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習性をもつ動物の心理学(日本語訳)

自我の習性の形成と再形成

『自我をもつ動物の心理学』の復習

  この著作の基礎には『記憶をもつ動物の心理学』と『自我をもつ動物の心理学』がある。だから、できればそれらを読んだ後でこの著作をお読みいただきたい。だが、筆者らはそれらの著作が読まれなくても、この著作が読めるように努力する。『自我をもつ動物の心理学』は自我の習性の基本と理論を説明している。この著作はそれらの応用と実践を説明する。以下に『自我をもつ動物の心理学』をごく簡単にまとめる。
  意識的機能は以下のように分類される。

意識的機能
  (1)随意運動
    (1-1)単位的随意運動
      関節の屈伸、眼球の運動、舌の運動、声帯の運動緊張弛緩…など
    (1-2)複合随意運動
      単位的随意運動から構成される。
      直立二足歩行、直立二足で走る、クロール、バタフライ…などで泳ぐ…など
  (2)純粋心的意識的機能
    (2-1)イメージ操作
      イメージの結合、分解、切り替え、回避…など
    (2-2)思考
      連想とイメージ操作の交替から構成される。
      狭義の思考、追想、予想、空想
  (3)総合機能
    随意運動と知覚と純粋心的意識的機能から構成される。
    言葉を話す、書く、機械を運転する、対人機能…など

  簡単に言って、状況の中で意識的機能を生じるものが自我である。言い換えると、状況と意識的機能を仲介するものが自我である。もう少し詳しく言うと、状況の中でどの意識的機能を生じるかを決定するのが自我である。
  また、簡単に言って、状況の中でどの意識的機能を生じるかを決定するものが自我の習性であり、自我が生じた意識的機能が上手いか下手かを決定するのが意識的機能の能力である。だから、意識的機能より自我のほうが重要であり、意識的機能の能力より自我の習性の方が重要である。
  いわゆる人格は知能、知識、精神的情動の習性、意識的機能の能力、自我の習性から構成される。それらのうち最も重要なのは自我の習性であり、次に重要なのは意識的機能の能力または精神的情動の習性である。
  自我は理性系と情動系と情動系による理性系の亢進から構成される。比喩的に言って、状況の中で生じるべき意識的機能を理性系がいくつか提案し、情動系がどの意識的機能を採用し実行するかを決定する。
  より大きな自我(限定自我)がより小さな自我(被限定自我)を含む。状況の中で限定自我の中で複数の被限定自我が生起し、多数が生起した場合は、他を排除して生じる傾向が最も大きい限られた数の被限定自我が生じる。そのような傾向は待機、粘着、自己顕示、支配、破壊的のような概略を単位として形成される。結局、被限定自我の概略の傾向が最も大きい限られた数以下の被限定自我が生じ、どの意識的機能を生じるかを決定する。被限定自我の概略の傾向の行列が自我の習性である。例えば、回避、直面、待機、粘着、自己顕示、支配、破壊のような被限定自我の概略がある。また、回避的傾向、直面的傾向、待機的傾向、粘着的傾向、自己顕示的傾向、支配的傾向、破壊的傾向のような被限定自我の概略の傾向がある。繰り返すが、それらの傾向の行列が自我の習性である。例えば、ある個人の人間関係という状況の中での自我の習性は、(回避的傾向, 直面的傾向, 待機的傾向…) = (4, 3, 5,…)と表現され、結局、待機が生じる。
  被限定自我に概略があるのに対応して意識的機能にも回避、直面、待機などの概略がある。繰り返すが、被限定自我の傾向は概略を単位として形成される。また、既に日常でも心理学でも自我や意識的機能は概略を単位として論じられる。だから、「の概略」「という概略」…などの言葉は通常、省略することにする。例えば、回避、直面、待機、粘着、自己顕示、支配、破壊…などの言葉は自我または意識的機能の概略を指す。また、文脈から自我のものか意識的機能のものかが明らかなときは「自我の」「意識的機能の」「自我または意識的機能の」…などの言葉も省略することにする。
  被限定機能の(概略の)傾向または意識的機能の能力が大きくなることをそれらの形成、それらが形成されることと呼べ、それらが小さくなることをそれらの減退、それらが減退することと呼べる。また、被限定機能の(概略の)傾向の行列としての自我の習性が変化することをそれらの再形成と呼べる。
  「減退」というと悪いイメージがあるだろう。だが、ある被限定自我の概略が苦痛を生じるとき、その傾向が減退することによって苦痛が減退する。
  また、特に、思春期以前に被限定機能の(概略の)傾向が全般的に大きくなることを自我の習性の形成と呼べ、思春期以降にそれらが変化することを再形成と呼べる。
  これ以降、回避、直面、待機、粘着、自己顕示、支配、破壊…などの抽象的な言葉は被限定自我の概略または意識的機能の概略を指し、歩く、走る、泳ぐ…などの具体的な言葉は意識的機能を指すことにする。また、傾向、回避的傾向、直面的傾向、待機的傾向…などの言葉は被限定自我の概略の傾向を指すことにし、能力、歩く能力、走る能力、泳ぐ能力…などのことがは意識的機能の能力を指すことにする。また、通常、習性という言葉は自我の習性を指すことにする。

傾向と能力がまとめて形成される時期

  人間には以下のような(意識的機能の)能力と(被限定自我の概略の)傾向がまとめて形成される時期がある。

(0-3期)乳児期幼児期前半 = 乳幼児期
  この期間の間、多数のイメージが生成し想起されるが、その期間の出来事が後に想起されない。平均的には胎生末期から三歳まで。以下に大別される。
(-0期)胎生末期
  母親の胎内で保護隔離されているので、イメージはほとんど生成しない。だが、体性感覚と自律感覚のいくつかの部分は機能している。
(0-1期)乳児期
  母乳にせよ人工乳にせよ授乳を必要とし、離乳食は摂取しても授乳が生存のために不可欠である。
  泣く⇒笑う⇒目を動かす⇒顔を動かす⇒寝返り⇒頭がすわる⇒ハイハイ⇒つかまり立ち⇒直立二足で歩き始める⇒話し言葉のうち単語を話し始める。
  平均的に分娩から一歳まで。だが、あくまでも平均的にである。歩かない、話さないからといって、必ずしも障害を意味しない。
(1-3期)幼児期前半
  授乳がなくても生存できる。
  直立二足で歩く⇒話せる単語が増加する⇒文章を話しかける。
  平均的には一歳から三歳まで。
(3-10期)幼児期後半前思春期
  その期間の出来事がその後に想起され、性的機能の飛躍的な発達がまだ始まっていない。
  以下に区別される。
(3-6期)幼児期後半
  この時期に『生存と自由』で定義された自己のイメージが生成し想起されるようになる。家庭から独立した人間関係の中にまだ入っていない。
  走る。文章を話す。書き言葉を書きかける。母親や兄弟…などの導入の下に友達を作る。
  平均的には三歳から六歳まで。
(6-10期)前思春期
  家庭から独立した人間関係の中にある。
  クロール、バタフライ…などで泳ぐ。書き言葉を書く。勉強する。独力で友達を作る。性的機能が成熟していないのに彼または彼女を作る。
  平均的には六歳から十歳まで。
(10-15期)思春期
  性的機能の飛躍的な発達が始まってから終わる(性的機能が成熟する)まで。
  対人機能を広げるまたは回避する。『自我をもつ動物の心理学』で説明された自我が成熟する。
  平均的には10歳から15歳まで。それはあくまでも平均的なものであり、性差、個体差が大きい。
(15-期)後思春期
  性的機能の飛躍的な発達が終了してからの時間。つまり、後思春期という言葉は思春期を含まないことにする。それに対して、思春期とその後を「思春期とそれ以降」とも呼ぶことにする。また、思春期とその前を「思春期とそれ以前」とも呼ぶことにする。

乳幼児的、前思春期的、思春期的機能

[0-3]乳幼児的機能
  人間において平均的に、その習性、傾向または能力が主として乳児期幼児期前半(0-3期)に形成される機能を「乳幼児的」機能と呼べる。
  乳幼児的機能の能力または傾向または習性はそれ以降の形成、減退、再形成が最も困難な機能である。乳幼児的意識的機能は、直立二足で歩くこと、言葉を話すこと、つまり、人間にとって最も基本的な意識的機能を含む。この時期にそれらの能力が形成されなければ、それ以降に形成することは困難である。
  さらに、乳幼児的被限定自我の概略は後述する粘着、自己顕示、支配、破壊、複合イメージ破壊、孤立…などを含む。
  また、乳幼児的精神的情動は対人不安を含む。その傾向は特にこの時期に形成される。
[3-10]前思春期的機能
  人間において平均的に、その能力または傾向または習性の大部分が幼児期後半前思春期に形成される機能を「前思春期的」機能と呼べる。
  前思春期的機能の能力または傾向または習性は形成、減退、再形成することが後述より困難だが、前述より容易な習性である。前思春期的意識的機能は言葉を読み書く、基本的な対人機能を含む。
  さらに、この時期に自己のイメージが生成する。前思春期的イメージの想起は自己と世界の間の隙間、自己肥大化…などを含む。
[10-15]思春期的機能
  人間において平均的に、その能力または傾向または習性の大部分が思春期に形成される機能を「思春期的」機能と呼べる。
  思春期的機能の能力または傾向または習性は形成、減退、再形成することが後述より困難だが、前述と比較すると容易な機能である。思春期的意識的機能はより複雑な対人機能を含む。
  さらに、思春期的被限定自我の概略は後述する陥る習性の回避と取り繕いを含む。
[15-]後思春期的機能
  人間において平均的に、その能力または傾向または習性が主として思春期以降に形成される機能を「後思春期的」機能とも呼べる。
  後思春期的機能の能力、傾向、習性は形成、減退、再形成することが困難だが、前と比較すると容易な習性である。後思春期的意識的機能は、お世辞を言う、冗談を言う、様子を見る…などの最も複雑だが表面的な対人機能を含む。
[0-]普遍的機能
  人間において平均的に、その能力または傾向または習性が生涯に渡って形成されるまたは動揺する機能を「普遍的機能」と呼べ、その習性、傾向または能力を「普遍的習性」と呼べる。
  普遍的被限定自我の概略は直面、回避、待機を含む。
  また、普遍的精神的情動は対人不安を含む。

