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生存と自由の詳細

基本的用語

  この著作では、この『生存と自由の詳細』を「この著作」とも呼び、この著作と『生存と自由』と『生存と自由のための権力分立制』と『記憶をもつ動物の心理学』と『自我をもつ動物の心理学』と『習性をもつ動物の心理学』と『特定のものと一般のもの』とを「これらの著作」とも呼ぶことにする。『記憶をもつ動物の心理学』と『自我をもつ動物の心理学』と『習性をもつ動物の心理学』を一つの著作として『記憶以上をもつ動物の心理学』とも呼ぶことにする。
  この著作では、物質、属性、機能、生物、生物機能、動物、動物機能、感覚、記憶、感情、欲求、自我、思考、それらが存在し機能すること…などの言葉は『記憶以上をもつ動物の心理学』と基本的に同じものを指す。詳細はその著作集を参照して頂きたい。ただ、日常や従来の科学と同様のものを指すとされても大きな問題はない。いくつかの重要な言葉の意味といくつかの言葉の意味の『記憶以上をもつ動物の心理学』との違いを簡単に説明する。『記憶以上をもつ動物の心理学』では、物質、生物、動物、人間…などの存在と、物質機能、生物機能、動物機能、人間機能…などの機能を含む属性との間の区別は重要だった。この著作ではそれらの間の区別はあまり重要ではない。また、『記憶以上をもつ動物の心理学』では生存は前提とされ、それらより機能のほうが重要だった。この著作では機能も重要だが、生存も重要である。そこで、この著作では、物質と物質機能を含む物質の属性、生物と生物機能を含む生物の属性、動物と動物機能を含む動物の属性、人間と人間機能を含む人間の属性…などを「物質」「生物」「動物」「人間」…などとも呼ぶことにする。『記憶以上をもつ動物の心理学』では、物質が生じるまたは変化することと機能を含む属性が生じるまたは変化することことの区別は重要だった。この著作ではそれらの区別はあまり重要ではない。そこで、物質と物質機能を含む物質の属性が生じるまたは変化すること、生物と生物機能を含む生物の属性が生じるまたは変化すること…などを物質が生じること、「存在し機能する」こと、生物が生じること、存在し機能すること…などとも呼ぶことにする。例えば、人間は何百万年、存在し機能してきた。また、島には面白い動物が存在し機能する。また、呼吸をしない生物は存在し機能しない。特に、生物が存在し機能することをそれらが「生きる」ことと呼べる。
  いずれにしても、人間は動物に含まれ、動物は生物に含まれ、生物は物質に含まれる。
  物質はすべて、直接的または間接的に、他のいくつかの物質から機能されて存在し機能し、他のいくつかの物質に対して機能する。そのような直接的または間接的に機能し機能される他の物質をすべて挙げることは不可能である。例えば、個人は、直接的に以下のものの光景や音から機能され、間接的に家庭、学校、会社の家族、教師、級友、上司、同僚、部下から機能され、より間接的に他の家庭、学校、会社、地方自治体から機能され…と続き、際限がない。そこで、「直接的または間接的に」という言葉と他の物質のうち自明な大部分を省略することにする。例えば、神経細胞の興奮と伝達の原因を説明するとき、酸素とグルコースの供給を自明のこととして省略することにする。

生物

  たんぱく質、脂質、糖質などの高分子を合成する機能と自身と同じ必然的属性をもつ物質を再生する機能をもつ物質を「生物」と呼べる。また、生物がもつ機能を「生物機能」と呼べ、生物と生物機能を含むそれらの属性を「生物」と呼べる。生物機能は、無性有性の増殖、生殖を含む。生物そのものの発生、細胞膜の発生、遺伝子の発生、細胞の発生、多細胞生物の発生、種の発生、進化…などは生物機能を含むより大きな機能または生物機能に接する機能である。
  生物の全体という言葉は限りない空間と時間をもつ宇宙で存在・機能する無数の生物を指すことがある。だが、ある星の生物が他の星の生物に対して機能するまたはそれらから機能されることはないかごく稀である。そこで、一つの星の生物の全体を「生物の全体」とも呼び、一つの星の生物の部分を「生物の部分」とも呼ぶことにする。また、特に地球の生物の全体を生物の全体とも呼び、地球の生物の部分を生物の部分とも呼ぶことにする。また、生物の全体または生物の部分を生物と呼べる。それに対して、地球外の生物を「地球の生物と同様の物質」とも呼ぶことにする。

生物の種

  集合(A)に属する生物が同じ『記憶をもつ動物の心理学』で定義された必然的属性をもつ生物を再生する、または、集合(B)(♀)と(C)(♂)に生物が相互に機能して、(B)と(C)に共通の同じ属性をもつ生物を生じるとき、集合(A)または(B)と(C)を「生物の種」「種」と呼べる。
  他の生物から空間的に分離して存在し機能することができる生物を「生物の個体」「個体」と呼べる。わたしたたちが日常で見かける動物の多くは固体である。
  『記憶をもつ動物の心理学』は動物、特に人間を個体を単位として説明することが多かった。それに対して、この著作はそれらを種を単位として説明することが多い。感覚以上をもつ生物のすべての種を「感覚以上をもつ動物」または「動物」と呼べる。また、光合成という機能をもつ生物のすべての種を「光合成をする植物」「植物」と呼べる。
  『記憶をもつ動物の心理学』では、人間の中では、その個体が重要だった。この著作では第一に、Homo sapiensという種が重要である。そこで、Homo sapiensという種を「人間」「わたしたち」とも呼ぶことにする。第二に、その群れ、群れの群れ…が重要である。そこで、人間の群れ、群れの群れ…を「人間」「人間の社会」「人間社会」「社会」「わたしたち」とも呼ぶことにする。第三に、その個体が重要である。そこで、人間の個体を「個人」「人間」「市民」「一般市民」「わたしたちのそれぞれ」とも呼ぶことにする。何度も繰り返すが、人間は動物に含まれ、動物は生物に含まれ、生物は物質に含まれる。

可能性と能力

  物質が存在し機能する「可能性」は他のいくつかの物質が存在し機能する可能性を含む。可能性に対して、物質が存在し機能する物質に固有の可能性を物質の「能力」と呼べる。動物の「習性」については『習性をもつ動物の心理学』を参照していただきたい。だが、日常や従来の科学で習性と呼ばれるものが習性であるとされて大きな問題はない。いずれにしても人間も動物に含まれ人間の習性をもつ。

自然

  前述のとおり、物質が存在し機能する可能性は他のいくつかの物質が存在し機能する可能性を含む。いくつかの生物が存在し機能する可能性は、他のいくつかの生物を含む他のいくつかの物質が存在し機能する可能性を含む。生物の種が存在し機能する可能性は他のいくつかの種を含む他のいくつかの物質が存在し機能する可能性を含む。例えば、人間が存在し機能する可能性は、太陽、地球、水、酸素、二酸化炭素、植物の光合成、微生物、植物、他のいくつかの動物の食物連鎖…などが存在し機能する可能性を含む。さらに、それらの存在と機能がなければある種が存在、機能しない他のいくつかの種を含む他のいくつかの物質が存在し機能する。さらに、それらの存在と機能がなければ地球上のすべての種が存在、機能しない他のいくつかの物質が存在し機能する。それの存在と機能がなければある種が存在、機能しない他のいくつかの種を含む他のいくつかの物質を「種の自然」、種のための自然と呼べる。また、それらの存在と機能がなければ地球上のいかなる種も存在し機能しない他のいくつかの物質を生物の自然、生物のための自然と呼べる。例えば、太陽、地球、水、酸素、二酸化炭素、植物の光合成、微生物、植物、他のいくつかの動物の食物連鎖…などが人間の自然、人間のための自然である。また、太陽、地球、水、酸素、二酸化炭素…などが生物の自然、生物の自然である。何のための自然かが明らかなときは「生物の」、「生物のための」などの修飾語を省略して、「自然」という言葉を用いることができる。
  生物の自然の大部分が存在、機能しないのに生物が一時的に存在し機能することがある。だが、生物の自然の大部分が存在、機能しなければ、生物はやがて絶滅する。例えば、数人の男女と数千年分の宇宙船、酸素、水、食糧、衣服、燃料、医薬品…などが存在し機能したところで、免疫力、生殖能力…などの低下からそれらの人間は二、三世代で絶滅する。生物の自然の大部分が存在し機能しないのに生物が一時的に存在し機能することを、生物が存在し機能することに含めず、そのような自然まがいのものを自然に含めないことにする。また、例えば、前の例の宇宙船、酸素、水、食糧、衣服、燃料、医薬品…などを生物の自然に含めないことにする。
  最も狭く限られた自然の中で生物そのものが発生した。比較的狭く限られた自然の中で、細胞膜、遺伝子、細胞が発生した。最も重要なことの一つとして、過去の地球で生物そのものが発生したのであり、現在の地球で生物そのものが発生するかは疑わしい。

