COPYRIGHT(C)2000 OUR-EXISTENCE.NET ALL RIGHTS RESERVED  日本語訳トップページ・引用の仕方  英語原文

宗教を超えて(超宗教)(日本語訳)

これらの著作

  この『宗教を超えて(超宗教)』を「この著作」と呼び、この著作と『生存と自由』『生存と自由の詳細』『それぞれの国家権力を自由権を擁護する法の支配系と社会権を保障する人の支配系に分立すること』『感覚とイメージの想起』『自我と自我の傾向』『悪循環に陥る傾向』を「これらの著作」と呼ぶことにする。
  『生存と自由』の最初の部分は実質的に宗教を超える方法を提示している。だから、この著作はその部分とほとんど同じである。
不要な議論が生じないようにまず、宗教を明確に定義しておく。現実の世界を超越するものの存在を前提とし、それらの現実の世界を超越したものに基づいて個人の生き方、死に方、社会のあり方を提示し、場合によってはそれらを押しつけるものを「宗教」と定義できる。現実的なものを超越するものもそれに基づくものも恣意的にならざるをえず、それぞれの宗教に特有のものにならざるをえない。だから、宗教は、普遍的なものを提示することができない。世界の個人や社会のすべてに共通するものを提示することができない。それどころか世界の個人や社会の多くに共通するものを提示することもできない。生存を可能にする方法も、自由を可能にする方法も、それらを両立させる方法も少なくとも世界の個人と社会の多くに共通するものである必要がある。だから、宗教はそれらの方法を提示することができない。もし、いくつかの宗教がそれらの方法を提示し布教しようとすれば、宗教と宗教の間、社会と社会の間、市民と市民の間、宗教と社会と市民の間で不必要な争いが生じ、人間を含む生物の生存さえも危うい。
  だから、世界の個人と社会の多くに共通するものは宗教なしで提示される必要がある。それは鉄則である。人間を含む生物の生存と人間の自由を両立させる方法もそうである。この鉄則はこれらの著作を通じて遵守される。
  だが、わたしたち人間のそれぞれは自己がやがて死ぬことへの不安をもつ。その不安から自己を永遠の存在にしようとする欲求、つまり「自己永遠化欲求」が形成される。そこで、わたしたちの多くは宗教の中で現実の世界を超越した永遠と見えるものに、一体化する、接触する…などなんらかの方法で関係をもとうとしてきた。そうすることによって、その欲求を満たし、その不安を減退させようとしてきた。だが、それは不可能だった。そもそも、宗教はその不安を減退させることができず、その欲求を満たすことができなかったのではなだろうか。
  だが、世界の個人や社会の多くが共有できる個人の生き方や社会のあり方は必要であり、宗教なしにそれらを提示できるのかという危惧は残るだろう。だが、その危惧は不要である。それらの生き方やあり方は、人間を含む生物の生存と人間の自由を両立させる方法であり、その方法は宗教なしに提示できる。自己がやがて死ぬことへの不安を超える方法さえも宗教なしに提示できる。まず、それを提示する。

自己がやがて死ぬことへの不安を超える方法の概略

  以下のようなことはよく言われる。「動物は生きて、死んで、生まれて…と繰り返す。その生と死の繰り返しは、記憶をもつ動物のそれぞれが、記憶と個性の喪失を繰り返しつつ、永遠に生きること同じである。記憶をもたない動物については、その生と死の繰り返しは、個性の喪失の繰り返しだけで、永遠に生きることと同じである。つまり、わたしたちのそれぞれは、記憶と個性の喪失または個性の喪失を繰り返しつつ、入れ替わりながら永遠に生きる。地球上の生物が絶滅したとしても、無限の空間と時間をもつ宇宙では、地球上の記憶をもつまたはもたない動物と同様のものが、無限に発生し進化し、記憶と個性の喪失または個性の喪失を繰り返しつつ、入れ替わりながら永遠に生きる。以上のことを知れば、自己がやがて死ぬことへの不安は必ずなくなる」とはよく言われる。結局、それは正しい。ところがその不安はなかなか減退しない。それは何故か。以下のような入れ替わり不能の錯覚があるからである。つまり、「わたしに現れるものはあなたに現れない。あたなに現れるものはわたしに現れない。わたしに現在に現れているものが存在することを私は確かめることができる。あなたに現在に現れているものが存在することを私は確かめることができない。わたしたちのそれぞれにそのとき現在に現れているものの間には超えることのできない壁がある。わたしたちのそれぞれは、わたしたちのそれぞれにそのとき現在に現れているものの中に完全に幽閉されている。そのようにわたしたちのそれぞれは完全に孤立している。だから、わたしたちは互いに入れ替わることができない」という入れ替わり不能の錯覚があるからである。その錯覚を払拭すれば、自己がやがて死ぬことへの不安は減退するだろう。その錯覚を払拭するためには、心的現象、つまり、現れるものの概略を知っておく必要がある。

