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習性をもつ動物の心理学(日本語訳)


基本的な用語

  この著作では、この『習性をもつ動物の心理学』を「この著作」とも呼ぶことにする。また、『記憶をもつ動物の心理学』と『習性をもつ動物の心理学』とこの著作を「これらの著作」とも呼ぶことにする。この著作の基礎に『記憶をもつ動物の心理学』と『自我をもつ動物の心理学』がある。だが、それらを読まなくてもこの著作の主要部分を理解することは可能だと思う。だから、できればそれの著作を読んだ後でこの著作を読んでいただきたい。これらの著作のそれぞれは一つの著作を構成する一つの章とも見なせる。そこで、これらの著作を一つの著作として『記憶以上をもつ動物の心理学』とも呼ぶことにする。これらの著作と『生存と自由』と『生存と自由の詳細』と『生存と自由のための権力分立制』と『特定のものと一般のもの』を「わたしたちの生存ネットの中のすべての著作」または「これらの著作」とも呼ぶことする。
    この著作では、物質、生物、身体、動物、人間、神経系、神経細胞群、機能、生物機能、身体機能、動物機能、人間機能、神経機能、神経細胞群の興奮と伝達、現れるもの、イメージとして現れるもの、イメージ、イメージの素材、感覚、記憶、イメージの想起、知覚、連想、随意運動、総合機能、情動、衝動、自我、意識的機能、イメージの操作、思考…などの言葉は『記憶をもつ動物の心理学』、『自我をもつ動物の心理学』と同じものを指すことにする。
  『生存と自由』と『生存と自由の詳細』では生物の種と人間の種が重要であるから、動物、人間…などの言葉はそれらの種を指した。それに対して、これらの著作では、それらの個体が重要であるから、それらの言葉はそれらの個体を指すことにする。
  『記憶をもつ動物の心理学』で説明されたとおり、他のいくつかの物質または機能を含む属性の全体または部分によって直接的または間接的に機能の全体または部分は生じるまたは変化し、機能の全体または部分は直接的または間接的に他のいくつかの物質または機能を含む属性の全体または部分を生じるまたは変化させる。だが、「生じるまたは変化する」「直接的または間接的に」という言葉をいつも用いていると文章が煩雑になる。だから、生じるまたは変化することを「生じる」こととも呼び、「変化する」、「直接的または間接的に」という言葉を省略することにする。また、それらの機能が生じ機能から生じる「他のいくつかの物質または機能」をすべて挙げることは不可能なことである。例えば、神経細胞群の興奮と伝達は、他のいくつかの神経細胞群の興奮と伝達、酸素、グルコースの消費、筋細胞群の興奮と収縮、分泌細胞群の興奮と分泌、感覚、記憶、自我、思考、随意運動、言葉を話すこと、書くこと、対人機能、自他の情動、自我、思考…などの変化、社会、自然の変化…などを生じ、それらは際限がない。そこで、OUR-EXISTENCE.NETのすべての著作では、自明なものは省略されてきたし省略される。例えば、神経細胞群の興奮と伝達を説明するときは、いくつかのシナプス前細胞群の興奮と伝達から生じ、いくつかのシナプス後細胞群の興奮と伝達を生じることとし、酸素とグルコースの供給と消費を省略することにする。

可能性

  物質または機能を含む属性が生じる可能性は、他のいくつかの物質または機能を含む属性が生じる可能性を含む。例えば、神経細胞の興奮と伝達が生じる可能性はいくつかのシナプス前細胞の興奮と伝達、酸素とグルコースの供給…などが生じる可能性を含む。
  物質または機能を含む属性が生じる可能性は「量」、つまり、「大きさ~小ささ」をもつ。その量は実測される確率、それらの積…などから求めることができる。

状況と自然

  物質または機能を含む属性が生じる可能性が他のいくつかの物質または機能を含む属性が生じる可能性を含むことにおいて、「他のいくつかの物質または機能を含む属性」を物質または機能を含む属性の、または、にとっての「状況」と呼べる。例えば、いくつかのシナプス前細胞の興奮と伝達、酸素とグルコースの供給…などが神経細胞の興奮と伝達の状況である。また、太陽、地球、太陽の光、酸素、二酸化炭素、水、他の微生物~植物~動物の食物連鎖、人間社会、親、兄弟、友達、恋人、配偶者、子供、学校、職場…などが個人の状況である。また、それらの個人の状況と自己の情動、自律機能、知覚、連想…などが自我の状況である。
  また、生物の種にとっての状況を生物の種の、または、にとっての「自然」と呼べる。例えば、太陽、地球、太陽の光、酸素、二酸化炭素、水、他の微生物~植物~草食動物の食物連鎖…などが肉食動物の種の自然である。
  身体の部分または身体機能の状況はその個体の身体の他の部分と他の身体機能を含む。もちろん、それは個体以外の物質と機能を含む。身体の部分または身体機能の状況のうち、その個体の身体の他の部分と他の身体機能を「身体状況」または「内的状況」と呼べ、それ以外を「外的状況」と呼べる。例えば、個人の情動、自律機能、知覚、連想…などが自我の内的状況であり、親、兄弟、学校または職場…などが自我の外的状況である。

能力

  可能性に対して、機能が生じる機能に固有の可能性を、機能が生じる「能力」、機能の能力、「活性」、機能がもつそれらと呼べる。例えば、神経細胞の興奮と伝達の活性は、いくつかのシナプス前細胞から接合され細胞膜に多くの受容体をもつこと、樹状突起と軸索を伸ばしていくつかのシナプス後細胞に接合し、軸索末端から多くの神経伝達物質を放出すること…などである。また、物質がもつ主要な機能(『記憶をもつ動物の心理学』で定義された必然的機能)が自明のときは、機能の能力を物質の能力、活性…などとも呼ぶことにする。例えば、神経細胞の興奮と伝達の活性を神経細胞の活性とも呼ぶ。
  能力には量、つまり、大きさ~小ささがある。能力の量を測定する方法は様々に考案されている。例えば、記憶力、思考力は一種の心理テストで測定される。

機能が機能すること

  『記憶をもつ動物の心理学』で説明されたとおり、物質と機能を含む属性はその属性がなければもはやそれらがそれらと見なされないような属性をもち、そのような属性をそれらの必然的属性と呼べる。例えば、興奮し伝達する能力をもたない神経細胞を神経細胞と見なすことはできず、興奮し伝達する能力は神経細胞の必然的属性である。また、あるものの必然的属性のいくつかが機能であるとき、それらの機能をそのものの必然的機能と呼べる。ところで一般に、機能はその全体または部分が他のいくつかの物質または機能を含む属性の全体または部分を生じるという必然的属性をもつ。そのことにおける他の物質または機能をその機能の「必然的対象」と呼べる。例えば、神経細胞はグルコースや酸素の消費も生じうるが、シナプス後細胞の興奮と伝達を生じえない神経細胞の興奮と伝達はもはやそれと見なすことはできず、シナプス後細胞の興奮と伝達は神経細胞の興奮と伝達の必然的対象である。また、意識的機能は自我の必然的対象である。また、機能の中で、必然的対象の全体または部分を最も直接的に生じえる部分をその機能の「必然的部分」と呼べる。例えば、シナプス前伝達が神経細胞の興奮と伝達の必然的部分である。また、自我の必然的部分は少なくとも機能的衝動を含む。
  さて、機能の他の部分が生じるが、必然的部分が生じず、機能が必然的対象の全体も部分も生じないことを機能が機能することまたは機能が生じることと見なすことはできない。例えば、神経細胞のシナプス後伝達が生じるが、閾値越え、シナプス前伝達が生じず、シナプス後細胞のシナプス後伝達が生じないことを神経細胞の興奮と伝達が機能することと見なすことはできない。また、機能イメージが想起されるが、快不快の自律感覚が生じない、または、快不快の自律感覚が生じるが、機能的衝動が生じない、または、機能的衝動が生じるが大脳またはその周辺に達さず、意識的機能が生じないことを、自我が生じることと呼ぶことはできない。そこで、機能の必然的部分が生じその必然的対象の全体または部分が生じることを機能がそれらに「に(対して)機能する」ことまたは単に機能が機能すること、または物質が物質に機能すること、または機能が生じることとも呼ぶことにする。つまり、「機能が生じること」という言葉は機能が必然的対象に機能することを指す。例えば、神経細胞の興奮と伝達のうちの、シナプス前伝達が生じ、少なくともシナプス後細胞のシナプス後伝達が生じることが神経細胞が他のシナプス後細胞に機能することである。
  だが、決定的部分をもつ機能においては、決定的部分が生じれば必然的部分は生じ、機能は機能する。例えば、神経細胞の興奮と伝達は閾値越えを決定的部分としてもち、閾値越えが生じれば、神経細胞は機能する。

機能の停止

  機能が機能することに対して、機能が機能しないこと、つまり、理論的には機能の必然的部分または決定的部分が生じないことを、機能の「停止」、機能が停止することと呼べる。例えば、神経細胞のシナプス後伝達が生じるが、不発に終わりが神経細胞の興奮と伝達の停止である。もちろん、シナプス後伝達さえも生じないことはその停止である。また、機能イメージが想起されるが、それから機能的衝動が生じないことが自我が停止することである。もちろん、機能イメージさえも想起されないことは自我の停止である。

機能の生起

  必然的部分または決定的部分を生じる可能性をもつ機能の部分が生じることを機能が「生起」すること、機能しかけることと呼べる。機能の生起はその必然的部分または決定的部分が生じないことを含む。つまり、機能が生起したからといって、必ずしも機能が機能するとは限らない。例えば、イメージの想起においては、イメージが生起したからといって、必ずしも想起されるとは限らない。また、自我においては、機能イメージが想起されたからといって、必ずしも自我が機能するとは限らない。機能イメージが想起されたとしても、それがイメージ情動神経細胞路の興奮と伝達、快の自律感覚、衝動を生じなければ、自我は機能しない。

完全停止と不完全停止

  機能の必然的部分または決定的部分を生じる可能性をもついかなる部分も生じないことを機能の「完全」停止、機能が完全に停止することと呼べる。それに対して、必然的部または決定的部分を生じる可能性をもつ機能の部分が生じるが必然的部分または決定的部分が生じないことを機能の不完全停止、機能が不完全に停止することと呼べる。例えば、自我において、機能イメージが想起されるが衝動が生じないことが自我の不完全停止である。「不完全」停止というと印象が悪いが、後述するとおり、それは完全停止への重要な段階である。

習性

選択機能と被選択機能

  特定の状況(S)の中で、また、一つの機能(F)の中で、一般に生じる可能性をもつ機能(f1, f2,...,fn)が(n)個あるが、実際はそれらのうち(m)個(m<=n)が生じることがある。そのとき、(F)を「選択機能」と呼べ、(f1, f2,...)のそれぞれを状況(S)における(F)に属する「被選択機能」と呼べる。例えば、イメージの素材の想起という状況の中で一般に生じる可能性をもつ感情は不安、期待…など様々だが、実際はそれらのうち一つが生じる。だから、一般的な意味での感情は選択機能であり、不安、期待…などのそれぞれの感情は被選択機能である。

心的機能の能力の数量化

  一般に、心的機能の能力を決定づけるものは以下の(1)-(5)つのいくつかである。

(1)個々のイメージの素材を記銘し保持する神経細胞群の活性
(2)イメージイメージ神経細胞路の活性
(3)イメージ機能神経細胞路の活性
(4)機能機能神経細胞路の活性
(5)イメージ情動神経細胞路の活性
だから、心的機能の能力も理論的には数量化可能である。だが、それらの活性を生きている個体において、しかも、現実の状況の中で直接的に測定することは不可能である。だから、それらは心理テストなどによって間接的にのみ数量化される。

心的機能の習性

  一定の状況(S)の中でまた選択機能である心的機能(F)の中で、その選択機能に属する被選択機能の生じる能力の行列をその状況(S)における選択機能の習性と呼べる。また、被選択機能の生じる能力を(S)と(F)の中での被選択機能の傾向、能力、習性…などと呼べる。
  そのように、心的機能の能力だけでなく習性も行列として表現可能である。例えば、対人関係の中での自我の習性を

(直面的傾向、待機的傾向, 回避的傾向) = (42, 56, 65)

と表現できる。そのように選択機能の習性は行列で表され、被選択機能の習性(=傾向、能力)はその成分として表される。
  通常、特定の状況と選択機能の中で最も大きい傾向をもつ被選択機能が生じる。例えば、前の例では回避しようとする自我が生じる。