子供の世話

  特に乳児期幼児期前半の子供の生存と成長に不可欠な年長者の子供に対する機能をそれらによるその「世話」と呼ぶことにする。それは授乳、おむつ替え、だっこ、入浴、遊ばせる、離乳食を与えるを含む。

母親

  乳児期幼児期前半の子供の世話を主導するべき立場にある人間をその「母親」と呼べる。あくまでもそのような立場にある人間をそう呼ぶのであって、母親は必ずしも適切な世話をしているわけではない。また、母親は必ずしも愛情をもって世話をしているわけではない。
  通常、母親は実母だが、実父、義母、義父、祖父母、兄姉、職業人…などでありえる。また、母親は必ずしも一人ではない。例えば、実父が失業中で実母が就労中の場合、二人ともが母親であることはありえる。また、実母が2歳で亡くなり祖母がそれ以降育てた場合、二人ともが母親であることはありえる。だから、これらの著作では母親の複数形が使われることが多い。だが、ほとんどの母親が実母であることに変わりはない。それは理想的な理由によるのではなく現実的な理由による。

乳児期幼児期前半の子供の人間関係

  三歳までの子供の人間関係は母親と数人の人々に限られる。また、彼らに人間関係の選択の余地はない。そのような限られた人間関係において、彼らは生存と成長に必要な世話を獲得し、群れようとする欲動と対人欲求を満たし、孤独への不安を減じるしかない。

母親の愛情

  情動は『自我をもつ動物の心理学』で詳しく説明された。快不快の感覚、欲動、感情、欲求、複合的情動を情動と呼べる。愛情は、性的欲動、群れようとする欲動、子供を守り育てようとする欲動、孤独への不安、対人欲求…などから構成される複合的情動の一種である。人間だけが愛情をもつのではなく、哺乳類の一部が愛情をもつ。人間は他の動物より複雑な愛情をもつ。
  愛情は対象によってかなり異なる。そもそも、母親の子供への愛、異性間の愛、特定の人間への愛、一般の人間への愛、真実への愛…などを同じ「愛」という言葉で論じるのが間違っているのだろう。この著作のこれ以降では愛という言葉は母親の子供への愛を指すことにする。
  母親の子供への愛情は妊娠に始まる内分泌系、神経系の変化の影響を受ける。だが、そのような変化がすべてではない。母親の子供への愛情の一部は出産後対面したときに初めて沸いてくるものである。そのような部分は、実母に限らず、ある乳児の世話を主としてするべき立場にあるすべての老若男女、つまり、すべての母親に生じえる。また、初めての出会い以降も乳幼児は成長し変化し母親を引きつける。そのような出会いによって生じる愛情を母親の自然な愛情と呼べる。そのような自然な愛情が優位を占める複合的情動を母親の愛情と呼べる。
  そのような出会いにおいては人間または動物の誕生と成長に対する驚きと好奇心があり、母親の愛情はそのような情動を含む。子供が母親にとって第二子、第三子…であっても、人間または動物の普遍性と個体差に対する驚きと好奇心がある。
  母親の愛には、成長すれば労働力になる、老後は面倒をみてくれる…などの利己的な欲求が混入する。そのような欲求は社会的制度の影響を大いに受ける。例えば、高齢者福祉の充実した国家においては子供に面倒を見てもらおうという母親は少ないだろう。また、労働者の人権擁護と子供の教育のための制度が整備されている国家においては、子供を働かせる母親は少ないだろう。いずれにしても、そのような利己的な欲求が優勢な情動を母親の愛情と呼ぶことはできない。だが、そのような欲求が愛情にある程度、混入することは避けられないだけでなく、ある程度の混入は子供にとって無害である。
  また、母親の愛情には子供を健康に育てなければならないという義務感が伴う。そのような義務は慣習法と成文法にも基づく。そのような義務感が優勢な複合的情動を愛情と呼ぶことはできない。だが、ある程度の義務感は必要である。
  繰り返すが、前述の自然な愛情が優勢な複合的情動を母親の愛情と呼ぶことができる。
  以上のことから母親は愛情について難しく考える必要がない。極論になるが、愛情とは何かなどと考える人は愛情をもっていない。
  一般に他人の情動は把握され知覚され認識される。だが、その認識は必ずしも当たっていない。だが、心理学では間違った認識も他の機能に影響を与える心的機能である。
  3歳以前の子供においても母親の愛情が把握され知覚され認識される。乳幼児においては生存と成長に不可欠な世話や他の人間関係より母親の愛情を感じて認識しやすい。世話が生存と成長に必要などということを認識できるのは前思春期とそれ以降である。複雑な人間関係を認識できるのは思春期とそれ以降である。それに対して、母親に愛情があるかどうかは乳児でも認識できる。結局、乳幼児が最も把握し知覚し認識し最も求めているのは母親の愛情である。
  しかも、乳幼児が求めているのは、深い愛情でも、ありあまる愛情でもなく、前述の自然な愛情が優勢な普通の愛情である。例えば、過剰な身体の接触は乳幼児にとっても暑苦しく鬱陶しい。だから、母親は愛情とは何かとかどう愛情を表現するかとか考える必要がない。極論になるが、そういうことを考える母親は愛情をもっていない。

母親の愛情希薄

  母親において愛情が一時的に希薄になることはよくある。それに対して、持続的または反復的に母親の愛情が希薄であることを母親の愛情希薄と呼べる。例えば、母親が孤立し対人関係がほとんどないとき、子供を離さず、子供との関係で孤立感を癒そうとすることがある。そういうとき、子供との関係を維持し孤立感を癒そうという自我と欲求が優勢になり愛情は希薄になる。つまり、そのように子供を手放さないことは見かけの愛である。また、母親の仕事への欲求、配偶者への欲求…など欲求が全般的に満たされなかったとき、子供への欲求を高めて満たそうとすることがある。そのような高められた子供への欲求によっても愛は希薄になる。さらに、後述する囲い込みに繋がることがある。
  乳児期幼児期前半に母親が愛情をもって子供の世話をするとき、乳幼児は母親の愛情に満足し、ときには愛情に辟易して、三歳頃から愛情以外のものを求めて母親から離れて機能し、少しずつ人間として独立していく。それに対して、母親の愛情が希薄なとき、乳幼児は愛情に満足できず、三歳以降も母親の愛情を求めるばかりで、独立できない。さらに、母親の愛情をいつまでも求め続けることによって、後述する粘着的習性、自己顕示的習性…などが形成される。
  また、乳児期の子供に母親が愛情をもって世話するとき、生後6か月頃から乳児は授乳などの世話が少し遅れても待機できるようになる。それに対して、母親の愛情が希薄なとき、乳児は待機できず短絡し自棄的となり、泣きわめき続ける。さらに、後述する短絡的自我の習性、自棄的自我の習性、破壊的自我の習性…などが形成されることがある。
  母親の愛情希薄は後述する陥る習性を形成する最強の外的状況である。
  虐待、放置…などは母親の愛情希薄より重大で、明確である。だが、前者に注意するあまり、後者が軽視されてはならない。いずれにしても、前者は後者を含む。そこで、虐待、放置…などを母親の愛情希薄に含めることにする。

囲い込み

  個人、特に母親が他人、特に子供を独占し離さないことを個人による他人の「囲い込み」、個人が他人を囲い込むことと呼べる。
  母親において全般的に欲求不満が強いとき、子供に関する欲求が高め挙げられ、母親が子供を囲い込むことが多い。特に、母親が孤立し対人関係が狭いとき、母親は孤独を減退させるために子供を囲い込むことが多い。
  囲い込みは愛情希薄と同じではない。だが、愛以外の欲求と自我が優勢になり、結果として愛情希薄となる。
  囲い込みはいわゆる「過干渉」を含む。一見したところの愛情の過剰が囲い込みであることがある。
  母親の囲い込みは後述する陥る習性を形成する最強の外的状況の一つである。