遺伝子と進化

  遺伝子は特定の種類の「塩基」と塩基をつなぐ「ヌクレオチド」という特定の鎖から構成される。その塩基の順列が「塩基配列」である。遺伝子の塩基配列が生物の大部分を決定づける。遺伝子の塩基配列はしばしば自発的に変化する。それが「突然変異」である。突然変異を被った遺伝子をもつ生物のうち、その自然とその周辺の中で何世代にも渡り存在し機能し再生することができたごく少数だけが種として存在し機能することができる。言い方を変えれば、突然変異を被った遺伝子をもつ生物のほとんどは種として存在、機能することができない。それらのことを生物の「自然淘汰」、生物が「自然の中で淘汰される」ことと呼べる。今生きているわたしたちは既に淘汰され選ばれたのだから、自然淘汰の重大さがなかなか分からない。繰り返すが、突然変異を起こした遺伝子をもつ生物のほとんどは種として存在、機能しない。わたしたち人間が間違って遺伝子を操作したとしても、その産物が突然変異と自然淘汰を被る限りは、無際限に増殖し人間を含む生物の全体を駆逐することはない。だが、その産物が突然変異と自然淘汰を被らないとすれば、どうなるか。その答えはこの著作の中ほどで出される。
  生物のいくつかの種が突然変異と自然淘汰によって他のいくつかの種を生じる。いくつかの突然変異と自然淘汰によって、いくつかの種が他のいくつかの種を生じることを、いくつかの種または生物から他のいくつかの種または生物への「進化」、いくつかの種または生物が他のいくつかの種または生物に「進化する」ことと呼べる。
  遺伝子が突然変異を被り、遺伝子をもつ生物が自然淘汰され進化する。遺伝子でないものは突然変異を被らず、遺伝子をもたないものは自然淘汰されず進化せず、別様に存在し機能する可能性をもつ。さらに、遺伝子は、その発生以来、変わらない特定の種類の塩基と特定の鎖から構成されてきた。そのような遺伝子が突然変異を被り、そのような遺伝子をもつ生物が自然淘汰され進化してきた。特定の塩基そのものまたは特定の鎖そのものが変化した遺伝子のようなものが存在し機能するとすれば、そのような遺伝子まがいのものは突然変異を被らず、そのようなものをもつ生物まがいのものは自然淘汰されず進化せず、別様に存在し機能する可能性をもつ。
  進化は、いくつかの種から他のいくつかの種への変化であるから、連続量ではなく離散量を属性としてもつ。仮に遺伝子の塩基配列の変化で進化の量を表現するとしても、それは離散量である。いくつかの種から他のいくつかの種への進化のそのような量が大きい~小さいことをいくつかの種または生物が他のいくつかの種または生物へ"大きく~小さく"進化することと呼べる。
  生物が進化するほど、生物の自然は多様になる。例えば、肉食獣が存在し機能するためには、微生物から植物を経て草食獣に至る食物連鎖が存在し機能しなければならず、そのような食物連鎖はかなり多様である。進化によってより多様な自然の中で、より多様な生物の種が発生し、多細胞生物が発生し、光合成を行う植物が発生し、感覚をもつ動物が発生し、記憶をもつ動物が発生し…と続く。
  『記憶をもつ動物の心理学』で説明されたとおり、感覚が発生しなければ記憶は発生しない。記憶をもつ動物はすべて、感覚をもつ。記憶をもつ動物はすべて、感覚をもち記憶をもたない動物から進化する。知覚、連想、感情、欲求、自我、思考…などの機能はすべて、記憶が含むイメージの想起を含む。それらの機能は記憶が発生しなければ発生しない。それらの機能をもつ動物はすべて記憶をもつ。それらの機能をもつ動物はすべて、記憶をもちそれらの機能をもたない動物から進化する。結局、長い目で見れば、それらの機能をもつ動物はすべて、感覚をもち記憶もそれらの機能ももたない動物から進化する。そこで、感覚と感覚がなければ発生しない機能を「感覚以上」と呼べ、記憶と記憶がなければ発生しない機能を「記憶以上」と呼べる。脊椎動物亜門を含む動物界のほとんどが感覚以上をもち、脊椎動物亜門のほとんどと節足動物門の一部が記憶以上をもつ。
  種がより進化するほど、多様な種と「共生」する必要がある。例えば、人間が存在し機能するためには季節のある山、川、海、平野、街…で多様な微生物、植物、他の動物と共生する必要がある。農作物や家畜も共生する植物、動物と考えてよい。弱い細菌やウイルスから免疫ができることも、強い細菌やウイルスから身を守るためのそれらとの共生と考えてよい。定義からして、そのような共生する多様な他種は、種の自然に含まれる。さらに、そのような共生する多様な種が存在し機能する必要があり、それらのための多様な自然が存在し機能する必要がある。定義からして、そのような共生する多様な他種のための多様な自然も、種の自然に含まれる。
  さらに、種が進化するほど、種が存在し機能するだけでなくさらに進化するためには、多様な他種と「競争」する必要がある。例えば、人間がさらに進化するためにはいわゆる野獣や害虫だけでなく細菌やウイルスと競争する必要がある。競争する多様な種が存在し機能するためには競争する多様な種のための多様な自然が存在し機能しなければならない。そのような種が一回でも進化するために必要な種が競争する多様な種と多様な自然を種が「進化するための自然」と呼べる。
  そもそも、種が別の種に進化するためには、生物が存在し機能するだけでなく、生物が自身を再生する必要があり、遺伝子の複製、修復、性的機能…などが存在し機能する必要がある。定義からした、それらは生物そのものに含まれる。
  生物の自然は生物が進化するための自然と重なる。例えば、共生する動物も競争する動物も同じ山、草原、森、河、湖または海に住む。そのように重なる種の自然とそれが進化するための自然を「生物の自然とそれが進化するための自然」、生物の自然、生物のための自然とも呼ぶことにする。つまり、自然は進化するための自然を含むことがあることにする。だが、進化するための自然が強調される必要があるときは、生物の自然とそれらが進化するための自然という言葉を用いることにする。
  それらのように、進化がより進んだ生物の自然は進化がより進んでいない生物の自然より多様であり、前者が進化するための自然は後者が進化するための自然より多様であり、前者の自然とそれらが進化するための自然は後者の自然とそれらが進化するための自然より多様である。記憶以上をもつ動物の自然とそれらが進化するための自然は感覚をもち記憶をもたない動物の自然とそれらが進化するための自然より多様である。そして、感覚以上をもつ動物の自然は感覚をもたない生物の自然より多様である。
  種の進化を比較すると、進化は属性として、量をもつだけでなく方向をもつ。例えば、「感覚をもたないが光合成をする(植物)⇔光合成をしないが感覚をもつ(動物)」が逆の方向である。「裸子植物→被子植物」「感覚をもち記憶をもたない→記憶以上をもつ」が同一の方向への量である。いくつかの種から他のいくつかの種への進化が属性としてもつ方向を光合成、感覚、記憶…などの生物機能でも表すことができる。また、いくつかの種から他のいくつかの種への進化の量が一定の方向に大きいまたは小さいことを、いくつかの生物が一定の方向に大きくまたは小さく進化することと呼べる。
  一定の方向に進化した種ほど、逆の方向へ進化する可能性をもたなくなる。例えば、植物よりは微生物のほうが動物に進化する可能性をもつ。動物よりは微生物のほうが植物に進化する可能性をもつ。光合成をする被子植物が感覚以上をもつ動物に進化する可能性はゼロである。感覚以上をもつ動物が被子植物に進化する可能性はゼロである。
  そして、最も重要なことの一つとして、前述と後述の理由によって、地球や太陽の自然な老化や死までに感覚をもたない生物が感覚以上をもつ動物に進化する可能性は小さい。感覚以上が発生するためには神経細胞、神経細胞群、神経系が発生する必要があり、ごく限られた自然の中で生物そのものが発生したのだが、かなり限られた自然の中で神経細胞、神経細胞群、神経系が発生したからである。
  それに対して、そのときまでに感覚をもち記憶をもたない動物が記憶以上をもつ動物に進化する可能性は100%に近い。記憶以上をもつ動物が絶滅したとしても、感覚をもち記憶をもたない動物とそれらの自然とそれらが進化するための自然が存在し機能する限り、後者が前者に必ず進化する。それどころか、地球や太陽の自然な老化や死までにはそのような進化が数えきれないほど生じる。
  そして、最も重要なことの一つとして、突然変異はしばしば生じるのだから、進化しない生物は存在、機能しない。生物が進化しないことがあるとして、そのような生物は既に絶滅している。簡単に言って、生物は進化するしかない。だから、生物が進化するための自然は生物の自然と同様に必要である。

繁栄と衰退のサイクルからの逸脱

  だが、地球や太陽が自然的経過によって老化または死滅するとき、地球上の生物の全体は絶滅する。人間を含めていかなる生物もそのような地球や太陽の自然な老化が死滅を止めることはできない。何人かの人間が他の系の惑星に移住して生存するなどというのはフィクションに過ぎない。仮にそれが可能であるとしても、わたしたちはそのような生存を人間を含む生物の生存と認めることはできない。そのような人間は別の系の惑星の異なる自然の中で地球の生物とは異なる進化をするまたは衰退するのであって、それを地球の生物と認めることはできない。
  だが、限りない空間と時間をもつ宇宙の中で、地球上の生物と同様の限りない物質が存在し機能してきたし永遠に存在し機能し、地球上の進化と同様の限りない機能によって、地球上の感覚以上をもつ動物と同様の限りない物質が存在し機能してきたし永遠に存在し機能する。
  だがせめて、地球や太陽が老化し死滅するときまで地球で人間と同様の物質として生まれたい生きたい。感じたい。喜びや悲しみを味わいたい。愛し合いたい。語り合いたい。それが生と死を超えて実現可能な究極の欲求である。
  だが、わたしたち人間は地球や太陽の自然な老化や死滅以前に人間を含む生物を絶滅させる可能性をもつ。それは何故か。
  そもそも、人間だけでなく多くの生物が同種のいくつかまたは他種のいくつかまたは同種の自然または他種の自然に対して機能して、その結果として同種のいくつかまたは他種のいくつかが存在、機能しないことはよくある。そのことを生物による生物の「破壊」、生物が生物を破壊することと呼べる。
  また、人間だけでなく多くの生物が同種の自然または他種の自然に対して機能して、その結果として同種のいくつかまたは他種のいくつかが存在、機能しないことがある。そのことを生物による同種または他種の「自然破壊」、生物が同種または他種の自然を破壊することと呼べる。
  そもそも、繁栄を極めた生物の種は、繁栄によって同種の自然と他のいくつかの種と他種の自然を破壊し、同種の自然の破壊によってその種は絶滅または衰退する。だが、その種の絶滅によって、他の種と他種の自然は甦る。さらに、その種の衰退によって、同種の自然は復活し、その種は甦る。それらのことを「繁栄と衰退のサイクル」と呼べる。つまり、そのようなサイクルによって従来の生物はどんなに繁栄を極めても生物の全体を絶滅させることはなかった。
  それに対して、わたしたち人間は繁栄と衰退のサイクルを逸脱し、人間を含む生物の全体を絶滅させる可能性をもつ。それは何故か。
  繁栄と衰退のサイクルが成り立つためには、生物とそれらの自然の破壊が空間的にも時間的にもなんらかの生物とそれらの自然の回復の可能性を残すことが必要である。ところが、後述する人間が研究、開発、保持し使用する可能性をもつ核兵器と不変遺伝子手段は全地球規模で生物や自然の回復の時間より短い時間で生物の遺伝子を破壊する可能性をもつ。だから、人間は従来の生物と異なり、繁栄と衰退のサイクルを逸脱しており、地球や太陽の自然な老化や死滅の以前に人間を含む生物を絶滅させる可能性をもつ。
  人間は道具、家、衣服…などの手段を作り使い残す。そのような手段は刀、弓矢、ライフル…などの兵器を含む。それらの手段の極みが核兵器と不変遺伝子手段である。人間は生身によって自らや他の生物や自然を破壊するのでなく、それらの手段をもってそれらを破壊し、繁栄と衰退のサイクルを逸脱し、自らを含む生物を絶滅させる可能性をもつのである。また、人間は家畜や農作物を、飼育または栽培し、使用するまたは食用にする。遺伝子操作と不変遺伝子手段はそれらの延長とも言える。また、話し言葉だけでなく 書き言葉、記号…などで手段を作り使う方法を伝達し残す。他の生物が以外のものをほとんど残さないのに対して、人間は遺伝子だけでなく書き言葉、記号、手段、手段を作り使う方法…などを残す。そのように、科学技術は進歩する一方で後退しない。そのことによっても人間は従来の生物の繁栄と衰退のサイクルを逸脱している。