概略

  ある選択機能に属する被選択機能は、以下の属性をもついくつかの群に分類される。

(1)被選択機能の傾向がそれを単位として形成される。
(2)被選択機能がそれを単位として生じえ、それに属する被選択機能は一時にただ一つだけ生じえる。
例えば、対人関係における自我の回避的傾向はそれを単位として形成される。対人回避には、単純に対人の場に行かない、それを避ける、それから去る、軽く振る舞う、人が近寄り難い雰囲気を作る…など様々な方法があるが、一時に生じるのはそれらの一つである。もっとも、数秒から数分の間には、人が近寄り難い雰囲気を作り立ち去り対人の場に行かない…などできるが、一時にはただ一つである。

概略ごとの習性

  選択機能または被選択機能である心的機能は実際上、概略を単位として論じられる。例えば、対人関係から去るか、軽く振る舞うか、人が近寄り難い雰囲気を作るか…などの詳細な方法ではなく対人回避が問題なのである。
  さらに、それに属する被選択機能の生じる傾向の平均として、概略の生じる傾向を数量化することができ、選択機能の習性を概略の生じる傾向を成分とする行列で表すことができる。例えば、

(直面的傾向、待機的傾向, 回避的傾向) = (42, 56, 65)

そのように、前の例は既に概略ごとの表現だったことが分かる。
  さて、『記憶をもつ動物の心理学』と『自我をもつ動物の心理学』で説明された心的機能を復習しながら、その習性または能力について詳しく調べてみよう。

情動の習性

  知覚されるまたはイメージとして想起される素材からどのような快不快の自律感覚がどの程度生じるかが精神的情動、つまり、感情と欲求と複合的情動の習性である。だから、それらの習性を決定づけるもの、つまり、それらの習性を主として形成するものは、どのイメージ情動神経細胞路がどの程度、活性化されその活性が維持されるかであり、素材からどのような情動と快不快の自律感覚がどの程度、どれぐらいの長さ、またはどのぐらいの頻度で生じたかである。
  例えば、乳幼児期から家庭と学校で虐待されいじめられ疎外され無視されてきたとき、強い対人不安の習性が形成される。
  精神的情動にも対人不安、動物恐怖、閉所恐怖、対人欲求、権力への欲求、カネへの欲求…などの概略がある。
  『自我をもつ動物の心理学』で説明されたように、情動は自我に影響を与える内的状況として重要である。例えば、対人不安が強いときは対人直面は生じにくく対人回避が生じやすい。
  それに対して、身体的情動、つまり、快不快の感覚と欲動の生じる傾向をそれらの習性と呼べる。それらのほとんどは遺伝子とその機能によって先天的に形成される。

限定機能と被限定機能

  次のような属性をもつ選択機能がある。
一定の状況(S1)の中で一般に(この一般性を(G)とする)生じうる機能の集合(f1,f2,…)を(F)として、
別の状況(S2)によって変動する数を(n)として、一時に、
(n)個以下の(F)が生起したとき(C1)は、それらのすべてが生じ、
(n)個を超える(F)が生起したとき(C2)は、
Fを限定する機能(SLF)によって、
他を排除して生じる能力(EA)が最も大きい(n)個の(F)が生じる。
そのとき、機能の集合(F)と(F)を限定する機能(SLF)と(F)を処理するその他の機能を「限定機能」(LF)と呼べ、集合(f1, f2,…)のそれぞれの要素を「被限定機能」(lf)と呼べ、(SLF)を「実質的限定機能」と呼べる。
  『記憶をもつ動物の心理学』で説明された通り、個々のイメージの素材を記銘し保持する神経細胞群から再生へ向かう神経細胞路は収束する。一時に、多数のイメージの素材が生起しても、収束する神経細胞路の中で最も早く長く広く興奮し伝達する一定数(n)以下のイメージの素材が他を立ち消えさせて再生に達し想起される。だから、複合イメージの想起は限定機能である。
  また、『自我をもつ動物の心理学』で説明されたとおり、衝動は大脳に向けて発散するので、最も早く長く広く興奮し伝達するものが他を立ち消えさせて大脳またはその周辺に達する。だから、衝動は限定機能である。
  また、自我は、最初にイメージの想起という限定機能を含み最後に衝動という限定機能を含むので、限定機能である。
  限定機能においては、
(C1)数(n)以下の被限定機能が生起したとき、それらの被限定機能がすべて生じ、
(C2)数(n)を超える被限定機能が生起したとき、数(n)の被限定機能が生じる。
だか、そのような二つの場合を逐次、説明していると文章が煩雑になる。だから、それらのことを数(n)以下の被限定機能が生じることとも呼ぶことにする。
  そのような数(n)は状況(S2)よって変動する。例えば、イメージの想起において、一つの複合複合イメージの素材が再生へ向けて収束する神経細胞群を早く長く広く占拠するとき、数(n)は少なくなる。簡単に言って、何かが強く思い浮かぶとき、他のものは思い浮かばない。
  後述する概略に分類されるのは被限定機能であって限定機能ではない。

実質的限定機能

  『記憶をもつ動物の心理学』で説明されたとおり、神経細胞群(T)より早く広く長く興奮し伝達する神経細胞群(S)から伝達されて神経細胞群(U)が興奮し伝達しているときに、神経細胞群(T)が神経細胞群(U)に伝達しても、神経細胞群(T)からの伝達とはほとんど無関係に神経細胞群(S)の伝達によって神経細胞群(S)と同様の空間的時間的位置、頻度、密度、空間的時間的構成、それらの変化で神経細胞群(U)は興奮し伝達する。そのことを神経細胞群(S)の興奮と伝達が「通る」こと、神経細胞群(T)の興奮と伝達が「立ち消える」ことと呼べる。収束する神経細胞群で、多数の神経細胞群の興奮と伝達が生じたときは、最も早く広く長く興奮し伝達する限られた数以下の神経細胞群の興奮と伝達が通り、その他の神経細胞群の興奮と伝達は立ち消える。そのことが一般的に限定機能の実質的限定機能である。
  イメージの想起において個々のイメージの素材を記銘し保持する単位的神経細胞群から再生へ向かう神経細胞路は収束する。だから、イメージの想起は限定機能である。また、衝動は大脳に向けて発散するが、大脳は大きいので、その発散は相対的に大脳に収束することに等しい。だから、衝動は限定機能である。

イメージの限定想起と被限定想起

  複合イメージの素材は個々のイメージの素材を記銘し保持する神経細胞群から再生へ向かう収束する神経細胞群を通り、早く広く長く興奮し伝達するものが他を立ち消えさせて再生に至り想起される。だから、それぞれの複合イメージの素材は被限定機能であり、それを(複合)イメージ(の素材)の「被限定想起」と呼べる。
  全体として、一定の状況(S1)の中で一般に(この一般性を(G)とする)生じうる被限定想起、つまり、複合イメージの集合(i1,i2,…)を(I)として、
別の状況(S2)によって変動する数を(n)として、一時に、
(n)個以下の(I)が生起したとき(C1)は、それらのすべてが生じ、
(n)個を超える(I)が生起したとき(C2)は、
(I)を限定する想起の実質的限定機能(SLFI)によって、
他を排除して生じる能力(EA)が最も大きい(n)個の(I)が生じる。

(S1)イメージの想起の状況
感覚された素材または想起されたイメージの素材の部分がもつ属性が認識されることがイメージの想起の状況である。『記憶をもつ動物の心理学』で説明されたとおり、認識に続いて、認識と同類性に基づくとともに時間的近さと神経細胞路に基づいて、いくつかの複合イメージの素材が生起する。

(S2)別の状況
  大きな複合イメージが強く想起されるとき、(n)は小さくなる。例えば、複雑なことを考えるとき、(n)は小さくなり、他のことは考えられない。

(SLFI)想起の実質的限定機能
  個々のイメージの素材を記銘し保持する神経細胞群から再生へ向かう神経細胞群が収束し、早く広く長く興奮し伝達する個々のイメージの素材が他を立ち消えさせて再生に至り想起されることが想起の実質的限定機能である。

(EA)想起の他を排除して生じる能力
  複合イメージの素材の興奮と伝達の早さ、広さ、長さが想起の他を排除して生じる能力である。

  被限定想起の集合(I)と(I)を限定する実質的限定機能と他の(I)を処理する機能をイメージの「限定想起」と呼べる。
  一般性(G)については『記憶をもつ動物の心理学』を参照していただきたい。

想起の習性

  (C1)における複合イメージが想起される能力、つまり、被限定想起が生じる能力は生起する能力(これを(AA)とする)であり、(C2)におけるその能力は、生起する前は生起する能力(AA)であり、生起した後は他を排除して生じる能力(EA)である。そのような状況と場合におけるそれぞれの被限定想起の生じる能力を被限定想起の生じる能力、被限定想起の能力、被限定想起の生じる習性、被限定想起の習性と呼べ、集合(I)に属する被限定想起の生じる能力の行列を状況(S1)における(限定)想起の習性と呼べる。
    被限定自我の習性は理論的に、それぞれの状況と場合において係る神経細胞群と神経細胞路の活性、興奮と伝達の早さ広さ長さから直接的に数量化することはできる。だが、実際は不可能である。何故なら、それらが少しでも直接的に数量化されたときには被験者の中枢神経は既に破壊されており、被験者は生きておらず、その数量化は意味をもたないからである。だから、心理テストなどによって間接的に数量化するしかない。

想起の習性の形成

  素材が認識された後、第一段階で認識と同類性に基づいてイメージの素材が生起し、第二、第三…段階で時間的近さと神経細胞路に基づいてイメージの素材が生起する。第一段階はそれらは、認識から個々のイメージの素材を記銘し保持する神経細胞群に至る分岐する神経細胞群またはそれと並行する神経細胞群を通る。それらの神経細胞群は先天的に活性化されておりその活性はなかなか低下しない。第一段階では、認識された素材が分類され、いわば「同一化」される。この同一化機能の能力はなかなか低下しない。例えば、認知症の人が自分の子供を子供と認識できないことがある。だが、それは過去の子供のイメージの素材が消失しているからである。その認知症の人は子供を人間の個体として認識しているのだが、過去のイメージの消失のために、初対面の人として認識しているのである。
  それに対して、第二、第三…段階でイメージの素材はそれらを通らず、個々のイメージの素材を記銘し保持する神経細胞群とそれらの間のイメージイメージ神経細胞路を通る。それらは後天的に活性化され、それらの活性は低下しやすい。それらの活性が自然に低下することが「忘却」である。だから、想起の習性を主として形成するものは忘却に対抗するものである。つまり、想起の習性を決定づけるものは、個々のイメージの素材を記銘し保持する神経細胞群の活性とそれらの間のイメージイメージ神経細胞路のどれがどの程度、活性化されどれぐらい長く活性が維持されるかであり、結局、複合イメージが強くまたは持続的または反復的に想起されることである。特に、自我が複合イメージを強くまたは持続的または反復的に操作することである。簡単に言って、何度も考えたことは忘れることはない。

連想の習性

  連想は、数秒以上の時間の中での一連のイメージの想起であるので、把握と類似性よりも時間的近さに基づいて生じる。だから、その習性を決定づけるのは、どのイメージイメージ神経細胞路がどの程度、活性化され、その活性がどれぐらい長く維持されるかであり、どのような連想が強くまたは持続的または反復的に生じかである。特に自我がどのようにイメージを操作したかであり、どのように思考したかである。
  通常、複合イメージは単発で想起されるのではなく、連想の中で想起される。だが、そのことを逐次、説明していると文章が煩雑になる。だから、その説明を自明のこととして省略し、連想の中でイメージが想起されることを単に「イメージが想起される」ことと表現することにする。
  また、連想で想起される一連の複合イメージを巨大な複合イメージとも見なせる。だから、これらの著作では連想される一連のイメージを複合イメージに含めることにする。

意識的機能

  意識的機能については『自我をもつ動物の心理学』で詳しく定義され説明された。この著作では意識的機能の分類と簡単な説明または具体例を挙げる。

随意運動
  単位的随意運動
    関節の屈伸   複合随意運動
    歩く、走る、泳ぐ
総合機能
    言葉を話す、書く、仕事をする、遊ぶ、対人機能
純粋心的意識的機能
  イメージ操作
    イメージの組み立て、分解、変形、切り替え
  思考
    狭義の思考
    追想
    予想
    空想

  意識的機能が生じ知覚されるとき、その意識的機能のイメージ(機能イメージ)が生成し記銘、保持され、それらのイメージの素材から意識的機能を直接的に生じる神経細胞群(機能的細胞群)に至る神経細胞路(イメージ機能神経細胞路)が活性化される。

