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習性をもつ動物の心理学(日本語訳)


基本的な用語

  この著作では、この『習性をもつ動物の心理学』を「この著作」とも呼ぶことにする。また、『記憶をもつ動物の心理学』と『習性をもつ動物の心理学』とこの著作を「これらの著作」とも呼ぶことにする。この著作の基礎に『記憶をもつ動物の心理学』と『自我をもつ動物の心理学』がある。だから、できればそれの著作を読んだ後でこの著作を読んでいただきたい。だが、それらを読まなくてもこの著作の主要部分を理解することは可能だと思う。これらの著作のそれぞれは一つの著作を構成する一つの章とも見なせる。そこで、これらの著作を一つの著作として『記憶以上をもつ動物の心理学』とも呼ぶことにする。これらの著作と『生存と自由』と『生存と自由の詳細』と『生存と自由のための権力分立制』と『特定のものと一般のもの』を「わたしたちの生存ネットの中のすべての著作」または「これらの著作」とも呼ぶことする。
  この著作では、物質、生物、身体、動物、人間、神経系、神経細胞群、機能、生物機能、身体機能、動物機能、人間機能、神経機能、神経細胞群の興奮と伝達、現れるもの、イメージとして現れるもの、イメージ、イメージの素材、感覚、記憶、イメージの想起、知覚、連想、随意運動、総合機能、情動、衝動、自我、意識的機能、イメージの操作、思考…などの言葉は『記憶をもつ動物の心理学』、『自我をもつ動物の心理学』と同じものを指すことにする。
  『生存と自由』と『生存と自由の詳細』では生物の種と人間の種が重要であるから、動物、人間…などの言葉はそれらの種を指した。それに対して、これらの著作では、それらの個体が重要であるから、それらの言葉はそれらの個体を指すことにする。
  『記憶をもつ動物の心理学』で説明されたとおり、他のいくつかの物質または機能を含む属性の全体または部分によって直接的または間接的に機能の全体または部分は生じるまたは変化し、機能の全体または部分は直接的または間接的に他のいくつかの物質または機能を含む属性の全体または部分を生じるまたは変化させる。だが、「生じるまたは変化する」「直接的または間接的に」という言葉をいつも用いていると文章が煩雑になる。だから、生じるまたは変化することを「生じる」こととも呼び、「変化する」、「直接的または間接的に」という言葉を省略することにする。また、それらの機能が生じ機能から生じる「他のいくつかの物質または機能」をすべて挙げることは不可能なことである。例えば、神経細胞群の興奮と伝達は、他のいくつかの神経細胞群の興奮と伝達、酸素、グルコースの消費、筋細胞群の興奮と収縮、分泌細胞群の興奮と分泌、感覚、記憶、自我、思考、随意運動、言葉を話すこと、書くこと、対人機能、自他の情動、自我、思考…などの変化、社会、自然の変化…などを生じ、それらは際限がない。そこで、OUR-EXISTENCE.NETのすべての著作では、自明なものは省略されてきたし省略される。例えば、神経細胞群の興奮と伝達を説明するときは、いくつかのシナプス前細胞群の興奮と伝達から生じ、いくつかのシナプス後細胞群の興奮と伝達を生じることとし、酸素とグルコースの供給と消費…などを省略することにする。

可能性

  物質または機能を含む属性が生じる可能性は、他のいくつかの物質または機能を含む属性が生じる可能性を含む。例えば、神経細胞の興奮と伝達が生じる可能性はいくつかのシナプス前細胞の興奮と伝達、酸素とグルコースの供給…などが生じる可能性を含む。
  物質または機能を含む属性が生じる可能性は「量」、つまり、「大きさ~小ささ」をもつ。その量は実測される確率、それらの積…などから求めることができる。

状況と自然

  物質または機能を含む属性が生じる可能性が他のいくつかの物質または機能を含む属性が生じる可能性を含むことにおいて、「他のいくつかの物質または機能を含む属性」を物質または機能を含む属性の、または、にとっての「状況」と呼べる。例えば、いくつかのシナプス前細胞の興奮と伝達、酸素とグルコースの供給…などが神経細胞の興奮と伝達の状況である。また、太陽、地球、太陽の光、酸素、二酸化炭素、水、他の微生物~植物~動物の食物連鎖、人間社会、親、兄弟、友達、恋人、配偶者、子供、学校、職場…などが個人の状況である。また、それらの個人の状況と自己の情動、自律機能、知覚、連想…などが自我の状況である。
  また、生物の種にとっての状況を生物の種の、または、にとっての「自然」と呼べる。例えば、太陽、地球、太陽の光、酸素、二酸化炭素、水、他の微生物~植物~草食動物の食物連鎖…などが肉食動物の種の自然である。
  身体の部分または身体機能の状況はその個体の身体の他の部分と他の身体機能を含む。もちろん、それは個体以外の物質と機能を含む。身体の部分または身体機能の状況のうち、その個体の身体の他の部分と他の身体機能を「身体状況」または「内的状況」と呼べ、それ以外を「外的状況」と呼べる。例えば、個人の情動、自律機能、知覚、連想…などが自我の内的状況であり、親、兄弟、学校または職場…などが自我の外的状況である。

能力

  可能性に対して、機能が生じる機能に固有の可能性を、機能が生じる「能力」、機能の能力、「活性」、機能が能力または活性としてもつものと呼べる。例えば、神経細胞の興奮と伝達の活性は、いくつかのシナプス前細胞から接合され細胞膜に多くの受容体をもつこと、樹状突起と軸索を伸ばしていくつかのシナプス後細胞に接合し、軸索末端から多くの神経伝達物質を放出すること…などである。また、物質がもつ『記憶をもつ動物の心理学』で定義された必然的機能が自明のときは、その機能の能力を物質の能力、活性…などとも呼ぶことにする。例えば、神経細胞の興奮と伝達の活性を神経細胞の活性とも呼ぶ。
  能力には量、つまり、大きさ~小ささがある。能力の量を測定する方法は様々に考案されている。例えば、記憶力、思考力は一種の心理テストで測定される。

機能が機能すること

  『記憶をもつ動物の心理学』で説明されたとおり、物質と機能を含む属性はその属性がなければもはやそれらがそれらと見なされないような属性をもち、そのような属性をそれらの必然的属性と呼べる。例えば、興奮し伝達する能力をもたない神経細胞を神経細胞と見なすことはできず、興奮し伝達する能力は神経細胞の必然的属性である。また、ある物質の必然的属性のいくつかがいくつかの機能の能力をもつことであるとき、それらの機能をその物質の必然的機能と呼べる。例えば、神経細胞の必然的属性は、(1)細胞である、(2)末端で多数に枝分かれする一本の軸索と多数の樹状突起をもつ、(3)興奮し伝達する能力をもつことである。(1)(2)(3)のうち興奮と伝達は機能であり、興奮と伝達は神経細胞の必然的機能である。ところで一般に、機能はその全体または部分が他のいくつかの物質または機能を含む属性の全体または部分を生じるという必然的属性をもつ。そのことにおける他の物質または機能をその機能の「必然的対象」と呼べる。例えば、神経細胞はグルコースや酸素の消費も生じうるが、それを生じる能力は神経細胞の必然的属性に含まれない。興奮と伝達を生じる能力が神経細胞の必然的属性に含まれ、シナプス後細胞の興奮と伝達が神経細胞の興奮と伝達の必然的対象である。また、意識的機能は自我の必然的対象である。また、機能の中で、必然的対象の全体または部分を最も直接的に生じえる部分をその機能の「必然的部分」と呼べる。例えば、シナプス前伝達が神経細胞の興奮と伝達の必然的部分である。また、自我の必然的部分は少なくとも機能的衝動を含む。
  さて、機能の他の部分が生じるが、必然的部分が生じず、機能が必然的対象の全体も部分も生じないことを機能が機能することまたは機能が生じることと見なすことはできない。例えば、神経細胞のシナプス後伝達が生じるが、閾値越え、シナプス前伝達が生じず、シナプス後細胞のシナプス後伝達が生じないことを神経細胞の興奮と伝達が機能することと見なすことはできない。また、機能イメージが想起されるが、快不快の自律感覚が生じない、または、快不快の自律感覚が生じるが、機能的衝動が生じない、または、機能的衝動が生じるが大脳またはその周辺に達さず、意識的機能が生じないことを、自我が生じることと呼ぶことはできない。そこで、機能の必然的部分が生じその必然的対象の全体または部分が生じることを機能がそれらに「に(対して)機能する」こと、または単に機能が機能すること、または機能が生じることと、または物質が物質に機能することと呼べる。つまり、機能が生じることと機能が必然的対象に機能することは同じである。例えば、神経細胞の興奮と伝達のうちの、シナプス前伝達が生じ、少なくともシナプス後細胞のシナプス後伝達が生じることが神経細胞が他のシナプス後細胞に機能することである。
  だが、決定的部分をもつ機能においては、決定的部分が生じれば必然的部分は生じ、機能は機能する。例えば、神経細胞の興奮と伝達は閾値越えを決定的部分としてもち、閾値越えが生じれば、神経細胞は機能する。

機能の停止

  機能が機能することに対して、機能が機能しないこと、つまり、理論的には機能の必然的部分または決定的部分が生じないことを、機能の「停止」、機能が停止することと呼べる。例えば、神経細胞のシナプス後伝達が生じるが、不発に終わりが神経細胞の興奮と伝達の停止である。もちろん、シナプス後伝達さえも生じないことはその停止である。また、機能イメージが想起されるが、それから機能的衝動が生じないことが自我が停止することである。もちろん、機能イメージさえも想起されないことは自我の停止である。

機能の生起

  必然的部分または決定的部分を生じる可能性をもつ機能の部分が生じることを機能が「生起」すること、機能しかけることと呼べる。機能の生起はその必然的部分または決定的部分が生じないことを含む。つまり、機能が生起したからといって、必ずしも機能が機能するとは限らない。例えば、イメージの想起においては、イメージが生起したからといって、必ずしも想起されるとは限らない。また、自我においては、機能イメージが想起されたからといって、必ずしも自我が機能するとは限らない。機能イメージが想起されたとしても、それがイメージ情動神経細胞路の興奮と伝達、快の自律感覚、衝動を生じなければ、自我は機能しない。

完全停止と不完全停止

  機能の必然的部分または決定的部分を生じる可能性をもついかなる部分も生じないことを機能の「完全」停止、機能が完全に停止することと呼べる。それに対して、必然的部または決定的部分を生じる可能性をもつ機能の部分が生じるが必然的部分または決定的部分が生じないことを機能の不完全停止、機能が不完全に停止することと呼べる。例えば、自我において、機能イメージが想起されるが衝動が生じないことが自我の不完全停止である。「不完全」停止というと印象が悪いが、それは完全停止への不可欠な段階である。

習性

情動の習性

  簡単に言って、イメージとして想起される素材から快不快の自律感覚が生じることが精神的情動、つまり、感情と欲求と複合的情動である。例えば、イメージとして想起される対人関係が不快の自律感覚を生じることが対人不安である。イメージとして想起される素材からどの快不快の自律感覚が生じるかを決定づけるものが精神的情動の習性である。ある想起されるイメージの素材が通る神経細胞群から快不快の自律感覚に向けて複数の「イメージ情動神経細胞路」が存在する。例えば、不安のような不快の自律感覚を生じる神経細胞路や期待のような快の自律感覚を生じる神経細胞路が存在する。だから、どのイメージ情動神経細胞路がどの程度、活性化されているかが精神的情動の習性である。
  そのような情動の習性は以下のようにして形成される。あるものが強くまたは持続的反復的に快または不快の情動を生じたとき、
(1)そのもののイメージの素材が生成し記銘保持される。
(2)その情動から快または不快の自律感覚が生じる。
(3)そのもののイメージの素材からその快または不快の自律感覚へのイメージ情動神経細胞路が活性化される。
次回にそのものが認識されイメージとして想起されたとき、そのイメージ情動神経細胞路が興奮し伝達し、その快または不快の情動が生じる。結局、快楽からは期待のような快の精神的情動が生じ、苦痛からは不安、恐怖のような不快の精神的情動が生じる。例えば、乳幼児期に家庭で虐待または無視され疎外され思春期に学校でいじめられ疎外されされてきたとき、強い対人不安の習性が形成される。
  精神的情動にも対人不安、動物恐怖、閉所恐怖、対人欲求、権力への欲求、カネへの欲求…などの概略がある。
  『自我をもつ動物の心理学』で説明されたように、情動は自我に影響を与える内的状況として重要である。例えば、対人不安が強いときは対人直面は生じにくく対人回避が生じやすい。
  精神的情動の習性の大部分は後天的に形成される。それに対して、身体的情動、つまり、快不快の感覚と欲動の習性のほとんどは遺伝子とその機能によって先天的に形成される。

限定機能と被限定機能

  次のような属性をもつ機能がある。
一定の状況(S)の中で、機能の集合(F = (f1,f2,…))のそれぞれの要素が生起する可能性をもち、
実際に生じるFを数(N)以下に限定する別の状況(LS)によって、
N個以下のFが生起した場合(この場合をC1とする)は、それらのすべてがLSなしで単純に生じる能力(この能力をAとする)によって生じ、
N個を超えるFが生起した場合(この場合をC2とする)は、上の単純な能力(A)をもつとともに最も大きい状況LSの中で他を排除して生じる能力(この能力をAEOとする)をもつN個のFがAとAEOによって生じる。
  これらにおいて、被限定機能(lf)の生じる能力は、C1においては、単純な生じる能力(A)がであり、C2においては、LSに入る前の単純な生じる能力とLSにおける他を排除しつつ生じる能力(AEO)である。そのような能力を被限定機能の生じる「傾向」とも呼べる。

限定状況

  複合イメージの素材、精神的情動のそれぞれ、衝動のそれぞれ…など、被限定機能(lf)は神経細胞群の興奮と伝達または活性化と活性である。
  神経細胞群(S)から伝達されて神経細胞群(U)が興奮し伝達しているときに、神経細胞群(T)が神経細胞群(U)に伝達しても、神経細胞群(T)からの伝達とはほとんど無関係に神経細胞群(S)の伝達によって神経細胞群(S)と同様の空間的時間的位置、頻度、密度、空間的時間的構成、それらの変化で神経細胞群(U)は興奮し伝達する。そのことを神経細胞群(S)の興奮と伝達が「通る」こと、神経細胞群(T)の興奮と伝達が「立ち消える」ことと呼べる。
  収束する神経細胞群には興奮と伝達の「合流点」と呼べるシナプスが多数ある。それらのそれぞれにおいて、二つ以上の神経細胞群の興奮と伝達が合流点に達しようとするとき、早くそれに達ししばらく持続的に高密度で興奮し伝達するものが、他を立ち消えさせて通る。収束する神経細胞群全体の中では、多くの神経細胞群の興奮と伝達が生じるとき、最も早く持続的に高密度で広く中心近くで興奮し伝達する限られた数のそれらが他を立ち消えさせつつ最終収束点に達する。
  このことが被限定機能(lf)の限定状況(LS)である。また、神経細胞群の興奮と伝達の早さ、持続性、密度、広さ、中心への近さが被限定機能(lf)の他を排除しつつ生じる能力(AEO)である。