模倣

  他の動物の意識的機能が知覚されイメージとして生成し、その意識的機能を生じ、それを生じることによって賞賛されるなどして快の情動が生じ、それを生じないことによって非難されるなどして不快の情動が生じ、それらが繰り返されたとき、その意識的機能の能力とそれを生じる被限定自我の概略の傾向が形成される。そのことを個体による意識的機能の「模倣」、個体が意識的機能を模倣することと呼べる。
  模倣は人間が直立二足で歩く、言葉を話す、書く…などに不可欠の機能である。
  だが、特に思春期に、破壊は模倣され、破壊する自我の習性が形成される。例えば、残念ながら、破壊的集団で育てられた子は破壊的になることが多いと言わざるをえない。だが、注意しなければならないことは、意識的機能を生じることによって賞賛されるなど快の情動を与えられ、生じないことによって非難されるなど不快の情動を与えられないなら、自我の習性は形成されず、模倣は生じないことである。例えば、暴力集団はなんらかの方法で破壊的な子供を賞賛している。

直面と回避

直面と回避

  もの(O)が現在に苦痛(DEO)を生じ、
Oに係る意識的機能(F)も現在に苦痛を生じ、
Fは未来に快楽を増大または維持しまたは苦痛を減少させる可能性をもち、
Oに係る別の意識的機能(E)はDEOを一時的に減じるとき、
自我がFを生じることを自我がOまたはFに直面することと呼べ、自我がEを生じることを自我がOまたはFを回避することと呼べる。また、Fの概略を直面(的意識的機能の概略)と呼べ、Eの概略を回避(的意識的樹機能の概略)と呼べる。また、直面を生じる自我を直面(的自我の概略)と呼べ、回避を生じる自我を回避(的自我の概略)。
  また、待機も意識的機能または自我の概略と見なせる。結局、苦痛に係る意識的機能または自我の概略として、直面と回避と待機の三つがある。
  例えば、戦争に巻き込まれた人々が未来の身の安全のために現在に危険な逃走をすることは逃走という意識的機能に対する直面である。そのように逃走と回避は異なる。また、この場合はそれは逃走という意識的機能に対する直面である。
  また、後述するとおり、自我は苦痛を生じるイメージを切り替えることがある。それはイメージというもの(O)からの回避である。わたしたちは自己嫌悪、不安…などの苦痛を生じる自己のイメージのいくつかを切り替えて回避することがある。
  だが、わたしたちは日常で多くの場合、直面も回避もせず、待機している。そのような日常的な待機に対して、差し迫った状況で敢えて待機することは直面と見なせる。例えば、母親に適度な愛情があると、乳児は生後6か月頃から軽度の口渇と空腹があっても泣きわめかずに待機できるようになる。それは独立への重要なステップである。
  それに対して、待機するができず、いつでも即座に直面または回避することは「短絡」と呼べる。この短絡は人間の個体と種の生存には適さないことが多い。例えば、わずかな敵意ですぐに喧嘩や戦争を始めていたのでは人間の個体も種も生存していない。だが、短絡して即座に逃走することはネズミ、リス…などのいくつかの小動物には適している。
  ともかく、人間を含む動物は、過労を防ぐために、いつも直面しているわけにはいかず、ときには回避、待機、休養…などする必要がある。これらの著作はわたしたちはいつでも何かに直面しなければならないと言うものでは全くない。何に直面する必要があるかを明らかにするものである。

イメージ直面とイメージ回避

  想起されるイメージが苦痛を生じることがある。それが『自我をもつ動物の心理学』で説明された不快の感情である。例えば、イメージとして想起される自己の未熟な対人機能能力は不安、自己嫌悪、恥辱…などの苦痛を生じる。
  『自我をもつ動物の心理学』で説明されたとおり、自我が想起されるいくつかのイメージを直接的に遠ざけるまたは消滅させることは困難または不可能である。そこで、自我は他のいくつかのイメージを近づけることによって、いくつかのイメージを間接的に遠ざける。それがイメージの切り替えである。想起されるイメージが強い苦痛を生じているとき、自我は苦痛を減退さえすればよく、それらをどうでもよいことに切り替えさえすればよい。簡単に言って、切り替え先はどうでもよい。そのようなときの、いくつかのイメージから他のいくつかのイメージへの切り替えを、自我によるイメージ回避、自我がイメージを回避することと呼べる。例えば、自己の未熟な対人機能能力がイメージとして想起され不安、自己嫌悪…などが生じるとき、自我はそれらのイメージを回避し、知能、体力、外見…などの他の優れていると思われる能力や権力、地位、カネ…などの所有物のイメージに切り替えることがある。
  それに対して、苦痛を生じる想起されるイメージを自我が回避せず、それらを操作するまたはそれらについて思考を開始することを自我によるイメージ直面、自我がイメージに直面することと呼べる。
  自我がイメージに直面するとき、まず、イメージ直面が最も複雑な機能イメージとして想起される。それと同時に、未来の快楽の増大または維持または苦痛の減少がイメージとして想起され、『自我をもつ動物の心理学』で説明されたようにして、適度な動悸、息苦しさなどの快の自律感覚が生じる。例えば、対人機能能力を形成することによる未来の安心、賑わい…などがイメージとして想起される。だから、不安、自己嫌悪などの苦痛を生じるにも係らず、自我は自己の未熟な能力に直面するのである。
  イメージ直面またはイメージ回避は精神的直面または精神的回避という言葉でも表現できる。ときにそれらの言葉を用いることにする。

直面と回避の傾向

  直面と回避と待機は被限定自我の概略でもあり、傾向がある。例えば、頻繁に強く直面する人もいれば、頻繁に強く回避する人もいれば、頻繁に穏やかに待機する人もいる。
  だが、直面と回避の傾向と強さや頻度はあまり重要ではない。最も重要なのは、自我が何を回避してきたか、自我がこれから何に直面するかである。

陥る習性

陥る傾向

  以下の属性(1)(2)(3)をもつ意識的機能の概略の集合(A, B, C,…)を「悪循環に陥る(意識的)機能(の概略)」、「陥る(意識的)機能(の概略)」と呼べる。

(1) (A,B,C,…)のそれぞれは一時的に、自己の苦痛を軽減するまたは快楽を生じる。だが、(A,B,C,…)のそれぞれは強くまたは持続的または反復的に、自己と他人の苦痛、特に自己の精神的苦痛を生じる。
(2) (A,B,C,…)を生じる被限定自我の概略の傾向のほとんどは共に形成される。自我が(A,B,C,…)のいくつか、つまり、A,Bを強くまたは持続的または反復的に生じることによって、A,BだけでなくC,D,…などを生じる被限定自我の概略の傾向が減退せず形成される。特に自我が(A,B,C,…)に直面することを妨げることによって、(A,B,C…)を生じる被限定自我の傾向が減退せず形成される。
(3) (1)(2)が繰り返される。

つまり、悪循環である。だから、繰り返すが、(1)(2)(3)の属性をもつ意識的機能の概略の集合を「悪循環に陥る(意識的)機能(の概略)」、「陥る(意識的)機能(の概略」と呼べる。また、陥る意識的機能の概略を生じる被限定自我の概略を「悪循環に陥る(被限定)自我(の概略)」または「陥る(被限定)自我(の概略)」と呼べ、それらの傾向を「悪循環に陥る(被限定自我の概略の)傾向」または「陥る(被限定自我の概略)傾向」と呼べる。
  人間の陥る機能の傾向のうち、それらのほとんどは乳児期にピークに達しそれ以降、減退する。また、それらのいくつかは思春期にピークに達しそれ以降は減退する。だから、絶対値だけでなく、同種同年齢における陥る被限定自我の概略の標準偏差も「陥る傾向」と呼べる。また、同種同年齢の平均より明らかに大きな陥る傾向を陥る傾向と呼べる。また、それらの絶対値だけでなく標準偏差が増大または減少することを陥る傾向が形成されるまたは減退することと呼べる。すると、個体の中で絶対値が減少しても、標準偏差が増大するなら、それを陥る傾向が形成されると表現されることがある。
  ところで、「減退」というと悪いイメージがあるだろうが、陥る傾向が減退することによって(1)の自己と他人の強いまたは持続的または反復的苦痛、特に自己の精神的苦痛が減退する。
  さらに、陥る機能や陥る傾向やその原因や結果は自覚されていなくても、(1)の強いまたは持続的または反復的な苦痛が自覚されている陥る機能と傾向を、陥る機能と傾向と呼ぶことができる。さらに、そのような意味での陥る傾向を含む自我の習性を「陥る(自我の)習性」と呼べる。
  さらに、悪循環に陥る意識的機能と自我と自我の傾向と習性だけでなく、それらの原因となる重要な心的機能も陥る機能と呼ぶことにする。例えば、後述する自己と世界の間の間隙の拡大は、意識的機能でも自我でもそれらの傾向でも習性でもなく、複合イメージの素材の内容だが、いくつかの陥る自我の傾向に影響するので、陥る機能に含まれる。
  陥る機能は以下を含み、以下がそれらの大部分を占める。

