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生存と自由

これらの著作の目的

  この『生存と自由』を「この著作」と呼び、この著作と『生存と自由の詳細』『それぞれの国家権力を自由権を擁護する法の支配系と社会権を保障する人の支配系に分立すること』『感覚とイメージの想起』『自我と自我の傾向』『悪循環に陥る傾向』を「これらの著作」と呼べる。
  人間を含む生物の生存を保障するためには、国家の政策の偏向や全体主義化…などを批判できる思想言論の自由を確保する必要がある。それらの自由を確保するためには自由全般を確保する必要がある。また、自由の確保はそれ自体が目的である。自由を確保するためには自由権を擁護する必要がある。また、自由を謳歌するためには生存を確保し社会権を保障する必要がある。結局、わたしたちは生存と自由を両立させる必要がある。さらに、生存と自由の両立は必要であるだけでなく可能である。それらのことを明確にし、生存と自由を両立させる方法を提示することがこれらの著作の共通の目的である。
  宗教について以下のことが言える。不要な議論が生じないようにまず、宗教を明確に定義する必要がある。現実の世界を超越するものの存在を前提とし、現実の世界を超越したものに基づいて個人と集団の生き方、死に方、あり方を提示し、場合によってはそれらを押しつけるものを「宗教」と定義できる。現実的なものを超越するものもそれに基づくものも恣意的にならざるをえず、それぞれの宗教に特有のものにならざるをえない。だから、宗教は、世界の個人や集団のすべてはもちろん多くの生き方や死に方やあり方を提示することができない。生存を可能にする方法も、自由を可能にする方法も、それらを両立させる方法も、それらの多くがある程度、理解する必要があり、宗教はそれらの方法を提示することができない。もし、いくつかの宗教がそれらの方法を提示し布教しようとすれば、宗教と宗教の間、集団と集団の間、個人と個人の間、宗教と集団と市民の間で不必要な争いが生じ、人間を含む生物の生存さえも危うい。特に、ほとんどの宗教は、自身の神を冒涜することを含めて自身を批判するものは物理的暴力を用いてでも破壊してよいあるいは破壊しなければならないという考えに陥りがちであり、それによる争いは致命的になりえる。
  だから、人間を含む生物の生存と人間の自由を両立させる方法は宗教なしで提示される必要がある。この鉄則はこれらの著作を通じて遵守される。
  だが、わたしたち人間のそれぞれは自己がやがて死ぬことへの不安をもつ。この不安はすべての情動のうち最大の苦痛である。その不安から自己を永遠の存在にしようとする欲求、つまり自己永遠化欲求が形成される。そこで、多くの人間がときに歴史に自身の栄光や名誉を残そうとする。それらのいくつかは権力を獲得して何か偉大なことをしようとする。そのような動機がなくても権力は魅力的である。そのような権力は武力やカネを含む。そして権力闘争は熾烈になる。そのような権力闘争が軍拡、戦争、独裁、全体主義、軍官学産複合体の形成、全体破壊手段の研究開発…などに繋がり、人間の生存も自由も危うくする。だから、生存と自由を両立させるためには、人間の自己がやがて死ぬことへの不安を減退させ自己永遠化欲求を減退させるまたは満たすことも必要である。また、その不安を含めて苦痛を減退させることはそれ自体、目的である。
  そもそも、宗教はその不安を減退させその欲求を減退させるまたは満たすためにあったのではないだろうか。だが、宗教はそれらをすることができなかったのではないだろうか。だが、それらをするには宗教が最適であるように見えてきたことは確かである。宗教なしでそれらをすることは可能なのかという疑問は残るだろう。
  また、生存と自由を両立される方法だけではなく、多くの個人や集団が共有できる何かは必要であるという主張は残り、宗教なしにそれらを提示できるのかという疑問は残るだろう。
  だが、それらの方法も自己がやがて死ぬことへの不安を減退させる方法も自己永遠化欲求を減退させるまたは満たす方法さえも宗教なしで提示できる。まず、それらをやってみる。

自己がやがて死ぬことへの不安を減退させる方法の概略

  以下のようなことはよく言われる。「動物は生きて、死んで、生まれて…と繰り返す。その生と死の繰り返しは、記憶をもつ動物のそれぞれが、記憶と個性の喪失を繰り返しつつ、永遠に生きること同じである。記憶をもたない動物については、その生と死の繰り返しは、個性の喪失の繰り返しだけで、永遠に生きることと同じである。つまり、わたしたちのそれぞれは、記憶と個性の喪失または個性の喪失を繰り返しつつ、入れ替わりながら永遠に生きる。地球上の生物が絶滅したとしても、無限の空間と時間をもつ宇宙では、地球上の記憶をもつまたはもたない動物と同様のものが、無限に発生し進化し、記憶と個性の喪失または個性の喪失を繰り返しつつ、入れ替わりながら永遠に生きる。以上のことを知れば、自己がやがて死ぬことへの不安は必ずなくなる」とはよく言われる。結局、それは正しい。ところがその不安はなかなか減退しない。それは何故か。
  多くの人間は、その不安の中で、この、特定の、わたしの自己を永遠化しようとする。だが、それが絶対的に不可能であることを誰もが知っている。だがそれでもわたしたちはそれを試みる。その結果、自己が唯一の入れ替わり不能の存在であるように感じられ、自己が死んだ後には永遠の時間と空間があるように感じられる。だから、その不安が強烈を超えて絶対的なものになる。その不安を減退させるためには、わたしたちのそれぞれはまず、この、特定の、わたしの自己がやがては死ぬことを受容する必要がある。そしてそれを悲しもう、恐れよう。天国や地獄や極楽や永遠の魂や精神があるなどという観念は捨て去ろう。その後でも、この、特定の、わたしの自己ではなく、一般の自己があるのではないか。それは入れ替わり可能なのではないか。
  だが、入れ替わり可能性を否定し入れ替わり不能を強調しその不安を強化する考え方は多い。例えば、「わたしに現れるものはあなたに現れない。あたなに現れるものはわたしに現れない。わたしに現在に現れているものが存在することを私は確かめることができる。あなたに現在に現れているものが存在することを私は確かめることができない。わたしたちのそれぞれにそのとき現在に現れているものの間には超えることのできない壁がある。わたしたちのそれぞれは、わたしたちのそれぞれにそのとき現在に現れているものの中に完全に幽閉されている。そのようにわたしたちのそれぞれは完全に孤立している。だから、わたしたちは互いに入れ替わることができない」…などの観念がある。そのような観念は入れ替わり可能性を否定し入れ替わり不能性を強調し、その不安を強化する。それらの観念が錯覚に過ぎないことを示せば、自己がやがて死ぬことへの不安は減退するだろう。そのような錯覚を払拭するためには、心的現象、つまり、現れるものの概略を知っておく必要がある。

心的現象として現れるもの

  物質、物質機能、身体、身体機能、神経系、神経機能、神経細胞、神経細胞の興奮と伝達、分子、原子、原子核、中性子、陽子、電子、万有引力、静電気力、磁力…などを「ものそのもの」と呼べる。それに対して、光景、音、臭い、めまい、味、痛さ、暑さ、寒さ、動悸、息苦しさ、空腹、渇き、吐き気、イメージ、アイデア…などを「心的現象として現れるもの」、現象として現れるもの、現れるもの、心的現象、現象…などと呼べる。これらの著作はわたしに現れるもの、あなたに現れるもの、過去に現れたもの、未来に現れるであろうもの、わたしに現在に現れているもの、わたしたちのそれぞれにそのとき現在に現れているもの…などを区別する必要がある。形容詞句・節や副詞句・節で修飾されたまたは動詞の時制が変化したわたしに現在に現れているもののような言葉だけがそれらを区別できる。だから、これらの著作は現象、心的現象…などの言葉よりそのような言葉を多用することにする。また、現れるものが存在することまたは存在すると前提されることをものが「現れる」ことと呼べる。例えば、この著作の筆者の一人であるわたしには現在、パソコン、そのキーボードを打つ手、机、壁、窓…などの光景が視覚で、パソコンを打つ音が聴覚で、キーボードの感触が体性感覚で、適度な空腹が自律感覚で現れている。空間と時間を除くものはものそのものと心的現象として現れるものに完全に分けられる。つまり、それらが分けられた後に余りも重複もない。空間と時間に関する限りでそのように明確に二分されるわけではない。
  さて、ただ一つの時にただ一群のものが存在することをただ一つのものが確かめることができる。例えば、この著作の筆者の一人であるわたしには現在、パソコン、そのキーボードを打つ手、机、壁、窓…などの光景が視覚で、パソコンを打つ音が聴覚で、キーボードの感触が体性感覚で、適度な空腹が自律感覚で現れており、それらの光景、音、感覚…などが存在することをわたしは確かめることができる。ただ一つの時にただ一群のものが存在することをただ一つのものが確かめることができることにおいて、ただ一つのものを「わたし」または「自我」と呼べ、ただ一つの時を「現在」と呼べ、ただ一群のものを「わたしに現在に現れているもの」またはわたしに現在に現れている一群のものと呼べる。また、わたしに現在に現れているものが存在することをものが「わたしに現在に現れている」ことと呼べる。わたしに現在に現れているものは心的現象として現れるものに含まれる。ものがわたしに現在に現れていることはものが現れることに含まれる。わたしに現在に現れているものが存在することをわたしは確かめることができる。それに対して、わたしはそれ以外のものが存在することを確かめることができない。例えば、わたしの眼の前にはパソコンがあり、わたしはそれが存在することを確かめることができるように見える。だが、その確かめることができるものはその光景に過ぎず、わたしに現在に視覚で現れているものの一つに過ぎない。わたしが存在することを確かめることができるものはわたしに現在に現れているものだけである。
  わたしに現在に現れるものの中で、それらはある点に向かいその点を原点として現れる。例えば、両眼で視覚で現れるものに中では、対象の方向とそれへの距離と遠近感が現れ、それらは両眼の真ん中よりやや奥を原点として現れる。また、両耳で聴覚で現れるものの中でも音源の方向とそれへの距離が現れる、それらは両耳の真ん中あたりを原点として現れる。そのような原点は直接現れないが、わたしに現在に現れているものの背後に現れる。そのような原点を「わたしに現在に現れている世界の中心」と呼べる。わたしに現在に現れているものがすべてそのような点に向かって現れそのような点を原点とすることから、わたしは世界の中心であると感じざるをえない。それは自然な感じであり、決して傲慢なわけではない。そのような感じを「わたしが世界の中心である感じ」と呼べる。
  そのような世界の中心は、前述のわたしに現在に現れているものが存在することを確かめることができる唯一のものよりわたしたちが日常で「わたし」と呼んでいるものに近い。だから、わたしに現在に現れている世界の中心も「わたし」と呼べる。
  以上の

(1)存在することを確かめることができるものがわたしに現在に現れているものだけであること。
(2)わたしが世界の中心であるとわたしは感じざるをえないこと。

から、わたしは他と取って替わることも他によって取って替わられることもできないと感じざるをえない。(1)(2)も、入れ替わり不能の錯覚を促進し、自己がやがて死ぬことへの不安を増大させる。そのように心的現象として現れるものを中途半端に突き詰めるとその錯覚と不安は増大する。もっと突き詰めるとどうなるか。
  さて、それぞれの時にそれぞれの群のものが存在することをそれぞれのものが確かめることができる、または、それぞれの時にそれぞれの群のものが存在することをそれぞれのものが確かめることができると前提される。例えば、わたしとあなたが見つめ合って話をするとき、わたしに現在に視覚で現れているあなたの顔の光景、聴覚で現れているあなたの声が存在することをわたしは確かめることができ、あなたに現在に視覚で現れているわたしの顔の光景、聴覚で現れているわたしの声が存在することをあなたは確かめることができると前提される。それぞれの時にそれぞれのの群のものが存在することをそれぞれのものが確かめることができる、または、それぞれの時にそれぞれのの群のものが存在することをそれぞれのものが確かめることができると前提されることにおいて、それぞれのものを「わたしたちのそれぞれ」と呼べ、それぞれの時を「そのとき現在」と呼べ、それぞれの群のものを「わたしたちのそれぞれにそのとき現在に現れているもの」、または、わたしたちのそれぞれにそのとき現在に現れている一群のものと呼べる。わたしたちのそれぞれにそのとき現在に現れているものが存在する、または、存在すると前提されることをものが「わたしたちのそれぞれにそのとき現在に現れていること」と呼べる。わたしたちのそれぞれにそのとき現在に現れているものは、わたしに現在に現れているものを含み、心的現象として現れるものに含まれる。ものがわたしたちのそれぞれにそのとき現在に現れていることは、ものがわたしに現在に現れていることを含み、ものが現れることに含まれる。また、わたしたちのそれぞれはわたしを含み、そのとき現在は現在を含む。わたしたちのそれぞれは、わたしたちのそれぞれにそのとき現在に現れているものが存在することを確かめることができる、または、確かめることができると前提される。
  わたしたちのそれぞれにそのとき現在に現れているものについて、それがわたしに現在に現れているものである場合は前提は不要であり、それがわたしたちのそれぞれにそのとき現在に現れているものである場合はいくつかの前提が必要である。そのような前提の有無を除いて、わたしたちのそれぞれにそのとき現在に現れているものとそれに関連するものは、わたしに現在に現れているものとそれに関連するものと、全く同様である。つまり、わたしたちのそれぞれにそのとき現在に現れるものの中でそれらはある点に向かいその点を原点として現れると前提される。そのような原点を「わたしたちのそれぞれにそのとき現在に現れている世界の中心」と呼べる。わたしたちのそれぞれが世界の中心であるとわたしたちのそれぞれは感じざるをえないと前提される。そのような感じを「わたしたちのそれぞれが世界の中心である感じ」と呼べる。わたしたちのそれぞれにそのとき現在に現れている世界の中心をわたしたちのそれぞれとも呼べる。
  さて、ものそのものが存在するかを確かめることはできない。例えば、わたしには現在、パソコン、パソコンを打つわたしの手、机…などが視覚で、キーボードを打つ音が聴覚で、キーボードの感触が体性感覚で現れており、それらが存在することをわたしは確かめることができるが、それらは光景、音、感触…など、つまり、心的現象として現れるものに過ぎず、ものそのものではなく、わたしは何をしてもパソコン、キーボード…などそのものが存在するかを確かめることができない。さらに、わたしに現在に現れているものを除く心的現象として現れるものが存在するかを確かめることができない。例えば、わたしとあなたが見つめ合って話をするとき、わたしに現在に視覚で現れているあなたの顔と聴覚で現れているあなたの声が存在することをわたしは確かめることができるが、あなたに現在に視覚で現れているわたしの顔と聴覚で現れているわたしの声が存在するかをわたしは確かめることができない。
  だが、心的現象として現れるもののいくつかはものそのもののいくつかを再現していると前提され、そのようなものそものは存在すると前提される。さらに、(わたしに現在に現れているものを除く)心的現象として現れるものは、ものそのものを再現していようがそうでなかろうが、存在すると前提される。心的現象に関する限りで、幻覚や妄想や錯覚や誤解さえもそれなりに存在すると前提される。もちろん、(わたしに現在に現れているものを除く)わたしたちのそれぞれにそのとき現在に現れているものは存在すると前提される。例えば、あなたとわたしが見つめ合うとき、わたしにあなたが見えるように、あなたにわたしが見えるとわたしは思っている。
  さらに、以下は前に定義してしまったことなのだが、(わたしに現在に現れているものを除く)わたしたちのそれぞれにそのとき現在に現れているものが存在することをわたしたちのそれぞれは確かめることができる、と前提される。例えば、あなたとわたしが見つめ合うとき、わたしに現在に視覚で現れているあなたの顔が存在することをわたしが確かめることができるように、あなたに現在に視覚で現れているわたしの顔が存在することをあなたは確かめることができるとわたしは思っている。
  さらに、わたしに現在に現れているものはしばらくの間、連続して存在すると前提される。例えば、この著作の筆者の一人であるわたしには朝起きてから夜眠るまで、太陽の光を反射する街、人間を含む生物、夕日、街灯…などの光景、車の音や人間の声、この著作で書くことのイメージ…などが連続して現れていたし現れているだろうと前提される。数時間の間、連続して存在すると前提されるわたしに現在に現れるものの群を「わたしに現れるもの」、わたしに現れる一群のものと呼べる。また、わたしたちのそれぞれにそのとき現在に現れているものは同様であると前提される。数時間の間、連続して存在すると前提されるわたしたちのそれぞれにそのとき現在に現れるものの全体を「わたしたちのそれぞれに現れるもの」、わたしたちのそれぞれに現れる一群のものと呼べる。例えば、地球上の昼行性の動物に朝起きてから夜眠るまでに現れるものの全体はわたしたちのそれぞれに現れるものに含まれる。わたしに現れるものはわたしに現在に現れているものを含み、わたしたちのそれぞれに現れるものはわたしたちのそれぞれにそのとき現在に現れているものを含む。
  このパラグラフでは、わたしたちのそれぞれについて言えることは、わたしについても言える。だから、わたしについての説明は省略することにする。わたしたちのそれぞれが深睡眠に入る、または意識消失している間はわたしたちのそれぞれに現れるものは存在しないと前提される。だが、わたしたちのそれぞれに記憶がある限り、わたしたちのそれぞれに現れるものは断続すると見なせる。そのように断続すると見なせるわたしたちのそれぞれに現れるものもわたしたちのそれぞれに現れるものと呼べる。わたしに現れるものについても同様である。
  以上のように定義されてきたわたしに現在に現れるもの、わたしたちのそれぞれにそのとき現在に現れるもの、わたしに現れるもの、わたしたちのそれぞれに現れるものが(心的現象として)現れるものである。
  いずれにしても、心的現象として現れるものの中では、何も現れない時間は無である。何かが現れた第一の時間から何も現れない第二の時間を再び何かが現れる第三の時間まで一瞬で跳躍する。第二の時間は無である。その結果、第一の時間と第三の時間は連続しているように見える。例えば、突然、深い睡眠または意識消失に陥り、突然、それから覚醒したとすれば、その睡眠または意識消失の時間は一瞬と感じられるだろう。だが、ほとんどの場合、睡眠は夢または浅睡眠を含む、または、意識消失は意識の漸減漸増を伴っており、その時間をしばらくの間と感じるだろう。いずれにしてもそれは長い時間ではない。このことは自己がやがて死ぬことへの不安を減じるためには都合がよい。例えば、死んで何光年かなたの惑星の動物と入れ替わるにしても、それまでの時間は一瞬だからである。
  さらに、イメージとして現れるもの、快不快の感覚で現れるもの…などを含めて、わたしに現れるものは神経系のいくつかの部分とそれらの機能から生じると前提される。神経系は身体に含まれ、身体はものそのものに含まれる。例えば、わたしに視覚で現れるものは網膜から視神経を経て後頭葉の視覚野…などに至る神経細胞群の興奮と伝達から生じると前提される。また、皮膚、横紋筋、骨、腱…などの痛さ、暑さ、寒さ…などの体性感覚で現れるものはそれらから感覚神経、脊髄、脳幹を経て頭頂葉の体性感覚野…などに至る神経細胞群の興奮と伝達から生じると前提される。いくつかの部分がわたしに現れるものを生じると前提される神経系・神経機能を「わたしの神経系」と呼べる。また、わたしの神経系を含む個体の身体を「わたしの身体」と呼べる。
  だが、以上のことが前提された後でも、わたしはわたしの身体がわたしであると認めることはできない。それはわたしの身体のいくつかの部分から生じると前提されるわたしに現在に現れているものが存在せず、それらが存在することを確かめることができない限りは、わたしは存在しないと直感しているからである。簡単に言って、わたしは脳死が死であることを直感している。だから、私の身体とわたしに現れるものとを「わたしの自己」または「わたし」と呼べる。
  また、わたしたちのそれぞれに現れるものも同様に生じると前提される。いくつかの部分とそれらの機能がわたしたちのそれぞれに現れるものを生じると前提される神経系を「それぞれの神経系」と呼べる。また、それぞれの神経系を含む個体の身体を「それぞれの身体」と呼べる。また、それぞれの身体とわたしたちのそれぞれに現れるものを「それぞれの自己」または「わたしたちのそれぞれ」と呼べる。
  これまでは、以下のA群とB群を区別してきた。