Nの変動

  だが、限られた数(N)はまた別の状況(SN)によって変動する。例えば、ある被限定機能が非常に広く興奮し伝達し、中心を含むほとんどの空間を占めてしまうとき、Nは小さくなり場合によっては1になる。それに対して、いくつかの被限定機能がコンパクトに興奮し伝達し整然と空間を占めるとき、Nは大きくなる。比喩的に言うと、一人の人間の顔のクローズアップではNは小さく、何人かの人間と背景として空や海や山や木々や鳥が入るとき、Nは大きい。
  だが、Nの変動を逐次、説明していると文章が煩雑になるので、特に必要のある場合を除いてその説明を省略することにする。

イメージの限定想起

(S)イメージの想起の状況
  感覚されるまたはイメージとして想起される素材の部分がもつ属性が認識され、認識と同類性の基づき、次いで神経細胞路と時間的近さに基づいてイメージの素材が想起される可能性をもつ。だから、イメージの素材の直接的な状況は認識されるそれらの属性である。繰り返すが、それは直接的な状況であって、間接的な状況としては、家庭、学校、職場、それらにおける人間関係…などである。
  例えば、エンジンや自動車がまだ発明されていない時代では、一部の科学者や技術者を除いて、たいていの人間にそのイメージは生成も想起もされず生起もしない。その時代ではたいていの人間においては、自動車、自動車を運転すること、自動車で行くこと…などのイメージは非限定機能の集合からいかなる状況でも除外される。
(LS)想起の限定状況
  それぞれの種類の記憶の神経細胞群の記銘、保持から再生へ向かう部分が収束することと、それにおいて最も早く持続的に高密度で広く中心に近く興奮し伝達する複合イメージの素材が他を立ち消えさせつつ再生に達することが想起の限定状況である。
  そのように、複合イメージの素材は被限定機能であり、イメージの想起は限定機能である。N以下の複合イメージの素材が生起した場合(C1)は、N個のそれらが想起され、N個を超えるそれらが生起した場合(C2)は、前述のLSの中でN個のそれらが想起される。ただし、限られた数(N)は別の状況(SN)によって変動する。
(SN)想起においてNが変動する状況
  『記憶をもつ動物の心理学』で説明されたとおり、視覚的感覚的イメージ、聴覚的感覚的イメージ…などのそれぞれの種類の感覚イメージにそれに固有の再現素材空間があり、想起される複合イメージのそれぞれがその部分を占める。そのイメージの再現素材空間の中心の広い部分を占める複合イメージが想起されると、Nは小さくなる。それに対して、狭い部分を占めるイメージが整然と想起されるとNは大きくなる。別の言い方をすれば、いくつかのイメージが強く想起されると、Nは小さくなる。例えば、恋人を思うとき、他のことはほとんど思い浮かばない。

精神的情動

  イメージの素材が通る神経細胞路から自律感覚に至る神経細胞路が存在する。それらをイメージ情動神経細胞路と呼べる。
  感情と欲求と複合的情動を一般的用語として精神的情動と呼べる。簡単に言って、想起されるイメージの素材がイメージ情動神経細胞路の興奮と伝達を生じ、快不快の自律感覚を生じるとき、それらの(1)イメージの想起と(2)想起されるイメージの素材と(3)イメージ情動神経細胞路の興奮と伝達と(4)快不快の自律感覚または(3)と(4)が精神的情動である。例えば、イメージとして想起される一般の人間から不快の自律感覚が生じれば、それは対人不安であり、特定の人間のイメージからそれらが生じれば、それはその人間に対する恐怖または嫌悪である。また、イメージとして想起される自己からそれらが生じれば、それは自己嫌悪である。
  ほとんどの情動はなんらかの自律機能と快不快の自律感覚を生じる。快の情動は快の自律感覚を生じ、不快の情動は不快の自律感覚を生じる。例えば、体性感覚である皮膚の痛さは自律感覚または自律機能である動悸、息苦しさ、発汗などを生じる。
  イメージ情動神経細胞路は先天的に活性化されておらず後天的に活性化される。様々なイメージの素材が生成しまたは更新され、様々な情動が生じ、自律感覚が生じるときに、それらのイメージの素材からそれらの自律感覚に至るイメージ情動神経細胞路が活性化される。次回にそれらのイメージの素材が想起されたとき、それらがそれらのイメージ情動神経細胞路の興奮と伝達を生じそれらの快不快の自律感覚を生じる。それが精神的情動である。例えば、乳児期幼児期前半に虐待され疎外され、思春期にいじめられ疎外された人では、一般的な人間のイメージから不快の自律感覚に至るイメージ情動神経細胞路が活性化され、想起される人間のイメージから不快の自律感覚が生じる。それが対人不安の一例である。
  だから、想起されるイメージが精神的情動の直接的な状況(S)である。
  だが、想起されるイメージから複数のイメージ情動神経細胞路が興奮し伝達し、複数の自律感覚が生起し、複数の精神的情動が生起する可能性はある。例えば、私たちはせいぜい不安と期待が入り混じった情動、愛と憎しみが入り混じった情動…などしか知覚できないが、そのときでもそれ以外のものが生起している可能性はある。
  ところで、自律感覚以外の一般の感覚の素材が通る神経細胞群は感覚が限定機能になるほどに収束しない。例えば、視覚において、神経障害がない限り、網膜から大脳の後頭葉に至るまで視野は維持される。例えば、目の前に高い壁があれば、その向こうは見えないが、それは神経機能によるのではなく光学的な物質機能による。
  自律感覚には再生が一対あるわけではなく二対以上ある。例えば、動悸と吐き気が同一の再生によって再生されるとは考えられない。その意味では自律感覚の素材が通る神経細胞群が収束するとは考えられない。
  だが、自律感覚は全身の様々な内臓からの様々な種類の感覚から構成される複合的感覚である。だから、再生が多数あったとしても、自律感覚の素材が通る神経細胞群は収束し、合流点を多数もつ。だから、自律感覚は限定機能であり、精神的情動は限定機能である。

衝動

  ほとんどの情動は神経系、特に自律神経系の広範に及ぶ神経細胞群の興奮と伝達を生じ、様々な機能、特に自律機能と自律感覚を生じる。例えば、ほとんどの苦痛は動悸と息苦しさを生じる。
  そのような情動が生じる広範な神経細胞群の興奮と伝達のうち、大脳または大脳周辺まで達し、大脳になんらかの影響を与えるものを「衝動」と呼べる。
  一時に複数の情動が生じえる。さらに、一つの情動が複数の衝動を生じえる。だから、一時に複数の衝動が生起しえる。
  それぞれの衝動そのものは大脳またはその周辺に向けて発散するが、衝動は発散するからこそそれらに達する前に相互干渉せざるをえない。つまり、衝動が通る神経細胞路は乱雑ではあるがそれらに収束すると見なせる。だから、一時に多数の情動が生起しても最も早く持続的に広く中心近くで興奮し伝達するものが他を立ち消えさせながら大脳またはその周辺に達する。だから、衝動は被限定機能であり、衝動と衝動が通る神経細胞群と衝動を処理する他の機能は限定機能である。

限定自我と被限定自我

  意識的機能のイメージの素材が想起され、想起されたばかりのそれらがそれらから意識的機能を生じる神経細胞群に至る神経細胞路の興奮と伝達を生じることある。そのことにおける、意識的機能のイメージを機能イメージと呼べ、意識的機能を生じる神経細胞群を機能的神経細胞群と呼べ、機能イメージの素材から機能的神経細胞群に至る神経細胞路をイメージ機能神経細胞路と呼べる。また、機能イメージの素材とそれらの想起とイメージ機能神経細胞路の興奮と伝達を「理性系」と呼べる。機能イメージの素材、機能イメージの想起、イメージ機能神経細胞路の興奮と伝達を「理性系」と呼べる。
  想起されたばかりの機能イメージの素材がそれらからいくつかの自律感覚に至る神経細胞路の興奮と伝達を生じ、それらがそれらの自律感覚を生じ、それらがいくつかの衝動を生じることがある。そのような機能イメージの素材から自律感覚に至る神経細胞路を「イメージ情動神経細胞路」と呼べ、そのような機能イメージから間接的に生じる衝動を機能的衝動と呼べる。また、イメージ情動神経細胞路の興奮と伝達と自律感覚と機能的衝動とそれに係る機能を「情動系」と呼べる。
  理性系だけでは機能的神経細胞群の興奮と伝達は生じず、意識的機能は生じない。それらが生じるためには、情動系が理性系を促進する必要がある。情動系の機能的衝動が理性系のイメージ機能神経細胞路の興奮と伝達を促進し機能的神経細胞群の興奮と伝達が生じ意識的機能が生じる。さしあたり、理性系と情動系と情動系による理性系の促進を「自我」と呼べる。
  比喩的に言って、理性系が状況の中で生じるべきいくつかの意識的機能、つまり、「どうするか」を提案し、情動系が快か不快に照らし合わせて、理性系が提案した意識的機能のうちどれを採用し実行するかを決定する。不快を生じる意識的機能は却下され、最も強い快を生じる意識的機能が選択される。
  自我は理性系において機能イメージの想起という限定機能を含む。それは自我の端緒にある。そのことだけからも自我は限定機能である。さらに自我においては、イメージ情動神経細胞路の興奮と伝達と自律感覚と機能的衝動とそれに係る機能を情動系と見なし、一つの限定機能と見なすことができる。自我は最後に限定機能である情動系を含む。そのことからも自我は限定機能である。限定機能としての自我を「限定自我」と呼べる。
  限定自我に対して、一つの意識的機能を間接的に生じる可能性をもつ機能イメージの素材、イメージ機能神経細胞路の興奮と伝達、イメージ情動神経細胞路の興奮と伝達、自律感覚、機能的衝動を一つの被限定機能と見なし、「被限定自我」と呼ぶことができる。
  以下のことは被限定自我が生起するが生じないことと見なせる。
機能イメージが生起するが想起されないこと、
機能イメージが想起されるが、快の自律感覚を生じないこと、
快の自律感覚が生じるが、機能的衝動を生じないこと、
機能的衝動が生じるが、強くなく、他に立ち消えさせられて大脳またはその周辺まで達しないこと。
  そのように想起される機能イメージから不快の自律感覚が生じるのでは機能的衝動は生じず被限定自我は生じない。快の自律感覚が生じ、しかもそれらが他を立ち消えさせて大脳またはその周辺に達するほどの強い機能的衝動を生じるとき被限定自我が生じる。例えば、対人不安の強い人においては、対人直面が機能イメージとして想起されても、不快の自律感覚が生じ、対人直面しようとする被限定自我は生起するが生じない。対人回避が機能イメージとして想起されると、快の自律感覚が生じ機能的衝動が生じる。だが、待機が機能イメージとして想起され、それから快の自律感覚が生じ、それらを立ち消えさせるような機能的衝動を生じるなら、待機しようとする被限定自我が生じ、待機する意識的機能が生じる。結局、最も強い快をもつ自律感覚とそれから最も強い機能的衝動を生じる機能イメージの素材が被限定自我の全体を生じ意識的機能を生じる。
  だが、限定自我と被限定自我を逐次、区別し、「限定」または「被限定」という言葉を用いていると、文章が煩雑になる。だから、文脈から自我と言う言葉がどちらを指すかが明らかな場合は、それらの言葉を省略することにする。

被限定機能の概略

  被限定機能の集合にはそれに属する被限定機能の生じる能力が類似性によって共に形成されるような部分集合がある。そのような集合を被限定機能の概略と呼べる。例えば、被限定自我の概略として自己顕示がある。自己顕示的傾向は乳児期幼児期前半の母親の愛情希薄等によって形成され、共に形成される。自己顕示の詳細は、自己を語り過ぎる、特異的な外見を醸し出す…など様々だが、どれも同じ印象を他人に与える。

被限定自我の概略

  被限定自我の概略は、それに属する被限定自我の傾向が共に形成されるという被限定機能の概略全般の属性だけでなく、以下の属性をもつ。
  自我においては、まず、状況の概略的な認識によって、意識的機能の概略がいわば背景においてイメージとして想起され、次いで状況の詳細な認識によって、詳細な機能イメージがいわば前景において想起される。そのような概略から詳細に移行する時間はゼロコンマ数秒である。意識的機能の概略のイメージは機能イメージの先駆とも言える。そのような意識的機能の概略のイメージを機能イメージに含めることにする。また、ある意識的機能の概略のイメージを含む被限定自我の集合を「被限定自我の概略」と呼べる。例えば、まず、回避という意識的機能の概略が機能イメージとして想起され、ゼロコンマ数秒後に単純に逃げる、こっそり逃げる、まず身を隠す…などのより詳細で具体的な回避する方法が機能イメージとして想起される。

意識的機能の概略

  意識的機能は知覚され、イメージの素材として生成しまたは更新される。さらに、『記憶をもつ動物の心理学』で説明されたとおり、それらの素材が記憶の分岐する神経細胞群を通って概略に分類される。その分類によって意識的機能の概略のイメージが生成しまたは更新される。そのような概略のイメージを生成しまたは更新する意識的機能の集合を「意識的機能の概略」と呼べる。
  だから、自我の概略と意識的機能の概略は一対一に対応する。例えば、自我の概略に直面、回避、待機があるのに対応して意識的機能の概略に直面、回避、待機がある。
  また、自我は意識的機能を直接的に生じる。さらに、自我の概略は意識的機能の概略を直接的に生じる。例えば、回避しようとする自我は意識機能としての回避を生じる。
  だが、自我が意識的機能を生じようとしても、上手いものが生じないことがある。例えば、人間は飛ぼうとしても鳥のようには飛べず、跳躍するだけである。それはホモ・サピエンスという種の能力の限界である。また、例えば、何年も対人関係を回避してきた人が対人機能を生じようとしても上手いものはなかなか生じない。それは意識的機能の能力の未熟または減退による。また、自我が意識的機能の能力の未発達または無さを認識し、その意識的機能を生じた場合の苦痛を予想し、その意識的機能を却下することはある。例えば、いくつかの自我は自己の対人機能能力の未発達を認識し、それらを生じた場合の疎外感を予想し、対人機能を却下することがある。

「概略」という言葉の使用法

  そもそも、直面、回避、待機…などの言葉は自我または意識的機能の概略を指す。日常や科学でもそのような概略が議論されることが多い。また、概略という言葉を逐次、用いていると文章が煩雑になる。そこで、特に必要のないときは、概略という言葉を省略し、直面という概略、回避という概略、待機という概略…などを単に直面、回避、待機…などと呼ぶことにする。
  また、重要な概略には意識的機能のそれらと自我のそれらがある。だが、「意識的機能の」「自我の」などの言葉を逐次、用いていると文章が煩雑になる。そこで、文脈から何の概略かが明らかなときは、それらの言葉を省略することにする。
  上の二つのことから、例えば、直面、回避、待機という自我の概略が単に直面、回避、待機と呼ばれることはある。