短絡

  自我が待機せずよく考えず即座に意識的機能を生じることを「短絡」と呼べる。その逆は待機、迂回、熟考…などである。
  短絡は動物が生存するのに適した機能であることがある。例えば、ネズミ、リスなどの小動物は、肉食動物に襲われたときに即座に逃走しなければ生存することができない。
  また、待機と迂回は動物が生存するのに適した機能であることがある。例えば、小動物が逃げて隠れた後はしばらくじっとしている必要がある。また、いくつかの肉食動物は待ち伏せをする。
  動物において平均的に、赤ちゃんは短絡し次第に待機、迂回できるようになる。それもそれらの生存に適している。
  人間においても、新生児は苦痛、飢え、渇きがあるとき泣き喚き短絡する。だが、母親が愛情をもって乳児の世話をすると、乳児は乳児期の中頃(0.5歳頃)から授乳などの世話が少し遅れても待機できるようになり、短絡的傾向が減退する。また、それ以降も子供は短絡する必要性のなさと不利さと待機し迂回することの必要性と利点を体験し、短絡的傾向が減退し、待機する傾向が形成される。
  それに対して、母親の愛情が希薄なとき、乳児は待機できず短絡し泣きわめき続け、短絡的傾向、自棄的傾向、破壊的傾向が形成されることが多い。
  短絡的傾向が形成されると、自我が短絡的な意識的機能と既に能力が形成された意識的機能、特に陥る意識的機能ばかりを生じる。だから、他の意識的機能の概略の能力と被限定自我の概略の傾向が形成されにくく、陥る傾向が減退しない。これも悪循環である。
  だが、短絡が偶然に的を射、子供が天才ともてはやされることがある。それがまた子供を悪循環に陥れることが多い。

自棄

  母親の愛情が希薄で世話が遅れて待機できないとき、乳児は泣きわめき自棄的となる。人間の乳児を含めて多くの動物が自棄的となると自己も他の物も破壊しかねない。だから、自棄的傾向と破壊的傾向はともに形成されることが多い。
  また、乳児は自棄的となって破壊的になることによって母親たちの注意を引くことができる。特に人間を含む高等な哺乳類は親たちの注意を引くように自棄的、破壊的となる。結局、短絡的傾向、自棄的傾向、破壊的傾向、自己顕示的傾向はともに形成されることが多い。

破壊

  同種または他種の動物から攻撃されたり自然災害を受けたとき、動物は防御、反撃、逃走、隠遁…などする。それらを状況に応じて切り替えることは動物の個体と種が生存するのに適した機能である。だが、それらが適わないとき、動物は自棄的になりなんでも破壊することがある。それらの破壊は結果的に自己を巻き込むことがある。自暴自棄と破壊は成功率は前述の機能より低いが、窮地に陥った動物が生存するのに適した機能であることがあり、通常、最後の手段である。
  人間では破壊が同種に向かうことが他の動物より多い。例えば、虐待、いじめ、暴力、戦争、虐殺、…などは破壊に含まれる。
  また、人間では破壊が意図的に自己に向かうことがある。自殺、自傷だけでなく、拒食、過食、薬物乱用…なども自己の破壊に含まれる。そのような自己の破壊も破壊に含まれる。
  動物の赤ちゃんも自棄的になり何かを破壊する。例えば、人間の乳児は母親の授乳が遅れると泣きわめいて布団や母親を蹴飛ばす。
  母親が愛情をもって乳幼児を世話すれば、乳児期の中頃(0.5歳)に、乳幼児は待機することができるようになり、破壊する必要がなくなり、母親と他人に破壊以外の対人機能を生じて、破壊的傾向が減退する。
  それに対して、母親の世話と愛情が不足するとき、乳幼児は待機できず短絡、自棄、破壊し続け、破壊的傾向は減退せず形成されることが多い。
  そのように破壊的傾向は母親の愛情希薄によって乳児が短絡的、自棄的になることによって乳児期にも形成される。傾向が乳児期に形成される破壊は自己に向かうことが多い。リストカット、大量服薬…などの思春期以降の自傷的傾向の原型はそのようにして乳児期に形成される。また、そのような破壊的傾向は薬物依存、摂食障害…などにもつながる。
  それに対して、破壊的傾向は前思春期以降の子供による年長者の模倣によっても形成される。例えば、残念ながら破壊的な親の子供は破壊的になることが多い。また、これも本当に残念なことだが、テロリストに育てられた子供は破壊的になることが多い。それらは子供が年長者を模倣することによる。そのように前思春期とそれ以降に形成される破壊性は他人に向かうことが多い。
  また、思春期の母親と他の人間による子供の囲い込みと子供による囲い込みの強い破壊は破壊的傾向を形成することが多い。子供は独立を勝ち取るために親たちに反抗し囲い込みを破壊する必要がある。つまり、適度な囲い込みの破壊は必要である。だが、親による囲い込みと子供による破壊があまりに強く頻繁なら、破壊的傾向が形成される。
  また、適度な反抗は子供の独立を促すが、過度の反抗において、子供は親に反抗することに終始し、他の機能をほとんど生じず、独立は阻害される。

粘着

  同種の他の動物を含むものから離れないそれらを離さない、人間においては他人を含むものから離れないそれらを離さないだけでなく、愛されようとする自我の概略をそれらへの「粘着」、それらに粘着すこととも呼ぶことにする。ネチネチしている、しつこい、つきまとう…などが粘着に含まれる。
  粘着は動物の赤ちゃんが生存するのに適した機能である。何故なら、動物の赤ちゃんは親から離れては生存できないから。例えば、哺乳類の赤ちゃんは這ってでも親に付き纏う。人間の乳児は這えるまでも数か月かかるので、付き纏いが明らかではない。だから、泣いて母親を呼ぶ。つまり、泣くことによって母親に粘着している。
  人間では、母親が普通の世話と愛情をもって乳幼児に機能すれば、乳児期中頃(0.5歳頃)に待機し始め、粘着的傾向が減退し始める。それから、幼児前半の終わりから幼児期後半の初め頃(三歳頃)に母親の愛情と自身の粘着に辟易して、母親から離れ、母親以外の他人に粘着以外の対人機能を生じ、粘着的傾向が減退する。
  それに対して、母親の世話と愛情が不足すると、乳幼児はいつまでも世話と愛情を求め、反復的に粘着し、粘着的傾向が幼児期後半とそれ以降も減退せず形成されることが多い。前述のとおり、同種同年齢の平均との比較において、その子の中である程度、減退しても他の子の減退のスピードが急激なので、減退していると見なされないのである。そのような子供は幼児期後半とそれ以降は母親以外の他人にも粘着し、一般的な粘着的傾向が形成されることが多い。
  そのように母親の愛情希薄は粘着的傾向を後天的に形成する主要な外的状況である。粘着的傾向を後天的に形成する要因として、母親の囲い込み、子供による母親の模倣…などもありえる。母親の囲い込みが子供の分離を阻害することが多いからである。また、囲い込みが母親の粘着的傾向から生じることが多く、乳幼児は母親の粘着を模倣するからである。
  粘着的傾向が、幼児期前半以降も減退しなかったとき多くの場合、同種同年齢との差が縮小しないという意味で、減退しない。粘着は幼稚園や学校の友達、同級生、先生にも向かい、やがて、職場の同僚、部下、上司にも、いたるところで友人と恋人にも、家庭で夫または妻にも、子供にも向かい、一般的な粘着的傾向が形成される。そのように、大人の粘着は子供に向かうこともあり、母親の粘着はその子供に向かうこともあり、それは子供に模倣される。これも悪循環である。また、思春期とそれ以降の粘着は複雑で狡猾である。例えば、人を巻き込み操作するようになる。
  粘着的傾向は強い苦痛を生じる。第一に、他人に粘着できないときに強い不安と孤独を生じ、人に死に物狂いで粘着せざるをえなくなる。第二に、他人に疎んじられることによる孤立と孤独を生じる。そのことによっても、ますます粘着せざるをえない。
  さらに、粘着的傾向によってひたすら粘着するために、粘着的傾向以外の対人傾向がほとんど形成されない。そのことによっても、ますます粘着せざるをえない。これも悪循環である。
  しかも、粘着と自己顕示、支配、破壊、孤立…などは共に存在することが多い。何故なら、粘着して愛を得るためには人は自己顕示しようとする。粘着して愛が得られない場合は相手を支配または破壊しようとする。その結果として疎外され孤立する。そのようにして、粘着的傾向、自己顕示的傾向、支配的傾向、破壊的傾向、孤立的傾向…などは共に形成される。何故なら、前述のとおり、それらは共に存在しえ、それらを後天的に形成する主要なものが同一の母親の愛情希薄、囲い込み、子供による同一の母親の模倣であるからである。これも悪循環である。
  陥る機能と傾向について大部分が同様である。そこで、以下の説明を簡略化することにする。

