世話を主としてするべき立場にある人、つまり、母親または養母がその乳児と初めて対面したときには、「生命に対する驚き」のような感情(3)が大なり小なり沸いてくる。そのような感情は出産後初めて乳児と対面した実母によって語られることが多いが、すべての母親または養母に大なり小なり生じる。母親にとって二番目、三番目…の子供であっても、前回の子供との出会いのときに感じたことはほとんど忘れ去られている。第四に、乳幼児は成長しつつ大なり小なり母親を引きつけ母親の情動に影響(4)を及ぼす。(1)-(4)が優勢な情動を(母親の子供への)「(自然な)愛情」と呼べる。
  母親の愛情には、成長すれば労働力になる、老後は面倒をみてくれる…などの利己的な欲求が混入する。そのような欲求は社会的制度の影響を受ける。例えば、高齢者福祉の充実した国家においては子供に面倒を見てもらおうという母親は少ないだろう。また、労働者の人権擁護と子供の公的教育のための制度が整備されている国家においては、子供を働かせる母親は少ないだろう。いずれにしても、そのような欲求が愛情に大なり小なり、混入することは避けられない。また、前述の(1)-(4)が優勢である限り、ある程度の混入は子供にとって無害である。
  また、母親の愛情には子供を健康に育てなければならないという義務感が伴う。そのような義務は慣習法と成文法にも基づく。そのような義務感が優勢な複合的情動を愛情と呼ぶことはできない。だが、ある程度の義務感は必要である。
  繰り返すが、前述の(1)-(4)が優勢な複合的情動を母親の愛情と呼ぶことができる。だから、母親は愛情について難しく考える必要がない。極論になるが、母親の愛情とは何かなどと考える母親は愛情をもっていない。
  一般に他人の情動は知覚され認識される。3歳以前の子供においても、それなりに、母親の愛情は知覚され認識される。そこで以下の不一致が問題になる。

(1)(母親の子供への)愛情
(2)母親が認識している自身の愛情
(3)母親が追求している自身の愛情
(4)子供が認識している母親の愛情
(5)子供が追求している母親の愛情

  子供にとって問題になるのは(4)(5)と(4)と(5)の間の格差である。母親にとって問題になるのは(1)(2)(3)と(2)と(3)の間の格差とそれらと(4)(5)と(4)と(5)の格差の間の格差である。だが、前述の自然な愛情が優勢である限り、それらの格差はあまり問題にならない。何故なら、子供が認識できるのは前述のような自然な愛情だけであり、大人の事情を子供たちは認識できないからである。
  また、乳幼児が求めているのは、深い愛でもありあまる愛でもなく、前述の(1)-(4)が優勢な普通の愛情である。何故なら、乳幼児は普通の愛があれば、おもちゃ、友達…など愛以外のものを求めるからである。
  繰り返すが母親の子供への愛と子供の世話と他の対人機能は一体化している。だが、そのことを逐次、断り、「母親の子供への(自然な)愛情と世話と他の対人機能」のような言葉を用いていると文章が煩雑になる。だから、愛が優勢な場合はそれらを愛と呼び、世話が優勢な場合はそれらを世話と呼び、両者が優勢な場合はそれらを愛と世話と呼ぶことにする。

母親の愛情と世話の希薄

  母親の愛情または世話が一時的に希薄になることはよくある。それに対して、持続的または反復的に母親の愛情または世話が希薄であることを母親の愛情または世話の希薄と呼べる。例えば、母親が孤立し対人関係がほとんどないとき、子供を離さず、子供との関係で孤立感を癒そうとすることがある。そういうとき、孤立感を癒そうという自我と欲求が優勢になり愛情は希薄になる。また、母親の何でも支配する自我の傾向が強く、子供も支配しようとするとき、愛情は希薄になる。さらに、それらの二つの例は後述する囲い込みに繋がることがある。前述のとおり、子供は自然な愛しか認識できない。母親の愛情が希薄になる原因や状況は認識できないが、自然な愛情が希薄であることは認識できる。
  また、いわゆる「溢れんばかりの愛」について、それに前述のような情動や自我がかなり混入している、つまり、そのほとどは見かけの愛であることがあり、愛情は希薄なことがある。また、前述のとおり、子供が求めているのは過剰な愛ではなく自然な普通の愛である。だから、過剰な愛には注意を要する。
  粘着、自己顕示…などは乳児が母親の愛と世話を得るのに適した本能的機能(の原初的概略)である。乳児にもそれなりの幼い自我があり、乳児はそれらの本能的機能を模倣しそれらに便乗し、乳児期幼児期前半にはそれらの本能的機能に似た意識的機能を生じる本能に似た自我の概略の傾向が形成される。乳児期幼児期前半に母親が愛情をもって子供の世話をするとき、幼児は母親の愛情と世話に満足し、ときには愛情に辟易して、愛情以外のものを求め、それらの本能に似た自我の概略の傾向が減退していく。それに対して、母親の愛情と世話が希薄であると、乳幼児は愛情に満足できずいつまでも愛情を求め、母親に粘着、自己顕示…などし続け、それらの本能に似た自我の概略の傾向が減退しない。母親の愛情希薄は後述する陥る傾向を形成する最強の外的状況である。
  虐待、放置…などは母親の愛情希薄より重大で、明確である。だが、前者に注意するあまり、後者が軽視されてはならない。いずれにしても、前者は後者を含む。また、前者を後者の極端な様相と見なせる。これらの著作では虐待、放置…などを母親の愛情希薄に含めることにする。

囲い込み

  自身のなんらかの快の欲求を増大させまたは維持しまたは不快の情動を減退させるために、個人、特に母親が他人、特に自分の子供を物質的身体的にも精神的にも独占し離さないことを個人による他人の「囲い込み」、個人が他人を囲い込むことと呼べる。
  母親において全般的に欲求不満が強いとき、子供で満たせる欲求が高め挙げられ、母親が子供を囲い込むことが多い。特に、母親が孤立し対人関係が狭く対人欲求不満に陥っているとき、子供で対人欲求を満たすために、子供を囲い込むことが多い。また、いわゆる「過干渉」において、母親または父親または祖父母は自己の価値観を子供に押し付けて自己の価値観を広めるという欲求を満たそうとする。これらの著作ではいわゆる過干渉を囲い込みに含めることにする。

  囲い込みにおいて母親が満たそうしているのは愛情と異なる精神的情動である。だから、結果として囲い込みにおいて愛情は希薄となる。
  母親の愛情希薄と囲い込みは後述する子供の陥る傾向を形成する最強の外的状況である。

模倣

  他人と自己の意識的機能と本能的機能が知覚され自我がそれらを生じようとする。それが模倣の前半である。何度も失敗しながらも、自我がそれらの意識的機能と本能的機能に似た意識的機能を繰り返し生じる。それが模倣の後半であり試行錯誤である。それらが繰り返されるうちにそれらの意識的機能の能力とそれらを生じる自我の傾向が形成される。それが模倣の完成であり、思考錯誤の終わりである。そのようにすべての意識的機能の能力とそれを生じる自我の傾向の形成には模倣が大なり小なり係わっている。だが、それらの形成においては、試行錯誤が優勢過ぎて、模倣という言葉を使いずらいものがある。例えば、直立二足歩行、言葉を話す書くのような意識的機能の能力の形成に模倣という言葉は使いずらい。
  また、自己の本能的機能の模倣についても模倣という言葉は不適切かもしれない。何故なら、試行錯誤が少なすぎるからである。「便乗」などの言葉を用いたほうがよいのかもしれない。だから、これらの著作では模倣と便乗ということばを併用することがある。
  それらに対して、以下の模倣という言葉の使い方はよくあるだろう。特に前思春期と思春期に、特に何でも破壊すること、何でも支配することは模倣され、何でも破壊し支配する自我の傾向が形成されまたは増強される。例えば、残念ながら、破壊的集団で育てられた子は破壊的になることが多いと言わざるをえない。
  だが、自我の破壊的傾向は、乳児期幼児期前半に、自己の本能的機能の模倣と便乗によっても形成される。そのように乳児期幼児期前半に形成された破壊的傾向は自己に向かうことが多い。

直面と回避

直面と回避

  もの(O)が現在に苦痛(PO)を生じ、
Oに係る意識的機能(F)も現在に苦痛(PF)を生じ、
Fは未来にPOを減じるまたは快楽を増大または維持する可能性をもち、
Oに係る別の意識的機能(E)はPOを一時的に減じるとき、
FをOまたはPOまたはPFへの「直面」と呼べる。また、Fを生じる被限定自我を自我のOまたはPOまたはPFまたはFへの直面または自我がOまたはPOまたはPFまたはFに直面することと呼べる。また、EをOまたはPOまたはPF(から)の回避と呼べる。また、Eを生じる被限定自我を自我のOまたはPOまたはPFまたはF(から)の回避または自我がOまたはPOまたはPFまたはFを(から)回避することと呼べる。
  さらに、Oによって、直面または回避が被限定自我の概略になり、その概略に属する被限定自我の傾向が共に形成され、それらの傾向が概略を単位として形成されることがある。そのような概略も直面または回避と呼べる。例えば、対人関係を回避すること、つまり、対人回避は被限定自我の概略であり、その傾向は概略を単位として形成される。前述のとおり、意識的機能としての対人回避には、例えば、対人回避という意識的機能の概略には(1)仮病を使うなどして対人関係を直接的に避ける(2)専ら浅薄な対人機能を生じる(3)専らビジネスライクな対人機能を生じる(4)専ら破壊的で人を寄せ付けない対人機能を生じる…などの亜群があり、それらの能力は別個に形成される。それに対して、被限定自我の概略としての対人回避の傾向は一括して形成される。簡単に言って、自我にとって(1)(2)(3)(4)…に大差はない。
  直面と回避はOと係る機能として両極的な機能であると言える。さらに、直面と回避を含めてすぐになんらかの機能を生じることを「短絡」と呼べ、その短絡と待機が両極的な機能であるとも言える。わたしたちは日常で多くの場合、直面も回避も短絡もせず、待機している。だが、待機していることができない差し迫った状況はある。また、どのような状況でもいつまでも待機していることはできない。
  少なくとも私たち人間においては、直面は闘争と同一ではなく、回避は逃走と同一ではない。例えば、戦争に巻き込まれた人々が未来の身の安全のために現在に危険な逃走をすることは直面である。また、この場合はそれは逃走という意識的機能に対する直面である。また、長年、争ってきた人々が和解することが直面であることがある。その場合は自己の不名誉などにも直面しなければならないことがある。また、話し合いが困難な場合は、それから回避して物理的に戦ってしまうことがある。そのように、特に直面と闘争は同一ではない。そのことを忘れないで頂きたい。
  また、差し迫った状況で敢えて待機することは直面とも見なせる。例えば、母親が適度な愛情をもって乳児を世話すると、乳児は生後6か月頃から軽度の口渇と空腹があっても泣きわめかずにしばらくは待機できるようになる。それは、待機という意識的機能への直面と見なせ、独立への重要なステップである。
  ともかく、人間を含む動物は、過労を防ぐために、いつも直面または短絡しているわけにはいかず、ときには回避、待機、休養し睡眠をとる必要がある。これらの著作はわたしたちはいつでも何かに直面しなければならないと言うものでは全くない。何に直面する必要があるかを明らかにするものである。