心的現象として現れるもの

  物質、物質機能、身体、身体機能、神経系、神経機能、神経細胞、神経細胞の興奮と伝達、分子、原子、原子核、中性子、陽子、電子、万有引力、静電気力、磁力…などを「ものそのもの」と呼べる。それに対して、光景、音、臭い、めまい、味、痛さ、暑さ、寒さ、動悸、息苦しさ、空腹、渇き、吐き気、イメージ、アイデア…などを「心的現象として現れるもの」、現象として現れるもの、現れるもの、心的現象、現象…などと呼べる。これらの著作はわたしに現れるもの、あなたに現れるもの、過去に現れたもの、未来に現れるであろうもの、わたしに現在に現れているもの、わたしたちのそれぞれにそのとき現在に現れているもの…などを区別する必要がある。形容詞句・節や副詞句・節で修飾されたまたは動詞の時制が変化した現れるものという言葉だけがそれらを区別できる。だから、これらの著作は現象、心的現象…などの言葉よりそのような言葉を多用することにする。また、現れるものが存在することまたは存在すると前提されることをものが「現れる」ことと呼べる。例えば、この著作の筆者の一人であるわたしには現在、パソコン、そのキーボードを打つ手、机、壁、窓…などの光景が視覚で、パソコンを打つ音が聴覚で、キーボードの感触が体性感覚で、適度な空腹が自律感覚で現れている。空間と時間を除くものはものそのものと心的現象として現れるものに完全に分けられる。つまり、それらが分けられた後に余りも重複もない。空間と時間に関する限りでそのように明確に二分されるわけではない。
  さて、ただ一つの時にただ一群のものが存在することをただ一つのものが確かめることができる。例えば、この著作の筆者の一人であるわたしには現在、パソコン、そのキーボードを打つ手、机、壁、窓…などの光景が視覚で、パソコンを打つ音が聴覚で、キーボードの感触が体性感覚で、適度な空腹が自律感覚で現れており、それらの光景、音、感覚…などが存在することをわたしは確かめることができる。ただ一つの時にただ一群のものが存在することをただ一つのものが確かめることができることにおいて、ただ一つのものを「わたし」または「自我」と呼べ、ただ一つの時を「現在」と呼べ、ただ一群のものを「わたしに現在に現れているもの」またはわたしに現在に現れている一群のものと呼べる。また、わたしに現在に現れているものが存在することをものが「わたしに現在に現れている」ことと呼べる。わたしに現在に現れているものは心的現象として現れるものに含まれる。ものがわたしに現在に現れていることはものが現れることに含まれる。わたしに現在に現れているものが存在することをわたしは確かめることができる。それに対して、わたしはそれ以外のものが存在することを確かめることができない。例えば、わたしの眼の前にはパソコンがあり、わたしはそれが存在することを確かめることができるように見える。だが、その確かめることができるものはその光景に過ぎず、わたしに現在に視覚で現れているものの一つに過ぎない。わたしが存在することを確かめることができるものはわたしに現在に現れているものだけである。
  わたしに現在に現れるものの中で、それらはある点に向かいその点を原点として現れる。例えば、両眼で視覚で現れるものに中では、対象の方向とそれへの距離と遠近感が現れ、それらは両眼の真ん中よりやや奥を原点として現れる。また、両耳で聴覚で現れるものの中でも音源の方向とそれへの距離が現れる、それらは両耳の真ん中あたりを原点として現れる。そのような原点は直接現れないが、わたしに現在に現れているものの背後に現れる。そのような原点を「わたしに現在に現れている世界の中心」と呼べる。また、それが背後に現れていることを「わたしが世界の中心である感じ」と呼べる。わたしが世界の中心であるとわたしは感じざるをえない。それは自然な感覚であり、決して傲慢なわけではない。
  そのような世界の中心は、前述のわたしに現在に現れているものが存在することを確かめることができる唯一のものよりわたしたちが日常で「わたし」と呼んでいるものに近い。だから、わたしに現在に現れている世界の中心も「わたし」と呼べる。
  以上の