限定機能の習性

  前述のとおり、被限定機能(lf)の生じる能力は、C1(N以下の被限定機能が生起した場合)においては、単純な生じる能力(A)がであり、C2(Nを超える被限定機能が生起した場合)においては、限定状況(LS)に入る前の単純な生じる能力とLSにおける他を排除しつつ生じる能力(AEO)である。そのような能力を被限定機能の生じる「傾向」とも呼べる。そのような能力または傾向は結局のところ、該当する神経細胞群と細胞路の活性として数値化することが理論的には可能である。また、それらの数値の平均として、被限定機能の概略の能力または傾向を求めることが理論的には可能である。
  さらに、ある限定機能において、ある状況(S)の中で生起する可能性をもつ被限定機能の概略の傾向の行列を求めることができる。すると、N以下の最も数値の大きい概略が生じる。つまり、そのような行列が求められれば、ある状況の中でどのような被限定機能が生じるか、概略に関する限りで、予測できる。例えば、どのような自我の概略が生じどのような意識的機能の概略が生じるか予測できる。
  だが、まず、該当する神経細胞群と細胞路の詳細を完全に特定することが非常に困難である。さらに、それができたとしても、人間を含む生物においてそれらの活性を測定することは不可能に近い。
  だから、それらの数値化は目に見える意識的機能の観察、測定可能な自律機能の測定、目に見えない純粋心的機能の心理テスト…などの二十世紀によく行われた二十一世紀では古く見える方法によって間接的に求めざるをえない。それらをさらに改善していく必要がある。
  だが、それらの数値を直接的に求めることと、限定機能とその習性を生じる神経系と神経機能を解明することは別である。前者がほとんど不可能なのに対して、後者はある程度、可能である。もし、後者が全くできないなら、限定機能とその習性の存在そのものが疑われる。そのことはすべての心的機能に言える。だから、これらの著作は心的機能を生じる神経系と神経機能をできる限り解明してきたのである。今後もそうしていく。
  さて、本題に戻る。限定機能について、限定状況(LS)と他を排除しつつ生じる能力(AEO)はそれらを生じる神経系と神経機能を含めて説明した。ある限定機能について、ある状況(S)の中で生起する可能性をもつ被限定機能の概略の傾向の行列をSにおける「限定機能の習性」と呼べる。すると、最も大きい傾向をもつN以下の概略が生じる。以下の節で限定機能の習性の詳細を、それらを生じる神経系と神経機能を含めて説明する。

想起の習性

  イメージの限定想起の直接的な状況は感覚されるまたはイメージとして想起される神経素材の中の認識されるいくつかの属性である。そのような状況から認識と同類性に基づくとともに神経細胞路と時間的近さに基づいていくつかの複合イメージが想起される。そこで、どの複合イメージが想起されるかを決定するものが限定想起の習性である。どのイメージの素材が想起するかを決定するものがその習性である。
  ある複合イメージが想起されるためには、まず、認識からその複合イメージの素材への神経細胞路が活性化されている必要がある。だが、認識と同類性に基づく神経細胞路は先天的に活性化されており、その活性に個体間の差異はほとんどない。だから、問題になるのは神経細胞路と時間的近さに基づく神経細胞路、つまり、イメージイメージ神経細胞路の活性である。
  次に複合イメージそのものが想起されなければならない。そのためには、その複合イメージを構成する個々のイメージの素材を記銘し保持する神経細胞群が活化されその活性がある程度維持される必要がある。だが、それだけでは、複合イメージを構成する個々のイメージのすべてが想起されるわけではない。それらのすべてが想起され、完全な複合イメージが想起されるためには、それらの間の神経細胞路、つまり、イメージイメージ神経細胞路が活性化されその活性がある程度維持される必要がある。
  さらに、C2(Nを超える複合イメージの素材が生起した場合)に備えて、複合イメージの素材は最も早く持続的に高密度で広く中心寄りに興奮し伝達する必要がある。そのためには、最も少ないシナプスをもつ、つまり、間接性の最も小さいイメージイメージ神経細胞路が活性化されること、個々のイメージの素材を記銘し保持する神経細胞群が最も持続的に興奮し伝達すること、それらとそれらの間の神経細胞路が最も高い濃度にあること、それらが最も広いこと、それらが中心に最も近いことが必要である。
  それらがイメージの限定想起における被限定機能の概略が生じる傾向、つまり、複合イメージの素材が想起される傾向である。そのようにイメージの想起に関する限りでそれは複雑である。
  だが、イメージの限定想起の習性を決定づけるものは簡単に挙げることができる。それを決定づけるのは思考の中での自我によるイメージの操作である。そもそも、イメージの想起、知覚、連想という自発的心的機能においては、イメージは移ろいやすい。自発的心的機能におけるイメージの生成と更新によっては前述の神経細胞群や神経細胞路はあまり活性化されない。それに対して、自我は、イメージの操作によってイメージをある程度、固定する。その結果、イメージの操作におけるイメージの生成と更新は自発的心的機能よりはるかに強くそれらを活性化する。簡単に言って、自我が何度も考えたことはよく想起されなかなか忘れられない。自我が考えなかったことはうつろいやすく容易に忘却される。イメージの想起の習性を決定づけるものは自我によるイメージの操作である。

知覚の習性

  直接的な状況が感覚される神経素材の属性に限定され、イメージとして想起されるそれらを含まないのが知覚である。だから、知覚の習性は想起の習性と同一である。知覚は想起に含まれる。だから、これらの著作では知覚の説明は省略されることが多い。

連想の習性

  簡単に言って、連想は想起の繰り返しである。だから、連想の習性は想起の習性から構成される。だが、一回限りの想起で想起されなかった複合イメージも連想の中で想起される可能性が大きくなる。また、連想において限定機能としての想起の属性とNの重要性が小さくなる。簡単に言って、ゼロコンマ数秒以上の時間の中では様々な考えが思い浮かぶものである。それらは短絡せず待機すればいい考えが思い浮かぶこととして日常で体験される。
  だが、連想が活かされるかどうかは自我が短絡せず待機するかにかかっており、それは自我の習性にかかっている。

精神的情動の習性

  簡単に言って、想起されるイメージがイメージ情動神経細胞路が興奮し伝達を生じ快不快の自律感覚を生じることが感情、欲求、複合的情動、つまり、精神的情動である。前述のとおり、精神的情動は限定機能である。
  精神的情動の中で後天的に形成されるものはイメージ情動神経細胞路の活性だけであり、それ以外はすべて先天的に形成される。それらの後天的活性化が個体差を生じ、問題となる。
  ほとんどの情動はなんらかの自律感覚を生じ、快の情動は快の自律感覚を生じ、不快の情動は不快の自律感覚を生じる。あるもののイメージが生成するまたは更新されるとともに、そのものがなんらかの情動を生じ、自律感覚を生じ、それらが強くまたは持続的または反復的に生じたとき、そのもののイメージの素材とその自律感覚との間のイメージ情動神経細胞路が活性化されその活性が維持される。次にそのものが知覚されるまたはイメージとして想起されたとき、活性化されたイメージ情動神経細胞路が興奮し伝達しその自律感覚が生じ、そのような精神的情動が生じやすくなる。それが精神的情動の習性の形成過程である。例えば、母親から虐待、無視…などを受けた乳幼児において、母親や一般の人間のイメージから不快の自律感覚が生じるようになり、対人不安という感情が形成される。
  そのように精神的情動の習性を決定するものは同時にそのイメージが生成し更新されるものが生じる情動の強さ、頻度、持続である。例えば、一回限りの虐待でもそれが強烈なら対人不安を生じることがあり、軽い疎外でも数年、持続するなら迫害感を生じる。

情動系の習性

  前述のとおり、限定自我において、想起された機能イメージの素材から生じるイメージ情動神経細胞路の興奮と伝達とそれらから生じる快不快の自律感覚とそれらから生じる機能的衝動を「情動系」と呼べる。前述のとおり、快不快の自律感覚と衝動とそれを処理する機能は限定機能である。だから、それらを含む情動系も限定機能である。
  情動系の中で後天的に形成されるものはイメージ情動神経細胞路の活性だけであり、他はすべて先天的に形成される。だから、理性系の習性で問題になるのはイメージ情動神経細胞路の活性だけであり、それらが個体差を形成する。
  情動系の中では、快の自律感覚とそれから生じる機能的衝動は相関する。快の情動が機能的衝動を生じえ、不快の情動はそれらを生じえない。強い快の情動は強い機能的衝動を生じる。
  ある概略に属するある意識的機能が生じ知覚され、その概略のイメージを含むその機能イメージが生成しまたは更新されるとともに、その意識的機能がなんらかの情動を生じ次いでなんらかの自律感覚を生じ、それらが強くまたは持続的にまたは反復的に生じたとき、それらの機能イメージからそれらの自律感覚に至るイメージ情動神経細胞路が活性化されそれらの活性が維持される。次回にそれらの機能イメージが想起されたとき、それらの活性化されたイメージ情動神経細胞路が興奮し伝達し、それらの自律感覚を生じ、それらのいくつかが最も強い機能的衝動を生じるとき、それらが理性系のイメージ機能神経細胞路の興奮と伝達を促進し、自我の全体が生じ、意識的機能が生じる。それが情動系の習性の形成過程である。例えば、子供が対人機能を生じてみて、疎外され、疎外感などの不快の情動と不快の自律感覚が反復して生じ、対人関係を回避してみて、安寧などの快の情動と快の自律感覚が反復して生じたとき、対人回避の概略の機能イメージからそれらの快の自律感覚へのイメージ情動神経細胞路が活性化され、それらの機能イメージがそれらの快の自律感覚と最も強い機能的衝動を生じ、対人回避が頻繁に生じるようになる。
  そのように情動系の習性を決定づけるものは、概略に属する意識的機能が生じる情動の快の強さ、頻度、持続性である。例えば、一回限り疎外されただけでも、その疎外感が強烈であれば、対人回避が生じるようになる。また、弱い疎外感でも疎外が何年も反復持続すれば、対人回避が生じるようになる。

意識的機能の能力

  個体の神経系の中で後天的に形成されるのは以下の活性である。

(1) 個々のイメージの素材を記銘し保持する神経細胞群
(2) イメージイメージ神経細胞路
(3) イメージ機能神経細胞路
(4) 機能機能神経細胞路
(5) イメージ情動神経細胞路

(1)-(5)のうち、(3)(4)は自我の習性に関与せず、意識的機能の能力に関与する。
  関節の屈伸などの単位的随意運動を除いて、意識的機能のほとんどは単位的意識的機能から構成される複合的意識的機能である。直立二足歩行、言葉を話す、書く、考える、遊ぶ、仕事をする、対人機能…など私たち人間にとって重要な意識的機能はすべて複合的意識的機能である。複合的意識的機能の能力にとって重要なのはそれを構成する単位的意識的機能の協調である。その協調を可能にするのが(3)(4)の活性化と活性と興奮と伝達である。(3)(4)の活性化は意識的機能の能力を形成するのであって、自我の習性を形成するのではない。
  自我の習性と意識的機能の能力ははっきりと区別される必要がある。自我はその習性に基づいてどの意識的機能が生じるかを決定する。意識的機能の能力は意識的機能がうまいか下手かを決定する。
  自我がその習性に基づいてある意識的機能を生じなければ、その意識的機能の能力は形成されない。自我がその習性に基づいてある意識的機能を生じて初めてその能力が形成され始める。例えば、対人回避の習性が形成され自我が対人機能を生じなければ、対人機能能力は形成されず、未熟なままにとどまる。対人回避の習性が減退し自我が対人機能を生じるとき、対人機能能力は数か月から数年で形成される。そのように見ていくと、意識的機能の能力より自我の習性が重要であることが分かる。
  また、意識的機能の概略の能力の未熟と、そのような概略を生じた場合の苦痛がイメージとして想起されることがある。そのとき、自我はそのような意識的機能の概略(1)を却下し、(1)の能力の未熟を繕うまたは回避する意識的機能の概略(2)を生じることがある。そのようなとき、(2)の能力が形成されるばかりで、(1)の能力は形成されず未熟にとどまる。さらに、意識的機能の未熟を取り繕うまたは回避する自我の習性が形成されることがある。後述するとおり、それこそが最も重大である。
  また、対人関係、機能、能力は情動や自我や思想を出すまでもない表面的なものとそれらを出す必要がある深いものに区別される。お世辞を言う、ビジネスライクな人間関係…などは前者であり、自己の体験に基づいて人間の生き方を語る、自己の思想に基づいて相手にアドバイスする、自己の情動に基づいて相手に何かを求める…などは後者である。楽しく会話するために冗談を言う、相手にゆっくりと語ってもらうために沈黙する…などは後者に含まれる。あくまでも、対人機能能力の中での比較で、前者の能力はすぐに形成されるが、後者の能力はそうではない。そこで、対人機能能力が全般的に未熟な人が前者のみを生じて後者の能力が未熟にとどまることはある。表面的な対人機能のみを生じることも対人回避の一種であり、それは自我の習性によって生じる。
  そのように見ていくと、自我の習性は意識的機能の能力より重要であることがますます分かる。
  そもそも、自我とそれから生じる意識的機能を被限定機能と見なすことは可能であり、それらとそれらを処理する機能を一つの限定機能と見なすことは可能である。だが、前述のとおり、自我の部分の習性と意識的機能の能力は区別する必要がある。だから、これらの著作は自我と意識的機能を区別する。
  だが、だからと言って、意識的機能の能力が重要でないというのではない。特に現代社会では、職場でも学校でも家庭でも、仕事をするためにも勉強するためにも遊ぶためにも、意識的機能の能力が重視され、それらを形成することは一種の義務とされる。それに対して、自我の習性は個人の自由に委ねられる。例えば、雇用者が被雇用者の自我の習性を形成をしようとするなら、それは労働者の権利の侵害と見なされる。それに対して、仕事の能力を形成しようとすることはそのような侵害とは見なされない。だが、そのように見ていくとますます自我の習性の重要性が分かって来る。個人にとって自由に委ねられるものこそが貴重なのだから。いずれにしても、意識的機能の能力は不必要というのではなく、自我の習性は意識的機能の能力より重要であるというのである。

自我の習性

  繰り返すことになるが、自我をまとめてみよう。機能イメージの想起と想起された機能イメージの素材とそれから生じるイメージ機能神経細胞路の興奮と伝達を「理性系」と呼べる。それに対して、想起された機能イメージの素材とそれから生じるイメージ情動神経細胞路の興奮と伝達と、それから生じる快不快の自律感覚と、それから生じる機能的衝動を「情動系」と呼べる。理性系と情動系と情動系の中の最も強い機能的衝動による理性系の中のイメージ機能神経細胞路の興奮と伝達の促進を「自我」と呼べる。そのような自我が機能機能神経細胞路を含む機能的神経細胞群の興奮と伝達を生じ意識的的機能を生じる。比喩的に言って、理性系がいくつかの意識的機能を提案し、情動系が快不快に照らし合わせてそれらのうちどの意識的機能を生じるかを決定する。
  そのような自我と意識的機能に係る神経細胞群と細胞路のうち後天的に活性化されるものは、個々の機能イメージを記銘し保持する神経細胞群、それらの間のイメージイメージ神経細胞路、イメージ機能神経細胞路、機能機能神経細胞路、イメージ情動神経細胞路だけである。だが、前述のとおり、それらのうちイメージ機能神経細胞路活性化は意識的機能の能力の形成に係わり、自我の習性の形成に係らない。だから、自我の習性に係るのは個々の機能イメージを記銘し保持する神経細胞群、イメージイメージ神経細胞路、イメージ情動神経細胞路だけである。
  だから、自我の習性は機能イメージの想起の習性と情動系の習性から構成される。さらに、以下の理由によって自我の習性の中では後者が優勢であり、後者が自我の習性を決定づける。
  そもそも、『自我をもつ動物の心理学』で説明されたとおり、自我そのものにおいて決定的なのは理性系ではなく情動系である。理性系はいくつかの機能イメージの概略を想起し提案する。その提案された概略は一般に想起されるもののほとんどを含む。例えば、対人関係という状況の中では対人直面も対人回避も待機も想起される。そのように一般に提案されるような概略のうちのどれを採用するかを決定するのが情動系である。だから、自我そのものにおいて、決定的なのは理性系ではなく情動系である。
  だから、自我の習性を決定づけるのは機能イメージの想起の習性ではなく情動系の習性である。繰り返すが、ある概略に属するある意識的機能が生じ知覚され、その概略のイメージを含むその機能イメージが生成しまたは更新されるとともに、その意識的機能がなんらかの情動を生じ次いでなんらかの自律感覚を生じ、それらが強くまたは持続的にまたは反復的に生じたとき、それらの機能イメージからそれらの自律感覚に至るイメージ情動神経細胞路が活性化されそれらの活性が維持される。次回にそれらの機能イメージが想起されたとき、それらの活性化されたイメージ情動神経細胞路が興奮し伝達し、それらの自律感覚を生じ、それらのいくつかが最も強い機能的衝動を生じるとき、それらが理性系のイメージ機能神経細胞路の興奮と伝達を促進し、自我の全体が生じ、意識的機能が生じる。それが自我の習性の形成過程である。例えば、子供が対人機能を生じてみて、疎外されず、快活さなどの快の情動と快の自律感覚が反復して生じたとき、対人直面の機能イメージの概略から快の自律感覚へのイメージ情動神経細胞路が活性化され、それらの機能イメージが快の自律感覚と最も強い機能的衝動を生じ、対人直面が頻繁に生じるようになる。
  そのように情動系の習性を決定づけるものは、概略に属する意識的機能が生じる情動の快の強さ、頻度、持続性である。簡単に言って、意識的機能を生じてみて何度やっても結果が快なら、わたしたちは何度もその意識的機能を生じるようになる。結局、そのような簡単な結論に達した。