生物の最低限の生存

  前述のとおり、地球や太陽の自然な老化や死滅までに感覚をもたない生物が感覚以上をもつ動物に進化する可能性は非常に小さい。それに対して、それまでに感覚をもち記憶をもたない動物が記憶以上をもつ動物に進化する可能性は100%に近い。感覚をもつ動物とそららの自然とそれらが進化するための自然が存在し機能する限り、それらの動物が記憶以上をもつ動物に進化し、『生存と自由』で説明された生と死を超えて実現可能な究極の欲求は満たされる。
  この著作の冒頭からここまでで説明されたことから、現在から地球や太陽の自然な老化や死滅までの地球で、感覚をもつ少数の動物の種が存在し機能することを生物の「最低限の生存」、生物が最低限に生存することと呼べる。それは感覚をもつ少数の動物の種のための自然とそれらが進化するための自然が存在し機能することも含む。感覚をもつ少数の動物の種とそれらの自然とそれらが進化するための自然が存在し機能する限り、それらが記憶以上をもつ動物に進化する。生と死を超えて実現可能な究極の欲求が満たされるためには生物が最低限に生存する必要がある。
  もちろん、感覚をもつ少数の動物の種の自然とそれらが進化するための自然は多様な微生物と植物と動物を含み、最低限の生存でさえも意外に多様な生物の生存を含む。
  もちろん、わたしたちのそれぞれは自己の生存を追求し、人間は人間の生存を追求する。人間が他の生物の生存を追求することは稀である。だが、人間が生存するためにはその自然が存在し機能しなければならず、そのような自然はかなり多様である。つまり、人間が人間の生存を求めることは多様な生物と自然の生存を求めることを含み、それは一概に人間のエゴイズムと言えないのである。また、前述のとおり、記憶以上をもつ動物の自然は感覚をもち記憶をもたない動物の自然より多様である。また、前述のとおり、進化しない生物は存在、機能しない。人間が進化することも避けられない。また、わたしたちが進化することに抵抗する理由はない。それらのことから、現在から地球や太陽の自然な老化や死滅までの地球で、人間または進化した人間を含む記憶以上をもつ動物のいくつかの種が存在し機能することを生物の「多様な生存」、生物が「多様に生存する」ことと呼べる。それはそれらのための自然とそれらが進化するための自然を含む。
  また、生物の最低限の生存または多様な生存を「生物の生存」、わたしたちの生存、生物が生存すること、わたしたちが生存することと呼べる。
  生物の最低限の生存に対して、地球や太陽の自然な老化や死滅以前の地球で感覚以上をもつ動物の種が存在、機能しないことを生物の「絶滅」、生物が「絶滅する」ことと呼べる。
  生物の絶滅のうち、わたしたち人間が生物の絶滅を生じることを人間による生物の「全体破壊」、人間が生物の「全体を破壊する」ことと呼べる。定義からして、そのような人間によって破壊される生物は人間を含む。そのことを強調する必要があるときは、人間による生物の全体破壊を人間による人間を含む生物の全体破壊、人間が人間を含む生物の全体を破壊することと呼ぶことにする。だが、人間による人間を含む生物の全体破壊を単に「全体破壊」と「全体を破壊する」こととも呼ぶことにする。後述するとおり、核兵器と不変遺伝子手段が全体を破壊する可能性をもつ。
  「大量破壊」などの言葉の意味は曖昧であり、そのような言葉が全体破壊を含むかどうかは重要である。だから、これらの著作では全体破壊を含まない多くの人間と生物とそれらの自然の破壊を「大量破壊」、大量に破壊すること呼ぶことにする。だが、それが全体破壊を含まないことを強調する必要がある場合は「全体破壊を除く大量破壊」などの表現をすることにする。また、「少量破壊」「少し破壊する」…などの言葉も主観的であるが、この言葉が全体破壊を含むことはないだろう。いずれにしてもこれらの言葉の意味は主観によって変化する。それに対して、最低限の生存、多様な生存、絶滅、全体破壊…などの言葉は厳密に定義された。

手段

  人間は道具を作り使う。武器、兵器…なども道具に含まれる。人間は衣服、家、道、車、船、飛行機などの複雑または大規模な道具を研究、開発、製造し操作する。また、人間はいわゆる家畜、作物、微生物…などの生物を飼育、栽培または培養し使用する。また、人間は原子核と遺伝子を操作する。さらに、人間は生活する方法、道具を製作、使用する方法…などを研究し、話し言葉、書き言葉、記号、紙、コンピューター、ラジオ、テレビ、インターネット…などで記録し伝達する。また、人間は政府、企業、研究所…などの大きな集団を構成し大規模にそれらを進める。人間は、人間を含む生物の全体を破壊する可能性をもつが、素手や素っ裸でそうするのではなく、それらによって破壊する。そのことを強調するために、人間と人間機能を含む人間の属性と人間の集団と集団の機能を含む属性と道具、家畜、農作物、操作された原子核と遺伝子、話し言葉、書き言葉、記号、紙、ラジオ、テレビ、コンピューター、インターネットを含む人間が作り使い伝達するものを「手段」とも呼ぶことにする。つまり、「人間の」という修飾語を付けなくても手段という言葉は人間の手段を指すことにする。手段は武器、兵器…などを含む。また、家畜、作物、操作された遺伝子…などの生物を含む。また、操作された原子核を含む。さらに、手段は手段の研究、開発、保有、使用、研究者、開発者、保有者、使用者を含むことにする。

全体破壊手段

  さしあたり、地球や太陽の自然な老化や死の前に全体破壊を生じうる手段を「全体破壊手段」と呼べる。
  全体破壊は重大だから、全体破壊を生じる手段を定義するとき、以下に注意する必要がある。
(1)すべての手段を分類しつつ見渡す必要がある。
(2)明らかに全体破壊を生じえない手段だけを全体破壊手段から除外する必要がある。全体破壊を生じえないことが明確でない手段は全体破棄手段に含まれる必要がある。少しでも疑いのある旧来の手段と新しいものが全体破壊手段に分類されないためには、それらが全体破壊を決して生じないことが証明される必要がある。
(3)いくつかの手段と類似するいくつかの手段は前者から容易に研究され開発されるので、類似する手段を含む大きめの群で全体破壊手段を定義する必要がある。例えば、原子爆弾や水素爆弾ではなく、それらを含めて核兵器と定義する必要がある。
(4)だが、明らかに全体破壊を生じえない手段を全体破壊手段から積極的に除外する必要がある。それは、日常的な欲求と生活があまりに制限されるなら、人間は生物の最低限の生存のためにも機能しないからである。例えば、後述するとおり全体破壊を生じえない突然変異を被りえる操作された遺伝子だけを含む遺伝子治療を全体破壊手段から除外する必要がある。何故なら人間の生命と健康への欲求は最も切実だからである。
  そこでまず、非全体破壊手段を以下のように定義し、次いで全体破壊手段を定義することにする。まず、それに属するいかなる亜種のいかなる数量がいかなる状況で使用されても全体破壊を生じる可能性を地球や太陽の自然な老化や死のときまでもたない手段を「非全体破壊手段」と呼べる。次に、非全体破壊手段ではない手段を「全体破壊手段」と呼べる。
  通常、全体破壊手段に属するいくつかの亜種の特定の数(z)以上がいくつかの状況で使用されると、全体破壊が生じる。まず、核兵器が全体破壊手段である。地球上の二十世紀後半と二十一世紀初めのいくつかの公権力が保有する核兵器に属する水素爆弾の特定の数(z)以上が両半球のほとんどの大陸と海域で使用されれば、それらが生じる放射線によって、第一に、陸上と浅海の多くの生物の遺伝子が破壊されまたは変異し、それらは死滅またはガン化または不妊を被りそれらは絶滅する。第二に、陸上と浅海の呼吸と光合成と食物連鎖が機能せず、それらのすべての生物が絶滅する。第三に、浅海からの食物連鎖が絶たれ深海の生物も絶滅し、結局、全体破壊が生じる。後述するとおり、核兵器だけでなく不変遺伝子手段が全体破壊手段である。
  仮に、ある手段が、現在に特定の数(z)に達する可能性をもたず全体破壊を生じる可能性をもたないとしても、未来に(z)に達し全体破壊を生じる可能性をもつとすればそれは全体破壊手段に含まれる。例えば、三つ超大国が保持する核兵器のほとんどが廃止されれば、核兵器は特定の数(z)に達さず全体破壊を生じる可能性をもたない。それでも、核兵器は全体破壊手段であり、わたしたちはそれらを全廃し予防し続ける必要がある。
  全体破壊手段が上記の条件以外で使用されれば、全体破壊ではなく大量破壊または少量破壊が生じる。全体破壊手段の特定の数(z)以上が全体破壊を生じるとき、全体破壊手段の数(z)以下で他の数(y)以上は全体破壊ではなく大量破壊を生じ、数(y)以下は少量破壊を生じえる。だが、数(y)は1であることがある。例えば、核兵器の一個が一つの大都市に落とされれば、大量破壊が生じる。また、定義からして、大量破壊と少量破壊は人間の主観に依存するから、数(y)もそうである。数(z)は亜種と状況によって変動し、亜種は数(z)と状況によって変動し、状況は数(z)と亜種によって変動する。例えば、核兵器が南極を除いて使用されたときの数(z)は南極を含めて使用されたときの数(z')より大きい。また、後述する不変遺伝子手段では、数(z)、数(y)、それらの差、研究、開発、保有、使用の区別と兵器と兵器を除く手段の区別が曖昧またはゼロに近い。

