COPYRIGHT(C)2000 OUR-EXISTENCE.NET ALL RIGHTS RESERVED  日本語訳トップページ・引用の仕方  英語原文

生存と自由の詳細

基本的用語

  この『生存と自由の詳細』を「この著作」と呼べ、この著作と『生存と自由』と『国家権力を自由権を擁護する法の支配系と社会権を保障する人の支配系に分立すること』と『感覚とイメージの想起』と『自我と自我の傾向』と『悪循環に陥る傾向への直面』と『特定のものと一般のもの』を「これらの著作」と呼べる。また、『感覚とイメージの想起』と『自我と自我の傾向』と『悪循環に陥る傾向への直面』を『心理学三部作』と呼べる。
  この著作では、物質、属性、機能、生物、生物機能、動物、動物機能、感覚、記憶、感情、欲求、自我、思考、能力、傾向、習性、それらが存在し機能すること…などの言葉は『心理学三部作』と基本的に同じものを指す。詳細はその著作を参照して頂きたい。ただ、それらの言葉は日常や従来の科学で指されるのと同様のものを指すとされても大きな問題はない。いくつかの重要な言葉の意味といくつかの言葉の意味の『心理学三部作』との違いを簡単に説明する。
  『心理学三部作』では、一方で物質、生物、動物、人間…などの存在と、他方で物質機能、生物機能、動物機能、人間機能…などの機能を含む属性との間の区別は重要だった。この著作ではそれらの間の区別はあまり重要ではない。また、『心理学三部作』では存在または生存は自明のこととして前提され、それらより機能のほうが重要だった。この著作では機能も重要だが、存在または生存は自明のこととして前提されず非常に重要である。そこで、この著作では、物質とその機能を含む属性、生物とその機能を含む属性、動物とその機能を含む属性、人間とその機能を含む属性…などを「物質」「生物」「動物」「人間」…などとも呼ぶことにする。また、『心理学三部作』では、物質が生じるまたは変化することと機能を含む属性が生じるまたは変化することことの区別は重要だった。この著作ではそれらの区別はあまり重要ではない。そこで、物質とその機能を含む属性が生じるまたは変化すること、生物とその機能を含む属性が生じるまたは変化すること…などを物質が生じること、「存在し機能する」こと、生物が生じること、存在し機能すること…などとも呼ぶことにする。特に、生物が存在し機能することをそれらが「生きる」ことと呼べる。
  いずれにしても、人間は動物に含まれ、動物は生物に含まれ、生物は物質に含まれる。
  『心理学三部作』では、種や社会より個体、個人のほうが重要だった。だから、暗黙のうちに動物、人間などの言葉は通常、それらの個体、個人を指していた。それに対して、この著作では個体、個人より種や社会のほうが重要である。だから、この著作では生物、動物、人間などの言葉は通常、それらの種または社会を指すことにする。
  物質はすべて、直接的または間接的に、他のいくつかの物質から機能され他のいくつかの物質に対して機能する。そのような直接的または間接的に機能し機能される他の物質をすべて挙げることは不可能である。例えば、個人は、直接的に光景や音から機能され、間接的に家庭、学校、会社の家族、教師、級友、上司、同僚、部下から機能され、さらに間接的に他の家庭、学校、会社…などから機能され…と続き、際限がない。そこで、「直接的または間接的に」という言葉と他の物質のうち自明な大部分を省略することにする。例えば、生物の進化を説明するとき、太陽系や地球の発生の説明を省略することにする。

生物

  たんぱく質、脂質、糖質、核酸などの高分子を合成し、それらから構成され、自身と同じ必然的属性をもつ物質を再生する物質を「生物」と呼べる。遺伝子も、核酸とたんぱく質を合成し、それらから構成され、自身を複製し、生物である。同様に細胞も、より大きな生物を構成することがあるとともに、生物である。もちろん、動物、植物は生物である。
  また、生物がもつ機能を「生物機能」と呼べ、生物とそれらの生物機能を含む属性とを「生物」と呼べる。生物機能は、無性有性の増殖、生殖を含む。生物そのものの発生、細胞膜の発生、遺伝子の発生、細胞の発生、多細胞生物の発生、種の発生、進化…なども生物機能に含めることにする。
  生物の全体という言葉は限りない空間と時間をもつ宇宙で存在・機能する無数の生物を指しうる。これらの著作では、地球の生物の全体を生物の全体と呼ぶことがある。それに対して、地球外の生物を「地球の生物と同様の物質」とも呼ぶことがある。

生物の種

  共通の必然的属性(AP)をもつ生物(A)が何世代にもわたり共通の必然的属性(AP)をもつ(A)を再生する、または、共通の必然的属性(BCP)をもつ生物(B)と生物(C)が相互に機能して何世代にもわたり共通の必然的属性(BCP)をもつ(B)と(C)を再生するとき、(A)または(B)と(C)を「(生物の)種」と呼べる。
  他の生物から空間的に分離して存在し機能することができる生物を「(生物の)個体」と呼べる。わたしたたちが日常で見かける動物の多くは個体である。
  『心理学三部作』は動物、特に人間を個体を単位として説明することが多かった。それに対して、この著作はそれらを種を単位として説明することが多い。だから、この著作ではいくつかの生物という言葉はいくつかの生物の種を指すことが多く、「人間」という言葉は Homo sapiens という種を指すことが多い。また、感覚以上をもつ生物の種を「動物」と呼べる。また、光合成という機能をもつ生物の種を「光合成をする植物」「植物」と呼べる。繰り返すが、人間は動物に含まれ、動物は生物に含まれ、生物は物質に含まれる。

可能性と能力

  物質が存在し機能する「可能性」は他のいくつかの物質が存在し機能する可能性を含む。可能性に対して、物質が存在し機能する物質に固有の可能性を物質の「能力」または「傾向」または「習性」と呼べる。それらの詳細と違いについては『心理学三部作』を参照していただきたい。これらの著作ではそれらの詳細と違いは大きな問題にならない。

自然

  いずれにしても、物質が存在し機能する可能性は他のいくつかの物質が存在し機能する可能性を含む。いくつかの生物が存在し機能する可能性は、他のいくつかの生物を含む他のいくつかの物質が存在し機能する可能性を含む。生物の種が存在し機能する可能性は他のいくつかの種を含む他のいくつかの物質が存在し機能する可能性を含む。例えば、人間が存在し機能する可能性は、太陽、地球、水、酸素、二酸化炭素、植物の光合成、微生物、植物、他のいくつかの動物の食物連鎖…などが存在し機能する可能性を含む。さらに、それらが存在し機能しなければある種が存在、機能しない他のいくつかの種を含む他のいくつかの物質とそれらの機能が存在し機能する。また、それらが存在し機能しなければ地球上のすべての種が存在、機能しない他のいくつかの物質とそれらの機能が存在し機能する。それらがなければある種が存在、機能しない他のいくつかの種を含む他のいくつかの物質とそれらの機能を種の「自然」、種のための自然と呼べる。また、それらがなければ地球上のいかなる種も存在し機能しない他のいくつかの物質とそれらの機能を(すべての)生物の自然、(すべての)生物のための自然と呼べる。例えば、太陽、地球、水、酸素、二酸化炭素、植物の光合成、微生物、植物、他のいくつかの動物の食物連鎖…などが人間の自然、人間のための自然である。また、太陽、地球、水、酸素、二酸化炭素…などが生物の自然、生物の自然である。何のための自然かが明らかなときは「生物の」、「生物のための」などの修飾語を省略して、「自然」という言葉を用いることができる。
  生物の自然の大部分が存在、機能しないのに生物が一時的に存在し機能することがある。だが、生物の自然の大部分が存在、機能しなければ、生物はやがて絶滅するか、従来の種とは異なる方向に進化する。例えば、数人の男女と数千年分の宇宙船、酸素、水、食糧、衣服、燃料、医薬品…などが存在し機能したところで、免疫力、生殖能力の低下や予期せぬ身体的または精神的障害からそれらの人間は二、三世代で絶滅するか、もはや人間とも動物とも見なせないものに進化する。生物の本物の自然の大部分が存在し機能しないのに生物が一時的に存在し機能することを、生物が存在し機能することに含めず、上の例のような自然まがいのものを自然に含めないことにする。
  過去の生物のための自然と現在の生物のための自然は異なる。現在の生物のための自然と生物そのもの、細胞膜、遺伝子…などが発生するための自然は異なる。(1)現在のものと異なる地球の自然の中で生物そのものが発生したか、(2)地球以外の天体の自然の中で生物そのものが発生し地球にやってきたか、(3)地球以外の自然の中で生物の素材が発生し地球にやってきて、それらから生物そのものが発生したかのいずれかである。恐らく(3)である。いずれにしても、現在の地球の自然の中で生物そのものが発生する可能性はほとんどないと考えられる。

遺伝子と進化

  遺伝子は特定の種類の「塩基」と塩基をつなぐ特定の鎖から構成される。その塩基の順列が「塩基配列」である。遺伝子の塩基配列が主としてたんぱく質の構造と極性を決定づけることによって生物の大部分を決定づける。遺伝子の塩基配列はしばしば自発的に変化する。それが「突然変異」の実質である。突然変異を被った遺伝子をもつ生物のうち、その自然とその周辺の中で何世代にも渡り存在し機能し再生することができたごく少数だけが新種または変亜種として存在し機能することができる。言い方を変えれば、突然変異を被った遺伝子をもつ生物のほとんどは存在、機能することができない、または、自身を再生することができない。それらのことを生物の「自然淘汰」、生物が「自然の中で淘汰される」ことと呼べる。今生きているわたしたちは既に選ばれたのだから、自然淘汰の重大さがなかなか分からない。繰り返すが、突然変異を起こした遺伝子をもつ生物のほとんどは存在、機能しない、または自身を再生することができない。わたしたち人間が間違って遺伝子を操作したとしても、その産物が突然変異と自然淘汰を被る限りは、無際限に増殖し人間を含む生物の全体を絶滅させることはない。だが、その産物が突然変異と自然淘汰を被らないとすれば、どうなるか。その答えは後ほど出される。
  ある種が突然変異と自然淘汰によって他のいくつかの種を生じえる。そのことを、(1)ある種または生物から他のいくつかの種または生物への「進化」、いくつかの種または生物が他のいくつかの種または生物に「進化する」ことと呼べる。また、ある種が突然変異と自然淘汰によって同種だが変種を生じることがある。それを(2)変種への「種内」進化と呼べる。(1)(2)を進化と呼べ、(1)を狭義の進化と呼べる。
  狭義の進化は、種から他の種への変化であるから、連続量ではなく離散量を属性としてもつ。それに対して、種内進化では変種から変種への進化はあいまいでとらえにくい。だが、種内進化においても、遺伝子の塩基配列の変化で進化の量を表現でき、それは離散量である。いくつかの種から他のいくつかの種または個体または亜種への進化のそのような量が大きい~小さいことを前者が後者へ"大きく~小さく"進化することと呼べる。
  ところで、退化について、生物の部分や部分の機能が退化することはありえ、その表現は適切である。例えば、人間では嗅覚という機能と尾という器官が退化している。それに対して、種や亜種が退化するという表現は不適切である。仮にある種が人間にとって無意味な方向に進化しているように見えても、自然に適応して生存している以上、その種は進化していると見なせる。
  突然変異はしばしば生じるのだから、生物は必ずやがて進化する。ある種が何百年、何千年、生存する限り、その種は必ず種内進化する。ある種が何万年、何十万年、生存する限り、その種は別の種に進化する。人間もそうである。もし、人間が地球や太陽の自然な激変のときまで生存するとすればなおさらである。