(1)存在することを確かめることができるものがわたしに現在に現れているものだけであること。
(2)わたしが世界の中心であるとわたしは感じざるをえないこと。

から、わたしは他と取って替わることも他によって取って替わられることもできないと感じざるをえない。(1)(2)の感じも、入れ替わり不能の錯覚を促進し、自己がやがて死ぬことへの不安を増大させる。そのように心的現象として現れるものを中途半端に突き詰めるとその錯覚と不安は増大する。もっと突き詰めるとどうなるか。
  さて、それぞれの時にそれぞれの群のものが存在することをそれぞれのものが確かめることができる、または、それぞれの時にそれぞれの群のものが存在することをそれぞれのものが確かめることができると前提される。例えば、わたしとあなたが見つめ合って話をするとき、わたしに現在に視覚で現れているあなたの顔の光景、聴覚で現れているあなたの声が存在することをわたしは確かめることができ、あなたに現在に視覚で現れているわたしの顔の光景、聴覚で現れているわたしの声が存在することをあなたは確かめることができると前提される。それぞれの時にそれぞれのの群のものが存在することをそれぞれのものが確かめることができる、または、それぞれの時にそれぞれのの群のものが存在することをそれぞれのものが確かめることができると前提されることにおいて、それぞれのものを「わたしたちのそれぞれ」と呼べ、それぞれの時を「そのとき現在」と呼べ、それぞれの群のものを「わたしたちのそれぞれにそのとき現在に現れているもの」、または、わたしたちのそれぞれにそのとき現在に現れている一群のものと呼べる。わたしたちのそれぞれにそのとき現在に現れているものが存在する、または、存在すると前提されることをものが「わたしたちのそれぞれにそのとき現在に現れていること」と呼べる。わたしたちのそれぞれにそのとき現在に現れているものは、わたしに現在に現れているものを含み、心的現象として現れるものに含まれる。ものがわたしたちのそれぞれにそのとき現在に現れていることは、ものがわたしに現在に現れていることを含み、ものが現れることに含まれる。また、わたしたちのそれぞれはわたしを含み、そのとき現在は現在を含む。わたしたちのそれぞれは、わたしたちのそれぞれにそのとき現在に現れているものが存在することを確かめることができる、または、確かめることができると前提される。
  わたしたちのそれぞれにそのとき現在に現れているものについて、それがわたしに現在に現れているものである場合は前提は不要であり、他の場合はいくつかの前提が必要である。そのような前提の有無を除いて、わたしたちのそれぞれにそのとき現在に現れているものとそれに関連するものは、わたしに現在に現れているものとそれに関連するものと、全く同様である。つまり、わたしたちのそれぞれにそのとき現在に現れるものの中でそれらはある点に向かいその点を原点として現れると前提される。そのような原点を「わたしたちのそれぞれにそのとき現在に現れている世界の中心」と呼べる。そのような中心は直接現れないがわたしたちのそれぞれにそのとき現在に現れているものの背後に中心または原点として現れると前提される。そのことを「わたしたちのそれぞれが世界の中心である感じ」と呼べる。わたしたちのそれぞれが世界の中心であるとわたしたちのそれぞれは感じざるをえないと前提される。わたしたちのそれぞれにそのとき現在に現れている世界の中心をわたしたちのそれぞれとも呼べる。
  さて、ものそのものが存在するかを確かめることはできない。例えば、わたしには現在、パソコン、パソコンを打つわたしの手、机…などが視覚で、キーボードを打つ音が聴覚で、キーボードの感触が体性感覚で現れており、それらが存在することをわたしは確かめることができるが、それらは光景、音、感触…など、つまり、心的現象として現れるものに過ぎず、ものそのものではなく、わたしは何をしてもパソコン、キーボード…などそのものが存在するかを確かめることができない。さらに、わたしに現在に現れているものを除く心的現象として現れるものが存在するかを確かめることができない。例えば、わたしとあなたが見つめ合って話をするとき、わたしに現在に視覚で現れているあなたの顔と聴覚で現れているあなたの声が存在することをわたしは確かめることができるが、あなたに現在に視覚で現れているわたしの顔と聴覚で現れているわたしの声が存在するかをわたしは確かめることができない。
  だが、心的現象として現れるもののいくつかはものそのもののいくつかを再現していると前提され、そのようなものそものは存在すると前提される。さらに、わたしに現在に現れているものを除く心的現象として現れるものは、ものそのものを再現していようがそうでなかろうが、存在すると前提される。心的現象に関する限りで、幻覚や妄想や錯覚や誤解さえもそれなりに存在すると前提される。もちろん、わたしに現在に現れているものを除くわたしたちのそれぞれにそのとき現在に現れているものは存在すると前提される。例えば、あなたとわたしが見つめ合うとき、わたしにあなたが見えるように、あなたにわたしが見えるとわたしは思っている。