自我

  自我については『自我をもつ動物の心理学』で詳しく説明された。この著作では簡単に説明する。
  以下の「理性系」から意識的機能が生じることが合理的で効率的であるように見える。
(1)理性系:
状況の認識→機能イメージの想起→想起される機能イメージの素材→イメージ機能神経細胞路の興奮と伝達
  だが、理性系は中性的で中立的であり、それだけでは良いか悪いかの判断ができない。『記憶をもつ動物の心理学』で説明されたとおり、想起または連想では時間的近さに基づいて、原因と結果を複合イメージとして想起することはできる。だが、結果が良かったか悪かったかを想起することも判断することもできない。だが、誰も何物も良いか悪いかを直接的かつ絶対的に判断できるものをもたない。それを判断できるのは快か不快かだけであり、しかも間接的かつ相対的にである。
  だから、上の(1)理性系と下の(2)情動系が合流して意識的機能を生じる。
(2)(想起される機能イメージの素材→)活性化されたイメージ情動神経細胞路の興奮と伝達→快の自律感覚→機能的衝動
個体の神経系の中の(1)理性系と下の(2)情動系とそれらの合流を「自我」、わたし、意識的機能しようとすることと呼べる。
  比喩的には、自我の中で理性系がいくつかの方法を機能イメージとして提案し、情動系が快か不快かをもってどの方法を採用するかを決定する。

限定自我と被限定自我

  それらについても『自我をもつ動物の心理学』で詳しく説明された。この著作では簡単に説明する。一つの意識的機能を生じる可能性をもつ理性系と情動系とその合流は、機能イメージの想起の実質的限定機能と機能的衝動の実質的限定機能によって二重の限定を受け、被限定機能である。だから、それを「被限定自我」と呼べる。前節で説明された自我は、そのような被限定機能を含み、それ自身、限定機能である。だから、それらを「限定自我」と呼べる。
  全体として、一定の状況(S1)の中で一般に(この一般性を(G)とする)生じうる被限定自我の集合(e1,e2,…)を(E)として、
別の状況(S2)によって変動する数を(n)として、一時に、
(n)個以下の(E)が生起したとき(C1)は、それらのすべてが生じ、
(n)個を超える(E)が生起したとき(C2)は、
(E)を限定する自我の実質的限定機能(SLFE)によって、
他を排除して生じる能力(EA)が最も大きい(n)個の(E)が生じる。自我の実質的限定機能(SLEF)は、前述のとおり、機能イメージの想起のそれと機能的衝動のそれである。(S1)(S2)(G)…などについては『自我をもつ動物の心理学』を参照していただきたい。
  だが、そのような限定自我と被限定自我を逐次、区別していると文章が乱雑になる。だから、どちらかが明らかなときは、限定自我または被限定自我を自我と呼ぶことにする。

意識的機能の概略

  意識的機能が生じるときに、それらのイメージが生成し記銘され保持され、『記憶をもつ動物の心理学』で説明されたようにして分類される。これらの著作では、そのようにして分類される意識的機能の群のうち、以下の属性を満たすものを意識的機能の「概略」と呼ぶことにする。

(1)通常、イメージとしてまずまたは背景として想起され、次にまたは前景として状況に応じて具体的で詳細なそれに属する意識的機能の機能イメージが想起され、その機能イメージを含む自我の全体とそれに属する意識的機能が生じる可能性をもつ。
(2)個体、群れ、種と状況を超えて意識的機能を分類できる。


  最も基本的な意識的機能の概略は直面と回避と待機であり、それらは自我や意識的機能の成熟していない動物においても認められる。ライオンやトラのような最強の肉食獣の意識的機能は例外のように見えるが、それらも天災を回避する。もちろん、草食獣は肉食獣から逃走または隠遁する。隠遁は回避に含まれる。待機も個体と種の生存に適した意識的機能である。例えば、草食獣が短絡的に逃走することは肉食獣に気づかれ捕まえられる可能性を高める。いくつかの種の肉食獣は獲物が自分たちの射程範囲に入ってくるまで待機する。一方、そのような範囲に入って襲われた草食獣は即座に逃走する。だが、追いつかれてしまった草食獣は死に物狂いで戦う。人間は肉食獣や天災を回避するだけでなく、暴力、戦争…などで人間自身を回避し、ときには暴力や戦争に直面する。直面は戦闘または闘争と異なる。例えば、和解が直面であることがあり、戦争を始めることが回避であることがある。人間は、人間を含む生物の生存と自由を確保するためには、自身の破壊性、支配性…などに直面する必要がある。

自我の概略

    ある概略に属する意識的機能を生じる可能性をもつ被限定自我の集合を「(被限定)自我の概略」と呼べる。前述のとおり、意識的機能の概略が、まずまたは、いわば背景としてイメージとして想起され、次にまたは前景として状況に応じて具体的で詳細な機能イメージが想起されることが多い。そのような概略のイメージと機能イメージは一つの複合イメージとして見なせる。そこで、これらの著作では意識的機能の概略のイメージを機能イメージに含めることにする。

意識的機能の能力

    単位的随意運動の能力の大部分は関節を構成する横紋筋の収縮力とそれらと腱と靭帯の伸展性が決定し、中枢神経はほとんど関与せず、比較的単純な練習が決定する。それ以外の意識的機能の能力はそんなに単純でない。
    複合随意運動を含む複合的な意識的機能は単位的随意運動を含む単位的な意識的機能の協調を必要とする。複合的な意識的機能の能力はそれらの興奮と伝達が生じる単位的な随意運動を生じる機能的神経細胞群の間の機能機能神経細胞路が活性化されることによって形成される。複合的な意識的機能の能力を決定付けるのはその意識的機能が反復的に生じること、つまり、練習と実践である。
    だから、複合的な意識的機能の能力のほとんどは後天的に形成される。例えば、人間は、乳幼児期から模倣し練習ないと、歩くことも話すことも書くことも数えることもできない。
    例外はある。例えば、大人が乳を吸うことは意識的機能であり、自我の働きを必要とするが、乳児は自我が働かなくてもそうする。人間においても分娩直後の生存に不可欠な複合随意運動を可能にする機能機能神経細胞路は先天的に活性化されている。さらに、欲動と快不快の感覚から自我を経ず前頭葉の機能的神経細胞群に達する神経細胞路があって、先天的に活性化されていると考えられる。さらに、それらは後天的にはむしろ不活化されることも考えられる。

自我の習性

  『自我をもつ動物の心理学』で説明されたとおり、厳密には自我の習性を以下のように定義できる。
  繰り返すが、一定の状況(S1)の中で一般に生じうる被限定自我の集合(e1,e2,…)を(E)として、
別の状況(S2)によって変動する数を(n)として、一時に、
(n)個以下の(E)が生起したとき(C1)は、それらのすべてが生じ、
(n)個を超える(E)が生起したとき(C2)は、
自我の実質的限定機能(SLF)によって、
他を排除して生じる能力(EA)が最も大きい(n)個の(F)が生じる。
被限定自我の集合(E)と自我の実質的限定機能(SLF)と(E)を処理するその他の機能が限定自我である。
  ここで、(C1)における被限定自我が生じる能力は生起する能力(これを(AA)とする)であり、(C2)における被限定自我が生起する能力は、生起する前は生起する能力(AA)であり、生起した後は他を排除して生じる能力(EA)である。そのような状況と場合におけるそれぞれの被限定自我の生じる能力を被限定自我の生じる能力、被限定自我の能力、被限定自我の生じる習性、被限定自我の習性と呼べ、集合(E)に属する被限定自我の生じる能力の行列を状況(S1)における(限定)自我の習性と呼べる。
  被限定自我の習性はそれぞれの状況と場合において係る神経細胞群と神経細胞路の活性、興奮と伝達の早さ広さ長さから理論的に数量化することはできる。だが、実際は不可能である。
  前述のとおり、被限定自我は概略に分類される。そのような概略に属する被限定自我の習性を数量化することができるなら、それらの平均を被限定自我の概略の習性とすることができる。だが、前述のとおりその数量化は実際は不可能である。
  だが、生じた意識的機能を観察することは可能であり、意識的機能の概略に分類することは可能である。また、ある概略に属する意識的機能の生じる強さ、持続時間、頻度を数量化することは可能である。それらのことをした後、被限定自我は意識的機能を直接的に生じるのだから、被限定自我を被限定自我の概略に分類し、ある概略に属する被限定自我の生じる強さ、持続時間、反復回数を数量化することは可能である。ある概略に属する被限定自我の生じる強さ、持続時間、反復回数を(被限定)自我の(概略の)習性と呼べる。また、被限定自我の概略の習性の行列を(限定)自我の(概略の)習性と呼べる。例えば、それは、(粘着的習性, 自己顕示的習性, 支配的習性, 破壊的習性,...) = (58, 61, 65, 57,...)と数量化、数式化できる。
  同一の概略に属する被限定自我の習性は類似性によって共に形成される。つまり、その習性は概略を単位として形成される。例えば、『習性をもつ動物の心理学』で説明されるように、自我の概略の一つに自己顕示があり、その習性をもつ人は、様々な仕方で自己顕示するが、同じ印象を与える。
  ところで、自我の概略は前述の(1)(2)の属性をもつ。さらに、この節で説明したとおり、自我の概略は(3)被限定自我の習性はそれを単位として形成されることを属性としてもつ。

自我の習性の形成

  自我の習性は厳密には前節のように説明されるのだが、その習性を決定づけるもの、つまり、自我の習性を主として形成するものはそんなに複雑ではない。『自我をもつ動物の心理学』では、様々なものを考慮して結論に達したが、この著作では結論だけ述べる。疑問のある方はその著作の同名の節を参照して頂きたい。
  習性の形成段階(1)(2)(3)を含む被限定自我の全体は以下の(1)-(7)である。
(1) 意識的機能が感覚され把握され、機能イメージの素材が生成し記銘され保持されその活性が維持される。
(2) イメージ機能神経細胞路が活性化されその活性が維持される。
(3) 意識的機能が快の情動を生じ、快の自律感覚を生じ、機能イメージの素材から快の自律感覚へのイメージ情動神経細胞路が活性化されその活性が維持される。 (4) 状況が認識され、認識と同類性に基づくとともに時間的近さと神経細胞路に基づいて機能イメージが生起する。
(5) 機能イメージが生起するだけでなく想起される。
(6) 想起された機能イメージが活性化されたイメージ機能神経細胞路の興奮と伝達を生じる。
(7) 想起された機能イメージが活性化されたイメージ情動神経細胞路の興奮と伝達を生じ、快の自律感覚を生じ、結果として最も強い機能的衝動を生じる。
  (4)(5)が状況の中でいくつかの方法を提案する。(7)が過去の快不快に照らし合わせてどの方法を採用し実行するかを決定する。最も強い機能的衝動を生じるのは最も快の自律感覚である。それが生じるためにはそれへと至るイメージ情動神経細胞路が活性化されそれらの活性が維持される必要がある。それらが活性化されそれらの活性が維持されるためには、(3)において、意識的機能が強くまたは持続的または反復的に快の情動を生じ、快の自律感覚を生じる必要がある。だから、自我の習性を決定づけるもの、つまり、自我の習性を主として形成するものは、どのイメージ情動神経細胞路がどの程度、活性化されるかであり、意識的機能が強くまたは持続的にまたは反復的に快の情動を生じ、快の自律感覚を生じることである。
  例えば、幼児期後半に家庭以外の人間関係に入って、疎外されず楽しむことがほぼ毎日、数か月続いたとき、あまり対人回避せずに対人機能を生じる自我の習性が形成される。この例では、対人機能の機能イメージから期待に似た快の自律感覚に至るイメージ情動神経細胞路が活性化されその活性が数か月は維持されるだろう。

概略についての用語法

  そもそも、直面、回避、待機…などの言葉は概略を指す。日常や科学でもそのような概略が議論されることが多い。また、概略という言葉を逐次、用いていると文章が煩雑になる。そこで、特に必要のないときは、概略という言葉を省略し、直面という概略、回避という概略、待機という概略…などを単に直面、回避、待機…などと呼ぶことにする。
  また、さしあたり、概略には意識的機能のそれらと自我のそれらがある。だが、「意識的機能の」「自我の」などの言葉を逐次、用いていると文章が煩雑になる。そこで、文脈から何の概略かが明らかなときは、それらの言葉を省略することにする。
  上の二つのことから、例えば、直面という自我の概略が単に直面と呼ばれることはある。

意識的機能の能力と自我の習性

  人間社会においては意識的機能の能力は自我の習性より重要であるように見える。例えば、何をするにしても歩き走る能力は重要である。また、仕事をするにも遊ぶにも、言葉を話す能力、書く能力、計算する能力…などは重要である。また、対人能力は何をするにも重要である。
  意識的機能の能力(1)としての対人能力と、限定自我の習性としての対人習性(2)を区別する必要がある。(1)は重要だが、非限定自我の概略の習性としての対人回避の習性(2')が形成されると、対人機能は滅多に生じず、(1)は未熟にとどまる。(2')が減退し、対人機能がしばしば生じるとき、(1)は数年で形成される。(2')が減退しないとき、(1)はますます未熟にとどまる。特に後述する未熟な対人能力を回避し取り繕う自我の習性が形成されているとき、(1)は形成されない。
  そのように見て行くとき、意識的機能の能力より自我の習性のほうが重要であることが分かる。