生物の進化と生物の自然

  生物の構造と機能の進化は古いそれらに新しいそれらを付け加えることであることが多い。だから、生物が進化するほど、生物の構造も機能も複雑になる。付け加えられた構造と機能が存在し機能するためには、付加されたそれらのための自然が存在し機能する必要があり、進化した生物が存在機能するためには、進化する前の生物の自然に付加されたもののための自然が付け加えられなければならない。だから、生物が進化するほど、生物のための自然は複雑になり、生物の自然は多様になる。
  『感覚とイメージの想起』におけると同様に、この著作でも心的現象の一種である感覚で現れるものを生じると前提される機能を感覚と呼び、それらを生じない機能を感覚とは呼ばないことにする。また、この著作でも記憶は心的現象の一種であるイメージの想起を含むものとし、そのようなイメージの想起を含まない機能を記憶とは呼ばないことにする。
  『感覚とイメージの想起』で説明されたとおり、感覚が発生しなければ記憶は発生しない。記憶をもつ動物はすべて、感覚をもつ。記憶をもつ動物はすべて、感覚をもち記憶をもたない動物から進化する。知覚、連想、感情、欲求、自我、思考…などの機能はすべて、記憶が含むイメージの想起を含む。それらの機能は記憶が発生しなければ発生しない。それらの機能をもつ動物はすべて記憶をもつ。それらの機能をもつ動物はすべて、記憶をもちそれらの機能をもたない動物から進化する。そこで、感覚と感覚がなければ発生しない機能を「感覚以上」と呼べ、記憶と記憶がなければ発生しない機能を「記憶以上」と呼べる。だが、上で定義したような感覚をもつ動物でさえもかなり進化しており、かなり複雑であり、それらの自然はかなり多様である。感覚以上をもつ動物の自然はさらに多様であり、記憶以上をもつ動物の自然はさらに多様である。
  種が進化するほど、多様な種と「共生」する必要がある。例えば、人間が存在し機能するためには季節のある山、川、海、平野、街…で多様な微生物、植物、他の動物と共生する必要がある。農作物や家畜も共生する植物、動物のいくつかと考えてよい。弱い細菌やウイルスから免疫ができることも、強い細菌やウイルスから身を守るためのそれらとの共生と考えてよい。定義からして、そのような種が共生する多様な他種は、種の自然に含まれる。さらに、種が共生する多様な他種が存在し機能するためには、それらのための多様な自然が存在し機能する必要がある。定義からして、そのような種が共生する多様な他種のための多様な自然も、種の自然に含まれる。

生物が進化するための自然

  さらに、種が存在し機能するだけでなく進化するためには、他の種と「競争」する必要がある。種が進化するほど、多様な種と競争する必要がある。例えば、草食動物がさらに進化するためには細菌やウイルスだけでなく多様な草食動物といくつかの肉食動物と競争する必要がある。競争する多様な種が存在し機能するためにはそれらのための多様な自然が存在し機能する必要がある。種が進化するために必要な種が競争する他種とそれらの自然を種または生物が「進化するための自然」と呼べる。
  そもそも、種が進化するためには、生物が存在し機能するだけでなく、生物が自身を再生する必要があり、遺伝子の複製、修復、性的機能…などが存在し機能する必要がある。定義からして、それらは生物そのものに含まれる。

生物の生存と進化のための自然

  生物の自然は生物が進化するための自然と重なる。例えば、人間が共生する動物も競争する動物も同じ土壌、山、草原、森、河、湖、海または街に住む。そのように重なる種の自然とそれが進化するための自然を種または生物の「生存と進化のための自然」と呼べる。
  だが、突然変異はやがて必ず起こるのだから、進化しない生物は存在機能しないかもしれない。だとすれば、生物が進化するための自然は生物の自然に含まれることになる。だから、生存と進化のための自然を単に自然とも呼ぶことにする。だが、生物が進化するための自然を強調する必要があるときは生存と進化のための自然という言葉を用いることにする。
  いずれにしても、進化がより進んだ生物の自然は進化があまり進んでいない生物のそれらより多様であり、前者が進化するための自然は後者のそれらより多様であり、前者の生存と進化のための自然は後者のそれらより多様である。記憶以上をもつ動物の生存と進化のための自然は感覚をもち記憶をもたない動物のそれらより多様である。そもそも、感覚以上をもつ動物のそれらは感覚をもたない生物のそれらより多様である。

進化の量と方向

  多くの進化を比較すると、進化は属性として、前述のような量をもつだけでなく方向をもつことが分かる。例えば、「感覚をもたず運動しないが光合成をする(植物)⇔光合成をしないが感覚をもち運動する(動物)」が逆の方向である。「感覚をもち記憶をもたない→記憶以上をもつ」が同一の方向への量である。ある種から他のいくつかの種への進化が属性としてもつ方向を光合成、感覚、記憶…などの生物機能で表すことができる。また、種から他の種への進化の量が一定の方向に大きいまたは小さいことを、種が一定の方向に大きくまたは小さく進化することと呼べる。
  一定の方向に進化した種ほど、逆の方向へ進化する可能性をもたなくなる。例えば、植物よりは微生物のほうが動物に進化する可能性をもつ。動物よりは微生物のほうが植物に進化する可能性をもつ。光合成をする被子植物が感覚以上をもつ動物に進化する可能性はゼロである。感覚以上をもつ動物が被子植物に進化する可能性はゼロである。
  そして、これらの著作の中で最も重要なことの一つとして、感覚をもたない生物が感覚をもつ動物に進化する可能性は非常に小さい。それは、これらの著作が定義する感覚を生じるような神経系は既にかなり複雑で精巧だからである。それらと比較して、感覚をもち記憶をもたない動物が記憶以上をもつ動物に進化する可能性ははるかに大きい。記憶以上をもつ動物が絶滅したとしても、感覚をもち記憶をもたない動物とそれらの生存と進化のための自然が存在し機能する限り、後者が前者に必ず進化する。その時間は地球の寿命と比べれば一瞬である。

手段

  人間は道具、家、衣服…などの手段を作り使い残す。手段は刀、弓矢、爆弾、ライフル、ミサイル…などの兵器を含む。また、人間は家畜や農作物を、飼育または栽培し、使用するまたは食用にする。それらの生物も人間にとっては手段に含まれる。操作された遺伝子、遺伝子手段は、生物または生物まがいのものであり、手段に含まれる。手段の極みが核兵器と不変遺伝子手段と人為的激変を生じる手段である。また、話し言葉だけでなく 書き言葉、記号…などで手段を作り使う方法を伝達し残す。それらは手段であるとともに手段の進歩を促す。人間は生身によってではなく手段をもって自らや他の生物や自然を破壊し、後述する繁栄と衰退のサイクルを逸脱している。他の生物が遺伝子以外をほとんど残さないのに対して、人間は遺伝子だけでなく手段を残す。

繁栄と衰退のサイクルからの逸脱

  だが、地球や太陽が自然的経過によって老化し崩壊するとき、地球上の生物の全体は絶滅する。人間を含めていかなる生物もそのような地球や太陽の自然な激変を止めることはできない。何人かの人間が太陽系の他の惑星や衛星や他の系のそれらに移住して生存するなどというのはフィクションに過ぎない。仮にそれが可能であるとしても、わたしたちはそのような生存を人間を含む生物の生存と認めることはできない。そのような人間は地球の自然とは異なる自然の中で地球の生物の進化の方向とは異なる方向に進化をするまたは衰退するからである。
  だが、わたしたち人間は地球や太陽の自然な劇変以前に人間を含む生物を絶滅させる可能性をもつ。それは何故か。
  そもそも、人間だけでなく、人間以外の生物が同種または他種の他のいくつかの生物またはそれらの自然に対して機能して、その結果としてそれらの生物のいくつかが存在しないまたは機能しないまたは障害されることはよくある。そのことを生物による他の生物の「破壊」、生物が他の生物を破壊することと呼べる。また、生物が同種のまたは他種の自然に機能して、結果としてその自然のいくつかの部分が存在しないまたは機能しないまたは障害されることはよくある。そのことを生物による自然の破壊、生物が自然を破壊することと呼べる。いくつかの生物は他のいくつかの生物を直接的に破壊するだけでなく、それらの自然を破壊することによって間接的に破壊する。
  そもそも、人口が極度に増大し繁栄を極めた生物の種は、繁栄によってその種の自然と他のいくつかの種と他のいくつかの種の自然を破壊し、その種の自然の破壊によってその種は絶滅または衰退する。だが、その種の絶滅によって、他の種と他の種の自然は甦る。その種の衰退によって、その種の自然は甦えり、その結果、その種さえも甦り、人口はゼロにならない。それらのことを「繁栄と衰退のサイクル」と呼べる。このサイクルは同種または異種の一握りの生物の生き残りと復活を前提とする。この前提を忘れないで頂きたい。このサイクルは壮大な試行錯誤でもある。その試行錯誤も同種または異種の一握りの生物の生き残りと再試行を前提とする。そのことも忘れないで頂きたい。そのようなサイクルによって従来の生物はどんなに繁栄を極めても生物の全体を絶滅させることはなかった。
  それに対して、わたしたち人間は繁栄と衰退のサイクルを逸脱し、人間を含む生物の全体を絶滅させる可能性をもつ。後述する核兵器と不変遺伝子手段と人為的激変が全地球規模で短時間のうちに生物の遺伝子を破壊するまたは地球そのものを破壊し、前述の生き残りと復活と再試行の余地を残さない可能性があるからである。

進化からの逸脱

  以下は『生存と自由』の対応部分とほとんど同じである。
  生物の進化も壮大な試行錯誤である。突然変異が試行であり、自然淘汰の中で環境に適応できない生物の死が錯誤である。前述のとおり、人間の記憶、感情、欲求、自我、思考の能力と傾向を含む内容は後天的に形成され、遺伝せず進化しない。それに対して、それらの内容を容れる枠組みは遺伝子によって先天的に形成され、遺伝し進化する。例えば、記憶の枠組み、つまり、イメージを生成し記銘し保持し想起する神経細胞群は遺伝子によって先天的に形成され、遺伝し進化するが、記憶の内容、つまり、それらのイメージそのものは後天的に生成し、遺伝せず進化しない。さらに、思想や観念、社会の構造と制度、芸術、科学技術を含む文明の内容は遺伝せず進化しない。それに対して、それらを生み出し伝達する枠組みは遺伝し進化する。より具体的には、独裁制や民主制、資本主義や共産主義、天動説や地動説、創造論や進化論、インフォテクやバイオテクは遺伝せず進化しない。それに対して、それらを記銘し保持する神経系やそれらを伝達する喉頭、舌、口唇や手指のような枠組みは遺伝し進化する。
  そして、それらの内容が全体破壊手段や大量破壊手段を生み出し、人間を含む生物の生存に適さないものになっている。だが、何度も言うが、それらの内容も全体破壊手段の製造方法も廃止予防する方法も遺伝せず進化しない。とすれば、人間が進化の中で生存のための適者となる方法は、それらの内容を容れるそれらの枠組みが進化することだけである。その枠組みがわずかに(種内)進化するだけでも数百年、数千年かかる。仮にその枠組みが生存に適するように(種内または種外)進化することが可能だとしても、それには数万年、数十万年かかるだろう。それは非現実的過ぎて誰も考慮しないだろう。
  そもそも、従来の生物においてはそれらの内容は希薄であり、生存に係るもののほとんどは遺伝し進化し、自然淘汰、適者生存、進化は直接的に機能してきた。それに対して、人間にはそれらはかなり間接的にしか機能しない。人間は前述の繁栄と衰退のサイクルだけでなく、進化も逸脱している。進化を一つのゲームと見なすと、人間はそのルールを無視している、または、その競技場の外でプレーしている。十九世紀以来、人間は苦心して進化論を構築してきたのだが、人間はその逸脱に気づいているのだろうか。
  繰り返すが、それらの枠組みが遺伝し進化するのであって、それらの内容は遺伝せず進化しない。実質的にはわたしたちはそれらの枠組みを変えることはできない。言い方を替えれば、わたしたちがそれらの内容を変えることは全く不可能なわけではない。それらの内容を全体破壊手段を全廃し予防できるものに変えることは全く不可能なわけではない。これらの著作はそれを試みるものに他ならない。

