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生存と自由

わたしたちのそれぞれにそのとき現在に現れているもの

  わたしたち人間のそれぞれは自己がやがて死ぬことへの不安をもつ。それは究極の不安である。その不安を超える方法をわたしたち人間は様々に考えてきた。それが人間の歴史の一側面である。だが、それを超える決定的な方法は見つからなかった。その決定的な方法が後に説明される。
  物質、物質機能、身体、身体機能、神経系、神経機能、神経細胞、神経細胞の興奮と伝達、分子、原子、原子核、中性子、陽子、電子、万有引力、静電気力、磁力、真空、空間そのもの…などを「ものそのもの」と呼べる。それに対して、光景、音、臭い、めまい、味、痛さ、暑さ、寒さ、動悸、息苦しさ、空腹、渇き、吐き気、イメージ、アイデア…などを「心的現象として現れるもの」、現象として現れるもの、現れるもの、心的現象、現象…などと呼べる。この著作はわたしに現れるもの、あなたに現れるもの、過去に現れたもの、未来に現れるであろうもの、わたしに現在に現れているもの、わたしたちのそれぞれにそのとき現在に現れているもの…などを区別する必要がある。だから、これらの著作は心的現象、現象…などの言葉だけでなく現れるもの…などの言葉も用いることにする。現れるものが存在することまたは存在すると前提されることをものが「現れる」ことと呼べる。時間を除くものはものそのものと心的現象として現れるものに完全に分けられる。つまり、それらが分けられた後に余りも重複もない。
  さて、ただ一つの時にただ一群のものが存在することをただ一つのものが確かめることができる。例えば、筆者であるわたしには現在、パソコン、そのキーボードを打つ手、机、壁、窓の光景が視覚で、パソコンを打つ音が聴覚で、キーボードの感触が体性感覚で、適度な空腹が自律感覚で現れており、それらが存在することを私は確かめることができる。ただ一つの時にただ一群のものが存在することをただ一つのものが確かめることができることにおいて、確かめるただ一つのものを「わたし」と呼べ、ただ一つの時を「現在」と呼べ、存在を確かめられるただ一群のものを「わたしに現在に現れているもの」または「わたしに現在に現れている一群のもの」と呼べる。わたしに現在に現れているものが存在することをものが「わたしに現在に現れている」こと呼べる。わたしに現在に現れているものは心的現象として現れるものに含まれる。ものがわたしに現在に現れていることはものが現れることに含まれる。わたしはわたしに現在に現れているものが存在することを確かめることができる。
  さて、それぞれの時にそれぞれの群のものが存在することをそれぞれのものが確かめることができるまたは確かめることができると前提される。例えば、わたしとあなたが見つめ合って話をするとき、わたしに現在に視覚で現れているあなたの顔の光景、聴覚で現れているあなたの声が存在することをわたしは確かめることができ、あなたに現在に視覚で現れているわたしの顔の光景、聴覚で現れているわたしの声が存在することをあなたは確かめることができると前提される。それぞれの時にそれぞれのの群のものが存在することをそれぞれのものが確かめることができるまたは確かめることができると前提されることにおいて、確かめるそれぞれのものを「わたしたちのそれぞれ」と呼べ、それぞれの時を「そのとき現在」と呼べ、存在を確かめられるそれぞれの群のものを「わたしたちのそれぞれにそのとき現在に現れているもの」またはわたしたちのそれぞれにそのとき現在に現れている一群のものと呼べる。わたしたちのそれぞれにそのとき現在に現れているものが存在する、または存在すると前提されることをものが「わたしたちのそれぞれにそのとき現在に現れていること」と呼べる。わたしたちのそれぞれにそのとき現在に現れているものは、わたしに現在に現れているものを含み、心的現象として現れるものに含まれる。ものがわたしたちのそれぞれにそのとき現在に現れていることは、ものがわたしに現在に現れていることを含み、ものが現れることに含まれる。わたしたちのそれぞれはわたしたちのそれぞれにそのとき現在に現れているものが存在することを確かめることができるまたは確かめることができると前提される。
  さて、ものそのものが存在するかを確かめることはできない。例えば、わたしには現在、パソコン、パソコンを打つわたしの手、机…などが視覚で、キーボードを打つ音が聴覚で、キーボードの感触が体性感覚で現れており、それらが存在することをわたしは確かめることができるが、それらは光景、音、感触…など、つまり、心的現象として現れるものに過ぎず、ものそのものではなく、わたしは何をしてもそれらそのものが存在するかを確かめることができない。さらに、わたしに現在に現れているものを除く心的現象として現れるものが存在するかを確かめることができない。例えば、わたしとあなたが見つめ合って話をするとき、わたしに現在に視覚で現れているあなたの顔と聴覚で現れているあなたの声が存在することをわたしは確かめることができるが、あなたに現在に視覚で現れているわたしの顔と聴覚で現れているわたしの声が存在するかをわたしは確かめることができない。
  だが、ものそのものは存在すると前提される。例えば、世界の中のすべてのものが幻に過ぎないとは考えられない。さらに、わたしに現在に現れているものを除く心的現象として現れるものは存在すると前提される。さらに、わたしに現在に現れているものを除くわたしたちのそれぞれにそのとき現在に現れているものは存在すると前提される。例えば、あなたとわたしが見つめ合うとき、わたしにあなたが見えるように、あなたにわたしが見えるとわたしは思っている。
  それらに対して、わたしに現在に現れているものに関する限りで、それらは存在すると前提されるのではなく、それらが存在することをわたしは確かめることができる。例えば、筆者であるわたしは、わたしに現在に視覚で現れているパソコン、キーボード、キーボードを打つわたしの手…などが存在することを確かめることができる。さらに、わたしたちのそれぞれにそのとき現在に現れているものが存在することをわたしたちのそれぞれは確かめることができる、と前提される。例えば、あなたとわたしが見つめ合うとき、わたしに現在に視覚で現れているあなたの顔が存在することをわたしが確かめることができるように、あなたに現在に視覚で現れているわたしの顔が存在することをあなたは確かめることができるとわたしは思っている。結局、わたしに現在に現れているものが存在することをわたしは確かめることができ、わたしたちのそれぞれにそのとき現在に現れているものが存在することをわたしたちのそれぞれは確かめることができると前提される。だが、そのように二つの場合分けを逐次していると文章が煩雑になる。だから、それらのことを「わたしたちのそれぞれにそのとき現在に現れているものが存在することをわたしたちのそれぞれが確かめることができると前提される」こととも呼ぶことにする。
  さらに、わたしに現在に現れているものは数時間の間、連続して存在すると前提される。例えば、筆者であるわたしには朝起きてから夜眠るまで、朝日、街、人間を含む生物、夕日、街灯…などの光景、それらの音声、この著作で書くことのイメージ…などが連続して現れていたし現れているだろう。数時間の間、連続して存在すると前提されるわたしに現在に現れるものを「わたしに現れるもの」、一群のわたしに現れるものと呼べる。また、わたしたちのそれぞれにそのとき現在に現れているものは同様であると前提される。数時間の間、連続して存在すると前提されるわたしたちのそれぞれにそのとき現在に現れるものを「わたしたちのそれぞれに現れるもの」、一群のわたしたちのそれぞれに現れるものと呼べる。例えば、地球上の昼行性の動物に朝起きてから夜眠るまでに現れるものはわたしたちのそれぞれに現れるものに含まれる。わたしに現れるものはわたしに現在に現れているものを含み、わたしたちのそれぞれに現れるものはわたしたちのそれぞれにそのとき現在に現れているものを含む。前者は後者の連続である。
  さらに、わたしに現れるものは神経系とその機能のいくつかの部分から直接的に生じると前提され、それらは個体の身体とその機能に含まれ、ものそのものに含まれる。例えば、わたしに視覚で現れるものは網膜から視神経を経て後頭葉の視覚野に至る神経細胞群の興奮と伝達から直接的に生じると前提される。また、皮膚、骨、腱…などの痛さ、暑さ、寒さ…などの体性感覚で現れるものはそれらから感覚神経、脊髄、脳幹を経て頭頂葉の体性感覚野に至る神経細胞群の興奮と伝達から直接的に生じると前提される。わたしに現れるものを直接的に生じると前提される神経系とその機能の部分を「わたしの現象神経系」と呼べる。また、わたしの現象神経系を含む個体の身体とその機能を「わたしの身体」と呼べる。だが、単なる身体を動物や人間と呼ぶことはできない。まして自己と呼ぶことはできない。それらの言葉はなんらかの心的現象として現れるものを含意する。だから、わたしの身体とわたしに現れるものを「わたしの自己」または「わたし」と呼ぶことにする。また、わたしたちのそれぞれに現れるものも同様に生じると前提される。わたしたちのそれぞれに現れるものを最も直接的に生じると前提される神経系とその機能のいくつかの部分を「それぞれの現象神経系」と呼べる。また、それぞれの現象神経系を含む個体の身体とその機能を「それぞれの身体」と呼べる。また、それぞれの身体とそれぞれの身体が含むそれぞれの現象神経系から直接的に生じると前提されるわたしたちのそれぞれに現れるものを「それぞれの自己」「わたしたちのそれぞれ」と呼べる。
  これまでは、以下のA群とB群を区別してきた。