思考の能力

  イメージの操作は自我から直接的に生じ、意識的機能である。
  自発的純粋心的機能である連想と意識的機能であるイメージの操作の交替を思考と呼べる。
  自我はイメージの操作によってテーマまたは問題を設定してそれらについて考えようとして思考を開始することができる。だから、思考は、イメージの操作という意識的機能を含むとともに、それ自体、意識的機能である。
    思考の中には非日常的で専門的な数学的思考、物理学的思考、法学的思考、経営学的思考…などがある。それらの思考と専門的知識は、特に学校や職場において必要であり、わたしたちは避けて通れない。どの思考を生じるかを最終的に決定するのは自我なのだが、それらの思考ではほとんどが状況と一種の義務とそれぞれの思考に特有の思考法によって決定されている。例えば、法学的思考と人道的思考をするべき法廷で経営学的思考はおもむろに見せるべきでない。また、どの種の会議でもある程度の専門的データは見せるべきである。また、数学的物理学的思考法は日常的言語だけでなくそれらの専門家のほとんどに知られた記号を含む。
  そのような専門的思考の能力と必要な知識は主としてそれらの学問または科学を勉強することによって習得される。例えば、それらの教科書は必要な基本的知識だけでなくそれらの思考法を含み、それらを読むことによっても専門的な思考の能力と必要な知識が習得される。
  だが、それらの形成においても自我の習性は問題にならないわけではない。そもそも勉強するかしないか、何を主に勉強するかは全般的な状況と欲求の習性と自我の習性によって決定される。勉強したくても地域に学校がないまたは家庭にある程度の財力がなければ勉強できない。それらがあっても勉強し将来専門職に就こう、さらに例えば、カネを稼いで贅沢な暮らしをしよう、偉い人になって名誉を得よう…などの欲求と自我が強くなければよく勉強できない。そもそも何のために勉強し何のために仕事をするのか。独立するためか、家族を養うためか、栄誉のためか、権力とカネを得て他人を支配するためか、権力者を打倒し社会を改革するためか…。それらを決定するのは欲求と自我の習性である。もっとも、純粋な真理に対する欲求、つまり古代ギリシア哲学の「エロス」はありえる。だが、それらはまさしく精神的情動であり、純粋な真理の追究を決定するのは欲求と自我の習性である。それらは状況と義務にあまり拘束されていない点で評価できる。

思考における自我の習性

  そのような自己と直接かかわらない思考に対して、自己とは何か、自己がどうすればよいかのような自己と直接係る思考がある。
  そのような思考においては、第一に、状況はより切迫したものとして重要である。第二に義務について、道徳、倫理、宗教…などは思考の内容まで干渉してくる。だが、それらは抽象的であり、それらからは様々な機能イメージが想起され、そのどれを採用するかは自我の習性に委ねられる。例えば、「汝の敵を愛する」としても、話し合って互いの間違いを発見し改善する、つまり、直面する、もう少し見守る、つまり、待機する…などの様々な機能イメージがその観念から想起され、その中からどれを選ぶかを決めるのは自我である。そもそも、ある宗教や思想をもつかどうかは、思春期以前は状況に、思春期とそれ以降は自我の習性に委ねられる。法についても、合法な意識的機能も違法な意識的機能も様々にあり、法を順守するにしても破るにしても、様々な中から選択するのは自我である。第三に、思考法について、自己に係る思考には画一的な思考法がない。教科書にも一般の本にも載っていない。だがら、自己に係る思考の大部分が自我の習性によって決定される。
  それらの自己に係るものの思考に対して、自己そのものと係る思考はもろに自我の習性によって決定される。自己の属性の中には不安、自己嫌悪、恥辱などの不快の感情を生じるものがある。例えば、自己の粘着的自我の習性、自己顕示的自我の習性、それらを回避し取り繕う自我の習性がイメージとして想起されると、それらは強い不快の感情を生じる。だから、自我はイメージとして想起されるそれらを回避し、最初から思考しない。それこそが最も重大な自我の習性である。
  それらの思考に対して、『自我をもつ動物』で説明されたとおり、思考を巻き込む自我がある。自我は機能イメージの想起を含むが、その自我の中で自我が機能イメージを操作して、機能イメージについて思考することがある。それを「思考を巻き込む自我」と呼べる。
  そのような自我に巻き込まれた思考はあらゆる心的機能の中で最も自我に近く、最も外部に晒されない。だから、ほとんどが状況と自我の習性に基づいて生じ、義務と思考法の制約をほとんど受けない。また、それらの内容は自我の習性の最も生々しい反映である。例えば、回避が困難な状況おいて回避する自我の習性の強い人において、回避の概略が機能イメージとして想起された後、自我がその概略を操作し思考してせいぜいより周到な回避の機能イメージにする程度である。そこで、回避が却下され、直面の概略が機能イメージとして想起され操作され思考されるとすれば、その人において既にある程度の直面する自我の習性が形成されているのである。だが、回避する自我の習性がさらに強い人においては、直面の概略が機能イメージとして想起されれば、操作され、イメージ回避され、却下される。
  だが、そのような思想を巻き込む自我について逐次、説明していると文章が煩雑になるので、特に必要のな限りその説明は省略される。また、通常、機能イメージまたは意識的機能の概略のイメージが想起され操作され思考されることを単に機能イメージが想起されることと呼ぶことにする。また、通常、直面、回避…などの概略を単に直面、回避…などと呼び、直面、回避…などしようとする自我を単に直面、回避、待機…などと呼ぶことにする。
  そのような思考を巻き込む自我においては、自我の習性が機能イメージと思考を決定づける。例えば、不安、自己嫌悪、恥辱…などの苦痛を生じる機能イメージが生起したときには、自我はそれを他の無難なイメージに切り替え回避する。もっと具体的には、過去に非難され疎外された対人関係に入る機能イメージが想起されたときは、不安、自己嫌悪…などの苦痛が生じ、自我はその機能イメージをその対人関係に入らないような無難な機能イメージに切り替える。それらの切り替えは自我のイメージ回避の習性に基づいて生じる。そのように自我に巻き込まれたイメージの切り替えや思考を決定づけるものは自我の習性である。

知識

  個体において記銘された複合イメージで想起されうるものが知識である。
  知識にも(1)非日常的で専門的なもの、(2)自己に係るもの、(3)自我の機能イメージになりえるものがある。(1)は勉強、実験、観察…などによって得られる。(2)他人からの評価、心理テストなどによっても得られるが、重要なものは自我による自己の思考によって得られる。(3)は主として自我に巻き込まれた思考の中で得られる。

人格

  ある個人の自我の習性、意識的機能の能力、思考の能力、イメージの想起の習性、連想の習性、精神的情動の習性、知識の全体をその個人の「人間の習性」、習性、「人格」と呼べる。
  これまでに何度も説明した通り、それらのうち最も重要なのは自我の習性であり、次に重要なのが意識的機能の能力である。だから、今後は主としてそれらについて説明する。
  そのように、心臓の拍動、肺の拡張収縮、消化管の運動…などの自律機能の習性または能力は人格に含まれない。それらは身体的習性または能力と呼べる。それらが重要なことは言うまでもない。だが、それらを大切にする習性は欲求と自我の習性に含まれる。例えば、自棄的な自我の習性が強い人ではそれらはあまり大切にされない。

習性の形成

能力、習性、傾向の形成、減退、再形成

  限定機能、特に限定自我で、それに属する被限定機能の概略の生じる傾向が大きくなることを傾向の形成と呼べ、小さくなることを傾向の減退と呼べ、それに属する被限定機能の概略の生じる傾向の行列としての限定機能の習性が変化することを習性の形成または再形成と呼べる。
  「減退」というと悪いイメージがあるだろう。だが、機能が苦痛を生じるとき、その機能の傾向が減退することによって苦痛が減退する。例えば、孤立は孤独、不安などを生じ、孤立的傾向が減退することによってそのような苦痛が減退する。
  意識的機能ではその能力が大きくなることを能力の形成と呼べ、小さくなることを能力の減退と呼べる。
  また、思春期以前に限定機能に属する被限定機能の概略の生じる傾向が全般的に大きくなることを習性の形成と呼べ、思春期以降にそれらが変化することを再形成と呼べる。

自我の習性と意識的機能の能力がまとめて形成される時期

  人間には以下のような自我の習性と意識的機能の能力がまとめて形成される時期がある。

(0-3期)乳児期幼児期前半 = 乳幼児期
  この期間の間、多数のイメージが生成し想起されるが、その期間の出来事が後に想起されない。平均的には胎生末期から三歳まで。以下に大別される。
(-0期)胎生末期
  母親の胎内で保護隔離されているので、イメージはほとんど生成しない。だが、いくつかの体性感覚と自律感覚は機能している。
(0-1期)乳児期
  母乳にせよ人工乳にせよ授乳を必要とし、離乳食は摂取しても授乳が生存のために不可欠である。
  泣く⇒笑う⇒目を動かす⇒顔を動かす⇒寝返り⇒頭がすわる⇒ハイハイ⇒つかまり立ち⇒直立二足で歩き始める⇒話し言葉のうち単語を話し始める。
  平均的に分娩から一歳まで。だが、あくまでも平均的にである。歩かない、話さないからといって、必ずしも障害を意味しない。
(1-3期)幼児期前半
  授乳がなくても生存できる。
  直立二足で歩く⇒話せる単語が増加する⇒文章を話しかける。
  平均的には一歳から三歳まで。
(3-10期)幼児期後半前思春期
  その期間の出来事がその後に想起され、性的機能の飛躍的な発達がまだ始まっていない。
  以下に区別される。
(3-6期)幼児期後半
  この時期に『生存と自由』で定義された自己のイメージが生成し想起されるようになる。家庭から独立した人間関係の中にまだ入っていない。
  走る。文章を話す。書き言葉を書きかける。母親や兄弟…などの導入の下に友達を作る。
  平均的には三歳から六歳まで。
(6-10期)前思春期
  家庭から独立した人間関係の中にある。
  クロール、バタフライ…などで泳ぐ。書き言葉を書く。勉強する。独力で友達を作る。性的機能が成熟していないのに彼または彼女を作る。
  平均的には六歳から十歳まで。
(10-15期)思春期
  性的機能の飛躍的な発達が始まってから終わる(性的機能が成熟する)まで。
  対人機能を広げるまたは回避する。『自我をもつ動物の心理学』で説明された自我が成熟する。
  平均的には10歳から15歳まで。それはあくまでも平均的なものであり、性差、個体差が大きい。
(15-期)後思春期
  性的機能の飛躍的な発達が終了してからの時間。つまり、後思春期という言葉は思春期を含まないことにする。それに対して、思春期とその後を「思春期とそれ以降」とも呼ぶことにする。また、思春期とその前を「思春期とそれ以前」とも呼ぶことにする。

乳幼児的、前思春期的、思春期的機能と習性

[0-3]乳幼児的機能、乳幼児的習性
  人間において平均的に、その習性、傾向または能力が主として乳児期幼児期前半(0-3期)に形成される機能を「乳幼児的」機能と呼べ、その習性、傾向または能力を乳幼児的習性と呼べる。
  乳幼児的習性はそれ以降の形成、減退、再形成が最も困難な習性である。乳幼児的意識的機能は、直立二足で歩くこと、言葉を話すこと、つまり、人間にとって最も基本的な意識的機能を含む。この時期にそれらの能力が形成されなければ、それ以降に形成することは困難である。
  さらに、乳幼児的被限定自我の概略は後述する粘着、自己顕示、支配、破壊、複合イメージ破壊、孤立…などを含む。
[3-10]前思春期的機能、前思春期的習性
  人間において平均的に、その習性、傾向または能力の大部分が幼児期後半前思春期に形成される機能を「前思春期的」機能と呼べ、その習性、傾向または能力を前思春期的習性とも呼べる。
  前思春期的習性は形成、減退、再形成することが後述より困難だが、前述より容易な習性である。前思春期的意識的機能は言葉を読み書く機能と習性、基本的な対人機能と対人習性を含む。
  さらに、この時期に自己のイメージが生成する。前思春期的イメージの想起は自己と世界の間の隙間、自己肥大化…などを含む。
[10-15]思春期的機能、思春期的習性
  人間において平均的に、その習性、傾向または能力の大部分が思春期に形成される機能を「思春期的」機能と呼べ、その習性、傾向または能力を思春期的習性とも呼べる。
  思春期的習性は形成、減退、再形成することが後述より困難だが、前述と比較すると容易な習性である。それらはより複雑な対人機能と対人習性。
  さらに、思春期的被限定自我の概略の傾向は後述する陥る習性を回避し取り繕う機能と習性を含む。
[15-]後思春期的機能、後思春期的習性
  人間において平均的に、その習性、傾向または能力が主として思春期以降に形成される機能を「後思春期的」機能とも呼び、その習性、傾向または能力を後思春期的習性と呼べる。
  後思春期的習性は形成、減退、再形成することが困難だが、前と比較すると容易な習性である。後思春期的意識的機能は最も複雑な対人機能を含む。
[0-]普遍的機能、普遍的習性
  人間において平均的に、その習性、傾向または能力が生涯に渡って形成されるまたは動揺する機能を「普遍的機能」と呼べ、その習性、傾向または能力を「普遍的習性」と呼べる。
  普遍的被限定自我の概略は直面、回避、待機を含む。

子供の世話

  特に乳児期幼児期前半の子供の生存と成長に不可欠な年長者の子供に対する機能をそれらによるその「世話」と呼ぶことにする。それは授乳、おむつ替え、だっこ、入浴、遊ばせる、離乳食を与えるを含む。