全体破壊

  前述のとおり、感覚をもち記憶をもたない動物が記憶以上をもつ動物に進化する可能性は、感覚をもたない生物が感覚をもつ動物に進化する可能性よりはるかに大きい。感覚をもつ動物とそららの生存と進化のための自然が存在し機能する限り、それらが記憶以上をもつ動物に、地球の寿命と比較すると短時間で、必ず進化する。そのことを含めて、この著作の冒頭からここまでで説明されたことから、地球や太陽の自然な劇変までの地球で、感覚をもち記憶をもたない少数の動物の種とそれらの生存と進化のための自然が存在し機能することを(生物の)「最低限の生存」、(生物が)最低限に生存することと呼べる。繰り返すが、感覚をもち記憶をもたない少数の動物の種とそれらの生存と進化のための自然が存在し機能する限り、それらが記憶以上をもつ動物に、地球の寿命と比較すると短時間で、必ず進化する。
  感覚をもち記憶をもたない少数の動物の種とそれらの生存と進化のための自然は多様な微生物と植物と動物を含み、最低限の生存でさえも意外に多様な生物の生存を含む。そのことを忘れないで頂きたい。
  もちろん、わたしたちのそれぞれは自己の生存を追求し、人間は人間の生存を追求する。人間が他の生物の生存を追求することは稀である。だが、人間が生存し機能するためにはその自然が存在し機能しなければならず、そのような自然はかなり多様であり、多様な生物を含む。人間が人間の生存を求めることは多様な生物の生存を求めることを含む。だから、人間が人間の生存を追求することは一概に人間のエゴイズムと言えない。
  それらのことから、地球や太陽の自然な劇変までの地球で、人間または進化した人間を含む記憶以上をもつ動物のいくつかの種が存在し機能することを(生物の)「多様な生存」、(生物が)「多様に生存する」ことと呼べる。
  また、生物の最低限の生存または多様な生存を(生物またはわたたちの「生存」、(生物またはわたしたちが)生存することと呼べる。
  それらに対して、地球や太陽の自然な劇変以前の地球で感覚以上をもつ動物のすべての種が存在、機能しなくなることを(生物の)「絶滅」、(生物が)絶滅することと呼べる。生物の絶滅はそれらのすべての種の生存と進化のための自然が存在、機能しなくなることを含みうる。
  生物の絶滅のうち、わたしたち人間が生物の絶滅を生じることを(人間による生物の)「全体破壊」、(人間が生物の)全体を破壊することと呼べる。定義からして、そのような人間によって破壊される生物は人間を含む。そのことを強調する必要があるときは、人間による生物の全体破壊を(人間による)「人間を含む」(生物の)全体破壊、(人間が)人間を含む生物の全体を破壊することと呼ぶことにする。後述するとおり、核兵器と不変遺伝子手段と人為的激変が全体を破壊する可能性をもつ。
  「大量破壊」のような言葉の意味は曖昧で主観的である。だが、それよりそのような言葉が全体破壊を含むかどうかが重要である。これらの著作では全体破壊を含まない多くの人間と生物とそれらの自然の破壊を「大量破壊」、大量に破壊すること呼ぶことにする。だが、それが全体破壊を含まないことを強調する必要がある場合は全体破壊を除く大量破壊などの表現をすることにする。また、「少量破壊」「少し破壊する」…などの言葉も曖昧だが、この言葉が全体破壊を含意することはないだろう。

広義の手段

  人間は鍬、鋤、器、衣服、家…などの道具を作り使う。武器、兵器…なども道具に含まれる。人間は、家、建物、道、車、船、飛行機などの複雑または大規模な道具を研究、開発、製造し操作する。それらは手段に含まれる。さらに、人間は意図的に原子核の変化を誘発し、原子力発電所、核兵器のような放射線を発する手段を研究、開発、保持、使用する。それらも手段に含まれる。また、人間はいわゆる家畜、作物、微生物…などの生物を飼育、栽培または培養し使用する。さらに、人間は遺伝子を操作し、遺伝子組み換え作物、生物学的兵器などの操作された遺伝子を含む手段を研究、開発、使用する。それらは生物または疑似生物だが、人間が何らかの方法で操作し利用するのだから、手段に含めることにする。さらに、人間は生活する方法、道具を製作、使用する方法…などを研究し、話し言葉、書き言葉、記号、紙、コンピューター、ラジオ、テレビ、インターネット…などで記録し伝達する。また、人間は政府、企業、研究所…などの大きな組織を構成し経営する。それらもすべて手段に含めることにする。人間は、人間を含む生物の全体を破壊する可能性をもつが、素手や素っ裸でそうするのではなく、それらの手段によって破壊する。だから、全体破壊や大量破壊を生じるものが何かを探るときは、まず、手段に着目する必要がある。
  だが、手段がなければ人間は何もできないことは確かだが、どの手段を使うかよりも人間がどう振る舞うかが問題になる場合がある。極端な例を挙げるが、戦争や大量虐殺においては、従来型兵器を使うか、核兵器を使うか、化学兵器を使うか、生物学的兵器を使うか、食糧と水を遮断するか、自然災害や伝染病を放置するかよりも戦争や大量虐殺そのものが問題になる。これらの著作ではそのような人間の振る舞いも手段に含めることにする。例えば、戦争は全体破壊「手段」または大量破壊手段であると言える。また、大量虐殺は大量破壊「手段」であると言える。また、自然破壊は大量破壊「手段」であると言える。また、その軌道を変えるような小惑星操作は全体破壊「手段」であると言える。そのように手段を定義すると、何が全体破壊をもたらすか大量破壊をもたらすかを探るには、すべての(広い意味での)手段を見渡すだけで十分である。

全体破壊手段

  全体破壊手段を定義するとき、以下に注意する必要がある。
(1)前述の広い意味での手段をすべて分類しつつ見渡す必要がある。
(2)全体破壊を生じえないことが確証できない手段はそれらに含まれる必要がある。
(3)他のいくつかの手段と類似する手段は前者から容易に研究され開発されるので、類似する手段を含む大きめの集合で定義する必要がある。例えば、原子爆弾や水素爆弾という集合ではなく、核兵器という集合が必要である。
(4)ある手段の一定量以上が特定の状況より悪い状況で使用されて全体破壊を生じる場合、現在にその量と状況がありえなくても、その手段は含まれる必要がある。
(5)だが、明らかに全体破壊を生じえない手段を全体破壊手段から明確に除外する必要がある。それは、日常的な欲求と生活があまりに制限されるなら、人間は生物の最低限の生存のためにも機能しないからである。例えば、全体破壊を生じえない遺伝子治療を全体破壊手段から除外する必要がある。何故なら人間の生命と健康への欲求は最も切実だからである。
  そこで、一般的には、非全体破壊手段を定義し、その後で全体破壊手段を定義するほうが確実な方法だろう。それに属するいかなる亜種のいかなる数量がいかなる状況で使用されても全体破壊を生じる可能性をもたない手段を「非全体破壊手段」と呼べる。その後で、非全体破壊手段ではない手段を「全体破壊手段」と呼べる。より簡単には、全体破壊を生じえないことが確実でない手段を「全体破壊手段」と呼べる。
  通常、全体破壊手段に属するいくつかの亜種の特定の数(z)以上がいくつかの状況で使用されると、全体破壊が生じる。まず、核兵器が全体破壊手段である。核兵器の亜群である水素爆弾の特定の数(z)以上が、報復の連鎖の中で、両半球のほとんどの大陸と海域で使用されれば、それらが直接的かつ間接的に生じる放射線によって、第一に、地上と浅い地下と浅海の多くの生物の遺伝子が破壊されまたは変異し、それらはガン、免疫不全、貧血、不妊…などを被りそれらは絶滅する。第二に、地上と浅い地下と浅海の呼吸と光合成と食物連鎖が機能せず、それらのすべての生物が絶滅する。第三に、地上と浅い地下と浅海からの食物連鎖が絶たれ深い地下と深海の生物も絶滅し、結局、全体破壊が生じる。後述するとおり、核兵器だけでなく不変遺伝子手段と人為的激変が全体破壊手段である。
  仮に、ある手段が、現在に特定の数(z)に達する可能性をもたず全体破壊を生じる可能性をもたないとしても、それは全体破壊手段に含まれる。例えば、三つ超大国が保持する核兵器のほとんどが廃止されれば、核兵器は特定の数(z)に達さず全体破壊を生じる可能性をもたない。それでも、核兵器は全体破壊手段であり、わたしたちはそれらを全廃し予防し続ける必要がある。
  通常、全体破壊手段が上記の条件以外で使用されれば、全体破壊ではなく大量破壊が生じる。その理由によっても全体破壊手段は全廃され予防される必要がある。
  数(z)は亜種と状況によって変動し、亜種は数(z)と状況によって変動し、状況は数(z)と亜種によって変動する。例えば、核兵器が北極を除いて使用されたときの数(z)は北極を含めて使用されたときの数(z')より大きい。だが、後述する不変遺伝子手段と人為的激変では、数(z)と研究、開発、保有、使用の区別と兵器と兵器を除く手段の区別が核兵器より曖昧である。

大量破壊手段

  非全体破壊手段、つまり、それに属するいかなる亜種のいかなる数量がいかなる状況で使用されても全体破壊を生じる可能性をもたない手段のうち、大量破壊を生じる可能性をもつものを「大量破壊手段」と呼べる。定義からして、大量破壊手段は全体破壊を生じる可能性をもたない。
  従来型の兵器とそれらを使用する戦争、虐殺…などは大量破壊手段である。また、失政による食糧難、パンデミック、自然災害による被害を極小化できないこと…も大量破壊手段である。また、(全体破壊手段を伴わない)自然破壊と自然破壊を生じる産業や科学技術も大量破壊手段である。自然破壊が全体破壊手段でなく大量破壊手段であることは意外だと思うので説明しておく。自然破壊がどんなに旺盛になっても、全体破壊手段を伴わない限り、人間を含む生物とそれらの自然の部分を破壊するだけで、人間は衰退するだけで絶滅せず、人間を含むいくつかの生物とそれらの自然は回復する。つまり、全体破壊手段が前述の繁栄と衰退のサイクルを逸脱しているのに対して、自然破壊を含む大量破壊手段は逸脱していない。
  そのように、全体破壊手段を繁栄と衰退のサイクルを逸脱している手段とも定義でき、非全体破壊手段をそれを逸脱していない手段とも定義できる。
  人間が自然の大量の破壊と消耗を伴う人間の機能を制限する、より具体的には環境を保全し資源を保全し有効利用することによって自然の破壊と消耗を抑制することを自然の「保全」、人間が自然を「保全する」ことと呼べる。自然の保全は環境保全と資源の保全と有効利用を含む。自然の保全は重要である。だが、自然の保全と全体破壊手段の全廃と予防とを比較すると、後者のほうが優先される。それは前者が軽視されてよいという意味では全くない。あくまでも、後者が優先されるというだけのことである。
  逆説的な大量破壊手段がある。医療福祉である。医療福祉によって病弱な個人が生存し子孫を残す。結果として、人間が医療福祉がなければ生存できない病弱な方向に種内進化することは確実である。医療福祉が崩壊したときは、多くの個人が生存できない。だが、それは全体破壊手段ではなく大量破壊手段である。何故なら、わずかながらも病弱でない人間はいるものであり、彼女ら彼らが生き残り子孫を残すからである。
  また、健康でありたい、長生きしたい、家族や友人に健康で長生きして欲しいという人間の個人の願いは切実である。わたしたちはそのような切実な願いを抑制しないほうがよい。医療福祉が全体破壊手段であれば抑制せざるをえないが、不変遺伝子手段を伴わない限り、大量破壊手段であり、集中的に抑制する必要はない。