イメージ直面とイメージ回避

  想起されるイメージが苦痛を生じることがある。それが『自我と自我の傾向―自我をもつ動物の心理学』で説明された不快の感情である。例えば、イメージとして想起される自己の未熟な対人機能能力は不安、自己嫌悪、恥辱…などの苦痛を生じる。
  その著作で説明されたとおり、自我が想起されるいくつかのイメージを直接的に遠ざけるまたは消滅させることは困難または不可能である。そこで、自我は他のいくつかのイメージを近づけることによって、いくつかのイメージを間接的に遠ざける。それがイメージの切り替えである。想起されるイメージが強い苦痛を生じているとき、自我は苦痛を減退さえすればよく、それらをどうでもよいことに切り替えさえすればよい。簡単に言って、切り替える先はどうでもよい。そのようなときの、いくつかのイメージから他のいくつかのイメージへの切り替えを、自我による前者の回避、自我が前者を回避することと呼べる。例えば、自己の未熟な対人機能能力がイメージとして想起され不安、自己嫌悪…などが生じるとき、自我は知能、体力、外見…などの他の優れていると思われる能力や権力、地位、カネ…などの所有物のイメージに切り替えてそれらのイメージを回避することがある。
  それに対して、苦痛を生じる想起されるイメージを自我が回避せず、それらを操作するまたはそれらについて思考を開始することを自我によるイメージ直面、自我がイメージに直面することと呼べる。
  自我がイメージに直面するとき、まず、イメージ直面が最も複雑な機能イメージとして想起される。それと同時に、未来の快楽の増大または維持または苦痛の減少がイメージとして想起され、『自我と自我の傾向―自我をもつ動物の心理学』で説明されたようにして、適度な動悸、スムースな呼吸などの快の自律感覚が生じる。例えば、対人機能能力を形成することによる未来の安心、賑わい…などがイメージとして想起される。だから、不安、自己嫌悪などの苦痛を生じるにも係らず、自我は自己の未熟な能力に直面するのである。
  イメージ直面またはイメージ回避は精神的直面または精神的回避という言葉でも表現できる。ときにそれらの言葉を用いることにする。

直面と回避の傾向

  少なくとも苦痛を生じる自己のイメージを回避することは被限定自我の概略であり、そのようなイメージを回避する傾向は概略を単位として一括して形成される。例えば、自己の未熟な対人機能能力のイメージを回避する傾向が強い人においては、後述する自己の悪循環に陥る傾向のイメージを回避する傾向も強い。
  だが、他の自我の傾向と比較すると、そのようなイメージを回避する傾向に個人差は少ない。簡単に言って、わたしたちは皆、自己のどす黒い側面を見ないようにするものである。
  だが、これらの著作は人間は何が何でも自己に直面する必要があるというものでは全くない。直面する必要があるものを最大限に絞りこもうとするものである。

悪循環に陥る傾向

本能的機能

  悪循環に陥る傾向を説明する前に本能的機能を説明しておく必要がある。人間の大人においては、自我から生じる意識的機能であり、能力と傾向が主として後天的に形成されるが、人間の新生児においては、自我以外から生じ、能力と傾向が主として先天的に形成される機能を「本能的機能」と呼べる。例えば、大人が乳を吸うことは意識的機能だが、新生児が乳を吸うことは本能的機能である。人間を含む高等な哺乳類では全般的に成長とともに本能的機能の能力と傾向は減退または消滅する。例えば、大人の乳の吸い方はぎこちなくためらいがちである。
  新生児においても自我の枠組みはほぼ完全に形成されており、乳幼児には乳幼児なりの幼い自我がある。それに対して、知覚と記憶と随意運動の枠組みはまだあまり形成されていない。そのような乳幼児においては、幼い自我ができることはほとんど、自己の本能的機能を模倣することだけであり、彼らは本能的機能のいくつかを模倣しそれらに便乗する。彼らが模倣し便乗する本能的機能はいくつかの原初的概略に分類され、それは後に自我が模倣し便乗することによって真正の(被限定)自我の概略になりえる。そのような概略として、短絡、自暴自棄、何でも破壊すること、粘着、自己顕示、何でも支配すること…などがある。
  それらの概略が本能的機能の原初的概略であるうちは、それらは遺伝子、個体、集団、種が生存するのに適した機能である。
  小動物が天敵に襲われたとき即座に逃走する隠れる、人間の新生児が分娩後すぐに泣く、多くの哺乳類の新生児が分娩後すぐに乳を吸う…などが短絡である。多くの動物の子供が親につきまとい親から離れないことが粘着である。多くの動物の子供が鳴く、泣く…などして親の注意を引こうとすることが自己顕示である。それらは遺伝子、個体、集団、種の生存に適した機能であり、それらがなければ、動物は生存していない。
  自暴自棄、何でも破壊すること、何でも支配することについて、状況に応じて、攻撃、防御、待機、支配、服従、信託、独立、依存…などを切り替えることが遺伝子、個体、集団、種の生存に適している。だが、致命的でどんな機能を生じても切り抜けることが困難に見える状況においては、動物は自暴自棄的になり何でも破壊し何でも支配しようとすることがある。そのような自暴自棄と破壊と支配は自己も破壊しえる。だが、そのような本能的機能のために、状況を奇跡的に切り抜けるられることがあり、天敵が一時的にせよ恐れをなすことがある。つまり、何もせず死ぬよりは自暴自棄的になるほうがマシである。人間の乳児も、母親の世話が遅れたとき、どんな他の動物の乳児より激しく泣くことによって、自暴自棄的かつ破壊的になり、独裁者のように母親を支配しようとする。
  人間の新生児を含めて一般の動物の新生児においては、本能的機能の能力と傾向は主として(遺伝子によって)先天的に形成されている。その後、一般の動物において、本能的機能の能力と傾向は成長に伴い、減退する。その減退も主として遺伝子によって先天的に生じる。

悪循環に陥る傾向

以下の(1-1)(1-2)(1-3)から構成され(2)(3)(4)の属性をもつ被限定自我の概略を「(悪循環に)陥る(被限定)自我(の概略)」と呼べる。

(1-1) 平均的に乳児期幼児期前半の人間において、
幼い自我が本能的機能(の原初的概略)を模倣し便乗することによって傾向が形成され、
その後、この時期においても傾向が減退するが消滅せず、
この時期以降も傾向が大なり小なり残り、
(2)(3)(4)の属性をもつ被限定自我の概略を「乳幼児的」(悪循環に)陥る自我(の概略)と呼べる。それらの傾向を乳幼児的(悪循環に)陥る傾向と呼べる。
(1-2) 平均的に幼児期後半前思春期の人間において、自我が自己のイメージと自己のイメージと世界のイメージの間の間隙と自己がやがて死ぬことへの不安に対処することによって傾向が形成され、(2)(3)(4)の属性をもつ被限定自我の概略と精神的情動の傾向とイメージの想起の傾向を「前思春期的」(悪循環に)陥る自我(の概略)と呼べ、それらの傾向を前思春期的(悪循環に)陥る傾向と呼べる。
(1-3) 平均的に思春期の人間において、自我が自己の自我の傾向と意識的機能の能力に対処することによって傾向が形成され、(2)(3)(4)の属性をもつ被限定自我の概略を「思春期的」(悪循環に)陥る自我(の概略)と呼べ、それらの傾向を思春期的(悪循環に)陥る傾向と呼べる。
(2) それらが生じる意識的機能は一時的に、自己の苦痛を軽減するまたは自己の快楽を生じる。だが、長い目で見るとそれらが生じる意識的機能は強くまたは持続的または反復的な自己と他人の苦痛、特に自己の精神的苦痛を生じる。

(3) それらの傾向はともに形成され減退する。
(4) それらとそれらの傾向は様々な悪循環を生じる。

    さらに、陥る自我の概略から直接的に生じる意識的機能を「(悪循環に)陥る意識的機能(の概略)」と呼べる。陥る自我の概略から間接的に生じる他の機能を「(狭義の)(悪循環に)陥る機能(の概略)」と呼べる。陥る自我と陥る意識的機能と狭義の陥る機能の概略を「(悪循環に)陥る機能(の概略)」と呼べる。陥る機能の傾向を「(悪循環に)陥る傾向」と呼べる。陥る傾向の行列を「(悪循環に)陥る傾向(または習性)」と呼べる。さらに、乳幼児的、前思春期的、思春期的それらについても全く同様である。
    陥る機能における機能は自我だけでなく意識的機能、イメージの想起、精神的情動でありえる。例えば、後述する自己と世界の間の間隙の拡大は、イメージの想起であり、自己永遠化欲求は文字通り欲求である。だが、陥る自我を除く陥る機能は陥る自我から直接的または間接的に生じる。また、陥る機能の大部分が陥る自我であり、陥る傾向の大部分が陥る自我の傾向である。端的に言って、陥る傾向の責任は自我にある。
  例えば、ある個人の陥る傾向(または習性)(の標準偏差値)は、

(短絡的傾向, 自棄的傾向, 破壊的傾向, 粘着的傾向, 自己顕示的傾向,...) = (67, 71, 58, 72, 62,...)

と表現できる。
  思春期以降の人間にとっては何故、そのような長い目で見て苦痛を生じる陥る傾向が形成されるか不可思議である。それは人間の新生児や乳児もそれらなりの幼い自我をもち、乳幼児的陥る機能がたとえ一時的にせよ頻繁に苦痛を減退させたからであり、前思春期的陥る傾向と思春期的陥る傾向が乳幼児的陥る傾向を基にして形成されたからであり、乳児期幼児期前半に形成された傾向ほど減退または再形成が困難だからであり、乳児期幼児期前半の何ものもわたしたちは覚えていないからである。

陥る傾向の後天的形成

  前述のとおり、陥る機能の大部分が陥る自我であり、他の陥る機能は陥る自我から直接的または間接的に生じる。また、『自我と自我の傾向』で説明されたとおり、自我の傾向は主として後天的に形成される。だが、前述のとおり、乳幼児的陥る傾向は幼い自我が本能的機能を模倣し便乗することによって形成される。その模倣され便乗される本能的機能の傾向は主として先天的に形成される。そこでは先天的に本能的機能の傾向の大きな乳幼児において本能的機能に似た意識的機能を生じる本能に似た自我の傾向が強く形成されることはありえる。つまり、陥る自我の傾向の後天的形成に先天的なものが影響することはありえる。だが、そもそも、すべての自我の傾向、精神的情動の傾向、イメージの想起の傾向…などの後天的形成には先天的なものが影響する。だから、それらの傾向は完全にではなく主として後天的に形成されるのである。だから、陥る自我の傾向が主として後天的に形成されることに変わりはない。