自己顕示

  自己を同種の他の動物に過度に顕示することを「自己顕示」と呼べる。人間においては、かっこうをつける、やたらと自己を語る、自慢話をする、過去の遍歴を語る、自己を虚飾して語る…などが自己顕示に含まれる。
  自己顕示は動物の赤ちゃんが生存するのに適した機能である。何故なら動物の赤ちゃんは親の注意と世話を引き出さなければ生きていけないから。例えば、犬も猫も人間も親の注意を引きつけるような鳴き方をする。
  母親でなくても、他人の子供がかわいいと思うことがあり、それは自然な感情である。さらに、お世辞ではなく、子供を賞賛していることがある。母親においてはなおさら、自分の子供がかわいいと思うことがあり、それは愛と重なる。そのような愛があれば自然と子供を賞賛している。
  人間においては、乳幼児がそのように母親に愛され賞賛されれば、乳児期幼児期前半の終わり頃(3歳前)に、幼児は母親の愛情と賞賛と自身の自己顕示に辟易し、母親以外の他人に自己顕示以外の対人機能を生じ、自己顕示的習性が減退する。
  それに対して、母親の愛情と賞賛が不足するなら、乳幼児はそれらに辟易せず、いつまでも自己顕示し続け、自己顕示的習性が減退せず形成されることが多い。また、母親の愛と世話が不足するなら、乳幼児はそれらを得る手段としてますます自己顕示しなければならない。そのように、自己顕示的習性を後天的に形成する主要な外的状況は母親の愛情と賞賛の不足である。
  自己顕示的習性の形成と他の陥る習性との関係は粘着的習性のそれらとほぼ同様である。だから、それらの説明のほとんどを省略し、特徴的なことだけを説明する。わたしたちが自己を誇大化し虚飾するのは、誇大化され虚飾されたものを他人に見せるためだが、自己のイメージもある程度、誇大化または虚飾され、現実の自己が認識されにくくなる。それによっても、自己顕示的習性は、自我が陥る機能と習性に直面することを妨げる。そのことによっても陥る習性はなかなか減退しない。

支配

  固体または集団が同種の他の個体または集団を何に関しても強くまたは持続的にまたは反復的に支配することをそれらによるそれらの「支配」、それがそれらを支配することと呼べる。例えば、人間が他の生物や自然を支配することはこの著作では支配に含まれない。人間では、支配はどうでもよいようなことでも何でも取り仕切ろうとする、ともかく上に立とうとする、ポジション取りをする、なんでも独占しようとするを含む。
  状況に応じて支配と委任と服従と非服従と抵抗を切り替えることは個体と種の生存に適した機能である。人間の赤ちゃんを含む動物の赤ちゃんも母親を支配することによって世話と愛を得ようとする、それも生存に適した機能である。例えば、人間の赤ちゃんは泣きわめくことによって親の授乳を支配する。
  人間では、母親が愛情をもって乳幼児の世話をすれば、乳幼児は母親をそんなに支配する必要がなく、支配以外の対人機能を母親とそれ以外に生じて、支配的習性は減退する。つまり、他人を支配せずに、委任したり意図的に服従したりすることは自我の習性のいわば余裕によってできる。
  それに対して、母親の世話と愛情が不足すれば、乳幼児はいつまでも支配し続け、またはますます支配し続け、支配的傾向が減退しない。そのように、支配的傾向を後天的に形成する主要な外的状況は母親の愛情の希薄である。
  後思春期に支配的傾向がますます形成されることがある。地位と権力とカネを得て人を支配することができた人間はますます権力とカネを得て人を支配しようとするものである。そのように支配的傾向は生涯に渡って形成されえる。
  支配的傾向の大きい人間は地位、権力、カネを追求し、それらのいくつかは破壊的傾向、自己顕示的傾向…などを伴い、それらのいくつかは専制、戦争、大量虐殺…などを生じる。それらを得られないときは、いわゆる内弁慶になり、家庭を支配しようとして、子供とパートナーの囲い込み、家庭内暴力…などを起こすことがある。

複合イメージ破壊

  人間において、複合イメージとして想起されるものが不安、恐怖、自己嫌悪…などの不快の感情を生じるとき、幼児期後半とそれ以降の比較的成熟した自我は前述のイメージ回避によってそのようなイメージを切り替える。だが、乳児期幼児期前半の自我は未熟であり、そのような切り替えをうまくすることができない。そこで、イメージから大きな苦痛が生じる乳幼児のいくつかはイメージを何がなんでも破壊しようとする。そのような破壊は成熟した自我がすることができる分解とは異なる。その結果、複合イメージ、イメージの想起、連想、自我、思考、自己のイメージ…などのいくつかが一般の人間や心理学者や精神医学者にとってさえも思いもよらないものになることがある。その一例が「解離性障害」であると考えられる。苦痛を生じるイメージを何がなんでも破壊することとそれがもたらす結果を「複合イメージ破壊」、複合イメージを破壊することと呼べる。
  複合イメージ破壊は、解離性障害の「解離」、境界人格障害の「分裂」などに発展することがありえる。
  例えば、虐待する母親のイメージが想起され、反復的な不安、恐怖を生じる。幼児期後半とそれ以降の子供ならそのイメージを回避することができる。だが、乳児期幼児期前半の子供は回避できず、そのようなイメージを手当たり次第に破壊する。
  複合イメージ破壊の傾向は、母親の愛情希薄から、特に虐待、放置…などの極端から形成されることが多い。

孤立

  群れ、家庭、社会…などの集団から離れることは動物の赤ちゃんの生存に適さない。だが、群れから破壊、攻撃、疎外…などされ、個体がある程度、成長しているとき、群れの中にいるより群れから離れたほうが生存に適することがある。
  人間において物質的身体的には、子供たちも法的社会的制度によって保護されている。それに対して、精神的には彼らは疎外され孤立しうる。だが、人間は精神的に孤立しても、一人遊びをすることができる。さらに、物質身体的に一人遊びがなくても、白日夢などイメージを弄ぶことができる。それも『自我をもつ動物の心理学』で説明されたイメージの操作の一種である。そのような物質身体的または精神的な遊びによってでも人間が少なくとも精神的に一人で存在することを「孤立」と呼べる。
  人間においては、母親の愛情が希薄であれば、乳幼児は少なくとも精神的に孤立し、乳児期の中頃から孤立的傾向が形成される。虐待、放置…などがあり、物質身体的にも孤立すると、孤立的傾向は強く形成される。
  孤立は後述する自己に係る陥る傾向の形成を促進する。

ナルシシズム

  乳児期幼児期前半に親や親戚、特に母親に愛されずもてはやされなかった子供は自ら自己を愛するようになる。ある程度、愛され称賛されると、子供はそれらをされることと自己を愛することに辟易して、他人や他のものを愛して、適度な「ナルシズム」が形成される。そうでないと強いナルシズムが形成される。ナルシズムは自己顕示という形で現れることがある。また、強いナルシズムは一人遊びや白日夢などのイメージでの遊びに繋がり孤立に繋がることがある。
  また、強いナルシズムは不安定で、本当の自己が認識されたとき、強い自己嫌悪と交替することがある。また、自己に対するそれらの補償として、強い特定の人への愛と賞賛と交代することがある。また、他人への愛と賞賛は、本当の自己が他人に投影されたとき、強い他人に対する憎悪と交代することがある。

母親の陥る習性と愛情希薄と囲い込みと子供によるによる母親の陥る機能の模倣

  粘着は愛を求めるが愛を与えない。破壊には愛がほとんど伴わず憎しみが伴う。人間は誰かを愛して、その人の愛が得られなかったとき、その人を破壊することがある。自己顕示、ナルシシズムは他人を愛さない。だから、陥る習性をもつ人が母親になると子供に対しても愛情希薄であることが多い。
  また、陥る習性をもつ人は主として孤立し疎外されるために、様々な欲求不満に陥る。そこで、前述のとおり、子供に係る欲求を高め上げ、子供を囲い込み、それらの欲求を満たそうとすることが多い。簡単に言って、子供を独占しようとする。
  また、乳幼児といえども身近な人を模倣する。後に陥る傾向が形成される回避、取り繕い…などの陥る機能は乳幼児に模倣は難しいが、傾向が乳幼児期に形成される自棄、破壊、粘着、自己顕示…などの陥る機能は乳幼児にも模倣が容易である。当然、母親のそれらも模倣される。結局、子供は乳児期から思春期まで年長者の陥る機能を模倣し、それぞれの時期に特有のものを模倣する。
  以上のことから、母親が陥る習性をもっているとき、子供が陥る習性をもつ確率は高い。母親の陥る習性から生じる愛情希薄と囲い込みと子供による母親の陥る機能の模倣は子供の陥る習性を形成する主要なものである。

乳幼児的陥る機能と傾向

  人間において平均的に、これまでの節で説明された陥る被限定自我の概略の傾向は幼児期前半の終わりまたは幼児期後半の初め(3歳頃)までに減退する。だが、それらの傾向は、主として母親の愛情希薄と母親の囲い込みと子供による母親の陥る機能の模倣によって減退しないことがある。だから、それらの陥る意識的機能を「(乳)幼児的陥る機能」と呼べ、それらを生じる被限定自我の概略の傾向を「(乳)幼児的陥る傾向」と呼べる。
  乳幼児的陥る傾向に限らず、一般に陥る傾向は共に形成される。さらに、以下のことから、特に乳幼児的傾向は共に形成される。乳幼児の傾向の形成の状況はほとんど家庭のみであり特に母親だけである。だから、その形成は母親の愛情希薄と母親の囲い込みと乳幼児による母親の陥る機能の模倣の影響を直接的に受ける。