A群
わたし、現在、わたしに現在に現れているもの、わたしに現在に現れている世界の中心、わたしが世界の中心であるとわたしは感じざるをえないこと、わたしに現れるもの、わたしの神経系、わたしの身体、わたしの自己、わたしに現在に現れているものが存在することをわたしが確かめられること

B群

わたしたちのそれぞれ、そのとき現在、わたしたちのそれぞれにそのとき現在に現れているもの、わたしたちのそれぞれにそのとき現在に現れている世界の中心、わたしたちのそれぞれが世界の中心であるとわたしたちのそれぞれは感じざるをえないと前提されること、わたしたちのそれぞれに現れるもの、それぞれの神経系、それぞれの身体、それぞれの自己、わたしたちのそれぞれにそのとき現在に現れているものが存在することをわたしたちのそれぞれが確かめられると前提されること

それらについてある意味で以下のことが言える。

わたし⊂わたしたちのそれぞれ
現在⊂そのとき現在
わたしに現在に現れているもの⊂わたしたちにそのとき現在に現れているもの
わたしにその現在に現れている世界の中心⊂わたしたちのそれぞれにそのとき現在に現れている世界の中心
わたしが世界の中心であるとわたしは感じざるをえないこと⊂わたしたちのそれぞれが世界の中心であるとわたしたちのそれぞれは感じざるをえないと前提されること
わたしに現れるもの⊂わたしたちのそれぞれに現れるもの
わたしの神経系⊂それぞれの神経系
わたしの身体⊂それぞれの身体
わたしの自己⊂それぞれの自己
わたしに現在に現れているものが存在することをわたしが確かめることができること⊂わたしたちのそれぞれにそのとき現在に現れているものが存在することをわたしたちのそれぞれが確かめることができると前提されること

だが、A群が最初は前提から解放されているのに対して、B群は最初から前提にしばられている。だが、それを除くと、A群に当てはまるものはすべてB群にも当てはまる。だから、今後はA群とB群の区別せず、B群について論じることにする。また、わたしの神経系を含むそれぞれの神経系、わたしの身体を含むそれぞれの身体、わたしの自己を含むそれぞれの自己を神経系、身体、自己とも呼ぶことにする。
  私たち人間においては、自己のイメージが生成し、自己がイメージとして現れる。だから、人間は自己について考えたり、自己がやがて死ぬことへの不安を抱いたりするのである。自己のイメージは自己の身体のイメージとわたしたちのそれぞれに現れるもののイメージから構成されざるをえない。だから、自己のイメージは図式になりえないかなり複雑なものになる。それに対して、世界のイメージは自己のイメージより早く生成しており、図式になりえ単純である。だから、自己のイメージと自己以外の世界のイメージの間には間隙が存在し、その間隙を完全に埋めることは不可能である。
  私たちの多くは自己を世界に一体化することによって自己がやがて死ぬことへの不安を乗り越えようとする。乳児期幼児期前半からの孤立によっては、自己のイメージと自己以外の世界のイメージの間の間隙が拡大することがある。すると、自己を自己以外の世界と部分的にでも一体化することが困難になり、自己がやがて死ぬことへの不安が強くなることがある。

自己がやがて死ぬことへの不安を減退させる決定的方法

  それらが心的現象として現れるものの概略である。繰り返すが、「動物は生きて、死んで、生まれて…と繰り返す。その生と死の繰り返しは、記憶をもつ動物のそれぞれが、記憶と個性の喪失を繰り返しつつ、永遠に生きること同じである。記憶をもたない動物については、その生と死の繰り返しは、個性の喪失の繰り返しだけで、永遠に生きることと同じである。つまり、わたしたちのそれぞれは、記憶と個性の喪失または個性の喪失を繰り返しつつ、入れ替わりながら永遠に生きる。地球上の生物が絶滅したとしても、無限の空間と時間をもつ宇宙では、地球上の記憶をもつまたはもたない動物と同様のものが、無限に発生し進化し、記憶と個性の喪失または個性の喪失を繰り返しつつ、入れ替わりながら永遠に生きる。以上のことを知れば、自己がやがて死ぬことへの不安は必ずなくなる」とはよく言われる。結局、それは正しい。ところがその不安はなかなか減退しない。それは何故か。以下のような入れ替わり不能の錯覚があるからである。つまり、「わたしに現れるものはあなたに現れない。あたなに現れるものはわたしに現れない。わたしに現在に現れているものが存在することを私は確かめることができる。あなたに現在に現れているものが存在することを私は確かめることができない。わたしたちのそれぞれにそのとき現在に現れているものの間には超えることのできない壁がある。わたしたちのそれぞれは、わたしたちのそれぞれにそのとき現在に現れているものの中に完全に幽閉されている。そのようにわたしたちのそれぞれは完全に孤立している。だから、わたしたちは互いに入れ替わることができない」  その入れ替わり不能の錯覚を払拭すれば、自己がやがて死ぬことへの不安は減退するだろう。では、その錯覚を払拭してみよう。

  前述のとおり、

(1)わたしに現在に現れているものが存在することを、わたしは確かめることができる。それに対して、それ以外の心的現象として現れるものが存在することを私は確かめることができない。
(2)わたしが世界の中心であるとわたしは感じざるをえない。
(3)自己のイメージと世界のイメージとの間の完全に埋めることができない間隙が私に現在に現れている。

主として(1)(2)(3)から

(4)「わたしはかけがえのない存在である」「わたしたちは互いに入れ替わることができない」というような入れ替わりの不能さをわたしは感じざるをえず、入れ替わり不能の錯覚を抱かざるをえない。

それらの(1)-(4)に対して、

(1')わたしたちのそれぞれにそのとき現在に現れているものが存在することを、わたしたちのそれぞれが確かめることができると前提される。
(2')わたしたちのそれぞれが世界の中心であるとわたしたちのそれぞれは感じざるをえないと前提される。
(3')完全に埋めることができない自己のイメージと自己以外の世界のイメージの間の間隙がわたしたちのそれぞれに現れると前提される。
(4')「わたしはかけがえのない存在である」「わたしたちは互いに入れ替わることができない」というような入れ替わりの不能さをわたしたちのそれぞれは感じざるをえず、入れ替わり不能の錯覚を抱かざるをえないと前提される。

つまり、(1)-(4)のようなことを感じたり考えたりするのは、わたしだけだなく、わたしたちのそれぞれである。わたしたち人間のすべてがそう感じたり考えたりしている。(1)-(4)のようなことは心的現象として現れるものの属性によっているに過ぎない。
  さらに、(1)-(4)のようなことは心的現象として現れるものの事情だけでなく神経系の事情にもよっている。地球上の複数の個体の複数の神経系が錯綜することは滅多にない。だから、「あなたに現れているものはわたしには現れておらず、わたしに現れているものはあなたに現れていない」というような前提がある。もしも神経系が錯綜するようなことがあれば、そのような前提は絶対的なものではなくなる。実際、二つの個体(個人)となるはずの身体が癒合し末梢神経が錯綜し、体性感覚で現れる彼らの皮膚の痛みが彼らの両方に現れたということはあった。もしも、複数の個体に属するはずの複数の中枢神経系が錯綜すれば、「あなたに視覚で現れるものがわたしに現れ、あなたに聴覚で現れるものがわたしに現れ、あなたにイメージとして現れるものがわたしに現れ、あなたに思考で現れるものがわたしに現れ…」のようなことが起こることがあると前提される。つまり、「わたしに現れるものはあなたに現れない。あたなに現れるものはわたしに現れない。わたしに現在に現れているものが存在することを私は確かめることができる。あなたに現在に現れているものが存在することを私は確かめることができない」というのは心的現象として現れるものと神経系の事情によっているに過ぎず、絶対的な前提ではない。
  それらのことを知るとき、入れ替わり不能の錯覚は払拭され、自己がやがて死ぬことへ不安は減退する。
  そもそも、天国や地獄に行く、神、精神…などこの世界を超えた永遠に見えるものと一体化する…など最初から不可能でしかも望んでもいないことを信じないほうがよい。それらは不可能であるだけでなく、わたしたちはそれらを望んでもいない。例えば、天国で永遠に幸福であるなど、私たちは退屈で耐えられず、「殺してくれ」と叫ぶだろう。また、神と一体化するなど窮屈で耐えられず、神の中で反乱を起こすだろう。そのように、それらを信じることはむしろ、自己がやがて死ぬことへの不安を助長する。また、それらはいずれは信じることができなくなり、入れ替わり不能の錯覚を助長する。
  さらに、わたしたちは死後、霊魂や精神になって互いに入れ替わるというようなことも考えないほうがよい。確かに自己がやがて死ぬことへの不安は、自己が死んだ後に無限の空間と時間があることへの不安を含む。後者が前者を決定的にするとも言える。生まれ変わるとしても、地球上の動物と同様のものが発生し進化する天体までには光年単位の空間と時間がある。霊魂や精神になってその空間と時間を移動するとして、それらが光速で移動するとしても、光年単位の時間がかかる。わたしたちはそんな時間に耐えられるだろうか。それは一種の拷問だろう。恐らくわたしたちはここでも「殺してくれ」と叫ぶだろう。
  それに対して、

(5)イメージとして現れるもの、快不快の感覚として現れるもの…などを含めて心的現象として現れるものはすべて、神経系のいくつかの部分とそれらの機能から生じると前提される。

(5)をもう少し詳しく見てみよう。
  何より、わたしたちは既に「脳死」を死と認めている。脳死とは、個体に心的現象として現れるものがなんら現れないほどに個体の神経系・神経機能が障害されることである。脳死を死と認めた時点で、すべての心的現象として現れるものが神経系のいくつかの部分とそれらの神経機能から生じることをわたしたちは認めていたのである。
  神経系と神経機能を含むそれらの属性は身体と身体機能を含むそれらの属性に含まれ、身体と身体機能を含むそれらの属性は物質と物質機能を含むそれらの属性に含まれ、物質と物質機能を含むそれらの属性はものそのものに含まれる。物質機能を含む物質の属性は力、エネルギー…などを含む。現実の世界はものそのものと空間と時間と心的現象として現れるものから構成され、それら以外のものは存在しない。だから、心的現象として現れるものとものそもものの間には何ものも介在しない。
  さらに、既に述べたとおり、

(6)心的現象として現れるものの中では、何も現れない時間は無である。何かが現れた第一の時間から再び何かが現れる第三の時間まで何も現れない第二の時間を一瞬で跳躍する。第二の時間は無であり、第一の時間と第三の時間は連続して現れる。

だから、わたしたちは自己が死んだ後に無限の時間と空間があることへの不安におののく必要も、何光年の時間を耐える必要もない。
  それらのことを知るとき、入れ替わり不能の錯覚は払拭され、自己がやがて死ぬことへの不安は減退する。結局、(1')(2')(3')(4')(5)(6)を知ることが自己がやがて死ぬことへの不安を減退させる決定的方法である。結局、「動物は生きて、死んで、生まれて…と繰り返す。その生と死の繰り返しは、記憶をもつ動物のそれぞれが、記憶と個性の喪失を繰り返しつつ、永遠に生きること同じである。記憶をもたない動物については、その生と死の繰り返しは、個性の喪失の繰り返しだけで、永遠に生きることと同じである。つまり、わたしたちのそれぞれは、記憶と個性の喪失または個性の喪失を繰り返しつつ、入れ替わりながら永遠に生きる。地球上の生物が絶滅したとしても、無限の空間と時間をもつ宇宙では、地球上の記憶をもつまたはもたない動物と同様のものが、無限に発生し進化し、記憶と個性の喪失または個性の喪失を繰り返しつつ、入れ替わりながら永遠に生きる。以上のことを知れば、自己がやがて死ぬことへの不安は必ずなくなる」というのは正しい。
  上記の説明は難しかったかもしれない。「生まれかわる」、「入れ替わる」、「~になる」…などの言葉を使って、比喩的に説明してみる。
  まず、時間的距離について、例えば、わたしが死んだ十億年後に太陽系の別の惑星で心的現象として現れるものが生じる別の動物が生まれて生きるとき、わたしの身体とその動物の身体の間には十億年の時間的距離がある。それに対して、心的現象として現れるものの中では、現れるものが存在しない時間は一瞬でしかない。それは熟睡して覚醒するようなものである。数時間の熟睡も一億年以上の熟睡も全く同じである。より正確に言うと、睡眠は夢と浅睡眠を含むから、現れるものが存在しない時間は睡眠以上に一瞬である。例えば、太陽に照らされた地球の光景が消滅するやいなや、少しばかり老いた太陽に照らされるその惑星の光景が現れている。
  次に空間的距離について、ものそのものの中では、いくつかの群のわたしたちのそれぞれに現れるものを生じると前提される身体の間には空間的距離がある。例えば、地球の正反対にいる人たちの身体の間にはその直径の空間的距離があり、動物が生まれて生きる天体の間には何光年もの空間的距離がある。だが、もし何かがそれらの間を移動する必要があるとしても、その移動時間は、時間についての上のパラグラフで説明されたとおり一瞬である。もし、それが霊魂や精神などの意識をもつものなら、問題が生じるが、それらの存在も以前に否定された。例えば、私が夜、太陽を除くいくつかの星を見るとき、それらの星のいくつかのいくつかの惑星の視覚をもつ動物が太陽を含みえる星を見ている。わたしが突然、死んだとすれば、わたしは太陽を含みえるいくつかの星を見ている。
  それらのように、心的現象として現れるものの中ではものそのものの中で存在するような空間的時間的距離は存在しない。簡単に言って、あなたとわたしが何光年離れていようが何センチメートル離れていようが、わたしが死ぬや否や、わたしはあなたになり、あなたが死ぬや否やあなたはわたしになる。
  以下のような疑問をもつ人もいるだろう。人間が人間に生まれ変わる保証はないと。そのとおり。わたしたちは豚や蛇や虫にも生まれ変わるだろう。わたしたちは感覚をもつだけでは満足しない。記憶、感情、欲求、自我、思考…などをもちたい、人間でありたい。だが、感覚をもつ動物とそれらの自然とそれらが進化するための自然が存在し機能する限り、感覚をもつ動物が前述のような機能をもち人間と同様の動物に必ず進化する。感覚だけをもつ動物においては自己のイメージを欠き、それらの動物である時間は夢または浅睡眠のようなものである。だから、動物が生まれて死んで生まれて…と繰り返すことは、それらが記憶と個性の喪失と睡眠を繰り返しながら永遠に生きることに等しい。
  それらのことを知るとき、入れ替わり不能の錯覚は払拭され、自己がやがて死ぬことへの不安は減退する。それらのことを知ることがその不安を減退させる決定的方法である。その不安を超えて死んでいった人々はそれらを日常で直感的に知っていたと考えられる。そのように、宗教によらずに、つまり、現実の世界を超越するものを想定せずにその不安を超越することは可能である。
  比喩的ではあるが、それらのことを表すのに「(再び)生まれて(再び)生きること」「(地球を超える)生と死の限りない繰り返し」「(わたしたちが)(互いに)入れ替わること」「~になること」のような言葉を用いることにする。

甘受する必要があるのは記憶と個性の喪失だけである

  前節で説明したようにして、自己がやがて死ぬことへの不安を減退させるとき、わたしたちたちが甘受する必要があるのは記憶と個性の喪失だけであることが分かってくる。わたしたちはそれ以外のものは乗り越えられる。
  個性について簡単に説明しておく。個体において後天的に形成される知性、知識、意識的機能の能力、感情、欲求などの精神的情動の傾向と自我の傾向を個体の「個性」と呼べる。それらの詳細は『感覚とイメージの想起』『自我と自我の傾向』で説明される。
  確かにわたしたちが甘受する必要があるのは記憶と個性の喪失だけである。くだらぬ記憶や個性など捨て去ってゼロから記憶や個性を形成し、やり直しすほうがよいのかもしれない。だが、やはりそのような記憶や個性が失われるのはもったいないような気もする。
  人間社会において、個人は他の個人に言語や人工物によって、個人の記憶と個性を話し言葉、書き言葉、人工物、インターネット…などの「媒介」によって伝える。そのような媒介は個人が死んでも残ることがある。例えば、親が死んだ後、親が言ったことのいくつかは思い出される。また、故人の手記や手紙を読むこともある。また、亡くなった作家や芸術家の作品を読んだり見たりすることもあるだろう。また、亡くなった科学者の専門書を読むこともあるだろう。そのように、個人の記憶と個性は媒介によって少しは世代を超える。そのようにして人間社会は個人の記憶と個性の喪失を乗り越えてきたとも言える。だが、大衆のほとんどの記憶と個性は歴史の中で忘却される。
  対人関係においては、自己の死も他の個人の死も特定の個人とのとの完全な離別である。限りない生と死の繰り返しの中ではわたしたちのそれぞれは限りない個人と出会う。だが、死後はわたしたちのそれぞれはあれやこれやの特定の個人と出会うことは決してない。愛している人がいないなら、未知の個人との出会いを期待するだろう。愛する人がいるなら、私の死、つまりそれらの人々との別れは苦痛だろう。他の人間が死ぬことも完全な離別である。死んだ人間は他の人間に生まれ変わって楽しく生きているかもしれない。だが、残された者にとっては、完全な離別は苦痛である。故人との離別を率直に悲しもう。
  何より、この人生において、苦痛を減らし、快楽を増大または維持して、健康で長生きしたい。家族や友人もそうあって欲しい。また、他人や社会から生き方や死に方を押しつけられることなく、思いのままに生きたい、死にたい、家族や友と何でも語り合いたい。それらが最もよくある日常的な欲求だろう。そのような欲求を満たすことが結局は自由権の擁護と社会権の保障である。

人間が生じる不必要で執拗で大規模な苦痛をできる限り全般的に減退させ地球や太陽の激変と自然な終焉のときまで人間または進化した人間を含む生物の生存を確保するという欲求と目的