大量破壊手段

  非全体破壊手段、つまり、それに属するいかなる亜種のいかなる数量がいかなる状況で使用されても全体破壊を生じる可能性をもたない手段のうち、大量破壊を生じる可能性をもつものを「大量破壊手段」と呼べる。定義からして、大量破壊手段は全体破壊を生じる可能性をもたない。例えば、自然の破壊を伴う私企業と公的企業が大量破壊手段である。何故なら、企業は核兵器と不変遺伝子手段よりずっとゆっくりと局地的に自然を破壊するからである。企業がどんなに繁栄を極めても、人間の自然の部分を破壊し、人間と企業は衰退し、人間を含むいくつかの生物とそれらの自然は回復する。つまり、大量破壊手段は生物と自然に回復の余地を残す。それに対して、全体破壊手段は回復の余地を残さない。つまり、後者は前述の繁栄と衰退のサイクルを逸脱している。それに対して、前者は逸脱していない。
  人間が自然の破壊を伴う私企業、公的企業などの人間の機能を制限することによって自然の破壊を抑制することを自然の「保全」、人間が自然を「保全する」ことと呼べる。自然の保全は重要である。だが、自然の保全と全体破壊手段の全廃と予防とを比較すると、後者のほうが優先される。

前全体破壊手段

  そのものは全体破壊手段ではないが、全体破壊手段の研究と開発を生じる可能性をもつ手段を「前全体破壊手段」と呼べる。例えば、原子爆弾や原子力発電所が前全体破壊手段である。二十世紀中頃に原子爆弾が研究、開発、保持、使用されなければ、数年後という早さで水素爆弾が研究、開発、保持されることはなかっただろう。
  だが、大なり小なり間接的に、人間は手段を作り使い、全体破壊や大量破壊を生じる可能性をもち、人間が発生したのが間違いだったことになる。例えば、第二次世界大戦がなく、原子爆弾が研究、開発、保持、使用されなかったとしても、冷戦は起こり原子爆弾、水素爆弾…などは研究、開発、保持されただろう。すべての原因と結果は間接的である。また、人間が開発してしまった手段が全体破壊手段に繋がりえることに気づくにはある程度の時間が必要なことがある。そこで、そのものは全体破壊手段ではないが、全体破壊手段の研究と開発を「一世紀以内に」生じる可能性をもつ手段を前全体破壊手段と呼び直すことにする。そのように定義されても、原子爆弾と原子力発電所は前全体破壊手段である。
  最も必要なことの一つは人間が前全体破壊手段が全体破壊手段を生じる可能性を研究し予想し、前全体破壊手段の段階で全体破壊手段が研究、開発されることを予防することである。例えば、後述する非複製遺伝子手段と可変遺伝子手段の段階で不変遺伝子手段が研究し開発されることを予防する必要がある。だが、もちろん、既に研究し開発し保有された全体破壊手段を全廃することが最も必要なことである。

全体破壊手段の全廃と予防

  以下は全体破壊手段の廃止と予防が部分的にではなく全体的になされる必要がある根拠である。
  通常、全体破壊手段のいくつかの亜種のいくつか(z)以上がいくつかの状況で使用されれば全体破壊が生じる。全体破壊を防ぐためには全体破壊手段をいくつか(z)以下に削減するだけでよいように見える。
  だが、いくつかの公権力が全体破壊手段を研究、開発、保有し続けているのに、他の公権力が全体破壊手段を廃止し予防し続けることはありえない。いくつかの公権力による全体破壊手段の研究、開発、保有が他のいくつかの公権力による全体破壊手段の研究、開発、保有を促す。また、いくつかの公権力によるそれらは他のいくつかの公権力によるそれらに言い訳を与える。
  また、全体破壊手段に限らず、すべてのものの情報は漏洩し他はそれを利用する。特に全体破壊手段を含む武器に関する情報は漏えいし、他の公権力はそれらをそれらの研究、開発、保持のために利用する。
  また、今後は、公権力以外の権力または公的と称する権力が、公権力から漏洩した情報を利用し全体破壊手段を研究、開発、保有、使用する可能性がある。
  また、公権力または私的権力が保有する全体破壊手段に部外者がコンピューター、インターネット…などで侵入し操作して暴走させる可能性がある。また、そのような侵入と暴走がその公権力の他の全体破壊手段の即座の使用または他の公権力または私的権力の全体破壊手段の即座の使用を促し、全体破壊を生じる可能性がある。
  また、実質的には部外者である部内者やそれらを管理する能力を失った部内者が全体破壊手段を操作して全体破壊を生じる可能性がある。
  また、人間の理性の及ばない全体破壊手段の老化、故障、事故…などがありえ、暴走がありえる。安全装置が本体より故障しやすいことはありえる。例えば、五十年前に設計され製造された核兵器が暴走しないのが不思議なぐらいである。
  『生存と自由』で説明されたとおり、いわゆる「抑止」論は数十年単位では機能しえるが、数百年単位では機能しない。長期間では何人かの部内者が管理する能力を失うことがあり、部外者や実質的な部外者である部内者が侵入し暴走させることがあり、人間の理性の及ばない事故はありえるからである。例えば、核兵器はせいぜい数十年の冷戦と冷戦後を無難に過ごしただけである。
  また、後述する不変遺伝子手段では、(z)、(y)、それらの差、研究、開発、保有、使用の区別と兵器と兵器を除く手段の区別が曖昧またはゼロに近い。
  それらのケースも含めて、人間が全体破壊手段を使用して全体破壊を生じる確率が、1年に0.001(0.1%)であっても、100年には1-(1-0.001)^100で約0.1(10%)になり、1000年には1-(1-0.001)^1000で約0.63(63%)になる。
  また、全体破壊手段がたとえわずかでも使用されたとすれば、全体破壊ではないが大量破壊が生じ、多くの命が失われ、多くの苦痛が生じる。また、全体破壊手段は使用されなくても、多大な不安、恐怖などの精神的苦痛を生じる。
  人間が全体破壊手段を使用する前に絶滅すれば、生物の多くは生存するように見える。だが、人間が絶滅して全体破壊手段が残れば、それらは自発的に暴走し、全体破壊または大量破壊を生じる可能性をもつ。簡単に言って、人間は全体破壊手段を全廃するまで絶滅してはならない。
  また、人間は生き残りのために生物の中で最ももがきにもがく。人間が生き残りのためにあがけばあがくほど人間は人間の間で争い全体破壊手段を使用し全体破壊を生じる可能性が大きくなる。
  それらのことから、生物が最低限に生存するためには、人間が公権力、私的権力、部内者、部外者が研究、開発、保有、使用する地球上のすべての全体破壊手段を全廃し予防し前全体破壊手段の段階で全体破壊手段を予防する必要がある。そこで、人間が公権力、私的権力、部内者、部外者が研究、開発、保有、使用する地球上のすべての全体破壊手段を全廃し予防することと前全体破壊手段の段階で全体破壊手段を予防することを人間による全体破壊手段の「全廃と予防」、人間が全体破壊手段を全廃し予防すること呼べる。
  さらに、生物の全体を破壊する可能性をもつ生物は地球上で人間または進化した人間だけである可能性が大きい。人間が全体破壊兵器を全廃し予防する限り、生物は最低限に生存するだろう。生物が最低限に生存するためには、人間は全体破壊兵器を全廃し予防するだけでよい。それらのことを強調するために、また、逆説的に、人間が全体破壊兵器を全廃し予防することを、人間による生物の「最低限の生存の保障」、人間が生物の「生存を最低限に保障する」こととも呼ぶことにする。

前全体破壊手段の廃止と予防

  前述のとおり、そのものは全体破壊手段ではないが、全体破壊手段の研究と開発を一世紀以内に生じる可能性をもつ手段を前全体破壊手段と呼ぶことにした。最も必要なことの一つは人間が前全体破壊手段が全体破壊手段を生じる可能性を研究し予想し、前全体破壊手段の段階で全体破壊手段が研究、開発されることを予防することである。
  だが、科学者がそれを研究し予想することは容易だが、政治的経済的権力の保持者が彼らの忠告を無視し、前全体破壊手段と全体破壊手段の研究、開発を彼らにさせることは十分にありえる。それどころか、前全体破壊手段が全体破壊手段に繋がることを知れば、彼らは必死でそうするだろう。それどころか、現代では核兵器に関して既に核分裂に係る技術が核融合に係る技術に繋がり水素爆弾に繋がることは一般にも知られている。遺伝子操作についてもそうなるだろう。
  とすれば、むしろ公然と積極的に全体破壊手段に繋がりえる前全体破壊手段の資源と技術を規制する必要がある。例えば、原子力発電所は前全体破壊手段であり、その設計から運転、廃止まで、特に放射性物質の採掘、精製、使用、運搬、貯蔵、不活化までを監督する必要がある。
  わたしたち人間にそれをする自身がないとすれば、全体破壊手段だけでなく前全体破壊手段も全廃し予防するべきである。
  あるいは、前述のとおり、類似する手段を含む大きめの群で全体破壊手段を定義する必要がある。例えば、二十世紀中頃の原子爆弾は核兵器に含め、全体破壊手段に含める必要がある。これらの著作はそうする。
  また、必要がなくなった前全体破壊手段や大量破壊手段はすぐに全廃する必要がある。そのような廃止には革新と廃止のための投資を嫌う企業からの抵抗がありえる。また、それらの企業と公権力の固い癒着がありえ、それらの複合体からの強い抵抗がありえる。そこでは、それらのそれぞれを改革し、それらの複合体を解消する必要があるだろう。また、倒産や失業もあるだろう。だが、それらの災難によってわたしたちは、「破壊」型の企業の設立と投資とそれらへの就職に慎重になるだろう。