自己イメージの生成

  自己は『生存と自由』で定義された。人間では、過去、現在、未来の身体、情動、想起、連想、意識的機能、自我、それらの能力、傾向、習性…などから構成される複合イメージとして自己は想起される。人間において平均的に、自己のイメージは幼児期後半の初め頃、つまり、四歳頃に生成し想起されるようになり、思春期に最も明瞭になる。

自己がやがて死ぬことへの不安

  自己のイメージが生成し想起されてしばらくすると、自己の時間的有限性、自己がやがて死ぬことがイメージとして想起され、それらが自己がやがて死ぬことへの不安を生じるようになる。自己がやがて死ぬことへの不安は究極の不安である。それを克服する決定的方法は『生存と自由』で説明されている。

自己無限化試行

  自己がやがて死ぬことへの不安は何らかの方法で自己を無限化しよう試みる自我と欲求と意識的機能を生じる。そのような自我と欲求を「自己無限化欲求」と呼べ、そのような自我と意識的機能を「自己無限化試行」と呼べる。
  いくつかの自己無限化試行は、愛と重なる。例えば、「愛は永遠」と言われることがある。また、心中する恋人たちがいる。また、いくつかの自己無限化試行は、宗教、支配、権力の追求…などと重なる。例えば、権力者が自身の巨大な墓を建てることと重なる。

自己と世界の間の間隙の拡大

  イメージとして想起されるものの中では、自己のイメージと自己以外のもののイメージの間に隙間がある。そのような間隙を「自己と世界の間の間隙」と呼べる。
  乳幼児が孤立していなければ、そのような間隙は母親、他の人々、ペット、おもちゃ…などで埋められるので、そのような間隙は小さい。
  それに対して、乳児期幼児期前半に孤立した人間ではそのような間隙が拡大する。これまでに説明した陥る機能が主として被限定自我の概略であり、それらの陥る傾向によったのに対して、そのような拡大は記憶の内容であり、やはり後天的に生じる。
  自己と世界との間の間隙が小さい人間は、自己のイメージと自己以外のもののイメージが連続するために、自己がやがて死ぬことへの不安を克服する方法に至りやすく、自己が死ぬことへの不安が稀にしか生じず、生じるとしても弱い。
  それに対して、その間隙の拡大した人間は、自己のイメージと自己以外のイメージが隔絶するために、その不安を克服する方法に至りにくく、自己が死ぬことへの不安が頻繁に強く生じる。また、前述のとおり、自己を永遠化しようとする欲求が強くなる。
  それらの間のギャップの拡大が自己がやがて死ぬことへの不安と自己永遠化欲求を生じ、それらが自己顕示的傾向、支配的傾向…などを強化することはよくある。例えば、強大な権力を獲得した人が、人々を支配して栄光や巨大な墓を残そうとすることはある。さらに、陥る傾向は共に形成されるので、彼らはしばしば大きな自己顕示的傾向、支配的傾向だけでなく破壊的傾向ももち、権力を握って、自由権、社会権、政治的権利、民主制、権力分立制、法の支配、全般的生存権を破壊し、専制、独裁、戦争、全体破壊手段の研究、開発、保持…などに走ることがある。だから、それらの陥る傾向を減退させることは生存と自由を確保する方法でもある。

自己肥大化

  自己と世界の間の間隙の拡大においてはその間隙が自己のイメージで埋められることが多い。何故なら、孤立しているために自己以外のイメージで埋めようがないからである。他人や他の動物や自然との関係が再開するなら、その間隙は多少でも自己以外のイメージで埋められる。孤立が続くなら、自己のイメージで埋められ続ける。その結果、自己のイメージは大きくなる。そのことを自己の肥大化と呼べる。自己と世界の間の間隙の拡大と同様に、それは記憶の内容である。
  自己の肥大化は自己と世界の間の間隙の拡大だけでなく前述の自己顕示的傾向、支配的傾向…などと後述する自己美化ともに形成されることが多い。

自己の美化

  陥る傾向が形成されているような自己のイメージは不安、恐怖、自己嫌悪…などの苦痛を生じる。そのような苦痛を減じるために子供なりの未熟な自我は自己を美化する。例えば、母親や一般の人間に愛してもらえず疎外されているかわいそうな者として自己を美化する。そのような美化によって美化された自己のイメージが生成する。そのような自己の美化も自我が自己の陥る機能と傾向に直面することを妨げる。また、自己の美化は前述の自己顕示とナルシシズムと重なり、それらは互いを促進する。

前思春期的陥る機能と傾向

  それらの陥る機能の傾向または能力または習性の大部分が自己のイメージが生成した後の幼児期後半前思春期に形成される。そこで、それらの機能を「前思春期的陥る機能」と呼び、それらを生じる機能の概略または能力または習性を「前思春期的陥る傾向」と呼べる。
  前思春期的陥る傾向から少なくとも孤立的傾向へと遡ることができ、孤立的傾向は乳児期幼児期前半に形成される。また、乳幼児的陥る傾向のほとんどは共に形成される。また、前思春期的陥る傾向のほとんどは共に形成される。だから、乳幼児的陥る傾向と前思春期的陥る傾向の多くは併存する。いずれにしても、それらのいずれかが突出して形成されることはない。

対人機能能力の未熟

  子供が家庭や幼稚園、小学校で疎外され孤立せざるをえず、または、孤立的傾向が形成されると、自我が意識的機能としての対人機能をあまり生じず、意識的機能の能力としての対人機能の能力はあまり形成されず未熟にとどまる。意識的機能の能力としての対人機能の能力を対人能力とも呼べる。例えば、子供たちに限らず、大人でも数か月隠遁していると対人機能がうまくいかないものである。
  また、孤立しているとますます対人不安が強くなり、自我が対人回避ばかり生じ、一般的な対人機能を生じず、一般的な対人能力は未熟にとどまる。
  さらに、陥る傾向が形成されると、陥る自我が陥る対人機能を生じる。陥る対人機能能力は形成されるが、それ以外の対人機能能力はあまり形成されず、一般の対人能力は未熟にとどまる。例えば、支配的で破壊的な対人機能にばかり出ていたのでは、協調的な対人能力が形成されず、一般の対人能力は未熟にとどまる。
  また、陥る傾向が強く陥る対人機能を頻繁に生じる人間は人から疎外されることが多く、孤立し、対人機能能力は未熟にとどまる。
  さらに、対人機能能力が未熟にとどまるために、ますます疎外され孤立し、対人能力が未熟にとどまり、対人不安は減退しない。
  これらも悪循環である。
  特に後述の対人機能を回避し取り繕う傾向は対人能力の未熟をもたらす。
  だが、陥る傾向が減退するとき、対人機能能力は意外と早く形成される。結局、対人機能能力の未熟より陥る習性のほうが重大である。

対人関係を回避すること

  前節のとおり、陥る傾向が形成され対人能力が未熟なときに自我が対人機能を生じると強い苦痛が生じる。だから、自我は持続的反復的に対人関係を回避し、対人関係を回避する傾向が形成される。この傾向は主として乳幼児期に形成されるが、それ以降まだ動揺する。だが、思春期に強く形成され定着することが多い。
  また、思春期の自我は単純にではなく複雑に対人関係を回避する。例えば、深い人間関係に入ることを避けて、表面的な関係に終始する。また、破壊性をちらつかせて人が近寄り難い雰囲気を作る。そのような対人機能は後述する取り繕いとも重なる。思春期にはそのような複雑な対人関係の回避が生じ、そのような複雑な対人関係を回避する傾向が形成される。
  そのようにして自我が持続的反復的に対人関係を回避するために、対人機能能力はますます未熟にとどまる。これも悪循環である。

対人機能能力の未熟を取り繕うこと

  思春期以降の自我は対人関係を回避するだけでなく、対人機能能力の未熟を取り繕う。例えば、地位、権力、カネ、容姿…を見せびらかせて、それらを取り繕う。思春期の青年は自身の地位、権力、カネをもっていないが、親のそれらを見せびらかすことがある。後思春期の大人は自身のそれらを見せびらかして様々なものを取り繕うことはよくある。容姿や顔だちやスタイルは思春期こそ取り繕いの絶好の手段になる。
  そのような取り繕いが他人に完全に見抜かれることはほとんどないが、他人に不快な感情を生じるものである。そのことによっても取り繕うものは疎外され、ますます対人機能能力が未熟にとどまる。