A群
わたし、現在、わたしに現在に現れているもの、わたしに現れるもの、わたしの身体、わたしの現象神経系、わたしの自己

B群

わたしたちのそれぞれ、そのとき現在、わたしたちのそれぞれにそのとき現在に現れているもの、わたしたちのそれぞれに現れるもの、それぞれの現象神経系、それぞれの身体、それぞれの自己

それらについてある意味で以下のことが言える。

わたし⊂わたしたちのそれぞれ
現在⊂そのとき現在
わたしに現在に現れているもの⊂わたしたちにそのとき現在に現れているもの
わたしに現れるもの⊂わたしたちのそれぞれに現れるもの
わたしの現象神経系⊂それぞれの現象神経系
わたしの身体⊂それぞれの身体
わたしの自己⊂それぞれの自己

だが、A群において、わたしに現在に現れているものは存在すると前提されるのではなく、また、それらが存在することをわたしは確かめることができると前提されるのではなく、それらが存在することをわたしは確かめることができる。それに対してB群において、わたしに現在に現れているものを除くわたしたちのそれぞれにそのとき現在に現れているものは存在すると前提され、それらが存在することをわたしたちのそれぞれは確かめることができると前提される。そのようにA群の出発点が前提から解放されているのに対して、B群ではそうでない。だが、それを除くと、A群に当てはまるものはすべてB群にも当てはまる。だがら、今後はA群とB群の区別をしないことにする。また、それぞれの現象神経系、それぞれの身体、それぞれの自己を現象神経系、身体、自己とも呼ぶことにする。また、前述の通り、わたしに現在に現れているものが存在することをわたしは確かめることができることとわたしたちのそれぞれにそのとき現在に現れているものが存在することをわたしたちのそれぞれは確かめることができると前提されることを「わたしたちのそれぞれにそのとき現在に現れているものが存在することをわたしたちのそれぞれが確かめることができると前提される」こととも呼ぶことにする。

自己がやがて死ぬことへの不安

  前述のとおり、わたしたちのそれぞれに現れるものはそれぞれの身体が含むそれぞれの現象神経系、つまり、神経系とその機能のいくつかの部分から直接的に生じると前提される。言い方を替えれば、現象神経系が機能しなければ、わたしたちのそれぞれに現れるものは生じず存在しないと前提される。実際は、身体の中の心臓や神経系の中の脳幹が不可逆的に機能しなくなり、その結果としてそれぞれの現象神経系が不可逆的に機能しなくなり、その結果としてわたしたちのそれぞれに現れるものが不可逆的に生じず存在しなくなる。自己の身体がわたしたちのそれぞれに現れるものを二度と生じないほどに存在、機能しないことを「身体の死」、身体が死んでいることと呼べる。また、身体が死んでいるようになることを身体が死ぬことと呼べる。身体の死によってわたしたちのそれぞれに現れるものは二度と生じず存在しないと前提される。身体の死とそれが引き起こすと前提されるわたしたちのそれぞれに現れるものが二度と存在しないことを「自己の死」、自己が死んでいることと呼べる。また、自己が死んでいるようになることを自己が死ぬことと呼べる。身体の死はわたしたちのそれぞれに現れるものが二度と存在しないことを引き起こすと前提され、自己の死はそのことを含意する。自己が死ぬと、わたしたちのそれぞれに現れるものとそれが含むわたしたちのそれぞれにそのとき現在に現れているものは二度と存在しないと前提され、わたしたちのそれぞれにそのとき現在に現れているものが存在することをわたしたちのそれぞれは二度と確かめることができないと前提される。
  やがて自己は死ぬ。わたしたち人間のそれぞれは、自己がやがて死ぬことへの不安をもつ。それは究極の不安である。その究極の不安を超える方法をわたしたち人間は様々に考えてきた。それが人間の歴史の一側面である。だが、その究極の不安を超える決定的な方法はなかった。だが、その究極の不安を超える決定的な方法は、既に説明されたことの中に隠されており、すぐ後に説明される。