  もちろん、人間を含む動物は快楽だけでなく不快をもつ。「不快」という言葉より「苦痛」という言葉のほうが日常でよく使われている。わたしたち人間は疼痛、暑さ、寒さ…動悸、息苦しさ…飢え、渇き…などの身体的苦痛だけでなく恐怖、不安、悲哀、寂しさ…などの精神的苦痛ももつ。快楽より苦痛のほうが多いと思う人は多く、苦痛ばかりだと思う人もいる。
  苦痛のいくつかは人間を含む動物の遺伝子と個体と集団と種が生存し進化するために必要である。例えば、皮膚の痛みは外傷が深部の重要な臓器に至り致命的となることを防ぎ、遺伝子と個人や個体の生存をより確実にする。また、不安、恐怖…などの精神的苦痛は危険を事前に察知させ回避させ、遺伝子と個人や個体の生存をより確実にする。また、性的欲動の不満は遺伝子と集団と種の生存をより確実にする。また、動物における生存競争は苦痛を伴うが、その苦痛は人間を含む動物の種が進化し生存するために必要である。
  それに対して、人間は遺伝子や個人や集団や種の生存のためにも進化のためにも、個人の自由のためにも必要のない苦痛を生じる。仮に独裁制における弾圧、戦争、全体破壊手段の開発、保持、使用、拷問、残虐な刑罰…などが必要だとしても、それらから生じる執拗な苦痛は必要ない。しかも、それらのいくつかは何百万人の大規模な苦痛を生じる。そのように人間は不必要で執拗で大規模な苦痛を生じる。そこで、人間が生じる不必要で執拗で大規模な苦痛をできる限り全般的に減退させるという欲求と目的が生じてくる。
  もちろん、わたしたちのそれぞれは地球だけでなく限りない空間と時間をもつ宇宙で生と死の繰り返しつつ生きるのであって、地球で生まれて生きるのはごく稀である。だが、例え稀であっても、人間が生じる不必要で執拗な苦痛を誰も味わいたくはないだろう。
  自己がやがて死ぬことへの不安は人間がもつ最強の苦痛である。その苦痛は前節で説明したようにして減退する。だが、その不安が減退するやいなや、まさしく限りない生と死の繰り返しの中で限りない苦痛があることをわたしたちは知る。それを知ることも不安、恐怖のような強烈な苦痛を生じる。そのような苦痛はやがて死ぬことへの不安に劣らないかもしれない。わたしたちにできることは人間が生じる不必要な苦痛をできる限り全般的に減退させることだけである。
  また、人間が生じる不必要で執拗で大規模な苦痛の中では、それを消滅させるために、現実の世界から超越したいとも思ってしまう。だが、現実の世界を超越したものは存在しない。何より、このような苦痛の中では、「現実の世界も現実を超越した世界も何も要らない。無になりたい」と思ってしまう。だが、限りない生と死の繰り返しがあるだけであり、現実世界を超越することも、無になることも、不可能である。そのような繰り返しは人間を含む動物の宿命である。とすれば、人間が生じる不必要で執拗で大規模な苦痛をできる限り全般的に減退させるしかない。例えば、奴隷制では、主人が奴隷に生まれることはあるのだから、奴隷だけでなく主人も奴隷制を廃止しておく必要があり、専制では、迫害するものが迫害される人々に生まれることはあるのだから、後者だけでなく前者も専制を抑制しておく必要がある。そもそも、人間が動物に生まれることはあるのだから、人間が生じるが人間にとって不可欠でない動物の苦痛をゼロにしておく必要がある。
  人間が生じる不必要で執拗で大規模な苦痛をこの地球においてできる限り全般的に減退させることができたとして、前述の生と死の繰り返しの中で生まれかわるとすれば、人間は何を望むだろうか。多くの人間が地球で人間に生まれかわりたいと思うだろう。その願望は一概に不自然なものではない。人間は自己のイメージをもち、記憶、知覚、連想、感情、欲求、自我、思考をもっている。それらをもつことの喜びはもったことがあるものにしか分からない。それは人間が野生の動物の喜びを分からないのと同じである。だから、その願望は一概に不自然なものではない。
  もちろん、人間は人間以外の動物にも生まれ変わる。それどころか地球外の動物にも生まれ変わる。だが、人間が長く生存するほど、人間に生まれ変わる可能性はわずかにでも大きくなる。だからその願望は一概に非現実的な願望ではない。
  また、生物は進化する。人間も進化する。人間が進化することに抵抗する人間はあまりいないだろう。
  また、その願望は一概に傲慢ではない。人間が生存するためには、人間は環境を保全し資源を保全しつつ有効利用しなければならない。そのような環境と資源は多様な動物、植物、微生物を含む。そのように人間の生存は多様な動物、植物、微生物の生存を伴う。その願望を実現するためにはそれらの生存を保障する必要がある。
  だが、人間を含めていかなるものも地球や太陽の激変と自然な終焉をとめることはできない。また、人間が地球外の宇宙で生き延びることができるとしても、それはほんの一部の人間に過ぎない。また、前述のとおり、それらの人間は地球の人間と異なる方向に進化するのであって、それを地球の人間や生物の生存と見なすことはできない。
  人間または進化した人間が地球や太陽の激変と自然な終焉まで生存することは全く不可能ではない。また、前述のとおり、ほとんどの人間は人間に生まれ変わりたいと思っている。人間が長く生存するほど、人間に生まれ変わる可能性はわずかにでも大きくなる。そこで、人間が生じる不必要で執拗で大規模な苦痛をできる限り全般的に減退させ地球や太陽の激変と自然な終焉のときまで人間または進化した人間を含む生物の生存を確保するという欲求と目的が現れてくる。
  その欲求・目的が満たされ実現する場は地球に限られている。だから、その欲求・目的を満たし実現することは全く不可能なわけではない。だから、その欲求と目的を「(世代を超えて実現可能な)究極の欲求(・目的)」とも呼べる。後述するようにして全体破壊手段を全廃し予防し権力を民主化し分立することによって、その究極の欲求を満たすことは可能である。
  そのような欲求は、限りない生と死の繰り返しの中でわたしたちのそれぞれが永遠に苦しむことへの不安という苦痛を減じる、人間として生まれたい…などの個人の情動と自我だけから生じている。だから、そのような欲求を「究極のエゴイズム」とも呼べる。現実の世界を超越した宗教、価値、倫理…などは必要ない。
  究極の欲求は、現在の市民の自我と情動に根差しているから、その欲求は権利にもなりえ、「全般的生存権」とも呼べる。だが、全体破壊手段の使用が地上の人間を絶滅させるとしてみよう。それは、数十億人、数百億人の生命、身体の自由という自由権の侵害でもあり、それだけの人間の最低限度の生活の維持という社会権の保障を怠っていることでもある。そもそも、地球や太陽の激変のときまで人間または進化した人間が生存し、それらの苦痛を減退させるためには、何百億、何千億人の人間の最低限度の生活と健康を維持し、世界大戦、虐殺…などを防ぐ必要がある。前者は社会権の保障に含まれ、後者は自由権の擁護に含まれる。だから、究極の欲求は自由権と社会権に既に含まれており、全般的生存権を確立しなければ、究極の欲求は満たされないということは全くない。
  苦痛に対して、快楽はわたしたちのそれぞれ、つまり、個人が自由に追求すればよく、自由に追求する必要がある。何故なら、他から強制された快楽は快楽ではないからである。また、快楽を自由に追求すること自体が快楽であり、自由そのものが快楽だからである。また、従来の宗教や倫理に縛られていたら、そのような欲求と目的に到達できなかっただろう。思想と言論の自由によってこそ、そのような欲求と目的に到達できる。
  以上のように従来の宗教や倫理がなくても、人間の情動と自我と自由だけに基づいて、人間が生じる不必要で執拗で大規模な苦痛をできる限り全般的に減退させ地球や太陽の激変と自然な終焉のときまで人間または進化した人間を含む生物の生存を確保するという欲求と目的が生じることは可能である。

全体破壊手段

  全体破壊手段の定義を含む詳細については『生存と自由の詳細』で説明される。ここではそれをごく簡単に定義する。人間が、地球上の、人間を含む感覚をもつ動物を絶滅させることを「全体破壊」と呼べ、人間の開発製造と使用の仕方次第で全体破壊を生じる可能性がわずかにでもある兵器を含む手段を「全体破壊手段」と呼べる。全体破壊手段は、核兵器、不変遺伝子手段、軌道を変えるような小惑星操作から成る。
  ただ一発だけで絶滅を生じる手段はほとんどない。全体破壊手段は、報復の連鎖や同時多発テロのような場合に、その多数が絶滅を生じうる手段を含む。また、その副産物が間接的に絶滅を生じうる手段を含む。例えば、核兵器が残す残留放射能は発ガンや不妊を生じ、絶滅を生じうる。
  定義が「感覚をもつ」という言葉を含んでいたのは以下の理由による。感覚がなければ快も苦痛もなく、自己がやがて死ぬことへの不安も人間が生じる不必要で執拗で大規模な苦痛をできる限り全般的に減退させるという欲求もなく、生存も自由も問題にならない。
  定義が「地上の」という言葉を含んでいたのは以下の理由による。例えば、全体破壊手段の使用の直前に一部の人間が地下や海底のシェルターや宇宙の人工衛星に退避し、地上に向けて全体破壊手段を使用し、地上の人間を絶滅させてから地上に戻ることはありえる。わたしたちのほとんどはそのようなことを人間や生物の生存と認めないだろう。仮に一部の人間が太陽系の惑星や衛星や他の系の天体に退避して何万世代も生存するとしても、それらの人間は地球上の人間とは別の方向に進化する。
  核兵器について、人間が誘発する原子核の変化を含む兵器を「核兵器」と呼べる。報復の連鎖の中で核兵器の多くが多くの地域で使用されれば、直接的かつ前述のような副産物によって間接的に絶滅を生じうる。だから、核兵器は全体破壊手段である。
  軌道を変えるような小惑星操作が全体破壊手段であることは意外だったと思う。以下のように言えば理解されるだろう。人間が惑星や衛星を操作しても軌道を変えてしまうことはない。だが、小惑星なら軌道を変えてしまい地球に衝突または接近させ地球に致命的な打撃を与えるか地球の軌道を変えるかもしれない。科学者や政治家や経営者はそんな確率は百万分の一以下だと言うかもしれない。だが、たとえ百万分の一であっても、ゼロではない以上はそのような操作は全体破壊手段である。だが、実際は百万分の一ではなく、人間の創意工夫と悪意や狂気によっては百分の一になることは確実である。さらに誰かが言うかもしれない。「その創意工夫は別として、そんな悪意や狂気をもつ人間は百万人に一人だ」と。それに対してはこう言える。「その百万人に一人で十分だ。仮に十億人に一人だったとしても、十分だ。誰もそんな人間はいないとは言えないだろう」と。
  不変遺伝子手段についてはもう少し詳しく説明する。遺伝子の本体は五種類の塩基とそれを繋ぐ鎖から成る。塩基の順列、つまり「塩基配列」が生物の構造と機能の多くを決定する。塩基配列は自然的な条件下でも変化することがある。それが「突然変異」である。遺伝子が突然変異を起こした生物のうち環境に適応できた一握りの生物だけが生存し「進化」する。それが「自然淘汰」である。人間が遺伝子を操作するにしても、遺伝子の塩基配列を変えるだけなら、それは突然変異に等しく、それを含む生物や手段は従来の生物に等しく自然淘汰される。それに対して、人間が遺伝子の塩基配列以外のものを変えた場合、どうなるか。突然変異を被らない可能性がある。人間の操作によって遺伝子の塩基配列以外のものを変えられた、または、突然変異を被ることが確実でない遺伝子まがいのものを「不変遺伝子」と呼べる。不変遺伝子を含む生物まがいのものや手段を「不変遺伝子手段」と呼ぶ。遺伝子の塩基配列以外のものが変化した、または、突然変異を被ることが確実でない不変遺伝子を含む不変遺伝子手段がどのように振る舞うかは計り知れない。だが、その可能性を挙げてみる。

(1)自然淘汰されない可能性があるから、無際限に増殖し、人間を含む生物を駆逐する可能性がある。地球上の有機物を消費してしまう可能性さえある。
(2)従来の病原体より軽量でありえるから、より広く速やかに生物に感染する。
(3)従来の生物が含まない物質を含みえるから、免疫系によってブロックされない可能性がある。
(4)従来の生物が含まない物質を含みえるから、従来の抗生剤や消毒薬で不活化されない可能性がある。
(5)それらの遺伝子は突然変異を起こさない可能性があるから、個体においても従来の病原体より長期に渡って広く毒性を発揮するまたは潜伏する。だから、従来の病原体が破壊しなかったもの、例えば、神経系の免疫細胞や造血幹細胞を破壊する可能性さえある。

それらは不変遺伝子手段の一握りの可能性に過ぎないだろう。だが、(1)-(5)に基づくだけでも、不変遺伝子手段は全体破壊を生じる可能性があり、全体破壊手段である。
  十分な注意が払われなければならないのは以下のことである。全体破壊手段が使用されたほとんどの場合、地上の人間はすぐに死滅するわけではなく、数年から数十年苦しんで死ぬ。皆がすぐに楽に死ねるなどというものでは全くない。例えば、放射線は遺伝子を重点的に破壊する。女性も男性も子供を作れない体になる。障害された器官と組織はほとんど回復しない。数年後から十数年後には一個体においてもガンが多発する。早期発見早期手術や遺伝子治療は間に合わない。人々は、子供を作れないことへの絶望、回復しない器官や組織の痛み、発ガンへの不安で苦しむ。ガンが多発して進行した後は強烈なガン性疼痛で苦しんで死ぬ。また、不変遺伝子手段のいくつかはそれぞれの個体の免疫機能を致命的なほどに低下させる。様々な種類の伝統的な感染症が蔓延する。抗生剤は間に合わない。人々はそれらが生じる現代では稀な苦痛を経験して死ぬ。
  だから、生存を確保するためだけでなく、人間が生じる不必要で執拗で大規模な苦痛を減退させたいという欲求と目的を満たし実現するためにも、人間はまず全体破壊手段を全廃し予防する必要がある。
  ところで、意外なことも分かってくる。例えば、環境の破壊と資源の消耗を抑制するためには、企業の活動だけでなく一般の市民の日常的な欲求が部分的にせよ制限されざるをえない。それに対して、全体破壊手段の全廃予防は、一般市民の日常的な欲求と自由をなんら制限しない。全体破壊手段が全廃されたところで、今まで地下や海底や宇宙に隠されてたものが消滅するだけで、市民はその消滅に気づくことさえない。軍事費の減少と税金の軽減によって日常生活が楽になるだけである。困るのはいわゆる軍産複合体だけである。
  後に詳述するが、人間以外の生物の種は、繁栄すれば、その繁栄によって自らの自然を破壊する。その破壊によってその種は衰退または絶滅する。その衰退によって自らの自然は復活しその種は復活する。その絶滅によって他の種は復活する。それらを「繁栄と衰退のサイクル」と呼べる。わたしたち人間はそのサイクルを逸脱している。何故なら、全体破壊手段が地球の全体で生物を短時間で破壊し、それらの復活の余地を残さないからである。
  だから、人間は地球や太陽の激変と自然な終焉以前に人間を含む生物を絶滅させる可能性をもつ。人間を含む生物が自然な終焉のときまで生存するためには、人間が全体破壊手段、つまり、核兵器と不変遺伝子手段と軌道を変えるような小惑星操作を全廃し予防する必要がある。
  異星人の襲来が地球上の人間を含む生物を滅亡させるなどというのはSFに過ぎない。仮にその可能性があるとしても、その可能性はわたしたち人間が人間を含む生物を絶滅させる可能性よりはるかに小さい。また、人間が小惑星操作をやめても、何らかの天体が地球に激突することはわずかにでもあるかもしれない。だが、それは地球または太陽の激変と自然な終焉に含まれる。人間は異星人の来襲や地球や太陽の激変と自然な終焉に対処する必要はなく、自身と自身の手段を処理していればよい。簡単に言って、人間は自身にかまっていればよい。

繁栄と衰退のサイクルからの逸脱

  人間以外の生物の種は、繁栄し人口が増大すれば、自らの自然と他のいくつかの種とそれらの自然を破壊する。すると、自らの自然の破壊によってその種は衰退または絶滅する。一方でその衰退によって自らの自然は復活しその種も復活し、人口はゼロにならない。他方でその絶滅によってそれらの他の種は復活する。それらを「繁栄と衰退のサイクル」と呼べる。このサイクルも壮大な試行錯誤でもある。このサイクルは同種または異種の一握りの生物の生き残りと復活を前提とする。この前提を忘れないで頂きたい。
  人間はそのサイクルを逸脱しているように見える。だが、人間の機能と手段のすべてがそのサイクルを逸脱しているわけではない。例えば、工業は環境を破壊し資源を消耗させてきた。人間がそのような工業を抑制または改善しなければ、環境の破壊と資源の消耗が過度に進み、人間自体が衰退せざるをえず、工業も衰退する。すると、環境と資源は復活する。すると、人間も工業も復活する。だから、工業は繁栄と衰退のサイクルを逸脱していない。工業は大量破壊手段ではあるが全体破壊手段ではない。
  それに対して、全体破壊手段は繁栄と衰退のサイクルと試行錯誤を逸脱している。それは全体破壊手段が前述のような生き残りと復活と再試行の余地を残さないからである。全体破壊手段が使用され地上の人間のほとんどが死滅したとして、生き残った人間が何らかの「サイクル」や「復活」や「試行錯誤」という言葉を使うことはないだろう。全体破壊手段に関する限りで、繁栄と衰退のサイクルを含む試行錯誤の決定的限界がある。全体破壊手段を繁栄と衰退のサイクルを逸脱した手段とも定義できる。

大量破壊手段

  大量破壊手段を全体破壊手段ほど明確に定義する必要はないだろう。だが、全体破壊手段とそれ以外の大量破壊手段は明確に区別される必要がある。だが、「全体破壊手段を除く大量破壊手段」のような言葉を逐次、使用していると、文章が煩雑になる。だから、これらの著作では大量破壊手段という言葉は全体破壊手段を除くものを指すことにする。
  (全体破壊手段を除く)大量破壊手段としてはまず、従来型兵器、自然破壊と資源の消耗を伴う従来の産業、原子力発電所などの核兵器を除く原子核手段、不変遺伝子手段を除く遺伝子組み換え作物、遺伝子治療などの遺伝子手段が挙げられる。だが、それらは比較的小さな間接性をもって大量破壊を生じえる大量破壊手段である。間接的には、従来型の戦争と虐殺も大量破壊手段である。さらに間接的には私たちの生活自体が大量破壊手段であり、それは世界人口として数値化され重大視されている。
  今日、世界人口の増大が人間の絶滅をもたらすと一般によく言われる。もしそうだとしても、それはかなり間接的にである。その間接性の詳細を見てみよう。人口の増大が環境の悪化と食糧と水を含む資源の消耗を来し、人間を餓死させるとしても、一部の人間は生き残り、人口減少によって環境と資源は復活し、人間も復活し絶滅しない。人口の増大が過密を来たしパンデミックを生じるとしても、一部の人間は生き残り復活し絶滅しない。食糧争奪戦が熾烈になり、世界大戦をもたらすとしても、全体破壊手段が使用されない限り、一部の人間は生き残り復活し絶滅しない。つまり、それらは繁栄と衰退のサイクルを逸脱していない。それらは大量破壊手段であって全体破壊手段ではない。それに対して、なんらかの戦争の中で全体破壊手段が使用されれば、全体破壊が生じえ、人間は絶滅しえる。
  だが、全体破壊手段も大量破壊手段も不必要で執拗で大規模な苦痛を生じることに変わりはない。だが、以下のことも指摘しておかなければならない。
  全体破壊手段の廃止と予防は大量破壊手段の廃止と予防よりはるかに困難である。二十世紀中ごろに全体破壊手段の一種に過ぎない核兵器が開発、保持されたとき、わたしたちは既にその廃止を諦めていた。それに対して、二十世紀後半に地球規模の環境破壊が明らかになったとき、わたしたちは既にその保全に取り組み始めていた。
  そこで、以下のようなことが起こりえる。(1)環境の保全、(2)資源の保全と有効利用、(3)人口の抑制のためには(4)経済は制限され逼迫し、(5)わたしたちの日常生活は制限され逼迫する。(1)(2)(3)は全体破壊手段の廃止と比較すれば容易であり、ある程度は進むだろう。さらに、(1)(2)(3)を進めつつ、(4)(5)による苦痛を減退させることも可能でありある程度、進むだろう。他方で、(6)全体破壊手段の全廃と予防は依然、困難であり、わたしたちは(6')全体破壊手段の使用による自己と家族と友人を含む人間の絶滅への不安と恐怖におののかなければならない。つまり、大量破壊手段は廃止または削減できるが、全体破壊手段は廃止できない。つまり、わたしたちは(1)(2)(3)に奮闘し(4)(5)による苦痛を減退させながら、(6')の苦痛を減退させることができず、実際に全体破壊手段が使用された場合は前述のような苦痛の中で絶滅する。これは人間がかかえる最大の矛盾であり、諦念と虚無感という苦痛である。わたしたちはそのような矛盾と苦痛に耐えられるのか。