前全体破壊手段

  そのものは全体破壊手段ではないが、全体破壊手段の研究と開発を生じる可能性をもつ手段を「前全体破壊手段」と呼べる。例えば、原子爆弾や原子力発電所が前全体破壊手段である。二十世紀中頃に原子爆弾が研究、開発、保持、使用されなければ、数年後という早さで水素爆弾が研究、開発、保持されることはなかっただろう。
  だが、大なり小なり間接的に、人間は手段を作り使い、全体破壊や大量破壊を生じる可能性をもち、人間が発生したのが間違いだったことになる。例えば、第二次世界大戦で原子爆弾が研究、開発、保持、使用されなかったとしても、冷戦で原子爆弾、水素爆弾…などが研究、開発、保持されただろう。ほとんどの原因と結果は間接的関係である。だから、前全体破壊手段の定義そのものが限定的でなく、後知恵である。だが、そのまさに後知恵から全体破壊を生じえるものの概略をつかむことは可能である。後に詳しく述べるとおり、その概略とは原子核操作と遺伝子操作と小惑星操作である。それらの概略を含む手段のうち全体破壊手段を除くものを前全体破壊手段と呼び直せる。簡単に言って、それらの操作には気を付ける必要がある。
  最も必要なことの一つは人間が前全体破壊手段が全体破壊手段を生じる可能性を研究し予想し、前全体破壊手段の段階で全体破壊手段が研究、開発されることを予防することである。例えば、後述する可変遺伝子手段の段階で不変遺伝子手段が研究し開発されることを予防する必要がある。だが、もちろん、既に研究し開発し保有された全体破壊手段を全廃することが最も必要なことである。

全体破壊手段の全廃と予防の必要性

  以下は全体破壊手段の廃止と予防が部分的にではなく全体的になされる必要がある理由である。
  通常、全体破壊手段のいくつかの亜種のいくつか(z)以上がいくつかの状況で使用されれば全体破壊が生じる。全体破壊を防ぐためには全体破壊手段のすべての亜種をそれぞれの亜種とその最悪の状況に対応する(z)以下に削減するだけでよいように見える。
  だが、いくつかの国家の政府と武力が全体破壊手段を研究、開発、保有し続けているのに、他の国家のそれらが全体破壊手段を廃止し予防し続けることはありにくい。
  また、今後は、政府や軍以外の権力が、政府や軍から漏れた情報や物資を利用し全体破壊手段を研究、開発、保有、使用する可能性がある。
  また、政府または武力が保有する全体破壊手段に部外者がコンピューター、インターネット…などで侵入し操作して暴走させる可能性がある。
  また、実質的には部外者である部内者やそれらを管理する能力を失った部内者が全体破壊手段を操作して暴走させる可能性がある。
  また、人間の理性が予測できず制御できない全体破壊手段の老化、故障、自然災害による事故…などがありえ、暴走がありえる。
  いわゆる「抑止」論は数十年、数百年は機能しえるが、数百年を超えて、機能しない。長期間では何人かの部内者が管理する能力を失うことがあり、部外者や実質的な部外者である部内者が侵入し暴走させることがあり、人間の理性の及ばない事故はありえるからである。例えば、核兵器はせいぜい数十年の冷戦と冷戦後を無難に過ごしただけである。たかだか数十年、数百年の生存が抑止論を確証することは決してない。
  また、後述する不変遺伝子手段では、一定の数(z)と研究、開発、保有、使用の区別と兵器と兵器を除く手段の区別が曖昧またはゼロに近い。ほんの一握りの権力者がほんの一握りのそれらを使用しただけでも全体破壊が生じえる。
  それらのケースも含めて、人間が全体破壊手段を使用して全体破壊を生じる確率が、1年に0.001(0.1%)であっても、100年には1-(1-0.001)^100で約0.1(10%)になり、1000年には1-(1-0.001)^1000で約0.63(63%)になる。
  また、全体破壊手段がたとえわずかでも使用されたとすれば、全体破壊ではないが大量破壊が生じ、多くの命が失われ、多くの苦痛が生じる。また、全体破壊手段は使用されなくても、多大な不安、恐怖などの精神的苦痛を生じる。
  人間が全体破壊手段を使用する前に絶滅すれば、生物の多くは生存するように見える。だが、人間が絶滅して全体破壊手段が残れば、それらは自発的に暴走し、全体破壊または他の生物にとっての大量破壊を生じる可能性をもつ。簡単に言って、人間は自分たちが開発し保持した全体破壊手段を全廃するまで絶滅してはならない。
  また、人間は生き残りのために生物の中で最も激しくもがく。人間が生き残りのためにあがけばあがくほど人間は人間の間で争い全体破壊手段を使用し全体破壊を生じる可能性が大きくなる。
  だが、全体破壊手段が全廃予防されなければならない最大の理由は、『生存と自由』で説明された。そのまま引用する。
…MADは全体破壊手段の保持者、管理者が通常の情動と自我をもつことを前提とする。だが、彼ら彼女らはどんな情動と自我をもってどんな意識的機能に出るかわからない。彼ら彼女らがうつ状態、躁状態、幻覚妄想状態、薬物依存乱用における離脱…などに陥ることはありえる。さらに、そのような精神障害における精神状態がなくても、以下がありえる。
  例えば、支配性と自己永遠化欲求と権力欲求が強烈な人間が全体破壊手段を含む公的武力を含む政治的権力を握っているとき、また、戦争や革命の動きによってその者が握っている政治的権力が危いとき、その者はシェルターに潜って全体破壊手段を地上に向けて使用して地上の人間を絶滅させ、その後で地上に戻って地上を支配しようと思うかもしれない。しかも、核兵器を使用してしまうと資源の多くが汚染されてしまい、放射能が何世代も残る。そこで、核兵器の使用は限定的にして、不変遺伝子手段を使用して地上の人間を絶滅させ、感染の危険がなくなってから地上に戻ろうとするかもしれない。さらに、世界中の独裁者の何人かがいっせいに以下のようなことを考えているかもしれない。「他の独裁者に全体破壊手段を使わせ、それを極悪人とする。自分たちはいち早く地下のシェルターに退避する。地上の人間が絶滅した後で地上に戻って地上を支配する。人口は地下に退避していた者が生き残るだけで激減し、環境と資源はすぐに回復し、なかなか悪化しない。だから、互いに争う必要がない。かといって互いに協調する必要もない。そこでそれぞれが好き勝手に地上を支配できる。これこそが地上の楽園だ」と思っているかもしれない。
  上は一例に過ぎない。人間は権力を握ると、全体破壊手段をもってどんな情動と自我でどんな意識的機能を生じるか分からない。過去に権力を握った人間が専制へと走り、人々を弾圧し虐殺し戦争を繰り広げ…などは、よくあったことで、世の常だ…などと言われるかもしれない。だが、それは全体破壊手段や精巧なシェルターがなかった時代に言えることである。現代では権力を握った人間は全体破壊手段と精巧なシェルターを用いて何を考え何をするか分からない。だから、市民は権力を民主化し分立して権力者を抑制し、全体破壊手段を全廃し予防し続けるしかない。全体破壊手段は、地表や地底や海底や宇宙のものも含め、公権力がもつ可能性があるものも私的権力がもつ可能性があるものも含めて全廃でなければならない。そうしなければ、人間を含む生物の生存はありえない…

  それらのことから、生物が最低限に生存するためには、人間が公権力、私的権力、部内者、部外者が保有するすべての全体破壊手段を全廃し、それらが全体破壊手段を研究、開発、製造、保持、使用することを予防し、前全体破壊手段の段階で全体破壊手段を予防する必要がある。そこで、人間が公権力、私的権力、部内者、部外者が保有するすべての全体破壊手段を全廃し、それらが全体破壊手段を研究、開発、製造、保持、使用することを予防し、前全体破壊手段の段階で全体破壊手段を予防することを人間による全体破壊手段の「全廃と予防」、人間が全体破壊手段を全廃し予防すること呼べる。
  さらに、生物の全体を破壊する可能性をもつ生物は地球上で人間または進化した人間だけである可能性が大きい。人間が全体破壊兵器を全廃し予防する限り、生物は最低限に生存するだろう。生物が最低限に生存するためには、人間は全体破壊兵器を全廃し予防するだけでよい。だから、人間が全体破壊兵器を全廃し予防することを、人間による生物の「最低限の生存の保障」、人間が生物の「生存を最低限に保障する」こととも呼べる。
  また、人間が全体破壊手段だけでなく前全体破壊手段を含む大量破壊手段を全廃し予防することを人間による様々な生物の生存の保障または人間が様々な生物の生存を保障することと呼べる。
  また、生物の最低限の生存の保障または様々な生物の生存の保障を人間による生物の生存の保障または人間が生物の生存を保障することと呼べる。

前全体破壊手段の廃止と予防

  前述のとおり、そのものは全体破壊手段ではないが、全体破壊手段の研究と開発を生じる可能性をもつ手段、つまり、全体破壊手段を除く原子核、遺伝子、小惑星の操作を含む手段を前全体破壊手段と呼べる。最も必要なことの一つは人間が前全体破壊手段が全体破壊手段を生じる可能性を研究し予想し、前全体破壊手段の段階で全体破壊手段が研究、開発されることを予防することである。
  だが、科学者技術者がそうしても、政治的経済的権力の保持者が全体破壊手段の研究、開発を彼らに強要または誘導することは十分にありえる。だから、前全体破壊手段の段階で、全体破壊手段の研究、開発、製造を生じえる公私の個人と団体の行為を非合法化し規制する必要がある。わたしたち人間にそれをする自信がないとすれば、全体破壊手段だけでなく前全体破壊手段も全廃し予防するべきである。