自己がやがて死ぬことへの不安を超える決定的方法

  自己がやがて死ぬことへの究極的な不安においては、何への不安なのかが身体の死と間違ってとらえられることがある。身体はものそのものに含まれ、身体の死はものそのものの変化に過ぎない。わたしたちはそのようなものそのものの変化だけに不安をもっているのではない。わたしたちのそれぞれは、身体の死だけでなく、それが引き起こすわたしたちのそれぞれに現れるものが二度と存在しないことに不安をもっている。つまり、わたしたちのそれぞれは身体の死ではなく自己の死に不安をもっている。何故なら、わたしたち人間は、脳死を既に死と見なし、それを従来の心臓死と同様に恐れているからである。また、日常においても医療においてもいわゆる「意識」が尊重され、それの消失は重大視されるからである。もっと正確に言うと、前述のとおり、わたしたちのそれぞれに現れるものはわたしたちのそれぞれにそのとき現在に現れているものを含み、わたしたちのそれぞれは後者が二度と存在しないことに不安をもっている。もっと正確に言うと、わたしたちのそれぞれはわたしたちのそれぞれにそのとき現在に現れているものが存在することを二度と確かめることができないことに不安をもっている。例えば、朝に目覚め窓から指す太陽の光を見るとき、自分が生きていることを確かめることができる。自己がやがて死ぬことへの究極的な不安はそれができないことへの不安でもある。
  だが、わたしたちのそれぞれにそのとき現在に現れるものが存在することをわたしたちのそれそれが確かめることができると前提される。簡単に言って、わたしたちそれぞれはその人にとってはわたしである。
  また、自己がやがて死ぬことへの不安は空間と時間が限りないことと従って自己が死んだ後に限りない時間があることへの不安を含む。だが、この限りなさによってこそ、限りない空間と時間をもつ宇宙の中で、地球上の神経系を含む動物の身体と同様の無数の物質が必ず永遠に存在し機能する。例えば、無限の宇宙の中では、あなたと同一の遺伝子をもつ生物でさえも発生する。そのような無数の物質が無数のわたしたちのそれぞれにそのとき現在に現れているものを永遠に生じると前提される。無数のわたしたちのそれぞれにそのとき現在に現れるものが永遠に存在すると前提され、それらが存在することを無数のわたしたちのそれぞれが永遠に確かめることができると前提される。
  また、ものそもの中の身体の間にあるような空間的時間的距離はわたしたちのそれぞれに現れるものの群の間にはない。
  まず、時間的距離について、ものそのものの中では、いくつかの群のわたしたちのそれぞれに現れるものを生じると前提される身体の間には時間的距離がある。例えば、わたしが一億年前に死んで別の惑星で心的現象として現れるものが生じる動物が発生するとき、わたしの身体とその動物の身体の間にはそれだけの時間的距離がある。それに対して、心的現象として現れるものの中では、現れるものが存在しない時間は一瞬でしかない。それは熟睡して覚醒するようなものである。数時間の熟睡も何億年以上の熟睡も全く同じである。より正確に言うと、睡眠は夢を含むから、現れるものが存在しない時間は睡眠以上に一瞬である。例えば、わたしが一億年前に死んで別の惑星で心的現象として現れるものが生じる動物が発生するとき、太陽に照らされた地球の光景が消滅するやいなや、別の恒星に照らされる惑星の光景が現れている。
  次に空間的に、ものそのものの中では、いくつかの群のわたしたちのそれぞれに現れるものを生じると前提される身体の間には空間的距離がある。例えば、地球の正反対にいる人たちの身体の間にはその直径の空間的距離があり、動物が発生しえる星の間には何光年もの空間的距離がある。だが、もし何かがそれらの間を移動する必要があるとしても、その移動時間は前述と同様に一瞬である。また、心的現象として現れるものの中では、わたしたちのそれぞれにそのとき現在に現れているものは、わたしたちのそれぞれのすぐ前にあると前提され、しかも、わたしたちのそれぞれはそれらがすぐ前にあることを確かめることができると前提される。例えば、私が夜、何光年かなたの星を見るとき、私がそうしているのと全く同様に、いくつかの恒星の惑星の視覚をもつ動物が太陽という恒星を見ている。また、心的現象として現れるものの中では、現れるものが空間的にそれに対して現れるものが現れる。それを現れる世界の中心と呼ぶほうが分かりやすいだろう。心的現象として現れるものの中で現れるものが空間的にどこに現れるかを「現れる世界の中心」と呼べる。結果として、それは前述の「わたしたちのそれぞれ」と同一である。それは地球上の脊椎動物では頭部にあるように見える。例えば、両眼で視覚で現れるものは頭部の中の両眼の奥に現れるように見える。ものそのものの中では、前に例を挙げたように、そのような中心、つまり、頭部の間には数センチメートル以上の空間的距離がある。それに対して、心的現象として現れるものの中では、どのような頭部も身体の部分も同様の現れる世界の中心、つまり、わたしたちのそれぞれである。例えば、わたしにとってわたしの頭部が現れる太陽系の中心であるように、何光年かなたの別の系の惑星で発生した動物にとってはその身体の頭部か他の部位が現れるその系の中心である。
  それらのように、心的現象として現れるものの中ではものそのものの中で存在するような空間的時間的距離は存在しない。
  まとめると、心的現象として現れるものの中ではものそのものの中で存在するような空間的時間的距離は存在しない。わたしたちのそれぞれにそのとき現在に現れるものは存在すると前提され、それが存在することをわたしたちのそれぞれが確かめることができると前提される。限りない空間と時間をもつ宇宙の中で、無数のわたしたちのそれぞれにそのとき現在に現れるものが永遠に存在すると前提され、それらが存在することを無数のわたしたちのそれぞれが永遠に確かめることができると前提される。それらのことを知ることが自己がやがて死ぬことへの不安を超える決定的方法である。
  自己がやがて死ぬことへの不安を克服して死んでいった人々はその決定的方法を曖昧に比喩的または直感的に知っていたのである。上の方法をやや比喩的に説明し直してみる。
  わたしたちが生まれて死んで生まれて…と繰り返すことは、わたしのそれぞれが記憶喪失を繰り返しながら永遠に生きることに等しい。確かに、身体が死ぬたびに神経系も死に、生成し記銘、保持されたイメージの素材が消失し、記憶喪失が生じる。確かに、やがて死ぬことへの不安の一部は記憶喪失への不安である。だが、記憶喪失は記憶をもつ動物が甘受する必要がある唯一のものである。わたしたちは記憶喪失以外のいかなるものも甘受する必要はない。わたしたちのそれぞれはすべてを忘れてやり直す。繰り返すが、わたしたちが生まれて死んで生まれて…と繰り返すことは、わたしのそれぞれが記憶喪失を繰り返しながら永遠に生きることに等しい。
  以下はさらに比喩的な説明だが、理解の助けになればよいと思う。わたしたちのそれぞれにそのとき現在に現れているものが存在することをわたしたちのそれぞれが確かめることができると前提されることは、ものそのもの、空間、時間を含むあらゆるものを超える。わたしたちのそれぞれにそのとき現在に現れるもののいくつかの群の間には何光年以上の空間的時間的距離があるように見える。だが、そのような見かけの空間、時間的距離は深い眠りに落ちて目覚めるようなものであり無である。わたしたちのそれぞれは何光年と遠かろうが数メートルと近かろうがわたしたちのそれぞれに一瞬にしてなる。例えば、あなたが死ぬときわたしになり、わたしが死ぬときあなたになる。何光年が無であるだけでなく、何センチメートルや何フィートも無である。また、過去の無数の感覚以上をもつ動物が既にわたしになっている。
  それらはあくまでも比喩的な説明であるが、前述の方法を理解する助けになればと思う。比喩的ではあるが、この章で説明された自己がやがて死ぬことへの不安を超える方法を「(再び)生まれて(再び)生きることを知ること」「生と死の限りない繰り返し知ること」と呼べる。

生と死を超えて実現可能な究極の欲求

  だが、わたしたちは感覚をもつだけでは満足しない。記憶、感情、欲求、自我、思考…などをもちたい。だが、感覚をもつ動物とそれらの自然とそれらが進化するための自然が存在し機能する限り、感覚をもつ動物が前述のような機能をもつ動物に進化する。それらまでの見かけの空間的時間的距離は深い眠りに落ちて目覚めるようなものである。
  だが、いつかは、最大限でも太陽や地球の自然な老化や死滅に伴って人間を含む地球上の生物は絶滅する。それを「自然な終わり」と呼べる。何人かの人間が宇宙船に乗って他の惑星や他の恒星の惑星へ移住して生き延びることができても、多くの人間とほとんどの生物は死滅するのであり、また、それらの移住者は別の環境で別の方向へ進化するのであり、私たちはそれを「人間」や「生物」の生存と見なすことはできない。
  だが、限りない空間と時間をもつ宇宙の中では、地球上の生物と同様の無数の物質が永遠に存在し機能し、地球上の進化と同様の無数の機能によって、地球上の感覚以上をもつ動物と同様の限りない物質が存在し機能してきたし永遠に存在し機能し、それらの物質が限りないわたしたちのそれぞれにそのとき現在に現れているものを永遠に生じると前提される。そのような心的現象として現れるものの間の見かけの空間的時間的距離は深い眠りに陥り目覚めるようなものであり無である。
  だが、人間の多くは、少なくとも地球や太陽の自然な老化や死滅のときまで地球で人間または進化した人間として再び生まれ再び生きたいと思っているのではないだろうか。それが人間が生と死を超えて実現可能な究極の欲求である。それを(生と死を超えて実現可能な)「究極の欲求」と呼べる。そのような欲求は個体を超え世代を超えて満たすことが可能である。何故なら、生物が発生するような星または系の間には何光年の空間的時間的距離があり、ある星または系の生物が他の星または系の生物にほとんど影響を与えないのに対して、地球を含む同一の星または系の中では、どんな生物もそれ以降に生まれるあらゆる生物になんらかの方法で影響するからである。もちろん、自然な終わり以前にそれらを絶滅を促進するよう影響することも可能だが、生存を促進するよう影響することも可能である。