全体破壊手段の不必要さ

  『生存と自由』で説明されたとおり、人工衛星などの情報収集手段とミサイルなどの運搬手段が発達した現代においては戦略上も戦術上も全体破壊手段は不要である。いくつかの国家や集団が他のいくつかの国家や集団を侵略、破壊または支配したいのなら、前者は収集した豊富で確かな情報と全体破壊手段以外を搭載する高い精度の運搬手段をもって後者の政府と武力とそれらの手段と施設を破壊するだけでよい。もちろん、後者の潜水艦、人工衛星などは破壊されずに残る。だが、それらは全体破壊手段をもっても破壊できず、ここでも全体破壊手段は不要である。後者が報復したいのなら、後者は残ったそれらをもってそれをもって前述と同様のことをするだけでよい。結果として、前者と後者の政府と武力とそれらの手段と施設が破壊されるだけで戦争は終わる。その後は前者と後者の市民が破壊されたものよりマシな政府と軍と国際関係を構築するだろう。
  それらのいわば「市民の戦略」が完全であるためには、一般市民は政府と武力とそれらの手段と施設の近くに居住しない必要がある。近くに居住すれば、前述の精度の高い情報と手段があっても、とばっちりを受ける可能性があるからである。
  もちろん、武力に頼らない国内、国際、世界の制度を構築することは必要である。この節の趣旨は、武力に頼る必要があるとしても、全体破壊手段は不要であるとうことである。

一方的廃止と予防

  全廃と予防に対して、人間が国家、地域…などの中で全体破壊手段を廃止し予防し、地球レベルではそれらの全体ではなく部分を廃止し予防することを人間による全体破壊手段の「部分的」廃止と予防、人間が全体破壊手段を部分的に廃止し予防することと呼べる。
  生物の最低限の生存のためには、人間は全体破壊手段を全廃し予防する必要があり、部分的廃止と予防では不十分なのだが、部分的廃止と予防は全廃と予防のために必要な段階である。だが、いくつかの公権力が全体破壊手段を研究、開発、保有し続け、他の公権力が全体破壊手段を廃止し予防し続けることは難しい。だから、すべての公権力が全体破壊手段を全廃し予防するという取り決めをする必要がある。すべての公権力によるすべての公権力が全体破壊手段を全廃し予防するという取り決めを全体破壊手段の「全廃と予防のための取り決め」と呼べる。
  そのような取り決めによってすべての公権力が廃止し予防するという条件の基に、公権力が全体破壊手段を部分的に廃止し予防することを全体破壊手段の「相互の廃止と予防」、全体破壊手段を「相互に廃止し予防する」ことと呼べる。
  だが、取り決めの不成立や取り決めへの不参加や違反はよく起こるものである。それにも係らず、いくつかの公権力が自身の全体破壊手段を廃止し予防することを全体破壊手段の「一方的廃止と予防」、全体破壊手段を「一方的に廃止し予防する」ことと呼べる。
  前節で述べたとおり、全体破壊手段は戦略的にも戦術的にも不要なのだから、既にそれらを保有している国家はそれらを、取り決めによって相互に廃止するまでもなく、一方的に廃止し予防してよい。軍事的手段が必要ならば、前節で説明された情報収集手段と運搬手段を積極的に開発すればよい。全体破壊手段を保持する国家は廃人同様になる。それぞれの国家による全体破壊手段の一方的廃止と予防はそれらの全廃と予防のための決定的な方法である。
  ただし、一方的廃止と予防は全体破壊手段の全廃と予防への道であり、必ずしもすべてのものへの道ではない。例えば、通常兵器の一方的削減は必ずしも勧められない。
  前述のとおり、(1)部内者が全体破壊手段を管理する能力を失うことがあり、(2)部外者か実質的に部外者である部内者が侵入してそれらを使用することはあり、(3)人間の理性の及ばないそれらの老化、故障、事故…などはありえる。それらのことからも、全体破壊兵器は全廃、予防される必要がある。(1)(2)(3)のすべてが他国を破壊する可能性があるのだが、特に(2)(3)はそれらを保有する国家を破壊する。そのように全体破壊手段はそれらを保持する国家にとって不必要であるだけでなく危険である。
  そのような不必要で危険なものの廃止と予防に、軍産複合体などの政治的権力と経済的権力と科学技術における権威の複合体が抵抗することはありえる。そのような複合体を解体する必要があり、それらの癒着を防止する必要がある。その癒着を防止する方法は『生存と自由のための権力分立制』で説明される。

優先順位

  以上は次の群(A)、群(B)、群(C)、群(D)に大別される。

群(A)最低限の生存、絶滅、全体破壊、全体破壊手段、全体破壊手段の全廃と予防、最低限の生存の保障
群(B)前全体破壊手段
群(C)多様な生存、大量破壊、大量破壊手段、大量破壊手段の廃止と予防、多様な生存の保障
群(D)少量破壊、少量破壊手段

  どれも重要だが、それらを比較すると、(A)は(B)(C)(D)より優先される。例えば、原子力発電所廃止より核兵器の全廃と予防のほうが優先される。だからといって、前者が軽視されてよいということでは全くない。あくまでも、比較するとである。また、(A)と(B)は(C)と(D)より優先される。例えば、自然の保全より核兵器の全廃と予防のほうが優先される。だからといって、前者が軽視されてよいと言っているのでは全くない。あくまでも、比較するとである。
  第一に、わたしたち人間が全体破壊手段を見究め全廃し予防する必要がある。第二に、前全体破壊手段を見究め、それらを廃止し予防するか、それらの段階でそれらが全体破壊手段の研究と開発に繋がることを予防する必要がある。第三に、前全体破壊手段を含む大量破壊手段を見究め、抑制または廃止し予防する必要がある。第四に、少量破壊手段を見究め、対応する必要がある。

区別の重要性

  言い方を変えれば、全体破壊手段、前全体破壊手段、大量破壊手段、少量破壊手段を明確に区別し、第一から第四に行くほど抑制しない必要がある。何故なら、大量破壊手段と少量破壊手段が抑制されるほど、人間の日常生活が制限され、人間の日常的な欲求が満たされず、人間が全体破壊手段の全廃と予防のために機能しないからである。人間の日常的な欲求と生活に対する規制はごくわずかかゼロである必要がある。
  中でも、長生きしたい、家族や友人…などに長生きして欲しいという人間の日常的な欲求は切実であり、人間の健康のための科学技術に対する規制はごくわずかかゼロである必要がある。この著作は後に、遺伝子操作のうち何が全体破壊を生じえ、何が生じえず医療に応用できるかを見究める。
  また、権力の保持者が全体破壊手段でないものを全体破壊手段であるかのように見せかけて、市民の関心と活動をそれらに引きつけ、全体破壊手段の研究、開発、保持、戦争の開始、専制への暴走…などをぼかすことはありえる。例えば、政府と企業の複合体が、核兵器の研究、開発、保持をぼかすために、自然破壊という全体破壊手段ではないものをあまりに深刻なものに見せかけ、市民に自然を保全させることはありえる。市民に自然を保全させることは政府や企業にとって経費節減にもなる。そのような欺瞞を防ぐためにも、全体破壊手段、前全体破壊手段、大量破壊手段、少量破壊手段を明確に区別する必要がある。

手段の区別

  それでは、全体破壊手段、前全体破壊手段、大量破壊手段、少量破壊的手段を区別していこう。手段は以下の(O)(P)(Q)(R0)(R1)(R2)に大別される。

(O)道具的手段
  火薬、エンジン、電気、合成物質、人間によって意図的に誘発された原子核の変化、操作された遺伝子を含まない手段を「道具的手段」と呼べる。狩猟、採集、農耕、牧畜、食物、衣服、家、村、町、道、馬車、帆船、刀、槍、弓矢…などが道具的手段である。

(P)機械的手段
  火薬、蒸気機関、エンジン、電気、合成物質を含み人間によって意図的に誘発された原子核と操作された遺伝子を含まない手段を「機械的手段」と呼べる。工業、工場、都市、ビル、道路、自動車、鉄道、汽車、電車、汽船、飛行機、電話、ラジオ、テレビ、コンピューター、鉄砲、大砲、爆弾…などが機械的手段である。

(Q)原子核手段
  人間が意図的に核分裂、核融合…などの原子核の変化を誘発することを「原子核操作」、原子核を操作することと呼べる。
  人間が意図的に誘発する原子核の変化を含む手段を「原子核手段」と呼べる。二十世紀中頃の原子爆弾、二十世紀後半と二十一世紀初めの核兵器、原子力発電所…などが原子核手段である。
  核分裂、核融合などの原子核の変化は宇宙でいくらでも生じており、地球でも生じている。それに対して、人間によって意図的に誘発された原子核の変化を含む手段が原子核手段である。例えば、自然の中では原子の同位体は拡散し、集中することはないが、人間は普通の実験室にはありえない遠心分離機でウラン235を濃縮して、ウラン原子の核分裂から生じるエネルギーによって水素原子の核融合を誘発する。それが原子核手段の一例である。
  放射線を含むが使用時に人間が意図的に誘発する原子核の変化を含まない手段を、(Q)原子核手段に含めず、(P)機械的手段に含めることにする。人間は再利用というものをし、原子核手段の副産物も再利用する。その再利用品が使用時に人間が意図的に誘発する原子核の変化を含まない限り、その再利用を(Q)原子核手段に含めず、(P)機械的手段に含めることにする。

(R)遺伝子手段
  人間が意図的に遺伝子の変化を誘発することを「遺伝子操作」、人間が「遺伝子を操作する」ことと呼べる。人間によって操作された遺伝子を「操作された遺伝子」と呼べる。操作された遺伝子を含む手段を「遺伝子手段」と呼べる。

(R0)非複製遺伝子手段
  自身を複製することができない操作された遺伝子を「非複製遺伝子」と呼べる。操作された遺伝子のうち非複製遺伝子だけを誘発する遺伝子操作を「非複製遺伝子操作」、非複製遺伝子を操作することと呼べる。操作された遺伝子のうち非複製遺伝子だけを含む手段を「非複製遺伝子手段」と呼べる。