陥る傾向が共に形成されること

  まず、以下の理由(1)(2)によって乳幼児的陥る傾向は共に形成される。(1)乳幼児的陥る傾向は最初は幼い自我が本能的機能(の原初的概略)を模倣しそれらに便乗することによって形成され次いで大なり小なり減退する。それらの模倣され便乗されるものはすべて、少なくともすべての人間の新生児にあり、どれかが欠けることはないから。(2)乳幼児的陥る傾向の減退を阻害し形成する主要な外的状況が同一の母親の愛情希薄、囲い込み、子供による同一の母親の模倣であるから。
  前思春期以降においても、乳幼児的陥る傾向は大なり小なり残存し、前思春期的、思春期的、後思春期的傾向に影響し続ける。また、多くの場合、(2)の状況が大きく変化することはない。
  第二に、陥る傾向は様々な悪循環を生じ、それらの悪循環の多くはほとんどの陥る傾向を大なり小なり形成する。
  以上のことから一般に陥る傾向は共に形成される。

陥る傾向の普遍性

  乳幼児的陥る傾向は乳児期幼児期前半に形成された後、減退するがすべての人間において大なり小なり残る。また、前思春期的陥る傾向の核である自己のイメージと世界のイメージの間隙、自己がやがて死ぬことへの不安、自己永遠化欲求は、陥る傾向が仮になくても、すべての人間において大なり小なりある。また、思春期的陥る傾向の核である自己の陥る傾向のイメージを回避し取り繕う傾向は、仮に陥る傾向を超えても、自己の汚点のイメージを回避し取り繕う傾向として誰にでも大なり小なりある。だから、すべての人間が陥る傾向を大なり小なりもつ。いわゆる精神障害だけがもつのでは全くない。陥る機能と傾向の極端な例の一部が一部の精神障害ととらえられるに過ぎない。この著作は、そのような極端なものではなく、人間の誰にでもあるような陥る機能と傾向を明らかにしようとする。また、陥る機能と傾向に人間の誰もが直面する必要があることを明らかにするだろう。だが、やや重めの陥る機能と傾向の例を挙げて説明したほうが分かりやすいと思うのでそうすることにする。だが、人間の誰もが陥る機能と傾向をもち、それらに直面する必要があることを忘れないで頂きたい。
  陥る機能は以下を含み、以下がそれらの大部分を占める。

乳幼児的陥る傾向

  繰り返すが、新生児においても自我の枠組みはほぼ完全に形成されており、新生児にも幼いなりの自我ががある。そのような自我は自己の本能的機能(の原初的概略)を模倣しそれに便乗し、本能的機能に似た意識的機能を生じる本能に似た自我の傾向が形成される。やがて、それらの自我は自我の概略になり、それらの自我の概略の傾向が形成される。それは新生児においては随意運動、知覚、連想、思考の能力がまだ十分に形成されておらず、新生児が模倣できるものとしては自己の本能的機能しかないからである。だが、本能的機能の傾向は新生児において最大であり、それ以降は減退していき、随意運動、知覚、連想、思考の能力は形成されていく。とすれば、本能的機能に似た意識的機能を生じる本能に似た自我(の概略)の傾向も減退するはずである。ところが、それらは容易には減退しない。それは何故か。
  乳児期幼児期前半の人間の幼児にとっては母親の愛と世話は不可欠であり、幼児の自我はそれらを求める。本能的機能(の原初的概略)に似た意識的機能(の概略)のうち、新生児にとって、粘着と自己顕示は愛を求めるのに適した機能であり、短絡、何でも支配すること、何でも破壊することは世話を求めるのに適した機能であり、自暴自棄は両方を求めるのに適した機能である。だから、それらの模倣された本能的機能の傾向が減退した後もしばらくの間、それらの本能的機能に似た意識的機能を生じる自我(の概略)の傾向は減退せず形成される。いずれにしても、それらはもはや本能的機能ではなく、完全な意識的機能または自我の概略である。今後は、それらの短絡、自暴自棄、粘着、自己顕示、何でも支配すること、何でも破壊すること…などの言葉は意識的機能または自我の概略を指すことにする。だが、他の意識的機能や自我の概略と区別するために、それらを本能的意識的機能(の概略)または本能的(被限定)自我(の概略)とも呼ぶことにする。
  だがさすがに、乳幼児においても随意運動、知覚、連想、思考は発達し、本能的意識的機能以外の意識的機能の能力とそれらを生じる本能的自我以外の自我の傾向も形成されていく。また、母親の世話がなくてもできる意識的機能が増えていく。簡単に言って、幼児の選択肢が増えていく。例えば、母親意外と遊ぶまたは一人で遊ぶという選択肢がある。そこで、母親の愛情と世話が十分なとき、乳幼児の自我は本能的意識的機能以外の意識的機能も生じ、本能的自我以外の自我の概略の傾向が形成され、本能的自我の概略の傾向は減退していく。
  それに対して、母親の愛情または世話が希薄であるときどうなるか。母親の世話の必要性は減じていくとはいえ依然、大きい。母親の愛情への欲求は減じない。乳幼児の自我はそれらを求めて本能的意識的機能を生じ続けざるをえず、本能的自我の概略の傾向は減退せず、形成され続ける。
  そのように傾向と能力が形成される本能的自我と本能的意識的機能は次第に本能、本能的機能とはあまり似ないものになる。よく言えば、人間的で独創的で洗練されたものに、悪く言えば不自然で人工的で狡猾なものになる。それらは後思春期まで残ることが多く、特に大人の粘着と自己顕示は狡猾である。
  さらに、まだ強力な本能的機能と本能的意識的機能と本能的自我の概略が残っている。それは孤立である。一般の動物の新生児において、母親や群れから離れて独立または孤立することは生存に適さない。子供は成長するにつれて徐々に独立または孤立していく。だが、群れの中でいじめ虐待等を受けた子供は早めに孤立せざるをえない。そのような孤立はいわば最後の本能的機能である。人間においては、母親の愛情と世話が希薄なとき、幼いなりの自我が懸命に働いて精神的に孤立し、孤立する(本能的)自我の概略の傾向が形成される。そのような孤立がもたらすものは後述する。
  では、乳幼児的陥る傾向の詳細を見て行こう。

短絡

  動物に即座に意識的機能または本能的機能を生じさせる本能的機能(の原初的概略)を「短絡」と呼べる。その逆は待機である。
  短絡はいくつかの動物の種の遺伝子と個体と集団と種が生存するのに適した本能的機能である。例えば、ネズミ、リス…などの小動物は、肉食動物に襲われたときに即座に逃走しなければ生存することができない。また、ときに待機することは動物の遺伝子と個体と集団と種が生存するのに適した機能である。例えば、小動物が逃げて隠れた後はしばらくじっとしている必要がある。また、いくつかの肉食動物は待ち伏せをする。
  動物において平均的に、新生児は短絡するが、それはそれらにとって生存に適した機能である。哺乳、保温…などは新生児にとって急を要するものだからである。その後、子供は次第に待機などできるようになる。その変化と結果もそれらの生存に適している。人間においても、新生児は苦痛、飢え、渇きがあるとき泣き喚き短絡する。それは本能的機能である。そうでなければ、ほとんどの母親は育児に失敗していただろう。
  生後まもなく、乳児の幼いなりの自我が短絡という本能的機能を模倣しそれに便乗し、短絡する本能的自我の(概略の)傾向が形成され始める。   だが、母親が愛情をもって乳児の世話をすると、乳児は乳児期の中頃(0.5歳頃)から授乳などの世話が少し遅れても待機できるようになり、短絡的傾向が減退する。それ以降も子供は短絡する必要性のなさと不利さと待機、迂回、思考…などすることの必要性と利点を体験し、短絡的傾向が減退し、待機、迂回、思考…などする傾向が形成される。
  それに対して、母親の愛情が希薄で世話が不十分なとき、乳児なりの幼い自我は待機できず短絡し泣きわめき続け、短絡的傾向、自棄的傾向、破壊的傾向が形成されることが多い。
  短絡的傾向が形成されると、自我が短絡である意識的機能または既に能力が形成された意識的機能、特に陥る意識的機能ばかりを生じる。だから、他の意識的機能の能力と被限定自我の概略の傾向が形成されにくく、陥る傾向が減退しない。これも悪循環である。
  また、短絡的傾向が形成されると、自我はあまり思考しようとせず、思考能力があまり形成されない。すると、自我が稀に思考しようとしても、思考は表層的で貧弱であり、考えて行動してもよい結果をもたらさない。すると、自我は思考全般に見切りをつけ、短絡を美化し正当化さえする。すると、ますます思考能力が形成されず、短絡的傾向が形成される。これも悪循環である。
  だが、短絡がしばしばもたらす独創的な産物が偶然に傑作であり、子供が天才ともてはやされることがある。それが子供をさらなる悪循環に陥れることがある。
  この章で説明された短絡は注意欠陥多動性障害の短絡と明確に区別される必要がある。後者の主要な原因は神経系の機能的および器質的障害にあり、前者の主要な原因は乳児期幼児期前半の被限定自我の概略の傾向の形成過程にある。後者の治療法が確立していないのに対して、前者は自我が自己の陥る機能と傾向に直面すること、特に思考を放棄していることと自己の短絡を美化し正当化していることへ直面することによって減退する。

自暴自棄

  本能的機能(の原初的概略)としての自暴自棄は既に説明された。それは窮地に追い込まれた動物の最後の手段である。人間の新生児にとっては幸か不幸か、自暴自棄は泣き喚くことでしかない。母親の世話が遅れたとき、新生児または乳児は泣き喚く。そのようにして、自暴自棄的(本能的)自我の(概略の)傾向が形成される。その傾向は、母親が愛情をもって世話をするとき減退し、母親の愛情と世話が希薄であるとき減退せず形成される。
  自暴自棄的な意識的機能は乳児期幼児期前半を過ぎた子供または大人が自分の主張を通すのに適した手段でもある。そのような自暴自棄は乳児期幼児期前半に傾向が形成されたものの延長としてその傾向を増強することもあれば、別の自我の概略として別の傾向を形成することもある。その別の自我の概略は明らかに自己保身的である。それに対して、乳幼児期前半に形成された自暴自棄は自己破壊的である。それがもたらすものについては後述する。