全体破壊手段の全廃と予防

  だが、わたしたち人間は、後述する核兵器と不変遺伝子手段によって、地球や太陽の自然な老化や死滅、つまり、自然な終わりの前に地球上の人間を含む生物を絶滅させる可能性をもつ。それを、自然な終わりに対して、「人為的な終わり」と呼べる。
  人間によって誘発される核分裂、核融合…などの原子核の変化を含む兵器を「核兵器」と呼べる。核兵器のいくつかの亜種のいくつか以上がいくつかの状況で使用されれば、地球上の人間を含む生物は絶滅する。
  自身を複製し突然変異を被ることができない可能性をもつ人間によって操作された遺伝子を「不変遺伝子」とも呼べ、不変遺伝子を含む手段を「不変遺伝子手段」とも呼べる。従来の遺伝子は突然変異を被ることができ、従来の遺伝子手段は自然淘汰されるだけだった。それに対して、不変遺伝子は突然変異を被らず、そのような遺伝子を含む不変遺伝子手段は自然淘汰されず、無際限に増殖して、地球上の人間を含む生物を駆逐し絶滅させる可能性をもつ。
  人間は核兵器と不変遺伝子手段によって人間を含む生物を絶滅させる可能性をもつ。核兵器と不変遺伝子手段を「全体破壊手段」と呼べる。
  人間以外の生物の種は、繁栄すれば、その繁栄によって自らの自然を破壊し、その破壊によって衰退または絶滅する。その衰退によってその自然は復活しその種と他の種は生存し、その絶滅によって他の種は生存する。それを繁栄と衰退のサイクルと呼べる。だが、わたしたち人間はそのサイクルを逸脱している。何故なら、核兵器と不変遺伝子手段が地球の全体で生物の遺伝子を破壊する可能性をもつからである。だから、人間は地球や太陽の自然な老化や死滅以前に生物を絶滅させる可能性をもつ。生と死を超えて実現可能な究極の欲求を満たすためには人間が全体破壊手段、つまり、核兵器と不変遺伝子手段を廃止し予防する必要がある。
  「抑止論」のような核兵器を正当化する理論は全体破壊手段の内部者または責任者がそれらを管理できるほど理性的であることを前提とする。だが、第一に、内部者または責任者がそれらを管理するのに十分な理性をもっていない、または、非理性的になることはありえる。例えば、自殺を考えビルから飛び降りるように制御室から飛び降りる人はありえる。第二に、人間の理性が及ばない全体破壊手段の暴走、故障、老朽化、自然災害による障害を含む事故はありえる。第三に、部外者が全体破壊手段に侵入しそれらを暴走させる可能性はある。全体破壊手段を支持または容認する人々はこれらの三つの可能性を見落としている。
  異星人の襲来が地球上の人間を含む生物を滅亡させるなどというのはフィクションに過ぎない。仮にその可能性があるとしても、その可能性はわたしたち人間が人間を含む生物を絶滅させる可能性よりはるかに小さい。わたしたち人間は異星人の来襲や地球や太陽の自然な老化や死滅に対処する必要はなく、自身と自身の手段を処理していればよい。簡単に言って、人間は他にかまうのではなく自身にかまっていればよい。
  全体破壊手段の詳細は『生存と自由の詳細』で説明される。