  さらに、わたしたちのそれぞれにそのとき現在に現れているものが存在することをわたしたちのそれぞれは確かめることができる、と前提される。例えば、あなたとわたしが見つめ合うとき、わたしに現在に視覚で現れているあなたの顔が存在することをわたしが確かめることができるように、あなたに現在に視覚で現れているわたしの顔が存在することをあなたは確かめることができるとわたしは思っている。
  さらに、わたしに現在に現れているものはしばらくの間、連続して存在すると前提される。例えば、この著作の筆者の一人であるわたしには朝起きてから夜眠るまで、太陽の光を反射する街、人間を含む生物、夕日、街灯…などの光景、車の音や人間の声、この著作で書くことのイメージ…などが連続して現れていたし現れているだろうと前提される。数時間の間、連続して存在すると前提されるわたしに現在に現れるものの群を「わたしに現れるもの」、わたしに現れる一群のものと呼べる。また、わたしたちのそれぞれにそのとき現在に現れているものは同様であると前提される。数時間の間、連続して存在すると前提されるわたしたちのそれぞれにそのとき現在に現れるものの全体を「わたしたちのそれぞれに現れるもの」、わたしたちのそれぞれに現れる一群のものと呼べる。例えば、地球上の昼行性の動物に朝起きてから夜眠るまでに現れるものの全体はわたしたちのそれぞれに現れるものに含まれる。わたしに現れるものはわたしに現在に現れているものを含み、わたしたちのそれぞれに現れるものはわたしたちのそれぞれにそのとき現在に現れているものを含む。
  このパラグラフでは、わたしたちのそれぞれについて言えることは、わたしについても言える。だから、わたしについての説明は省略することにする。わたしたちのそれぞれが深睡眠に入る、または意識消失している間はわたしたちのそれぞれに現れるものは存在しないと前提される。だが、わたしたちのそれぞれに記憶がある限り、わたしたちのそれぞれに現れるものは断続すると見なせる。そのように断続すると見なせるわたしたちのそれぞれに現れるものもわたしたちのそれぞれに現れるものと呼べる。わたしに現れるものについても同様である。
  以上のように定義されてきたわたしに現在に現れるもの、わたしたちのそれぞれにそのとき現在に現れるもの、わたしに現れるもの、わたしたちのそれぞれに現れるものが(心的現象として)現れるものである。
  いずれにしても、心的現象として現れるものの中では、何も現れない時間は無である。何かが現れた第一の時間から再び何かが現れる第三の時間まで何も現れない第二の時間を一瞬で跳躍する。第二の時間は無である。第一の時間と第三の時間は連続しているように見える。例えば、突然、深い睡眠または意識消失に陥り、突然、それから覚醒したとすれば、その睡眠または意識消失の時間は無または一瞬と感じられるだろう。だが、ほとんどの場合、睡眠は夢または浅睡眠を含む、または意識消失は意識の漸減漸増を伴っており、その時間をしばらくの間と感じるだろう。いずれにしてもそれは長い時間ではない。このことは自己がやがて死ぬことへの不安を減じるためには都合がよい。例えば、死んで何光年かなたの惑星の動物と入れ替わるにしても、それまでの時間は一瞬だからである。
  さらに、イメージとして現れるもの、快不快の感覚で現れるもの…などを含めて、わたしに現れるものは神経系のいくつかの部分とそれらの機能から生じると前提される。神経系は身体に含まれ、身体はものそのものに含まれる。例えば、わたしに視覚で現れるものは網膜から視神経を経て後頭葉の視覚野…などに至る神経細胞群の興奮と伝達から生じると前提される。また、皮膚、横紋筋、骨、腱…などの痛さ、暑さ、寒さ…などの体性感覚で現れるものはそれらから感覚神経、脊髄、脳幹を経て頭頂葉の体性感覚野…などに至る神経細胞群の興奮と伝達から生じると前提される。いくつかの部分がわたしに現れるものを生じると前提される神経系・神経機能を「わたしの神経系」と呼べる。また、わたしの神経系を含む個体の身体を「わたしの身体」と呼べる。
  だが、以上のことが前提された後でも、わたしはわたしの身体がわたしであると認めることはできない。それはわたしの身体のいくつかの部分から生じると前提されるわたしに現在に現れているものが存在せず、それらが存在することを確かめることができない限りは、わたしは存在しないと直感しているからである。簡単に言って、わたしは脳死が死であることを直感している。だから、私の身体とわたしに現れるものとを「わたしの自己」または「わたし」と呼べる。
  また、わたしたちのそれぞれに現れるものも同様に生じると前提される。いくつかの部分とそれらの機能がわたしたちのそれぞれに現れるものを生じると前提される神経系を「それぞれの神経系」と呼べる。また、それぞれの神経系を含む個体の身体を「それぞれの身体」と呼べる。また、それぞれの身体とわたしたちのそれぞれに現れるものを「それぞれの自己」「わたしたちのそれぞれ」と呼べる。
  これまでは、以下のA群とB群を区別してきた。