母親

  乳児期幼児期前半の子供の世話を主導するべき立場にある人間をその「母親」と呼べる。あくまでもそのような立場にある人間をそう呼ぶのであって、母親は必ずしも適切な世話をしているわけではない。また、母親は必ずしも愛情をもって世話をしているわけではない。
  通常、母親は実母だが、実父、義母、義父、祖父母、兄姉、職業人…などでありえる。また、母親は必ずしも一人ではない。例えば、実父が失業中で実母が就労中の場合、二人ともが母親であることはありえる。また、実母が2歳で亡くなり祖母がそれ以降育てた場合、二人ともが母親であることはありえる。だから、これらの著作では母親の複数形が使われることが多い。だが、ほとんどの母親が実母であることに変わりはない。それは理想的な理由によるのではなく現実的な理由による。

乳児期幼児期前半の子供の人間関係

  三歳までの子供の人間関係は母親と数人の人々に限られる。また、彼らに人間関係の選択の余地はない。そのような限られた人間関係において、彼らは生存と成長に必要な世話を獲得し、群れようとする欲動と対人欲求を満たし、孤独への不安を減じるしかない。

母親の愛情

  情動は『自我をもつ動物の心理学』で詳しく説明された。快不快の感覚、欲動、感情、欲求、複合的情動を情動と呼べる。愛情は、性的欲動、群れようとする欲動、子供を守り育てようとする欲動、孤独への不安、対人欲求…などから構成される複合的情動の一種である。人間だけが愛情をもつのではなく、哺乳類の一部が愛情をもつ。人間は他の動物より複雑な愛情をもつ。
  愛情は対象によってかなり異なる。そもそも、母親の子供への愛、異性間の愛、特定の人間への愛、一般の人間への愛、真実への愛…などを同じ「愛」という言葉で論じるのが間違っているのだろう。この著作のこれ以降では愛という言葉は母親の子供への愛を指すことにする。
  母親の子供への愛情は妊娠に始まる内分泌系、神経系の変化の影響を受ける。だが、そのような変化がすべてではない。母親の子供への愛情の一部は出産後対面したときに初めて沸いてくるものである。そのような部分は、実母に限らず、ある乳児の世話を主としてするべき立場にあるすべての老若男女、つまり、すべての母親に生じえる。また、初めての出会い以降も乳幼児は成長し変化し母親を引きつける。そのような出会いによって生じる愛情を母親の自然な愛情と呼べる。そのような自然な愛情が優位を占める複合的情動を母親の愛情と呼べる。
  そのような出会いにおいては人間または動物の誕生と成長に対する驚きと好奇心があり、母親の愛情はそのような情動を含む。子供が母親にとって第二子、第三子…であっても、人間または動物の普遍性と個体差に対する驚きと好奇心がある。
  母親の愛には、成長すれば労働力になる、老後は面倒をみてくれる…などの利己的な欲求が混入する。そのような欲求は社会的制度の影響を大いに受ける。例えば、高齢者福祉の充実した国家においては子供に面倒を見てもらおうという母親は少ないだろう。また、労働者の人権擁護と子供の教育のための制度が整備されている国家においては、子供を働かせる母親は少ないだろう。いずれにしても、そのような利己的な欲求が優勢な情動を母親の愛情と呼ぶことはできない。だが、そのような欲求が愛情にある程度、混入することは避けられないだけでなく、ある程度の混入は子供にとって無害である。
  また、母親の愛情には子供を健康に育てなければならないという義務感が伴う。そのような義務は慣習法と成文法にも基づく。そのような義務感が優勢な複合的情動を愛情と呼ぶことはできない。だが、ある程度の義務感は必要である。
  繰り返すが、前述の自然な愛情が優勢な複合的情動を母親の愛情と呼ぶことができる。
  以上のことから母親は愛情について難しく考える必要がない。極論になるが、愛情とは何かなどと考える人は愛情をもっていない。
  一般に他人の情動は把握され知覚され認識される。だが、その認識は必ずしも当たっていない。だが、心理学では間違った認識も他の機能に影響を与える心的機能である。
  3歳以前の子供においても母親の愛情が把握され知覚され認識される。乳幼児においては生存と成長に不可欠な世話や他の人間関係より母親の愛情を感じて認識しやすい。世話が生存と成長に必要などということを認識できるのは前思春期とそれ以降である。複雑な人間関係を認識できるのは思春期とそれ以降である。それに対して、母親に愛情があるかどうかは乳児でも認識できる。結局、乳幼児が最も把握し知覚し認識し最も求めているのは母親の愛情である。
  しかも、乳幼児が求めているのは、深い愛情でも、ありあまる愛情でもなく、前述の自然な愛情が優勢な普通の愛情である。例えば、過剰な身体の接触は乳幼児にとっても暑苦しく鬱陶しい。だから、母親は愛情とは何かとかどう愛情を表現するかとか考える必要がない。極論になるが、そういうことを考える母親は愛情をもっていない。

母親の愛情希薄

  母親において愛情が一時的に希薄になることはよくある。それに対して、持続的または反復的に母親の愛情が希薄であることを母親の愛情希薄と呼べる。例えば、母親が孤立し対人関係がほとんどないとき、子供を離さず、子供との関係で孤立感を癒そうとすることがある。そういうとき、子供との関係を維持し孤立感を癒そうという自我と欲求が優勢になり愛情は希薄になる。つまり、そのように子供を手放さないことは見かけの愛である。また、母親の仕事への欲求、配偶者への欲求…など欲求が全般的に満たされなかったとき、子供への欲求を高めて満たそうとすることがある。そのような高められた子供への欲求によっても愛は希薄になる。さらに、後述する囲い込みに繋がることがある。
  乳児期幼児期前半に母親が愛情をもって子供の世話をするとき、乳幼児は母親の愛情に満足し、ときには愛情に辟易して、三歳頃から愛情以外のものを求めて母親から離れて機能し、少しずつ人間として独立していく。それに対して、母親の愛情が希薄なとき、乳幼児は愛情に満足できず、三歳以降も母親の愛情を求めるばかりで、独立できない。さらに、母親の愛情をいつまでも求め続けることによって、後述する粘着的習性、自己顕示的習性…などが形成される。
  また、乳児期の子供に母親が愛情をもって世話するとき、生後6か月頃から乳児は授乳などの世話が少し遅れても待機できるようになる。それに対して、母親の愛情が希薄なとき、乳児は待機できず短絡し自棄的となり、泣きわめき続ける。さらに、後述する短絡的自我の習性、自棄的自我の習性、破壊的自我の習性…などが形成されることがある。
  母親の愛情希薄は後述する陥る習性を形成する最強の外的状況である。
  虐待、放置…などは母親の愛情希薄より重大で、明確である。だが、前者に注意するあまり、後者が軽視されてはならない。いずれにしても、前者は後者を含む。そこで、虐待、放置…などを母親の愛情希薄に含めることにする。

囲い込み

  総合機能と純粋心的機能の両方において、個人、特に母親が他人、特に子供を独占し離さないことを個人による他人の「囲い込み」、個人が他人を囲い込むことと呼べる。
  母親において全般的に欲求不満が強いとき、子供に関する欲求が高め挙げられ、母親が子供を囲い込むことが多い。特に、母親が孤立し対人関係が狭いとき、母親は孤独を減退させるために子供を囲い込むことが多い。
  囲い込みは愛情希薄と同じではない。だが、愛以外の欲求と自我が優勢になり、結果として愛情希薄となる。
  囲い込みはいわゆる「過干渉」を含む。一見したところの愛情の過剰が囲い込みであることがある。
  母親の囲い込みは後述する陥る習性を形成する最強の外的状況の一つである。

模倣

  他の動物の意識的機能が知覚されイメージとして生成し、自我がその意識的機能を繰り返すうちに、その意識的機能の能力とそれを生じる自我の習性が形成されることがある。そのことを個体による意識的機能の「模倣」、個体が意識的機能を模倣することと呼べる。注意するべきことは模倣によって意識的機能の能力だけでなく自我の習性も形成されることである。
  模倣は人間が直立二足で歩く、言葉を話す、書く…などに不可欠の機能である。
  だが、特に思春期に、破壊は模倣され、破壊する自我の習性が形成される。例えば、残念ながら、破壊的な親の子は破壊的になることが多い。

直面と回避

直面と回避

  もの(O)が現在に苦痛(OP)を生じ、
Oに係る意識的機能(CI)も現在に苦痛(IP)を生じ、
CIは未来に快楽を増大または維持しまたは苦痛を減少させる可能性をもち、
Oに係る別の意識的機能(EI)はOPを一時的に減じるとき、
自我がCIを生じることを自我がOまたはCIに直面することと呼べ、自我がEIを生じることを自我がOまたはCIを回避することと呼べる。
  直面と回避は自我の概略と見なせる。また、待機も自我の概略と見なせる。結局、苦痛に係る自我の概略として、直面と回避と待機の三つがある。
  また、直面、回避、待機という自我の概略から生じる意識的機能の概略を直面、回避、待機と呼べる。
  例えば、戦争に巻き込まれた人々が未来の身の安全のために現在に危険な逃走をすることは逃走という意識的機能に対する直面である。そのように逃走と回避は異なる。また、この場合はそれは逃走という意識的機能(CI)に対する直面である。
  また、後述するとおり、自我は苦痛を生じるイメージを切り替えることがある。それはイメージというもの(O)からの回避である。わたしたちは自己嫌悪、不安…などの苦痛を生じる自己のイメージのいくつかを切り替えて回避することがある。
  だが、わたしたちは日常で多くの場合、直面も回避もせず、待機している。そのような日常的な待機に対して、差し迫った状況で敢えて待機することは直面と見なせる。例えば、母親に適度な愛情があると、乳児は生後6か月頃から軽度の口渇と空腹があっても泣きわめかずに待機できるようになる。それは独立への重要なステップである。
  それに対して、待機するができず、いつでも即座に直面または回避することは「短絡」と呼べる。この短絡は人間の個体と種の生存には適さないことが多い。例えば、わずかな敵意ですぐに喧嘩や戦争を始めていたのでは人間の個体も種も生存していない。だが、短絡して即座に逃走することはネズミ、リス…などのいくつかの小動物には適している。
  ともかく、人間を含む動物は、過労を防ぐために、いつも直面しているわけにはいかず、ときには回避、待機、休養…などする必要がある。これらの著作はわたしたちは直面しなければならないと言うものでは全くない。何に直面する必要があるかを明らかにするものである。

イメージ直面とイメージ回避

  想起されるイメージが苦痛を生じることがある。それが『自我をもつ動物の心理学』で説明された不快の感情である。例えば、イメージとして想起される自己の未熟な対人機能能力は不安、自己嫌悪、恥辱…などの苦痛を生じる。
  『自我をもつ動物の心理学』で説明されたとおり、自我が想起されるいくつかのイメージを直接的に遠ざけるまたは消滅させることは困難または不可能である。そこで、自我は他のいくつかのイメージを近づけることによって、いくつかのイメージを間接的に遠ざける。それがイメージの切り替えである。想起されるイメージが強い苦痛を生じているとき、自我は苦痛を減退さえすればよく、それらをどうでもよいことに切り替えさえすればよい。簡単に言って、切り替え先はどうでもよい。そのようなときの、いくつかのイメージから他のいくつかのイメージへの切り替えを、自我によるイメージ回避、自我がイメージを回避することと呼べる。例えば、自己の未熟な対人機能能力がイメージとして想起され不安、自己嫌悪…などが生じるとき、自我はそれらのイメージを回避し、知能、体力、外見…などの他の優れていると思われる能力のイメージに切り替えることがある。
  それに対して、苦痛を生じる想起されるイメージを自我が回避せず、それらを操作するまたはそれらについて思考を開始することを自我によるイメージ直面、自我がイメージに直面することと呼べる。
  自我がイメージに直面するとき、まず、イメージ直面が最も複雑な機能イメージとして想起される。それと同時に、未来の快楽の増大または維持または苦痛の減少がイメージとして想起され、『自我をもつ動物の心理学』で説明されたようにして、適度な動悸、息苦しさなどの快の自律感覚が生じる。例えば、対人機能能力を形成することによる未来の安心、賑わい…などがイメージとして想起される。だから、不安、自己嫌悪などの苦痛を生じるにも係らず、自我は自己の未熟な能力に直面するのである。
  イメージ直面またはイメージ回避は精神的直面または精神的回避という言葉でも表現できる。ときにそれらの言葉を用いることにする。

直面と回避の習性

  直面と回避と待機は自我の概略でもあり、習性がある。例えば、頻繁に強く直面する人もいれば、頻繁に強く回避する人もいれば、頻繁に穏やかに待機する人もいる。
  だが、直面と回避の習性と強さや頻度はあまり重要ではない。最も重要なのは、自我が何を回避してきたか、自我がこれから何に直面するかである。

陥る習性

陥る機能と習性

  以下の属性をもつ機能の概略(X,Y,Z…)の集合を「悪循環に陥る機能」、「陥る機能」と呼べる。

(a) (X,Y,Z…)のそれぞれがイメージの素材、イメージの想起、知覚、連想、情動、自我、意識的機能、思考…などを横断する。だが、(X,Y,Z…)は主として自我の概略である。
(b) (X,Y,Z…)のそれぞれは一時的に、自己の苦痛を軽減するまたは快楽を生じる。だが、(X,Y,Z…)のそれぞれは強くまたは持続的または反復的に、自己と他人の苦痛、特に自己の精神的苦痛を生じる。
(c) (X,Y,Z…)の傾向のほとんどは共に形成される。(X,Y,Z…)のいくつか、つまり、X,Yが強くまたは持続的または反復的に生じることによって、X,YだけでなくZ…の傾向が減退せず形成される。特に自我が(X,Y,Z…)とそれらの傾向に直面することを妨げることによって、(X,Y,Z…)の傾向が減退せず形成される。
(d) (X,Y,Z…)の傾向が減退せず形成されることによって、(X,Y,Z…)が強くまたは持続的または反復的に生じ、ますます反復的な自己と他人の苦痛、特に自己の精神的苦痛を生じる。
(e) (a)(b)(c)(d)が繰り返される。

つまり、悪循環である。だから、繰り返すが、(a)(b)(c)(d)(e)の属性をもつ被限定機能の概略の集合を「悪循環に陥る機能」、「陥る機能」と呼べる。
  また、陥る機能の傾向を「悪循環に陥る習性」、陥る習性と呼べる。
  また、人間の陥る機能のほとんどは自我の概略であり、陥る習性のほとんどは自我の概略の傾向である。それらをそれぞれ陥る自我、陥る自我の習性と呼べる。だが、逐次、自我という言葉を用いなくても、陥る機能、陥る習性という言葉はそれらを指すことにする。
  人間の陥る機能のほとんどにおいて、それらの習性(=傾向)が乳児期前半には大きく、乳児期後半、幼児期前半、幼児期後半、前思春期、思春期、後思春期になるにつれて減退する。そこで、上記の(a)(b)(c)(d)(e)の属性をもつ機能の概略(X,Y,Z…)の集合で、それらの習性が同種、同年齢の平均を大きく上回るものを悪循環に陥る機能、陥る機能とも呼び、 その習性を悪循環に陥る習性、陥る習性とも呼ぶことにする。すると、個体の中である陥る習性がある程度、減退しても、同種同年齢の平均が急激に減退しているなら、前者は減退せずむしろ形成されていると見なされることがある。
  「減退」というと悪いイメージがあるだろうが、陥る習性が減退することによって自己と他人の反復的苦痛、特に自己の精神的苦痛が減退する。
  陥る機能と習性は以下を含み、以下がそれらの大部分を占める。