思考の習性

  いわゆる思考能力を主として形成するものはどのイメージイメージ神経細胞がどの程度、活性化され、それらの活性がどれぐらい長く維持されるかであり、過去にどのような思考が強くまたは持続的にまたは反復的に生じたかである。思考能力は、哲学的思考、論理的思考、科学的思考…などについて、模倣と反復によって形成可能である。また、会話、読書、作文など日常的な行為によっても形成可能である。だが、それらは専門的で職業的な思考について言えることである。
  『自我をもつ動物の心理学』で説明されたとおり、日常や苦境において自我は思考を巻き込んでおり、そのように巻き込まれた思考では思考の習性や能力は意味がない。そのような思考を巻き込む自我においては自我の習性のみが重要である。

人間の習性=人格
  以上の自我の習性、意識的機能の能力、思考能力、精神的情動の習性、イメージの想起の習性の総体を「人間の習性」または単に習性と呼べる。それが心理学が言う「人格」である。
  そのように、心臓の拍動、呼吸器の収縮拡張、消化管の運動…などの自律機能の習性は人間の習性に含まれていない。それらは身体の習性と呼べる。

習性の形成、減退、再形成

能力、習性、傾向の形成、減退、再形成

(1)選択的機能でも被選択的機能でもない心的機能の概略のそれぞれについて、例えば、意識的機能の概略について、
  その概略に属する機能の能力の平均が大きくなることをその概略の能力が形成されること、その概略の能力の形成と呼べ、その概略に属する機能の能力の平均が小さくなることをその概略の能力が減退すること、その概略の能力の減退と呼べる。
(2)被限定機能を含む被選択機能である心的機能の概略のそれぞれについて、例えば、被限定自我の概略のそれぞれについて、
その概略に属する機能の傾向の平均が大きくなることをその概略の傾向または習性が形成されること、その概略の傾向または習性の形成と呼べ、その概略に属する機能の傾向の平均が小さくなることをその概略の傾向または習性が減退すること、その概略の傾向または習性の減退と呼べる。
(3)限定機能を含む選択機能である心的機能について、例えば、限定自我について、
それに属するいくつかの被選択機能の概略の生じる傾向が変化することを心的機能の習性が「再形成」されること、心的機能の再形成と呼べる。
例えば、対人回避の習性が減退し対人直面の習性が形成されることを自我の対人習性の再形成と呼べる。
  「減退」というと悪いイメージがあるだろう。だが、機能が苦痛を生じるとき、その機能の傾向が減退することによって苦痛が減退する。例えば、孤立は孤独、不安などを生じ、孤立的傾向が減退することによってそのような苦痛が減退する。
  以上をまとめると、
非選択機能、非被選択機能能力形成または減退
選択機能⊃限定機能習性再形成
被選択機能(の概略)⊃被限定機能(の概略)傾向=能力形成または減退

  だが、逐次、それらの区別をしていると文章が煩雑になることがある。そこで、非選択機能または非被選択機能または選択機能または被選択機能(の概略)である心的機能を単に機能とも呼び、それらの能力または習性または傾向を単にそれらの習性とも呼び、それらの形成または減退または再形成をそれらの形成とも呼ぶことにする。

人間の習性がまとめて形成される時期

  人間には以下のようなその習性がまとめて形成される時期がある。その習性が主としてその時期に形成される機能を挙げる。

(0-3期)乳児期幼児期前半=乳幼児期
  この期間の間、多数のイメージが生成し想起されるが、その期間の出来事が後に想起されない。平均的には胎生末期から三歳まで。以下に大別される。
(-0期)胎生末期
  母親の胎内で保護隔離されているので、イメージはほとんど生成しない。だが、体性感覚と自律感覚は機能している。
(0-1期)新生児乳児期
  母乳にせよ人工乳にせよ授乳を必要とし、離乳食は摂取しても授乳が生存のために不可欠である。
  泣く⇒笑う⇒目を動かす⇒顔を動かす⇒寝返り⇒頭がすわる⇒ハイハイ⇒つかまり立ち⇒直立二足で歩き始める⇒話し言葉のうち単語を話し始める。
  平均的に分娩から一歳まで。だが、あくまでも平均的にである。歩かない、話さないからといって、必ずしも障害を意味しない。
(1-3期)幼児期前半
  授乳がなくても生存できる。
  直立二足で歩く⇒話せる単語が増加する⇒文章を話しかける。
  平均的には一歳から三歳まで。
(3-10期)幼児期後半前思春期
  その期間の出来事がその後に想起され、性的機能の飛躍的な発達がまだ始まっていない。
  以下に区別される。
(3-6期)幼児期後半
  この時期に『生存と自由』で定義された自己のイメージが生成し想起されるようになる。家庭から独立した人間関係の中にまだ入っていない。
  走る。文章を話す。書き言葉を書きかける。母親や兄弟…などの導入の下に友達を作る。
  平均的には三歳から六歳まで。
(6-10期)前思春期
  家庭から独立した人間関係の中にある。
  クロール、バタフライ…などで泳ぐ。書き言葉を書く。勉強する。独力で友達を作る。性的機能が成熟していないのに彼または彼女を作る。
  平均的には六歳から十歳まで。
(10-15期)思春期
  性的機能の飛躍的な発達が始まってから終わる(性的機能が成熟する)まで。
  対人機能を広げるまたは回避する。『自我をもつ動物の心理学』で説明された自我が成熟する。
  平均的には10歳から15歳まで。それはあくまでも平均的なものであり、性差、個体差が大きい。
(15-期)後思春期
  性的機能の飛躍的な発達が終了してからの時間。つまり、後思春期という言葉は思春期を含まないことにする。それに対して、思春期とその後を「思春期以降」とも呼ぶことにする。また、思春期とその前を「思春期以前」とも呼ぶことにする。

乳幼児的、前思春期的、思春期的機能と習性

[0-3]乳幼児的機能、乳幼児的習性
  人間において平均的に、その習性が主として乳児期幼児期前半(0-3期)に形成される機能を「乳幼児的」機能と呼べ、その習性を乳幼児的習性と呼べる。
  乳幼児的習性はそれ以降の形成、減退、再形成が最も困難な習性である。乳幼児的意識的機能は、直立二足で歩くこと、言葉を話すこと、つまり、人間にとって最も基本的な意識的機能を含む。この時期にそれらの能力が形成されなければ、それ以降に形成することは困難である。
  さらに、乳幼児的被限定自我の概略は後述する粘着、自己顕示、支配、破壊、複合イメージ破壊、孤立…などを含む。
[3-10]前思春期的機能、前思春期的習性
  人間において平均的に、その習性の大部分が幼児期後半前思春期に形成される機能を「前思春期的」機能と呼べ、その習性を前思春期的習性とも呼べる。
  前思春期的習性は形成、減退、再形成することが後述より困難だが、前述より容易な習性である。前思春期的意識的機能は言葉を読み書く機能と習性、基本的な対人機能と対人習性を含む。
  さらに、この時期に自己のイメージが生成する。前思春期的イメージの想起は自己と世界の間の隙間、自己肥大化…などを含む。
[10-15]思春期的機能、思春期的習性
  人間において平均的に、その習性の大部分が思春期に形成される機能を「思春期的」機能と呼べ、その習性を思春期的習性とも呼べる。
  思春期的習性は形成、減退、再形成することが後述より困難だが、前述と比較すると容易な習性である。それらはより複雑な対人機能と対人習性。
  さらに、思春期的被限定自我の概略の傾向は後述する陥る習性を回避し取り繕う機能と習性を含む。
[15-]後思春期的機能、後思春期的習性
  人間において平均的に、その習性が主として思春期以降に形成される機能を「後思春期的」機能とも呼び、その習性を後思春期的習性とも呼ぶことにする。
  後思春期的習性は形成、減退、再形成することが困難だが、前と比較すると容易な習性である。後思春期的意識的機能は最も複雑な対人機能を含む。
[0-]普遍的機能、普遍的習性
  人間において平均的に、その習性が生涯に渡って形成されるまたは動揺する機能を「普遍的機能」とも呼び、その習性を「普遍的習性」とも呼ぶことにする。
  普遍的被限定自我の概略は直面、回避、待機を含む。

子供の世話

  乳幼児期の子供の生存と成長に不可欠な年長者の子供に対する機能をその「世話」と呼ぶことにする。それは授乳、おむつ替え、だっこ、入浴、遊ばせる、離乳食を与えるを含む。

母親

  乳幼児期の子供の世話を主導するべき立場にある人間をその「母親」と呼べる。あくまでもそのような立場にある人間をそう呼ぶのであって、母親は必ずしも適切な世話をしているわけではない。また、母親は必ずしも愛情をもって世話をしているわけではない。
  通常、母親は実母だが、実父、義母、義父、祖父母、兄姉、職業人…などでありえる。また、母親は必ずしも一人ではない。例えば、実父が失業中で実母が就労中の場合、二人ともが母親であることはありえる。また、実母が2歳で亡くなり祖母がそれ以降育てた場合、二人ともが母親であることはありえる。だから、これらの著作では母親の複数形が使われることが多い。だが、ほとんどの母親が実母であることに変わりはない。それは理想的な理由によるのではなく現実的な理由による。

乳幼児期の子供の人間関係

  三歳までの子供の人間関係は母親と数人の人々に限られる。また、彼らに人間関係の選択の余地はない。そのような限られた人間関係において、彼らは生存と成長に必要な世話を獲得し、群れようとする欲動と対人欲求を満たし、孤独への不安を減じるしかない。

母親の愛情

  情動は『自我をもつ動物の心理学』で詳しく説明された。快不快の感覚、欲動、感情、複合的情動を情動と呼べる。愛情は、性的欲動、群れようとする欲動、子供を守り育てようとする欲動、孤独への不安、対人欲求…などから構成される複合的情動の一種である。人間だけが愛情をもつのではなく、哺乳類の一部が愛情をもつ。人間は他の動物より複雑な愛情をもつ。
  愛情は対象によってかなり異なる。そもそも、母親の子供への愛、男女の愛、人類愛…などを同じ「愛」という言葉で論じるのが間違っているのだろう。
  母親の子供への愛情は妊娠に始まる内分泌系、神経系の変化の影響を受ける。だが、そのような変化がすべてではない。母親の子供への愛情の一部は出産後対面したときに初めて沸いてくるものである。そのような部分は、実母に限らず、ある乳児の世話を主としてするべき立場にあるすべての老若男女、つまり、すべての母親に生じえる。また、初めての出会い以降も乳幼児は成長し変化し母親を引きつける。そのような出会いによって生じる愛情を母親の自然な愛情と呼べる。そのような自然な愛情が優位を占める複合的情動を母親の愛情と呼べる。
  そのような出会いにおいては人間または動物の誕生と成長に対する驚きと好奇心があり、母親の愛情はそのような情動を含む。子供が母親にとって第二子、第三子…であっても、人間または動物の普遍性と個体差に対する驚きと好奇心がある。
  母親の愛には、成長すれば労働力になる、老後は面倒をみてくれる…などの利己的な欲求が混入する。そのような欲求は社会的制度の影響を大いに受ける。例えば、高齢者福祉の充実した国家においては子供に面倒を見てもらおうという母親は少ないだろう。また、労働者の人権擁護と子供の教育のための制度が整備されている国家においては、子供を働かせる母親は少ないだろう。いずれにしても、そのような利己的な欲求が優勢な情動を母親の愛情と呼ぶことはできない。だが、そのような欲求が愛情にある程度、混入することは避けられないだけでなく、ある程度の混入は子供にとって無害である。
  また、母親の愛情には子供を健康に育てなければならないという義務感が伴う。そのような義務は慣習法と成文法にも基づく。そのような義務感が優勢な複合的情動を愛情と呼ぶことはできない。だが、ある程度の義務感は必要である。
  繰り返すが、前述の自然な愛情が優勢な複合的情動を母親の愛情と呼ぶことができる。
  以上のことから母親は愛情について難しく考える必要がない。極論になるが、愛情とは何かなどと考える人は愛情をもっていない。
  一般に他人の情動は把握され知覚され認識される。だが、その認識は必ずしも当たっていない。例えば、他人が自分に敵意をもっているという認識は当たっていることが多いが、好意をもっているという認識は当たっていないことが多い。だが、心理学では間違った認識も他の機能に影響を与える心的機能である。
  3歳以前の子供においても母親の愛情が把握され知覚され認識される。乳幼児においては生存と成長に不可欠な世話や他の人間関係より母親の愛情が感じて認識しやすい。世話が生存と成長に必要などということを認識できるのは前思春期以降である。複雑な人間関係を認識できるのは思春期以降である。それに対して、母親に愛情があるかどうかは乳児でも認識できる。結局、乳幼児が最も把握し知覚し認識し最も求めているのは母親の愛情である。
  しかも、乳幼児が求めているのは、深い愛情でも、ありあまる愛情でもなく、前述の自然な愛情が優勢な普通の愛情である。だから、母親は愛情とは何かとかどう愛情を表現するかとか考える必要がない。極論になるが、そういうことを考える母親は愛情をもっていない。