陥る習性を取り繕うこと

  また、対人関係と言う外的状況の中で、自己の陥る機能と傾向に他人に気づかれると、恥辱という苦痛が生じるために、自我は自己の陥る機能と傾向を隠し取り繕う。つまり、思春期とそれ以降の自我が取り繕うものは、対人機能能力の未熟だけでなく、陥る機能と傾向全般である。それらのことを陥る「習性」の「取り繕い」、陥る習性を取り繕うことと呼べる。
  例えば、乳幼児期以降も母親の愛情を求めて粘着し粘着的傾向が形成されたなどということが他人に気づかれると恥辱という苦痛を生じる。だから、思春期とそれ以降の自我は一見したところ、あっさりと振る舞う。また、もてはやされなかったから自己顕示し自己顕示的傾向が形成されたなどということも同様に苦痛を生じる。だから、一見したところあっさりと振る舞う。だが、それらの傾向は残っており、取り繕いつつ粘着し自己顕示している。だから、他人から奇妙な人と見られることが多い。
  それらを繰り返しているうちに、自己の陥る機能と傾向を取り繕う被限定自我の概略の傾向が形成される。それを「陥る習性を取り繕う傾向」と呼べる。
  陥る習性を取り繕う傾向が大きいとき、陥る習性の取り繕いがほとんどいつも生じ、取り繕い以外の機能があまり生じず、取り繕う傾向と能力以外の傾向と能力が形成されない。例えば、人と打ち解けて話をする傾向と能力さえ形成されない。
  それらのことから、陥る習性の取り繕いは陥る機能に含まれ、陥る習性を取り繕う傾向は陥る傾向に含まれる。
  陥る対人機能と極端に反対の対人機能を生じることによって、陥る習性を取り繕う対人機能を「反対表現」と呼べる。例えば、思春期に面白くなく真面目な人間として他人から嫌われたとき、極端に不真面目な振る舞いをすることがある。反対表現は誤解を招くことが多い。何故なら、それが陥る傾向に基づく反対表現だと理解してくれる人はほとんどいないからである。
  それらのように、陥る習性を取り繕う傾向は主として思春期に後天的に形成される。

陥る習性のイメージを回避すること

  自己の陥る機能と傾向と習性がイメージとして想起されると、それらのイメージは不安、自己嫌悪…などの強い精神的苦痛を生じる。そのために、自我はイメージとして想起される自己の陥る機能または傾向または習性を『自我をもつ動物の心理学』で説明されたイメージの切り替えによって回避することがよくある。イメージとして想起される陥る機能または傾向または習性を回避することを、陥る習性の(イメージの)回避、陥る習性(のイメージ)を回避すること、(イメージとして想起される)陥る習性を回避することと呼べる。
  イメージとして想起される陥る習性を回避することは、前述のような苦痛を一時的に減退させるので、自我は何度もそれらを回避し、それらを回避する被限定自我の概略の傾向が形成される。それらを回避する被限定自我の概略の傾向を陥る習性の(イメージの)を回避する傾向と呼べる。例えば、自己が粘着的、簡単に言って、ネチネチしているこことがイメージとして想起されると不安、自己嫌悪、恥辱…などの強い不快の精神的情動を生じるために、自我はそれらのイメージを無害なイメージに切り替えて回避する。
  陥る習性を回避する傾向が大きく、陥る機能または傾向または習性がイメージとして想起されるごとに自我がそれらを回避すると、自我が陥る習性に直面することができず、陥る習性の全般が減退しない。つまり、陥る習性を回避する傾向は自我が陥る習性に直面することを直接的に妨げる。だから、陥る習性の回避は陥る機能に含まれ、陥る習性を回避する傾向は陥る傾向に含まれる。といういより、それらは最大の悪循環であり、最も致命的な陥る機能と傾向である。
  前述の陥る習性を取り繕う傾向の形成時期と比較して、陥る習性を回避する傾向が形成される時期は、不定だが、主として思春期に形成される。

陥る習性のイメージを取り繕うこと

  前述の外的状況における自己の随意運動または総合機能の取り繕いに対して、以下のような内的状況における自己の純粋心的機能の取り繕いがある。また、前述のイメージ回避に対して、もう少し複雑なイメージの取り繕いがある。陥る機能または傾向または習性は、イメージとして想起されたとき不安、自己嫌悪…などの強い苦痛を生じるため、特に思春期のある程度成熟した自我はイメージとして想起される自己の陥る機能または傾向または習性を回避するだけでなく取り繕う。例えば、それらのイメージを前述のようにして美化された自己のイメージで覆う。
  例えば、容貌に自信をもつ子供や大人は、それらのイメージを強調して、陥る習性を取り繕うことがある。優れた容貌が一般に弊害だと言っているのではなく、それがそのように利用されるなら弊害だと言っているのである。また、地位、権力、カネをもっている大人は、それらを所有する自己のイメージを強調して、陥る習性を取り繕うことがある。

陥る習性のイメージを回避し取り繕う傾向

  陥る習性のイメージの回避とそれらの取り繕いは、後者がより少し複雑であり、前者がより多用され、前者の傾向が思春期以降だけでなくそれ以前にも形成されることを除いて、原因と結果を含めて同じである。そこで、それらをまとめて陥る習性(のイメージ)を回避し取り繕うこと…などと呼べ、そうする被限定自我の概略の傾向を陥る習性(のイメージ)を回避し取り繕う傾向…などと呼べる。
  繰り返すが、それらは最大の悪循環であり、陥る機能と傾向の中で最も重大である。

迫害されるものとしての自己のイメージの強調と反動または復讐

  陥る習性をもつ人間は、疎外され孤立することが多く、それらの疎外と孤立を他人または一般の人間または社会の迫害と見なすことがある。
  迫害される者としての自己のイメージを強調し、自己の陥る習性をそれらで覆えば、それらの強調と覆いは前述の陥る習性のイメージの取り繕いである。
  さらに、陥る習性を取り繕うのに必要な程度を過ぎて迫害される自己のイメージが強調されれば、彼らが思う迫害者への反動または復讐につながることがある。そのような強調と前述の自棄、破壊…などが伴えば、反動または復讐は激しいものとなりえる。また、そのような破壊が自己に向かうことがある。

鏡像破壊

  遺伝子と遺伝子機能と母親の愛情希薄、囲い込み、子供による年長者の模倣によって、子供の習性は母親、父親、兄姉…などの習性と類似し、特に陥る習性は類似する。それは子供のものが鏡に映し出されるようなものである。また、子供は自己の陥る習性に不安、自己嫌悪…などの苦痛をもつ。だから、子供は母親、父親…などの陥る習性に自分のものであるかのような苦痛をもつ。大きな陥る習性をもつ子供または青年は母親、父親…などまたはそのイメージを破壊しようとする。そのことを「鏡像破壊」と呼べ、その習性を「鏡像破壊的習性」と呼べる。
  鏡像破壊はいわゆる「反抗」と重なるが、鏡像破壊的傾向は、陥る習性が減退しない限り、思春期が過ぎても減退しない。鏡像破壊が最初に明らかになるのは思春期である。
  鏡像破壊も自我が自己の陥る機能または傾向または習性に直面することを妨げる。何故なら、それらを他人に投げ出してしまっているからである。
  だから、鏡像破壊は陥る機能に含まれ、鏡像破壊的傾向は陥る傾向に含まれる。

過度の反抗

  親の囲い込みと支配が強く思春期以降も持続するとき、子供や青年がそれらに反抗することに終始し、反抗以外の機能が生じず反抗以外の傾向が形成されないことがある。例えば、青年が独立するためではなく親から離れるために別居したり結婚することがある。そのような別居や結婚では、独立して生きる傾向が形成されない。だから、過度の反抗は陥る機能に含まれる。

思春期的陥る機能と傾向

  それらの主として思春期に形成される陥る被限定自我の概略の傾向を陥る傾向と呼べる。また、それらから生じる陥る意識的機能を思春期的陥る機能と呼べる。
  思春期的陥る習性の中で最も重大なのは陥る習性のイメージを回避し取り繕う習性である。それどころかそれらは陥る習性の中で最も重大と言える。
  主として乳幼児に形成される破壊的傾向と支配的傾向について、それらの少なからぬ部分が思春期の自我の模倣によって形成され強化される。特に暴力的集団におけるその形成は重大である。
  いずれにしても、思春期的習性や後思春期的習性は間接的に大なり小なり前思春期的習性と乳幼児的習性を基に形成される。

後思春期的陥る機能と傾向

  主として後思春期に形成される陥る被限定自我の概略の傾向を後思春期的陥る傾向と呼べ、それらから生じる陥る意識的機能を後思春期的陥る機能と呼べる。
  これに属するものは少なく重要なものはない。つまり、思春期以降に重要な陥る機能が新たに出現することはない。だが、陥る機能は全般的に複雑で狡猾になる。特に陥る習性のイメージを回避し取り繕う機能などの思春期的陥る機能はますます複雑で狡猾になる。だから、なかなか他人にも自己にも気づかれなくなる。

自己の陥る習性の原因を他人に帰すこと

  前述のとおり、陥る習性を形成する強力な外的原因として母親の愛情希薄、囲い込み、子供による年長者の模倣があり、母親に原因のいくつかがあることは確かである。
  だが、漠然と他人に原因であると思い、他人をいつまでも責めることは何の役にもたたたず、それは陥る機能の一種である。
  仮に母親等の他ああ人に最大の原因があるとしても、陥る習性は現在の自己の自我の習性であり、しかも習性であるから自己に深く根差したものである。だから、今さら他人を責めても何の役にも立たない。
  だが、そもそも最大の原因が他人にあるのかどうか。最大の原因は思春期からの陥る習性のイメージを回避し取り繕うことにあるのではないか。もはや記憶にない乳幼児期の自己や他人に原因があるのならともかく、記憶に新しい、また、現在も続く思春期からの自己の自我に最大の原因があるとすれば、もはや他人のせいにすることはできず、自分で何かができるはずである。