短絡

  自我が待機せずよく考えず即座に意識的機能を生じることを「短絡」と呼べる。その逆は待機、迂回、熟考…などである。
  短絡は動物が生存するのに適した機能であることがある。例えば、ネズミ、リスなどの小動物は、肉食動物に襲われたときに即座に逃走しなければ生存することができない。
  また、待機と迂回は動物が生存するのに適した機能であることがある。例えば、小動物が逃げて隠れた後はしばらくじっとしている必要がある。また、いくつかの肉食動物は待ち伏せをする。
  動物において平均的に、赤ちゃんは短絡し次第に待機、迂回できるようになる。それもそれらの生存に適している。
  人間においても、新生児は飢え、渇きがあるとき泣き喚き短絡する。だが、母親が愛情をもって乳児の世話をすると、乳児は乳児期の中頃(0.5歳頃)から授乳などの世話が少し遅れても待機できるようになり、短絡的習性が減退する。また、それ以降も子供は短絡する必要性のなさと不利さと待機し迂回することの必要性と利点を体験し、短絡的習性が減退し、待機する習性が形成される。
  それに対して、母親の愛情が希薄なとき、乳児は待機できず短絡し泣きわめき続け、短絡的習性、自棄的習性、破壊的習性が形成されることが多い。
  短絡的習性が形成されると、自我が短絡的な意識的機能と既に習性が形成された意識的機能、特に陥る機能ばかりを生じる。だから、他の機能の習性が形成されにくく、陥る習性が減退せず形成されやすい。これも悪循環である。
  だが、短絡が偶然に的を射、子供が天才ともてはやされることがある。それがまた子供を悪循環に陥れることが多い。

自棄

  母親の愛情が希薄で世話が遅れて待機できないとき、乳児は泣きわめき自棄的となる。人間の乳児を含めて多くの動物が自棄的となると自己も他の物も破壊しかねない。だから、自棄的習性と破壊的習性はともに形成されることが多い。
  また、乳児は自棄的となって破壊的になることによって母親たちの注意を引くことができる。特に人間を含む高等な哺乳類は親たちの注意を引くように自棄的、破壊的となる。結局、短絡的習性、自棄的習性、破壊的習性、自己顕示的習性はともに形成されることが多い。

破壊

  同種または他種の動物から攻撃されたり自然災害を受けたとき、動物は防御、反撃、逃走、隠遁…などする。それらを状況に応じて切り替えることは動物の個体と種が生存するのに適した機能である。だが、それらが適わないとき、動物は自棄的になりなんでも破壊することがある。それらの破壊は結果的に自己を巻き込むことがある。自暴自棄と破壊は成功率は前述の機能より低いが、窮地に陥った動物が生存するのに適した機能であることがあり、通常、最後の手段である。
  人間では破壊が同種に向かうことが他の動物より多い。例えば、虐待、いじめ、暴力、戦争、虐殺、…などは破壊に含まれる。
  また、人間では破壊が意図的に自己に向かうことがある。自殺、自傷だけでなく、拒食、過食、薬物乱用…なども自己の破壊に含まれる。そのような自己の破壊も破壊に含まれる。
  動物の赤ちゃんも自棄的になり何かを破壊する。例えば、人間の乳児は母親の授乳が遅れると泣きわめいて布団や母親を蹴飛ばす。
  母親が愛情をもって乳幼児を世話すれば、乳児期の中頃(0.5歳)に、乳幼児は待機することができるようになり、破壊する必要がなくなり、母親と他人に破壊以外の対人機能を生じて、破壊的習性が減退する。
  それに対して、母親の世話と愛情が不足するとき、乳幼児は待機できず短絡、自棄、破壊し続け、破壊的習性は減退せず形成されることが多い。
  そのように破壊的習性は母親の愛情希薄によって乳児が短絡的、自棄的になることによって乳児期にも形成される。習性が乳児期に形成される破壊は自己に向かうことが多い。リストカット、大量服薬…などの思春期以降の自傷的習性の原型はそのようにして乳児期に形成される。また、そのような破壊的習性は薬物依存、摂食障害…などにもつながる。
  それに対して、破壊的習性は前思春期以降の子供による年長者の模倣によっても形成される。例えば、残念ながら破壊的な親の子供は破壊的になることが多い。また、これも本当に残念なことだが、テロリストに育てられた子供は破壊的になることが多い。それらは子供が年長者を模倣することによる。そのように前思春期とそれ以降に形成される破壊性は他人に向かうことが多い。
  また、思春期の母親と他の人間による子供の囲い込みと子供による囲い込みの強い破壊は破壊的習性を形成することが多い。子供は独立を勝ち取るために親たちに反抗し囲い込みを破壊する必要がある。つまり、適度な囲い込みの破壊は必要である。だが、親による囲い込みと子供による破壊があまりに強く頻繁なら、破壊的習性が形成される。
  また、適度な反抗は子供の独立を促すが、過度の反抗において、子供は親に反抗することに終始し、他の機能をほとんど生じず、独立は阻害される。

粘着

  同種の他の動物を含むものから離れないそれらを離さない、人間においては他人を含むものから離れないそれらを離さないだけでなく、愛されようとする自我の概略をそれらへの「粘着」、それらに粘着すこととも呼ぶことにする。ネチネチしている、しつこい、つきまとう…などが粘着に含まれる。人間では、粘着的な対人機能だけだなく、特定の人を含むものが過度に強くまたは持続的にまたは反復的に想起されるなどの純粋心的機能も粘着に含まれることにする。
  粘着は動物の赤ちゃんが生存するのに適した機能である。何故なら、動物の赤ちゃんは親から離れては生存できないから。例えば、イヌは少し這えるようになると親に付きまとう。人間の例は挙げるまでもないだろう。
  人間では、母親が普通の世話と愛情をもって乳幼児に機能すれば、乳児期幼児期前半の終わりから幼児期後半の初め頃(三歳頃)に、幼児は母親の愛情と自身の粘着に辟易して、母親から離れ、母親以外の他人に粘着以外の対人機能を生じ、粘着的習性が減退し始める。
  それに対して、母親の世話と愛情が不足すると、乳幼児はいつまでも世話と愛情を求め、反復的に粘着し、粘着的習性が幼児期後半とそれ以降も減退せず形成されることが多い。前述のとおり、同種同年齢の平均との比較において、その子の中である程度、減退しても他の子の減退のスピードが急激なので、減退していると見なされないのである。そのような子供は幼児期後半とそれ以降は母親以外の他人にも粘着し、一般的な粘着的習性が形成されることが多い。
  そのように母親の愛情希薄は粘着的習性を後天的に形成する主要な外的状況である。粘着的習性を後天的に形成する要因として、母親の囲い込み、子供による母親の模倣…などもありえる。母親の囲い込みが子供の分離を阻害することが多いからである。また、囲い込みが母親の粘着的習性から生じることが多く、乳幼児は母親の粘着を模倣するからである。
  粘着的習性が、幼児期前半以降も減退しなかったとき多くの場合、同種同年齢との差が縮小しないという意味で、減退しない。粘着は幼稚園や学校の友達、同級生、先生にも向かい、やがて、職場の同僚、部下、上司にも、いたるところで友人と恋人にも、家庭で夫または妻にも、子供にも向かい、一般的な粘着的習性が形成される。そのように、大人の粘着は子供に向かうこともあり、母親の粘着はその子供に向かうこともあり、それは子供に模倣される。これも悪循環である。また、思春期とそれ以降の粘着は複雑で狡猾である。例えば、人を巻き込み操作するようになる。
  粘着的習性は強い苦痛を生じる。第一に、他人に粘着できないときに強い不安と孤独を生じ、人に死に物狂いで粘着せざるをえなくなる。第二に、他人に疎んじられることによる孤立と孤独を生じる。そのことによっても、ますます粘着せざるをえない。
  さらに、粘着的習性によってひたすら粘着するために、粘着的習性以外の対人習性がほとんど形成されない。そのことによっても、ますます粘着せざるをえない。これも悪循環である。
  しかも、粘着と自己顕示、支配、破壊、孤立…などは共に存在することが多い。何故なら、粘着して愛を得るためには人は自己顕示しようとする。粘着して愛が得られない場合は相手を支配または破壊しようとする。その結果として疎外され孤立する。そのようにして、粘着的習性、自己顕示的習性、支配的習性、破壊的習性、孤立的習性…などは共に形成される。何故なら、前述のとおり、それらは共に存在しえ、それらを後天的に形成する主要なものが同一の母親の愛情希薄、囲い込み、子供による同一の母親の模倣であるからである。これも悪循環である。
  陥る機能と習性について大部分が同様である。そこで、以下の説明を簡略化することにする。

自己顕示

  自己を同種の他の動物に過度に顕示することを「自己顕示」と呼べる。人間においては、かっこうをつける、やたらと自己を語る、自慢話をする、過去の遍歴を語る、自己を虚飾して語る…などが自己顕示に含まれる。
  自己顕示は動物の赤ちゃんが生存するのに適した機能である。何故なら動物の赤ちゃんは親の注意と世話を引き出さなければ生きていけないから。例えば、犬も猫も人間も親の注意を引きつけるような鳴き方をする。
  母親でなくても、他人の子供がかわいいと思うことがあり、それは自然な感情である。さらに、お世辞ではなく、子供を賞賛していることがある。母親においてはなおさら、自分の子供がかわいいと思うことがあり、それは愛と重なる。そのような愛があれば自然と子供を賞賛している。
  人間においては、乳幼児がそのように母親に愛され賞賛されれば、乳児期幼児期前半の終わり頃(3歳前)に、幼児は母親の愛情と賞賛と自身の自己顕示に辟易し、母親以外の他人に自己顕示以外の対人機能を生じ、自己顕示的習性が減退する。
  それに対して、母親の愛情と賞賛が不足するなら、乳幼児はそれらに辟易せず、いつまでも自己顕示し続け、自己顕示的習性が減退せず形成されることが多い。また、母親の愛と世話が不足するなら、乳幼児はそれらを得る手段としてますます自己顕示しなければならない。そのように、自己顕示的習性を後天的に形成する主要な外的状況は母親の愛情と賞賛の不足である。
  自己顕示的習性の形成と他の陥る習性との関係は粘着的習性のそれらとほぼ同様である。だから、それらの説明のほとんどを省略し、特徴的なことだけを説明する。わたしたちが自己を誇大化し虚飾するのは、誇大化され虚飾されたものを他人に見せるためだが、自己のイメージもある程度、誇大化または虚飾され、現実の自己が認識されにくくなる。それによっても、自己顕示的習性は、自我が陥る機能と習性に直面することを妨げる。そのことによっても陥る習性はなかなか減退しない。

支配

  固体または集団が同種の他の個体または集団を何に関しても強くまたは持続的にまたは反復的に支配することをそれらによるそれらの「支配」、それがそれらを支配することと呼べる。例えば、人間が他の生物や自然を支配することはこの著作では支配に含まれない。人間では、支配はどうでもよいようなことでも何でも取り仕切ろうとする、ともかく上に立とうとする、ポジション取りをする、なんでも独占しようとするを含む。
  状況に応じて支配と委任と服従と非服従を切り替えることは個体と種の生存に適した機能である。人間の赤ちゃんを含む動物の赤ちゃんも母親を支配することによって世話と愛を得ようとする、それも生存に適した機能である。例えば、人間の赤ちゃんは泣きわめくことによって親の授乳を支配する。
  人間では、母親が愛情をもって乳幼児の世話をすれば、乳幼児はそんなに支配する必要がなく、支配以外の対人機能を母親とそれ以外に生じて、支配的習性は減退する。
  それに対して、母親の世話と愛情が不足すれば、乳幼児はいつまでも支配し続け、またはますます支配し続け、支配的習性が減退せず形成される。そのように、支配的習性を後天的に形成する主要な外的状況は母親の愛情の希薄である。
  後思春期に支配的習性がますます形成されることがある。地位と権力とカネを得て人を支配することができた人間はますます権力とカネを得て人を支配しようとするものである。そのように支配的習性は生涯に渡って形成されえる。
  支配的習性の大きい人間は地位、権力、カネを追求し、それらのいくつかは破壊的習性を伴い、それらのいくつかは専制、戦争、大量虐殺…などを生じる。それらを得られないときは、いわゆる内弁慶になり、家庭を支配しようとして、子供とパートナーの囲い込み、家庭内暴力…などを起こすことがある。

複合イメージ破壊

  人間において、複合イメージとして想起されるものが不安、恐怖、自己嫌悪…などの不快の感情を生じるとき、幼児期後半とそれ以降の比較的成熟した自我は前述のイメージ回避によってそのようなイメージを切り替える。だが、乳児期幼児期前半の自我は未熟であり、そのような切り替えをうまくすることができない。そこで、イメージから大きな苦痛が生じる乳幼児のいくつかはイメージを何がなんでも破壊しようとする。そのような破壊は成熟した自我がすることができる分解とは異なる。その結果、複合イメージ、イメージの想起、連想、自我、思考、自己のイメージ…などのいくつかが一般の人間や心理学者や精神医学者にとってさえも思いもよらないものになることがある。その一例が「解離性障害」であると考えられる。苦痛を生じるイメージを何がなんでも破壊することとそれがもたらす結果を「複合イメージ破壊」、複合イメージを破壊することと呼べる。
  複合イメージ破壊は、解離性障害の「解離」、境界人格障害の「分裂」などに発展することがありえる。
  例えば、虐待する母親のイメージが想起され、反復的な不安、恐怖を生じる。幼児期後半とそれ以降の子供ならそのイメージを回避することができる。だが、乳児期幼児期前半の子供は回避できず、そのようなイメージを手当たり次第に破壊する。
  複合イメージ破壊の習性は、母親の愛情希薄から、特に虐待、放置…などの極端から形成されることが多い。

孤立

  群れ、家庭、社会…などの集団から離れることは動物の赤ちゃんの生存に適さない。だが、群れから破壊、攻撃、疎外…などされ、個体がある程度、成長しているとき、群れの中にいるより群れから離れたほうが生存に適することがある。
  人間において物質的身体的には、子供たちも法的社会的制度によって保護されている。それに対して、精神的には彼らは疎外され孤立しうる。だが、人間は精神的に孤立しても、一人遊びをすることができる。さらに、一人遊びがなくても、白日夢などイメージを弄ぶことができる。それも『自我をもつ動物の心理学』で説明されたイメージの操作の一種である。これらの著作では、それらのような遊びによって人間が一人でもある程度は精神的に存在することを「孤立」と呼ぶことにする。
  人間においては、母親と愛情が希薄であれば、乳幼児は随意運動と総合機能で群居するが、純粋心的機能で孤立し、一人遊びやイメージの弄びをし、乳児期の中頃から孤立的習性が形成され始める。簡単に言って、一見したところ群れの中に居ても、心の中では孤立している。虐待、放置…などがあれば、随意運動と総合機能でも孤立し、孤立は一見して明らかであり、孤立的習性は強く形成される。いずれにしても、乳幼児期の終わり(三歳頃)まで孤立したとき、孤立的習性が強く形成され、それ以降も減退しないことが多い。
  孤立は後述する自己に係る陥る習性の形成を促進する。

ナルシシズム

  乳児期幼児期前半に親や親戚、特に母親に愛されずもてはやされなかった子供は自ら自己を愛するようになる。ある程度、それらをされると、子供はそれらをされることと自己を愛することに辟易して、他人や他のものを愛して、適度な「ナルシズム」が形成される。そうでないと強いナルシズムが形成される。強いナルシズムは自己顕示という形で現れることがある。また、強いナルシズムは一人遊びや白日夢などのイメージでの遊びに繋がり孤立に繋がることがある。また、強いナルシズムは不安定で、強い自己嫌悪と交替することがある。