母親の愛情希薄

  母親において愛情と呼べない心的機能が優勢になるために愛情が希薄になることがある。そのようにして強くまたは持続的または反復的に母親の愛情が希薄であることを母親の愛情希薄と呼べる。例えば、母親において孤立への不安が強く、母親が子供を離そうとしないとき、母親の愛情は希薄になる。簡単に言って、母親は不安を癒すために子供を利用しているのである。
  乳幼児期に母親が愛情をもって子供に接するとき、乳幼児は母親の愛情に満足し、ときには愛情に辟易して、三歳頃から愛情以外のものを求めて母親から離れて機能し、少しずつ人間として独立していく。それに対して、母親の愛情が希薄なとき、乳幼児は愛情に満足できず、三歳以降も母親の愛情いつまでもひたすら求め、独立できない。さらに、母親の愛情をいつまでも求め続けることによって、後述する粘着的習性、自己顕示的習性…などが形成される。
  また、乳児期の子供に母親が愛情をもって世話するとき、生後6か月頃から乳児は授乳などの世話が少し遅れても待機できるようになる。それに対して、母親の愛情が希薄なとき、乳児は待機できず短絡し自棄的となり、泣きわめき続ける。さらに、待機できないことによって、後述する自棄的習性、破壊的習性…などが形成される。
  母親の愛情希薄は後述する陥る習性を形成する最大の要因である。
  虐待、放置…などは母親の愛情希薄より重大で、明確である。だが、前者に注意するあまり、後者が軽視されてはならない。いずれにしても、前者は後者を含む。そこで、虐待、放置…などを母親の愛情希薄に含めることにする。

囲い込み

  総合機能と純粋心的機能の両方において、個人、特に母親が他人、特に子供を独占し離さないことを個人による他人の「囲い込み」、個人が他人を囲い込むこととも呼ぶことにする。
  母親において全般的に欲求不満が強いとき、子供に関する欲求が高め挙げられ、母親が子供を囲い込むことが多い。特に、母親が孤立し対人関係が狭いとき、母親は孤独を減退させるために子供を囲い込むことが多い。
  囲い込みは愛情と異なるだけでなく、結果として母親の愛情希薄に等しい。囲い込みにおいては自己の欲求を満足させようという心的機能が優勢だからである。
  囲い込みはいわゆる「過干渉」を含む。一見したところの愛情の過剰が囲い込みであることがある。
  母親の囲い込みも子供の陥る習性の多くの部分を形成する。

模倣

  他の動物の意識的機能が知覚されイメージとして生成し、自我がその意識的機能を繰り返すうちに、その意識的機能の能力とそれを生じる自我の習性が形成されることがある。そのことを意識的機能と自我の「模倣」、意識的機能と自我を模倣することと呼べる。注意するべきことは意識的機能だけでなく自我も模倣され、模倣によって意識的機能の能力だけでなく自我の習性も形成されることである。
  模倣は人間が直立二足で歩く、言葉を話す、書く…などに不可欠の機能である。だが、特に思春期に、破壊は模倣され、破壊する自我の習性が形成される。残念ながら、破壊的な親の子は破壊的になることが多い。

直面と回避

直面と回避

  もの(O)が現在に苦痛(OP)を生じ、(O)に係る意識的機能(I)も現在に苦痛(IP)を生じ、
(I)は未来に快楽を増大または維持しまたは苦痛を減少させる可能性をもち、
(O)の生じる苦痛(OP)が(I)が生じる苦痛(IP)より強いとき、
それらの未来のにおける情動の変化がイメージとして想起され自我が(I)を生じることを自我が(O)に直面することと呼べ、
それらの現在における苦痛がイメージとして想起され自我が(I)を生じないことを自我が(O)を回避することと呼べ、

(I)が生じる苦痛(IP)が(O)が生じる苦痛(OP)より強いとき、
それらの未来のにおける情動の変化がイメージとして想起され自我が(I)を生じることを自我が(I)に直面することと呼べ、
それらの現在における苦痛がイメージとして想起され自我が(I)を生じないことを自我が(I)を回避することと呼べる。

  直面と回避は自我の概略の二つと見なせる。
  例えば、戦争に巻き込まれた人々が未来の身の安全のために現在に危険な逃走をすることは逃走という意識的機能に対する直面である。そのように逃走と回避は異なる。また、この場合はそれは逃走という意識的機能(I)に対する直面である。
  例えば、後述するとおり、自我は苦痛を生じるイメージを切り替えることがある。それはイメージというもの(O)からの回避である。わたしたちは自己嫌悪、不安…などの苦痛を生じる自己のイメージのいくつかを切り替えて回避することがある。
  だが、直面とも回避とも見なせない自我の概略は多々あり、それらの多くは「待機」と見なせる。理想的な意味ではなく現実的な意味で、待機はわたしたちの日常生活の多くを占める。待機は人間の個体と種が生存するのに適した機能と言える。
  また、待機せず即座に直面または回避することは「短絡」とも見なせる。この短絡となると人間の個体と種の生存には適さないことが多い。例えば、わずかな敵意ですぐに喧嘩や戦争を始めていたのでは人間の個体も種も生存していない。だが、後述するとおり、短絡して逃走することはネズミ、リス…などのいくつかの小動物には適している。
  人間のそれらほど明瞭ではないが、直面、回避、待機、短絡、自棄、粘着、自己顕示、破壊、支配…などの自我の概略の原型のようなものが少なくとも高等な哺乳類に認められ、それらを状況に応じて使い分けることが個体と種の生存に適している。例えば、ライオン、トラのような強大な肉食動物には、狩りと捕食いう直面と待ち伏せまたは休養という待機を切り替えることが個体と種の生存に適している。シマウマ、シタツンガ…などの草食動物には、逃走と捕食いう直面と隠蔽または休養という待機を切り替えることが生存に適している。ネズミ、リスなどの小動物には捕食という直面と即座の逃走という短絡と隠蔽または休養という待機を切り替えることが生存に適している。また、動物の赤ちゃんは親に粘着し自己顕示しなければ生存できない。群れの中にあっては他を支配する個体もいれば、服従する個体もいる。肉食動物に捕らえられた草食動物は自棄的になって何でも破壊しようとする。この著作ではそれらの原型のようなものも自我の概略に含めることにする。
  ともかく、人間を含む動物は、過労を防ぐために、いつも直面しているわけにはいかず、ときには回避、待機、休養…などする必要がある。問題はわたしたちが何に直面する必要があるかである。

イメージ直面とイメージ回避

  想起されるイメージが苦痛を生じることがある。それが『自我をもつ動物の心理学』で説明された不快の感情である。例えば、自己の対人習性の未熟さがイメージとして想起され、それらが不安、恐怖、恥辱、自己嫌悪…などの苦痛を生じる。
  『自我をもつ動物の心理学』で説明されたとおり、自我が想起されるいくつかのイメージを直接的に遠ざけるまたは消滅させることは困難または不可能である。そこで、自我は他のいくつかのイメージを近づけることによって、いくつかのイメージを間接的に遠ざける。それがイメージの切り替えである。想起されるイメージが強い苦痛を生じているとき、自我は苦痛を減退さえすればよく、それらをどうでもよいことに切り替えさえすればよい。簡単に言って、切り替え先はどうでもよい。そのようなときの、いくつかのイメージから他のいくつかのイメージへの切り替えを、自我によるイメージ回避、自我がイメージを回避することと呼べる。例えば、自己の未熟な対人機能の習性がイメージとして想起され不安、恐怖、恥辱、自己嫌悪…などが生じるとき、自我はそれらのイメージを回避し、知能、体力、外見…などの他の優れていると思われる習性のイメージに切り替えることがある。
  それに対して、苦痛を生じる想起されるイメージを自我が回避せず、それらを操作するまたはそれらについて思考を開始することを自我によるイメージ直面、自我がイメージに直面することと呼べる。
  自我がイメージに直面するとき、まず、イメージ直面が最も複雑な機能イメージとして想起される。それと同時に、未来の快楽の増大または維持または苦痛の減少がイメージとして想起され、『自我をもつ動物の心理学』で説明されたようにして、適度な動悸、息苦しさなどの快の自律感覚が生じる。例えば、対人習性を形成することによる未来の安心、賑わい…などがイメージとして想起される。だから、自我はイメージとして想起される自己の未熟な対人機能に直面するのである。
  イメージ直面またはイメージ回避は精神的直面または精神的回避という言葉でも表現できる。ときにそれらの言葉を用いることにする。

直面と回避の量

  直面と回避にも量、つまり、強さがある。まず、意識的機能が生じる現在の苦痛が大きいにも係らず自我が直面するとき、それは強い直面と言える。回避については必ずしもそうではない。例えば、後述するとおり、自己の陥る習性に直面することは不安、恐怖、自己嫌悪…などの強い精神的苦痛を伴い、その精神的直面の量はかなり大きいと言える。

直面と回避の習性

  直面と回避と待機は自我の概略でもあり、習性がある。例えば、頻繁に強く直面する人もいれば、頻繁に強く回避する人もいれば、頻繁に穏やかに待機する人もいる。
  だが、直面と回避の量と習性はあまり重要ではない。最も重要なのは何に直面するか、つまり直面の対象である。これらの著作はすべての人間がいつも強くすべてに直面する必要があると言っているのでは全くない。すべての自我が後述の陥る習性にときに直面する必要があると言っている。

陥る習性

陥る機能と習性

  以下の属性をもつ機能の概略(X,Y,Z…)のそれぞれを「悪循環に陥る機能」、「陥る機能」と呼べる。

(a) (X,Y,Z…)のそれぞれがイメージの素材、イメージの想起、知覚、連想、情動、自我、意識的機能、思考…などを横断する。だが、(X,Y,Z…)は主として自我の概略である。
(b) (X,Y,Z…)のそれぞれは一時的に、自己の苦痛を軽減する。だが、(X,Y,Z…)のそれぞれは強くまたは持続的または反復的に、自己と他人の苦痛、特に自己の精神的苦痛を生じる。
(c) (X,Y,Z…)の習性のほとんどは共に形成される。(X,Y,Z…)のいくつか、つまり、X,Yが強くまたは持続的または反復的に生じることによって、X,YだけでなくZ…の習性が減退せず形成される。特に自我が(X,Y,Z…)とそれらの習性に直面することを妨げることによって、(X,Y,Z…)の習性が減退せず形成される。
(d) (X,Y,Z…)の習性が減退せず形成されることによって、(X,Y,Z…)が強くまたは持続的または反復的に生じ、ますます反復的な自己と他人の苦痛、特に自己の精神的苦痛を生じる。
(e) (a)(b)(c)(d)が繰り返される。

つまり、悪循環である。だから、繰り返すが、(a)(b)(c)(d)(e)の属性をもつ被限定機能の概略を「悪循環に陥る機能」、「陥る機能」と呼べる。
  また、陥る機能の習性を「悪循環に陥る習性」、「陥る習性」と呼べる。
  さらに、上記の(a)(b)(c)(d)(e)の属性をもつ機能の概略(X,Y,Z…)で、その習性の量が同種、同年齢の平均を大きく上回るものを悪循環に陥る機能、陥る機能とも呼び、 その習性を悪循環に陥る習性、陥る習性とも呼ぶことにする。つまり、陥る機能、陥る習性という言葉は同種、同年齢の中での比較的なものも指すことにする。
  「減退」というと悪いイメージがあるだろうが、陥る習性が減退することによって自己と他人の反復的苦痛、特に自己の精神的苦痛が減退する。
  陥る機能と習性は以下を含み、以下がそれらの大部分を占める。

短絡

  自我が待機せずよく考えず即座に意識的機能を生じることを「短絡」と呼べる。その逆は待機、迂回、熟考…などである。
  短絡は動物が生存するのに適した機能であることがある。例えば、ネズミ、リスなどの小動物は、肉食動物に襲われたときに即座に逃走しなければ生存することができない。
  また、待機と迂回は動物が生存するのに適した機能であることがある。例えば、小動物が逃げて隠れた後はしばらくじっとしている必要がある。また、いくつかの肉食動物は待ち伏せをする。
  動物において平均的に、赤ちゃんは短絡し次第に待機、迂回できるようになる。それもそれらの生存に適している。
  人間においても、新生児は飢え、渇きがあるとき泣き喚き短絡する。だが、母親が愛情をもって乳児の世話をすると、乳児は乳児期の中頃(0.5歳頃)から授乳などの世話が少し遅れても待機できるようになり、短絡的習性が減退する。
  それに対して、母親の愛情が希薄なとき、乳児は待機できず短絡し、短絡し泣きわめき続け、短絡的習性、自棄的習性、破壊的習性が形成される。
  短絡的習性が形成されると、自我が短絡的な意識的機能と既に習性が形成された意識的機能、特に陥る機能ばかりを生じる。だから、他の機能の習性が形成されにくく、陥る習性が減退せず形成されやすい。これも悪循環である。