人間が生じる苦痛をできる限り全般的に減退させること

  もちろん、人間を含む動物は快楽だけでなく不快をもつ。わたしたち人間は疼痛、暑さ、寒さ…などの身体的不快だけでなく恐怖、不安、喪失、孤独…などの精神的不快ももつ。だが、「不快」という言葉より「苦痛」という言葉のほうが日常で馴染みが深いと思う。また、苦痛という言葉は不可算名詞としては身体的不快だけでなく精神的不快も指す。そこで、これらの著作では「苦痛」という不可算名詞を身体的精神的不快を指すために多用することにする。
  人間は虐待、暴力、戦争、専制、拷問…などによって意図的で執拗な苦痛を生じ被る。快楽より苦痛のほうが多いと思う人は多く、苦痛ばかりだと思う人もいる。そのような苦痛の中では別の固体として再び生まれて生きることが最大の欲求であることがある。そのような欲求が前述のやがて死ぬことへの不安を超える方法や究極の欲求に至ることはあるが、以下に至ることもある。
  前節でいずれ死ぬことへの不安を超える方法、つまり、生と死の限りない繰り返しを知ることが説明されたと同時に、まさにその限りない繰り返しによって限りない苦痛があるという不安が生じるかもしれない。仮に苦痛をもつのが地球上の人間と動物だけであり、地球や太陽の自然な老化や死滅によって苦痛が終わるとしても、その終わりまでには多大な苦痛がある。そのような苦痛があることへの不安はやがて死ぬことへの不安に劣らず重大かもしれない。
  限りないまたは多大な苦痛があることへの不安の中で第一に、誰かが生と死の限りない繰り返しを否定し、別のいわゆる世界観や哲学、宗教の構築することがありえる。だが、生と死の限りない繰り返しは避けられない現実である。とすれば、後述するとおり、全般的な苦痛をできる限り全般的に減退させる必要がある。
  限りないまたは多大な苦痛があることへの不安の中で第二に、誰かが太陽や地球の自然な老化や死滅以前の人間の絶滅や絶滅を生じえる手段、つまり、全体破壊手段を積極的に求めるまたは受動的に容認することがありえる。能動的に求める人は少数だが、受動的に容認する人は意外と多い。だが、全体破壊手段が生じる苦痛は執拗で重大である。核兵器は比較的間接的に例えば、核兵器によって人間が絶滅するとすれば、1945年の夏に広島と長崎が味わった苦痛の何万倍もの苦痛を味わうことになる。しかも、核兵器が発生する放射線はわたしたちの遺伝子を破壊または変容し、発ガン、不妊…などに対する不安とそれらが現実になったときの悲しみという執拗な苦痛を生じる。さらに、絶滅の前には自己、家族、友人、恋人…などの死を含む絶滅の可能性への不安がある。手段が比較的直接的に生じる苦痛と絶滅の可能性への不安という苦痛の総体は地球や太陽の自然な老化や死滅のときまでの人間の苦痛の総体に劣らないだろう。人間の絶滅や絶滅を生じえる手段を容認する人々はそのような苦痛を見落としている。
  限りないまたは多大な苦痛があることへの不安の中で第三に、人間の苦痛だけでなく、生存競争の苦痛、食物連鎖の苦痛…などの生物の苦痛を認め、生物の絶滅や全体破壊手段を能動的に求めるまたは受動的に容認する人々がいる。能動的に求める人はごくわずかだが、受動的に容認する人々は意外に多い。だが、生存競争、食物連鎖…などは人間を含む生物の生存と進化のために必要である。簡単に言って、それらがなければ、今、存在しているようなわたしたちは存在しない。それに対して、全体破壊手段は前述の繁栄と衰退のサイクルも進化も逸脱し、地球や太陽の自然な老化や死滅以前に人間を含む生物の絶滅をもたらしうる。また、人間を除く動物が生じ味わう苦痛は人間が生じ人間を含む動物が味わう苦痛ほど執拗ではない。例えば、肉食獣によって倒される草食獣の苦痛は、核兵器の放射線による発ガンの苦痛ほど執拗でない。もちろん、専制、戦争、虐殺、拷問…などによる苦痛は激しく執拗である。
  以上のことから、全体破壊手段を全廃し予防し自然な終わりのときまで人間と生物が生存するためにも、私たちは人間が生じる苦痛をできる限り全般的に減退させる必要がある。もちろん、苦痛の減退はそれ自体、目的である。
  そもそも、わたしたちは地球上での生と死の繰り返しの中で再び生まれて生きるとき誰または何に生まれるか分からない。ときには草食獣、肉食獣、魚、虫…などとして生まれるだろう。わたしたちの多くはそのような動物として生まれることを望んでいない。そのようなことを考えるとき、生物の絶滅を望むのも一概に傲慢ではないかもしれない。だが、そのような動物では不安、恐怖…などの情動、思考、自我…などがないまたは希薄である。だから、それらの動物として生きる時間は、眠りに陥り目覚めるようなものではないにしても、夢を見ているようなものであり非常に短い時間である。それに対して、人間として生まれて、例えば、戦争、弾圧…などの中で苦しむときそれを短い時間と感じることができるだろうか。とすれば、わたしたち人間は人間が生じる苦痛をできる限り全般的に減退させる必要がある。例えば、奴隷制では、主人が奴隷に生まれることはあるのだから、奴隷だけでなく主人も奴隷制を廃止しておく必要があり、専制では、迫害するものが迫害される人々に生まれることはあるのだから、後者だけでなく前者も専制を抑制しておく必要がある。
  また、苦痛の一部は動物の個体と種の生存と進化のために必要である。例えば、皮膚の痛みは傷が深部の重要な器官に及ぶのを防止する。空腹と渇きは低栄養と脱水を予防する。性欲の不満は種の存続を保証する。それに対して、人間は人間の個体と種の生存と進化のためにも不必要な多くの苦痛を生じる。例えば、全体破壊手段の研究、開発は科学技術全般の進歩を促しえるが、それらが生じる苦痛が人間の個体と種の生存と進化を促すことは決してない。
  以上のことから、わたしたち人間は人間が生じる苦痛をできる限り全般的に減退させる必要がある。ところで、わたしたちは快楽まで増大させる必要はない。快楽は人間にしても生物にしてもそれぞれが自由に追求すればよい。簡単に言って、わたしたちのそれぞれは他の人間や生物の快楽にまで介入しなくてよい。繰り返すが、人間は人間が生じる苦痛をできる限り全般的に減退させる必要がある。
  この章の始まりからこれまで苦痛を重視し過ぎたかもしれない。わたしたちの多くは苦しいこともあるが楽しいこともあり、地球で人間として生きて幸運だったと思っているかもしれない。だが、それでも苦痛、特に人間が生じる苦痛を減らしたいだろう。
  それは全く不可能なわけではない。わたしたち人間は現実に苦痛の原因をたとえ僅かにでも減退させてきた。例えば、自由権、政治的権利、社会権、民主制、権力分立制、法の支配をたとえ僅かにでも拡充し、圧制、専制…などの苦痛の原因をたとえ僅かにでも減退させてきた。また、社会保障をたとえ僅かにでも拡充してきた。また、自然の保全にたとえ僅かにでも取り組んできた。全体破壊手段、つまり、核兵器と不変遺伝子手の全廃と予防は最も困難なことだが、全く不可能なわけではない。
  そもそも、永遠のまたは多大な苦痛を終わらせるために人間または生物の絶滅または全体破壊手段を求めるまたは容認するというのは虚しすぎる。また、そのような苦痛に耐えながら地球や太陽の自然な老化や死滅のときまで生存するというは悲痛すぎる。それらに対して、わたしたちのそれぞれは次のような欲求をもっていいのではないか。人間が生じる苦痛をできる限り全般的に減退させながら全体破壊手段を全廃し予防して地球や太陽の自然な老化や死滅のときまで生存しようというぐらいの欲求をもってよいのではないか。それこそ究極の欲求と呼ぶにふさわしいだろう。
  それらのことから、前の定義を修正して、苦痛をできる限り全般的に減退させながら全体破壊手段を全廃し予防して地球や太陽の自然な老化や死滅のときまで生存しようとする欲求を生と死を超えて実現することが可能な究極の欲求と呼べる。その中には一貫した一種のエゴイズムがある。苦痛を減退させることも生存することもわたしたちのそれぞれが再び生まれて自由に生きるるためである。わたしたちのそれぞれはそれぞれのためだけに生きる必要がある。他人や他のもののために生きる必要はない。また、他人や他のもののために生きてはならない。例えば、国家のためなどという情動や思考が戦争、全体破壊手段…などに繋がる。繰り返すが、わたしたちのそれぞれはそれぞれのためだけに生きる必要がある。

全体破壊手段の不必要さ

  科学技術、特に情報技術の進歩に伴い、ますます兵器は標的を絞りこみ、選択的に破壊できるようになり、無差別的に破壊する必要がなくなる。そのように選択的に破壊する兵器を「選択的破壊手段」と呼べる。もしそれらが二十世紀に必要であったとしても、選択的にではなくアトランダムに無差別的に破壊する全体破壊手段の必要性は二十一世紀には減退している。例えば、核兵器に必要性があったとしても、その必要性は二十世紀後半に既にピークに達し、二十一世紀には減退しつつある。また、科学技術の進歩に伴い、破壊手段も進歩するが防衛手段も進歩する。選択的破壊手段と防衛手段がさらに発達すれば、戦争、侵略、防衛…など何をするにも全体破壊手段は不要である。
  もし仮にいくつかの国家の政府または武力が他のいくつかの国家に侵略したいとしても、前者は進歩した情報技術によって後者を偵察し後者の政府と武力の主要施設を探知し、進歩した選択的破壊手段で破壊するだけでよい。すると、後者の一般市民と自然の多くは生存し前者は後者の侵略と支配という目的を達成できる。もし仮に前者が全体破壊手段を使用するのであれば、後者の市民と自然の多くも破壊され、前者は目的を達成できない。支配しようとした人間と自然がほとんど存在しないからである。まず、ここで全体破壊手段は不要である。
  もちろん、後者の政府と武力または国際機構または世界機構は進歩した防衛手段で後者を防衛することができる。さらに、それらは進歩した選択的破壊手段で前者を破壊することができる。そのような応酬によって、それらと前者が破壊されれば、戦争は終わり、それらの国家のほとんど市民と他の国家は生存する。ここでも全体破壊手段は不要である。
  陸上の政府、武力は探知可能である。海底の潜水艦、宇宙の人工衛星、宇宙船、深い地下の施設は探知困難である。だが、それらは全体破壊手段やいかなる手段をもっても探知、処理不能である。つまり、ここでも全体破壊手段は役に立たず不要である。
  前述の侵略、防衛、または応酬においてはそれらの探知不能な手段も使用されるだろう。だが、この場合も、当該の政府と武力と機関が探知不能な選択的破壊手段で破壊されるだけでよく、戦争は終わる。ここでも、全体破壊手段は不要である。逆説的に探知不能な選択的破壊手段がそれを保証しているのである。それを「相互確証破壊」と誰かが呼びたいなら、せめて「選択的相互確証破壊」と呼んでほしい。
  それらの状況で、一般市民の被害を最低限度にするためには、政府と武力の施設の近くに一般市民が居住しないようにする必要がある。
  また、政府や武力が一般市民の中に紛れ込まないようにする必要があり、そのように逃げ隠れするそれらを解任し代替を立てる国際法、憲法、制度が必要である。
  前述のとおり、「抑止論」や「相互確証破壊」は機能しない。何故なら、前述のとおり、人間が予期できない事故はありえ、それらの内部者または責任者が管理する理性を失うことはありえ、部外者がそれらに侵入することはありえるからであるからである。
  また、前述のとおり、異星人の来襲が地球や太陽の老化や死滅以前に人間を含む生物を絶滅されるなどは虚構に過ぎない。さらに、来襲する異星人を核兵器を用いて撃退するなどということも虚構に過ぎない。仮にそのようなことがあるとしても、その可能性は人間が人間を含む生物を絶滅させる可能性よりはるかに小さい。
  もし仮に「抑止」、「相互確証破壊」…などが必要であるとしても、政府と武力が破壊されるだけで十分である。一般市民は巻き込まれる必要はない。前者だけを破壊するためには選択的破壊手段だけで十分である。後者、つまり、一般市民が前者を疎んじそれらの近くに居住しないならば、前者だけの破壊はさらに容易になる。
  それらの根拠によって全体破壊手段は何をするにしても不要である。
  兵器が必要であるとしても、全体破壊手段を含まない通常兵器または進歩した選択的破壊手段または進歩した防衛手段だけで十分である。特に大国は何をするにも十分なそれらをもっている。全体破壊手段を保有する大国は、他の大国を待つまでもなく一方的に全体破壊手段を廃止してよい。そのような一方的廃止が全体破壊手段の全廃と予防への決定的方法である。
  もちろん、全体破壊手段の全廃と予防のための交渉と圧力も必要である。権力をもつものはそれを維持し拡張しようとしなかなか手放そうとしない。公権力と全体破壊手段についても同様である。だから、一般市民が自由権、政治的権利、社会権、民主制、権力分立制、法の支配と後述する全般的生存権を拡充しつつ、それらをもって、公権力に全体破壊手段を全廃し予防させる必要がある。二十一世紀前半においては特に三つの超大国の中と間でそれらが行われる必要がある。
  二十一世紀前半においては、三つの超大国だけを狙い打ちにしてもよいほどである。何故なら、三つ超大国が全体破壊手段を廃止し予防するなら他もそうするだろうから。さらに、三つのうち二つがそうするなら、他の一つもそうし、その他もそうするだろう。
  二十一世紀前半においては、三つの超大国のうち一つが明らかに非民主的であり、一つは中途半端である。それらの国家が民主化され分立されるとき、それらの国家が全体破壊手段を廃止する必要がある。そうすれば、他の一つも廃止するだろう。また、冷戦の終結時にせめて核兵器が削減される必要があったのである。