不必要で執拗で大規模な苦痛を生じるものは何か

  もちろん、不必要で執拗で大規模な苦痛を生じるものは人間である。また、それを直接的に生じるものは全体破壊手段と大量破壊手段である。では、それらを間接的に生じるものは何か。一般市民なのか、道具なのか手段なのか、思想、宗教を含む文化なのか、科学者技術者なのか、科学技術なのか、手段なのか、権力なのか、権力の保持者なのか、政治的権力なのか、経済的権力なのか、社会的権力なのか、制度や法なのか、政治制度なのか、経済体制なのか、社会制度なのか。もちろん、それらのすべてである。では、それらのどれが優勢で優先して変える必要があるのか。

自由権、社会権、権力

  自由権、社会権、権力の詳細は『それぞれの国家権力を自由権を擁護する法の支配系と社会権を保障する人の支配系に分立すること』で説明される。この著作ではそれらについて簡単に説明する。
  「自由権」は個人が自由に意識的機能を生じる権利であり、公権力の介入を排除する権利である。だが、自由権は他の個人や集団の暴力、威嚇、欺瞞…などによって侵害されうる。自由権はそれらに対してのみ公権力が対処することを要求する権利でもある。自由権は一方で他の個人や集団の権利のために明確な条件の下に制限されざるをえないものと、他方で誰のためにもいかなるもののためにも制限されてはならず制限される必要がないものとに区別できる。前者は私有財産の自由、契約の自由を含み、後者は生命の自由、思想、信仰の自由、公権力とその保持者に係る言論、表現の自由を含む。
  それに対して、「社会権」、または「広義の生存権」は、個人や小さな集団の力によっては実現することが不可能または困難な個人と集団の存在と機能に対して、公権力が機能することを要求する権利である。現代では、環境の保全、資源の保全と有効利用、適正人口の維持、経済のの成長または安定化、市民の最低限度の生活の維持、健康と福祉の増進、子供たちへの最低限度の教育の提供…などが社会権の保障に含まれる。結局、人間を含む生物の生存の保障と社会権の保障は同じである。
  自由権の擁護と社会権の保障の区別について例を一つ挙げる。命を救うことでさえも自由権の擁護か、社会権の保障かのいずれかでありえる。個人の生命が、他の個人や集団の暴力によって侵されかけており、行政権がその暴力を抑えることによって個人の生命が救われるとき、そのような生命を救うことは自由権、より詳細には生命身体の自由の擁護である。それに対して、いくつかの家族の生命が、食糧と水の欠乏によって危うい状態にあり、行政権がそれらを供給することによって生命が救われるとき、そのような命を救うことは社会権、より詳細には狭義の生存権の保障である。
  他の個人または集団のそれらを直接的または間接的に破壊または抑制または促進する能力をもつ人間の個人または集団の存在または機能または手段を「権力」と呼べる。権力は手段を含み、物理的な力だけでなく、カネ、人間関係における影響力…などを含む。また、他の個人または集団のそれらを直接的物理的に破壊または抑制する能力をもつ権力を「武力」と呼べる。武力は権力に含まれる。いくつかの権力は自由権を侵害する能力をもつ。武力は自由権を直接的物理的に侵害する能力をもつ。
  だが、いくつかの権力は、自由権を侵害する能力をもつだけでなく、権自由権を侵害する権力を抑制することによって自由権を擁護する能力をもつ。武力は、自由権を侵害する能力をもつだけでなく、他のいくつかの権力が自由権を侵害することを抑制することによって直接的物理的に自由権を擁護する能力をもつ。例えば、武力は暴力が生命、身体の自由を侵害することを抑制することによってをそれらを擁護する可能性をもつ。
  さらに、いくつかの権力が自由権を侵害または擁護する能力をもつだけでなく、他のいくつかの権力は社会権を保障する能力をもつ。例えば、行政権は上下水道などのサービスを提供することによって市民の健康を増進する能力をもつ。
  また、いくつかの権力が人間の自由権または社会権を侵害または擁護または保障するだけでなく、他のいくつかの権力は他の生物と自然を破壊または保全する能力をもつ。例えば、行政権は、公共事業を乱発することによって自然を破壊し、自然破壊を規制することによって自然を保全する能力をもつ。また、武力は人間だけでなく他の生物を直接的物理的に殺傷する能力をもつ。
  少なくとも自由権と社会権を擁護または保障するために存在、機能する必要がある権力を「公権力」と呼べる。公権力は国家権力、立法権、行政権、司法権、地方自治体、軍、警察、検察を含む。また、人間の自由権を擁護または保障するために存在、機能する必要がある武力を「公的武力」と呼べる。また、少なくとも立法権、行政権、司法権、公的武力を含む公権力の複合体を「国家権力」と呼べる。また、国家権力、それが管理を主張する一定の領域、それが少なくとも自由権と社会権を擁護または保障するべきその領域に存在し機能する個人と集団、彼らが形成する政治、経済、社会、文化、その領域の中の他の生物を含む自然を「国家」、「国」…などと呼べる。この著作では通常、国家という言葉を用いることにする。
  国家権力を含む公的権力以外の権力を「私的権力」と呼べる。カネ、資本、信用…企業、会社…などを「経済的権力」と呼ぶことにする。そのほとんどは私的権力だが、公共企業もあり、中間もある。また、公的権力や国家権力を獲得するための私的権力があることは認めざるをえない。そのような私的権力は、むきだしの権力闘争を勝つための武力、選挙に勝つための資金や人脈、世論を操作するための手段を含みえる。公的権力と公的権力を獲得するための私的権力を「政治的権力」または政治権力と呼べる。政治的権力と経済的権力は連携し、癒着・汚職、全体破壊手段または大量破壊手段の開発・製造を含む軍拡、戦争、弾圧、独裁…などを生じる傾向にある。また、権力を保持し権力を振るうことができる個人または集団を「権力者」と呼べる。

政治的権力と経済的権力の連携

  経済的権力の利潤追求そのものは大きな問題にならない。また、独占・寡占がなく自由競争が無傷なら、資本主義経済や市場経済は大きな問題にならない。大きな問題になるのは政治的権力と経済的権力の連携である。「癒着」「汚職」のレベルまでいかなくても問題になることがある。いずれにしても、連携という言葉は癒着、汚職を含むことにする。既に十九世紀頃からそのような連携によって、政治的権力の実質的な独裁は進み、経済的権力の独占、寡占は進む。「軍官学産複合体」が拡大し強化される。
  千年代末期と二千代初頭の超大国と大国のいくつかは民主的であり、いくつかは非民主的と見なされている。だが、非民主的なものだけでなく民主的と見なされていたものも全体破壊手段の開発、製造、保持、使用、第三次世界大戦、地上の人類の絶滅へと突き進んでいくかもしれない。それはそれらが、自由と民主主義の覆いの下で、政治的権力の独裁は目立たなくても、以下の(1)-(5)が進むからである。

(1)政治的権力と経済的権力の癒着や汚職すれすれの連携
(2)または暴露困難な癒着や汚職
(3)経済的権力の独占、寡占
(4)軍官学産複合体の拡大
(5)軍官学産複合体による軍備拡張、特に全体破壊手段の開発、製造

この(1)-(5)は独裁的な国家においてだけでなく一見したところ民主的な国家においても暗部で進行し、軍官学産複合体はひとりでに拡大し、必要、不必要に係らず全体破壊手段を生産し続ける。だから(1)-(5)はやっかいなのである。結局、独裁制と従来の自由主義と民主主義を含めて従来の政治制度の下では、(1)-(5)はなくならない。
  後述するとおり、国家権力を自由権を擁護する法の支配系(L系)と社会権を保障する人の支配系(S系)に分立するとき、軍官学産複合体の軍官の部分はL系に属し、学産の部分はS系の下にあり、軍官学産複合体は解消する。さらにその分立によって一般の政治的権力と経済的権力の連携をさらに厳しく抑制できる。公私の経済的権力に特許や営業等の許可や助成金を与えるのはS系に属するべき部門である。それらの部門が経済的権力との連携、癒着、汚職の温床だった。それらの癒着と汚職を捜査し司法権に告訴するのはL系に属するべき警察、検察である。だが、従来はそれらの部門と警察と検察も連携していた。国家権力がL系とS系に分立されているとき、L系に属する警察、検察はS系に属するそれらの部門の癒着と汚職をより厳格に捜査し告訴することができ、政治的権力と経済的権力の癒着、汚職が予防される。

余裕の経済学

  権力を握った人間は、独裁や独占に走るために、自由権、民主制…などを制限する名目を誇示したがる。今後はその名目がますます、環境の保全、資源の保全と有効利用、適正人口の維持、経済の成長または安定化、市民の最低限度の生活の維持となってくるだろう。その名目に切迫感をもたせるために、権力者は環境は悪化し資源は消耗し人口は地球で維持できるギリギリのものを既に超えており、経済と生活は逼迫しており、それらに余裕はないと見せかけるだろう。それに対抗するために以下のような「余裕の経済学」が誕生する。
  例えば、十九世紀終わりから1970年頃までは銀粒子を最初はガラス板に次いでフィルムに定着させる技術によって、写真、映画…などの視覚的芸術が開花した。その後、銀という限りある資源の枯渇の見通しによって、銀を利用する視覚的芸術は自主規制せざるをえないか規制されるのではないかという危惧が生じた。ところが、半導体や受光素子を用いる写真、動画の技術が開発され、その危惧はなくなった。ところが、それらの原料も限りある資源である。電波と紙も限りある資源であると政治的経済的権力は主張するかもしれない。だが、それは放送局や出版社への言論統制への名目でありえる。電波は、混雑による障害はありえるが、限りある資源ではない。紙の主原料は樹木であり、樹木は限りある資源ではなく再生可能な資源である。紙は限られた資源ではなく再生可能にして循環可能な資源である。ちなみに、食糧資源は再生可能な資源である。
  限りある資源については、現在の地球にどれだけ余裕があり、現在の使用の質と量に対して将来にどれだけ余裕があるか、循環再生可能な資源については、現在にどれだけ余裕があり、現在の使用の質と量と循環と再生のペースに対して、将来にどれだけ余裕があるかが探られ公開される必要がある。
  一般の企業について、残り少ない資源の購入費用がいかに上昇するかは伝統的な経済学に基づいて予想できる。企業はそれらの公開に基づいて資源の余裕をその企業なりにとらえ直し、余裕の大きい資源を使用する事業に進出する必要がある。そのほうが将来のためである。
  局所的な環境破壊について、プラスチック、放射性物質…などの有機化学的に合成されたまたは放射線物理学的に操作された物質の多くは分解または中和されるまで数世代から数千世代かかる。それらには廃棄や排出の量や条件に余裕があまりない。それに対して、食料、紙、綿、毛…などのそのように操作されていない物質は比較的早期に分解され、廃棄や排出の量や条件に余裕がある程度はある。余裕の大きいそれらへの規制は余裕の小さい物への規制より緩やかである必要がある。
  地球温暖化、気候変動…などを含む地球規模の環境について、その悪化をとらえることは資源の消耗や局所的な環境の悪化より困難である。未来のものはもちろん、現在のものさえもとらえることが困難なのである。そのよう場合、未知のものは余裕がないと判断される必要がある。だが、それでも明らかな余裕があるものは明言される必要がある。例えば、デモやストライキに伴う排出物が地球環境と呼べるようなものを破壊するわけがない。もしそれが環境保全や資源の保全のためという名目で規制されるなら、それは言論、表現、集会の自由の侵害に他ならない。
  そもそも、一般市民は、資源や環境と呼べるようなものを全くまたはほとんど消費または悪化させない人間の機能を日常で把握している。感覚、知覚、情動、思考のような純粋心的機能はそれらを消費または悪化させず、思想の自由を構成する。純粋心的機能を超えても、例えば、公園や広い街路で言論や表現を行うことはそれらをほとんど消費または悪化させない。それらの機能は専ら言論、表現の自由に基づき、それへの制限はあってはならないだけでなく必要がない。
  技術革新について、生産効率がよいように何が何でも技術革新すればよいという時代は既に終わっている。多大な資源の消耗と環境の悪化につながるような資源と技術はすぐに規制されるか自主規制せざるをえなくなり、そのような技術への投資はすぐに無駄になる。そのことも政府と企業は見越す必要がある。また、科学者・技術者は、多大な資源の消耗と環境の悪化に繋がらない代替資源と技術の開発にもっと精力的に取り組む必要がある。<   世界人口と市民の情動について。例えば、地球で維持できる人口にはまだ余裕があることが分って公開されるとしても、世界の出生率が急に上昇するわけではない。子供を作ろうという欲動と欲求を含む市民の情動には外的状況に左右されないだけの余裕がある。簡単に言って、世界の人口がどうであろうが、ほとんどの市民は自分のために子供を作るまたは作らない。
  環境、資源、人口、人間の情動の限界と余裕を予測することは比較的容易である。それに対して、地球環境の限界と余裕を予測することは困難である。それについては前述した。さらに、科学技術と技術革新の限界と余裕を予測することも困難である。何故なら、その余裕を予測できるものは既にそれを現実のものにしているからである。ここでは禁止も考慮する必要がある。人間を含む生物の生存のためには全体破壊手段が全廃され予防される必要があり、全体破壊手段の開発と製造に繋がる科学技術も禁止される必要がある。だがその必要性が分かると同時に、それ以外の科学技術を禁止する必要はないことが分かってくる。すると、科学技術には進歩の余地がかなりあることが分かってくる。例えば、全体破壊手段や大量破壊手段の開発が禁止されても、さらに選択的になる必要がある後述の選択的破壊手段の開発が残っている。また、遺伝子の塩基配列以外のものを変えずに、不変遺伝子操作以外の遺伝子操作や伝統的な生物学的手段を用いて新しい生物資源や新しい遺伝子治療法を開発することは可能である。
  従来の経済学は環境、資源、世界人口、人間の情動、科学技術の限界を無視する傾向にあった。それ対して、今後は限界を強調しずぎる経済学が出現するかもしれない。それに対して余裕の経済学は限界と余裕の両方を明確にしようとする。さらに、政治的経済的権力者がそれらの限界を強調して自由権、民主制…などを制限することを予防する。

資本主義経済・市場経済の限界

  従来の資本主義経済・市場経済は限りない環境、資源、人口、市場、投資、技術革新、経済成長を前提としてきた。それはその理論の核心が環境の悪化、資源の消耗、世界人口が地球で維持できるものを超えつつあること、市場、(当時はそれらの多くが植民地にあり、その植民地の限界さえあまり認識されていなかった)の限界、科学技術を制限しなければならない状況…などがまだ明らかになっていない時代に確立したからである。それらの限界が明らかになった現代においては、従来の資本主義経済・市場経済の一部は完全に機能しない。前に説明した通り、それらの余裕を明確にする必要があるが、それらが限りないものではないことは確かである。
  また、従来のものだけでなく最新のものも含めて、資本主義経済・市場経済は試行錯誤を前提とする。例えば、自由競争、価格の自動調節機構…などの大部分は試行錯誤である。だが、現代においては錯誤の後の再試行がない可能性がある。極端な例を挙げるが、全体破壊手段が使用された場合は、錯誤があるのみで再試行はない。
  だから、資本主義経済・市場経済は完全には機能しない。だから、現代の経済は厳密な意味での資本主義経済または市場経済、共産主義または社会主義…などのいずれかではなく、それらの混合であり、今後はますますそうなっていくだろう。その混合のあり方を巡る議論は、既に活発だし今後もますます活発になるだろう。
  だが、かつての共産主義に対する恐怖と嫌悪がまだ残っていないだろうか。そのような情動がその議論を一方に偏向させていないだろうか。また、ある経済体制で利権を得た政治的経済的権力者がそれを固守していないだろうか。後述するとおり、国家力が自由権を擁護する法の支配系(L系)と社会権を保障する人の支配系(S系)に分立するとき、それらの問題は解消する。簡単に言って、それらの議論はS系の中と周辺でやっていればよいことである。それらの議論がどうなろうが、自由権、政治的権利を含む民主制、権力分立制、法の支配はL系によって確保される。