自棄

  母親の愛情が希薄で世話が遅れて待機できないとき、乳児は泣きわめき自棄的となる。人間の乳児を含めて多くの動物が自棄的となると自己も他の物も破壊しかねない。だから、自棄的習性と破壊的習性はともに形成されることが多い。
  また、乳児は自棄的となって破壊的になることによって母親たちの注意を引くことができる。特に人間を含む高等な哺乳類は親たちの注意を引くように自棄的、破壊的となる。結局、短絡的習性、自棄的習性、破壊的習性、自己顕示的習性はともに形成されることが多い。

破壊

  同種または他種の動物から攻撃されたり自然災害を受けたとき、動物は防御、反撃、逃走、隠遁…などする。それらを状況に応じて切り替えることは動物の個体と種が生存するのに適した機能である。だが、それらが適わないとき、動物は自棄的になりなんでも破壊することがある。それらの破壊は結果的に自己を巻き込むことがある。自暴自棄と破壊は成功率は前述の機能より低いが、窮地に陥った動物が生存するのに適した機能であることがあり、通常、最後の手段である。
  人間では破壊が同種に向かうことが他の動物より多い。例えば、虐待、いじめ、暴力、戦争、虐殺、…などは破壊に含まれる。
  また、人間では破壊が意図的に自己に向かうことがある。自殺、自傷だけでなく、拒食、過食、薬物乱用…なども自己の破壊に含まれる。そのような自己の破壊も破壊に含まれる。
  動物の赤ちゃんも自棄的になり何かを破壊する。例えば、人間の乳児は母親の授乳が遅れると泣きわめいて布団を蹴飛ばす。
  母親が愛情をもって乳幼児を世話すれば、乳児期の中頃(0.5歳)に、乳幼児は待機することができるようになり、破壊する必要がなくなり、母親と他人に破壊以外の対人機能を生じて、破壊的習性が減退する。
  それに対して、母親の世話と愛情が不足するとき、乳幼児は待機できず短絡、自棄、破壊し続け、破壊的習性は減退せず形成される。
  そのように破壊的習性は母親の愛情希薄によって乳児が短絡的、自棄的になることによって乳児期にも形成される。習性が乳児期に形成される破壊は自己に向かうことが多い。リストカット、大量服薬…などの思春期以降の自傷的習性の原型はそのようにして乳児期に形成される。また、そのような破壊的習性は薬物依存、摂食障害…などにもつながる。
  それに対して、破壊的習性は前思春期以降の子供による年長者の模倣によっても形成される。例えば、残念ながら破壊的な親の子供は破壊的になることが多い。また、これも本当に残念なことだが、テロリストに育てられた子供は破壊的になることが多い。それらは子供が年長者を模倣することによる。そのように前思春期以降に形成される破壊性は他人に向かうことが多い。
  また、思春期の母親と他の人間による子供の囲い込みと子供による囲い込みの強い破壊は破壊的習性を形成することが多い。子供は独立を勝ち取るために親たちに反抗し囲い込みを破壊する必要がある。つまり、適度な囲い込みの破壊は必要である。だが、親による囲い込みと子供による破壊があまりに強く頻繁なら、破壊的習性が形成される。
  また、適度な反抗は子供の独立を促すが、過度の反抗において、子供は親に反抗することに終始し、他の機能をほとんど生じず、独立は阻害される。

粘着

  同種の他の動物を含むものから離れないそれらを離さない、人間においては他人を含むものから離れないそれらを離さないだけでなく、愛されようとする自我の概略をそれらへの「粘着」、それらに粘着すこととも呼ぶことにする。ネチネチしている、しつこい、つきまとう…などが粘着に含まれる。人間では、粘着的な対人機能だけだなく、特定のものが偏って反復的に強く想起されるなどの粘着的な純粋心的機能も粘着に含まれることにする。
  粘着は動物の赤ちゃんが生存するのに適した機能である。何故なら、動物の赤ちゃんは親から離れては生存できないから。例えば、イヌは少し這えるようになると親に付きまとう。
  人間では、母親が普通の世話と愛情をもって乳幼児に機能すれば、乳児期幼児期前半の終わり(三歳頃)に、幼児は母親の愛情と自身の粘着に辟易して、母親から離れ、母親以外の他人に粘着以外の対人機能を生じ、粘着的習性が減退する。
  それに対して、母親の世話と愛情が不足すると、乳幼児はいつまでも世話と愛情を求め、反復的に粘着し、粘着的習性が減退せず形成される。さらに、幼児期後半以降は母親以外の他人にも粘着し、一般的な粘着的習性が形成される。
  母親の愛情希薄は粘着的習性を後天的に形成する主要な要因である。粘着的習性を後天的に形成する要因として、母親の囲い込み、子供の模倣…などもありえる。母親の囲い込みが子供の分離を阻害することはありえる。また、乳幼児は母親の粘着を模倣する。
  粘着的習性が、乳児期幼児期前半の終わりまたは幼児期前半の初め(三歳頃)に減退しなかったとき多くの場合、その後も減退せず、その同種の同年齢との差がプラスの方向で大きくなる。粘着は幼稚園や学校の友達、同級生、先生にも向かい、やがて、職場の同僚、部下、上司にも、いたるところで友人と恋人にも、家庭で夫または妻にも、子供にも向かい、一般的な粘着的習性が形成される。思春期以降の粘着は複雑で狡猾である。例えば、人を巻き込み操作するようになる。
  粘着的習性は強い苦痛を生じる。第一に、他人に粘着できないときに強い不安と孤独を生じ、人に死に物狂いで粘着せざるをえなくなる。第二に、他人に疎んじられることによる孤立と孤独を生じる。そのことによっても、ますます粘着せざるをえない。
  さらに、粘着的習性によってひたすら粘着するために、粘着的習性以外の対人習性がほとんど形成されない。そのことによっても、ますます粘着せざるをえない。これも悪循環である。
  しかも、粘着と自己顕示、支配、破壊、孤立…などは共に存在することが多い。何故なら、粘着して愛を得るためには人は自己顕示しようとする。粘着して愛が得られない場合は相手を支配または破壊しようとする。その結果として孤立する。
  粘着的習性と自己顕示的習性、支配的習性、破壊的習性、孤立的習性…などは共に形成される。何故なら、前述のとおり、それらは共に存在しえ、それらを後天的に形成する主要な要因が同一の母親の世話と愛情の不足、囲い込み、子供による同一の母親の模倣であるからである。これも悪循環である。
  陥る機能と習性について大部分が同様である。そこで、以下の説明を簡略化することにする。

自己顕示

  自己を同種の他の動物に顕示することを「自己顕示」とも呼ぶことにする。人間においては、かっこうをつける、やたらと自己を語る、自慢話をする、過去の遍歴を語る、自己を虚飾して語る…などが自己顕示に含まれる。
  自己顕示は動物の赤ちゃんが生存するのに適した機能である。何故なら動物の赤ちゃんは親の注意と世話を引き出さなければ生きていけないから。例えば、犬も猫も人間も親の注意を引きつけるような鳴き方をする。
  母親でなくても、他人の子供がかわいいと思うことがあり、それは自然な感情である。さらに、お世辞ではなく、子供を賞賛していることがある。母親においてはなおさら、自分の子供がかわいいと思うことがあり、それは愛と重なる。そのような愛があれば自然と子供を賞賛している。
  人間においては、乳幼児がそのように母親に愛され賞賛されれば、乳児期幼児期前半の終わり頃(3歳前)に、幼児は母親の愛情と賞賛と自身の自己顕示に辟易し、母親以外の他人に自己顕示以外の対人機能を生じ、自己顕示的習性が減退する。
  それに対して、母親の愛情と賞賛が不足するなら、乳幼児はそれらに辟易せず、いつまでも自己顕示し続け、自己顕示的習性が減退せず形成される。そのように、自己顕示的習性を後天的に形成する原因のうち主要なものは母親の愛情と賞賛の不足である。
  自己顕示的習性の形成と他の陥る習性との関係は粘着的習性のそれらとほぼ同様である。だから、それらの説明のほとんどを省略し、特徴的なことだけを説明する。自己顕示においては誇大化または虚飾された自己を他人に顕示するのだが、自己のイメージもある程度、誇大化または虚飾され、現実の自己が認識されにくくなる。それによっても、自己顕示的習性は、自我が陥る機能と習性に直面することを妨げる。そのことによっても陥る習性はなかなか減退しない。

支配

  固体または集団が同種の他の個体または集団を支配することをそれによるそれらの「支配」、それがそれらを支配することと呼ぶことにする。例えば、人間が他の生物や自然を支配することはこの著作では支配に含まれない。人間では、支配はどうでもよいようなことでも、何でも取り仕切ろうとする、ともかく上に立とうとする、ポジション取りをする、なんでも独占しようとするを含む。
  状況に応じて支配と委任と服従を切り替えることは個体と種の生存に適した機能である。人間の赤ちゃんを含む動物の赤ちゃんも母親を支配することによって世話と愛を得ようとする、それも生存に適した機能である。例えば、人間の赤ちゃんは泣きわめくことによって親の授乳を支配する。
  世話と愛が得られない場合はなおさら母親を支配しなければならない。さらに世話と愛が得られない場合は母親を破壊しなければならない。そんなことをすれば余計に愛が得られないのだが、乳幼児と大人の何人かは愛が得られないとき他人を支配し破壊する。
  人間では、母親が愛情をもって乳幼児の世話をすれば、乳幼児はそんなに支配する必要がなく、支配以外の対人機能を母親とそれ以外に生じて、支配的習性は減退する。
  それに対して、母親の世話と愛情が不足すれば、乳幼児はいつまでも支配し続け、支配的習性が減退せず形成される。
  そのように、支配的習性を後天的に形成する原因のうち主要なものは母親の愛情の希薄である。
  支配的習性の大きい人間の多くは権力、権威…などを追求し、それらのいくつかは強い破壊的習性を伴い、権力を獲得したそれらのいくつかは専制、戦争、大量虐殺…などを生じる。また、強大な権力を得られないときは、いわゆる内弁慶になり、家庭を支配しようとして、子供とパートナーの囲い込み、家庭内暴力…などを起こすことがある。

複合イメージ破壊

  人間において、複合イメージとして想起されるものが不安、恐怖、自己嫌悪…などの不快の感情を生じるとき、思春期以降の成熟した自我は前述のイメージ回避によってそのようなイメージを切り替える。だが、乳児期幼児期前半の自我は未熟であり、そのような切り替えをすることができない。そこで、イメージから大きな苦痛が生じる乳幼児のいくつかはイメージを何がなんでも破壊しようとする。そのような破壊は成熟した自我がすることができる分解とは異なる。その結果、複合イメージ、イメージの想起、連想、自我、思考、自己のイメージ…などのいくつかが一般の人間や心理学者や精神医学者にとってさえも思いもよらないものになることがある。その一例が「解離性障害」であると考えられる。苦痛を生じるイメージを何がなんでも破壊することとそれがもたらす結果を「複合イメージ破壊」、複合イメージを破壊することとも呼ぶことにする。
  複合イメージ破壊は、解離性障害の「解離」、境界人格障害の「分裂」などに発展することがありえる。
  例えば、虐待する母親のイメージが想起され、反復的な不安、恐怖を生じる。幼児期後半以降の子供ならそのイメージを回避することができる。だが、乳児期幼児期前半の子供は回避できず、そのようなイメージを手当たり次第に破壊する。
  複合イメージ破壊の習性は、母親の愛情希薄から、特に虐待、放置…などの極端から形成されることが多い。

孤立

  群れ、家庭、社会…などの集団から離れることは動物の赤ちゃんの生存に適さない。だが、群れから破壊、攻撃、疎外…などされ、個体がある程度、成長しているとき、群れの中にいるより群れから離れたほうが生存に適することがある。
  人間において物質的身体的には、子供たちも法的社会的制度によって保護されている。それに対して、精神的には彼らは疎外され孤立しうる。だが、人間は精神的に孤立しても、一人遊びをすることができる。さらに、一人遊びがなくても、白日夢などイメージを弄ぶことができる。それも『自我をもつ動物の心理学』で説明されたイメージの操作の一種である。これらの著作では、それらのような遊びによって人間が一人でもある程度は精神的に存在することを「孤立」と呼ぶことにする。
  人間においては、母親と愛情が希薄であれば、乳幼児は随意運動と総合機能で群居するが、純粋心的機能で孤立し、一人遊びやイメージの弄びをし、新生児期乳児期の中頃から孤立的習性が形成され始める。簡単に言って、一見したところ群れの中に居ても、心の中では孤立している。虐待、放置…などがあれば、随意運動と総合機能でも孤立し、孤立は一見して明らかであり、孤立的習性は強く形成される。いずれにしても、乳幼児期の終わり(三歳頃)まで孤立したとき、孤立的習性が強く形成され、それ以降も減退しないことが多い。
  孤立は後述する自己に係る陥る習性の形成を促進する。