人間に対する人間による人間のための五つの必然的抑制

  人間社会の自然状態では以下の五つの事態が生じ、人間は以下の五つの抑制を社会の全体またはいくつかの部分に掛ける必要がある。
  第一に、殺人、傷害、窃盗…などの暴力が横行しますます組織的または高度になる。そこで、わたしたちは犯罪と刑罰を法で規定し、裁判によって無罪有罪と有罪の場合の刑罰を決定し、刑罰を執行してきた。
  第二に、武力を含む政治権力は少数の人々に集中し、政治権力の保持者は一般市民を抑圧し、独裁、戦争、虐殺…などに暴走しようとする。そこで、それらの抑圧と横暴を抑制するために、わたしたちは民主制、権力分立制…などによって政治権力の保持者を抑制してきた。
  それらの第一の抑制と第二の抑制は自由権または政治的権利の擁護とも見なせる。
  第三に、金、貨幣、土地、資源、労働者、機械を含む経済的権力はある少数の人々に集中し、経済的不平等と独占、不況、失業…などの資本主義経済の矛盾を生じる。そこでそれらを解消するために、経済体制のいかんに係らず大なり小なり、公権力が企業を規制し労働権を保障し社会保障を推進する制度を整備してきた。
  第四に、科学技術と産業と人間生活は進歩し、それらを政治的経済的権力が主導し、それらが一緒になって自然を破壊しわたしたちの健康を害する。この自然破壊は二十世紀の後半以降明らかである。そこで、自然を保全しわたしたちの健康を守るために、わたしたちは公私企業とわたしたちの生活を既に大なり小なり規制している。
  第三と第四の抑制は社会権の保障とも見なせる。
  第五に、前述のとおり、核兵器と不変遺伝子手段、つまり、全体破壊手段によってわたしたち人間は地球や太陽の自然な老化や死滅の以前に地球上の人間を含む生物を絶滅させる可能性をもつ。それは上述の第四の事態と抑制、つまり、自然の破壊と自然保全と以下の理由によって異なる。第四の事態は徐々に進行し、前述の繁栄と衰退のサイクルを逸脱しない。人間が自然を破壊すれば人間は衰退し自然は生き返るからである。それに対して、全体破壊手段は短期間に地球全体で生物の遺伝子を破壊し、地球上の人間を含む生物を絶滅させる可能性をもつ。
  科学技術と産業は放っておいても進歩するものである。また、政治的経済的権力の保持者はほうっておいてもそれらを拡大するものである。特に兵器を拡大するものである。だから、全体破壊手段をマンハッタン計画や冷戦…などだけに帰すことはできない。そもそも、この五番目の事態に対する五番目の抑制が必要なのである。この五番目の抑制は、二番目の抑制と同様に、特に武力を含む政治権力の保持者とそれらと癒着する経済的権力の保持者に対して必要である。
  もちろん、科学者や技術者による自己抑制も必要である。だが、他の者による彼らに対する抑制も必要である。だが、何より、彼らを促し利用する政治的経済的権力の保持者に対する抑制が必要である。

全般的生存権

  苦痛をできる限り全般的に減退させつつ全体破壊手段を全廃し予防し地球や太陽の自然な老化や死滅のときまで生存するという究極の欲求は現在を生きるわたしたちのそれぞれの欲求でもある。究極の欲求が満たされないことへの不安と恐怖、つまり、多大な苦痛と自己と家族の死を含む生物の絶滅への不安と恐怖という苦痛は絶大である。しかも、そのような苦痛を被るものは現在を生きるわたしたちのそれぞれを含む。それらのことから究極の欲求を満たすことはわたしたちのそれぞれの権利である。究極の欲求を満たすわたしたちのそれぞれの権利を「全般的生存権」と呼べる。
  人間の権利は『それぞれの国家権力を自由権を擁護する法の支配系と社会権を保障する人の支配系に分立すること』で説明される自由権と政治的権利と社会権とこの全般的生存権に大別される。いわゆる「生存権」は社会権に含まれる。自由権、政治的権利はそのとき現在の個人の権利である。社会権はそのとき現在の個人と家族、企業、組合…などの集団の権利である。全般的生存権は、前述の不安と恐怖を減退させる権利だから、そのとき現在の個人の権利である。

生存の保障

  苦痛をできる限り全般的に減退させつつ、人間が全体破壊手段を全廃し予防し、地球や太陽の自然な老化や死滅のときまで人間を含む生物が生存することは簡単には、「生存」とも呼べる。もう少し詳しくは、人間を含む生物の生存、自然な終わりまで生存すること、苦痛を減退させつつ生存すること…などとも呼べる。これらの著作ではそれらの言葉は苦痛をできる限り全般的に減退させつつ、人間が全体破壊手段を全廃し予防し、地球や太陽の自然な老化や死滅のときまで人間を含む生物が生存することを指すことにする。
  そのような生存を求めることが前述の究極の欲求であり、それを求める権利が前述の全般的生存権である。また、そのような生存を人間が実現することを生存の保障と呼べる。そのような言葉は人間の尊厳を称えるように聞こえるが、実際は人間が研究、開発、保持した全体破壊手段を人間が全廃し予防することが生存の保障であり、尻拭いに過ぎない。