母親の陥る習性と愛情希薄と囲い込みと子供によるによる母親の陥る機能の模倣

  粘着は愛を求めるが愛を与えない。破壊には愛がほとんど伴わず憎しみが伴う。人間は誰かを愛して、その人の愛が得られなかったとき、その人を破壊することがある。自己顕示、ナルシシズムは他人を愛さない。だから、陥る習性をもつ人が母親になると子供に対しても愛情希薄であることが多い。
  また、陥る習性をもつ人は主として孤立し疎外されるために、様々な欲求不満に陥る。そこで、前述のとおり、子供に係る欲求を高め上げ、子供を囲い込み、それらの欲求を満たそうとすることが多い。簡単に言って、子供を独占しようとする。
  また、乳幼児といえども身近な人を模倣する。後に習性が形成される回避、取り繕い…などの陥る機能は乳幼児に模倣は難しいが、習性が乳幼児期に形成される自棄、破壊、粘着、自己顕示…などの陥る機能は乳幼児にも模倣が容易である。当然、母親のそれらも模倣される。結局、子供は乳児期から思春期まで年長者の陥る機能を模倣し、それぞれの時期に特有のものを模倣する。
  以上のことから、母親が陥る習性をもっているとき、子供が陥る習性をもつ確率は高い。母親の陥る習性から生じる愛情希薄と囲い込みと子供による母親の陥る機能の模倣は子供の陥る習性を形成する主要なものである。

乳幼児的陥る習性

  人間において平均的に、これまでの節で説明された陥る機能の陥る習性は幼児期前半の終わりまたは幼児期後半の初め(3歳頃)までに減退する。だが、それらの習性は、主として母親の愛情希薄と母親の囲い込みと子供による母親の陥る機能の模倣によって減退せず形成される。だから、それらの機能を「乳幼児的陥る機能」と呼べ、それらの習性を「乳幼児的陥る習性」と呼べる。
  乳幼児的陥る習性に限らず、一般に陥る習性は共に形成される。さらに、以下のことから、特に乳幼児的習性は共に形成される。乳幼児の習性の形成の状況はほとんど家庭のみであり特に母親だけである。だから、その形成は母親の愛情希薄と母親の囲い込みと乳幼児による母親の陥る機能の模倣の影響を直接的に受ける。

自己イメージの生成

  自己は『生存と自由』で定義された。人間では、過去、現在、未来の身体、情動、想起、連想、意識的機能、自我、それらの習性…などから構成される複合イメージとして自己は想起される。人間において平均的に、自己のイメージは幼児期後半の初め頃、つまり、四歳頃に生成し想起されるようになり、思春期に最も明瞭になる。

自己がやがて死ぬことへの不安

  自己のイメージが生成し想起されてしばらくすると、自己の時間的有限性、自己がやがて死ぬことがイメージとして想起され、それらが自己がやがて死ぬことへの不安を生じるようになる。自己がやがて死ぬことへの不安は究極の不安である。それを克服する決定的方法は『生存と自由』で説明されている。

自己無限化試行

  自己がやがて死ぬことへの不安は何らかの方法で自己を無限化しよう試みる自我と欲求と意識的機能を生じる。そのような自我と欲求を「自己無限化欲求」と呼べ、そのような自我と意識的機能を「自己無限化試行」と呼べる。
  自己無限化試行は、愛、宗教、支配、権力の追求…などと重なる。例えば、権力者が自身の巨大な墓を建てることと重なる。

自己と世界の間の間隙の拡大

  イメージとして想起されるものの中では、自己のイメージと自己以外のもののイメージの間に隙間がある。そのような間隙を「自己と世界の間の間隙」と呼べる。
  乳幼児が孤立していなければ、そのような間隙は母親、他の人々、ペット、おもちゃ…などで埋められるので、そのような間隙は小さい。
  それに対して、乳児期幼児期前半に孤立した人間ではそのような間隙が拡大する。これまでに説明した陥る機能が主として自我の概略であり、自我の陥る習性によったのに対して、そのような拡大はイメージの想起の陥る習性による。
  自己と世界との間の間隙が小さい人間は、自己のイメージと自己以外のもののイメージが連続するために、自己がやがて死ぬことへの不安を克服する方法に至りやすく、自己が死ぬことへの不安が稀にしか生じず、生じるとしても弱い。
  それに対して、その間隙の拡大した人間は、自己のイメージと自己以外のイメージが隔絶するために、その不安を克服する方法に至りにくく、自己が死ぬことへの不安が頻繁に強く生じる。また、前述のとおり、自己を永遠化しようとする欲求が強くなる。
  それらの間のギャップの拡大が自己がやがて死ぬことへの不安と自己永遠化欲求を生じ、それらが自己顕示的習性、支配的習性…などを強化することはよくある。例えば、強大な権力を獲得した人が、人々を支配して栄光や巨大な墓を残そうとすることはある。さらに、陥る習性は共に形成されるので、彼らはしばしば大きな破壊的習性ももち、権力を握って、自由権、社会権、政治的権利、民主制、権力分立制、法の支配、全般的生存権を破壊し、専制、独裁、戦争、全体破壊手段の研究、開発、保持…などに走ることがある。だから、それらの陥る習性を減退させることは生存と自由を確保する方法でもある。

自己肥大化

  自己と世界の間の間隙の拡大においてはその間隙が自己のイメージで埋められることが多い。何故なら、孤立しているために自己以外のイメージで埋めようがないからである。他人や他の動物や自然との関係が再開するなら、その間隙は多少でも自己以外のイメージで埋められる。孤立が続くなら、自己のイメージで埋められ続ける。その結果、自己のイメージは大きくなる。そのことを自己の肥大化と呼べる。自己と世界の間の間隙の拡大と同様に、それはイメージの想起の習性によって生じる。
  自己の肥大化は自己と世界の間の間隙の拡大だけでなく自己顕示的習性、支配的習性…などとともに形成されることが多い。

自己の美化

  陥る習性が形成されているような自己のイメージは不安、恐怖、自己嫌悪…などの苦痛を生じる。そのような苦痛を減じるために子供なりの未熟な自我は自己を美化する。例えば、母親や一般の人間に愛してもらえず疎外されているかわいそうな者として自己を美化する。そのような美化によって美化された自己のイメージが生成する。そのような自己の美化も自我が自己の陥る機能と習性に直面することを妨げる。

前思春期的陥る習性

  それらの機能の習性の大部分が自己のイメージが生成した後の幼児期後半前思春期に形成される。そこで、それらの機能を「前思春期的陥る機能」とも呼び、それらの習性を「前思春期的陥る習性」とも呼ぶことにする。
  前思春期的陥る習性から少なくとも孤立的習性へと遡ることができ、孤立的習性は乳児期幼児期前半に形成される。また、乳幼児的陥る習性のほとんどは共に形成される。また、前思春期的陥る習性のほとんどは共に形成される。だから、乳幼児的陥る習性と前思春期的陥る習性の多くは併存する。いずれにしても、それらのいずれかが突出して形成されることはない。

対人機能能力の未熟

  子供が家庭や幼稚園、小学校で疎外され孤立せざるをえず、または、孤立的習性が形成されると、自我が意識的機能としての対人機能をあまり生じず、意識的機能の能力としての対人機能能力はあまり形成されず未熟にとどまる。例えば、子供たちに限らず、大人でも数か月隠遁していると対人機能がうまくいかないものである。
  さらに、陥る習性が形成されると、陥る自我が陥る対人機能を生じる。陥る対人機能能力は形成されるが、それ以外の対人機能能力はあまり形成されず、一般の対人機能能力は未熟にとどまる。例えば、支配的で破壊的な対人機能にばかり出ていたのでは、協調的な対人機能能力が形成されず、一般の能力は未熟にとどまる。
  また、陥る習性が強く陥る対人機能を頻繁に生じる人間は人から疎外されることが多く、孤立し、対人機能能力は未熟にとどまる。
  さらに、対人機能能力が未熟にとどまるために、ますます疎外され孤立し、対人機能能力が未熟にとどまる。
  これらも悪循環である。
  特に後述の対人機能を回避し取り繕う習性は対人習性の未熟をもたらす。
  だが、陥る習性が減退するとき、対人機能能力は意外と早く形成される。結局、対人機能能力の未熟より陥る習性のほうが重大である。

対人関係を回避する習性

  前節のとおり、陥る習性が形成され対人機能能力が未熟なときに自我が対人機能を生じると強い苦痛が生じる。だから、自我は持続的反復的に対人関係を回避し、対人関係を回避する習性が形成される。この習性は乳幼児期に形成され始めるが、まだ動揺する。特に思春期に確実に形成され定着する。
  また、思春期の自我は単純にではなく複雑に対人関係を回避する。例えば、深い人間関係に入ることを避けて、表面的な関係に終始する。また、破壊性をちらつかせて人が近寄り難い雰囲気を作る。そのような対人機能は後述する取り繕いとも重なる。思春期にはそのような複雑な対人関係の回避が生じ、そのような複雑な対人関係を回避する習性が形成される。
  そのようにして自我が持続的反復的に対人関係を回避するために、対人機能能力はますます未熟にとどまる。これも悪循環である。

対人機能能力の未熟の取り繕い

  思春期の自我は対人関係を回避するだけでなく、対人機能能力の未熟を取り繕う。例えば、地位、権力、カネ、容姿…を見せびらかせて、それらを取り繕う。彼らは自身の地位、権力、カネをもっていないが、親のそれらを見せびらかすことはある。後思春期では自身のそれらを見せびらかして様々なものを取り繕うことはよくある。容姿や顔だちは思春期こそ取り繕いの絶好の手段になる。
  そのような取り繕いは完全に見抜かれることはほとんどないが、他人に不快な感情を生じるものである。そのことによっても取り繕うものは阻害され、ますます対人機能能力が未熟にとどまる。

陥る習性の取り繕い

  心的機能という内的状況において、陥る機能と習性は、イメージとして想起されたとき不安、自己嫌悪…などの強い苦痛を生じるため、特に思春期のある程度成熟した自我は自己の陥る機能と習性を取り繕う。また、対人関係と言う外的状況の中で、自己の陥る機能と習性に他人に気づかれると、恥辱という苦痛が生じるために、自我は自己の陥る機能と習性を隠し取り繕う。つまり、思春期とそれ以降の自我が取り繕うものは、対人機能能力の未熟だけでなく、陥る機能と習性全般である。それらのことを「陥る習性の取り繕い」、陥る習性を取り繕うこととも呼び、その習性を陥る習性を取り繕う習性とも呼ぶことにする。
  例えば、乳幼児期以降も母親の愛情を求めて粘着し粘着的習性が形成されたなどということは内的状況において自己嫌悪を生じ外的状況において恥辱を生じる。だから、思春期とそれ以降の自我は一見したところ、あっさりと振る舞う。また、もてはやされなかったから自己顕示し自己顕示的習性が形成されたなどということも同様に苦痛を生じる。だから、一見したところあっさりと振る舞う。だが、それらの習性は残っており、取り繕いつつ粘着し自己顕示している。だから、矛盾した人と見られることが多い。
  陥る対人習性を取り繕う対人習性がそれらの中で最も明確である。例えば、自然にではなく意図的に明るく振舞う、孤独を美化する、地位、権力を見せびらかす、浅薄なことばかり話す、破壊性を顕示して人が近寄り難い雰囲気を作る…などがそれである。
  陥る習性を取り繕う習性が大きいとき、陥る習性の取り繕いがほとんどいつも生じ、取り繕い以外の重要な機能があまり生じず、取り繕う習性以外の重要な習性が形成されない。例えば、人と打ち解けて話をする習性が形成されない。
  また、陥る習性の取り繕いは、自我が自己の陥る機能と習性に直面することを妨げる。取り繕いがうまくいっている限りは自我は自己の陥る習性に直面しない。取り繕いに破たんしたときだけ直面する。例えば、地位と権力を見せびらかしてうまく行っている限りは、自我は自己の陥る対人習性に直面しない。
  それらのことから、陥る習性の取り繕いは陥る機能に含まれ、陥る習性を取り繕う習性は陥る習性に含まれる。
  前思春期に、陥る対人習性が形成されているときまたは対人機能能力が未熟であるとき、思春期に学校で同級生からいじめられ疎外され、陥る習性が強化され、陥る習性を取り繕う習性が形成されることがある。
  陥る対人機能と極端に反対の対人機能を生じることによって、陥る習性を取り繕う対人機能を「反対表現」と呼べる。例えば、思春期に面白くなく真面目な人間として他人から嫌われたとき、極端に不真面目な振る舞いをすることがある。反対表現は誤解を招くことが多い。何故なら、それが陥る習性に基づく反対表現だと理解してくれる人はほとんどいないからである。
  それらのように、陥る習性を取り繕う習性は主として思春期に後天的に形成される。

陥る習性のイメージの回避

  自己の陥る機能と習性がイメージとして想起されると、それらのイメージは不安、自己嫌悪…などの強い精神的苦痛を生じる。そのために、自我はイメージとして想起される自己の陥る機能と習性を『自我をもつ動物の心理学』で説明されたイメージの切り替えによって回避することがある。イメージとして想起される陥る機能と習性を回避することを、陥る習性の(イメージの)回避、陥る習性(のイメージ)を回避すること、(イメージとして想起される)陥る習性を回避することと呼べる。また、その習性を陥る習性を回避する習性と呼べる。例えば、自己が粘着的、簡単に言って、ネチネチしているこことがイメージとして想起されると不安、自己嫌悪、恥辱…などの強い不快の精神的情動を生じるために、自我はそれらのイメージを無害なイメージに切り替える。
  陥る習性を回避する習性が大きく、陥る習性がイメージとして想起されるたびに陥る習性の回避が生じると、自我が陥る習性に直面することができず、陥る習性の全般が減退しない。だから、陥る習性の回避は陥る機能に含まれ、陥る習性を回避する習性は陥る習性に含まれる。といういより、それらは最大の悪循環であり、最悪の陥る機能と習性である。
  前述の陥る習性を取り繕う習性の形成時期と比較して、陥る習性を回避する習性が形成される時期は、不定だが、主として思春期に形成される。

陥る習性のイメージの取り繕い

  自己の陥る習性のイメージは回避されるだけでない。前述のとおり、乳幼児期には自己のイメージは美化されるが、それは自己全般の美化である。それに対して、思春期とそれ以降には、自我はそれらの覆いとなるものを強調してそれらが想起されることを妨げる。それを陥る習性(のイメージ)の取り繕い、陥る習性(のイメージ)を取り繕うこと、(イメージとして想起される)陥る習性を取り繕うことと呼べる。
  例えば、容貌に自信をもつ子供や大人は、それらのイメージを強調して、陥る習性を取り繕うことがある。優れた容貌が一般に弊害だと言っているのではなく、それがそのように利用されるなら弊害だと言っているのである。また、地位、権力、カネをもっている大人は、それらのイメージを強調して、陥る習性を取り繕うことがあり、そういう人は特に部下にとってやっかいである。