(R1)可変遺伝子手段
  自身を複製することができるが塩基配列だけが変化した操作された遺伝子を「可変遺伝子」と呼べる。何故なら、塩基配列だけが変わった遺伝子は突然変異を被ることができるからである。可変遺伝子だけまたは非複製遺伝子と可変遺伝子だけを誘発する遺伝子操作、実質的にはDNAの塩基配列だけを変える遺伝子操作を「可変遺伝子操作」、可変遺伝子を操作することと呼べる。可変遺伝子だけまたは非複製遺伝子と可変遺伝子だけを含む手段を「可変遺伝子手段」と呼べる。
  二十世紀の終わりと二十一世紀の初めの遺伝子組み変え、遺伝子組み変え作物、遺伝子治療、生物学的兵器のほとんどが非複製遺伝子操作または可変遺伝子操作または非複製遺伝子手段または可変遺伝子手段である。

(R2)不変遺伝子手段
  自身を複製することができ、塩基配列以外のものが変化した操作された遺伝子を「不変遺伝子」と呼べる。何故なら、塩基配列以外のものが変化した遺伝子は突然変異を被ることができない可能性があるからである。不変遺伝子を誘発する遺伝子操作、つまり、塩基配列以外のものの変化を含む遺伝子操作を「不変遺伝子操作」、不変遺伝子を操作することと呼べる。不変遺伝子を含む手段を「不変遺伝子手段」と呼べる。
  二十一世紀の初めの遺伝子手段のいくつかは不変遺伝子手段である可能性がある。
  遺伝子の塩基配列の変化はすべての生物でいくらでも生じており、それが突然変異である。塩基、鎖、それを取り巻くたんぱく質…などからなる遺伝子の分子構造は比較的緩かった。そのような緩い分子構造の中で、遺伝子の複製に間違いが生じ、塩基配列が変化してきた。それが突然変異である。
  さらに、遺伝子の特定の種類の塩基そのものまたは特定の鎖そのものの変化はすべての生物でいくらでも生じている。だが、そのように変化した物質は遺伝子としても生物の部分としても存在し機能せず、分解されるまたは免疫によって捕らえられるまたは生物から排出される。
  その結果として、遺伝子の発生以来、遺伝子の特定の種類の塩基そのものと特定の鎖そのものは変化しなかった。塩基配列だけが変化した遺伝子は突然変異を必ず被り、そのような遺伝子だけを含む生物は必ず自然淘汰される。
  さらに、塩基配列だけが変化した操作された遺伝子も突然変異を必ず被り、そのような遺伝子だけを含む手段が増殖したとすれば、それらは生物または生物と同等のものであり、それらも必ず自然淘汰またはそれと同等のものを被る。
  それに対して、遺伝子配列以外のものが変化した操作された遺伝子、つまり、不変遺伝子手段は突然変異を被ることが明確でない。そのような遺伝子を含む手段、つまり、不変遺伝子手段が増殖するとすれば、それは生物に似ているように見える。だが、それらの遺伝子が突然変異を被ることが明確でないために、それらが自然淘汰またはそれと同等のものを被ることが明確でない。突然変異と自然淘汰を被らないものは生物ではありえない。特に、特定の種類の塩基そのものまたは特定の鎖そのものが変化した遺伝子とそのような遺伝子を含む手段にそのことが言える。前述のとおり、そのように変化した物質は遺伝子としても生物の部分としても存在し機能せず、分解されるまたは免疫によって捕らえられるまたは生物から排出される。だが、それらが処理されるのは自然的条件下でであって、人間が創意工夫を加えれば、それらは処理されない可能性がある。
  補足する。
  (O)-(R2)のうち、(O)は人間の発生とともに始まり、(P)は兵器としては火薬の開発に始まり、兵器を除く手段としては科学技術の急速な発達または産業革命に始まり、(Q)は二十世紀前半から始まり、(R0)(R1)は二十世紀後半から始まり、(R2)は二十一世紀初めに始まりつつある。

兵器の区別

  手段は暴力、戦争、紛争、傷害、殺害、虐殺、武器、兵器、戦術、戦略、兵士、戦術家、戦略家…などと呼ばれるものを含む。それらを「兵器」とも呼ぶことにする。兵器は兵器の研究・開発・保有・使用、研究者、開発者、保有者、使用者を含むことにする。前述の手段(O)~(R2)のそれぞれは以下の(O-W)~(R2-W)のそれぞれを含む。

(O-W)道具的兵器
  火薬、蒸気機関、エンジン、電気、合成物質、人間が意図的に誘発する原子核の変化、操作された遺伝子を含まない兵器を「道具的兵器」と呼べる。刀、槍、弓矢…などが道具的兵器である。

(P-W)機械的兵器
  火薬またはエンジンまたは電気または合成物質を含み、人間が意図的に誘発する原子核の変化、操作された遺伝子を含まない兵器を「機械的兵器」と呼べる。鉄砲、大砲、爆弾、戦車、軍艦、戦闘機…などが機械的兵器である。

(Q-W)核兵器
  人間が意図的に誘発する原子核の変化を含む兵器を「核兵器」と呼べる。二十世紀中頃の原子爆弾、二十世紀後半と二十一世紀初めの水素爆弾、それらを搭載するミサイル、それらを使用するテロ…などが核兵器である。

(R-W)遺伝子兵器
  操作された遺伝子を含む兵器を「遺伝子兵器」と呼べる。遺伝子を操作されたウイルス、細菌を含む兵器、それらを搭載するミサイル、それらを使用するテロが遺伝子兵器である。

(R0-W)非複製遺伝子兵器
  操作された遺伝子のうち非複製遺伝子だけを含む兵器を「非複製遺伝子兵器」と呼べる。

(R1-W)可変遺伝子兵器
  操作された遺伝子のうち可変遺伝子だけまたは非複製遺伝子と可変遺伝子だけを含む兵器を「可変遺伝子兵器」と呼べる。

(R2-W)不変遺伝子兵器
  操作された遺伝子のうち不変遺伝子を含む兵器を「不変遺伝子兵器」とも呼ぶことにする。

  補足する。
  放射線を含むが使用時に人間が意図的に誘発する原子核の変化を含まない手段または兵器を、(Q)原子核手段または(Q-W)核兵器に含めず(P)機械的手段または(P-W)機械的兵器に含めることにする。例えば、核兵器の製造過程や原子力発電所で生じた放射性物質を使用するだけの爆弾は機械的兵器である。
  それに対して、使用されるときに複製、転写、突然変異以外の遺伝子の変化を含まないが操作された遺伝子を含む手段または兵器を遺伝子手段または遺伝子兵器に含めることにする。例えば、使用されるときにを複製、転写、突然変異以外の遺伝子の変化を含まないが、塩基配列または塩基そのものまたは鎖そのものを変えられたウイルスは遺伝子手段または遺伝子兵器である。
  原子核の変化または操作された遺伝子を含む化学兵器のようなものを原子核兵器または遺伝子兵器に含まれる。
  人間によって培養され選別されたにせよ、遺伝子を操作されていないウイルスや細菌は、自然のそれらと大差はない。そこで、操作された遺伝子を含まない生物学的兵器を(P-W)機械的兵器に含めることにする。
  仮に「地学的兵器」なるものが開発されるとしても、地球上の多くの部分で地殻を破壊するなどの手段であり、それは大量の原子核手段または核兵器を含む。そのようなものは核兵器に含まれる。
  ミサイル、ウイルス…などの運搬手段は搭載内容によって分類される。例えば、核兵器を搭載するミサイルは核兵器に含まれ、操作された遺伝子を含むウイルスは遺伝子手段または遺伝子兵器に含まれ、通常の爆弾しか搭載しないミサイルや何も搭載しないミサイルは機械的兵器に含まれる。
  コンピューター、インターネット…などを含む手段または兵器は操作される対象によって分類される。例えば、コンピューターの操作によって核兵器搭載ミサイルが発射されたとすれば、それは核兵器である。
  今後は公権力または私的権力が保有する原子核手段または不変遺伝子手段に部外者または実質的に部外者である部内者がコンピューター、インターネット…などで侵入し操作して暴走させ、全体破壊を生じる可能性をもち、そのような部外者、侵入、操作、侵入し操作される手段は兵器と見なせる。それらのことをそれらの「部外者による操作」、それらを部外者が操作することとも呼び、兵器に含めることにする。
  兵器は人間または手段の殺傷、破壊を目的とするが、人間だけでなく他の生物とそれらの自然を破壊する。そのような自然破壊によっても、いくつかの兵器は全体破壊を生じる可能性をもつ。
  では、それらの手段のうちどれが全体破壊手段、前全体破壊手段、大量破壊手段、少量破壊的手段かを見極めていく。

道具的手段

  兵器を除く道具的手段そのものは全体破壊手段でも前全体破壊手段でも大量破壊手段でもなく少量破壊的手段である。だが、道具的兵器を用いた戦争、独裁、専制…などが大量破壊を生じることはあった。だが、道具的兵器や手段だけを伴ういかなるものも全体破壊を生じることはない。

機械的手段

  兵器を除く機械的手段は、隆盛を極めると、自然を破壊することによって大量破壊を生じる可能性をもつ。例えば、二酸化炭素、硫黄酸化物、窒素酸化物、フロン…などの排出が抑制されなければ大量破壊が生じる。だが、兵器を除く機械的手段は大量破壊を生じる可能性をもっても、全体破壊を生じる可能性をもたず、全体破壊手段でも前全体破壊手段でもない。何故なら、それらによる自然の破壊は核兵器などよりはるかにゆっくりと進行するからである。機械的手段が繁栄を極めれば、人間の自然のを破壊し、人間は衰退し、人間と他の生物とそれらの自然は回復するからである。つまり、前述の繁栄と衰退のサイクルを逸脱しない。
  機械的兵器は、独裁、大戦などで、大量破壊を生じる可能性をもつが、全体破壊を生じる可能性をもたない。一日のうちに地球上の機械的兵器のすべてが使用されたとしても、全体破壊を生じる可能性はない。また、化学兵器は大量破壊を生じる可能性を化学兵器を除く機械的兵器よりもつ。だが、一日のうちに地球上のすべてのそれらが使用されたとしても、全体破壊を生じる可能性はない。遺伝子兵器を除く生物学的兵器は大量破壊を生じる可能性をもつ。だが、人間がどんなに培養、選別、精錬しても、遺伝子を操作されていない限り、それらが全体破壊を生じる可能性はない。
  以上のように、兵器を含む機械的手段は、大量破壊手段だが、全体破壊手段ではない。だからと言って、機械的兵器を放置してよいと言っているのでは全くない。だが、あくまでも、全体破壊兵器の全廃と予防が優先される。わたしたち人間は全体破壊手段を全廃し予防した後で機械的兵器を廃止し予防する必要がある。