生存の保障のための制度

  第一に、それぞれの国家の憲法などの基本的法が、その国家が生存を保障するべきことを規定し、国家において公権力がそれを保障するよう努力することを規定し、公権力が国際社会において他の国家の公権力と国際機構と協力してそれを保障するよう努力することを規定する必要がある。
  第二に、全体破壊手段を廃止し予防するための法と制度をそれぞれの国家で整備する必要がある。
  第三に、全体破壊手段、集団的暴力、自然破壊…などは私的権力も促進しうるが、最も促進しうるのは公権力と公権力と私権力の複合体であって、それらを抑制することができる民主制、権力分立制、法の支配を拡充する必要がある。
  第四に、国際社会または世界において、国際機構または世界機構が、整備され、憲章でこれらの第一から第五を規定し、全体破壊手段の全廃と予防のための査察、監督…などを実行する必要がある。
  第五に、そのような国際機構または世界機構の横暴、腐敗…などが抑制される必要があり、わたしたちは国際社会または世界における民主制と権力分立制と法の支配を模索し整備する必要がある。

自由権、政治的権利、社会権、民主制、権力分立制、法の支配、全般的生存権の拡充

  人間は支配的習性をもち、他を支配しようとし、支配するために、地位、武力、カネ…などのいわゆる「権力」を獲得し拡大し保持し使用しようとする。そのような権力のうち最大最強のものはそれぞれの国家の「公的」と称される権力である。独裁、戦争、虐殺、全体破壊手段の研究、開発、保持…などを主導してきたのは公権力である。また、公権力と公私の企業と研究機関の複合体、いわゆる「軍産複合体」がそれらを促進する。いずれにしても、公権力はそれらの権力の中心にある。
  また、国内における公権力の獲得のための闘争と国際社会における公権力の間の軋轢が戦争、虐殺、全体破壊手段の研究、開発、保持、使用…などをもたらす。
  そもそも、わたしたち一般市民ではなく、公権力を中心とする権力の保持者のいくつかが全体破壊手段を研究し開発し保持し使用したのであり今後もしようとするだろう。かえすがえすも、市民がしたのではなく今後もしないだろう。それどころか、市民の多くはそれらについて知らされもしなかったし今後も知らされないだろう。また、戦争、虐殺…などについて市民は嫌でも知らされるが、市民ではなく公権力を中心とする権力の保持者がそれらを始めたのである。公権力を中心とする権力は、抑制されない限り、戦争、虐殺、全体破壊手段の研究、開発、保持、使用を含めて何でもするだろう。
  それらのことから、生存を保障するためには、わたしたちは自由権、政治的権利、社会権、民主制、権力分立制、法の支配、全般的生存権を拡充し、それらをもって、公権力そのものと権力の癒着を抑制し、公権力を分立して相互抑制させる必要がある。もちろん、それは自由を守り日常的な欲求と生活を満たすためでもある。つまり、それは自由権を擁護し社会権を保障するためでもある。
  民主制、権力分立制、法の支配を「民主的分立的制度」と呼べる。それらのうち、民主制はわたしたちが公権力を比較的に直接的に抑制する制度である。それに対して、権力分立制はわたしたちが公権力をいくつかの権力に分立させ、分立した権力に互いを抑制させる制度である。法の支配は、市民よりむしろ権力者を法、特に憲法などの基本的な法に従わせ、多数派の横暴さえも抑制する制度である。例えば、大統領や議会が少数派の権利を制限し、民衆の過半数がそれを支持する場合でも、憲法に生命、身体、思想、宗教、言論…などの自由と法の下の平等の規定がある以上、司法権の裁判官は大統領や議会や多数派を支持するような判決を下すことができない。権力分立制と法の支配は民主制が不正な選挙、世論操作、大衆迎合…などによって公権力を抑制するために機能しなくなったときに有益な制度である。
  民主的分立的制度は非効率的であり日常的な欲求と生活を効率的に満たさず、独裁制、専制…などのほうがより効率的に満たすと見えることはある。だが、そのように見えるのは刹那のことに過ぎない。後者はいずれ自由権と政治的権利を制限し日常的な欲求と生活を犠牲にする。そのような制限と犠牲は二十世紀だけでも多々経験されたことである。
  古代でも近代、現代でも、一見したところの民主制が独裁や専制へと走り、虐殺、戦争…などを生じることはあった。だが、それらは権力分立制と法の支配を伴わない単なる民主制、それも不十分な民主制から生じたのである。例えば、それらは違憲立法、一回限りのまたは不正な選挙または国民投票…などから生じたのである。わたしたちは単なる民主制ではなく、民主制と権力分立制と法の支配を伴う民主的分立的制度を拡充する必要がある。
  民主的分立的制度が完全と言うのではない。それらを拡充する必要があると言っているだけである。従来の民主的制度が戦争、全体破壊手段…などを抑制することができなかったからそれらを放棄するべきだということには全くならない。だが、拡充されていない従来の民主制でさえも独裁、専制…などよりマシである。例えば、世論操作を被るような前者もあるが、後者は世論操作より公然と弾圧をし、世論操作は弾圧よりマシである。そのように原始的な民主制でさえも独裁、専制…などよりマシである。だが、前者は容易に後者への移行を許す欠陥があった。それに対して、権力分立制と法の支配を含む民主的分立的制度はそれ自体を維持する機能をもち、後者への移行を容易に許さない。さらに、わたしたちは独裁、専制…などの出現の可能性をゼロにするほどに民主的分立的制度を広く深く拡充する必要がある。前者の出現の可能性をゼロにすることこそが後者の本領である。それらを拡充する方法は『それぞれの国家権力を自由権を擁護する法の支配系と社会権を保障する人の支配系に分立すること』で説明される。
  また、独裁、専制…などが打倒されるときに、結局、非民主的制度がそれらに取って代わることはよくある。そのようなことを防ぐために、わたしたちは民主的分立的制度を準備しておく必要ある。
  繰り返すが、生存を保障するためだけでなく、自由を守り日常的な欲求と生活を満たすためにも、つまり、自由権を擁護し社会権を保障するためにも、民主的分立制度を拡充する必要がある。また、戦争、内線、テロ…などは全体破壊手段の研究、開発、保持、使用を促す。だから、全体破壊手段を全廃し予防するためには、それらを抑制する必要がある。もちろん、自由を守り日常的な欲求と生活を満たすためにもそれらを抑制する必要がある。それらを抑制するためには、民主的分立的制度を拡充し独裁、専制…などを抑制する必要がある。
  さらに、今後は人間の全体や生物の全体の生存を名目に誇示する全体主義のようなものが出現するかもしれない。そのような全体主義は民主的分立的制度を破壊し暴走し、結局、自由のためにも人間や生物の生存のためにもならない。そのような全体主義を抑制するためにも民主的分立的制度を拡充する必要がある。

日常的な欲求

  以下の属性(1)(2)をもつ個人の情動と思考を「日常的な欲求」または自己のための日常的な欲求と呼べる。

(1)自己のための情動が大部分を占める。
(2)自己以外のもののための情動、思考を含むとしても、家族、友人、恋人、近隣、学校、職場、故郷…などの身近なものための情動、思考しか含まない。