世界の権力者と世界の市民という横割りの構造・動態、選択的破壊手段-SMAD-権力疎外-権力相互暴露

  以下の説明は『生存と自由』の対応部分と同じである。
  二十世紀の「冷戦」なるものの歴史的重要性は、今日では、資本主義と共産主義の対立よりも、核兵器という全体破壊手段の開発、製造、軍官学産複合体の拡大、と以下のMADという観念の普及にある。その冷戦のときに「相互確証破壊(Mutual Assured Destruction(MAD))」「抑止論」…などの言葉が流行った。それらの要点は、複数の超大国が当時は唯一の全体破壊手段だった核兵器をもって他を確実に破壊できれば、超大国は相互に攻撃することがなく、世界大戦は避けられるというものである。そのような観念を「相互確証抑止(Mutual Assured Deterrence (MAD))」という言葉で一括することにする。MADによって冷戦が熱戦や世界大戦にならなかったということは部分的に事実である。
  冷戦とそれ以降の軍事的戦略の核心は、相手の攻撃力と防衛力を完全に破壊することではない。それらを完全に破壊すれば、攻撃に対する相手の報復の可能性を絶てるが、それは不可能なことである。どんなに相手を破壊しようとしてもなんらかの破壊的手段が海底または地底または、何より宇宙に残りうるからである。また、相手の攻撃力を完全にブロックするような防衛システムを構築することも不可能なことである。冷戦以降の軍事的戦略の核心はすべて、相手を「抑止」する、簡単に言って脅かすことでしかない。問題は何を抑止する必要があるかである。
  冷戦の頃のものをはるかに超えて、科学技術、特に情報科学技術は進歩しており、兵器は相手の政府と軍の中枢だけを正確かつ選択的に破壊できるようになっている。全体破壊手段、大量破壊手段…などの無差別的破壊手段に対して、相手の政府と軍の中枢だけを正確かつ選択的に破壊できる手段を「選択的破壊手段」と呼べる。選択的破壊手段は、古い爆弾を搭載する新しいミサイルや宇宙の人工衛星や宇宙船や地上の微小な無人機を含む。それらは偵察手段にも攻撃手段にも防衛手段にもなる。選択的破壊手段でそれぞれの国家の政府と軍は相手の政府と軍の中枢だけをますます正確かつ選択的に破壊できるようになっている。
  軍の指揮権をもつ者を含む国家権力の保持者が最も大切にし必死になって守ろうとするのは当然、自身の命である。次に彼らが大切にし守ろうとするのは自身が獲得した権力でり、それらは兵器、軍事施設だけでなく行政権、立法権、軍、警察の主要な建物…など権力の象徴を含む。彼らにとっては市民の命よりそれらのほうが大切である。だからこそ、軍の指揮権をもつ者を含む政府と軍の中枢を抑止する効果は絶大である。それに対して、軍の指揮権をもたない一般市民を抑止しても何の効果もない。侵略、先制攻撃、戦争…などを抑止するために抑止する必要があるのは、一般市民ではなく軍の指揮権をもつ者を含む相手の政府と軍の中枢である。選択的破壊手段を用いて市民を巻き込むことなく、いくつかの国家の政府と軍が互いを抑止することを、「選択的相互確証抑止(Selective Mutual Assured Deterrence (SMAD))」と呼べ、抑止段階を過ぎると選択的相互確証「破壊」(Selective Mutual Assured Destruction (SMAD))と呼べる。後者になっても権力の保持者が犠牲になるだけである。侵略、先制攻撃、戦争…などを抑止するためにはSMADだけで十分である。選択的破壊手段で、小国さえも超大国を抑止できる。もちろん、超大国は他の超大国を抑止できる。国家は同盟さえも抑止できる。もちろん、同盟は他の同盟を抑止できる。世界の市民だけでなく政府も軍もSMADは効率的な戦略と認めざるをえないだろう。今後は世界の政府と軍の幹部は無差別的手段ではなく選択的破壊手段の開発と製造に集中する必要がある。また、政府と軍の政策と戦略に影響を及ぼす立場にある人々は、例えば「全体破壊手段を開発・使用しなくても選択的破壊手段で敵対国の軍と政府の幹部と主要施設を破壊して目的は達成できる。全体破壊手段を使用すると欲しがっている資源が汚染されてしまう」と政策と戦略を誘導する必要がある。
  そもそも、国際法と諸国家の憲法と法律が、世界の公私権力の内外の人間による全体破壊手段を含む無差別的破壊手段の研究・開発・製造・保持・使用を禁止する必要がある。だが、そうはいかなかった。それは選択的破壊手段を開発し製造する科学技術がなかったからである。そのような科学技術のある現代と今後は無差別的破壊手段は禁止されるだろう。無差別的破壊手段はそのような科学技術のなかった過去の遺物に過ぎない。
  さらに、選択的破壊手段とSMADの選択性を高め、大戦を予防しつつ全体破壊手段を全廃し予防するためには、世界の市民が以下のように振る舞う必要がある。
  国際社会における国家の間の縦割りの構造・動態に対して、世界における「(世界の市民と世界の権力者の間の)横割りの構造(・動態)」も存在し機能しうる。歴史上、専制を倒し革命を起こしたり、宗主国から独立するために、いくつかの国家の反政府勢力が連携することがあった。それらも横割りの構造・動態の例である。今後は全体破壊手段の全廃と予防と世界大戦の予防のために横割りの構造・動態が必要となってくる。以下はその構造の例である。
  まず、世界の政府と軍の主要施設近隣に一般市民が居住しない運動を展開する必要がある。これを「権力疎外」と呼べる。地球規模の権力疎外があれば、前述の選択的破壊手段-SMADの選択性がさらに高まり、一般の戦争において、権力者は互いを破壊し合あい、一般市民を犠牲にせず戦争が終わる可能性が大きくなる。全体破壊手段や大量破壊手段を使用する必要性と可能性が小さくなる。権力疎外は、全体破壊手段が使用された場合に備えるのではない。全体破壊手段が使用されれば、一般市民は地球上のどこにいても無駄である。権力疎外は、選択的破壊手段とSMADの選択性を高め、全体破壊手段と大量破壊手段の開発、保持と一般の戦争の必要性と可能性を減じる手段である。仮に全体破壊手段が全廃された後も、また、予防されている状態でも、大量破壊手段の使用と一般の戦争を防ぐために権力疎外は維持される必要がある。
  また、横割りの構造の下層部が権力疎外を反全体破壊手段または反戦運動として行うだけでなく、その分割を超えて以下が必要である。少なくとも軍を統括する文官と軍の幹部が職務を行う施設は公開される必要がある。また、彼らが視察や外交…などの職務のために国内および国外で移動する場合はそれらの職務がなされている現在の場所が公開される必要がある。彼らがそれらの施設または場所から退避したりそれらを外れたり、特にシェルターに退避したり市民の間に隠れた場合は、彼らはその地位を放棄したと見なされ、代替が選任される必要がある。それらが憲法などの基本的法と法律で規定され実施される必要がある。また、政府や軍の主要施設が移転する場合はその周辺住民が移転する費用は少なくとも一部補償される必要がある。
  また、選択破壊手段-SMADをより選択的にするためには、世界のそれぞれの国家の市民、反政府勢力、政権内隠密離反者は自国の政府と軍に係る情報を積極的に他国に互いに漏らす必要がある。それは「権力相互暴露」と呼べる。そうすればより正確かつ選択的に世界の政府と軍の主要施設だけが破壊される。これは世界の権力と世界の市民という横割りの構造・動態の極致と言えるだろう。だが、それだけ一層、それらを暴露した権力内外の人々は「裏切り者」として厳しく非難され処罰される恐れがある。だが、以下のように国際法と諸国家の憲法と法律が改正されていればそのようなことはない。
  そもそも、繰り返すが、国際法と諸国家の憲法と法律が、世界の公私権力の内外の人間による全体破壊手段を含む無差別的破壊手段の研究・開発・製造・保持・使用を禁止する必要がある。また、それらを公私権力の内外の人間が暴露することは奨励される必要がある。それに対して、前述の選択的破壊手段についてはどうだろうか。選択的破壊手段に関するものはすべていわゆる「国家機密」になるように見える。だが、機密なるものは誰かが有意義な部分を漏洩しえるから機密なのであり、誰も有意義な部分を漏洩することができなければ機密にならない。SMADのための選択的破壊手段は宇宙や海底などの探知不能の場所に存在し機能する必要があるだけでなく、その場所は常にランダムに変化する必要がある。その所在を漏洩することは、誰にも不可能である。何故なら、その所在を転送するのにゼロコンマ数秒以上の時間がかかるが、そのような時間のうちにはその所在は変化しており現在の所在は予測不能だからである。そのように見て行くと、真の国家機密は存在しないことが分る。また、国家権力を含む公権力に係るすべてのものを公私権力の内外の人間が暴露することは、いかなるもののためにも制限されてはならず制限される必要のない自由権である。だから、兵器や戦術や戦略を含む公権力に係るすべてのものを公私権力の内外の人間が暴露することは、その無制限の自由権に基づいてそれぞれの国家の憲法と法律と国際法で擁護されることは必要であるだけでなく可能である。すると、そのような暴露を裏切りとして告訴したり罰することが、違憲違法であり裏切りと見なされる。
  さらに、横割りの構造と縦割りの構造の混合の中で以下のようなことが可能になる。独裁制によって苦しむ国家の市民は民主的分立的制度の確立した他の国家に自国の独裁政権を倒してもらおうとするだろう。だが、この場合に限って、それがSMADとなって後者の国家権力も破壊されたのでは前者の市民も後者の市民も困る。前者の市民と隠密離反者と後者の政府と軍が綿密に連携すれば、前者の政府と軍の中枢だけが破壊され、前者を民主化し分立することは可能だろう。
  権力疎外、権力相互暴露によって選択的破壊手段とSMADの選択性がさらに高まる。それらは重複する。重複するそれらを「選択的破壊手段-SMAD-権力疎外-権力相互暴露」と呼べる。それは世界の市民にとっては、自分たちを犠牲にせず、最悪でも権力者だけを犠牲にすることである。簡単に言ってそれは、世界市民が世界の権力者に「どうしても何かを破壊したいのなら、権力の中枢を破壊するだけで十分だよ」と諭すことである。他方、権力者にとっては選択的破壊手段とSMADは効率的な戦略である。国防費も削減できる。それは世界の権力者と市民の両方から世界大戦と全体破壊手段の必要性と可能性を減じる。
  近代国家の形成以来、独裁、全体主義、大量虐殺、戦争、全体破壊手段の使用と人間を含む生物の絶滅の危機…などの血なまぐさい出来事のほとんどは、国際社会を構成する国家という縦割りの構造・動態の中で生じてきた。それに対して、横割りの構造の中で生じえる血なまぐさい出来事としては権力者の犠牲と世界革命があるだけである。その世界革命を無血革命とするためには権力を有力な権力内隠密離反者で満たしていく必要がある。また、前述のようにして市民の間の争いを極小化する必要がある。

一方的廃止の積み重ね

  以下の説明も『生存と自由』と同じである。

  国際機構の無力さと形骸化は歴史上何度も経験された。全体破壊手段の全廃と予防のために国際機構が必要だとしても、さしあたりは全体破壊手段の全廃と予防に限定した国際機構を確立する必要がある。集団安全保障、軍縮全般、世界の市民の自由権の擁護と社会権の保障…など多目的の広汎な国際機構を構築した場合、その機構の挫折または形骸化によって全体破壊手段の全廃予防も挫折する恐れがあるからである。
  いずれにしても全体破壊手段全廃予防のためには国際的な交渉、会議、憲章または機構は不可欠のように見える。そうだろうか。なんらかの国際的な機能または機構による相互の廃止・予防を「相互廃止」と呼び、それぞれの国家による自主的一方的な廃止・予防を「一方的廃止」と呼んで区別できる。
  前述の選択的破壊手段-SMAD-権力疎外-権力相互暴露があれば、全体破壊手段は不必要である。さらに、不必要であるだけでなく、維持するのに莫大な経費と労力を要するお荷物である。また、少しでも注意を怠れば、全体破壊に繋がらなくても大量破壊に繋がる。そんなものはすぐに一方的に廃止したほうがよい。国防について、全体破壊手段、大量破壊手段…などの無差別的破壊手段を増強するより、前述の選択的破壊手段を増強するほうが効率的である。小国も選択的破壊手段をもつことができ、大国の政府と軍の中枢を破壊することができ、大国を抑止することができる。全体破壊手段を保有していた国家権力は過去の政策と戦略を嘲笑するしかない。もはや全体破壊手段や大量破壊手段は過去の遺物でしかなく、誰もが一方的に廃止したほうがよい。そのような選択的破壊手段-SMAD-権力疎外-権力相互暴露による一方的廃止の積み重ねこそが、全体破壊手段の全廃と予防への決定的方法である。
  以下が一方的廃止の積み重ねを促進する。

(1)世界の権力者と世界の市民という横割りの構造・動態が熟成し、その下部で世界の市民が信頼し合う。
(2)縦割りの構造の中でそれぞれの国家において市民が国家権力を民主化し分立する。
(3)(2)で選ばれた国家権力の保持者が横割りの構造の上部で少なくとも互いに不信感をもたない。