A群
わたし、現在、わたしに現在に現れているもの、わたしに現在に現れている世界の中心、わたしが世界の中心であるとわたしは感じざるをえないこと、わたしに現れるもの、わたしの神経系、わたしの身体、わたしの自己、わたしに現在に現れているものが存在することをわたしが確かめられること

B群

わたしたちのそれぞれ、そのとき現在、わたしたちのそれぞれにそのとき現在に現れているもの、わたしたちのそれぞれにそのとき現在に現れている世界の中心、わたしたちのそれぞれが世界の中心であるとわたしたちのそれぞれは感じざるをえないと前提されること、わたしたちのそれぞれに現れるもの、それぞれの神経系、それぞれの身体、それぞれの自己、わたしたちのそれぞれにそのとき現在に現れているものが存在することをわたしたちのそれぞれが確かめられると前提されること

それらについてある意味で以下のことが言える。

わたし⊂わたしたちのそれぞれ
現在⊂そのとき現在
わたしに現在に現れているもの⊂わたしたちにそのとき現在に現れているもの
わたしにその現在に現れている世界の中心⊂わたしたちのそれぞれにそのとき現在に現れている世界の中心
わたしが世界の中心であるとわたしは感じざるをえないこと⊂わたしたちのそれぞれが世界の中心であるとわたしたちのそれぞれは感じざるをえないと前提されること
わたしに現れるもの⊂わたしたちのそれぞれに現れるもの
わたしの神経系⊂それぞれの神経系
わたしの身体⊂それぞれの身体
わたしの自己⊂それぞれの自己
わたしに現在に現れているものが存在することをわたしが確かめることができること⊂わたしたちのそれぞれにそのとき現在に現れているものが存在することをわたしたちのそれぞれが確かめることができると前提されること

だが、A群が最初は前提から解放されているのに対して、B群は最初から前提にしばられている。だが、それを除くと、A群に当てはまるものはすべてB群にも当てはまる。だから、今後はA群とB群の区別せず、B群について論じることにする。また、わたしの神経系を含むそれぞれの神経系、わたしの身体を含むそれぞれの身体、わたしの自己を含むそれぞれの自己を神経系、身体、自己とも呼ぶことにする。
  私たち人間においては、自己のイメージが生成し、自己がイメージとして現れる。だから、人間は自己について考えたり、自己がやがて死ぬことへの不安を抱いたりするのである。自己のイメージは自己の身体のイメージとわたしたちのそれぞれに現れるもののイメージから構成されざるをえない。だから、自己のイメージは図式になりえないかなり複雑なものになる。それに対して、世界のイメージは自己のイメージより早く生成しており、図式になりえ単純である。だから、自己のイメージと自己以外の世界のイメージの間には間隙が存在し、その間隙を完全に埋めることは不可能である。
  私たちの多くは自己を世界に一体化することによって自己がやがて死ぬことへの不安を乗り越えようとする。ここで提示する方法もそのような一体化であると言えなくもない。乳児期幼児期前半からの孤立によっては、自己のイメージと自己以外の世界のイメージの間の間隙が拡大することがある。すると、自己を自己以外の世界と部分的にでも一体化することが困難になり、自己がやがて死ぬことへの不安が強くなることがある。

自己がやがて死ぬことへの不安を超える決定的方法

  それらが心的現象として現れるものの概略である。繰り返すが、「動物は生きて、死んで、生まれて…と繰り返す。その生と死の繰り返しは、記憶をもつ動物のそれぞれが、記憶と個性の喪失を繰り返しつつ、永遠に生きること同じである。記憶をもたない動物については、その生と死の繰り返しは、個性の喪失の繰り返しだけで、永遠に生きることと同じである。つまり、わたしたちのそれぞれは、記憶と個性の喪失または個性の喪失を繰り返しつつ、入れ替わりながら永遠に生きる。地球上の生物が絶滅したとしても、無限の空間と時間をもつ宇宙では、地球上の記憶をもつまたはもたない動物と同様のものが、無限に発生し進化し、記憶と個性の喪失または個性の喪失を繰り返しつつ、入れ替わりながら永遠に生きる。それを知れば、自己がやがて死ぬことへの不安は必ずなくなる」とはよく言われる。結局、それは正しい。ところが私たちはそのようなことをなかなか信じられない。それは何故か。以下のような入れ替わり不能の錯覚があるからである。つまり、「わたしに現れるものはあなたに現れない。あたなに現れるものはわたしに現れない。わたしに現在に現れているものが存在することを私は確かめることができる。あなたに現在に現れているものが存在することを私は確かめることができない。わたしたちのそれぞれにそのとき現在に現れているものの間には超えることのできない壁がある。わたしたちのそれぞれは、わたしたちのそれぞれにそのとき現在に現れているものの中に完全に幽閉されている。そのようにわたしたちのそれぞれは完全に孤立している。だから、わたしたちは互いに入れ替わることができない」  その入れ替わり不能の錯覚を払拭すれば、自己がやがて死ぬことへの不安は減退するだろう。では、その錯覚を払拭してみよう。

  前述のとおり、

(1)わたしに現在に現れているものが存在することを、わたしは確かめることができる。それに対して、それ以外の心的現象として現れるものが存在することを私は確かめることができない。
(2)わたしが世界の中心であるとわたしは感じざるをえない。
(3)自己のイメージと世界のイメージとの間の完全に埋めることができない間隙が私に現在に現れている。

さらに(1)(2)(3)から

(4)「わたしはかけがえのない存在である」「わたしたちは互いに入れ替わることができない」というような入れ替わりの不能さをわたしは感じざるをえない。

それらの(1)-(4)に対して、

(1')わたしたちのそれぞれにそのとき現在に現れているものが存在することを、わたしたちのそれぞれが確かめることができると前提される。
(2')わたしたちのそれぞれが世界の中心であるとわたしたちのそれぞれは感じざるをえないと前提される。
(3')完全に埋めることができない自己のイメージと自己以外の世界のイメージの間の間隙がわたしたちのそれぞれに現れると前提される。
(4')「わたしはかけがえのない存在である」「わたしたちは互いに入れ替わることができない」というような入れ替わりの不能さをわたしたちのそれぞれは感じざるをえないと前提される。