例えば、遊びたい、楽して儲けたい、おいしいものを食べたい、飲みたい、愛し合いたい、友と飲みたい、友と人生を語り合いたい、健康でありたい、長生きしたい、家族や友人が健康であって欲しい長生きして欲しい、束縛されたくない、自由でありたい…などが日常的な欲求である。また、日常的な欲求を満たす人間の存在と機能を「日常生活」と呼べる。
  日常的な欲求と生活がそれ自体で前述の全体破壊手段や多大な苦痛を生じることはない。前者が後者を生じるとしても、後述する中途半端な思想に変容されて生じる。

中途半端な思想

  日常的な欲求と究極の欲求に対して、日常的欲求を逸脱し究極の欲求をなんら含まない思考、情動、思想、科学、宗教…などを「中途半端な思想」と呼べる。
  例えば、ある思想が国家、正義…などを日常的な欲求と生存より優先するとすれば、それは中途半端な思想である。
  いくつかの人間(1)は、自己がやがて死ぬことへの不安に駆り立てられて、永遠を求め、日常的な欲求を満たすだけでは虚しくなり、権力を獲得、維持、拡大し、他を支配し、名誉を得たい、国家、民族…などの特定の大きな集団のために何かをしたい、何かを残したいと思うことがある。つまり、中途半端な思想に走る。それらのいくつか(1-1)は権力とカネという単なる手段に埋没し、いくつか(1-1-1)はひたすら権力を追求し、いくつか(1-1-2)はひたすらカネを追求する。他(1-2)は単なる権力やカネを追求しないが、それらのいくつか(1-2-1)は特定の大きな集団のために何かをしたい残したいと思い、それらのいくつかは(1-2-1-1)戦争を始めたり戦争に行ったり、兵器を開発、保持、使用したり、現代社会では全体破壊手段を追求する。(1-2)は(1-1)より厄介かもしれない。何故なら、彼らは自分が特定の大きな集団のために何かをしていると思っているからである。個人や身近な小さな集団のために何かをしたい何かを残したいと思うこと、つまり、日常的な欲求そのものに害はほとんどない。それに対して、特定の大きな集団のために何かをしたり残したりしようとすること、つまり、中途半端な思想となると大きな害がありえる。
  中途半端な思想のうち最もやっかいなものが以下の国家のための思想である。現在までの人間の歴史の中で国家は最も大きく固く明確な集団だった。国際機構、世界、地球、全人類、全生物…などは、大きいが、強く固く明確な集団ではなかった。そこで、名誉を得たい、他のために何かをしたい何かを残したいと思う人々のいくつかが、国家のために何かをしたいと思い、国権、国防、国家の繁栄、国益…などを求め、いくつかは国家が全体破壊手段を保持することを求めてしまう。
  また、公権力と私権力とそれらの複合体を含む権力の保持者は市民の穏やかな国家のための思想を煽り美化し利用し、権力を拡張し、戦争、専制…などを促し、多くの自由と日常的な欲求と生活を、つまり、自由権と社会権を制限し犠牲にしてきた。また、国家のための思想が少なくとも全体破壊手段の研究、開発、保持を抑制せず黙認してきたことは否定できない。
  また、いくつかの日常的な欲求が、権力者によって誘導、美化、利用されて中途半端な思想と化し、専制、独裁、戦争、全体破壊手段の研究、開発、保持、使用…などを促進することがある。例えば、自己、家族、恋人、友人…などを守りたいという日常的な欲求が、国権、国防、国家の繁栄、国益…などの追求に変えられ、戦争を始めること、戦争に行くことが美化され、全体破壊手段の研究、開発、保持が黙認されることがある。家族を守るために戦争に行くという美化はかなりやっかいである。わたしたちの多くは、戦争が家族のためどころか何のためにもならないことを知っており、自らすすんで戦争に行ったのではなく、権力に強制されていやむをえず行ったのである。わたしたちは誘導され美化され利用されるのではなく、自己から自己によって自己のために考え欲求する必要がある。
  最も結束の固いものにおいても、国家は個人や生物の個体のような単一体ではなく、国境内の一般市民、政治権力、経済的権力、社会的権力、他の小集団、資源、文化、自然…などの様々な構成要素からなる複合体である。わたしたちはそれらの構成要素のうちのどれに愛着をもっているのだろうか。わたしたちのほとんどは家族や近隣の人々や故郷の食べ物、飲み物、文化、自然に愛着をもっているのであって、間違っても政治権力やその保持者に愛着をもっているのではない。そのような様々な構成要素からなる複合体を単一体のように見せかけて愛着を呼び起こすことは一般市民を馬鹿にし過ぎている。いわゆる「愛国心」をわたしたちがもつことは不可能であり不必要である。簡単に言って、わたしたちは自己と身近な人と物を愛するだけでよい。
  また、そのような複合体をごちゃまぜにして単一体と見るのでは、国家のどの構成要素を改善する必要があるのかが見えてこない。多くの場合、改善する必要があるのは政治権力と政治制度である。個人や家庭や文化や自然を改善する必要はなく、それらを改善する必要があるとしても、わたしたちのそれぞれが自由にやればよい。そのように、国家は必要ないと言っているのでは全くなく、国家のいくつかの部分を改善する必要があると言っているだけである。もう少し詳しく言うと、民主的分立的制度を拡充する必要がある。
  中途半端な思想では中途半端なものが至高のものに見えるために、その向こう側にあるものが見えにくい。例えば、国家のための思想の中では、国際または世界社会、機構、制度、一般の人間、生物…などが見えにくい。だが、わたしたちのすべてがそれらを見て行く必要があると言っているのではない。それらが見えなくても、生存のためにも自由のためにも、権力者に利用され誘導されて中途半端な思想に走るぐらいなら、日常的な欲求のままに生活するほうがよっぽどマシである。それも思想、言論の自由である。
  また、従来の科学技術の多くは自然破壊を促し、いくつかは全体破壊手段を研究し開発してきた。もちろん、科学者や技術者による自己抑制も必要である。だが、他の者による彼らに対する抑制も必要である。だが、彼らも政治的経済的権力の保持者またはそれらの複合体によって誘導され利用されてきた。だから、何より、後者に対する抑制が必要である。また、今後は人文、社会、自然科学を含む科学の多くが少なくとも人間が繁栄と衰退のサイクルを逸脱していること、核兵器と不変遺伝子手段が生物を絶滅させる可能性をもつことを取り入れ、技術のいくつかが全体破壊手段の全廃と予防のための手段を開発する必要がある。例えば、検知と査察のための手段である。さらに、もし全体破壊手段に対する完全に防衛的で安全な手段が開発されたとすれば、全体破壊手段は存在意義を失い自然消滅するだろう。だが、それができないとしても、法学、政治学、経済学、社会学、心理学…などの人文社会科学が民主的分立的制度の拡充と全体破壊手段の予防と全廃のための制度を模索し提案していく必要がある。
  だが、それができないとしても、かえすがえすも、権力者に誘導され利用されて中途半端な思想に走るよりは日常的な欲求のままに生きるほうがよっぽどマシである。それも思想、言論の自由である。

生存と自由

  以上の多大な苦痛を減退させ全体破壊手段を全廃し予防する方法を振り返っていただきたい。それらはすべて自由を守り日常的な欲求と生活を満たす方法でもある。つまり、自由権を擁護し社会権を保障する方法でもある。究極の欲求と自己のための日常的な欲求が互いを犠牲にすることはない。それらは矛盾せず両立する。簡単に言って、生存と自由は両立する。たとえそれらのうちの一つを選ぶよう迫られても、わたしたちはそのような馬鹿げた二者択一に構わず、両方を確保する必要がある。

参考文献

生存と自由の詳細   国家権力を自由権を保障する法の支配系と社会権を保障する人の支配系に分立すること   記憶以上をもつ動物の心理学  

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