何でも破壊すること

  同種または他種の動物から攻撃されたり自然災害を受けたとき、動物は防御、反撃、逃走、隠遁…などする。それらを状況に応じて切り替えることは動物の遺伝子と個体と集団と種が生存するのに適した機能である。だが、それらの機能が適わないとき、動物は自棄的になり何でも破壊することがある。そのような破壊は結果的に自己を巻き込むことがある。自暴自棄と何でも破壊することは成功率は上に挙げた機能より低いが、窮地に陥った動物が生き延びるのに適した機能であることがあり、通常、最後の手段である。
  人間では破壊が同種に向かうことが他の動物より多い。例えば、虐待、いじめ、暴力、戦争、虐殺…などは破壊に含まれる。戦争、虐殺…などの大規模な破壊が権力者の何でも破壊する傾向から生じることがある。
  また、人間では破壊が意図的に自己に向かうことがある。自殺、自傷だけでなく、拒食、過食、薬物乱用…なども自己の破壊と多くの部分で重なる。自己の破壊も何でも破壊することに含めることにする。
  動物の乳児も自棄的になり何でも破壊する。人間の乳児では随意運動の能力がまだ十分に形成されていないので破壊が明らかでない。だが、本能的機能としての何でも破壊することの傾向はあり、実際には何も破壊できないが、母親の世話が遅れると泣き喚いて何でも破壊しようとしている。
  それとともに、乳児の幼いなりの自我が本能的機能(の原初的概略)としての何でも破壊することを模倣しそれに便乗し、何でも破壊する(本能的)自我の(概略の)傾向が形成されていく。母親が愛情をもって乳幼児を世話すれば、乳児期の中頃(0.5歳)に、乳幼児は待機することができるようになり、何でも破壊するわけではなり、何でも破壊する自我の傾向が減退していく。
  それに対して、母親の世話と愛情が不足するとき、乳幼児は待機できず短絡し、自棄的となり、何でも破壊し続け、短絡的傾向と自棄的傾向とともに破壊的傾向は減退せず形成されることが多い。
  そのように傾向が乳児期幼児期前半に形成される破壊は、思春期に次のようなものに発展することが多い。つまり、それが「自己破壊」に発展し、後者の傾向が自己破壊的傾向として形成されることがある。それは極度のリストカット、大量服薬…などとして具体化することが多い。また、それは極度の薬物依存、摂食障害…などに発展するまたはそれらと重複することがある。何がそのようにさせるのか。
  まだ、乳児期幼児期前半には自己のイメージは生成しておらず、現実的で差し迫った自己の死への不安や恐怖も自己がやがて死ぬことへの不安もない。だから、短絡し、自暴自棄的になり、破壊している乳幼児は自己の死を恐れない。また、乳幼児期に傾向が形成されたそれらをしている子供と大人を含む個人は自己の死をあまり恐れない。また、乳幼児期に傾向が形成されたそれらに基づくそれらをしている個人は自己の死をあまり恐れない。
  さらに、次のことが自己破壊と自己破壊的傾向増強する。前思春期には自己のイメージが生成し、現実的で差し迫った自己の死への不安や恐怖と自己がやがて死ぬことへの不安が生じるようになる。乳幼児期に愛情と世話の極端な希薄、虐待、極端な放置、極端な孤立…などを被った個人の中では、後述する自己の複合イメージ破壊によって自己のイメージが明確に生成せず、現実的で差し迫った自己の死への不安や恐怖と自己がやがて死ぬことへの不安が強くならないことがある。そのような人間はなおさら自己の死を恐れない。
  それらが自己破壊と自己破壊的傾向の主因である。
  何でも破壊する傾向は前思春期とそれ以降に子供による年長者の模倣によっても形成される。例えば、残念ながら破壊的な親の子供は破壊的になることが多い。また、これも本当に残念なことだが、暴力的集団で育てられた子供は破壊的になることが多い。その傾向は子供が年長者を模倣することによって形成される。そのよな破壊は前述の傾向が乳幼児期に形成される破壊とは別の自我の概略と見なしたほうがよいだろう。傾向が前思春期とそれ以降に形成される破壊は自己に向かうのではなく他人に向かうことが多い。それはその形成の時期には自己のイメージが生成しており、現実的で差し迫った自己の死への不安と自己がやがて死ぬことへの不安が存在し機能しているからである。
  また、思春期における母親と他の人間による子供の囲い込みと子供によるそれへの反抗は、子供の破壊的傾向を形成または増強することがある。子供は独立を勝ち取るためには囲い込みに反抗しある程度、破壊する必要がある。だが、囲い込みとそれへの反抗とそれの破壊があまりに強く頻繁なら、以下のようになる。子供はそれらに反抗しそれらを破壊することに終始し、他の機能をほとんど生じず、他の自我の概略の傾向や他の意識的機能の能力は形成さない。その結果、彼らの独立は阻害され、破壊的傾向は形成または増強される。
  結局、人間の何でも破壊する自我の概略として以下のものがある。
(1)傾向が本能的機能の原初的概略の模倣と便乗によって形成される自我の概略。自己破壊に至る可能性が大きい。
(2)基本的に(1)であり、傾向が自己のイメージの不明瞭と現実的で差し迫った自己の死への不安や恐怖と自己がやがて死ぬことへの不安の希薄さによって増強される自我の概略。自己破壊。
(3)傾向が他者の破壊的な意識的機能の模倣によって形成される自我の概略
(4)基本的に(1)であり、傾向が(3)によって増強される自我の概略
(5)傾向が囲い込みへの反抗とそれの破壊によって形成される自我の概略
(6)基本的に(1)であり、傾向が(5)によって増強される自我の概略

(1)-(6)の中で最も破壊的で最も注意を要するのは(4)である。端的に言って、乳児期幼児期前半に母親に愛されなかった独裁者に対しては最大限の注意を要する。こう言えば、そのような独裁者は自己の陥る傾向に直面するかもしれない。わたしたちはそれを望んでいる。

粘着

  同種の他の動物を含むものから離れないそれらを離さない本能的機能の原初的概略を「粘着」、それらに粘着すこと、付き纏うことと呼べる。人間においてはそれは(本能的)自我の概略になり、肉体的にも精神的にも母親を含むものから離れずそれらを離そうとせず、愛を得ようとする。そのような(本能的)自我の概略もそれらへの粘着、それらに粘着すこと、付き纏うこと呼べる。
  新生児の粘着は動物の赤ちゃんが生存するのに適した本能的機能である。動物の赤ちゃんは親から離れては生存できない。例えば、哺乳類の赤ちゃんは這ってでも親に付き纏う。人間の乳児は這えるまでも数か月かかるので、付き纏いが明らかではない。だから、泣いて母親を呼ぶ。つまり、泣くことによって母親に粘着している。もしそのような粘着がなければ、人間の新生児や乳児といえども生存しておらず、人間の母親は育児に失敗していただろう。
  本能的機能の原初的概略と本能的意識的機能の概略は一般に母親の愛と世話を得るのに適した機能である。特にこの粘着と後述する自己顕示はそれに適している。母親の眼から見れば、乳児の粘着と自己顕示は、大人のものと違って、かわいらしく見え、母親の愛情をくすぐることが多い。
  母親が世話と愛情をもって乳幼児に機能すれば、粘着的(本能的自我の概略の)傾向が減退し始め、三歳前後にはかなり減退する。それに対して、母親の愛情と世話が希薄であると、乳幼児はいつまでもそれらを求め粘着し続けざをえず、粘着的傾向が減退せず形成され、三歳以降にも残ることが多い。さらに、三歳以降に子供の対人機能の対象が母親以外に広がった後は、そのような子供は一般の人間に粘着する。そのような子供は嫌われ疎外されることが多いので、さらに愛情を求めて粘着せざるをえず、さらに粘着的傾向が形成される。仮にその子の粘着的傾向(の絶対値)がある程度、減退しているとしても、他の子の減退のスピードが速いので、その子は同種同年齢の対人関係の中では目立って粘着的である。
  また、愛そのものを求める欲求が強く形成される。それを「愛情欲求」と呼べる。それは人間を含む高等な哺乳類のすべてにあるのだが、粘着とともに形成される愛情欲求は強烈である。
  そのように母親の愛情希薄は粘着的傾向を形成する主要な外的状況である。母親の粘着と子供による母親の粘着の模倣もある程度は粘着的傾向を形成する。
  その後、粘着は幼稚園や学校の友達、同級生、先生にも向かい、やがて、職場の同僚、部下、上司にも、いたるところで友人と恋人にも、家庭で配偶者と子供にも向かうことがある。そのように、大人の粘着は子供に向かうこともあり、それは子供に模倣される。これは世代を超える悪循環である。また、思春期以降の粘着は複雑で狡猾である。例えば、人を巻き込み操作するようになる。
  粘着的傾向は強い苦痛を生じる。第一に、他人に粘着できないときに強い不安と孤独を生じ、死に物狂いで粘着せざるをえなくなる。第二に、他人に疎んじられることによる孤立と孤独を生じる。そのことによっても、ますます粘着せざるをえない。
  さらに、対人関係においてひたすら粘着するために、粘着的な自我の傾向と粘着的な意識的機能の能力以外の対人的な自我の傾向と対人的な意識的機能の能力がほとんど形成されない。簡単に言って、様々な人との付き合い方を知らない。そのことによっても、ますます粘着せざるをえない。これも悪循環である。このことはすべての悪循環に陥る機能について、言えるだが、特に対人機能において特に短絡、自暴自棄、破壊、粘着、自己顕示的について言える。
  前述のような理由で陥る傾向は一般に共に形成される。さらに以下の理由で粘着、自己顕示、何でも支配すること、何でも破壊すること、孤立の傾向は共に形成されることが多い。粘着して愛を得るためには人は自己顕示しようとする。粘着して愛が得られない場合は相手を支配または破壊しようとする。その結果として疎外され孤立する。今後はその説明を省略することにする。

自己顕示

  自己を同種の他の動物に過度に顕示することを「自己顕示」と呼べる。人間においては、かっこうをつける、やたらと自己を語る、自慢話をする、過去の遍歴を語る、自己を虚飾して語る、自己の欠点さえも語る…などが自己顕示に含まれる。
  自己顕示は動物の新生児が生存するのに適した本能的機能(の原初的概略)である。何故なら動物の赤ちゃんは親の注意と世話を引き出さなければ生きていけないから。例えば、犬も猫も人間も親の注意を引きつけるような鳴き方をする。だが、他の乳幼児的陥る傾向と同様にして自己顕示的な(本能的)自我の(概略の)傾向が形成され始める。
  大人は子供がかわいいと思うことがあり、それは自然な感情である。また、率直に子供を賞賛することがある。母親においてはなおさらそうである。そうすることは愛と重なる。
  人間においては、乳幼児が母親に愛され賞賛されれば、乳児期幼児期前半の終わり頃(3歳前)に、幼児は愛され賞賛されることと自身の自己顕示に満足または辟易し、母親を含む他人に自己顕示以外の対人機能を生じ、自己顕示的傾向が減退していく。
  それに対して、母親の愛情(と世話)と賞賛が不足するなら、乳幼児はそれらに満足または辟易できず、いつまでも自己顕示し続け、自己顕示的傾向が減退せず維持または形成されることが多い。そのように、自己顕示的傾向を形成する主要な外的状況は母親の愛情(と世話)と賞賛の不足である。
  その他の自己顕示的傾向の形成過程と悪循環のありさまは粘着のそれらとほとんど同様である。ここでは自己顕示に特徴的なことだけを述べる。自己顕示において、わたしたちが他人に顕示するのは他人のために誇大化されたり虚飾された自己であって、現実の自己ではない。だが、自己顕示を繰り返しているうちに、現実の自己のイメージが誇大化され虚飾された自己のイメージで部分的にせよ覆われてしまう。結果として、自己顕示的傾向は、自我が自己とその陥る傾向に直面することを妨げる。これも悪循環である。