陥る機能と傾向への直面

陥る自我の停止

  自我は理性系と情動系と情動系による理性系の促進から構成される。比喩的に言って、理性系は状況の中で生じるべきいくつかの意識的機能を機能イメージとして提案し、情動系がそれらのうちのどれを採用し実行するかを自律感覚と機能的衝動、簡単に言って情動をもって決定する。だから、機能イメージとして想起される意識的機能が不安、恐怖…などの不快の精神的情動を生じれば、機能的衝動は生じず、自我は生じず、意識的機能は生じない。陥る機能について、陥る意識的機能(の概略)が機能イメージとして想起されても、それらが不快の精神的情動を生じれば、機能的衝動は生じず、陥る自我(の概略)は生じず、陥る意識的機能(の概略)は生じない。例えば、粘着や自己顕示(という意識的機能の概略)が機能イメージとして想起されても、それが不安や自己嫌悪に似た不快の自律感覚を生じれば、それらは生じない。簡単に言って、そうしようという考えが浮かんでも、嫌な感じがすれば、思いとどまる。
  機能イメージが想起されるが自我の全体が生じないことは自我の停止であり、それも完全停止ではなく不完全停止であ。

陥る被限定自我の概略の傾向の減退

  そのようにの機能イメージとして想起される陥る意識的機能(の概略)から不快の自律感覚が生じれば、陥る被限定自我(の概略)は生じず、陥る意識的機能(の概略)は生じない。だが、自我において不快の自律感覚が生じる時点で、既に陥る被限定自我の概略の傾向は減退している。では、陥る被限定自我の傾向を減退させ、機能イメージとして想起される陥る意識的機能(の概略)から不快の自律感覚を生じさせるものは何か。
  いくつかの陥る意識的機能が生じるときになんらかの苦痛が強くまたは持続的にまたは反復的に生じれば、それらの意識的機能(の概略)のイメージの素材からいくつかの不快の自律感覚に至るイメージ情動神経細胞路が活性化され、機能イメージとして想起されるそれらの意識的機能(の概略)からそれらの不快の自律感覚が生じるようになり、それらの意識的機能を生じる被限定自我の(概略の)傾向が減退する。

自我が陥る機能と傾向だけでなく悪循環の概略に直面すること

  だが、そのような陥る意識的機能が生じることによる苦痛は疎外や孤立として何度も体験されてきた。だから、自我は対人関係を回避し、陥る習性を取り繕ってきたのである。そのような苦痛によっては、自我のほとんどは苦痛の原因が陥る自我の習性にあることを認識せず、自我のいくつかは原因を他人に帰し他人を責めてきた。また、いくつかの自我は極端な自己美化またはナルシシズムと自己嫌悪を繰り返し、自己全般を責めてきた。それらをもってはますます陥る習性に陥るだけであり、陥る習性に直面することを回避しているだけである。
  自己の陥る機能と傾向と習性は折に触れてイメージとして想起されてきた。イメージとして想起されるそれらは不安、自己嫌悪…などの強い精神的苦痛を生じてきた。だから、自我はイメージとして想起されるそれらを回避し取り繕ってきた。その結果、陥る習性のイメージを回避し取り繕う傾向が形成されてきた。その結果、陥る傾向が全般的に減退せず、不安、自己嫌悪、恥辱…などの苦痛が強く持続的に反復的に生じてきた。それらが繰り返されてきた。これが悪循環の概略である。自己の陥る機能と傾向と習性だけでなくそれらの悪循環の概略に自我が繰り返し直面するとき、イメージとして想起される陥る機能と傾向と習性が不安や自己嫌悪や恥辱と異なる辟易に似た不快の自律感覚を生じるようになる。すると、自我の中で、陥る意識的機能が機能イメージとして想起されても、それらが辟易に似た不快の自律感覚を生じるようになり、陥る自我は停止される。それらが繰り返されるうちに、陥る被限定自我の概略の傾向が減退し、陥る自我の習性は再形成される。

他人の自己に対する心的機能のイメージの無駄

  陥る機能と習性がイメージとして想起されるとすぐに、同情、悲しみ、叱責、非難、冷笑、疎外、無視…などの他人の自己に対する心的機能(1)がイメージとして想起され、それらが苦痛を生じることがある。(1)における他人は両親、友人、教師、上司、裁判官、精神科医、心理士、牧師、超自我、社会、神、飴と鞭を使う人を含みえる。イメージとして想起される(1)が生じる不快の感情(2)は罪悪感、恥辱、不名誉、後悔を含みえる。(1)がイメージとして想起され(2)が生じている間は、自己の陥る機能または傾向または習性(3)のイメージを圧倒してしまい、(3)への直面は困難である。直面したつもりが(3)にではなく、(1)に直面していたということはありえる。直面すべきなのは(1)ではなく(3)である。(1)が想起されている間は、自我が何度も(1)から(3)へ切り替える必要がある。だが、その切り替えは非常に困難である。それができないときは、(1)(2)を放置し自然消退するのを待ったほうがよい。

他人に対する自己の心的機能のいくつかの無駄

  自己の陥る機能と習性の外的で間接的な原因として、母親の愛情希薄、囲い込み、子供による破壊の模倣、家庭における虐待、疎外、学校におけるいじめ、疎外などがあることは確かである。また、陥る機能と傾向だけでなく前述の悪循環の全体を認識するためには、それらの外的で間接的な原因を認識しておいたほうがよい。
  だが、それらの外的間接的原因に対して前述の鏡像破壊、過度の反抗、他人を責めることが生じると、自我が自己の陥る機能と傾向と習性と前述の悪循環の概略に直面することを妨げる。それらは強烈であり、それらが生じているときは放置し自然消退するのを待ったほうがよい。

現場で(特に機能)イメージとして想起される陥る意識的機能に直面すること

  前述のとおり、不安、自己嫌悪…などの苦痛を辟易に似た苦痛に変え、陥る被限定自我の概略の傾向を減退させるためには、自我は自己の陥る機能と傾向だけでなくそれらによる悪循環の概略に直面する必要がある。だが、後者への直面が単なる理論に終わる恐れはある。
  それに対して、自我は現場で前者に、それらがイメージとして想起されるごとに、直面する必要がある。さらに、自我は陥る意識的機能が自我の中で機能イメージとして想起されるごとにそれらに直面する必要がある。『自我をもつ動物の心理学』で説明されたとおり、自我は重層構造をもち、より大きな自我の中で想起される機能イメージについてより小さな自我が思考し直面することは可能である。それとともに自我は後者に直面する必要がある。それらへの直面は数秒しか要さず、日常生活の現場で可能である。また、自我はそれらを繰り返す必要がある。すると、陥る意識的機能の機能イメージの素材から辟易という苦痛に似た不快の自律感覚へのイメージ神経細胞路が確実に活性化され、陥る自我は停止し、陥る傾向は減退していく。例えば、対人関係という状況の中で自己顕示という陥る意識的機能の概略が機能イメージとして想起されるごとに、自我がそれらに直面し、それとともにイメージとして想起される自己顕示と自己顕示する傾向を回避し取り繕ってきたために不安、自己嫌悪などの苦痛が繰り返されてきた悪循環に自我が直面するとき、自我は自己顕示と自己顕示的傾向に辟易し、自己顕示的傾向は減退していく。

(特に機能)イメージとし想起される陥る習性を回避し取り繕うこととイメージとして想起されるその傾向とそれによる悪循環に直面すること

  だが、陥る傾向と習性は執拗であり、その後も度々、陥る機能が生じ、陥る傾向はなかなか減退しない。それは何故か。
  陥る習性のイメージを回避し取り繕う傾向が陥る傾向の中で最も執拗であり、そうすることが度々、生じ、自我が陥る機能と習性全般に直面することを度々、妨げるからである。だから、自我が最も集中して直面する必要があるのは(特に機能)イメージとして想起される自己の陥る習性のイメージを回避し取り繕うこととその傾向とそれによる悪循環の概略である。例えば、(特に機能)イメージとして想起される自己の陥る機能を自己の地位、権力、カネ、清貧、外見…などをもつ自己のイメージで覆い隠してきたこととそのために陥る傾向が減退せず徒労を繰り返してきたことである。
  さらに、自我が最も重点的に直面する必要があるのは、(特に機能)イメージとして想起される陥る習性を回避し取り繕うことを回避し取り繕うこととイメージとして想起されるその傾向とそれによる悪循環である。例えば、陥る機能または傾向に中途半端に直面しただけなのに、直面を完了した者としての自己のイメージで(特に機能)イメージとして想起さえる陥る習性を回避し取り繕うことを覆い隠すことである。
  結局、陥る習性の最大の原因は陥る習性を回避し取り繕う習性だったのであり、それは主として思春期と後思春期に形成される。つまり、陥る習性の最大の原因は乳幼児期の母親の愛情希薄でも囲い込みでも子供による年長者の模倣でもなく、思春期の自我にあったのである。思春期の自我は乳幼児期や前思春期の自我や自己より現在の自我に近い。だから、思春期に形成された習性への直面はそれ以前に形成された習性への直面より容易である。簡単に言って、その形成は昨日のことのように思い出されるだろう。

[訳注:この日本語訳に関するお問い合わせはNPO法人わたしたちの生存ネットまでお寄せください。]
参考文献
記憶をもつ動物の心理学
自我をもつ動物の心理学
わたしたちの生存ネット
生存と自由

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