確かに、(1)(2)(3)は一方的削減の積み重ねを促進する。だが、それらは必須ではなく促進するものに過ぎない。それぞれの国家が一方的に廃止するのは、自国の利益のためであって、信頼などという情動は必須ではない。他方で軍官学産複合体は全体破壊手段の開発、製造のための促進剤だったが、前述のとおり、その複合体は国家権力を自由権を擁護する法の支配系(L系)と社会権を保障する人の支配系(S系)に分立することによって解消される。選択的破壊手段-SMAD-権力疎外-権力相互暴露と軍官学産複合体の解消による一方的廃止の積み重ねが今後の全体破壊手段の全廃予防の決定的方法である。

優先順位

  以上は次の群(A)、群(B)、群(C)、群(D)に大別される。

群(A)最低限の生存、絶滅、全体破壊、全体破壊手段、全体破壊手段の全廃と予防、最低限の生存の保障
群(B)前全体破壊手段、前全体破壊手段の段階での全体破壊手段の全廃と予防、前全体破壊手段の廃止と予防
群(C)多様な生存、大量破壊、大量破壊手段、大量破壊手段の廃止と予防、多様な生存の保障
群(D)少量破壊、少量破壊手段

  どれも重要だが、それらを比較すると、(A)は(B)(C)(D)より優先される。例えば、原子力発電所廃止より核兵器の全廃と予防のほうが優先される。だからといって、前者が軽視されてよいということでは全くない。あくまでも、比較するとである。また、(A)と(B)は(C)と(D)より優先される。例えば、自然の保全より核兵器と原子力発電所の全廃のほうが優先される。だからといって、前者が軽視されてよいと言っているのでは全くない。あくまでも、比較するとである。
  第一に、わたしたち人間は全体破壊手段を全廃し予防する必要がある。第二に、前全体破壊手段の段階でそれらが全体破壊手段の研究と開発に繋がることを予防するか、それができないなら前全体破壊手段も全廃し予防する必要がある。第三に、大量破壊手段を抑制または廃止し予防する必要がある。

区別の重要性

  言い方を変えれば、全体破壊手段、前全体破壊手段、大量破壊手段、少量破壊手段を明確に区別し、第一から第四に行くほど、つまり、破壊性の少ない手段ほど、あまり厳しく抑制しない必要がある。何故なら、破壊性が少ない手段が抑制されるほど、人間の日常生活が制限され、人間の日常的な欲求が満たされず、人間が全体破壊手段の全廃と予防のために機能しないからである。人間の日常的な欲求と生活に対する規制はごくわずかかゼロである必要がある。
  中でも、長生きしたい健康でありたい、家族や友人…などに長生きして欲しい健康でいて欲しいという人間の日常的な欲求は切実であり、人間の生命と健康のための科学技術と福祉に対する規制はごくわずかかゼロである必要がある。この著作は後に、遺伝子操作のうち何が全体破壊を生じえ、何が生じえず医療に応用できるかを見究める。
  また、政治的経済的権力の保持者が全体破壊手段でないものを全体破壊手段であるかのように見せかけて、市民の関心と活動をそれらに引きつけ、全体破壊手段の研究、開発、保持を不明瞭にし、独裁、全体主義、戦争…などへと走ることはありえる。例えば、政府と企業の複合体が、核兵器の研究、開発、保持をぼかすために、自然破壊という全体破壊手段ではないものをあまりに深刻なものに見せかけ、市民に自然を保全させることはありえる。市民に自然を保全させることは政府や企業にとって経費節減にもなる。そのような欺瞞を防ぐためにも、全体破壊手段、前全体破壊手段、大量破壊手段、少量破壊手段を明確に区別する必要がある。
  私たちのほとんどは全体破壊手段の全廃と予防を不可能なことだと諦めていないだろうか。そもそもそれは困難だが不可能なことではない。さらに、前述の決定的方法によってその困難さはかなり減じる。だが、全体破壊手段を厳格に限定しておかないと、見かけの困難さは大きくなり、諦めは強くなる。そのような諦めを防ぐためにも、全体破壊手段、前全体破壊手段、大量破壊手段、少量破壊手段を明確に区別する必要がある。

手段の区別

  それでは、全体破壊手段、前全体破壊手段、大量破壊手段、少量破壊的手段を区別していこう。手段は以下の(O)(P)(Q)(R0)(R1)(R2)(S)に大別される。

(O)道具的手段
  火薬、エンジン、電気、合成物質、人間によって意図的に誘発された原子核の変化、人間によって操作された遺伝子を含まない手段を「道具的手段」と呼べる。木器、石器、土器、人間によっておこされた火、衣服、家、村、農耕、牧畜、それらによって得られた食物、話し言葉、書き言葉、町、道、馬車、帆船、刀、槍、弓矢などが道具的手段である。

(P)機械的手段
  火薬、エンジン、電気、合成物質、または、人間によって遺伝子以外を操作された生物を含み人間によって意図的に誘発された原子核の変化と操作された遺伝子を含まない手段を「機械的手段」と呼べる。工業、工場、都市、ビル、舗装道路、自動車、鉄道、汽車、電車、汽船、飛行機、電話、ラジオ、テレビ、コンピューター、通信網、鉄砲、大砲、爆弾…などが機械的手段である。

(Q)原子核手段
  人間が意図的に核分裂、核融合…などの原子核の変化を誘発することを「原子核操作」、原子核を操作することと呼べる。人間が意図的に誘発する原子核の変化を含む手段を「原子核手段」と呼べる。二十世紀中頃の原子爆弾、その後の水素爆弾、原子力発電所…などが原子核手段である。
  核分裂、核融合などの原子核の変化は宇宙でいくらでも生じており、地球でも生じている。それに対して、人間によって意図的に誘発された原子核の変化を含む手段が原子核手段である。例えば、現在の地球の自然の中では原子の同位体は拡散し、集中することはないが、人間は普通の実験室にはありえない遠心分離機でウラン235を濃縮して、ウラン原子の核分裂から生じるエネルギーによって水素原子の核融合を誘発する。それが原子核操作の一例である。
  放射線を含むが使用時に人間が意図的に誘発する原子核の新しい変化を含まない手段を、(Q)原子核手段に含めず、(P)機械的手段に含めることにする。例えば、人間は再利用というものをし、原子核手段の副産物も再利用する。その再利用品が使用時に人間が意図的に誘発する原子核の新しい変化を含まない限り、それらを(Q)原子核手段に含めず、(P)機械的手段に含めることにする。すると、ほとんどの検査及び治療用の医療用放射線機器は原子核手段に含まれず機械的手段に含まれる。

(R)遺伝子手段
  遺伝子の基本的な機能は自身の複製(1)とタンパク質の合成(2)である。遺伝子は(2)によって間接的に様々な機能(3)を生じる。他の遺伝子を活性化または不活化することによって他の遺伝子に機能または機能障害を生じさせる遺伝子もある。また、それだけで自身を複製する遺伝子もあれば、他の遺伝子の機能によって間接的に複製される遺伝子もある。そもそも、どんな方法でも複製されない物質が自然界に遺伝子として存在するわけがない。だが、人間が操作したものに限って、いかなる方法でも複製されないが、(2)と(3)をもつものがありえる。そのような遺伝子まがいのものも遺伝子に含めることにする。また、厳密には「遺伝子とその機能」、「直接的または間接的に機能を生じる能力をもつ遺伝子」、「不可逆的に不活化されていない遺伝子」などの言葉が用いられなければならない。だが、それらの言葉を逐次、用いていると文章が煩雑になる。だから、「遺伝子」という言葉はそれらも含意することにする。
  人間が遺伝子の変化を誘発することを「遺伝子操作」、人間が「遺伝子を操作する」ことと呼べる。その変化は、塩基配列を変えることだけでなく、遺伝子の全体または部分を抽出すること、それらを複製すること、それらを他の生物の遺伝子に組み込むこと、他の生物に注入すること、遺伝子の部分を活性化または不活化すること…などを含む。また、塩基配列を変えるだけでなく塩基そのものや塩基を繋ぐ鎖を変えることも含む。
  人間によって操作された遺伝子を「操作された遺伝子」と呼べる。それに対して、人間によって操作されていない遺伝子を特に「非操作遺伝子」または「自然的遺伝子」または単に「遺伝子」と呼べる。操作された遺伝子そのもの、遺伝子のいくつかを操作された生物、何らかの形で操作された遺伝子を含む生物、何らかの形で操作された遺伝子を含む手段を「遺伝子手段」と呼べる。そのように、人間によって遺伝子を操作されてしまった生物はもはや人間の手段でしかないと言える。
  遺伝子手段が問題となる機能を生じる方法には様々なものがある。以下はその部分に過ぎないだろう。(1)遺伝子手段が、操作された遺伝子だけから成り、それらのいくつかが問題となる機能を生じる。(2)遺伝子手段が操作された遺伝子と他の構成要素を含み、(2-1)操作された遺伝子のいくつかが問題となる機能を生じる、または、(2-2)他の構成要素のいくつかが問題となる機能を生じる、または、(2-3)操作された遺伝子のいくつかと他の構成要素のいくつかが共に問題となる機能を生じる。(3)遺伝子手段の操作された遺伝子の全体または部分が、他の生物または手段の遺伝子に組み込まれ、(3-1)前者が問題となる機能を生じる、または、(3-2)後者が問題となる機能を生じる、または、(3-3)両者が問題となる機能を生じる。(4)遺伝子手段の全体または部分が他の生物の中に取り込まれ、その後でその生物の遺伝子のいくつかを活性化または不活化し、その生物に問題となる機能を生じさせる。
  また、遺伝子手段の再生の方法も様々である。以下もそれらの一部に過ぎないだろう。(a)操作された遺伝子がそれ自体で自身を複製し、遺伝子手段が自身を再生する。(b)遺伝子手段の操作された遺伝子が他の生物の遺伝子に組み込まれて、それらの他の他の生物の遺伝子が自身を複製するときに、複製され、その後やがて(b-1)遺伝子手段が他の生物に寄生しながら自身を再生する、または、(b-2)宿主を出て自身を再生する。
  人間を含む生物の生存の見地からは遺伝子手段は以下のように分類できる。

(R0)非複製遺伝子手段
  操作された遺伝子のうち、塩基配列以外のものが変化しておらず、突然変異を被ることが確実であり、いかなる方法でも複製されることがない遺伝子を「非複製遺伝子」と呼べる。遺伝子手段のうち、いかなる方法でも自身を再生することができないものを「非複製遺伝子手段」と呼べる。遺伝子のうち、非複製遺伝子しか含まない遺伝子手段は非複製遺伝子手段である。
(R1)可変遺伝子手段
  非複製遺伝子を除く操作された遺伝子のうち、塩基配列以外のものが変化しておらず、突然変異を被ることが確実な操作されたものを「可変遺伝子」と呼べる。遺伝子手段のうち、操作された遺伝子のうち、可変遺伝子だけ、または、可変遺伝子と非複製遺伝子だけを含む手段を「可変遺伝子手段」と呼べる。可変遺伝子手段は突然変異を被ることができる遺伝子のみを含むので、いずれは自然淘汰される。
(R2)不変遺伝子手段
  操作されていない遺伝子はすべて、突然変異を被る。突然変異を起こさない遺伝子があるとすれば、それは操作された遺伝子でしかない。操作された遺伝子のうち、塩基配列以外のものが変化した、または、突然変異を被ることが確実でないものを「不変遺伝子」と呼べる。不変遺伝子を含む遺伝子手段を「不変遺伝子手段」と呼べる。