何でも支配すること

  固体が同種の他の個体または集団とそれらの属性のすべてを見境なく支配しようとすることを「何でも支配すること」と呼べる。人間では、支配はどうでもよいようなことでも何でも取り仕切ろうとする、ともかく上に立とうとする、ポジション取りをする、なんでも独占しようとするを含む。
  言い遅れたが、人間においては支配、破壊…などには相当な程度や広がりがある。例えば、独裁、大量虐殺がそれぞれ大きな程度や広がりをもつ支配、破壊である。新生児や乳児にそのような支配、破壊がありえるわけがない。奇妙な意味を込めないように前の段落では「~しようとする」という言葉を用いる。人間の新生児や乳児においては支配、破壊は泣き喚くという形で生じるだけである。
  状況に応じて支配と委任と服従と非服従と抵抗を切り替えることは動物の遺伝子と個体と集団と種の生存に適した機能である。だが、それらの切り替えはかなり高度な機能である。また、それらのそれぞれも比較的複雑な機能である。また、特定のものを支配することは容易ではない。それに対して、何でも支配しようとすることは単純で容易である。前述のとおり、人間の新生児または乳児は泣きわめくことによって母親を支配する。それも生存に適した本能的機能(の原初的概略)である。その後、他の乳幼児的陥る傾向と同様に、何でも支配する本能的機能の(原初的概略の)傾向は次第に(本能的)自我の(概略の)傾向になっていく。
  人間では、母親が愛情をもって乳幼児の世話をすれば、乳幼児はなんでも支配する必要がなく、何かを委託する、ときには服従する…などの対人機能を母親とそれ以外に生じて、何でも支配する傾向は減退していく。つまり、これはすべてお乳幼児的陥る傾向にいえることなのだが、特に何でも支配する傾向は、乳幼児にとってそうする必要がないことによって減退する。
  それに対して、母親の世話と愛情が不足すれば、乳幼児は何でも支配し続け、支配的傾向が減退せず形成される。そのように、何でも支配する傾向を形成する主要な外的状況は母親の愛情と世話の希薄である。
  後思春期に何でも支配する傾向がますます形成されることがある。地位と権力とカネを得て人を支配することができた人間はますますそれらを得て何でも支配しようとするものである。そのように何でも支配する傾向は乳児期幼児期前半と後思春期に形成されえる。
  だが、

(1)乳児期幼児期前半と後思春期の両方で傾向が形成される何でも支配すること
(2)主として後思春期に傾向が形成される何でも支配すること

とは区別できる。既に何度も述べた理由によって(1)は何でも破壊すること、自己顕示…などを伴い、それらの傾向をもつ人間は他人を支配すことによって派手な破壊的行動に至ることがある。また、後に述べる理由によって(1)は自己永遠化欲求を伴うことがあり、それをもつ人間は権力やカネを得て人を支配し歴史に残るような偉大なことをしようとすることがある。だから、独裁、弾圧、戦争…などに至りやすいのは(1)であり、一般市民は(1)により注意する必要がある。
  また、(1)または(2)の傾向の強い人が社会で権力やカネを得られないときは、いわゆる「内弁慶(家ではライオン、外ではネズミ)」になり、家庭を支配しようとして、子供とパートナーの囲い込み、家庭内暴力…などを起こすことがある。
  ところで、そのような家庭内の傾向に男女差はない。上の社会における傾向についても、男女に均等の社会参加の機会が与えられるなら、男女差はないであろう。歴史上、暴君や独裁者の多くを男性が占めていた原因は様々に考えられる。だが、その主因は、権力とカネを獲得する機会やそれらを獲得する能力を磨く機会が専ら男性に与えられていたことである。

ナルシシズム

  乳児期幼児期前半の人間においても、幼児期後半前思春期とそれ以降ほどの明確なものではないが、曖昧な自己のイメージが生成している。そこで、他人に愛され賞賛されないとき、それらの自我が自ら自己を愛し賞賛することはありえる。自我が自己を自ら愛し賞賛することを「ナルシシズム」と呼べる。
  ナルシシズム的な本能的機能の原初的概略のようなものがあるかどうかは疑わしい。簡単に言って、他の動物や人間の新生児がナルシシズム的になることがあるとは考えられない。だから、ナルシシズムは本能的自我の概略ではなく、並の自我の概略であると考えられる。また、母親の愛や賞賛の厚さに係らず、ナルシシズム的な自我の傾向は大なり小なり形成されると考えられる。
  乳児期幼児期前半に母親を含む他人からある程度、愛され賞賛されると、子供は愛され賞賛されることと自己を愛し賞賛することに満足または辟易して、他人や他のものを愛し賞賛して、ナルシシズム的自我の傾向は減退していく。そうでないとナルシシズム的傾向は減退せず、強いものが形成されることがある。
  ナルシシズム的な本能的機能の原初的概略のようなものがあり、幼児の自我がそれを模倣しそれに便乗しているかは疑わしい。だが、母親の愛情と賞賛の希薄は外状況としてその傾向を形成することに変わりはない。だから、大なり小なり、ナルシシズム的(自我の概略の)傾向は他の乳幼児的陥る傾向、特に自己顕示的傾向、粘着的傾向とともに形成される。
  また、ナルシシズムは一人遊びや白日夢などのイメージの弄びに繋がり、後に孤立に繋がることがある。
  また、幼児期後半前思春期には、ナルシシズムは自己のイメージと世界のイメージの間の間隙の拡大、自己がやがて死ぬことへの不安、自己永遠化欲求…などの前思春期的陥る傾向を増強する。
  以上のことからナルシシズムを(乳幼児的)陥る機能に含め、ナルシシズム的(自我の概略の)傾向を(乳幼児的)陥る傾向に含めることにする。
  思春期以降はナルシシズムは以下のように機能する。強いナルシシズムは不安定である。本当の自己が認識されたときしばしば、それに直面することに慣れていないために、強い自己嫌悪を生じ、結局、ナルシシズムと強い自己嫌悪が交替することがある。また、他人を愛し賞賛することに慣れてないために、ナルシシズムは強い特定の人への愛と賞賛と交代することがある。

複合イメージ破壊

  人間において、複合イメージとして想起されるものが不安、恐怖、自己嫌悪、恥辱…などの不快の感情を生じるとき、幼児期後半前思春期とそれ以降の比較的成熟した自我はそのイメージを他の苦痛をあまり生じないイメージに切り替える。それをイメージの回避と呼べる。それはイメージ操作に含まれる。だが、乳児期幼児期前半の人間においてはイメージ操作や思考の能力はまだ未熟であり、乳幼児の自我はイメージの切り替えをうまくすることができない。そこで、いくつかのイメージから大きな苦痛が生じる乳幼児の自我はそれらのイメージを乱雑に破壊する。例えば、虐待する母親のイメージは不安、恐怖を生じ、そのようなイメージを破壊する。さらに、虐待を受ける自己のイメージさえも破壊することがありえる。そのような破壊は成熟した自我がすることができるイメージを元に復元できる切り替えや分解とは異なる。その結果、複合イメージ、自己のイメージ、イメージの想起、連想、精神的情動、自我、思考…などのいくつかが一般の人間や心理学者や精神医学者にとってさえも理解できないものになることがある。苦痛を生じるイメージを乱雑に破壊することとそれがもたらす結果を「複合イメージ破壊」、複合イメージを破壊することと呼べる。
  複合イメージ破壊の傾向は、母親の虐待、放置…などの愛情希薄の極端な例から形成されることが多い。
  複合イメージ破壊は、二つ以上の異なる自己のイメージが生成する多重人格を含むいわゆる解離性障害の「解離」、いわゆる境界人格障害の「分裂」などに発展することがありえる。

白日夢

  随意運動の能力が形成されていない乳幼児においても自我は、拙ないながらも、イメージを操作することができる。彼らはときにはイメージを操作して一人で遊んでいると考えられる。次第にイメージ操作または思考の能力が形成され、イメージとして現れるものの中で架空の世界を構築できるようになる。覚醒している間にイメージとして現れるものの中で想像上の世界を構築すること、その想像上の世界を、それぞれ白日夢を見ること、白日夢と呼べる。
  母親から十分に愛されず世話をされず、場合によっては虐待され無視され、身体的精神的苦痛を受ける乳幼児は白日夢を見ざるをえない。
  もちろん大人も白日夢を見る。だが、たいていの大人は、白日夢の内容が現実でないことを容易に認識でき、それから覚めた後は比較的容易に現実に復帰できる。それに対して、幼児はそんなに容易にそれらをすることができない。
  白日夢を見ることは後述する孤立的傾向を増強しえる。だから、白日夢を見る傾向を陥る傾向に含めることにする。
  だが、すべての白日夢が有害であるわけではない。いくつかの白日夢は想像力と創造力を高める。

孤立

  群れ、家庭、社会…などの集団から離れることは動物の新生児と乳児の生存に適した本能的機能ではない。だが、群れから破壊、攻撃、疎外…などされ、個体がある程度、成長しているとき、集団の中にいるより集団から離れたほうが生存に適することがある。だから、いくつかの動物の種において、群れから孤立するという本能的機能を生じる遺伝子、「孤立遺伝子」が存在し機能する可能性がある。もっとも、そのような個体においても性的機能という本能的機能を生じる遺伝子は健在であることが多く、孤立した個体も性的機能は生じることが多いことは確かである。つまり、それらも性的には孤立していない。さもないと「孤立遺伝子」は存在しない。
  人間においては孤立は(原初的)本能的機能の概略であることがありえる。だが、乳児期幼児期前半半ば過ぎの幼児の孤立は並の自我の概略である。

  人間においては、物質的身体的に独立または孤立するのは他の動物よりかなり遅れる。また、物質的身体的には、子供たちも法的社会的制度によってある程度は保護されている。それに対して、精神的な独立または孤立はほとんど人間だけに特有のものであり、子供たちは身体的に保護されているほど精神的に保護されていない。だから、人間に特有の精神的に自らを孤立させる自我の傾向が形成される。例えば、少し成長した子供は一人遊びをすることができるが、それ以前に物質身体的に一人遊びがなくても、白日夢においてイメージを弄ぶことができる。
  人間においては、母親の愛情が希薄であれば、乳幼児は主として精神的に孤立し、そのように孤立する自我の傾向が強く形成される。虐待、放置…などがあれば、乳幼児は物質身体的にも精神的にも孤立し、そのように孤立する自我の傾向が形成される。
  孤立は後述するようにして前思春期的陥る傾向の形成を促進する。だから、孤立的傾向を(乳幼児的)陥る傾向に含めることにする。

母親の陥る傾向と愛情希薄と子供の囲い込みと子供によるによる母親の陥る機能の模倣

  粘着は愛を求めるが愛をほとんど与えない。破壊には愛がほとんど伴わず憎しみが伴う。人間は誰かを愛して、その人の愛が得られなかったとき、その人を破壊または支配することがある。自己顕示、ナルシシズムでは他人に対する愛より自己に対する愛がはるかに強い。主としてそれらと理由により、強い陥る傾向をもつ人が母親になると子供に対する愛情が希薄であることが多い。
  また、強い陥る傾向をもつ人は主として孤立し疎外されるために、様々な欲求不満に陥る。そこで、強い陥る傾向をもつ人が母親になると、前述のとおり、満たされない精神的情動を子供を囲い込むことによって満たそうとすることが多い。そのような囲い込みにおいて母親が満たそうとしている精神的情動は愛情とは異なり、結果として囲い込みにおいては母親の子供への愛情は希薄になる。
  また、乳幼児にとっても、囲い込みは不快なことがあり、何でも破壊すること、何でも支配すること、孤立…などのいくつかの乳幼児的陥る傾向を促進することがある。
  また、乳幼児といえども身近な人を模倣する。幼児期後半以降に傾向が形成される回避、取り繕い…などの陥る機能は乳幼児に模倣は難しいが、年長者の乳幼児的陥る機能は乳幼児にも模倣が容易である。母親のそれらは特に模倣される。結局、子供は乳児期から思春期まで年長者の陥る機能を模倣し、それぞれの時期に特有のものを模倣する。
  また、ナルシズムを除いて、乳幼児的陥る傾向は最初は乳幼児のそれなりの自我が本能的機能(の原初的概略)を模倣しそれらに便乗することによって形成される。
  以上のことから、乳幼児的陥る傾向の原因は、

(0)模倣され便乗される本能的機能(の原初的概略)の傾向
(1)幼い自我が本能的機能(の原初的概略)を模倣しそれらへ便乗すること
(2)母親の子供に対する愛情と世話の希薄
(3)母親の子供の囲い込み
(4)乳幼児の母親を含む年長者の陥る機能の模倣

である.