つまり、(1)-(4)のようなことを感じたり考えたりするのは、わたしだけだなく、わたしたちのそれぞれ、少なくとも人間のほとんどである。だから、(1)-(4)のようなことを感じたり考えたりする人間と入れ替わることを妨げるものはない。だから、心的現象として現れるものの中では入れ替わりを妨げるものはない。とすれば入れ替わり不能の錯覚を生じるものは、心的現象として現れるものとものそのものの間にあるだろう。
  前述のとおり、

(5)イメージとして現れるもの、快不快の感覚として現れるもの…などを含めて心的現象として現れるものはすべて、神経系のいくつかの部分とそれらの機能から生じると前提される。

(5)をもう少し詳しく見てみよう。
  地球上の複数の個体の複数の神経系が錯綜することは滅多にない。だから、あなたに現れているものはわたしには現れておらず、わたしに現れているものはあなたに現れていないと前提される。そのような奇妙なことが決して起こらないことは常識だろう。だが、もしもそれらが錯綜するようなことがあれば、そのような奇妙なことが起こることはあると前提される。実際、二つの個体(個人)となるはずの身体が癒合し末梢神経が錯綜し、体性感覚で現れる彼らの皮膚の痛みが彼らの両方に現れたということはあった。もしも、複数の個体に属するはずの複数の中枢神経系が錯綜すれば、「あなたに視覚で現れるものがわたしに現れ、あなたに聴覚で現れるものがわたしに現れ、あなたにイメージとして現れるものがわたしに現れ、あなたに思考で現れるものがわたしに現れ…」のようなことが起こると前提される。つまり、「わたしに現れるものはあなたに現れない。あたなに現れるものはわたしに現れない。わたしに現在に現れているものが存在することを私は確かめることができる。あなたに現在に現れているものが存在することを私は確かめることができない。わたしたちのそれぞれにそのとき現在に現れているものの間には超えることのできない壁がある。わたしたちのそれぞれは、わたしたちのそれぞれにそのとき現在に現れているものの中に完全に幽閉されている」というのは絶対的な真理ではない。
  何より、わたしたちは既に「脳死」を死と認めている。脳死とは、個体に心的現象として現れるものがなんら現れないほどに個体の神経系・神経機能が障害されることである。脳死を死と認めた時点で、すべての心的現象として現れるものが神経系のいくつかの部分とそれらの神経機能から生じることをわたしたちは認めていたのである。
  神経系・神経機能は身体・身体機能に含まれ、身体・身体機能は物質・物質機能に含まれ、物質・物質機能はものそのものに含まれる。物質機能は力、エネルギー…などを含む。現実の世界はものそのものと空間と時間と心的現象として現れるものから構成され、それら以外のものは存在しない。だから、

(5')心的現象として現れるものとものそもものの間には何ものも介在しない。

もし、神、霊魂、精神…などのこの現実の世界を超えたものが存在するなら、それらが恣意的にそれらの間に介入し、そのような超えることができない壁を建造し、入れ替わりを妨げるかもしれない。だが、そのような現実の世界を超えるものは存在しない。だから、心的現象として現れるものともののもの間には入れ替わりを妨げる壁は存在しない。また、前述のとおり、心的現象として現れるものの間には入れ替わりを妨げる壁は存在しない。心的現象として現れるものの間にも、ものそのものと心的現象として現れるものの間にも、入れ替わりを妨げる壁は存在しない。そのことを知るとき、入れ替わり不能の錯覚は払拭され、自己がやがて死ぬことへの不安は消退する。だが、ものそのものの間に入れ替わりを妨げる壁が残っていることへの不安が残っているだろう。
  そのような不安は以下のようなものとして現れる。地球上の動物が絶滅しても、無限の空間と時間をもつ宇宙の中では地球上の動物と同様のものが無際限に発生し進化する。だが、そのような別の系の別の惑星までには光年単位の空間と時間がある。そのような空間と時間をどうするのかという疑問が生じるかもしれない。確かに自己がやがて死ぬことへの不安は、自己が死んだ後に無限の空間と時間があることへの不安を含む。後者が前者を決定的にするとも言える。だが、そのような不安は心的現象として現れるものの中だけでも払拭できる。既に述べたとおり、

(6)心的現象として現れるものの中では、何も現れない時間は無である。何かが現れた第一の時間から再び何かが現れる第三の時間まで何も現れない第二の時間を一瞬で跳躍する。第二の時間は無であり、第一の時間と第三の時間は連続するように見える。