ナルシシズム

  乳児期幼児期前半に親や親戚、特に母親に愛されない、褒められない、ちやほやされない、もてはやされない子供は自ら自己を愛するようになる。それがいわゆる強い「ナルシズム」を形成する。強いナルシズムが形成されないためには子供はある程度、愛される、褒められる、ちやほやされる、もてはやされる必要がある。ある程度、それらをされると、子供はそれらをされることと自己を愛することに辟易して、他人や他のものを愛して、適度なナルシズムが形成される。いずれにしても、ナルシズムは誰にでもあるのだが、問題はその量であり程度である。

母親の陥る習性と愛情希薄と囲い込みと子供によるによる母親の陥る機能の模倣

  粘着は愛を求めるが愛を与えない。破壊には愛が伴わない。人間は何かを愛してそれを破壊することはあるが、それはしばしば愛が得られなかったからである。自己顕示、ナルシシズムは他人を愛さない。だから、陥る習性をもつ人が母親になると子供に対しても愛情希薄であることが多い。
  また、陥る習性をもつ人は主として孤立し疎外されるために、様々な欲求不満に陥る。そこで、前述のとおり、子供に係る欲求を高め上げ、子供を囲い込み、それらの欲求を満たそうとすることが多い。簡単に言って、子供を独占しようとする。
  また、乳幼児といえども身近な人を模倣する。後に習性が形成される回避、取り繕い…などの陥る機能は乳幼児に模倣は難しいが、習性が乳幼児期に形成される自棄、破壊、粘着、自己顕示…などの陥る機能は乳幼児にも模倣が容易である。当然、母親のそれらも模倣される。結局、子供は乳児期から思春期まで年長者の陥る機能を模倣し、それぞれの時期に特有のものを模倣する。
  以上のことから、母親が陥る習性をもっているとき、子供が陥る習性をもつ確率は高い。母親の陥る習性から生じる愛情希薄と囲い込みと子供による母親の陥る機能の模倣は子供の陥る習性を形成する主要な要因である。

乳幼児的陥る習性

  人間において平均的に、これまでの節で説明された陥る機能の陥る習性は乳時期幼児期前半の終わりまたは幼児期後半の初め(3歳頃)までに減退する。だが、それらの習性は、主として母親の愛情希薄と母親の囲い込みと子供による母親の陥る機能の模倣によって減退せず形成される。だから、それらの機能を「乳幼児的陥る機能」と呼べ、それらの習性を「乳幼児的陥る習性」と呼べる。
  乳幼児的陥る習性に限らず、一般に陥る習性は共に形成される。さらに、以下のことから、特に乳幼児的習性は共に形成される。乳幼児の習性の形成の状況はほとんど家庭のみであり特に母親だけである。だから、その形成は母親の愛情希薄と母親の囲い込みと乳幼児による母親の陥る機能の模倣の影響を直接的に受ける。

自己イメージの生成

  自己は『生存と自由』で定義された。人間では、過去、現在、未来の身体、情動、思考…などから構成される複合イメージとして自己は想起される。人間において平均的に、自己のイメージは幼児期後半の初め頃、つまり、四歳頃に生成し想起されるようになり、思春期に最も明瞭になる。

自己がやがて死ぬことへの不安

  自己のイメージが生成し想起されてしばらくすると、自己の時間的有限性、自己がやがて死ぬことがイメージとして想起され、それらが自己がやがて死ぬことへの不安を生じるようになる。自己がやがて死ぬことへの不安は究極の不安である。それを克服する決定的方法は『生存と自由』で説明されている。

自己無限化試行

  自己がやがて死ぬことへの不安は何らかの方法で自己を無限化しよう試みる欲求と試みを生じる。そのような欲求を「自己無限化欲求」と呼べ、そのような試行を「自己無限化試行」と呼べる。
  自己無限化試行は、愛、宗教、支配、権力の追求…などと重なる。例えば、権力者が自身の巨大な墓を建てることと重なる。

自己と世界の間の間隙の拡大

  想起されるイメージの中では自己のイメージと自己以外のもののイメージの間に隙間がある。そのような間隙を「自己と世界の間の間隙」と呼べる。
  乳幼児が孤立していなければ、そのような間隙は母親、他の人々、ペット、おもちゃ…などで埋められるので、そのような間隙は小さい。
  それに対して、乳児期幼児期前半に孤立した人間ではそのような間隙が拡大する。これまでに説明した陥る機能が主として自我の概略であり、自我の陥る習性によったのに対して、そのような拡大はイメージの想起の陥る習性による。
  自己と世界との間の間隙が小さい人間は、自己のイメージと自己以外のもののイメージが連続するために、自己がやがて死ぬことへの不安を克服する方法に至りやすく、自己が死ぬことへの不安が稀にしか生じず、生じるとしても弱い。
  それに対して、その間隙の拡大した人間は、自己のイメージと自己以外のイメージが隔絶するために、その不安を克服する方法に至りにくく、自己が死ぬことへの不安が頻繁に強く生じる。また、前述のとおり、自己を永遠化しようとする欲求が強くなる。
  それらの間のギャップの拡大が自己がやがて死ぬことへの不安と自己永遠化欲求を生じ、それらが自己顕示的習性、支配的習性…などを強化することはよくある。例えば、強大な権力を獲得した人が、人々を支配して栄光や巨大な墓を残そうとすることはある。さらに、陥る習性は共に形成されるので、彼らはしばしば大きな破壊的習性ももち、権力を握って、自由権、社会権、民主制、権力分立制、法の支配を破壊し、専制、独裁、戦争、全体破壊手段の研究、開発、保持…などに走ることがある。だから、それらの陥る習性を減退させることは生存と自由を確保する方法でもある。

自己肥大化

  自己と世界の間の間隙の拡大においてはその間隙が自己のイメージで埋められることが多い。何故なら、孤立しているために自己以外のイメージで埋めようがないからである。他人や他の動物や自然との関係が再開するなら、その間隙は多少でも自己以外のイメージで埋められる。孤立が続くなら、自己のイメージで埋められ続ける。その結果、自己のイメージは大きくなる。そのことを自己の肥大化と呼べる。自己と世界の間の間隙の拡大と同様に、それはイメージの想起の習性によって生じる。
  自己の肥大化は自己と世界の間の間隙の拡大だけでなく自己顕示的習性、支配的習性…などとともに形成されることが多い。

自己の美化

  陥る習性が形成されているような自己のイメージは不安、恐怖、自己嫌悪…などの苦痛を生じる。そのような苦痛を減じるために子供なりの未熟な自我は自己を美化する。例えば、母親や一般の人間に愛してもらえず疎外されているかわいそうな者として自己を美化する。そのような美化によって美化された自己のイメージが生成する。そのような自己の美化も自我が自己の陥る機能と習性に直面することを妨げる。

前思春期的陥る習性

  それらの機能の習性の大部分が自己のイメージが生成した後の幼児期後半前思春期に形成される。そこで、それらの機能を「前思春期的陥る機能」とも呼び、それらの習性を「前思春期的陥る習性」とも呼ぶことにする。
  前思春期的陥る習性から少なくとも孤立的習性へと遡ることができ、孤立的習性は乳児期幼児期前半に形成される。また、乳幼児的陥る習性のほとんどは共に形成される。また、前思春期的陥る習性のほとんどは共に形成される。だから、乳幼児的陥る習性と前思春期的陥る習性の多くは併存する。いずれにしても、それらのいずれかが突出して形成されることはない。

陥る対人機能と対人機能能力の未熟

  孤立的習性が形成されると、孤立した自我が意識的機能としての対人機能をあまり生じず、意識的機能の能力としての対人機能能力はあまり形成されず未熟にとどまる。例えば、子供たちに限らず、大人でも数か月隠遁していると対人機能がうまくいかないものである。
  さらに、一般に、陥る習性が形成されると、陥る自我が陥る対人機能を生じ、陥る対人機能能力は形成されるが、それ以外の対人機能能力はあまり形成されず、一般の対人機能能力は未熟にとどまる。例えば、支配的で破壊的な対人機能にばかり出ていたのでは、協調的な対人機能能力が形成されない。
  また、陥る習性が強く陥る対人機能を頻繁に生じる人間は人から疎外されることが多く、孤立し、対人機能能力は未熟にとどまる。
  さらに、対人機能能力が未熟にとどまるために、ますます疎外され孤立し、対人機能能力が未熟にとどまる。
  これらも悪循環である。
  特に後述の対人機能を回避し取り繕う習性は対人習性の未熟をもたらす。
  だが、陥る習性が減退するとき、対人習性は意外と早く形成される。結局、対人機能の未熟より陥る対人習性のほうが重大である。

陥る習性の取り繕い

  陥る機能と習性は不安、恐怖、孤独、自己嫌悪…などの強い反復的な苦痛を生じるため、特に思春期のある程度成熟した自我は自己の陥る機能と習性を取り繕う。また、自己の陥る機能と習性に気づかれると、恥辱という苦痛が生じるために、対人関係において自我は自己の陥る機能と習性を隠し取り繕う。また、陥る機能と習性だけでなく未熟な対人習性に気づかれると、恥辱が生じるために、自我は自己の未熟な対人習性も隠し取り繕う。それらのことを「陥る習性の取り繕い」、陥る習性を取り繕うこととも呼び、その習性を陥る習性を取り繕う習性とも呼ぶことにする。
  陥る対人習性を取り繕う対人習性がそれらの中で最も明確である。例えば、自然にではなく意図的に明るく振舞う、孤独を美化する、地位、権力を見せびらかす、浅薄なことばかり話す、破壊性を顕示して人が近寄り難い雰囲気を作る…などがそれである。
  陥る習性を取り繕う習性が大きいとき、陥る習性の取り繕いがほとんどいつも生じ、取り繕い以外の重要な機能があまり生じず、取り繕う習性以外の重要な習性が形成されない。例えば、人と打ち解けて話をする習性が形成されない。
  また、陥る習性の取り繕いは、自我が自己の陥る機能と習性に直面することを妨げる。取り繕いがうまくいっている限りは自我は自己の陥る習性に直面しない。取り繕いに破たんしたときだけ直面する。例えば、地位と権力を見せびらかしてうまく行っている限りは、自我は自己の陥る対人習性に直面しない。
  それらのことから、陥る習性の取り繕いは陥る機能に含まれ、陥る習性を取り繕う習性は陥る習性に含まれる。
  前思春期に、陥る対人習性が形成されているときまたは対人習性が未熟であるとき、思春期に学校で同級生から疎外されいじめ、無視…などに逢い、陥る習性を取り繕う習性が形成されることがある。
  陥る対人機能と極端に反対の対人機能を生じることによって、陥る習性を取り繕う対人機能を「反対表現」と呼べる。例えば、思春期に面白くなく真面目な人間として他人から嫌われたとき、極端に不真面目な振る舞いをすることがある。反対表現は誤解を招くことが多い。何故なら、それが陥る習性に基づく反対表現だと理解してくれる人はほとんどいないからである。
  それらのように、陥る習性を取り繕う習性は主として思春期に後天的に形成される。

陥る習性のイメージの回避

  自己の陥る機能と習性がイメージとして想起されると、それらのイメージは不安、自己嫌悪…などの強い精神的苦痛を生じる。そのために、自我はイメージとして想起される自己の陥る機能と習性を『自我をもつ動物の心理学』で説明されたイメージの切り替えによって回避することがある。イメージとして想起される陥る機能と習性を回避することを、陥る習性の(イメージの)回避、陥る習性(のイメージ)を回避すること、(イメージとして想起される)陥る習性を回避することと呼べる。また、その習性を陥る習性を回避する習性と呼べる。例えば、自己が粘着的、簡単に言って、ネチネチしているこことがイメージとして想起されると不安、自己嫌悪、恥辱…などの強い不快の精神的情動を生じるために、自我はそれらのイメージを無害なイメージに切り替える。
  陥る習性を回避する習性が大きく、陥る習性がイメージとして想起されるたびに陥る習性の回避が生じると、自我が陥る習性に直面することができず、陥る習性の全般が減退しない。だから、陥る習性の回避は陥る機能に含まれ、陥る習性を回避する習性は陥る習性に含まれる。といういより、それらは最大の悪循環であり、最悪の陥る機能と習性である。
  前述の陥る習性を取り繕う習性の形成時期と比較して、陥る習性を回避する習性が形成される時期は、不定だが、主として思春期に形成される。