ここで、(0)本能的機能の傾向は主として遺伝子によって先天的に形成されるが、(1)(2)(3)(4)は後天的なされる。だから、乳幼児的落ちいる傾向でさえも、専ら遺伝子によって先天的に形成されるのではない。だが、(0)の影響は無視できず、(0)が強い乳幼児において乳幼児的陥る傾向が強く形成されることはありえる。だから、乳幼児的陥る傾向は「完全に」ではなく「主として」後天的に形成される。
  また、以上のことから、母親が強い陥る傾向をもっているとき、子供が強い陥る傾向をもつ確率は高い。これは陥る傾向の世代を超える悪循環であり、「世代を超える」悪循環に陥る傾向と呼べる。だが、その悪循環もはやはり遺伝子によって後天的に形成されるのではなく、外的状況や幼い自我によって主として後天的に形成される。
  だが、(0)(1)(2)(3)(4)はあくまでも「乳幼児的」陥る傾向の原因であって、一般の陥る傾向の原因はない。この著作を最後まで読んでいただきたい。

自己イメージの生成

  自己は『生存と自由』で定義された。人間では、過去、現在、未来の身体、情動、想起、連想、意識的機能、自我、思考、思考、それらの能力または傾向、それらの産物としての観念…などから構成される複合イメージとして自己は想起される。人間において平均的に、自己のイメージは前思春期の初め、つまり四歳頃に生成し始め、その終わり、つまり十二歳頃に完成する。

自己がやがて死ぬことへの不安

  自己のイメージが生成し想起されてしばらくすると、自己の時間的有限性、自己がやがて死ぬこと認識され、その認識が自己がやがて死ぬことへの不安を生じるようになる。自己イメージの生成以降、その不安を減退させようとす試みが人生の一つの様相となる。その不安を減退させる決定的方法は『生存と自由』で説明されている。

自己永遠化試行

  自己がやがて死ぬことへの不安は何らかの方法で自己を永遠化しよう試みる自我と欲求と意識的機能を生じる。そのような自我と欲求を「自己永遠化欲求」と呼べ、そのような自我と意識的機能を「自己永遠化試行」と呼べる。
  いくつかの自己永遠化試行は、愛と重なる。それは、愛が他人を含み、他人と共に作るものであり、自己を超えているように見えるからである。また、いくつかの自己永遠化試行は、宗教と重なる。その例は挙げるまでもないだろう。また、なんでも支配すること、権力欲求…などと重なる。例えば、権力者が自身の巨大な墓を建てることと重なる。

自己と世界の間の間隙の拡大

  イメージの中では、自己のイメージと自己以外のもののイメージの間に隙間がある。そのような間隙を「自己と世界の間の間隙」と呼べる。元来、自己のイメージは少なくとも自己に心的現象として現れるもののイメージとものそのもののイメージから構成されれており、いびつで曖昧なものである。それに対して、世界のイメージはものそのものイメージだけから構成されており比較的明瞭である。だから、それらの間に間隙があることは必然であり、人間の誰にもそのような間隙がある。
  乳幼児があまり孤立していなければ、そのような間隙は母親、他の人々、ペット、おもちゃ…などで埋められるので、そのような間隙は小さい。それに対して、乳児期幼児期前半に深く孤立した人間ではそのような間隙が拡大している。これまでに説明した陥る機能が主として自我の概略の傾向だったのに対して、そのような拡大はイメージの想起の傾向である。だが、(前思春期的)陥る機能と傾向に含めることにする。
  自己と世界の間の間隙が拡大すると、自己がやがて死ぬことへの不安が強烈になり、自己永遠化欲求と思考の傾向が強く形成される。何故ならその不安を乗り越える方法の多くが自己と世界を一体化せることであり、その間隙が拡大しているとなかなかそれらを一体化できないからである。これも悪循環である。

社会を巻き込む陥る傾向

  さらに、自己と世界の間の間隙の拡大、強い自己がやがて死ぬことへの不安と自己永遠化欲求・試行の傾向は、自己顕示的傾向、ナルシシズム的傾向、なんでも支配する傾向、何でも破壊する傾向…などの乳幼児的陥る傾向を強化する。さらにそれらの傾向が一体となって以下に至ることがある。それらの傾向の強い人間はときに、自己を永遠化するために自己顕示して他人の記憶に残ろうとする。それらが強大な権力を獲得すれば、人々を支配して栄光を残そうとすることがある。さらになんでも破壊しようとする傾向ももてば、権力を握って、自由権、社会権、政治的権利、民主制、権力分立制、法の支配、全般的生存権を破壊し、独裁、戦争、全体破壊手段の研究、開発、保持…などに走ることがある。そのような傾向を「社会を巻き込む」(悪循環に)陥る傾向と呼べる。それらの詳細は『生存と自由』で説明される。その著作ではそれらは「独裁型陥る傾向」と呼ばれている。それらの陥る傾向を減退させることは生存と自由を確保する方法でもある。

自己肥大化

  乳児期幼児期前半に孤立したときは自己と世界の間の間隙が拡大し、その後、前思春期にその間隙が自己のイメージで埋められることがある。何故なら、孤立しているために自己以外のイメージが不足しているからである。その結果、自己のイメージは単純に大きくなる。そのことを自己の肥大化と呼べる。
  自己の肥大化は下記の自己美化と大部分で重なる。

自己の美化

  自己と世界の間の間隙を自我が美化された自己のイメージで埋めるだけでなく、既にある自己のイメージも自我が美化された自己のイメージで覆うことを自己の美化と呼べる。乳児期幼児期前半に形成されたナルシズムと共に、幼児期後半前思春期の自我は自己のイメージを美化しようとする。例えば、母親や一般の人間に愛してもらえず疎外されているかわいそうだが美しい者として自己を美化する。そのような美化も自我が自己の悪循環に陥る傾向に直面することを妨げる。これも悪循環である。

前思春期的陥る機能と傾向

  それらが前思春期的陥る機能と傾向である。それらの傾向は、乳幼児期に形成された孤立的傾向によって形成された自己と世界の間の間隙の拡大に自我が対処することによって形成される。だから、乳幼児的陥る傾向と前思春期的陥る傾向は同一個体に共存することが多い。
  以下が思春期的陥る機能と傾向である。

対人機能能力の未熟

  子供が疎外され孤立せざるをえないと、または、孤立的傾向が形成され自我が意図的に孤立すると、自我が意識的機能としての対人機能をあまり生じず、意識的機能の能力としての対人機能の能力はあまり形成されず未熟にとどまる。対人機能の能力を対人能力とも呼べる。例えば、子供に限らず、大人でも数か月隠遁していると対人機能がうまくいかないものである。
  そもそも、孤立する前には子供は疎外または虐待または無視されていたのであり対人不安は強くなっている。さらに、孤立しているとますます対人不安が強くなり、自我が対人回避ばかり生じ、対人機能を生じず、一般的な対人能力は未熟にとどまる。
  さらに、陥る傾向が形成されると、自我が自己顕示、粘着…などの陥る対人機能を生じる。陥る対人機能能力は形成されるが、対人能力は全般的に未熟にとどまる。例えば、何でも支配し破壊するような対人機能にばかり出ていたのでは、協調的な対人能力を含めて対人能力は全般的に未熟にとどまる。
  また、陥る傾向が強く陥る対人機能を頻繁に生じる人間は人から疎外されることが多く、孤立し、対人機能能力は未熟にとどまり、対人不安は減退しない。
  これらも悪循環である。特に後述の対人機能を回避し取り繕う傾向は対人能力の未熟をもたらす。
  だが、陥る傾向が減退するとき、対人能力は意外と早く形成される。結局、対人機能能力の未熟より陥る傾向のほうが重大である。

対人関係を回避すること

  前節のとおり、陥る傾向が形成され対人能力が未熟で対人不安が強いときに自我が対人機能を生じると強い苦痛が生じる。だから、自我は持続的反復的に対人関係を回避し、対人関係を回避する傾向が形成される。この傾向は乳児期幼児期前半に初めて形成されるが、それ以降まだ動揺する。だが、思春期に強く形成され定着することが多い。
  また、思春期の自我は単純にではなく複雑に対人関係を回避する。例えば、深い人間関係に入ることを避けて、表面的な関係に終始する。また、破壊性をちらつかせて人が近寄り難い雰囲気を作る。そのような対人機能は後述する取り繕いとも重なる。思春期にはそのような複雑な対人関係の回避が生じ、そのような複雑な対人関係を回避する傾向が形成される。また、対人関係を回避する被限定自我の概略の傾向だけでなく、対人関係を回避するという対人機能という意識的機能の能力も形成される。簡単に言って、思春期以降の自我の対人関係の回避の仕方は狡猾である。
  そのようにして自我が持続的反復的に対人関係を回避するために、対人機能能力はますます未熟にとどまる。これも悪循環である。
  以上のことから、対人関係の回避は陥る機能に含まれ、対人関係を回避する傾向は陥る傾向に含まれる。また、以下も陥る機能と傾向に含まれる。

対人機能能力の未熟を取り繕うこと

  思春期以降の自我は対人関係を回避するだけでなく、自身の対人能力の未熟を取り繕う。例えば、地位、権力、カネ、容姿…を見せびらかすことによって、その未熟を取り繕う。思春期の青年は自身の地位、権力、カネをもっていないが、親のそれらと自身の容姿を見せびらかすことができる。容姿や顔だちやスタイルは思春期こそ様々なものの取り繕いの絶好の手段になる。後思春期の大人が自身の地位や権力やカネを見せびらかして様々なものを取り繕うことはよくある。そのような取り繕いが前述の自己顕示、ナルシシズム、自己の美化の傾向を強化し、その逆もある。
  そのような取り繕いが他人に完全に見抜かれることはほとんどないが、他人に不快な感情を生じるものである。そのことによっても取り繕うものは疎外され、ますます対人機能能力が未熟にとどまる。