進化の基本

  狭義の進化は種から別の種への進化である。そのような進化を「種外」進化とも呼べる。そのような進化は数万年、数十万年の時間の中で生じる。人間もそのような進化をしえ、数万年後には別の種へ進化しえる。そのように別の種へ進化した人間を「進化した人間」とも呼べる。それに対して、種の中での亜種への進化もあり、それは「種内」進化と呼べる。それは何百年、何千年の時間の中でも生じえる。いずれにしても、遺伝子によって遺伝するものが進化し、遺伝しないものは進化しない。
  だが、生物の構造と機能はすべて遺伝子によって先天的に、かつ、状況や自己の機能によって後天的に形成される。だが、問題は先天的形成と後天的形成のどちらが優勢かである。だから、厳密には先天的に形成される、後天的に形成される、遺伝する、進化する…などの言葉に「ほとんど」「主とし」「稀に」…などの修飾語を付加する必要がある。だが、それらの修飾語を逐次、付加していると文章が煩雑になるので、これらの著作では省略されることがある。
  まず、感覚、快不快の感覚、欲動、自律機能、本能的機能は遺伝子によって先天的に形成され遺伝し進化する。では、人間の記憶、感情、欲求、自我、思考についてはどうだろうか。それらの枠組みは遺伝子によって先天的に形成され遺伝し進化する。例えば、それらを可能にする神経細胞そのものは先天的に形成される。それに対して、それらの能力と傾向を含む内容は後天的に形成され遺伝せず進化しない。権力闘争、独裁、全体主義…などにおいて問題となるのは支配性、破壊性、自己顕示性…などの自我の傾向と権力欲求と権力獲得能力であり、それらは主として後述する悪循環に陥る傾向の中で後天的に形成され、遺伝せず進化しない。
  ところで、医療福祉の発達によって、人間のほとんどが数百年、数千年のうちに医療福祉がなければ生存できないような脆弱なものに(種内)進化することは確実である。だが、健康で長生きしたい。子供に先立たれたくない。家族や友人に健康で長生きして欲しい。そのような市民の願いは切実である。だから、医療福祉の発達にストップをかけることはできない。だから、人間が医療福祉がなければ生存できないような脆弱なものに(種内)進化することは人間の宿命であり、受けて立つしかない。また、医療福祉が強健で人間がそのような方向に進化し続けるとしても、あるいは医療福祉が破綻するとしても、一部の人間は生き残る。医療福祉だけによっては、人間の生存と自然淘汰の余地は残っており、人間が進化から完全に逸脱することはない。
  突然変異について。突然変異と言うと、進化に繋がるとして、肯定的にとらえる傾向がわたしたちにはある。だが、重要な遺伝子が突然変異を起こした場合、変異した遺伝子をもつ生物の大部分は環境に適応できず生存できない。自然淘汰とはそういうものである。環境に適応できて子孫を残し進化するのはごくわずかである。その厳しさを、人為的淘汰や遺伝子操作に進む前に、認識しておく必要がある。
  人間は遺伝子操作を始める以前から「自然」淘汰に対して「人為的」淘汰を作物や家畜と呼ばれる他の生物に対して行ってきた。それは人間にとって有益になる方向に他の生物の進化を助長することである。遺伝子操作をしない限りはそのような人為的淘汰は大きな問題をもたらさない。
  さらに、人間が遺伝子を操作するにしても、塩基配列を変えるだけなら、それは突然変異に等しく、それを含む生物または手段は従来の生物と大差がない。それに対して、人間が遺伝子の塩基配列以外のものを変えた場合、どうなるか。だが、そのような遺伝子まがいのものの大部分は遺伝子として機能せず、生体の中で分解され排出されるか免疫系によってブロックされる。だが、人間が創意工夫を凝らして塩基配列以外のものを変えた遺伝子を含む生物または手段、つまり「不変遺伝子手段」は、前述のとおり、全体破壊手段の一つである。端的に言って「遺伝子の塩基配列以外のものを変えるなかれ」である。
  いずれにしても、生物は進化する。人間も進化する。例えば、前述のとおり、人間が医療福祉がないと生存できない病弱なものに種内進化することは確実である。それを考慮しても、現在の人間のうち、進化することに抵抗しようとする人間はほとんどいないだろう。だから、前述の究極の欲求・目的に「進化した人間」が加えられたのである。「人間または進化したそれら」などの言葉を使わなくても、「人間」という言葉は人間または進化したそれらを指すことにする。

進化からの逸脱

  生物の進化も壮大な試行錯誤である。突然変異が試行であり、自然淘汰の中で環境に適応できない生物が死ぬことまたは子孫を残せないことが錯誤である。前述のとおり、人間の記憶、感情、欲求、自我、思考の、能力と傾向を含む、内容は後天的に形成され、遺伝せず進化しない。それに対して、それらの内容を容れる枠組みは遺伝子によって先天的に形成され、遺伝し進化する。例えば、記憶の枠組み、つまり、イメージを生成し記銘し保持し想起する神経細胞群は遺伝子によって先天的に形成され、遺伝し進化するが、記憶の内容、つまり、イメージそのものは後天的に生成し、遺伝せず進化しない。さらに、思想や観念、社会の構造と制度、芸術、科学技術を含む文明の内容は遺伝せず進化しない。それに対して、それらを生み出し伝達する枠組みは遺伝し進化する。より具体的には、独裁制や民主制、資本主義や共産主義、天動説や地動説、創造論や進化論、インフォテクやバイオテクは遺伝せず進化しない。それに対して、それらを記銘し保持する神経系やそれらを伝達する喉頭、舌、口唇や手指のような枠組みは遺伝し進化する。
  そして、それらの内容が全体破壊手段や大量破壊手段を生み出し、人間を含む生物の生存に適さないものになっている。だが、何度も言うが、それらの内容も全体破壊手段の製造方法も廃止予防する方法も遺伝せず進化しない。とすれば、人間が進化の中で生存のための適者となる方法は、それらの内容を容れるそれらの枠組みが進化することだけである。その枠組みがわずかに(種内)進化するだけでも数百年、数千年かかる。仮にその枠組みが生存に適するように(種内または種外)進化することが可能だとしても、それには数万年、数十万年かかるだろう。それは非現実的過ぎて誰も考慮しないだろう。
  そもそも、従来の生物においてはそれらの内容は希薄であり、生存に係るもののほとんどは遺伝し進化し、自然淘汰、適者生存、進化は直接的に機能してきた。それに対して、人間には自然淘汰、適者生存、進化はかなり間接的にしか機能しない。つまり、人間は前述の繁栄と衰退のサイクルだけでなく、進化も逸脱している。進化を一つのゲームと見なすと、人間はそのルールを無視している、または、その競技場の外でプレーしている。十九世紀以来、人間は苦心して進化論を構築してきたのだが、人間はその逸脱に気づいているのだろうか。
  繰り返すが、それらの枠組みが遺伝し進化するのであって、それらの内容は遺伝せず進化しない。実質的にはわたしたちはそれらの枠組みを変えることはできない。言い方を替えれば、わたしたちがそれらの内容を変えることは全く不可能なわけではない。それらの内容を全体破壊手段を全廃し予防できるものに変えることは全く不可能なわけではない。これらの著作はそれを試みるものに他ならない。

政治的経済的権力者による情報科学技術の乱用

  環境の保全、資源の保全と有効利用、適正な世界人口の維持、経済の安定化、市民の最低限度の生活の保障、つまり人間を含む生物の生存の保障、つまり社会権の保障のためには総合的な政策の立案と推進が必要であることは確かで。そのためには(1)人間の専門家と(2)人工知能等の情報科学技術の産物が協調する必要があるだろう。そのような状況の中では、政治的経済的権力者が(1)だけでなく(2)を操作して乱用し、自分たちの利権をそれらの政策に加味させ、しかも、それらの政策は公正無私な(2)によるものだから公正であると主張する可能性がある。それらの政策の立案と推進は、最も卓越した(1)が最善を尽くそうが、最も洗練された(2)が最善を尽くそうが、(1)(2)の両者が協力して最善を尽くそうが、非常に困難なことである。誰かの利権が混入した政策がうまく機能するわけがない。だが、一般の市民の情動は加味される必要がある。何故なら、見方を変えれば、社会権の保障の大部分は一般市民の情動を満たすことだからである。ここで(2)が一般市民の情動を公正かつ中立的に評価できるという錯覚が生じては面倒なことになる。(2)がどんなに進歩しても、それらが人間を含む動物がもつような快不快の感覚や欲動や人間がもつような感情、欲求…などの精神的情動を創出したり保持したりすることは決してなく、情動を直接的に加味することできず間接的に加味することしかできない。
  この間接性についてここでもう少し詳しく説明する。一つの神経機能を生じえる神経細胞の集合を「神経細胞群」と呼べる。神経細胞群の中の神経細胞の軸索の束がいわゆる「神経」である。神経細胞群の中のそれぞれの神経細胞は空間的相対的位置を属性としてもち、全体として神経細胞群は神経細胞の配列を属性としてもつ。その配列が崩れるとその神経機能も崩れるとき、その配列を「有意義選択性」と呼べる。横紋筋の収縮、平滑筋、心筋の収縮弛緩の調整を含む自律機能、本能的機能を生じる神経細胞群は有意義選択性をもつ必要がない。それに対して、まず、感覚、記憶、精神的情動、自我、思考を生じる神経細胞群は、有意義選択性をもつ必要があり、実際にもつ。例えば、人の目の白目の部分を感覚し記銘する神経細胞群の部分は高密度で興奮、伝達し活性化され、瞳や輪郭を感覚し記銘する部分は低密度で興奮、伝達し活性化される。そうでないと、私たちは人の目を感覚したり、思いだしたり、それに感情をもったりすることはできない。また、医療において、末梢神経系の運動神経は有意義選択性をもたず、傷害された運動神経をなんらかの電子的な装置とコードに取り換えて、横紋筋の収縮を調整することは不可能ではない。それに対して、中枢神経系の記憶や思考に係る神経細胞群は有意義選択性をもち、それらに何らかの記憶装置を埋め込んで、記憶力、思考力を増強したり、まだ個人がもっていない知識を個人に付与するようなことは不可能である。いずれにしても、そのような有意義選択性をもつ神経細胞群の機能を直接的に電子的な暗号に変換することは永遠に不可能だろう。何故なら、その直接的な変換のためには神経細胞群に属する何万の神経細胞のそれぞれをなんらかの電極になんらかの方法で接続し、しかも、その有意義選択性を維持しなければならないが、それは不可能だからである。例えば、人が幸せか不幸せかは血圧、脈拍、発汗…などを測定することによってある程度は査定できる。それに対して、何に幸せを感じているのか、何に不幸せを感じているのかは直接的に査定できない。だから、人間の感覚、記憶、精神的情動、自我、思考の内容を査定するには、伝統的なアンケート、心理テスト…などに頼らざるをえない。
  そのような間接性を通して何者かがそれらの政策に恣意的なものを加える余地がいくらでもある。特に、政治的経済的権力者が情報科学技術の産物を操作し乱用し政策を自分たちの利権に繋がるように偏向させ、しかもそれらの操作と乱用を隠してそれらの政策は公正であると主張する可能性がある。ただでさえ困難な生存や社会権の保障が政治的経済的権力者の利権が加味されてうまくいくわけがないのである。
  また、今後の選挙やレフェレンダムの結果の集計はますます情報科学技術とその産物に依存する可能性がある。権力者がそれらを操作し乱用し、自分たちの都合のよい結果を捏造する可能性がある。さらに悪いことには、彼らが捏造された結果を、それらは公正無私な科学によるのだから、厳正であると主張する可能性がある。それが今後、民主制を形骸化させる最大の要因になるだろう。
  科学技術、特に情報科学技術(インフォテク)と生物学的科学技術(バイオテク)に対する批判はいろいろある。生物学的科学技術については、前述のとおり、不変遺伝子手段を除くものを精錬せざるをえない。それを除くと、科学技術に係る問題のうち、最も重要なのは、政治的経済的権力者による情報科学技術の乱用である。

自己永遠化欲求と権力欲求

  自己がやがて死ぬことへの不安によって、自己を永遠の存在にしようという欲求が生じる。そのような欲求を「自己永遠化欲求」「永遠を求めること」「永遠欲求」…などとも呼べる。自己永遠化欲求を満たす方法は様々である。そんなに遠くない昔、多くの人間が宗教の中で意識的に、現実の世界を超える永遠と見えるものに自己を一体化することによって自己を永遠の存在としようとしてきた。現代では多くの人間はほとんど無意識的に、人間を含む自然、一般の人間、「大衆」、身近な家族や友人…など現実の世界と一体化して自己永遠化欲求を満たそうとする。例えば、子供に何かを託せると思い、子供に何かを残そうとすることがある。また、愛は永遠であるまたは個人を超えると感じられ、何かを愛し続けることがある。また、美を永遠と思って作品に刻もうとすることがある。
  権力を握って振るい何かをして栄誉を残そうとすることがある。最初は権力やカネは自己永遠化欲求を満たすための手段だったのだが、それらの手段を追求しているうちに、手段が対象となり、それらに対する欲求が形成される。簡単に言って、権力追求に埋没する。カネも権力に含めて、それらを対象とする欲求を「権力欲求」と呼べる。
  自己がやがて死ぬことへの不安、自己永遠化欲求、権力欲求と後述する何でも支配性し、何でも破壊し、自己顕示する自我の傾向が強い人間が熾烈な権力闘争を繰り広げる。それらの人間のうち、最も強いそれらと最も高い権力獲得能力と幸運な手段と状況をもつ人間が権力闘争を勝ち抜き権力を獲得し拡大し、さらに勝ち抜き拡大する。それらのいくつかが独裁、弾圧、戦争…などへと走る。現代では世界大戦と全体破壊手段の開発、使用へと走る。

権力を民主化し分立して全体破壊手段を全廃し予防すること

  これらの著作は権力を至上のものと見なすつもりは全くない。だが、権力がなければ、人間が独裁や大戦に走ることも、全体破壊手段や大量破壊手段を開発、保持、使用することも、繁栄と衰退のサイクルや進化から逸脱することも、不必要で執拗で大規模な苦痛を生じることもできないことは確かである。人間が生じるような不必要で執拗で大規模な苦痛の中では、この現実の世界を超越したいとか、現実の世界もそれを超越した世界も要らない、無になりたいと思ってしまう。だが、前述のとおり、この現実世界における限りない生と死の繰り返しは人間を含む動物の宿命であり、現実世界を超越することも無になることも不可能である。わたしたちにできることはこの現実世界においてそのような苦痛をできるだけ全般的に減退させることだけである。また、現実世界を超越したいとか無になりたいと思って現実世界を回避してしまうのでは、権力者は好きなようにできる。それは権力者の思うつぼであり、彼らの思うがままになり、不必要で執拗で大規模な苦痛をさらに強く大きくすることになる。
  だからと言って、権力を手当り次第に破壊する必要があるというのでは全くない。自然の保全、適正人口の維持、経済の安定化、最低限度の生活の維持、つまり社会権の保障のためには、いくつかの権力は必要である。つまり、社会権を保障する権力を維持する必要がある。自由権について、自由権を侵害する最も直接的で最強の権力は警察、軍…などの公的武力である。だが、同時にそれらは暴力、侵略…などに対処することによって自由権を擁護できる直接的で最強の権力である。つまり、それらは紙一重、両刃の剣である。とすれば、それらの自由権を侵害または擁護しうる権力を厳密な民主制と三権分立制と法の支配でもって抑制する必要がある。また、社会権を保障する権力に対しても人間的な民主制が機能する必要がある。つまり、わたちたちは、権力のすべてを破壊するのではなく、必要な権力を維持し民主化し分立する必要がある。ここで「権力を民主化し分立することによって」人間が生じる不必要で執拗で大規模な苦痛をできる限り全般的に減退させるという欲求・目的が生じて来る。

人間や生物の生存を名目として掲げて政治的経済的権力者が独裁制と全体主義へと走ること

わたしたちは以下の問題に直面しているまたは直面しつつある。

(1)地球規模の環境の悪化
(2)地球規模の資源の消耗
(3)世界の人口が地球で維持できるものに近づき超えようとすること
(4)(1)(2)(3)による地球規模の経済の逼迫
(5)(1)(2)(3)(4)による地球規模の一般市民の生活の逼迫
(1)(2)(3)(4)(5)に対して、以下が必要となる。

(1')環境の保全
(2')資源の保全と有効利用
(3')世界人口の適正化
(4')経済の安定化
(5')市民の最低限度の生活の保障

(1')(2')(3')(4')(5')は、「(人間を含む生物の)生存の保障」と呼べる。人権の観点からは、それは社会権の保障に含まれる。生存の保障のためには総合的な政策を立案し推進する必要があることは確かである。だが、総合的な政策から逸脱して、人間や生物の生存の保障を名目として掲げることによって、以下が進行するだろう。

(6)政治的経済的権力が、自由権、政治的権利、民主制、権力分立制、法の支配を形骸化させ、独裁と独占・寡占と全体主義へと走ること。
(7)そのような国家権力の国際社会における孤立と軋轢と世界大戦の危機、それらの問題と争いを効果的に調整できる国際的または世界的な制度と機構の欠如、
(8)軍官学産複合体による核兵器、不変遺伝子手段、軌道を変えるような小惑星操作という全体破壊手段の開発・製造と国家権力による使用
(9)(8)による地上の人間を含む生物の絶滅の危機

以上のような危機に私たちは今後、ますます直面していくだろう。以下を補足する。
  地球規模の環境の悪化について、今後は地球温暖化または気候変動だけではなく、他の様々な問題が浮かび上がってくるだろう。どのようなものが浮かび上がってくるかは予想できない。だから、「地球温暖化」「気候変動」などの限定的な言葉を使用しないようにする。地球規模の資源の消耗について、エネルギーについては代替資源が開発されていくように見えるが、それがいつまで続くかは予想できない。食糧資源について、遺伝子操作、培養肉、人工光合成…などによる増分がどんなものかは予想できない。他の資源の増減についても予測不能である。だから、資源についても「エネルギー...」「食糧...」などの限定的な言葉を用いないようにする。
  軍と軍を掌握する文官と科学者、技術者と公私の企業の複合体は二十世紀の冷戦以前からあり、大きな問題だった。冷戦初期に強く意識され「軍産複合体」と呼ばれていた。それは当時からそれらの四者の複合体だった。だから、それらの複合体を「軍官学産複合体」と呼ぶことにする。
  自由権、政治的権利、民主制…などは露骨に破壊されるだけでなく、上の表現にあるとおり「形骸化」もされる。また、政治的権力だけが独裁へと走ることは少なく、前述のとおり、政治的権力と経済的権力が連携して独裁と独占・寡占へと走る。
  資本主義、市場経済、共産主義経済、社会主義経済…などの経済体制について、いずれか一つだけでは経済が成り立たないことは誰も認めている。現在の経済体制はすべてそれらの混合であり、今後はますますそうなっていくだろう。その混合のあり方やいずれが優位になるべきかの論争はありえるが、二十世紀の資本主義か共産主義かの論争ほど激しいものにならない。
  国際的な制度と機構について、それらは存在しないわけではない。機能していない。そもそも、上記の問題のほとんどはグローバルな問題であり、国家の孤立した機能だけでは解決不能である。それらの解決のためには国際機構の機能または諸国家の協調が不可欠である。このことからも、国家権力の保持者が国際社会から孤立して掲げる人間や生物の生存の保障は、国家権力の独裁化のための名目に過ぎないことが分かる。
  科学技術、特に情報科学技術(インフォテク)と生物学的技術(バイオテク)の驚異的な進歩に係る様々な問題が危惧されている。最も重大な問題は以下の三つだろう。(a)科学技術全般は全体破壊手段を開発し精巧にする(b)情報科学技術は政治的経済的権力者によって乱用される。特に、(b-1)政策立案過程に彼らの利権が加味され、適正な政策の立案を妨げる。また、(b-2)選挙や国民投票の結果を捏造され、民主的分立的制度が形骸化する。(c)生物学的技術のうちの高度な医療は高額であり、政治的経済的権力者を含む富裕層だけに利用される。

独裁、全体主義、政治的権力と経済的権力の癒着は生存の保障のためにも機能しない


  今後は(人間を含む生物の)生存の保障、つまり、社会権の保障のための政策の立案は、(1)最高の科学者がしようが、(2)情報科学技術の最高の産物がしようが、(3)両者が協調してしようが、ますます困難なものになっていく。(2)なら可能だろうと言われるかもしれない。だが、(2)のプログラミングと設定は人間がするのであり、それは政策の重要な部分を人間が決定することに等しい。今後は生存の保障のための政策は偏向してはならず総合的なものである必要がある。また、適正な政策はどこにでもあるようなものではなく非常に限られたものになる。独裁や全体主義や政治的権力と経済的権力の癒着の下では、そのような偏向せず総合的で適正な政策の立案と推進は不可能である。その理由は多数あるが最も重大なのは以下の(1)(2)(3)である。