陥る習性のイメージの取り繕い

  自己の陥る習性のイメージは回避されるだけでない。前述のとおり、乳幼児期には自己のイメージは美化されるが、それは自己全般の美化である。それに対して、思春期になると、自己の陥る機能と習性はうすうす自覚され不快を生じるので、自我はそれらの覆いとなるものを強調してそれらが想起されることを妨げる。それを陥る習性(のイメージ)の取り繕い、陥る習性(のイメージ)を取り繕うこと、(イメージとして想起される)陥る習性を取り繕うことと呼べる。
  例えば、容貌に自信をもつ子供や大人は、それらのイメージを強調して、陥る習性を取り繕うことがある。優れた容貌が一般に弊害だと言っているのではなく、それがそのように利用されるなら弊害だと言っているのである。また、カネや権力をもっている大人は、それらのイメージを強調して、陥る習性を取り繕うことがあり、そういう人は特に部下にとってやっかいである。

陥る習性のイメージを回避し取り繕う習性

  陥る習性のイメージの回避もそれらの取り繕いも一時的な不快を減らすという自我の意図では同じであり、それらが強くまたは持続的または反復的に想起されることがなくなるという結果は同じである。また、自我が陥る機能と習性に直面することを妨げるという弊害も同じである。そこで、それらをまとめて陥る習性のイメージを回避し取り繕うことまたはイメージとして想起される陥る習性を回避し取り繕うことと呼べ、それらの習性を陥る習性のイメージを回避し取り繕う習性と呼べる。
  陥る習性を回避し取り繕うために、自我が自己の陥る機能と習性に直面することができず、陥る習性を回避し取り繕う習性を含む陥る習性は減退せずますます形成される。それは最大の悪循環であり、それらは最も重大な。

迫害されるものとしての自己のイメージの強調と反動または復讐

  陥る習性をもつ人間は、疎外され孤立することが多く、それらの疎外と孤立を他人または一般の人間または社会の迫害と見なすことがある。
  迫害される者としての自己のイメージを強調し、自己の陥る習性をそれらで覆えば、それらの強調と覆いは前述の陥る習性のイメージの取り繕いである。
  さらに、陥る習性を取り繕う以上に強く迫害される自己のイメージを強調すれば、申し立てられた迫害者への反動または復讐につながることがある。そのような強調と前述の自棄、破壊…などが伴えば、反動または復讐は激しいものとなりえる。また、そのような破壊が自己に向かうことがある。

鏡像破壊

  遺伝子と遺伝子機能と母親の愛情希薄、囲い込み、子供による年長者の模倣によって、子供の習性は母親、父親、兄姉…などの習性と類似し、特に陥る習性は類似する。それは子供のものが鏡に映し出されるようなものである。また、子供は自己の陥る習性に不安、自己嫌悪…などの苦痛をもつ。だから、子供は母親、父親…などの陥る習性に自分のものであるかのような苦痛をもつ。大きな陥る習性をもつ子供または青年は母親、父親…などまたはそのイメージを破壊しようとする。そのことを「鏡像破壊」と呼べ、その習性を「鏡像破壊的習性」と呼べる。
  鏡像破壊はいわゆる「反抗」と重なるが、鏡像破壊的習性は、陥る習性が減退しない限り、思春期が過ぎても減退しない。鏡像破壊が最初に明らかになるのは思春期である。
  鏡像破壊も自我が自己の陥る機能と習性に直面することを妨げる。何故なら、自己の陥る習性を他人に投げ出してしまっているからである。
  だから、鏡像破壊は陥る機能に含まれ、その習性は陥る習性に含まれる。

過度の反抗

  親の囲い込みと支配が強く思春期以降も持続するとき、子供や青年がそれらに反抗することに終始し、反抗以外の機能が生じず反抗以外の習性が形成されないことがある。例えば、青年が独立するためではなく親から離れるために別居したり結婚することがある。そのような別居や結婚では、独立して生きる習性が形成されない。だから、過度の反抗は陥る機能に含まれ、その習性は陥る習性に含まれる。

思春期的陥る習性

  それらのような習性が主として思春期に形成される陥る機能を「思春期的陥る習性」とも呼び、その習性を「思春期的陥る習性」とも呼ぶことにする。
  思春期的陥る習性の中で最も重大なのは陥る習性を回避し取り繕う習性である。それどころかそれらは陥る習性の中で最も重大と言える。
  思春期に学校で疎外され、いじめられ、無視される…などは陥る習性を回避し取り繕う習性を大いに形成する。
  前述の破壊的習性と支配的習性についても、少なからぬ部分が思春期の自我の模倣によって形成される。特に暴力的集団におけるその形成は重大である。そこで、破壊的習性を乳幼児的習性だけでなく思春期的習性にも含めることにする。
  いずれにしても、思春期的習性や後思春期的習性は間接的に大なり小なり前思春期的習性と乳幼児的習性を基に形成される。

後思春期的陥る習性

  その習性が主として後思春期に形成される機能を後思春期的機能とも呼び、その習性を後思春期的習性とも呼ぶことにする。後思春期的習性は複雑な対人機能習性、複雑な生き方、死に方…などを含む。後思春期的陥る習性は姑息な、諂う、浅薄な対人習性、権力、カネ、外見…などで陥る習性を取り繕う習性を含む。いずれにしても陥る習性を回避し取り繕う陥る機能と習性はますます複雑で狡猾になる。
  いずれにしても思春期以前に形成された陥る習性はなかなか減退せず、それ以降の習性もそれ以前に形成された習性を基に形成される。

他人を責めること

  前述のとおり、陥る習性を形成する原因のいくつかとして母親の愛情希薄、囲い込み、子供による年長者の模倣があり、母親に原因のいくつかがあることは確かである。
  だが、原因が間違って父親や兄弟姉妹に帰されることはある。例えば、父親が暴力的またはアルコール依存または他の薬物依存であった場合、父親に帰されることはよくある。
  過去に立ち返って、原因を正確に追究することは陥る習性に直面する有力な手掛かりとなる。
  だが、後述するとおり、陥る習性のうち最も重大なものは陥る習性を回避し取り繕う陥る習性であって、それらを回避し取り繕ったのは思春期の自我であって、母親でも父親でもその他の人間でもない。つまり、自己の陥る習性の最大の原因は思春期の自己の自我にあるのであって他人にはない。
  確かに、思春期の自我が陥る習性を回避し取り繕ろった原因はそれ以前の母親の愛情希薄、囲い込み、子供による年長者の模倣にある。だが、陥る習性は思春期以降の自我に深く根付いているのであってそれらは自己のものである。他人を責めてみたところで今さら仕方がない。かえすがえすも、過去に立ち返り原因を探ることは陥る習性に直面する有力な手掛かりである。つまり、過去に立ち返ることは手掛かりであって、他人を責めてみたところで仕方がない。
  それにも係らず思春期以降の人が他人を責めるとすれば、それは新種の陥る機能であるか、陥る習性の取り繕いと重なる。

直面と停止

陥る自我の停止

  『自我をもつ動物の心理学』で説明されたとおり、陥る機能のほとんどは陥る自我であり、陥る習性のほとんどは陥る自我の習性である。また、自我の習性を決定づけるものは以下のとおりである。
(1)状況の中でどの機能イメージがどれぐらい強く想起されるか。つまり、どのイメージイメージ神経細胞路がどの程度活性化されるか。
(2)想起される機能イメージからどの快の自律感覚がどれぐらい強く生じるか。つまり、どのイメージ情動神経細胞路がどの程度活性化されるか。
  だが、『自我をもつ動物の心理学』で説明されたとおり、(1)(2)のうちさらに決定的なのは(2)である。一時に複数の機能イメージが想起されるが、強い快の自律感覚を生じないまたは不快の自律感覚を生じるものは機能的衝動を生じず自我の全体を生じない。するとそのような自我の習性は減退する。陥る自我も同様に機能し、陥る自我の習性も同様に形成されるまたは減退する。例えば、粘着や自己顕示が機能イメージとして想起されても、それが不安や自己嫌悪や恥辱に似た不快の自律感覚を生じれば、それらは生じず、それらの習性は減退する。簡単に言って、そうしようという考えが浮かんでも、嫌な感じがすれば、思いとどまる。
  機能イメージが想起されるが自我の全体が生じないことは自我の停止であり、それも完全停止ではなく不完全停止である。自我が不完全にでも停止するとき、その停止が持続的または反復的しょうじるとき、自我の習性は形成されず減退する。陥る自我の習性も同様に減退する。陥る意識的機能の機能イメージが想起されても、それが快の自律感覚を生じず不快の自律感覚を生じれば、陥る自我の全体は生じない。それは陥る自我の不完全停止である。そのような停止が持続的または反復的に生じるとき、陥る自我の習性は形成されず減退する。
  では、陥る意識的機能の機能イメージから不快の自律感覚を生じさせるものは何だろうか。ここで、行動主義的な結末を予想しないで頂きたい。これらの著作の筆者は行動主義者などでは決してない。

陥る機能と習性への直面

  陥る機能は、乳幼児期から思春期において、一時的に苦痛を減退させる。例えば、短絡は明らかに一時的に苦痛を減退させる。また、陥る習性を回避し取り繕うことは陥る機能と習性のイメージから生じる苦痛を一時的に減退させる。だが、その苦痛の減退は乳幼児期から思春期においてであり、一時的にである。陥る習性は思春期以降に強いまたは持続的または反復的な苦痛を生じる。だが、陥る習性によって陥る機能は思春期以降も持続的または反復的に生じ、陥る習性はなかなか減退しない。
  自己の陥る機能と習性がイメージとして想起されると、不安、自己嫌悪、恥辱…などの強い苦痛が生じる。だから、自我はそれらを回避し取り繕ってきた。だから、陥る習性は減退しなかった。
  それに対して、自我が自己の陥る機能と習性のイメージを回避せず取り繕わずそれらのイメージに直面すれば、陥る機能が機能イメージとして想起されても、それらは強い苦痛を生じ、陥る自我は停止する可能性がある。だが、それだけでは、自我はまたそれらを回避し取り繕う。しかも、思春期以降の自我はかつてより狡猾に回避し取り繕う。
  それに対して、自我が陥る機能と習性のイメージに何度も直面するとき、それらから生じる苦痛が不安、自己嫌悪、恥辱…などから辟易、嘲笑のようなものへと変わり、それらのイメージが自己のものではなく、過去の自己として、そしてまるで他人のものであるかのように想起されるようになる。すると、陥る意識的機能の機能イメージは何か月か何年かは想起されるが、それから前述のような不快の自律感覚が生じ、陥る自我は停止し、陥る自我の習性は減退していく。
  例えば、自己の粘着と粘着的習性、簡単に言ってネチネチしていることのイメージは不安、自己嫌悪、恥辱…などの苦痛を生じるために、自我はそれらのイメージを回避し取り繕ってきた。例えば、それらのイメージを自己の権力や外見のイメージに切り替えてきた。それに対して、自我がそうせずそれらのイメージに直面するとき、それらのイメージは不安、自己嫌悪、恥辱…などの苦痛を生じる。だが、それだけでは自我はまた回避し取り繕う。それに対して、自我がそれらに繰り返し直面するとき、それらが生じる苦痛が辟易や嘲笑に変わる。すると、粘着をするイメージが思い浮かんでも、それに辟易しそれを嘲笑して粘着的自我は生じず、粘着的習性が減退する。

自我が自己の陥る習性を回避し取り繕う機能と習性に直面すること

  だが、陥る習性の回避と取り繕いは執拗であり、その後もしばしば生じる。わたしたちが陥る習性に直面しているつもりで回避し取り繕っていることはよくある。例えば、陥る機能または習性の一部に中途半端に直面しただけで、直面を完了した者としての自己のイメージを強調し、陥る習性を取り繕うことはよくある。だから、自我が特に繰り返し直面する必要があるものは、陥る習性を回避し取り繕う機能と習性である。例えば、自己の陥る機能と習性を自己の地位、権力、外見…などに切り替えることに繰り返し直面する必要がある。
  結局、陥る習性の最大の原因は陥る習性を回避し取り繕う習性だったのであり、それは思春期の自我によって形成された。つまり、陥る習性の最大の原因は乳幼児期の母親の愛情希薄でも囲い込みでも子供による年長者の模倣でもなく、思春期の自我の働きである。思春期の自我は乳幼児期や前思春期の自我や自己より現在の自我に近い。だから、前者への直面は後者への直面より容易である。

[訳注:この日本語訳に関するお問い合わせはNPO法人わたしたちの生存ネットまでお寄せください。]
参考文献
記憶をもつ動物の心理学
自我をもつ動物の心理学
わたしたちの生存ネット
生存と自由

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