原子核手段

  原子力発電所などの核兵器を除く原子核手段は、全体破壊手段としての核兵器の研究と開発を生じる可能性をもち、前全体破壊手段である。核兵器を除く原子核手段は全体破壊手段ではなく前全体破壊手段であり大量破壊手段である。例えば、部外者の侵入を完全に排除している原子力発電所は全体破壊手段ではない。だが、それらが前全体破壊手段であることが軽視されてはならない。それらは廃止されるべきである。だが、全体破壊手段の全廃と予防が優先される。
  数日の間に地球上の原子力発電所などの原子核手段のいくつか(z)以上が暴走すれば全体破壊を生じるえる。だが、そのような一連の出来事が自発的に生じるわけがなく、一部の人間の高度な戦略、技術、コンピューターの操作…などを含み、それらは前述の部外者による原子核手段の操作に含まれ、核兵器に含まれる。つまり、部外者による原子核手段の操作は、核兵器に含まれ、全体破壊を生じる可能性をもち、全体破壊手段である。
  そして、核兵器のいくつかの亜種のいくつか(z)以上がいくつかの状況で使用されれば、全体破壊が生じ、核兵器は全体破壊手段である。例えば、繰り返すが、地球上の二十世紀後半と二十一世紀初めのいくつかの公権力が保有する核兵器に属する水素爆弾の特定の数(z)以上が両半球のほとんどの大陸と海域で使用されれば、それらが生じる放射線によって、第一に、陸上と浅海の多くの生物の遺伝子が破壊されまたは変異し、それらは死滅またはガン化または不妊を被りそれらは絶滅する。第二に、陸上と浅海の呼吸と光合成と食物連鎖が機能せず、それらのすべての生物が絶滅する。第三に、浅海からの食物連鎖が絶たれ深海の生物も絶滅し、結局、全体破壊が生じる。また、今後は公権力だけでなく私的権力が核兵器を研究、開発、保有、使用する可能性がある。また、前述のとおり、部外者または実質的に部外者である部内者が核それらに侵入しそれらを操作すことはありえ、部内者がそれらを管理する能力を失うことはありえる、人間の理性を超えたそれらの老化、故障、事故…などはありえる。
  二十世紀中頃の原子爆弾そのものは全体破壊手段ではなく前全体破壊手段であり大量破壊手段である。だが、二十一世紀以降に原子爆弾が研究、開発されるとすれば、それは全体破壊手段としての核兵器の研究と開発に直結する。そこで、原子爆弾を全体破壊兵器に含め、核兵器に含めることにする。
  そのように、全体破壊兵器を定義するには比較的直接的に明らかなそれらの研究、開発、保持、使用を生じる手段も含める必要がある。だから、「いくつかの亜群」をその定義に含めたのである。
  それらのように、核兵器は放射線を生じる可能性をもち、使用時に放射線が遺伝子を破壊する。そのように、核兵器はより間接的に遺伝子を破壊する。それに対して、人間は以下のように直接的に遺伝子を操作している。

非複製遺伝子手段

  非複製遺伝子手段は大量破壊を生じる可能性をもち、大量破壊手段である。例えば、増殖しなくても、遺伝子を操作された細菌やウイルスが大量に実験室を出れば大量破壊を生じる。非複製遺伝子兵器は、それらより大量破壊を生じる可能性をもち、大量破壊手段である。
  だが、非複製遺伝子手段が含む非複製遺伝子は自身を複製することができない。兵器であるなしに係らず、そのような遺伝子だけを含む非複製遺伝子手段は無際限に増殖する可能性をもたず、全体破壊を生じる可能性をもたず、全体破壊手段ではない。

可変遺伝子手段

  可変遺伝子手段は、非複製遺伝子手段より大量破壊を生じる可能性をもち、大量破壊手段である。可変遺伝子兵器は可変遺伝子兵器を除く可変遺伝子手段より大量破壊を生じる可能性をもち、大量破壊手段である。何故なら、可変遺伝子手段が含む可変遺伝子は自身を複製することができ、そのような遺伝子を含む可変遺伝子手段は増殖する可能性をもつからである。
  だから、それらは無際限に増殖し全体破壊を生じる可能性をもつように見える。だが、可変遺伝子手段が含む可変遺伝子は、塩基配列が変わっただけであり、突然変異を被ることができる。前述のとおり、突然変異を被った遺伝子をもつ生物のうち、自然とその周辺の中で何世代にも渡り存在し機能し再生することができたごく少数だけが種として存在し機能することができる。突然変異を被ったほとんどの生物は増殖するほどにも機能せず存在しない。それが「自然淘汰」である。可変遺伝子手段が増殖するとすれば、それは生物または生物と等価のものであり、それらも必ず自然淘汰またはそれと同等のものを被る。簡単に言って、可変遺伝子手段は従来の生物と等しい。だから、兵器であるなしに係らず、可変遺伝子手段が無際限に増殖し全体破壊を生じることはない。
  つまり、兵器であるなしに係らず、全体破壊手段ではなく、大量破壊手段である。
  だが、非複製遺伝子手段と可変遺伝子手段を軽視してよいと言っているのではない。だが、それより優先される仕事がある。

不変遺伝子手段

  それに対して、塩基配列以外のものを変えられた不変遺伝子は突然変異を被らない可能性があり、そのような遺伝子を含む不変遺伝子手段は自然淘汰を被らない可能性がある。不変遺伝子手段が増殖するとすれば、それらは生物に似ているように見えるが、突然変異と自然淘汰を被らないものは生物ではありえず、まがいものである。そのようなものは無際限に増殖し、人間を含む生物の全体を駆逐し、全体破壊を生じる可能性をもつ。だから、不変遺伝子手段は全体破壊を生じる可能性をもち、全体破壊手段である。
  もちろん、不変遺伝子兵器は全体破壊手段である。兵器であるなしに係らず、不変遺伝子手段は全体破壊手段である。
  また、前述の部外者による不変遺伝子手段の操作は不変遺伝子兵器に含まれ全体破壊手段である。
  それらは、兵器であるなしに係らず、研究、開発、保有、使用するものが公権力、私的権力、部内者、部外者であるかに係らず、段階が研究か、開発か、保有か、使用かに係らない。例えば、試験管の中で発生した不変遺伝子を下水に流してしまっただけでも、全体破壊を生じる可能性をもつ。
  前述のとおり、生物の中で遺伝子の特定の塩基そのものと特定の鎖そのものはよく変化するのだが、そのように変化した物質は遺伝子や生物の部分として存在、機能せず、分解されるまたは免疫によって捕らえられるまたは生物から排出される。それに対して人間が工夫して作出した不変遺伝子は、そのように処理されない可能性をもつ。不変遺伝子が分解されず免疫によって捕らえられず排出されないとき、不変遺伝子は突然変異を被らず、不変遺伝子を含む不変遺伝子手段は自然淘汰されず、無際限に増殖し、人間を含む生物の全体を駆逐して、全体破壊を生じる可能性をもつ。
  核兵器のいくつかの亜種のいくつか(z)以上がいくつかの状況で使用されれば全体破壊が生じ、(z)以下で(y)以上が使用されると大量破壊が生じる。その特定の数(y)(z)といくつかの亜種といくつかの状況が比較的明確であり、それらの数が比較的大きく、それらの差が比較的大きいのに対して、不変遺伝子手段は微量でも全体破壊を生じる可能性があり、(y)と(z)が比較的曖昧であり、それらが比較的小さいか一であり、それらの差が比較的小さいかゼロである。また、不変遺伝子手段では研究、開発、保有、使用の間の区別が曖昧である。前述の例を繰り返すが、試験管の中でできてしまった不変遺伝子を下水に流してしまっただけでも全体破壊を生じる恐れがある。
  もちろん、不変遺伝子兵器は全体破壊手段である。だが、兵器を除く不変遺伝子手段も兵器と見なせる。比喩的に言って、遺伝子そのものを変えること自体がすべての生物とそれらの自然への冒涜である。
  今、非複製遺伝子手段と可変遺伝子手段は不変遺伝子手段を生じる可能性をもち後者は前者の前全体破壊手段であったことが分かる。そのことを研究し予想し、可変遺伝子手段の段階で不変遺伝子手段を予防する必要がある。既に不変遺伝子手段は作られている可能性があるのだが、まだ、少なく、今からでも遅くない。
  そこで、誰かが言うかもしれない。「もう既にそのような手段が作られているにも係らず、全体破壊は生じておらず、わたしたちはまだ生きている。それらが全体破壊をもたらすなどというのが妄想だ」と。そのような方は『全体破壊手段』の節の以下の部分を参照していただきたい。

非全体破壊手段を以下のように定義し、次いで全体破壊手段を定義することにする。まず、それに属するいかなる亜種のいかなる数量がいかなる状況で使用されても全体破壊を生じる可能性を地球や太陽の自然な老化や死のときまでもたない手段を「非全体破壊手段」と呼べる。次に、非全体破壊手段ではない手段を「全体破壊手段」と呼べる。