(1)政治的経済的権力の内部のスタッフだけではそのような政策の立案は不可能であり、外部の文系理系の学者や一般市民がそれらの立案の過程に参入し活発な議論が行われる必要がある。独裁制の下では、そのような参入と議論の可能性は極めて低い。あるいは、政治的経済的権力者が外部の学者を招く可能性はあるが、彼らにとって都合のよい学者が招かれる可能性が極めて高い。
  そもそも、生存の保障のための政策が偏らず総合的かつ適正になるためには、権力の内部または周辺にある者だけでなく権力の完全な外部にある科学者、メディアを含む一般市民がそれらの政策を自由に議論し批判する必要があり、言論の自由が必要である。だが、独裁制のもとではそのような自由な言論が何らかの形で抑制される可能性が極めて高い。また、政治的経済的権力者が世論を操作する可能性が高い。

(2)二十世紀の共産主義の失敗の原因の一つとして、言論の自由と公正な選挙がなかったために、政策立案者が内外の権力闘争に明け暮れ、政策立案能力に優れたものではなく権力闘争に優れたものが政策立案者になった、または、政策立案者とその候補者が互いに議論せず競争せず無能に陥ったことがあった。生存の保障のための政策が偏向せず総合的かつ適正になるためには、言論の自由と公正な選挙が確保され、政策立案者またはその候補者が政策を議論し競争し政策立案能力を高め合い、政策立案能力に優れた者が政策立案者になる必要がある。

(3)政治的権力の保持者と経済的権力の保持者が癒着するとき、どうしても彼らの利権が政策に加味される。利潤の追求は公共の福祉に繋がるという理論は自由競争を前提とする。それらの癒着は自由競争からほど遠いどころか自由競争を阻害する。情報科学技術の産物があったとしても、彼らは自分たちの都合のよいようにそれらを設定し操作して、自分たちの利権を政策に加味させるだろう。ただでさえ立案、実行が困難な生存を保障するための政策が彼らの利権が加味されて偏向せず総合的で適正なものになるわけがない。これは(1)(2)より分かりやすいと思う。政治的経済的権力者の癒着と汚職を抑え生存を保障するためにも、それらを暴き批判する言論の自由を確保し、それらを厳格に捜査し告訴できるような民主的分立的制度を確立する必要がある。
  以上の(1)(2)(3)が独裁、全体主義と政治的経済的権力者の癒着が生存の保障のためにも機能しない主要な理由である。

民主的分立的制度

  環境、資源を「自然」と呼べ、環境の保全と資源の保全と有効利用を「自然の保全」と呼べる。自然の保全、適正人口の維持、経済の安定化、最低限度の生活の維持を「(人間を含む生物の)生存の保障」と呼べる。人権の観点からはそれは「社会権の保障」または「(広義の)生存権の保障」である。結局、生存の保障と社会権の保障は同じである。さしあたり、政治的権利を含む民主制、三権分立制を含む権力分立制、法の支配を「民主的分立的制度」と呼べる。また、そのような制度を実現することを権力を「民主化し分立する」ことと呼べる。
  前述のとおり、生存の保障、つまり社会権の保障のためにも自由権が擁護される必要がある。もちろん、自由はそれ自体が目的である。市民の多くは、最低限度の生活を基盤として、思いのままに生きたいと思っている。自由権を侵害しうる最大の権力は警察、軍…などの公的武力を含む国家権力である。自由権が擁護されるためには、民主的分立的制度を確保して国家権力を抑制する必要がある。
  ここで特に重点を置く必要があるのは権力分立制である。歴史上の革命の多くは失敗した。その主因は、かつての反政府勢力どうしが争ったことと彼らが民主制のみを重視し権力分立制と法の支配を軽視したことにあった。熱狂的で瞬発な民主制は、はかなくすぐに独裁制に逆行する。内戦または数回限りの選挙を勝ち抜いた者が独裁者へと豹変するからである。民主制は市民が直接的または間接的に公権力を抑制する制度である。権力分立制は権力を分立し分立した権力を相互抑制させる実に巧妙な制度である。
  法の支配について、それは司法権が法を公正に個人と集団に適応することである。その公正そのものからは司法権が(1)市民への抑制を軽視し(2)権力と権力者への抑制を重視することにはならない。後者(2)は非常に困難なことだから、(2)が際立ち、市民にとっては貴重である。より具体的には、立法権に憲法を適応し、行政権に憲法と法律を適応することが際立ち貴重である。法の支配の第二の美点は単純な民主主義が陥りがちな多数派の横暴さえも抑制できることにある。
  数少ない選挙やレフェレンダムを通じて特定の党派が大衆の熱狂的な支持を得て政権を握り、憲法と憲法が規定するまたは規定するべきだった民主的分立的制度を停止して独裁へと暴走する恐れはいつでもどこでもある。特定の党派に煽られて一回限りの選挙やレフェレンダムによって大衆が民主的分立的制度を放棄してしまうことさえありえる。法の支配が厳格であれば、民主的分立的制度が停止されることも放棄されることも困難になる。大衆が望んだとしても、民主的分立的制度を放棄させないことは前述の法の支配の第二の美点に含まれる。
  だから、原告または被告が権力者であろうが市民であろうが、司法権のそれぞれの裁判官が追求する必要があるのは公正さだけである。だが、裁判官が公正さを追求し、司法権が厳格であるためには、司法権の独立が確保されなければならず、三権分立制が確保されなければならない。そのように権力分立制と法の支配は協働する。
  それらのことは民主制が不要だというのでは全くない。民主制は独裁や専制よりはるかにマシである。民主制はそれだけでははかなく、民主制は権力分立制と法の支配を伴う必要があると言っているだけである。権力分立制と法の支配は民主制を補完するとも言える。そのことを強調するためにも、これらの著作は「民主的分立的制度」という言葉を用いる。

それぞれの国家権力を自由権を擁護する法の支配系(L系)と社会権を保障する人の支配系(S系)に分立すること

  その詳細はこの節の題名と同様の題名をもつ著作で説明される。この著作ではそれについて簡単に説明する。
  国家権力を自由権の擁護という機能をもつ機構と社会権の保障という機能をもつ機構の二つの機構に分立することは、三権分立制を損ない不可能である。それに対して、国家権力を機構ではなく以下のようなそれぞれがそれぞれに固有の三権を含む「系」に分立することは可能である。

[L系]自由権の擁護と民主的分立的制度、つまり、政治的権利を含む民主制、三権分立制を含む権力分立制、法の支配の擁護という機能をもち、厳格な民主制と三権分立制と法の支配が機能する必要がある系と
[S系]社会権の保障という機能をもち、人間的な民主制と緩やかな三権分立制と法の支配が機能する系

L系を「自由権(と民主的分立的制度)を擁護する法の支配系」と呼べ、S系を「社会権を保障する人の支配系」と呼べる。
  何度も言う通り、社会権を保障するためには言論の自由と公正な選挙によって総合的な政策を議論し切磋琢磨する必要がある。また、総合的な政策の立案と推進に政治的経済的権力者の利権が加味されないように、政治的権力者と経済的権力者の癒着とと汚職を抑制する必要がある。社会権を保障するためにも自由権と民主的分立的制度を確保し拡充する必要がある。それに対して、政治的経済的権力者は生存や社会権を保障することを名目として掲げ、民主的分立的制度を形骸化させ独裁と全体主義と独占・寡占へと走ろうとする。それは「社会権からの逸脱」または「(広義の)生存権からの逸脱」と呼べる。
  この社会権からの逸脱による戦争、大量虐殺、人為的飢饉…などはわたしたち人間が何度も体験したことである。もう同じ失敗を繰り返すのはやめよう。その逸脱を予防し生存と自由を両立させるためには、世界でそれぞれの国家権力が自由権を擁護する法の支配系(L系)と社会権を保障する人の支配系(S系)に分立する必要があり、それは可能である。確かに、社会権を保障するためには総合的な政策の立案と推進が必要である。だが、それはS系においてやっていればよいことである。L系において、完全な自由権と厳格な民主的分立的制度を擁護することは可能かつ必要である。S系において、L系が擁護する完全な自由権と厳格な民主的分立的制度とS系に特有の人間的な民主制によって議論を行い、総合的な政策を立案し推進することは可能かつ必要である。この国家権力をL系とS系に分立することとその分立を前提とする社会権と前述の民主的分立的制度を改めて「民主的分立的制度」と呼び直す。また、そのような制度を実現することを「権力を民主化し分立する」ことと呼び直せる。
  今後、独裁者は生存と自由の両立は不可能だと喧伝し、自由を犠牲にして生存を選択するよう一般市民に迫るだろう。そんな馬鹿げたことはない。そんなものは独裁者が独裁制を強化するための名目に過ぎない。生存と自由の両立は必要であるだけでなく可能である。国家権力をL系とS系に分立させることが生存と自由を両立させる決定的方法である。それは両立であってバランスや妥協ではない。生存か自由かの二者択一を迫られたときは、「おめえ馬鹿じゃねえの、両方に決まってるじゃねえか」と笑い流そう。「生存か自由か」ではなく「生存と自由」である。

過分立に対する辟易の解消

  分立と聞いただけでうんざりする人がいるだろう。まず、その辟易を解消しておく必要がある。L系における厳密な三権分立は必須である。また、L系における警察と軍の分立も必須である。S系における緩やかな三権分立も必要である。S系とL系の分立によって行政権と立法権のそれぞれはそれぞれの系のものに分立されるが、司法権は分立する必要がない。立法権について、既に多くの国家で二院制が採用されており立法権は二院に分立している。その一方がL系に固有のものになり、他方がS系に固有のものになる。行政権について、既に行政権は見たところ多様な部門に分枝している。警察、軍などの公的武力を除くと、それらの見たところ多様な部門は、財政部門、経済を調整する部門、医療福祉を推進する部門、教育文化部門、自然を保全する部門…など、社会権を保障する機能をもつ。それらの分岐は必要ないだけでなく害悪である。それらの分岐が公的経費を増大させ公的機能の効率性を低下させてきた。また、今後は総合的政策の立案と推進を困難にする。だから、それらの部門をS系に固有の行政権として統合して一つの機構とすることは可能かつ必要である。そのような統合可能性はL系とS系の分立によって初めて明らかになった。この分立は分立の重点を明らかにし、それ以外での統合可能性を明らかにし、過分立どころか全体として分立を減退させる。

軍官学産複合体の解消

  国家権力を自由権を擁護する法の支配系(L系)と社会権を保障する人の支配系(S系)に分立することの効果またはメリットと問題点を含む詳細は『それぞれの国家権力を自由権を擁護する法の支配系と社会権を保障する人の支配系に分立すること』で説明される。ここではわずかばかりの効果またはメリットを挙げる。
  軍官学産複合体は冷戦以前からあり冷戦初期に強く意識され「軍産複合体」と呼ばれていた。それは実質的には(1)軍(2)軍を掌握する文官(3)兵器等を開発する科学者と技術者、そして(4)兵器等を製造する公私の企業の複合体である。(1)(2)は権力の拡張を求め(3)は権威と名誉を求め(4)は利潤を求めて、その複合体は放っておいてもひとりでに拡張する。そのために軍備、特に全体破壊手段の開発・製造は驚異的なペースで進み、不必要な兵器を生産し続ける。国家権力をL系とS系に分立することによって、その複合体のうち(1)(2)はL系に属し(3)(4)はS系の下にあり、その複合体は解消する。もう少し詳しく見てみると、それらの二系への分立によって、文官としてL系の中の文官だけでなくS系の中の文官(5)の存在が明らかになり、それらの文官(5)が(3)(4)を管理している。(5)の機能は、破壊的ではなく平和的な科学技術と産業を促進することである。それらの二系への分立によって(5)は(1)(2)から独立している。(5)と(5)によって管理される(3)(4)は(1)(2)への協力を断ることができる。そのように(5)が楔となって軍官学産複合体は解消される。
  軍官学産複合体が全体破壊手段の研究、開発、製造への牽引車だったのだから、それらの解消は必ず全体破壊手段を全廃し予防する決定的方法の一つになる。

提供していたサービスを停止するという社会権を保障する人の支配系に固有の権力、二重の文民支配

  自由権と民主的分立的制度を破壊し、独裁、戦争…などへと走る直接的で最強の権力は軍、警察…などの公的武力だったしこれからもそうだろう。公的武力を掌握する文官も公的武力を乱用しうるが、単独で暴走するにせよ乱用されるにせよ、公的武力がそれらへ走る最も直接的な権力であることに変わりはない。国家権力が自由権を擁護する法の支配系(L系)と社会権を保障する人の支配系(S系)に分立しているとき、公的武力とそれを掌握する文官に対しては、L系の内部で厳格な民主制、三権分立制、法の支配によって抑制がなされる。だが、それだけではない。L系ではなくS系は次のようなS系に固有の権力をもっている。
  市民やL系やS系自身に対しても、水道、電気、燃料、情報通信網…などに係るサービスを提供するまたは提供を管理するのはS系である。公的武力にそれらのサービスを提供する、または提供を管理するのもS系である。公的武力にとってもそれらのサービス、特に情報通信網は重大である。公的武力が、単独でにせよ乱用されてにせよ、自由権と民主的分立的制度を侵害し独裁、戦争…などへと暴走するときは、S系は公的武力に提供していたそれらのサービスを停止してしまえばよい。つまり、S系は、他に対して提供していたまたは管理していたサービスを停止する、または停止を予告するというそれに固有の権力をもっている。その権力は、例えば自然を保全せず破壊する企業や、福祉を乱用する個人にも使えるのだが、公的武力にも有効である。そのようなS系に固有の権力は国家権力のL系とS系への分立によって顕在化し強化される。
  もちろん、そのようなS系に固有の権力よってだけでなく、公的武力とそれを掌握する文官に対しては、L系の内部で厳格な民主的分立的制度による抑制がなされる。これを、従来の「一重の」文民支配に対して、公的武力に対する「二重の文民支配(Double Civilian Control)」と呼べる。これは公的武力とそれを掌握する文官に対する決定的な抑制になるだろう。

地方自治体、連邦、国際機構または世界機構について

  国家権力の自由権を擁護する法の支配系(L系)と社会権を保障する人の支配系(S系)への分立は従来の地方自治体、連邦、国際機構の存在と機能をなんら妨げない。さらに、それらもL系とS系に分立することが可能かつ必要であることが分かってくるだろう。
  だが、それらの分立は国家権力の分立と同一である必要はない。例えば、連邦において、軍は連邦の法の支配系に含まれ、警察はそれぞれの州の法の支配系に含まれ、経済に係る立法と行政は連邦の人の支配系に含まれ、文化的教育の立法と行政はそれぞれの州の人の支配系に含まれることは可能である。

地域的文化的教育について

  大人の教育と文化については、創造し提供する側であれ享受する側であれ、思想、言論、表現の自由などの自由権に基づいて大人が自由に追求することが可能かつ必要である。子供の教育についてはどうだろうか。
  子供が最低限度の教育を獲得し、親が公権力に子供に最低限度の教育を提供させる権利は社会権の一環であり、その保障は国家権力または地方自治体のS系の機能である。
  ここで、特に多民族国家または連邦において、地域的文化的教育が問題となるだろう。それらの二系への分立は、地方自治体や州が地域的文化的教育を子供たちに提供することをなんら妨げない。地方自治体や州のS系の部分がそれを提供することは可能かつ必要である。それは民族間の対立を防ぐためにも必要である。

市民どうしの争いの極小化

  歴史上の革命の多くは失敗した。その主因は、(1)市民または反政府勢力どうしが争ったことと(2)彼らが民主制のみを重視し権力分立制と法の支配を軽視したことにあった。(2)に対する対策は前述のとおりである。ここでは(1)に対する対策を説明する。その争いの少なからぬ部分は政治制度と経済体制を巡る争いだった。そのような争いを防ぐには以下のようにする必要がある。
  市民-反政府勢力の多くが以下で合意しておく必要がある。

(1) まず、自由権を擁護する法の支配系(L系)を確立し、L系において完全な自由権と厳格な民主的分立的制度、つまり、政治的権利を含む民主制、三権分立制と自由権を擁護する法の支配系(L系)と社会権を保障する人の支配系(S系)への分立を含む権力分立制、法の支配を確立する。

(2) その後で、S系を整備し直し、資本主義経済・市場経済か、共産主義・社会主義経済か、それらの混合か、それらの混合のあり方をどうするか、企業の独占を許すか許さないか、国営企業をどうするか、福祉制度をどうするか、高福祉高負担か低福祉低負担かその中間か、医療制度をどうするか、高医療高負担か低医療低負担かその中間か、自然の保全をどうするか、公権力が積極的に介入するか企業や市民の自主的な保全に委ねるか市場経済に委ねるかそれらの混合か、大きな政府か小さな政府かその中間か…などの議論は、S系とその周辺で随時やって、最終的な決定は市民が下せばよい。
  以上、国家権力をL系とS系に分立することについて簡単に説明した。既に多くの疑問が生じていると思う。『それぞれの国家権力を自由権を擁護する法の支配系と社会権を保障する人の支配系に分立すること』が大抵の疑問に答えてくれると思う。お読みいただきたい。

国家主義・愛国心の減退

  では、全体破壊手段の全廃と予防の方法を模索していく。それを模索するためには国家主義・愛国心をある程度減退させておく必要がある。
  まず、不要な議論を来さないために愛国心、国家主義を明確に定義する必要がある。愛国心は国家権力やその保持者を含む国家全体に対する愛着であると定義できる。国家主義は、独裁的なものか、民主的なものか…などに係わらず、国家の全体を不可欠のものとし、場合によっては至上のものとする思想であると定義できる。国家主義という言葉は民族を不可欠または至上のものとする思想を意味することもあるが、これらの著作では前者を意味することにする。
  国家や国家権力は必要ないと言っているのでは全くない。国家権力を民主化し分立する必要があり、国家主義・愛国心は必須ではなく害悪になることがあると言っているだけである。国家や国家権力を含む組織や機能や権力は必要な部分を見究め活かし改善し悪化を防止する必要があるものである。その全体を愛したり至上のものとしてしまうと、必要な部分もそれらが悪化していることさえもなかなか見えてこない。他方、自由権と民主的分立的制度を破壊して、独裁に暴走する機会を探っている国家権力の保持者にとっては、それらの必要で悪化している部分が市民に見られては都合が悪い。だから、彼ら彼女らは愛国心・国家主義を煽って、美化された国家の全体でそれらの部分を覆い隠そうとする。
  そのように、国家・国家権力のいくつかの部分は必要だが、国家主義・愛国心は必須ではない。その必要性にしても、すべてにおいてグローバル化が進む時代において、国家・国家権力の必要性が地球、世界、国際社会、国際機構、世界機構…などの必要性に勝る理由はどこにもない。また、もし仮に地域や民族の文化的教育が重視されるべきなら、国家の教育が地方自治体の教育に勝る理由はどこにもない。
  国家を構成する要素のうち、市民の多くは国家の全体や国家権力やそれらの保持者を愛していない。それに対して、身近な自然や文化や人々のいくつかを愛している。例えば、生まれ育った土地の食べ物や衣装や芸術に対する愛着はいつまでも色褪せない。そのように多くの市民が愛着を抱いているのは国家の全体ではなく部分にである。そのような愛着は「郷土愛」などの言葉で呼んで、国家主義・愛国心と混同しないほうがよい。
  過去に国家主義・愛国心が反帝国主義、反植民地主義、自由主義、民主主義…などを助長することはあった。歴史の中で国家主義・愛国心の有用さはそれだけである。それ以外では不要または弊害である。例えば、国家主義・愛国心が専制、独裁制、全体主義、共産主義…などを助長することはあった。
  ほとんどの市民について、極端な国家主義・愛国心を抱いているように見えても、強く威嚇されたために抱いている振りをしているだけである。威嚇する者がいなくなれば、その振りさえもなくなる。そのことは第二次世界大戦中または後のドイツとイタリアと日本で多くの市民が証明している。
  国家主義・愛国心は国内の問題を解決することができるかもしれないが、国際的な問題を解決することができない。それどころか、国家間の争い、つまり、国際紛争、戦争を煽る。近代国家の形成以来、それらの多くが国家主義・愛国心によって煽られていた。
  だが、国家主義・愛国心を根絶しなければならないというのではない。以上のことが認識されるとき、国家主義や愛国心は以下のことが可能になるのに十分なほどに減退するだろうということである。