陥る傾向を取り繕うこと

  また、対人関係と言う外的状況の中で、自己の陥る機能と傾向に他人に気づかれると、恥辱のような苦痛が生じるために、自我は自己の陥る機能と傾向を隠し取り繕う。つまり、思春期以降の自我が取り繕うものは、対人機能能力の未熟だけでなく、陥る機能と傾向全般である。そのような意識的機能または自我を陥る傾向の取り繕い、陥る傾向を取り繕う自我または意識的機能または機能と呼べる。
  例えば、幼児期後半以降も母親の愛情を求めて粘着し続け、粘着的傾向が形成されたなどということを他人が気づいていると思うと恥辱という苦痛が生じる。だから、思春期以降の自我は一見したところ粘着と逆のあっさりとした振る舞い方をする。また、もてはやされなかったから自己顕示し自己顕示的傾向が形成されたなどということを他人が気づいていると思うと恥辱という苦痛が生じる。だから、一見したところ控え目に振る舞う。だが、それらの傾向は残っており、取り繕いつつ粘着し自己顕示している。それは人間の誰にもあることである。だが、取り繕う傾向が強い人は奇妙な人と見られることが多い。
  それらを繰り返しているうちに、自己の陥る機能と傾向を取り繕う(被限定)自我の(概略の)傾向が形成される。それを「陥る傾向を取り繕う傾向」と呼べる。また、それらを繰り返しているうちに、陥る機能と傾向の取り繕いという対人機能の(概略の)能力が形成される。簡単に言って、取り繕いが狡猾になる。
  陥る傾向を取り繕う傾向が大きいとき、陥る傾向の取り繕いがほとんどいつも生じ、取り繕い以外の対人機能があまり生じず、取り繕う傾向と能力以外の自我の傾向と対人機能の能力が形成されない。例えば、人と打ち解けて話をする傾向と能力さえ形成されない。
  それらのことから、陥る傾向の取り繕いは陥る機能に含まれ、陥る傾向を取り繕う傾向は陥る傾向に含まれる。
  陥る対人機能と極端に反対の対人機能を生じることによって、陥る傾向を取り繕う対人機能を「反対表現」と呼べる。例えば、思春期に粘着的で面白くなく真面目な人間として他人から嫌われたとき、極端に不真面目な振る舞いをすることがある。反対表現は誤解を招くことが多い。何故なら、それが陥る傾向に基づく反対表現だと理解してくれる人はほとんどいないからである。
  それらのように、陥る傾向を取り繕う傾向は主として思春期に形成される。

陥る傾向のイメージを回避すること

  前述のものが対人関係という外的状況の中で自我が自己の陥る機能と傾向に対処することであるのに対して、後述のものはイメージの想起という内的状況の中で自我が自己の陥る機能と傾向のイメージに対処することである。
  自己の陥る機能と傾向がイメージとして想起されると、それらのイメージは不安、自己嫌悪、恥辱…などの強い精神的苦痛を生じる。例えば、自己の乳幼児的陥る機能と傾向の一つがイメージとして想起され、乳児期幼児期前半に母親に愛されなかったためにいつまでも母親の愛を求め粘着的傾向が形成されたということが連想されると、強烈な恥辱と自己嫌悪を生じる。また、前思春期的陥る機能と傾向のいくつかがイメージとして想起され、自己がやがて死ぬことへの不安におののいて、自己を永遠化しようとし、偉大で歴史に残るようなことをしようとしているというようなことが連想されると、強烈な恥辱と自己嫌悪と場合によってはその不安が蘇る。だから、自我はイメージとして想起される自己の陥る機能と傾向を『自我とそれらの傾向―自我をもつ動物の心理学』で説明されたイメージの切り替えによって回避することがよくある。イメージとして想起される陥る機能と傾向を回避することを、陥る傾向(のイメージ)を回避すること、陥る傾向の(イメージの)回避、(イメージとして想起される)陥る傾向を回避すること、(イメージとして想起される)陥る傾向の回避と呼べる。
  イメージとして想起される陥る傾向を回避することは、前述のような苦痛を一時的に減退させるので、自我は何度もそれらを回避し、それらを回避する被限定自我の概略の傾向が形成される。それらを陥る傾向の(イメージの)を回避する傾向と呼べる。
  陥る傾向を回避する傾向が大きく、陥る機能と傾向がイメージとして想起されるごとに自我がそれらを回避すると、自我が陥る機能と傾向に直面することができず、陥る傾向の全般が減退しない。つまり、陥る傾向を回避する傾向は自我が陥る機能と傾向に直面することを直接的に妨げ、陥る傾向が減退することを妨げる。だから、陥る傾向の回避は陥る機能に含まれ、陥る傾向を回避する傾向は陥る傾向に含まれる。といういより、それらは最大の悪循環であり、最も致命的な陥る機能と傾向である。
  前述の陥る傾向を取り繕う傾向の形成時期と比較して、陥る傾向のイメージを回避する傾向が形成される時期は、不定だが、主として思春期に形成される。だから、この傾向を思春期的陥る傾向に含めることにする。

陥る傾向のイメージを取り繕うこと

  前述の対人関係という外的状況における自己の陥る機能と傾向の取り繕いに対して、以下のようなイメージの想起という内的状況における自己の陥る機能と傾向のイメージの取り繕いがある。また、前述のそれらの回避に対して、もう少し複雑なそれらの取り繕いがある。陥る機能と傾向は、イメージとして想起されたとき不安、自己嫌悪…などの強い苦痛を生じるため、特に思春期のある程度成熟した自我はイメージとして想起される自己の陥る機能または傾向と傾向を回避するだけでなく取り繕う。それを陥る傾向のイメージを取り繕うこと、イメージとして想起される陥る傾向を取り繕うことなどと呼べる。また、その傾向を陥る傾向のイメージを取り繕う傾向などと呼べる。
  例えば、容貌に自信をもつ子供や大人は、それらをもつ自己のイメージで自己の陥る機能と傾向を覆い、陥る傾向を取り繕うことがある。優れた容貌が一般に弊害だと言っているのではなく、それがそのように利用されるなら弊害だと言っているのである。また、地位、権力、カネをもっている大人は、それらを所有する自己のイメージで自己の陥る傾向を覆うことは多い。

陥る傾向のイメージを回避し取り繕う傾向

  陥る傾向のイメージの回避とそれらの取り繕いの原因と結果は同じである。そこで、それらをまとめて陥る傾向(のイメージ)を回避し取り繕うこと…などと呼べ、そうする傾向をまとめて陥る傾向(のイメージ)を回避し取り繕う傾向…などと呼べる。
  繰り返すが、それらは最大の悪循環であり、陥る機能と傾向の中で最も重大である。

迫害されるものとしての自己のイメージの強調と反動または復讐

  陥る傾向をもつ人間は、疎外され孤立することが多く、それらの疎外と孤立の原因を他人または一般の人間または社会のみに帰すことがある。
  迫害される者としての自己のイメージを強調し、自己の陥る機能と傾向をそれらで覆えば、それらの強調と覆いは前述の陥る傾向のイメージの取り繕いであり、陥る機能に含まれる。
  陥る傾向を取り繕うのに必要な程度を過ぎて迫害される自己のイメージが強調されれば、彼らが思う迫害者への反動または復讐につながることがある。そのような強調と前述の自暴自棄、破壊…などが伴えば、それらは激しいものとなりえる。
  だが、それらより以下のほうが重要である。人間の誰もが陥る傾向をもち、一部が強い陥る傾向をもつ。だが、強い陥る傾向をもつ人においてでさえも、誰もが上のように反動または復讐するわけではない。多くは他人ではなく自己に向かい不安、自己嫌悪、恥辱…などを抱き、陥る傾向のイメージを回避し取り繕っている。

鏡像破壊

  自己の陥る傾向については、遅くとも思春期終わりころまでには、それらがイメージとして想起されると何らかの苦痛を生じるようになっている。他人の陥る傾向についても、それらが認識されると曖昧だが同様の苦痛が生じることが多い。それは、自己の陥る傾向がそのような他人の前にある半透明鏡(half-mirror or magic mirror)に映っているようなものである。すると、陥る傾向の強い人が同様の陥る傾向をもつ他人を嫌悪し破壊しようとすることがある。それを「鏡像破壊」と呼べる。
  陥る機能のうち、自己顕示、何でも破壊すること、何でも支配することは、実際の対人関係においてもぶつかりあうことが多い。だから、鏡像破壊はそれらの陥る機能に対して生じることが多い。簡単に言って、目立ちたがり屋は目立ちたがり屋を嫌う。
  また、鏡像破壊は、家族の構成員に生じることが多い。これまでに述べてきた理由によって、子供の陥る機能は母親のものと類似することがある。また、兄弟も同じ母親に育てられてきたのだから、子供の陥る機能は兄弟姉妹のものに類似することがある。また、定義からして母親の配偶者は母親に含まれるか、大なり小なり母親の役割を演じている。だから、子供の陥る機能は母親の配偶者のものに類似することがある。結局、子供の陥る傾向は母親、兄弟姉妹、母親の配偶者のものに類似することがある。何より、まだ外の社会に深く入っていない子供にとって最も親密な対人関係は家族とのものであり、複雑な情動は家族に対して形成されることが多い。だから、鏡像破壊は家族の構成員に対して生じることが多い。
  思春期の青年が親を嫌うことのいくつかはこの鏡像破壊である。鏡像破壊はいわゆる「反抗」と重なるが、鏡像破壊的傾向は、陥る傾向が減退しない限り、思春期が過ぎても減退しない。鏡像破壊が最初に明らかになるのは思春期である。
  鏡像破壊も自我が自己の陥る機能と傾向に直面することを妨げる。何故なら、少なくとも鏡像破壊をしているうちは自己の陥る機能と傾向が自己の属性ではないように見えるからである。これも悪循環である。だから、鏡像破壊は陥る機能に含まれる。

過度の反抗

  親の囲い込みと支配が強く思春期以降も持続するとき、子供や青年がそれらに反抗することに終始し、反抗以外の機能が生じず、反抗以外の意識的機能の能力と自我の傾向が形成されないことがある。例えば、青年が独立するためではなく親から離れるために別居したり結婚することがある。そのような別居や結婚では、独立して生きる傾向が形成されない。だから、過度の反抗は陥る機能に含まれる。

思春期的陥る機能と傾向

  それらが思春期的(悪循環に)陥る傾向である。それらは乳幼児的陥る傾向と前思春期的陥る機能と傾向に自我が対処することによって形成される。
  思春期的陥る傾向の中で最も重大なのは陥る傾向のイメージを回避し取り繕う傾向である。それどころかそれらは陥る傾向の中で最も重大と言える。
  主として乳幼児に形成される何でも破壊する傾向と何でも支配する傾向について、それらの少なからぬ部分が思春期における模倣によって形成され強化される。特に暴力的集団における模倣は重大である。
  以下が後思春期的陥る傾向である。

後思春期的陥る機能と傾向

  後思春期的陥る傾向はあまり重要でない。つまり、思春期以降に重要な陥る機能が新たに出現することはない。だが、陥る機能は全般的に複雑で狡猾になる。特に陥る傾向のイメージを回避し取り繕う機能などの思春期的陥る機能はますます複雑で狡猾になる。だから、なかなか他人にも自己にも気づかれなくなる。