  可変遺伝子手段と不変遺伝子手段を対照しながら説明する。
  塩基配列だけが変化したまたは塩基配列だけを変えられた遺伝子は突然変異を被ることが確実であり、そのような遺伝子だけを含む生物または手段は必ず自然淘汰される。それに対して、塩基配列以外を変えた不変遺伝子は突然変異を被ることが確実でなく、それらの遺伝子を含む生物または手段は自然淘汰を被らない可能性がある。
  いずれにしても、人間が操作しなくても自然に、遺伝子の塩基配列の変化はすべての生物でしばしば生じている。それが突然変異である。さらに、遺伝子の特定の種類の塩基そのものまたは特定の鎖そのものの変化はすべての生物でいくらでも生じている。だが、そのように変化した物質は遺伝子としても生物の部分としても存在し機能せず、分解されるまたは免疫によって捕らえられるまたは生物から排出される。だが、それらが処理されるのは自然的条件下でであって、人間が創意工夫を加えれば、それらは処理されない可能性がある。
  さらに、遺伝子内で塩基配列以外のものが変化していなくても、人間が遺伝子外から遺伝子に影響を及ぼす物質を加えれば、遺伝子が突然変異を被らない可能性がある。だから、不変遺伝子の定義に、突然変異の可能性そのものを加える必要があった。

(S)宇宙と地球内部における手段
  以上の手段は人間が主として地上で使用しえるものだった。それに対して、宇宙と地球内部で人間が使用しえる手段を見渡しておく必要がある。

  (O)-(S)のうち、(O)は人間の発生とともに始まり、(P)は兵器としては火薬の開発に始まり、兵器を除く手段としては科学技術の急速な発達または産業革命に始まり、(Q)は二十世紀前半から始まり、(R0)(R1)(S)は二十世紀後半から始まり、(R2)の開始は不明であり、二千年以降においてはいつ始まってもおかしくはない。

(W)兵器
  人間が人間または人間の手段を殺傷または破壊する目的で作り使う手段を「兵器」、武器…などとと呼べる。兵器は人間と人間の手段を殺傷または破壊することを目的とするが、結果として、他の生物と人間と他の生物の自然を破壊し、大量破壊または全体破壊を拡大深化することがある。前述の手段(O)~(S)のそれぞれが以下の(O-W)~(S-W)のそれぞれを含む。例を挙げる。

(O-W)道具的兵器
  刀、槍、弓矢…など

(P-W)機械的兵器
  鉄砲、大砲、爆弾、戦車、軍艦、戦闘機…など

(Q-W)核兵器
  二十世紀中頃の原子爆弾、それ以降の水素爆弾、それらを搭載するミサイル…など

(R-W)遺伝子兵器
遺伝子を操作され感染力と毒性を増した細菌やウイルス、それらを搭載するミサイル…など
(R0-W)非複製遺伝子兵器
(R1-W)可変遺伝子兵器
(R2-W)不変遺伝子兵器
(S-W)宇宙と地球内部における兵器
地殻の大規模破壊、小惑星の爆破…など

  補足する。
  繰り返すが、放射線を含むが使用時に原子核の変化を含まない手段を、(Q)原子核手段に含めず(P)機械的手段に含めることにする。例えば、核兵器の製造過程や原子力発電所で生じた放射性物質を使用する医療機器は機械的手段である。
  それに対して、使用されるときに遺伝子の変化を含まないが操作された遺伝子を含む手段を遺伝子手段に含めることにする。例えば、数か月前に遺伝子を操作されたウイルスを含む兵器は遺伝子兵器である。
  化学兵器は機械的兵器に含まれる。化学兵器と主張されていても、原子核の変化または操作された遺伝子を含めば、当然、それらは原子核兵器または遺伝子兵器に含まれる。
  人間によって培養され選別淘汰されたにせよ、遺伝子を操作されていないウイルスや細菌は、自然のそれらと大差はない。そこで、操作された遺伝子を含まない生物学的兵器を(P-W)機械的兵器に含めることにする。
  仮に「地学的兵器」なるものが開発されるとしても、核兵器によって地殻を破壊しようとするなら、それは核兵器(Q-W)に含まれるとともに宇宙と地球内部における兵器(S-W)に含まれる。核兵器を含まないなら、宇宙と地球内部における兵器(S-W)に含まれる。
  ミサイル、いくつかの種類のウイルス…などの運搬手段は搭載内容によって分類される。例えば、核兵器を搭載するミサイルは核兵器に含まれ、操作された遺伝子を含むウイルスは遺伝子手段または遺伝子兵器に含まれる。ところで、通常の爆弾しか搭載しないミサイルや何も搭載しないミサイルは機械的兵器に含まれる。
  コンピューター、インターネット、人工知能、ロボット…などの情報科学技術の産物といえる手段は操作される対象によって分類される。例えば、軍事施設への侵入と操作によって核兵器搭載ミサイルが発射されたとすれば、その侵入・操作に要した手段は核兵器に含まれ、研究施設への侵入・操作によって遺伝子操作されたウイルスが拡散したとすれば、その侵入・操作に要した手段は遺伝子兵器に含まれる。それらは後述する部外者による操作にも含まれる。
  今後は公権力または私的権力が保有する原子核手段または遺伝子手段に部外者または実質的に部外者である部内者が情報科学技術の産物である手段でもって侵入し操作して暴走させ、大量破壊または全体破壊を生じる可能性をもつ。そのような侵入・操作をそれらの「部外者による操作」、それらを部外者が操作することと呼べる。そのような部外者、侵入、操作と、侵入され操作される手段と侵入と操作のための手段は兵器と見なせる。原子核手段が操作されたなら、それらを核兵器に含め、遺伝子手段が操作されたなら、それらを遺伝子兵器に含めることができる。
  では、それらの手段または兵器のうちどれが全体破壊手段、前全体破壊手段、大量破壊手段、少量破壊的手段かを見極めていく。

道具的手段

  兵器を除く道具的手段は全体破壊手段でも前全体破壊手段でも大量破壊手段でもなく少量破壊手段である。道具的兵器を用いた戦争、独裁、専制…などが大量破壊を生じることはあった。だが、道具的兵器、道具的手段だけを含むいかなるものも全体破壊を生じることはない。

機械的手段

  兵器を除く機械的手段は、大規模に使用されると、自然を破壊することによって大量破壊を生じる可能性をもつ。例えば、工場や車の二酸化炭素、硫黄酸化物、窒素酸化物、フロン…などの排出が抑制されなければ大量破壊が生じる。だが、兵器を除く機械的手段は大量破壊を生じる可能性をもっても、全体破壊を生じる可能性をもたず、全体破壊手段でも前全体破壊手段でもない。何故なら、それらによる自然の破壊は核兵器などよりはるかにゆっくりと進行するからである。機械的手段が繁栄を極めれば、人間の自然と他のいくつかの生物とそれらの自然を破壊し、人間とそれらの生物は衰退する。人間が衰退すると、それらの手段も衰退し、人間の自然とそれらの生物の自然は回復し、人間とそれらの生物は回復する。つまり、それらの手段はそれらに回復の余地を残し、前述の繁栄と衰退のサイクルを逸脱しない。
  機械的兵器は、特に戦争、独裁、全体主義…などで、大量破壊を生じる可能性をもつが、全体破壊を生じる可能性をもたない。一日のうちに地球上の機械的兵器のすべてが使用されたとしても、全体破壊を生じる可能性はない。また、化学兵器は大量破壊を他の機械的兵器より大規模に生じる可能性をもつ。だが、一日のうちに地球上のすべてのそれらが使用されたとしても、全体破壊を生じる可能性はない。遺伝子兵器を除く生物学的兵器は大量破壊を生じる可能性をもつ。だが、人間がどんなに培養、選別、精錬しても、遺伝子を操作されていない限り、それらは従来の細菌やウイルスと大差なく、それらが全体破壊を生じる可能性はない。
  以上のように、兵器を含む機械的手段は、大量破壊手段だが、全体破壊手段ではない。だからと言って、機械的兵器を放置してよいと言っているのでは全くない。全体破壊兵器の全廃と予防が優先されると言っているだけである。わたしたち人間は全体破壊手段を全廃し予防した後で機械的兵器を廃止し予防する必要がある。

原子核手段

  原子力発電所などの核兵器を除く原子核手段は、全体破壊手段としての核兵器の研究と開発を生じる可能性をもち、前全体破壊手段である。また、前述の部外者による操作を防止できていても、不慮の事故、自然災害…などによって暴走すれば大量破壊を生じる可能性をもち、大量破壊手段である。
  数日の間に地球上の兵器を除く原子核手段のいくつか(z)以上が暴走すれば全体破壊を生じるえる。だが、そのような同時多発的暴走が自発的に生じるわけがない。それは一部の人間の高度な戦略と情報科学技術の産物と言える手段の操作によって生じている。それは前述の部外者による原子核手段の操作に含まれ、核兵器に含まれる。つまり、部外者による原子核手段の操作は、全体破壊を生じる可能性をもち、全体破壊手段である。
  核兵器そのものについて、核兵器のいくつかの亜種のいくつか(z)以上がいくつかの状況で使用されれば、全体破壊が生じ、核兵器は全体破壊手段である。例えば、繰り返すが、報復の連鎖の中で核兵器に属する水素爆弾の特定の数(z)以上が両半球のほとんどの大陸と海域で使用されれば、それらが直接的かつ間接的に生じる放射線によって、第一に、地上と浅い地下と浅海の多くの生物の遺伝子が破壊されまたは変異し、それらは死滅またはガン化または不妊を被りそれらは絶滅する。第二に、地上と浅い地下と浅海の呼吸と光合成と食物連鎖が機能せず、それらのすべての生物が絶滅する。第三に、地上と浅い地下と浅海からの食物連鎖が絶たれ深い地下と深海の生物も絶滅し、結局、全体破壊が生じる。また、今後は公権力だけでなく私的権力が核兵器を研究、開発、保有、使用する可能性がある。また、前述のとおり、部外者または実質的に部外者である部内者が核それらに侵入しそれらを操作すことはありえ、部内者がそれらを管理する能力を失うことはありえ、人間の理性を超えた老朽化や故障はありえる。
  二十世紀中頃の原子爆弾そのものは前全体破壊手段かつ大量破壊手段と見なされかもしれない。だが、二十一世紀以降に原子爆弾が研究、開発されるとすれば、それは全体破壊手段としての核兵器の研究と開発に直結する。そこで、原子爆弾を全体破壊兵器に含め、核兵器に含めることにする。そのように、全体破壊兵器を定義するには明らかなそれらの研究、開発に直結する手段も含める必要がある。だから、核兵器の定義の核心を「原子核の変化」とし、核分裂とも核融合ともしなかったのである。
  それらのように、核兵器は放射線を生じる可能性をもち、使用時に放射線が遺伝子を破壊する。そのように、核兵器はより間接的に遺伝子を破壊する。それに対して、人間は以下のように直接的に遺伝子を操作している。

非複製遺伝子手段

  非複製遺伝子手段は大量破壊を生じる可能性をもち、大量破壊手段である。例えば、増殖しなくても、遺伝子を操作され感染力または毒性を増した細菌やウイルスが大量に実験室を出れば大量破壊を生じる。非複製遺伝子兵器は、それらより大量破壊を生じる可能性をもち、大量破壊手段である。
  だが、非複製遺伝子手段は自身を再生することができず、全体破壊を生じる可能性をもたず、全体破壊手段ではない。