世界の権力者と世界の市民という横割りの構造・動態、選択的破壊手段-SMAD-権力疎外-権力相互暴露

  二十世紀の「冷戦」なるものの歴史的重要性は、今日では、資本主義と共産主義の対立よりも、核兵器という全体破壊手段の開発、製造、軍官学産複合体の拡大、と以下のMADという観念の普及にある。その冷戦のときに「相互確証破壊(Mutual Assured Destruction(MAD))」「抑止論」…などの言葉が流行った。それらの要点は、複数の超大国が当時は唯一の全体破壊手段だった核兵器をもって他を確実に破壊できれば、超大国は相互に攻撃することがなく、世界大戦は避けられるというものである。そのような観念を「相互確証抑止(Mutual Assured Deterrence (MAD))」という言葉で一括することにする。MADによって冷戦が熱戦や世界大戦にならなかったということは部分的に事実である。
  冷戦とそれ以降の軍事的戦略の核心は、相手の攻撃力と防衛力を完全に破壊することではない。それらを完全に破壊すれば、攻撃に対する相手の報復の可能性を絶てるが、それは不可能なことである。どんなに相手を破壊しようとしてもなんらかの破壊的手段が海底または地底または、何より宇宙に残りうるからである。また、相手の攻撃力を完全にブロックするような防衛システムを構築することも不可能なことである。冷戦以降の軍事的戦略の核心はすべて、相手を「抑止」する、簡単に言って脅かすことでしかない。問題は何を抑止する必要があるかである。
  冷戦の頃のものをはるかに超えて、科学技術、特に情報科学技術は進歩しており、兵器は相手の政府と軍の中枢だけを正確かつ選択的に破壊できるようになっている。全体破壊手段、大量破壊手段…などの無差別的破壊手段に対して、相手の政府と軍の中枢だけを正確かつ選択的に破壊できる手段を「選択的破壊手段」と呼べる。選択的破壊手段は、古い爆弾を搭載する新しいミサイルや宇宙の人工衛星や宇宙船や地上の微小な無人機を含む。それらは偵察手段にも攻撃手段にも防衛手段にもなる。選択的破壊手段でそれぞれの国家の政府と軍は相手の政府と軍の中枢だけをますます正確かつ選択的に破壊できるようになっている。
  軍の指揮権をもつ者を含む国家権力の保持者が最も大切にし必死になって守ろうとするのは当然、自身の命である。次に彼らが大切にし守ろうとするのは自身が獲得した権力でり、それらは兵器、軍事施設だけでなく行政権、立法権、軍、警察の主要な建物…など権力の象徴を含む。彼らにとっては市民の命よりそれらのほうが大切である。だからこそ、軍の指揮権をもつ者を含む政府と軍の中枢を抑止する効果は絶大である。それに対して、軍の指揮権をもたない一般市民を抑止しても何の効果もない。侵略、先制攻撃、戦争…などを抑止するために抑止する必要があるのは、一般市民ではなく軍の指揮権をもつ者を含む相手の政府と軍の中枢である。選択的破壊手段を用いて市民を巻き込むことなく、いくつかの国家の政府と軍が互いを抑止することを、「選択的相互確証抑止(Selective Mutual Assured Deterrence (SMAD))」と呼べ、抑止段階を過ぎると選択的相互確証「破壊」(Selective Mutual Assured Destruction (SMAD))と呼べる。後者になっても権力の保持者が犠牲になるだけである。侵略、先制攻撃、戦争…などを抑止するためにはSMADだけで十分である。選択的破壊手段で、小国さえも超大国を抑止できる。もちろん、超大国は他の超大国を抑止できる。国家は同盟さえも抑止できる。もちろん、同盟は他の同盟を抑止できる。世界の市民だけでなく政府も軍もSMADは効率的な戦略と認めざるをえないだろう。今後は世界の政府と軍の幹部は無差別的手段ではなく選択的破壊手段の開発と製造に集中する必要がある。また、政府と軍の政策と戦略に影響を及ぼす立場にある人々は、例えば「全体破壊手段を開発・使用しなくても選択的破壊手段で敵対国の軍と政府の幹部と主要施設を破壊して目的は達成できる。全体破壊手段を使用すると欲しがっている資源が汚染されてしまう」と政策と戦略を誘導する必要がある。
  そもそも、国際法と諸国家の憲法と法律が、世界の公私権力の内外の人間による全体破壊手段を含む無差別的破壊手段の研究・開発・製造・保持・使用を禁止する必要がある。だが、そうはいかなかった。それは選択的破壊手段を開発し製造する科学技術がなかったからである。そのような科学技術のある現代と今後は無差別的破壊手段は禁止されるだろう。無差別的破壊手段はそのような科学技術のなかった過去の遺物に過ぎない。
  さらに、選択的破壊手段とSMADの選択性を高め、大戦を予防しつつ全体破壊手段を全廃し予防するためには、世界の市民が以下のように振る舞う必要がある。
  国際社会における国家の間の縦割りの構造・動態に対して、世界における「(世界の市民と世界の権力者の間の)横割りの構造(・動態)」も存在し機能しうる。歴史上、専制を倒し革命を起こしたり、宗主国から独立するために、いくつかの国家の反政府勢力が連携することがあった。それらも横割りの構造・動態の例である。今後は全体破壊手段の全廃と予防と世界大戦の予防のために横割りの構造・動態が必要となってくる。以下はその構造の例である。
  まず、世界の政府と軍の主要施設近隣に一般市民が居住しない運動を展開する必要がある。これを「権力疎外」と呼べる。地球規模の権力疎外があれば、前述の選択的破壊手段-SMADの選択性がさらに高まり、一般の戦争において、権力者は互いを破壊し合あい、一般市民を犠牲にせず戦争が終わる可能性が大きくなる。全体破壊手段や大量破壊手段を使用する必要性と可能性が小さくなる。権力疎外は、全体破壊手段が使用された場合に備えるのではない。全体破壊手段が使用されれば、一般市民は地球上のどこにいても無駄である。権力疎外は、選択的破壊手段とSMADの選択性を高め、全体破壊手段と大量破壊手段の開発、保持と一般の戦争の必要性と可能性を減じる手段である。仮に全体破壊手段が全廃された後も、また、予防されている状態でも、大量破壊手段の使用と一般の戦争を防ぐために権力疎外は維持される必要がある。
  また、横割りの構造の下層部が権力疎外を反全体破壊手段または反戦運動として行うだけでなく、その分割を超えて以下が必要である。少なくとも軍を統括する文官と軍の幹部が職務を行う施設は公開される必要がある。また、彼らが視察や外交…などの職務のために国内および国外で移動する場合はそれらの職務がなされている現在の場所が公開される必要がある。彼らがそれらの施設または場所から退避したりそれらを外れたり、特にシェルターに退避したり市民の間に隠れた場合は、彼らはその地位を放棄したと見なされ、代替が選任される必要がある。それらが憲法などの基本的法と法律で規定され実施される必要がある。また、政府や軍の主要施設が移転する場合はその周辺住民が移転する費用は少なくとも一部補償される必要がある。
  また、選択破壊手段-SMADをより選択的にするためには、世界のそれぞれの国家の市民、反政府勢力、政権内隠密離反者は自国の政府と軍に係る情報を積極的に他国に互いに漏らす必要がある。それは「権力相互暴露」と呼べる。そうすればより正確かつ選択的に世界の政府と軍の主要施設だけが破壊される。これは世界の権力と世界の市民という横割りの構造・動態の極致と言えるだろう。だが、それだけ一層、それらを暴露した権力内外の人々は「裏切り者」として厳しく非難され処罰される恐れがある。だが、以下のように国際法と諸国家の憲法と法律が改正されていればそのようなことはない。
  そもそも、繰り返すが、国際法と諸国家の憲法と法律が、世界の公私権力の内外の人間による全体破壊手段を含む無差別的破壊手段の研究・開発・製造・保持・使用を禁止する必要がある。また、それらを公私権力の内外の人間が暴露することは奨励される必要がある。それに対して、前述の選択的破壊手段についてはどうだろうか。選択的破壊手段に関するものはすべていわゆる「国家機密」になるように見える。だが、機密なるものは誰かが有意義な部分を漏洩しえるから機密なのであり、誰も有意義な部分を漏洩することができなければ機密にならない。SMADのための選択的破壊手段は宇宙や海底などの探知不能の場所に存在し機能する必要があるだけでなく、その場所は常にランダムに変化する必要がある。その所在を漏洩することは、誰にも不可能である。何故なら、その所在を転送するのにゼロコンマ数秒以上の時間がかかるが、そのような時間のうちにはその所在は変化しており現在の所在は予測不能だからである。そのように見て行くと、真の国家機密は存在しないことが分る。また、国家権力を含む公権力に係るすべてのものを公私権力の内外の人間が暴露することは、いかなるもののためにも制限されてはならず制限される必要のない自由権である。だから、兵器や戦術や戦略を含む公権力に係るすべてのものを公私権力の内外の人間が暴露することは、その無制限の自由権に基づいてそれぞれの国家の憲法と法律と国際法で擁護されることは必要であるだけでなく可能である。すると、そのような暴露を裏切りとして告訴したり罰することが、違憲違法であり裏切りと見なされる。
  さらに、横割りの構造と縦割りの構造の混合の中で以下のようなことが可能になる。独裁制によって苦しむ国家の市民は民主的分立的制度の確立した他の国家に自国の独裁政権を倒してもらおうとするだろう。だが、この場合に限って、それがSMADとなって後者の国家権力も破壊されたのでは前者の市民も後者の市民も困る。前者の市民と隠密離反者と後者の政府と軍が綿密に連携すれば、前者の政府と軍の中枢だけが破壊され、前者を民主化し分立することは可能だろう。
  権力疎外、権力相互暴露によって選択的破壊手段とSMADの選択性がさらに高まる。それらは重複する。重複するそれらを「選択的破壊手段-SMAD-権力疎外-権力相互暴露」と呼べる。それは世界の市民にとっては、自分たちを犠牲にせず、最悪でも権力者だけを犠牲にすることである。簡単に言ってそれは、世界市民が世界の権力者に「どうしても何かを破壊したいのなら、権力の中枢を破壊するだけで十分だよ」と諭すことである。他方、権力者にとっては選択的破壊手段とSMADは効率的な戦略である。国防費も削減できる。それは世界の権力者と市民の両方から世界大戦と全体破壊手段の必要性と可能性を減じる。
  近代国家の形成以来、独裁、全体主義、大量虐殺、戦争、全体破壊手段の使用と人間を含む生物の絶滅の危機…などの血なまぐさい出来事のほとんどは、国際社会を構成する国家という縦割りの構造・動態の中で生じてきた。それに対して、横割りの構造の中で生じえる血なまぐさい出来事としては権力者の犠牲と世界革命があるだけである。その世界革命を無血革命とするためには権力を有力な権力内隠密離反者で満たしていく必要がある。また、前述のようにして市民の間の争いを極小化する必要がある。

全体破壊手段が削減ではなく全廃でなければならない理由

  全体破壊手段が削減ではなく全廃でなければならない理由は以下のとおりである。
  全体破壊手段が数十年数百年使用されなかったとして、そのことは全体破壊手段の存続の理由にならない。数十年、数百年使用されていないとしてもそれは以下の理由によるに過ぎない。

(1)「相互確証破壊(MAD)」によって全体破壊手段保有国を含む戦争が生じなかったこと
(2)全体破壊手段の保持者、管理者が通常の情動と自我をもっていたこと
(3)自然災害による事故、老朽化…など科学者技術者が予想しえない事故が全体破壊手段に起きなかったこと
(4)国家権力が保持する全体破壊手段にテロリスト、ハッカー、外国政府、外国の軍、外国の諜報機関…などの部外者が侵入し操作しなかったこと
(5)国家権力による報復の連鎖がなかったこと。
(6)(3)(4)(5)の複合、つまり、事故または部外者の侵入操作による全体破壊手段の暴走が敵対国によるものと誤解され報復の連鎖が始まらなかったこと。

  繰り返すが、(1)-(6)は全体破壊手段がたかだか数十年、数百年使用されなかった理由に過ぎない。私たちが目指すのは数十年や数百年ではなく地球や太陽の激変と自然な終焉のときまでの人間を含む生物が生存である。そのような生存のためには(1)-(6)は脆弱過ぎる。
  (3)(4)(5)(6)のもろさは容易に理解されると思う。(1)(2)について、以下のとおり。(1)は(2)を前提とする。つまり、MADは全体破壊手段の保持者、管理者が通常の情動と自我をもつことを前提とする。だが、彼ら彼女らはどんな情動と自我をもってどんな意識的機能に出るかわからない。彼ら彼女らがうつ状態、躁状態、幻覚妄想状態、薬物依存乱用における離脱…などに陥ることはありえる。さらに、そのような精神障害における精神状態がなくても、以下がありえる。
  例えば、支配性と自己永遠化欲求と権力欲求が強烈な人間が全体破壊手段を含む公的武力を含む政治的権力を握っているとき、また、戦争や革命の動きによってその者が握っている政治的権力が危いとき、その者はシェルターに潜って全体破壊手段を地上に向けて使用して地上の人間を絶滅させ、その後で地上に戻って地上を支配しようと思うかもしれない。しかも、核兵器を使用してしまうと資源の多くが汚染されてしまい、放射能が何世代も残る。そこで、核兵器の使用は限定的にして、不変遺伝子手段を使用して地上の人間を絶滅させ、感染の危険がなくなってから地上に戻ろうとするかもしれない。さらに、世界中の独裁者の何人かがいっせいに以下のようなことを考えているかもしれない。「他の独裁者に全体破壊手段を使わせ、それを極悪人とする。自分たちはいち早く地下のシェルターに退避する。地上の人間が絶滅した後で地上に戻って地上を支配する。人口は地下に退避していた者が生き残るだけで激減し、環境と資源はすぐに回復し、なかなか悪化しない。だから、互いに争う必要がない。かといって互いに協調する必要もない。そこでそれぞれが好き勝手に地上を支配できる。これこそが地上の楽園だ」と思っているかもしれない。
  上は一例に過ぎない。人間は権力を握ると、全体破壊手段をもってどんな情動と自我でどんな意識的機能を生じるか分からない。過去に権力を握った人間が専制へと走り、人々を弾圧し虐殺し戦争を繰り広げ…などは、よくあったことで、世の常だ…などと言われるかもしれない。だが、それは全体破壊手段や精巧なシェルターがなかった時代に言えることである。現代では権力を握った人間は全体破壊手段と精巧なシェルターを用いて何を考え何をするか分からない。だから、市民は権力を民主化し分立して権力者を抑制し、全体破壊手段を全廃し予防し続けるしかない。全体破壊手段は、地表や地底や海底や宇宙のものも含め、公権力がもつ可能性があるものも私的権力がもつ可能性があるものも含めて全廃でなければならない。そうしなければ、人間を含む生物の生存はありえない。

一方的廃止の積み重ね

  国際機構の無力さと形骸化は歴史上何度も経験された。全体破壊手段の全廃と予防のために国際機構が必要だとしても、さしあたりは全体破壊手段の全廃と予防に限定した国際機構を確立する必要がある。集団安全保障、軍縮全般、世界の市民の自由権の擁護と社会権の保障…など多目的の広汎な国際機構を構築した場合、その機構の挫折または形骸化によって全体破壊手段の全廃予防も挫折する恐れがあるからである。
  いずれにしても全体破壊手段全廃予防のためには国際的な交渉、会議、憲章または機構は不可欠のように見える。そうだろうか。なんらかの国際的な機能または機構による相互の廃止・予防を「相互廃止」と呼び、それぞれの国家による自主的一方的な廃止・予防を「一方的廃止」と呼んで区別できる。
  前述の選択的破壊手段-SMAD-権力疎外-権力相互暴露があれば、全体破壊手段は不必要である。さらに、不必要であるだけでなく、維持するのに莫大な経費と労力を要するお荷物である。また、少しでも注意を怠れば、全体破壊に繋がらなくても大量破壊に繋がる。そんなものはすぐに一方的に廃止したほうがよい。国防について、全体破壊手段、大量破壊手段…などの無差別的破壊手段を増強するより、前述の選択的破壊手段を増強するほうが効率的である。小国も選択的破壊手段をもつことができ、大国の政府と軍の中枢を破壊することができ、大国を抑止することができる。全体破壊手段を保有していた国家権力は過去の政策と戦略を嘲笑するしかない。もはや全体破壊手段や大量破壊手段は過去の遺物でしかなく、誰もが一方的に廃止したほうがよい。そのような選択的破壊手段-SMAD-権力疎外-権力相互暴露による一方的廃止の積み重ねこそが、全体破壊手段の全廃と予防への決定的方法である。
  以下が一方的廃止の積み重ねを促進する。

(1)世界の権力者と世界の市民という横割りの構造・動態が熟成し、その下部で世界の市民が信頼し合う。
(2)縦割りの構造の中でそれぞれの国家において市民が国家権力を民主化し分立する。
(3)(2)で選ばれた国家権力の保持者が横割りの構造の上部で少なくとも互いに不信感をもたない。

確かに、(1)(2)(3)は一方的削減の積み重ねを促進する。だが、それらは必須ではなく促進するものに過ぎない。それぞれの国家が一方的に廃止するのは、自国の利益のためであって、信頼などという情動は必須ではない。他方で軍官学産複合体は全体破壊手段の開発、製造のための促進剤だったが、前述のとおり、その複合体は国家権力を自由権を擁護する法の支配系(L系)と社会権を保障する人の支配系(S系)に分立することによって解消される。選択的破壊手段-SMAD-権力疎外-権力相互暴露と軍官学産複合体の解消による一方的廃止の積み重ねが今後の全体破壊手段の全廃予防の決定的方法である。