陥る習性のイメージを回避し取り繕う習性

  陥る習性のイメージの回避もそれらの取り繕いも一時的な不快を減らすという自我の意図では同じであり、陥る習性が強くまたは持続的または反復的に想起されることがなくなるという結果は同じである。また、自我が陥る機能と習性に直面することを妨げるという弊害も同じである。そこで、それらをまとめて陥る習性のイメージを回避し取り繕うことまたはイメージとして想起される陥る習性を回避し取り繕うことと呼べ、それらの習性を陥る習性のイメージを回避し取り繕う習性と呼べる。さらに、畳語ととられるかもしれないが、陥る習性を回避し取り繕う機能は陥る機能に含まれるので、それらを陥る習性を回避し取り繕う陥る機能とも呼べ、陥る習性を回避し取り繕う習性は陥る習性に含まれるので、それらを陥る習性を回避し取り繕う陥る習性と呼べる。
  陥る習性を回避し取り繕うために、自我が自己の陥る機能と習性に直面することができず、陥る習性を回避し取り繕う習性を含む陥る習性は減退せずますます形成される。それは最大の悪循環であり、それらは最も重大な陥る習性、機能である。

迫害されるものとしての自己のイメージの強調と反動または復讐

  陥る習性をもつ人間は、疎外され孤立することが多く、それらの疎外と孤立を他人または一般の人間または社会の迫害と見なすことがある。
  迫害される者としての自己のイメージを強調し、自己の陥る習性をそれらで覆えば、それらの強調と覆いは前述の陥る習性のイメージの取り繕いである。
  さらに、陥る習性を取り繕うのに必要な程度を過ぎて迫害される自己のイメージが強調されれば、彼らが思う迫害者への反動または復讐につながることがある。そのような強調と前述の自棄、破壊…などが伴えば、反動または復讐は激しいものとなりえる。また、そのような破壊が自己に向かうことがある。

鏡像破壊

  遺伝子と遺伝子機能と母親の愛情希薄、囲い込み、子供による年長者の模倣によって、子供の習性は母親、父親、兄姉…などの習性と類似し、特に陥る習性は類似する。それは子供のものが鏡に映し出されるようなものである。また、子供は自己の陥る習性に不安、自己嫌悪…などの苦痛をもつ。だから、子供は母親、父親…などの陥る習性に自分のものであるかのような苦痛をもつ。大きな陥る習性をもつ子供または青年は母親、父親…などまたはそのイメージを破壊しようとする。そのことを「鏡像破壊」と呼べ、その習性を「鏡像破壊的習性」と呼べる。
  鏡像破壊はいわゆる「反抗」と重なるが、鏡像破壊的習性は、陥る習性が減退しない限り、思春期が過ぎても減退しない。鏡像破壊が最初に明らかになるのは思春期である。
  鏡像破壊も自我が自己の陥る機能と習性に直面することを妨げる。何故なら、自己の陥る習性を他人に投げ出してしまっているからである。
  だから、鏡像破壊は陥る機能に含まれ、その習性は陥る習性に含まれる。

過度の反抗

  親の囲い込みと支配が強く思春期以降も持続するとき、子供や青年がそれらに反抗することに終始し、反抗以外の機能が生じず反抗以外の習性が形成されないことがある。例えば、青年が独立するためではなく親から離れるために別居したり結婚することがある。そのような別居や結婚では、独立して生きる習性が形成されない。だから、過度の反抗は陥る機能に含まれ、その習性は陥る習性に含まれる。

思春期的陥る習性

  それらのような習性が主として思春期に形成される陥る機能を「思春期的陥る習性」とも呼び、その習性を「思春期的陥る習性」とも呼ぶことにする。
  思春期的陥る習性の中で最も重大なのは陥る習性を回避し取り繕う習性である。それどころかそれらは陥る習性の中で最も重大と言える。
  思春期に学校でいじめられ、疎外される…などは思春期的陥る習性を形成し、陥る習性を強化し、さらに思春期的陥る習性を強化しえる。
  前述の破壊的習性と支配的習性について、それらの少なからぬ部分が思春期の自我の模倣によって形成され強化されるる。特に暴力的集団におけるその形成は重大である。
  いずれにしても、思春期的習性や後思春期的習性は間接的に大なり小なり前思春期的習性と乳幼児的習性を基に形成される。

後思春期的陥る習性

  その習性が主として後思春期に形成される機能を後思春期的機能と呼べ、その習性を後思春期的習性と呼べる。後思春期的習性は複雑な対人機能力、複雑な生き方、死に方…などを含む。後思春期的陥る習性は姑息な、諂う、浅薄な対人習性、権力、カネ、外見…などで陥る習性を取り繕う習性を含む。いずれにしても陥る習性を回避し取り繕う陥る機能と習性はますます複雑で狡猾になる。
  いずれにしても思春期とそれ以前に形成された陥る習性はなかなか減退せず、それ以降の習性もそれ以前に形成された習性を基に形成される。

他人を責めること

  前述のとおり、陥る習性を形成する原因のいくつかとして母親の愛情希薄、囲い込み、子供による年長者の模倣があり、母親に原因のいくつかがあることは確かである。
  だが、原因が間違って父親や兄弟姉妹や祖父母に帰されることはある。例えば、父親が暴力的またはアルコール依存または他の薬物依存であった場合、父親に帰されることはよくある。
  もう一度、母親の定義に立ち返ってみよう。乳幼児に最も頻繁に世話をする立場にある人が母親である。もし父親だけがその立場にあるなら彼が母親である。
  過去に立ち返って、原因を正確に追究することは陥る習性に直面する有力な手掛かりとなる。
  だが、後述するとおり、陥る習性のうち最も重大なものは陥る習性を回避し取り繕う陥る習性であって、それらを回避し取り繕ったのは思春期の自我であって、母親でも父親でもその他の人間でもない。つまり、自己の陥る習性の最大の原因は思春期の自我にあるのであって他人にはない。
  それにも係らず思春期以降の人が他人を責めるとすれば、それは陥る習性の取り繕いである。

陥る機能と習性への直面

自我の停止

  前述のとおり、陥る機能のほとんどは陥る自我の概略であり、陥る習性のほとんどは陥る自我の習性である。また、どの自我の概略が生じるかを決定づけるものは自我のうちの情動系である。一つの状況から複数の機能イメージが想起されるが、強い快の自律感覚を生じないまたは不快の自律感覚を生じるものは機能的衝動を生じず自我の全体を生じず意識的機能を生じない。陥る自我も陥る意識的機能も同様に生じない。例えば、粘着や自己顕示が機能イメージとして想起されても、それが不安や自己嫌悪や恥辱に似た不快の自律感覚を生じれば、それらは生じない。簡単に言って、そうしようという考えが浮かんでも、嫌な感じがすれば、思いとどまる。
  機能イメージが想起されるが自我の全体が生じないことは自我の停止であり、それも完全停止ではなく不完全停止であ。

自我が陥る習性に直面すること

  陥る機能と習性がイメージとして想起されると、不安、自己嫌悪、恥辱…などの不快の自律感覚が生じる。だから、自我はそれらを回避し取り繕ってきたのである。自我がそれらを回避せず取り繕わずそれらに直面するとき、それらが不快の自律感覚を生じ、それらからそれらの不快の自律感覚に至るイメージ情動神経細胞路が活性化される。同時に、陥る機能の機能イメージから不快の自律感覚に至るイメージ情動神経細胞路が活性化されえる。すると、それらの機能イメージが想起されても、それらから不快が生じえ、陥る自我の習性が減退しえ、陥る機能は生じないことがありえる。
  だが、下のいくつかの節で述べるような陥る機能と習性への直面は中途半端なものであり、無駄である。

他人の自己に対する心的機能のイメージの無駄

    陥る機能と習性がイメージとして想起されるとすぐに、同情、悲しみ、叱責、非難、冷笑、疎外…などの他人の自己に対する心的機能(1)がイメージとして想起され、それらが不快の感情を生じることがある。(1)における他人は両親、友人、教師、上司、裁判官、精神科医、心理士、牧師、超自我、社会、神、飴と鞭を使う人を含みえる。イメージとして想起される(1)が生じる不快の感情(2)は罪悪感、恥辱、不名誉を含みえる。(1)がイメージとして想起され(2)が生じている間は、自己の陥る機能と習性(3)のイメージを圧倒してしまい、(3)への直面は困難である。直面したつもりが(3)にではなく、(1)に直面していたということはありえる。直面すべきなのは(1)ではなく(3)である。(1)が想起されている間は、自我が何度も(1)から(3)へ切り替える必要がある。だが、それは非常に困難である。それができないときは、(1)(2)を放置し自然消退するのを待ったほうがよい。

他人に対する自己の心的機能の無駄

  自己の陥る機能と習性の間接的な原因のいくつかとして、母親の愛情希薄、囲い込み、子供による破壊の模倣、家庭における虐待、疎外、学校におけるいじめ、疎外などがあることは確かである。また、間接的な原因となる他人として、両親、兄弟、同級生、破壊的な人、集団…などがあることは確かである。また、陥る機能と習性に限らず、ものごとを正確に認識するためには、それらの直接的間接的な原因を含むそれらの形成過程をある程度は認識しておく必要がある。例えば、人間科学を研究するためには、人間の進化の過程と歴史をある程度、知っておく必要がある。自己の陥る機能と習性に直面するためには、それらの直接的間接的原因を含む形成過程をある程度、知っておく必要があることは確かである。
  だが、それらの間接的原因としての他人に憎しみが生じるならば、その対象となる他人のイメージが自己の陥る機能と習性のイメージを圧倒し、それらへの直面を妨げる。ときには自我が憎しみを高め挙げることさえある。それは陥る習性の回避と取り繕いと重なる。
  憎しみが生じている間は、自我が何度も憎しみの対象のイメージからから自己の陥る機能と習性のイメージへ切り替える必要がある。だが、それは非常に困難である。それができないときは、憎しみを放置し自然消退するのを待ったほうがよい。
  だが、虐待、いじめ、疎外、破壊…などを放置してよいというのでは全くない。自己の陥る機能と習性を減退させるためには、それらに直面する必要があると言っているだけである。
  ともかく、母親の愛情気迫や囲い込み、子供による破壊の模倣、誰かによる虐待、いじめ、疎外…などは陥る機能と習性の間接的な原因に過ぎない。それらの直接的な原因は乳幼児期にせよ思春期にせよ陥る意識的機能を生じることを決定した自己の自我である。その自己と自我は現在のそれらと連続しているのである。

陥る意識的機能の機能イメージに直面すること

  イメージとして想起される陥る機能と習性に直面し、それらから苦痛が生じるようになっても、陥る自我と陥る機能はよくまたはときに生じる。
  陥る機能は、乳幼児期から思春期において、一時的に苦痛を減退させるまたは快を生じる。例えば、短絡は明らかに一時的に苦痛を減退させる。また、陥る習性を回避し取り繕うことは陥る機能と習性のイメージから生じる苦痛を一時的に減退させる。だが、その苦痛の減退させるまたは快を生じるのは乳幼児期から思春期においてであり、何よりも一時的にである。陥る習性は思春期よそれ以降に強いまたは持続的または反復的な苦痛を生じる。例えば、それをもつ人間は疎外され孤立し、不安と孤独が生じる。また、自己がいずれは死ぬことへの不安が強く、持続的にまたは反復的に生じる。
  だが、陥る機能による一時的な苦痛の減退または快の獲得は、思春期とそれ以降もときに突然、生じる。例えば、陥る習性を回避し取り繕うことはいつまでもイメージとして想起される陥る機能と習性から生じる苦痛を一時的に減退させる。つまり、陥る習性を減退を妨げてきたものははそのような一時的な苦痛の減退と快の獲得である。思春期とそれ以降も自我はそのような一時的な苦痛の減退をときに求め、実際に減退したときにはそれに耽溺し、自己の陥る機能と習性に疑問ももたない。例えば、疎外され孤立し粘着的習性と自己顕示的習性が持続する人にとっては、たまに人と会い会話するだけでも大きな楽しみであり、そのときはここぞといわんばかりに粘着し自己顕示し楽しもうする。だから、陥る習性はなかなか減退しない。それは何故か。
  自我の中での陥る意識的機能の機能イメージまたはそれらの概略(1)と、一般の陥る機能と習性のイメージ(2)とは区別される。(2)に直面しそれらから不快の自律感覚が生じるようになっても、(1)から不快が生じず、陥る自我が停止せず、陥る習性が減退しないことはよくある。それは何故か。
  (2)に直面して(2)から不快の自律感覚に至るイメージ情動神経細胞路が活性化されるときに(1)から不快に至るイメージ情動神経細胞路が活性化され(1)から不快が生じることはある。だが、必ずしもそうではない。それに対して、陥る自我が生じかけているまたは陥る自我が生じているとき、つまり、陥る意識的機能の機能イメージまたはそれらの概略(1)が想起されているときに、自我が(1)に何度も直面するなら、(1)から不快に至るイメージ情動神経細胞路がより確実に活性化される。すると、(1)がより確実に不快を生じるようになる。すると、(1)が想起されても、陥る自我はより確実に停止し、陥る習性はより確実に減退する。比喩的に言って、直面と停止は机上でではなく現場で行われる必要がある。また、比喩的に言って、直面と停止は心理学においてでなく日常で行われる必要がある。
  自己の陥る機能と習性がイメージとして想起されると、不安、自己嫌悪、恥辱…などの強い苦痛が生じる。だから、自我はそれらを回避し取り繕ってきた。だから、陥る習性は減退しなかった。
  それに対して、自我が自己の陥る機能と習性のイメージを回避せず取り繕わずそれらのイメージに直面すれば、陥る機能が機能イメージとして想起されても、それらは強い苦痛を生じ、陥る自我は停止する可能性がある。だが、それだけでは、自我はまたそれらを回避し取り繕う。しかも、思春期以降の自我はかつてより狡猾に回避し取り繕う。
  それに対して、自我が陥る機能と習性のイメージに何度も直面するとき、それらから生じる苦痛が不安、自己嫌悪、恥辱…などから辟易、嘲笑のようなものへと変わり、それらのイメージが自己のものではなく、過去の自己として、そしてまるで他人のものであるかのように想起されるようになる。すると、陥る意識的機能の機能イメージは何か月か何年かは想起されるが、それから前述のような不快の自律感覚が生じ、陥る自我は停止し、陥る自我の習性は減退していく。例えば、対人関係という状況の中で、自我が粘着し自己顕示しているときに、自我がそれらの機能イメージに直面し、そのような陥る自我が停止する必要がある。

陥る習性を回避し取り繕う機能と習性に直面すること

  だが、陥る習性の回避と取り繕いは執拗であり、その後もしばしば生じる。わたしたちが陥る習性に直面しているつもりで回避し取り繕っていることはよくある。例えば、陥る機能または習性の一部に中途半端に直面しただけで、直面を完了した者としての自己のイメージを強調し、陥る習性を取り繕うことはよくある。だから、自我が特に繰り返し直面する必要があるものは、陥る習性を回避し取り繕う機能と習性である。例えば、自己の陥る機能と習性を自己の地位、権力、カネ、外見…などに切り替えることに繰り返し直面する必要がある。
  結局、陥る習性の最大の原因は陥る習性を回避し取り繕う習性だったのであり、それは思春期の自我によって形成された。つまり、陥る習性の最大の原因は乳幼児期の母親の愛情希薄でも囲い込みでも子供による破壊の模倣でもなく、思春期の自我にあったのである。思春期の自我は乳幼児期や前思春期の自我や自己より現在の自我に近い。だから、思春期に形成された習性への直面はそれ以前に形成された習性への直面より容易である。簡単に言って、その形成は昨日のことのように思い出されるだろう。

[訳注:この日本語訳に関するお問い合わせはNPO法人わたしたちの生存ネットまでお寄せください。]
参考文献
記憶をもつ動物の心理学
自我をもつ動物の心理学
わたしたちの生存ネット
生存と自由

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