可変遺伝子手段

  可変遺伝子手段は、非複製遺伝子手段より大量破壊を生じる可能性をもち、大量破壊手段である。可変遺伝子兵器は可変遺伝子兵器を除く可変遺伝子手段より大量破壊を生じる可能性をもち、大量破壊手段である。何故なら、可変遺伝子手段は自身を再生する可能性をもつからである。
  可変遺伝子手段は無際限に増殖し全体破壊を生じる可能性をもつように見える。だが、従来の生物と同様に、可変遺伝子手段が含む可変遺伝子は突然変異を被ることができ、可変遺伝子手段は自然淘汰されえる。つまり、可変遺伝子手段に従来の生物との大差はない。可変遺伝子手段がどんな有害でも、全体破壊ではなく、過去の最強のウイルスや細菌が生じたような大量破壊を生じるだけである。兵器であるなしに係らず、全体破壊手段ではなく、大量破壊手段である。
  だが、非複製遺伝子手段と可変遺伝子手段を軽視してよいと言っているのではなく、次のものの全廃と予防が優先される必要があると言っているだけである。

不変遺伝子手段

  それに対して、遺伝子の塩基配列以外のものが変化した、または、突然変異を被ることが確実でない不変遺伝子を含む不変遺伝子手段がどのように振る舞うかは計り知れない。だが、その可能性を挙げてみる。

(1)自然淘汰されない可能性があるから、無際限に増殖し、人間を含む生物を駆逐する可能性がある。地球上の有機物を消費してしまう可能性さえある。
(2)従来の病原体より軽量でありえるから、より広く速やかに生物に感染する。
(3)従来の生物が含まない物質を含みえるから、免疫系によってブロックされない可能性がある。
(4)従来の生物が含まない物質を含みえるから、従来の抗生剤や消毒薬で不活化されない可能性がある。
(5)それらの遺伝子は突然変異を起こさない可能性があるから、個体においても従来の病原体より長期に渡って広く毒性を発揮するまたは潜伏する。だから、従来の病原体が破壊しなかったもの、例えば、神経系の免疫細胞や造血幹細胞を破壊する可能性さえある。

それらは不変遺伝子手段の一握りの可能性に過ぎないだろう。だが、(1)-(5)に基づくだけでも、不変遺伝子手段は全体破壊を生じる可能性があり、全体破壊手段である。
  もちろん、不変遺伝子兵器は全体破壊手段である。兵器であるなしに係らず、不変遺伝子手段は全体破壊手段である。
  また、部外者による不変遺伝子手段の操作は不変遺伝子兵器に含まれ全体破壊手段である。
  前述のとおり、核兵器のいくつかの亜種のいくつか(z)以上がいくつかの状況で使用されれば全体破壊が生じる。核兵器においては、その特定の数(z)と亜種と状況が比較的明確であり、その数(z)が比較的大きい。それに対して、不変遺伝子手段は微量でも全体破壊を生じる可能性があり、(z)が比較的曖昧であり、比較的小さいか一である。また、不変遺伝子手段では研究、開発、保有、使用の間の区別が曖昧である。例えば、試験管の中でできてしまった不変遺伝子を下水に流してしまっただけでも、全体破壊を生じる可能性がないと言えないのである。
  前述のとおり、生物の中で遺伝子の特定の塩基そのものと特定の鎖そのものはよく変化するのだが、そのように変化した物質は遺伝子や生物の部分として存在、機能せず、分解されるまたは免疫によって捕らえられるまたは生物から排出される。それに対して人間が工夫して作出した不変遺伝子は、そのように処理されない可能性をもつ。
  もちろん、不変遺伝子兵器は全体破壊手段である。だが、兵器を除く不変遺伝子手段も兵器と見なしてよいほどである。
  今、非複製遺伝子手段と可変遺伝子手段は不変遺伝子手段を生じる可能性をもち後者は前者の前全体破壊手段であったことが分かる。そのことを研究し予想し、可変遺伝子手段の段階で不変遺伝子手段を予防する必要がある。

遺伝子操作に対する過度の制限の排除

  遺伝子手段の中で全体破壊手段を不変遺伝子手段に限定することによって遺伝子操作に対する過度の制限が排除される。
  特に、長生きしたい健康でいたい、家族や友人…などに長生きして欲しい健康でいて欲しいという人間の日常的な欲求は切実である。そのような欲求を満たすためにも、不変遺伝子手段を除く手段、つまり、伝統的手段と非複製遺伝子手段と可変遺伝子手段で十分である。医療福祉を含めて人間の日常的な欲求を満たすためにも、わざわざ不変遺伝子手段を使わなければならない理由は何もない。遺伝子手段の中で全体破壊手段を不変遺伝子手段に限定し、前全体破壊手段である非複製遺伝子手段と可変遺伝子手段の段階でそれを予防することによって、前述の欲求を含むわたしたちの日常的な欲求をいっそう満たすことができる。

宇宙と地球内部における手段

  では、目を宇宙と地球内部における手段に向けてみる。
  地球や太陽の老化や崩壊などのそれらの自然な激変には誰も何ものも逆らえない。仮に一部の人間や生物がこの太陽系の惑星や衛星や他の系のそれらに移住して生存するとしても、それを地球の生物の生存と見なすことはできない。それはそのような移住者は二三世代で絶滅するからではなく、何世代か生き延びるとしても、それらは一握りの地球上の人間や生物に過ぎず、地球の生物とは全く別の方向に進化し地球上の生物と異なるものになることが確実だからである。
  前述のとおり、人間が地球の地殻の激変を誘発して全体破壊を生じるとすれば、それは原子核手段または核兵器により、それは核兵器に含まれる。だが、目を宇宙に転じてみると、激変を生じる方法が他にある。太陽系の惑星の軌道を変えることは不可能だろう。だが、人間が小惑星の軌道を変えて、地球に衝突または接近させて全体破壊を生じることはありえる。しかも、それは原子核手段がなくても可能であり、狭義の手段は問題にならない。また、人間が意図的にそうしなくても、小惑星の探索や資源採取中の偶発的な事故などによって生じることが全くないわけではない。巨大隕石の衝突によって恐竜を含む多くの種が絶滅したという説もある。その真偽はともかくとして、それらより大きな小惑星の衝突または接近なら生物の絶滅がありえる。小惑星なら人間のなんらかの手段が意図的にせよ事故によるにせよその軌道を変えうる。それらの衝突、接近が自然的に生じるなら、太陽や地球の自然な激変と見なせる。だが、意図によるにせよ事故によるにせよ、また、手段が何であれ、人間がそれらを生じるなら、それは全体破壊であり前に定義した広い意味での全体破壊手段と見なせる。そのような全体破壊であると同時に全体破壊手段でるものを「人為的激変」または人間が誘発する激変、激変を誘発する手段と呼べる。(1)その軌道を変えるような小惑星の操作と(2)核兵器または原子核手段による地殻の激変がそれに含まれる。だが、(2)は核兵器に含めることにする。
  結局、全体破壊手段は、核兵器、不変遺伝子手段、その軌道を変えるような小惑星の操作である。
  また、前全体破壊手段を、それらを除く、原子核操作と遺伝子操作と小惑星操作とそれらの産物と再定義できる。簡単に言って、私たちは遺伝子と原子核と小惑星の操作に注意を払う必要がある。これは分かりやすいと思う。

全体破壊手段の限定

  以上のことから、全体破壊兵器を生じる可能性をもち全体破壊手段であるものは、核兵器と不変遺伝子手段と小惑星操作が全体破壊手段だけである。全体破壊手段はそれらに限定される。

諦めと悲観の除去

  それらのように、人間が核兵器と不変遺伝子手段とその軌道を変えるような小惑星操作を全廃し予防する限り、人間と手段がどんなに繁栄を極めても、人間が衰退するだけで、生物とそれらの生存と進化のための自然は回復し、地球や太陽の自然な激変のときまで生物は生存する。
  さらに、核兵器と不変遺伝子手段とその軌道を変えるような小惑星操作、つまり、全体破壊手段と、それら以外の手段を比較すると、後者は人間を含む生物とそれらの自然を前者よりはるかにゆっくりと破壊し、衰退する者に復活の余地を残す。だから、人間が前者を全廃し予防する限り、人間と人間の手段がどんなに繁栄を極めても、人間は衰退するだけである。人間が衰退するとき、人間の生存と進化のための自然も回復する。すると、人間も復活する。今、全体破壊手段を全廃し予防するだけで人間または進化した人間を含む生物が地球や太陽の激変のときまで生存することが明らかになる。つまり、全体破壊手段の全廃と予防、つまり、生物の生存の最低限の保障は人間の生存の保障も含んでいたことが今、明らかになる。
  また、生物の最低限の生存の保障は進化した人間のそれを含むことが明らかになる。わたしたちが進化することに何の問題があるだろうか。進化してもこれ以上悪くはならないだろう。
  諦め、悲観…などの情動によって、人間が、全体破壊手段を全廃と予防する可能性は小さくなり、全体破壊を生じる可能性は大きくなる。そのような陰性的な情動を防ぐためにも、核兵器と不変遺伝子手段と地球や太陽の人為的激変を全廃し予防するだけで人間または進化した人間を含む生物が生存できることを強調する必要がある。
  人間は全体破壊手段の一部に過ぎない核兵器を保持したとき、全体破壊手段を全廃することは不可能であるという諦念から生存を諦めていたのではないだろうか。その諦めは早計だった。また、『生存と自由』で説明されこの著作で前に引用した選択的破壊手段-SMAD-権力疎外-権力相互暴露による一方的廃止の積み重ねによってそれらを全廃し予防することは可能である。早計に生存を諦めないで頂きたい。

生存と自由

  さらに、全体破壊手段の全廃予防は、一般市民の日常的な欲求と自由をなんら制限しないことが明らかになる。全体破壊手段が全廃されたところで、今まで地下や海底や宇宙に隠されてたものが消滅するだけで、わたしたちはその消滅に気づくことさえない。軍事費の減少と税金の軽減によって日常生活が楽になるだけである。困るのはいわゆる軍産複合体だけである。
  今後は政治的経済的権力者が自然破壊などの全体破壊手段でないものをそうであるように見せかけて、市民の注意をそれへ逸らして、密かに全体破壊手段の開発と保持するかもしれない。そのような欺瞞を防ぐためにも全体破壊手段が核兵器と不変遺伝子手段とその軌道を変えるような小惑星操作だけであることを公言する必要がある。そのためにも言論の自由を確保する必要があり、すべてのために自由権を確保する必要がある。
  また、今後は政治的経済的権力者が人間や生物の全体の生存を名目として掲げて、自由権、政治的権利、民主制、権力分立制、法の支配を破壊し、独裁制、全体主義…などに暴走するかもしれない。人間を含む生物の生存のためには、環境を保全し資源を保全し有効利用し適正な世界人口を維持し、経済を安定化させ市民の最低限度の生活を維持する必要がある。そのためには適正で総合的な政策が立案され実行されなければならないことは確かである。そのためには、独裁制や全体主義は機能せず、言論の自由と選挙に基づく議論が必要である。言論の自由と選挙を確保するためには、自由権全般と政治的権利を含む民主制、三権分立制を含む権力分立制、法の支配を確保する必要がある。もちろん、自由は生存のための手段であるだけでなく、それ自体が至高の目的である。
  端的に言って、わたしたち人間は生存と自由を両立させる必要がある。さらに、それは必要であるだけでなく可能である。生存と自由を両立させる具体的方法は『生存と自由』と『国家権力を自由権を擁護する法の支配系と社会権を保障する人の支配系に分立すること』で説明される。

参考文献

生存と自由

それぞれの国家権力を自由権を擁護する法の支配系と社会権を保障する人の支配系に分立すること

心理学三部作

小説『二千年代の乗り越え方』略称"2000s"


   英語原文 日本語訳トップページ・引用の仕方 COPYRIGHT(C)2000 OUR-EXISTENCE.NET ALL RIGHTS RESERVED