全体破壊手段の限定

  前述のとおり、人間は生身でもってではなく、自製の手段をもって全体破壊を生じる可能性をもつ。手段は前述の(O)-(R2)に大別される。前述のとおり、それらの中で全体破壊手段は(Q-W)と(R2)である。だから、(Q-W)と(R2)が全体破壊手段であり、全体破壊手段は(Q-W)と(R2)だけであり、全体破壊手段は(Q-W)と(R2)に限定される。
  さらに念を押してみる。
  仮に以上の根拠が不十分であるとしても、以下のことが言える。全体破壊と生物の最低限の生存に関する限りで、疑わしいものは全廃し予防する必要があり、それらが決して全体破壊を生じないという根拠がない限り、それらは全体破壊を生じる可能性をもち全体破壊手段である。
  全体破壊を生じる可能性をもつものはそれらだけかについて念を押してみる。核兵器と不変遺伝子手段だけが全体破壊手段だろうか。
  生物の中では人間または進化した人間だけが全体破壊を生じる可能性をもつ。もし人間以外が全体破壊を生じるとしても、それは前述の地球や太陽の自然な老化や死滅と見なせる。しかも、人間は素手ではなく、手段をもって全体破壊を生じる可能性をもつ。手段がなければ、人間は全体破壊どころかほとんど何もできない。
  前述のとおり、手段は家畜、作物、遺伝子手段…などの生物を含む。今後、人間は生物と無生物の混合物のような手段を開発する可能性がある。そこで、この節では手段を生物の全体も部分も含まない手段と遺伝子、細胞膜…などを含めて生物の全体または部分を含む手段とに区別する。
  第一に生物の全体も部分も含まない手段の中で、原子核の外にあるものがそれだけで全体破壊を生じるとは考えられない。原子核手段が含む原子核の変化は大量の放射線を生じ、大量の放射線が多くの生物の遺伝子を破壊し、比較的間接的に全体破壊を生じる可能性をもつ。原子核の変化を含まないものが直接的にも間接的にもそれほど大量の放射線を生じ全体破壊を生じることは不可能である。例えば、大量の電子線が生物を絶滅させるとしても、そのような電子線は原子核の変化から生じ人間によって誘発され、核兵器に含まれ、全体破壊兵器に含まれるか、宇宙のどこかから降り注ぎ、地球や太陽の自然な老化や死滅に含まれるかである。また、前述のとおり、生物の全体も部分も含まない手段の中で、原子核手段を除く手段は生物とその自然を原子核手段と比較してゆっくりと破壊し、人間とその自然も破壊し、人間は衰退し、そのうちに人間を含む生物とそれらの自然は回復し、全体破壊を生じる可能性はない。つまり、それらは繁栄と衰退のサイクルを逸脱しない。さらに、核兵器を除く原子核手段が生物を絶滅させるとしても、前述の部外者による原子核手段の操作のように、それは人間の意図によっているのであり、それは兵器と見なせ核兵器と見なせる。それらのことから、生物の全体も部分も含まない手段の中では、核兵器だけが全体破壊を生じる可能性をもち全体破壊手段である。
  第二に生物の全体または部分を含む手段の中で、遺伝子の外にあるものがそれだけで全体破壊を生じるとは不可能である。天然にせよ人工にせよ、自身を複製することができる遺伝子を含み自身を無際限に再生することができるものだけが、生物の全体を駆逐し、全体破壊を生じる可能性をもち、他はその可能性をもたない。例えば、遺伝子を含まないロボットやコンピューターは自身を再生することができず、いずれは故障または摩耗するだけである。それらのハードウエアがいずれはそうなることはわたしたちは日常で痛感している。金属やプラスチックは熱したり鍛かなければ再生しない。自身を再生することができるそれらが開発されたとしても、それらまたはそれらの再生の核となるものは何世代か後には故障または磨耗する。遺伝子手段のうちの非複製遺伝子が増殖せず、可変遺伝子手段が自然淘汰を被り、全体破壊を生じないことは前述のとおりである。すると問題はやはり不変の再生である。そこで人間は不可避的に「人工遺伝子」を考える。それである。人工遺伝子こそが不変遺伝子、つまり、塩基配列以外のものが変化した遺伝子であり、前述のとおり、それらを含む手段、つまり、不変遺伝子手段は突然変異を被らず無際限に増殖して人間を含む生物の全体を駆逐して全体破壊を生じる可能性をもつ。それらのことから、生物の全体または部分を含む手段の中では、不変遺伝子手段、つまり、人工遺伝子だけが、全体破壊を生じる可能性をもち、全体破壊手段である。
  それらのことから、核兵器と不変遺伝子手段だけが全体破壊を生じる可能性をもち全体破壊手段である。つまり、人間を含む生物の全体破壊を予防し生物の最低限の生存を保障するためには、人間は核兵器と不変遺伝子手段を全廃し予防するだけでよい。

諦めと悲観の除去

  それらのように、人間が核兵器と不変遺伝子手段を全廃し予防する限り、人間と手段がどんなに繁栄を極めても、人間が衰退または絶滅するだけで、生物とそれらの自然とそれらが進化するための自然は回復し、地球や太陽の自然な老化や死滅のときまで生物は生存する。
  さらに、核兵器、不変遺伝子手段とそれら以外の手段を比較すると、後者は生物と自然を前者よりはるかにゆっくりと局地的に破壊する。だから、人間が前者を全廃し予防する限り、人間と人間の手段がどんなに繁栄を極めても、人間は衰退するだけで絶滅せず、人間または進化した人間を含む生物とそれらの自然とそれらが進化するための自然は回復し、人間または進化した人間を含む生物は地球や太陽の自然な老化や死滅のときまで生存する。今、核兵器と不変遺伝子手段を全廃し予防するだけで人間または進化した人間を含む生物が生存することができることが明らかになる。つまり、生物の生存の最低限の保障は人間の生存の保障も含んでいたことが今、明らかになる。
  また、生物の最低限の生存の保障は進化した人間のそれを含むかもしれないことが明らかになる。わたしたちが進化することに何の問題があるだろうか。全体破壊手段を研究、開発、保持、使用し全体破壊を生じる可能性をもつような人間は進化したほうがよい。進化してもこれ以上悪くはならないだろう。
  諦め、悲観…などの情動によって、人間が、全体破壊手段を全廃と予防する可能性は小さくなり、全体破壊を生じる可能性は大きくなる。そのような陰性的な情動を防ぐためにも、核兵器と不変遺伝子手段を全廃し予防するだけで人間または進化した人間を含む生物が生存できることを強調する必要がある。

全体破壊手段を限定しそれらの全廃と予防を優先する必要性

  以下の根拠によっても、全体破壊手段を限定し、核兵器と不変遺伝子手段だけが全体破壊手段であることを強調し、それらの全廃と予防を優先する必要がある。
  前述のとおり、全体破壊手段、前全体破壊手段だけでなく、大量破壊手段、少量破壊手段が制限されるほど、日常的な欲求と生活が制限され、人間は全体破壊手段の廃止と予防のためにも機能しない。全体破壊手段の全廃と予防のためにも、自己のための日常的な欲求と生活への制限はごくわずかかゼロである必要がある。もちろん、それら自身のためにも、日常的な欲求と生活への制限はごくわずかかゼロである必要がある。
  企業だけでなく日常生活も環境汚染、資源枯渇…などのなんらかの自然破壊を伴う。厳密な自然の保全のためには日常生活の多くが制限される。だが、前述のとおり、自然破壊が全体破壊を生じる可能性はない。自然破壊を伴う企業や人間の生活は全体破壊手段でも前全体破壊手段でもなく大量破壊手段である。だから、自然の保全は全体破壊手段の全廃と予防ほどに厳密である必要がない。かえすがえすも、だからと言って、自然を保全しなくてよいと言っているのでは全くない。全体破壊手段の全廃と予防が優先されると言っているだけである。
  中でも長生きしたい、家族、友人…などに長生きして欲しいという自己のための日常的な欲求は切実であり、医療に係る科学技術に対する規制はごくわずかかゼロである必要がある。非複製遺伝子手段または可変遺伝子手段を含み不変遺伝子手段を含む医療よってそれらの欲求と生活を満たすことは可能である。前述のとおり、非複製遺伝子手段と可変遺伝子手段は大量破壊手段に含まれ、不変遺伝子手段は全体破壊手段に含まれる。前者に対する制限は後者の全廃と予防ほど厳密である必要はない。
  また、今後は、権力者が生物または人間の生存を強調し過ぎ、日常的な欲求と生活を過度に制限する可能性がある。さらに、全体破壊手段の研究、開発、保持、戦争の開始、専制や独裁への暴走…などをボカすために、全体破壊手段でないものを全体破壊手段であるかのように見せかける可能性がある。独裁、専制、全体主義…などは、日常的な欲求と生活のためにも、全体破壊手段の全廃と予防のためにもならない。何故なら、それらはその時代にできることならなんでもしようとし、今後は全体破壊手段を開発し保持しようとするから。それらを抑制し、日常的な欲求と生活を満たし、全体肺手段を全廃し予防するためには、わたしたちは自由権、社会権、民主制、権力分立制、法の支配を拡充する必要がある。
  以上の根拠によって、全体破壊手段を限定し、全体破壊手段が核兵器と不変遺伝子手段だけであることを強調し、それらの全廃と予防を優先させる必要がある。

生存と自由

  独裁、専制…などは全体破壊手段の研究、開発、保持、使用を促進し全廃と予防を抑制する。自由権、社会権、民主制、権力分立制、法の支配を拡充するとき、それらは全体破壊手段の研究、開発、使用を抑制し全廃と予防を促進する。もちろん、前者の非民主的非分立的制度は日常的な欲求と生活を制限し後者の民主的分立的制度はそれらを促進する。日常的な欲求と生活を促進するためにも、全体破壊手段を全廃と予防するためにも、前者を抑制し後者を拡充する必要がある。また、前者を抑制するためにも後者を拡充する必要がある。また、日常的な欲求と生活を満たすためだけでなく、核兵器と不変遺伝子手段を全廃し予防し生物の最低限の生存を保障するためにも、戦争、虐殺、集団的暴力…などを抑制する必要がある。また、そのような伝統的破壊を抑制するためにも、前者を抑制し後者を拡充する必要がある。また、全体破壊、大量破壊、伝統的破壊を抑制するという名目のもとに前者を許してはならず、そのためにも後者を拡充する必要がある。
  以上のことから、端的に言って、生存と自由を両立させる必要がありそれは可能である。

参考文献

生存と自由   生存と自由のための権力分立制   記憶以上をもつ動物の心理学  

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