そのことを知れば、「ものそのものの間には入れ替わりを妨げる壁がある」「自己が死んだ後に無限の空間と時間がある」ことへの不安は払拭される。
  結局、ものそのものの間にも、心的現象として現れるものの間にも、ものそのものと心的現象として現れるものの間にも、入れ替わりを妨げる壁は存在しない。そのことを知るとき、入れ替わり不能の錯覚は完全に払拭され、自己がやがて死ぬことへの不安は完全に消退する。「生まれかわる」、「入れ替わる」、「~になる」…などの言葉を使って、比喩的文学的に説明してみると以下のとおり。
  まず、時間的距離について、例えば、わたしが死んだ十億年後に太陽系の別の惑星で心的現象として現れるものが生じる別の動物が発生するとき、わたしの身体とその動物の身体の間には十億年の時間的距離がある。それに対して、心的現象として現れるものの中では、現れるものが存在しない時間は一瞬でしかない。それは熟睡して覚醒するようなものである。数時間の熟睡も一億年以上の熟睡も全く同じである。より正確に言うと、睡眠は夢と浅睡眠を含むから、現れるものが存在しない時間は睡眠以上に一瞬である。例えば、太陽に照らされた地球の光景が消滅するやいなや、少しばかり老いた太陽に照らされるその惑星の光景が現れている。
  次に空間的距離について、ものそのものの中では、いくつかの群のわたしたちのそれぞれに現れるものを生じると前提される身体の間には空間的距離がある。例えば、地球の正反対にいる人たちの身体の間にはその直径の空間的距離があり、動物が発生しえる天体の間には何光年もの空間的距離がある。だが、もし何かがそれらの間を移動する必要があるとしても、その移動時間は前述と同様に一瞬である。実際は、何も移動する必要がないので、なおさら一瞬である。例えば、私が夜、太陽を除くいくつかの星を見るとき、太陽を除くいくつかの星のいくつかの惑星の視覚をもつ動物が太陽を含みえ自身のものを除くいくつかの星を見ている。わたしが突然、死んだとすれば、わたしは私のものを除き太陽を含みえるいくつかの星を見ている。
  それらのように、心的現象として現れるものの中ではものそのものの中で存在するような空間的時間的距離は存在しない。簡単に言って、あなたとわたしが何光年離れていようが何センチメートル離れていようが、わたしが死ぬや否や、わたしはあなたになり、あなたが死ぬや否やあなたはわたしになる。
  以下のような疑問をもつ人もいるだろう。人間が人間に生まれ変わる保証はないと。そのとおり。わたしたちは豚や蛇や虫にも生まれ変わるだろう。わたしたちは感覚をもつだけでは満足しない。記憶、感情、欲求、自我、思考…などをもちたい、人間でありたい。だが、感覚をもつ動物とそれらの自然とそれらが進化するための自然が存在し機能する限り、感覚をもつ動物が前述のような機能をもち人間と同様の動物に必ず進化する。感覚だけをもつ動物においては自己のイメージを欠き、それらの動物である時間は夢を見ているようなものである。だから、動物が生まれて死んで生まれて…と繰り返すことは、それらが記憶と個性の喪失と睡眠を繰り返しながら永遠に生きることに等しい。
  以上の(1')(2')(3')(4')(5')(6)を知るとき、入れ替わり不能の錯覚は払拭され、自己がやがて死ぬことへの不安は必ず消退する。それらのことを知ることがその不安を超える決定的方法である。その不安を克服して死んでいった人々はそれらを日常で直感的に知っていたと考えられる。そのように、宗教によらずに、つまり、現実の世界を超越するものを想定せずにその不安を超越することは可能である。むしろ、前述のとおり、現実の世界を超越するものを想定することは(6)を危うくし、その不安を超越することを困難にする。
  比喩的ではあるが、それらのことを表すのに「(再び)生まれて(再び)生きること」「(地球を超える)生と死の限りない繰り返し」「(わたしたちが)(互いに)入れ替わること」「~になること」のような言葉を用いることにする。

甘受する必要があるのは記憶と個性の喪失だけである

  前章で説明したようにして、自己がやがて死ぬことへの不安を超えるとき、わたしたちたちが甘受する必要があるのは記憶と個性の喪失だけであることが分かってくる。わたしたちはそれ以外のものは乗り越えられる。
  個性について簡単に説明しておく。個体において後天的に形成される知性、知識、意識的機能の能力、感情、欲求などの精神的情動の傾向と自我の傾向を個体の「個性」と呼べる。それらの詳細は『感覚とイメージの想起』『自我と自我の傾向』で説明される。
  確かにわたしたちが甘受する必要があるのは記憶と個性の喪失だけである。くだらぬ記憶や個性など捨て去ってゼロから記憶や個性を形成し、やり直しすほうがよいのかもしれない。だが、やはりそのような記憶や個性が失われるのはもったいないような気もする。
  人間社会において、個人は他の個人に言語や人工物によって、個人の記憶と個性を話し言葉、書き言葉、人工物、インターネット…などの「媒介」によって伝える。そのような媒介は個人が死んでも残ることがある。例えば、親が死んだ後、親が言ったことのいくつかは思い出される。また、故人の手記や手紙を読むこともある。また、亡くなった作家や芸術家の作品を読んだり見たりすることもあるだろう。また、亡くなった科学者の専門書を読むこともあるだろう。それらのように、個人の記憶と個性は媒介によって少しは世代を超える。そのようにして人間社会は個人の記憶と個性の喪失を乗り越えてきたとも言える。
  対人関係においては、自己の死も他の個人の死も特定の個人とのとの完全な離別である。限りない生と死の繰り返しの中ではわたしたちのそれぞれは限りない個人と出会う。だが、死後はわたしたちのそれぞれはあれやこれやの特定の個人と出会うことは決してない。愛している人がいないなら、未知の個人との出会いを期待するかもしれない。愛する人がいるなら、私の死、つまりそれらの人々との別れはつらいことだろう。他の人間が死ぬことも完全な離別である。死んだ人間は他の人間に生まれ変わって楽しく生きているかもしれない。だが、残された者にとっては、完全な離別は悲しい。もう語り合うことはできない。故人との離別を率直に悲しもう。
  何より、この人生において、苦痛を減らし、快楽を増大または維持して、健康で長生きしたい。家族や友人もそうあって欲しい。また、他人や社会から生き方や死に方を押しつけられず、思いのままに生きたい、死にたい、友と語り合いたい。それらが最もよくある日常的な欲求だろう。そのような欲求を満たすことが結局は自由権の擁護と社会権の保障である。