自己の陥る傾向の原因を他人に帰すこと

  前述のとおり、陥る傾向を形成する主要な外的状況として母親の陥る傾向、愛情希薄、囲い込み、子供による年長者の模倣がある。だが、それらは外的状況に過ぎない。この著作の最終部分で陥る傾向を形成する主要な原因はそのような外的状況ではないことが明らかになる。
  いずれにしても、他人に原因があると思い、他人をいつまでも責めることは何の役にもたたたず、それは陥る機能の一種であることは言うまでもないと思う。

自己の陥る傾向へ直面すること

陥る機能の機能イメージが苦痛を生じること

  自我は理性系と情動系から構成される。理性系において、状況の認識から等しく可能で必要な意識的機能が機能イメージとして想起され、いくつかのイメージ情動神経細胞路の興奮と伝達を生じる。その直後に情動系において、イメージ情動神経路の興奮伝達がいくつかの快不快の自律感覚を生じ、それらのうち最も快のものがいくつかの機能的衝動を生じ、それらのうち最も強いものが(被限定)自我の全体を生じる。結局、最も強い機能的衝動を間接的に生じた機能イメージに対応する意識的機能を自我が生じる。比喩的に言って、理性系は状況の中で等しく可能で必要な様々な意識的機能を機能イメージとして提案し、情動系がそれらのうちのどれを採用し実行するかを快不快の自律感覚と機能的衝動をもって決定する。そのように自我において決定的なのは理性系ではなく情動系である。
  もちろん、そのことは悪循環に陥る傾向における自我についてもいえる。陥る機能が機能イメージとして想起されても、それらが快の情動を生じず、または、不安、自己嫌悪、辟易などの不快の情動、つまり、(精神的)苦痛を生じれば、陥る(意識的)機能は生じず、陥る傾向は減退する。ただし、それは陥る機能の機能イメージから直接的に生じる苦痛に関する限りで言える。何がなんでも苦痛を生じればよいというものでは全くない。繰り返すが、陥る傾向が減退するために生じる必要があるのは陥る機能の機能イメージが生じる苦痛である。

陥る傾向の形成過程と悪循環と持続的反復的な苦痛に直面すること

  陥る機能の機能イメージが苦痛を生じるためには、最初は直接ではなく、機能イメージから連想を介して陥る傾向の形成過程と悪循環と持続的反復的な苦痛が想起され、それらが辟易に似た苦痛を生じる必要がある。つまり、最初は機能イメージから苦痛が生じるのは直接的でなくかなり間接的にである。それらを繰り返すうちに機能イメージがより直接的に苦痛が生じるようになる。
  また、陥る傾向は自我の傾向だけでなく、わずかながらも情動の傾向とイメージの想起の傾向を含む。だが、前者が減退するとき、後者も減退する。
  だが、そもそも、それらの形成過程と悪循環と持続的反復的苦痛、自己のもの、他人のもの、一般のものを含めて陥る機能は不安、嫌悪、自己嫌悪、恥辱…などの苦痛を生じてきた。だからこそ、わたしたちは陥る傾向(のイメージ)を回避し取り繕ってきたのである。だから、陥る傾向を知ることはそれらへの「直面」に他ならない。陥る傾向に直面することは必要だが、それも苦痛を伴い、わたしたちはその苦痛を避ける傾向にある。とすれば、できる限りまっすぐに陥る傾向の形成過程と悪循環と持続的反復的な苦痛に直面し、不必要な苦痛を避ける必要がある。

陥る傾向が主として後天的に乳児期から形成されたことを確認すること

  遺伝子によって先天的にあるいは神経系の機能的器質的障害によって後天的に、情動と自我の情動系の傾向が全般的に増減することはありえ、記憶、知覚、連想、思考と自我の理性系の能力または傾向が全般的に増減することはありえる。例えば、反復性うつ病性障害のうつ病エピソードでは、情動と自我の情動系の傾向が全般的に低下する。また、脳器質性障害では記憶、思考…等と自我の理性系が全般的に非理性的になる。遺伝子によって先天的にあるいは障害によって後天的に自我の生じる傾向が増減するとしても、すべてのあるいはほとんどの被限定自我の概略の傾向が増減するのであって、(悪循環に)陥る(被限定)自我の(概略の)傾向だけが増減することはない。限定自我という限定機能の中で、多数の被限定自我が生起するが、(概略の)傾向が最も大きい被限定自我が生じる。そこでは(被限定)自我の傾向が全般的に大きいか小さいかは問題にならず、それぞれの個体の中で、どの(概略の)傾向が比較的に大きいか小さいかが問題になる。つまり、個体の中でのそれらの差が問題になる。
  前述のとおり、新生児、乳児なりの幼い自我は短絡、粘着、自己顕示…などの本能的機能(の原初的概略)を模倣しそれらに便乗する。それらを含めて本能的機能の傾向は主として先天的に形成される。だから、それらの本能的機能の傾向が強い新生児、乳児において、強い乳幼児的陥る傾向が形成されることはありえる。だが、それが事実であるとしても、乳幼児的陥る傾向を含めて陥る傾向が「主として」後天的に形成されることに変わりはない。
  たとえ、親子、一卵性双生児を含む兄弟の陥る機能が似ているとしても、その類似性のほとんどは、遺伝子によって先天的に形成されたのではなく、同じ境遇にあることによって後天的に形成されたのである。
  また、陥る習性が薬物療法や遺伝子治療によって減退するものではないことは言うまでもないだろう。
  多くの人間が陥る傾向を含む自己の属性の再形成を「遺伝だから仕方がない」と諦めてきた。上のことを確認することによって、陥る傾向に関する限りで、そのような諦めを排除することができるだろう。
  それらを確認することによって、陥る傾向を形成するものとして、乳児期幼児期前半から現在に至るまでに生じた状況や自我に集中することができる。

自己に対する他人の心的機能の無駄

  確かに。陥る対人機能は他人の非難、叱責、嫌悪、怒り、冷笑、疎外、無視…などの心的機能を生じることが多い。自己の陥る対人機能とそれらのそれに対する他人の心的機能は共に記銘、保持され、共にイメージとして想起されることが多い。陥る傾向への直面の経験がまだあまりないうちは、それらのイメージは被虐感や反抗を生じ、陥る傾向への直面を妨げる。その直面の経験が中途半端にあると、それらのイメージは自己嫌悪、恥辱、罪悪感などの苦痛を生じることが多い。だが、そもそも、それらの他人の心的機能は対象を自己の全体としがちで、対象を的確に陥る傾向としていない。だから、それらの苦痛があるうちは対象を陥る傾向に絞りにくく、結局、それらの苦痛は陥る傾向への直面を妨げる。そのことは伝統的な倫理、宗教…などによる自己嫌悪や恥辱や罪悪感についても言える。

他人に対する自己の心的機能の無駄

  自己の陥る傾向を形成する外的で間接的な状況として、母親の愛情希薄、囲い込み、子供による年長者の模倣、家庭における虐待、疎外、学校におけるいじめ、疎外などがあることは確かである。だが、後に明らかになるとおり、それらは陥る傾向を形成する外的間接的な原因のうちの主要な原因に過ぎない。後に明確にするとおり、陥る傾向の主因はそんな外的間接的なものではない。
  それらの外的間接的原因に関して、他者への激しい憎悪と前述の鏡像破壊、過度の反抗、自己の陥る傾向の原因を他人に帰すこと…などが生じると、自我が自己の陥る傾向に直面することを妨げる。

陥る傾向の形成過程と悪循環と持続的反復的な苦痛に直面することによって辟易という感情の傾向を形成すること

  この著作の全体に渡って述べてきたし以下でも述べる陥る傾向の形成過程と様々な悪循環と持続的反復的な苦痛に自我が直面するとき、陥る傾向に対する辟易に似た苦痛が生じてくる。簡略化のためそれを単に「辟易」と呼ぶことにする。不安、自己嫌悪、恥辱、罪悪感…などの情動はそれらの対象を自我に回避させ取り繕わせてしまう。それ対して、辟易は陥る傾向を含む情動の対象を自我に回避させ取り繕わせることがない。陥る傾向を減退させることに関する限りで、それが辟易の最大のメリットである。陥る傾向の形成過程と様々な悪循環と持続的反復的な苦痛に自我が直面することによって辟易という感情の傾向を形成することが、陥る傾向を減退させる決定的方法である。
  もちろん、陥る傾向の形成過程、悪循環、苦痛は個人によって様々である。この著作は一般的と考えられるそれらを説明したに過ぎない。だが、この著作はわたしたちのそれぞれがそれらに直面するための参考になると思う。
  それらに直面するとき、辟易とともに悔恨も生じるだろう。だが、悔恨は辟易を増強するだろう。

自我の真っただ中の現場で陥る傾向に直面すること

  だが、それらへの直面、特にそれらの形成過程と悪循環への直面が単なる知識や理論に終わる恐れがある。それを防ぐためには、自我は自我の真っただ中の現場でそれらに直面する必要がある。『自我と自我の傾向―自我をもつ動物の心理学』で説明されたとおり、自我は重層構造をもち、より大きな自我の中で想起される機能イメージをより小さな自我が操作しそれについて思考し直面することは可能である。それが自我の真っただ中の現場でそれらに直面することである。例えば、人間関係という外的状況の中のより大きな自我の中で、粘着や自己顕示という対人機能が機能イメージとして想起されたとき、より小さな自我がその機能イメージを操作して、それらに係る陥る傾向を思考し直面することは可能である。

陥る傾向のイメージを回避し取り繕う傾向に直面すること

  だが、陥る傾向は執拗であり、容易には減退しない。それは何故か。それは、陥る傾向(のイメージ)を回避し取り繕う傾向が陥る傾向、特に、まさしくその陥る傾向を回避し取り繕う陥る傾向に自我が直面することを妨げるからである。つまり、陥る傾向の主要な原因は、母親の陥る傾向、愛情希薄、囲い込みや子供による年長者の模倣にあるのではなく、自己の陥る傾向を回避し取り繕う傾向にある。陥る傾向を回避し取り繕ってきたのは思春期と思春期以降の自我に他ならない。つまり、現在の自我もそれらを回避し取り繕っている。自我はまず現在の陥る傾向を回避し取り繕う傾向に直面する必要がある。それは前節で説明したようにして可能である。
  だが、準備もなしにいきなりその傾向に直面するのは困難なことである。現在の自我は思春期のその傾向の形成過程と悪循環にも直面する必要がある。だが、思春期の自己と自我は乳幼児期や前思春期のそれらより現在のそれらにはるかに近い。思春期の陥る傾向の形成過程と悪循環への直面は乳幼児期または前思春期のそれらよりはるかに容易である。簡単に言って、それらは昨日のことのように思い出されるだろう。

参考文献

感覚とイメージの想起
―記憶をもつ動物の心理学

自我と自我の傾向
―自我をもつ動物の心理学

生存と自由

小説『二千年代の乗り越え方』略称"2000s"


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