広汎な世界機構を自由権を擁護する法の支配系(L系)と社会権を保障する人の支配系(S系)へ分立すること

  過去には国際機構はあくまでも国家の代表による「国際」機構であり、国家の代表による総会とそれによって選出される委員会または理事会と事務局しか考えられず、それらに発展または改善の余地はほとんどないという見方が多かった。国家が構成する「国際」社会という「縦割りの構造・動態」しか念頭になかった時代にはそれに無理はないのかもしれない。国際機構とは、国家を単位として、それぞれの国家が構成する機構である。それに対して、国家を単位としない部分が単位とする部分より優位である機構を「世界機構」と呼べる。世界の市民と世界の権力という横割りの構造がある程度、根付くと、世界市民による国際機構または世界機構の直接選挙の可能性が見えてくる。その可能性が見えてくると、世界機構が見えてきて、国際機構または世界機構の改善の余地が見えてくる。
  また、世界の市民の自由権、政治的権利…などの擁護と社会権の保障を含む多目的で広汎な世界機構の可能性が見えてくる。それとともに世界機構の独裁、全体主義…などへの暴走の恐れが見えてくる。私たちは国家レベルのそのような暴走の恐ろしさを身をもって体験してきたのだが、世界レベルのものの恐ろしさは想像を絶する。そのとき広汎な世界機構を自由権を擁護する法の支配系(L系)と社会権を保障する人の支配系(S系)へ分立することの必要性が見えてくる。広汎な世界機構のL系とS系の分立は、国家権力のそれとほとんど同じであり、可能であり容易である。つまり、その分立には必要性だけでなく可能性もある。だが、その分立の必要性は、広汎な世界機構の必要性が見えてきたときに限られるように見える。だが、広汎な世界機構の必要性が見えるまで待っているのでは遅いかもしれない。その必要性が本当に見える前に、人間や生物の全体の生存を名目として、その必要性を誰かが捏造し、広汎な世界機構を構築し、独裁、全体主義…などに暴走する恐れは十分にある。だから、広汎な世界機構の必要性が見えて来る前に、国家権力だけでなく広汎な世界機構をL系とS系に分立する必要性と可能性を世界の市民が理解しておく必要がある。

悪循環に陥る傾向への直面

  では、生存と自由の両立を阻害する個人の問題に向かっていく。悪循環に陥る傾向については『悪循環に陥る傾向への直面』で詳しく説明される。お読みいただきたい。ここでは簡単に説明する。人間では一般に様々に大なり小なり、以下のような(悪循環に)陥る傾向が形成される。簡単に言って、誰もが陥る傾向をもっている。だが、強烈なもののほうが分かりやすいと思うので、ここでは基本的なものとやや強めのものを説明する。まず、基本的用語を説明する。

[母親]実母に限らず、最も頻繁に乳幼児を世話した人間を指す。実母、実父、義母、義父、兄姉、祖父母、近所の人、保育士…などが母親になりえる。また、複数の人間が母親になりえる。例えば、母親が仕事で忙しく、家に不在のときは祖母(母親の母親)が子供の面倒を見ている場合、母親と祖母が母親になりえる。また、実母が仕事で忙しく、幼児を保育所に預けていた場合、実母と保育士が母親になりえる。しかも、保育士は複数である。だが、多くの場合は実母が母親である。それは理想的な理由によるのではなく、現実的な理由による。
[母親の愛情]新生児に初めて対面したときまたは成長していく乳幼児と接するときに自然に生じる情動を「母親の愛情」と定義できる。そのような自然な情動は上のような意味での母親になったことがある人間にしか分からない、母親の愛情とは何かと考えるような人間はそれをもっていないと言うのも一概に極論ではないだろう。いずれにしてもこれらの著作は有り余る愛や犠牲を厭わない愛が必要と言うものでは全くない。
[乳児期幼児期前半]自暴自棄、粘着、自己顕示…などの本能的機能を乳幼児なりの幼い自我が模倣しそれらに便乗することによって自我の傾向が形成される時期を「乳児期幼児期前半」と呼べる。人間において平均的に、0歳から3歳まで。
[乳幼児的陥る傾向]人間において平均的に乳児期幼児期前半において、本能的機能を乳幼児なりの幼い自我が模倣しそれらに便乗することによって形成される自我の傾向のうち、様々な悪循環に陥るものを「乳幼児的(悪循環に)陥る傾向」と呼べる。自暴自棄的傾向、粘着的傾向、自己顕示的傾向、何でも支配する傾向、何でも破壊する傾向、ナルシシズム、孤立的傾向…などがある。
[幼児期後半前思春期]自己のイメージが生成し、自我が自己のイメージに対処することによって自我と情動とイメージの想起の傾向が形成される時期を「幼児期後半前思春期」と呼べる。人間において平均的に3歳から12歳まで。
[前思春期的陥る傾向]人間において平均的に幼児期後半前思春期において、自我が自己のイメージに対処することによって形成される自我と情動とイメージの想起の傾向のうち、様々な悪循環に陥るものを「前思春期的(悪循環に)陥る傾向」と呼べる。自己のイメージと世界のイメージの間の間隙、自己がやがて死ぬことへの不安、自己永遠化欲求、自己肥大化、自己美化、…などがある。
[思春期]自我の傾向が自我が自己の自我の傾向と意識的機能の能力に対処することによって形成される時期を「思春期」と呼べる。人間において平均的に12歳から17歳まで。
[思春期的陥る傾向]人間において平均的に思春期に、自我が自己の自我の陥る傾向と意識的機能の能力に対処することによって形成される自我の傾向を「思春期的(悪循環に)陥る傾向」と呼べる。陥る傾向を回避し取り繕う傾向を含む。
[イメージを回避すること]不安、自己嫌悪、恥辱…などの精神的苦痛を生じるイメージを苦痛を生じない他のイメージに切り替えること
[イメージを取り繕うこと]精神的苦痛を生じるイメージを苦痛を生じないイメージで覆うこと
[(イメージへ)直面すること]精神的苦痛を生じるイメージを切り替えたり覆ったりせずに何らの形で操作すること

  乳児期幼児期前半の乳幼児は母親の愛情と世話を求めて、短絡し、自暴自棄的、粘着的になり、自己顕示し何でも支配し何でも破壊する。それらは乳幼児的陥る傾向に含まれる。母親が自然な愛情をもって乳幼児の世話をすれば、乳幼児は乳児期幼児期前半の終わりまたは幼児期後半前思春期の初めに、愛情と世話に満足し、それら以外のものを求め、乳幼児的陥る傾向が減退する。それに対して、母親の愛情と世話が希薄であると、幼児は愛情と世話を求め続けて、乳幼児的陥る傾向が減退せず、生涯に渡っ強いまま残りえる。また、どんな母親も乳幼児と常に一緒に居ることができず、乳幼児は大なり小なり孤立せざるをえず、孤立に対処しようとし、孤立的傾向が形成される。それも乳幼児的陥る傾向に含まれる。母親の愛情と世話の希薄によっては強い孤立的傾向が形成される。
  幼児期後半前思春期の初め頃にはほとんどの人間において。自己のイメージが生成し始める。だが、自己のイメージは複雑である。だから、自己のイメージと世界のイメージの間には間隙がある。自己のイメージが生成し始めてからしばらくして、「自己がやがて死ぬことへの不安」の傾向と「自己を永遠の存在としようとする欲求」の傾向が形成され始める。自己を永遠の存在としようとする欲求を「自己永遠化欲求」「永遠を求める欲求」「永遠を求めること」…などとも呼べる。その間隙、その不安、その欲求は前思春期的陥る傾向に含まれる。乳児期幼児期前半に強い孤立的傾向が形成されたとき、自己のイメージと世界のイメージの間の間隙が拡大し、その不安とその欲求が強烈になる。また、その間隙の拡大は自己肥大化、自己美化を生じる。それらも前思春期的陥る傾向に含まれる。
  自己永遠化欲求はその後もほとんど減退せず残る。どうやって自己を永遠化するか。そんなに遠くない昔、多くの人間は宗教の中で現実の世界を超える永遠と見えるものに自己を超越させるまたは一体化することによって自己を永遠の存在としようとしてきた。だが、そのような現実の世界を超えるものを信じることには無理があった。現代では多くの人間は人間を含む自然、一般の人間、「大衆」、身近な家族や友人…などと一体化することによって自己を永遠の存在としようとする。また、愛は個人を超え永遠であると感じ、誰かまたは何かを過剰に愛する人がいる。子供に何かを託せると思い、子供に何かを残そうとする人がいる。美を永遠だと思い、作品に刻もうとする人がいる。歴史に栄誉、業績…などを残そうとする人がいる。この最後の傾向の結末については後に説明する。
  自己のイメージと世界のイメージの間の間隙、自己がやがて死ぬことへの不安、自己永遠化欲求、自己肥大化、自己美化…などの前思春期的陥る傾向のほとんどは粘着、自己顕示、なんでも支配すること、ナルシシズム…などの乳幼児的陥る傾向のほとんどを補強し、その逆もある。
  望む望まないに係らす、子供は大なり小なり母親や父親を含む年長者の自我、情動、意識的機能を模倣する。それらの陥る傾向も模倣する。思春期にはその模倣の対象が思春期以降の生き方を含むようになる。家庭や仕事を大切にする母親や父親の生き方を模倣し、家事や特定の職業に必要な技術を模倣することがある。強い支配性、破壊性、自己顕示性、強い権力欲求、高い権力獲得能力をもつ人間たちと関係し、それらの支配、破壊、自己顕示、権力獲得の方法を模倣し、自身のそれら傾向と能力が増強されることがある。それについては後述する。親たちに反抗して、それらの逆の生き方を模倣することがある。それについては次に述べる。
  どの時期も子供は親たちの干渉に対して反抗するが、思春期には反抗が意図的で力強いものになる。反抗は独立のための原動力になりえるが、強く常に反抗するのでは以下のようになる。反抗という対人機能の能力だけが発達し、それ以外の対人機能の能力が未熟にとどまる。また、反抗の対象の生き方と逆の生き方が偏って形成される。
  思春期的陥る傾向は以上の模倣と反抗から形成される傾向のいくつかと次に述べる陥る傾向を回避し取り繕う傾向を含む。
  自己の乳幼児的、前思春期的陥る傾向がイメージとして現れる(思い浮かぶ)と、不安、自己嫌悪、恥辱…などの強い苦痛が生じる。例えば、粘着性と自己顕示性は、他人から疎んじられるだけでなく、自己嫌悪と恥辱という強い苦痛を生じる。何より、母親に愛されなかったために愛を求め続けて他人に粘着し自己顕示しているなどということは考えたくもないし他人に知られたくもない。また、自己がやがて死ぬことへの不安におののいて名誉を求めているなどということも考えたくもないし他人に知られたくもない。そこで、思春期以降、特に思春期の自我は、そのような苦痛を減退させるために、自己の乳幼児的陥る傾向と前思春期的陥る傾向がイメージとして現れ(思い浮かび)、強い苦痛を生じると、その苦痛に満ちたイメージをあまり苦痛を生じないイメージ、特に自己の美点と思われるもののイメージに切り替える、または、あまり苦痛を生じないイメージで覆い尽くす。それを「(悪循環に)陥る傾向の(イメージを)回避し取り繕うこと」と呼べる。例えば、思春期には誰もそれなりのルックスとスタイルをもっており、それらのイメージで自己の陥る傾向のイメージを覆って取り繕おうとする。また、後に権力を獲得する人間のほとんどは既に思春期にある程度の権力獲得のための能力をもっており、自己の陥る傾向のイメージをその能力のイメージに切り替える。誰もが大なり小なり陥る傾向を回避し取り繕い、誰もにおいて大なり小なり陥る傾向を回避し取り繕う傾向が形成される。強い乳幼児的陥る傾向と前思春期的陥る傾向が強い人間おいては、強い陥る傾向を回避し取り繕う傾向が形成される。陥る傾向を回避し取り繕う傾向が強く形成されるほど、自我がなかなか陥る傾向に直面できず、陥る傾向は減退しない。それが最大の悪循環である。以上の乳幼児的陥る傾向と前思春期的陥る傾向と陥る傾向を回避し取り繕う傾向を含む思春期的陥る傾向を「(悪循環に)陥る傾向」と呼べる。
  以上は人間の誰にでもある基本的な陥る傾向とやや強めの陥る傾向である。わたしたちのそれぞれがそれなりの陥る傾向をもつ。わたしたちのそれぞれが自己の陥る傾向に直面する必要がある。
  陥る傾向の最大の原因は乳児期幼児期前半の母親の愛情と世話の希薄や思春期の過度の干渉と反抗や模倣にあるのではなく、思春期以降、特に思春期に形成される陥る傾向を回避し取り繕う傾向にある。私たちは何より自己の陥る傾向を回避し取り繕う傾向に直面する必要がある。陥る傾向を回避し取り繕ったのは思春期の自我であり、まるで昨日のことのように思い出され、直面できるだろう。社会において権力や権力者から自由になったとしても、個人は個人の悪循環に陥る傾向に陥っている。それから自由になるためにはわたしたちのそれぞれは陥る傾向に直面する必要があり、特に陥る傾向を回避し取り繕う傾向に直面する必要がある。

独裁型陥る傾向

  すべての権力者が強烈な陥る傾向をもつわけではない。だが、ほとんどの強烈な権力者や独裁者や専制者は以下のような陥る傾向をもつ。以下のような陥る傾向を「独裁型(悪循環に)陥る傾向」と呼べる。
  乳幼児的陥る傾向の中で支配性、破壊性、自己顕示性、孤立性が優位になる。その原因としては、愛情と世話が希薄な中で、支配、破壊が疎んじられなかったことと自己顕示的傾向が満たされなかったこと、つまり、やはり、愛されず、賞賛されなかったことがあると考えられる。
  前思春期的陥る傾向の中では以下のとおり。乳児期幼児期前半に孤立的傾向が強く形成されたことによって、自己のイメージと世界のイメージの間の間隙が拡大している。だから、自己がやがて死ぬことへの不安と自己永遠化欲求が強くなる。
  幼児期後半前思春期と思春期には以下のようなものが模倣される。例えば、家族の中にある程度の栄誉を得たり業績を残している人間がいて、その人を模倣するかもしれない。また、実在のまたは架空の英雄や偉人の物語を読んで模倣することがあるかもしれない。すると、歴史に栄誉、業績…などを残し、それによって自己永遠化欲求を満たそうとするようになる。そのために社会の中で他人を支配して何か偉大なことをしようとする。そのためには権力とカネを獲得しなければならない。すると、それらのための手段であったはずの権力やカネに対する欲求が強く形成される。権力やカネを含めて社会の中で他人を支配して何かをするための手段を「(狭義の)権力」と呼び、それに対する欲求を「(狭義の)権力欲求」と呼べる。そのような狭義の権力、権力欲求は、ニーチェが言う広い意味をもつ権力、「権力への意志」とは少し重なるだけである。
  そこまできた人間はそれらの傾向と欲求をもちある程度の成功―倫理的には堕落であり法的には犯罪だろうが―を収めた人間たちに憧れるまたはそれらの人間たちの中に入ることが多い。彼らはそれらの人間の自己顕示、支配、破壊、権力獲得…などの方法を模倣する。すると、彼らの自己顕示性、支配性、破壊性…などの乳幼児的陥る傾向と自己肥大化、自己美化…などの前思春期的陥る傾向と権力欲求がますます強くなる。それとともに、自己顕示する能力、支配する能力、破壊する能力、権力を獲得する能力…なども形成される。
  そこで、自己の陥る傾向がイメージとして現れる(思い浮かぶ)と、そのような能力をもつ自己のイメージでもって陥る傾向のイメージを回避し取り繕う。また、後に権力を握ると権力の取り巻きからはもてはやされる。そこで、自己のイメージがますます美化される。それらの自己のイメージでもって陥る傾向のイメージを回避し取り繕う。そこで、陥る傾向を回避し取り繕う傾向が強くなり、陥る傾向に直面することができず、陥る傾向は減退しない。
  そのようにして形成される強烈な支配性、破壊性、自己顕示性を含む陥る傾向と強烈な権力欲求を「独裁型陥る傾向」と呼べる。それをもつ人間が権力を握ると、権力を拡張し独裁や全体主義や独占・寡占へと走る傾向がある。
  そのような人間は自己の陥る傾向に直面する必要があり、特に陥る傾向を回避し取り繕う傾向に直面する必要がある。陥る傾向を回避し取り繕う傾向は独裁型陥る傾向を含む一般の陥る傾向の第一の重点である。

自己がやがて死ぬことへの不安と自己永遠化欲求を減退させること

  独裁型陥る傾向を含む陥る傾向の第二の重点は強烈な自己がやがて死ぬことへの不安と自己永遠化欲求である。また、陥る傾向の外でその不安とその欲求が強く形成され、独裁者型陥る傾向と同様にして権力欲求と権力獲得能力が強く形成されることがある。強い自己がやがて死ぬことへの不安と自己永遠化欲求とをもつ人間が、強い権力欲求を形成し独裁や全体主義や独占・寡占へと走るのを防ぐためには、それらの人間を含むわたしたちのそれぞれが前述のその不安を減退させる決定的方法に至り、その不安を減退させる必要がある。宗教がその不安を減退させることはもはや不可能である。だから、前述の決定的方法に至りその不安を減退させる必要がある。その方法に至ると、自己は既に永遠の存在であって、わざわざ自己を永遠の存在にする必要も、わざわざ自己を永遠と思われるものに一体化させる必要も全くないことをわたしたちのそれぞれは知る。例えば、栄誉を得て残したり歴史に残るようなことをしたり、宗教や神を信じて善い行いをしたりする必要がないことをわたしたちのそれぞれは知る。すると、自己永遠化欲求は減退する。すると、その不安とその欲求が強い人間が強い権力欲求と権力獲得能力を形成し独裁や全体主義や独占・寡占に走ることはかなり防げる。
  だが、その不安とその欲求をあまりもたない人間が強い権力欲求と権力獲得能力をもつことはある。また、強い権力欲求がなくても個人や集団が権力を握り拡張し独裁、戦争、独占、寡占…などへ暴走することはある。だから、もちろん、わたしたちは、既に述べてきたようにして権力そのものを抑制する必要がある。
  自己がやがて死ぬことへの不安を減退させる決定的方法に至ることによって、わたしたちは生と死の限りない繰り返しの中で人間が生じる不必要で執拗で大規模な苦痛があることを知り、前述の世代を超えて実現可能な究極の欲求・目的に至る。そのような苦痛を直接的に生じるのは権力であり、権力がなければそのような苦痛は生じない。だが、だからといって権力をすべて破壊する必要があるというのでは全くない。苦痛を減退させるためには社会権を保障する人の支配系(S系)は必要である。苦痛に対して快楽は、私たちは自由に追求する必要がある。だが、自由権も権力によって侵害されうる。自由権を擁護するためには自由権を擁護する法の支配系(L系)は必要である。また、民主的分立的制度を擁護するためにもL系は必要である。また、S系が社会権を保障する、つまり、人間を含む生物の生存を保障するためにも言論の自由と公正な選挙が必要でありL系が必要である。生存と自由を両立させるためには、わたしたちは陥る傾向に直面しながら、L系とS系への分立を含む民主的分立的制度を確立し維持し、選択的破壊手段-SMAD-権力疎外-権力相互暴露と軍官学産複合体の解消による一方的廃止の積み重ねによって全体破壊手段を全廃・予防する必要がある。

参考文献

生存と自由の詳細

国家権力を自由権を保障する法の支配系と社会権を保障する人の支配系に分立すること

感覚とイメージの想起

自我と自我の傾向

悪循環に陥る傾向への直面

小説『二千年代の乗り越え方』略称"2000s"

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