人間が生じる不必要で執拗で大規模な苦痛

  もちろん、人間を含む動物は快楽だけでなく不快をもつ。「不快」という言葉より「苦痛」という言葉のほうが日常でよく使われている。わたしたち人間は疼痛、暑さ、寒さ…動悸、息苦しさ…飢え、渇き…などの身体的不快だけでなく恐怖、不安、悲哀、寂しさ…などの精神的不快ももつ。快楽より苦痛のほうが多いと思う人は多く、苦痛ばかりだと思う人もいる。
  苦痛のいくつかは人間を含む動物の遺伝子と個体と集団と種が生存し進化するために必要である。例えば、皮膚の痛みは外傷が深部の重要な臓器に至り致命的となることを防ぎ、遺伝子と個人や個体の生存をより確実にする。また、不安、恐怖…などの精神的苦痛は危険を事前に察知させ回避させ、遺伝子と個人や個体の生存をより確実にする。また、性的欲動の不満は遺伝子と種の生存をより確実にする。また、動物における生存競争は苦痛を伴うが、その苦痛は人間を含む動物の遺伝子と個体と集団と種が進化し生存するために必要である。
  それに対して、人間は遺伝子や個人や集団や種の生存のためにも進化のためにも、個人の自由のためにも必要のない苦痛を生じる。仮に独裁制における弾圧、戦争、全体破壊手段の開発、保持、使用、拷問、残虐な刑罰…などが必要だとしても、それらにおける執拗な苦痛は必要ない。しかも、それらのいくつかは百万人以上の大規模な苦痛を生じる。そのように人間は不必要で執拗で大規模な苦痛を生じる。そこで、人間が生じるそのような苦痛を減退させたいという欲求と目的が生じてくる。
  もちろん、わたしたちのそれぞれは地球だけでなく限りない空間と時間をもつ宇宙で生と死の繰り返しつつ生きるのであって、地球で生まれて生きるのはごく稀である。だが、例え稀であっても、人間が生じる不必要で執拗な苦痛を誰も味わいたくはないだろう。
  自己がやがて死ぬことへの不安は人間がもつ最も強烈な苦痛である。その苦痛は前章で説明したようにして減退する。だが、その不安を克服するやいなや、まさしく限りない生と死の繰り返しの中で限りない苦痛があることをわたしたちは知る。それを知ることも不安、恐怖だり、強烈な苦痛である。そのような苦痛はやがて死ぬことへの不安に劣らないかもしれない。わたしたちにできることは人間が生じる不必要な苦痛をできる限り全般的に減退させることだけである。
  苦痛に対して、快楽はわたしたちのそれぞれ、つまり、個人が自由に追求すればよく、自由に追求する必要がある。何故なら、他から強制された快楽は快楽ではないからである。また、快楽を自由に追求すること自体が快楽であり、自由そのものが快楽だからである。
  そのように従来の宗教や倫理がなくても、人間の情動と自我と自由だけに基づいて、人間が生じる不必要で執拗で大規模な苦痛をできる限り全般的に減退させるという欲求と目的が生じることは可能である。
  では、いかにして人間が生じる不必要な苦痛をできる限り全般的に減退させるか。『生存と自由』の『全体破壊手段』の章から読み始めて頂きたい。

NPO法人わたしたちの生存ネットからのお知らせ―宗教を超えようとする人間たちの墓

  以上が日本語訳です。以下はNPO法人わたしたちの生存ネットからのお知らせです。
  NPO法人わたしたちの生存ネットはこの著作に基づく「宗教を超えようとする人間たちの墓」を建てることを計画しています。興味のある方はメールをしてください。

参考文献

生存と自由

生存と自由の詳細

国家権力を自由権を保障する法の支配系と社会権を保障する人の支配系に分立すること

感覚とイメージの想起

自我と自我の傾向

悪循環に陥る傾向への直面

小説『二千年代の乗り越え方』略称"2000s"

   英語原文   日本語訳トップページ・引用の仕方   COPYRIGHT(C)2000 OUR-EXISTENCE.NET ALL RIGHTS RESERVED